「あなたの生まれ育った風土はどのような風土ですか」と聞かれたとき、どう答えたらいいだろうか。もちろん、風土をどう定義するかによって答えは違ってくる。だが、それ以前に、定義如何にかかわらず、そもそもこのような問いに一種の違和感あるいは戸惑いを覚えないであろうか。
和辻の風土論のように、いくつかの類型を風土に認めれば、その類型のうちのいずれに自分の生まれ育った風土が属するかを答えることはできる。しかし、自分が生まれ育った風土と言えるには、生後ある程度長い期間その生まれた土地に暮らすことが必要だろう。ところが、その期間に何らかの客観的基準を設けることができそうには思えない。かと言って、まったく主観的な個々人の実感によってのみ、その人の生まれ育った風土が決まるということはありえない。
生まれ育った土地の気候その他の自然環境・地理的条件・食文化・風習・しきたり・信仰等が私たちの感受性の形成に影響を及ぼすことは間違いないとして、それがどの程度の範囲と深度において共通性を持つかははっきりと決めがたい。影響の程度は何重にも何層にも分かれているようにも思われる。
「日本の風土」などと一括りにすると、それはひどく曖昧で掴みどころがないものになってしまう。他の著しく異なった風土との弁別的差異を列挙することはできても、それで風土が定義できたことにはならない。風土とは、つまるところ、一つの共同幻想なのだと言ってみたくなる。
しかし、人間の自己形成が生まれ育った何らかの〈場所〉においてしか成立しないこともまたきわめて確からしいことだ。それを風土と呼ぶかどうかは措くとして、それは〈どこ〉にあるのだろうか。
「私はどこで生まれ育ったのか」という問いに答えようとするとき、「なつかし」の情が一つの重要な要素になると思う。昨日の記事でも言及したように、本来的な「なつかし」は、懐旧の情でも過去への憧憬でもない。それは、本来、〈現在〉の場所への親しみや慕わしさのことである。
とはいえ、この〈現在〉の場所とは、現に生活を送っている土地のことではないし、長年暮らした土地とも限らない。自分がどこで「なつかし」の情を懐くかは、今いる場所を離れてみることでかえって明らかになることもある。特に、まったく初めて訪れた土地なのに、そこで見る初めての景色なのに、なぜかそこにおいて「なつかし」の情が湧くとき、私たちは自分の本来の〈現在〉の場所が、ただ慣れ親しんでいる処とは別の次元のどこかにあることに気づく。
そのような本来の〈現在〉の場所に憩うことができるまで、私たちの心は安らぐことがないのだろう。