今朝、いつもより遅く、六時に起き、朝風呂にゆっくり浸かってから、階下に朝食に降りた。朝食を取りながら見たテレビの天気予報で、ストラスブールの予想最高気温が三九度と出ていて、ぎょっとする。昨日パリを襲った熱波が東に移動したのだ。
食後一旦部屋に戻って、メールをチェックした後、カメラを持って散歩に出かけた。昨日とは打って変わって、涼しい風が吹き、夏の青空が広がる好天。散歩日和だ。
昼からは約束があったので、それまでの限られた時間でどこに行くか思案しながらビブリオテック・フランソワ・ミッテラン駅方向に歩き始め、バス停が目に入った89番バスに乗る。リュクサンブール公園まで行こうかとも思ったが、ちょっと時間に余裕がなさそう。そこで Jardin des plantes 前で下車。
久しぶりに花たちの写真をたくさん撮った。花の高さに合わせて接写する「花から目線」の写真を私は好む。地面に這うようにしてそんな写真ばかり取っているから、それを奇妙に思ったのか、背後を通り過ぎる誰かが「あの人、植物学者かしらねぇ」と同伴者に囁いているのが聞こえる。可笑しい。
ミツバチたちも忙しそう。花から花へと蜜を求めて飛び回っている。一時蜜を吸うためにじっと花びらにしがみついているところを何枚も写真に収めた。
昼からは、イナルコの日本哲学研究会の共同責任者で実質的には一人で毎回研究会の準備をしてくれているSさんとホテルのラウンジで待ち合わせ。ベルシー駅前のANCOというレストランに予約を入れてくれてあって、そこまでベルシーの公園内を通ってホテルから歩いていった(このレストラン、とても開放的で、店員たちも皆感じがよく、料理も美味しい。お薦めです)。
あれこれ話に花が咲いて楽しかったが、メインは研究会のこれからの中長期的計画。イナルコの Centre d’études japonaises (=CEJ) がそこに統合される形で今年一月に正式発足した Institut français sur la recherche de l’Asie de l’Est (=IFRAE) の中に私たちの研究会も属し、今までには考えられなかったような潤沢な予算がつき、長期的なプロジェクトも組みやすくなったこの機会に、今の若手研究者たちに広く協力を求め、日本の哲学・思想に関心のある学生たちの役に立つような仕事を研究会としてしたいが、是非パートナーとして協力してほしいというのが彼女の依頼。主旨に大賛成、もちろん協力すると即答する。いろいろとアイデアがすぐに浮かんだが、諸般の事情を考慮しつつ実現可能性が高く、後進の役に立つような仕事となるとやはり熟考する必要がある。この夏休み中に考えなくては。
食後、川風が気持ちいいセーヌ河岸を歩きながら話し続ける。帰宅する彼女とビブリオテック・フランソワ・ミッテラン駅の前で別れ、預けてあった荷物を引き取りにホテルに戻り、メトロを乗り継いで東駅に向かった。TGVは完璧に定刻通り。午後五時二十五分発、午後七時十三分ストラスブール着。ホームに降り立つと、熱した空気に襲われる。日没は九時半過ぎだから、まだ太陽が高い位置から照りつけている。三十八度という表示。でも、明日からは少し涼しくなるとの予報。
六月も今日で終わり、明日から今年の「後半戦」が始まる。
発表当日の今朝もプールに行った。10時51分発のTGVでパリへ。ストラスブールを出るときはまだそれほどの暑さではなかったが、12時39分、パリ東駅に降り立つと、いきなり圧迫されるような暑さ。30度を超えている。風もない。
7番線でピラミッド駅へ。幸いさほど混んでいなかった。ピラミッド駅で14番線に乗り換え、ビブリオテック・フランソワ・ミッテラン駅で下車。駅近のホテルにチェックイン。ホテルまで徒歩数分だったが、それだけで汗が吹き出してきた。気温は33度まで上がっている。
発表会場のイナルコまではホテルから徒歩五分。研究会開始まで一時間ちょっとあったから、部屋に荷物を置いた後、駅近くの売店までサンドイッチと飲み物を買いに出、部屋に戻って食べる。ホテルは当然空調が効いていて、部屋も清潔、気持ちがいい。一息ついてからイナルコへ。
日本の方は驚くかも知れないが、こちらの大学では、一部の部屋を除いて、冷房はない。教室にはもちろんない。座ってじっとしているだけで、汗が流れる。窓を開けると、少し風が入る。それでなんとか凌ぐ。
酷暑ということもあっただろうが、出席者は少なかった。私の発表は後半だったが、出席者は11名。でも、それはどうでもいいことだった。聴いてほしいと思う人たちは来てくれていたし。
最初から、原稿なしで、勢いをつけて話し始めた。それはよかったのだが、そこで少し時間を取りすぎ、原稿を用意していた部分も、話しながら補足すべきことが次から次へと浮かんで、それを挟んだせいで、半分も話せず、一気に第四章と結論へと進んだ。結論はちょっと荒削りだったが、全体として会心の発表だった。これは博士論文を書いているときからの実感だが、西田哲学はフランス語での方がよりよく表現できる。
発表後の質疑応答も活発で、質問に答える中でさらに明確にできたこともあり、参加者からのコメントに教えられることも少なくなかった。かくして約一時間半の研究発表を終了。研究会後は、いつものように、残った数人とともにカフェで歓談。その後、今日特に聴きに来てくれた友人と二人で会食。これがまた楽しかった。十一時すぎにホテルに戻る。
佳き一日でした。
明日の発表の準備はほぼ整った。最近の発表ではいつもそうなのだが、結論はあえて書かない。書けないわけではない。いや、むしろそうだからこそ、書かない。書いてしまうと、発表の場ではそれを読み上げるだけになってしまいがちだ。授業でもそうなのだが、ノートを読み上げるだけでは言葉が死んでしまい、こちらの言いたいことが聞き手によく伝わらないことが多い。多少の言い淀みや言い間違いがあっても、そのとき自分の内側から湧き上がってくる言葉の方がより力を持ち、伝達力が高まる。聴いてくださっている方々により強く訴えかけるものになる。
これは、時間が足りなかったことの言い訳ではない。時間は充分にあった。諸事に紛れて準備が間に合わなかったことを正当化しようというのでもない。発表の準備自体は数ヶ月前から始めた。何度も何度も同じ問題について考えた。そのうちに思考の断片が徐々にある順序にしたがって組織化され始める。
その過程では、思い浮かんだことをそのまま書きつける。書きつける言語は発表言語と同じというのが原則だが、ある特定の言葉が考察対象となる場合は、発表言語が何であるかにかかわらず、その言葉を原語で記す。その言葉のまわりに関連する語句や文を書きつけていく。だから紙は大きいほうがいい。A4が原則。それ以上は机上でかえって邪魔になる。
明日の発表のキーワードは « souffrance » だ。この語によって指示される経験が日本人にないわけではもちろんない。しかし、この語にはそれ固有の歴史があり、その歴史の厚みが日本語への翻訳を困難にする。他方、その困難さが問題をより明確に言語化するのを助けてくれることもある。
生きとし生けるものの底には死があり、悲哀があると云つてよい。
これは西田の論文「自覚的一般者に於てあるもの及それとその背後にあるものとの関係」(初出1929年、翌年『一般者の自覚的体系』に第六論文として収録)の中の一文だ(全集234頁)。Jacynthe Tremblay は次のように訳している(Autoéveil. Le système des universels, Chisokudô, 2017, p. 350)。
La mort et l’affliction, pourrait-on dire, se trouvent au fond de tous les êtres vivants.
「悲哀」を « affliction » としている。ここが問題になる。昨日引用した「人生の深い悲哀」は «la tristesse profonde de la vie » と訳している(La détermination du néant marquée par l’autoéveil, Chisokudô, 2019, p. 142)。しかし、affliction は、単に深い tristesse ではない。動詞 affliger(ラテン語 affligere から来る)から得られた名詞であり、何らかの災厄に襲われたときの悲しみであり、苦しみを伴う。つまり、 souffrance と強い類縁性がある。
叡智的ノエマ的に自己が限定せられることが苦悩であるとするならば、思惟的自己は苦悩に満ちたものでなければならぬ。
上の引用部の少し先に見える一文である(全集234頁)。
Le soi pensant doit être rempli de souffrances si le soi déterminé conformément au noème intelligible est souffrance.
「苦悩」に « souffrance » をあてている。妥当だと思う。明日の発表では、この二文の意味するところの解読が第四章の主な内容になる。
これから発表までに残された時間、最後の詰めを行う。
今日一日、幸い大学関係の仕事は来年度前期時間割修正などわずかしかなく、明後日の発表の準備に集中することができた。序論のスライドと本論四章中三章のドラフトはほぼ完成し、あとは最終章と結論のスライドを仕上げればよいところまで来た。序論と第四章及び結論は原稿なし、メモだけで話す。
序論では、まず、西田のいくつかの随筆の中で「悲哀」という語がどのような意味で使われているかをそれぞれの文脈の中で確かめる。そして、『無の自覚的限定』の第二論文「場所の自己限定としての意識作用」の最後の一文「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」の「人生の深い悲哀」という表現の意味するところを、西田の和歌の代表作の一つとしてしばしば取り上げられる「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」との関係において捉える。この序論は、西田哲学における souffrance(苦悶)という主題へのいわば前奏の役割をもっている。
本論は、ミッシェル・アンリの生命の現象学と西田の歴史的生命の哲学との対決からなる。第一・二章では、この対決によって浮き彫りになる両者に共通する根本問題の大枠を示す。後半二章では、問題場面を souffrance(苦悩・苦悶・受苦)に限定して、両者の決定的な違いを明らかにする。
結論では、序論・本論の議論から souffrance がなぜ哲学にとって重要な問題になるのかという問いへの答えを引き出す。
三日後に迫っているイナルコでの発表の準備が大学の雑務に妨げられて遅々として進まない。最初から原稿は用意するつもりはなかったのだが、それにしても最低限のメモとパワーポイントの作成だけは何とか仕上げないといけない。先週からまとめ始めたノートには、発表の素材としては十分なだけの質量があるのだが、それを発酵させる時間が足りない。
というわけで、時間的にはとても厳しいのだが、実はそんなに焦っていない。開き直ったわけでもない(と、ここまで書いて気づいた。すべての文が「ない」で終わっている。やっぱり追い詰められた気持ちがそうさせているんですかね)。
どうしてそういう楽天的とも呼べそうな気分なのかというと、過去にも経験のあることなのだが、薄暗い坑道の中で作業をしていて、予期せぬ場所で鉱脈にカチリと鶴嘴が当たったときのような、問題発見の喜びがあるからである。
先週、日仏大学会館で、日本思想史における積極的無常観の起源について講演をしたのだが、その翌日、聴きに来てくれた方の一人からメールで感想をいただき、それをきっかけとして「なつかし」とノスタルジーの違いについて考え、それを拙ブログの記事にもした。それと並行して29日の発表の準備も進めていたのだが、その発表のテーマが哲学の情緒的源泉としての souffrance なのである。
その準備作業中に、Nostalgie と souffrance とが問題として交叉することに、より正確に言えば、前者は後者の一様態であることに気づいた。そこで、両方の問題を考えていそうな哲学者たちの本をあれこれ見ていて、スタロバンスキーの L’encre de la mélancolie (Éditions du Seuil, 2012) の次の一節に行き当たった。
Il est permis de conjecturer que la nostalgie est une virtualité anthropologique fondamentale : c’est la souffrance que subit l’individu par l’effet de la séparation, lorsqu’il est demeuré dépendant du lieu et des personnes avec lesquels s’étaient établis ses rapports premiers. La nostalgie est une variété du deuil. (p. 283)
まさに「Bingo!」である。それで気を良くして、Phénoménologie de la souffrance(受苦の現象学)という大型プロジェクトの一環として、souffrance nostalgique というテーマでしばらく考えてみようと、わくわくしているところなのである。
これが今の「楽天的」気分の理由です。
今年度もなんとか大過なく学年末を迎えようとしています。追試も先週終わり、来月初めの学年末の最終成績判定会議が終われば、今年度のための仕事はほぼ終了です。それと並行して、前期時間割作成その他来年度のための準備があり、七月末までは気が抜けないのですが、仕事量としてはたかが知れており、気分的にはかなり楽になりました。
昨日は、来年度カリキュラムについての学科会議がありました。その席では有益な議論ができました。この職場でありがたいと常々思うことは、皆率直に意見を言い合い、議論できることです。私自身はほとんど何もしていない(というか、そもそもできない)のですが、同僚たちは、それぞれに有能であり、自分の職責に自覚をもち、学科の現在と将来について、建設的に議論してくれます。当たり前のことのようですが、必ずしもどこでもそうではないだけに、ありがたいことだと思っています。
その会議の直前に、今年度卒業が確定した学生の一人からメールが届きました。この学生は、二度も留年しており、過去の成績の保存や読み替え等が必要で、何度か事務上の手続きのために学科長としてちょっと骨が折れた学生でした。真面目なのですが、伸び悩んでいるというか、成績もぱっとしなかったのです。
でも、今年度は、私のすべての授業に熱心に出席し、成績も良好でした。それまでは毎年追試の常連だったのに、今年度は追試なしにすべての科目で合格点を取り、卒業を決めました。こちらもやれやれといったところでした。
その学生から、短いですが、「先生の授業からは多くのことを学びました。毎週授業に出席するのが楽しみでした」と感謝のメールが届いたのです。概して、労多くして実り少ないのが日々の仕事ですが、こんなメールをもらうと、何か思いがけないご褒美を受け取ったかのように、やはり、ちょっと嬉しい。来年度もちょっと頑張ってみようかなって気持ちになります。
やっと到来してくれた夏の日差しに輝く青空を見上げながら、キャンパスへの行き帰りの道に踏む自転車のペダルがいつもより少し軽く感じられました。
さて、nostalgie の原義はどうであろうか。
その語史は意外なほど浅い。十八世紀後半に医者たちによって使われたのがその始まりである。その語源は、近代学術ラテン語 nostalgia で、1678年にスイス人医学者がその医学博士論文中で使った造語である。ギリシア語の nostos(帰ること)と algos(痛み・苦しみ)と組み合わせからなる。この学術ラテン語は、スイスですでに通用していたドイツ語 Heimweh(ホームシック、郷愁、懐郷病)の訳として、外国に暮らすスイス人、特に外国に傭兵されたスイス人に見られる病的郷愁を指す精神医学用語として使用されはじめた。つまり、この nostalgia の仏訳であるnostalgie は、故郷・故国を異常なまでに恋しがる苦痛を伴った病的状態が原義であり、もともとは医学用語だったのである。それ以後も、長期間祖国への帰還が叶わぬ戦争捕虜たちや外部世界から隔離された囚人などが陥る憂鬱状態などにこの語は適用されてきた。
ただ、ここで一言断っておきたいのは、nostalgie という語が医学用語として使用され始める前にこの語の定義に対応する精神状態が存在しなかったわけではないということである。本題から外れるので立ち入らないが、この問題は、今年の三月に98歳で逝去されたジャン・スタロバンスキーが L’encre de la mélancolie (Seuil, 2012) に収録された « La leçon de la nostalgie » と題された章で周到かつ犀利な考察を展開しているので、日を改めてその考察を追うことにする。
Nostalgie の原義は、上に見たように、日本語の「なつかし」の原義である「目前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち」とは、大きく隔たっている。どちらも思慕する対象によって引き起こされる心理状態である点では共通するが、「なつかし」には、対象への病的な執着という否定的な意味はまったく含まれていないのに対して、nostalgie の方にはもともとそれが含まれており、 « -alogie » という接尾辞は「苦痛」を意味している。「なつかし」は、目の前にあるものへの愛着が引き起こす感情を指すのに対して、nostalgie は、今は遠く離れたところにある故国あるいは生まれ故郷への身を苛むような執着に苦しんでいる精神状態を指している。
十九世紀に入って、一般語化し、過去についての悔恨、到達不可能な理想によって引き起こされる憂鬱などについても nostalgie が使われるようになるが、いずれの用例にも共通していることは、何かの不在・欠落・到達不可能性・回帰不可能性などによって陥る精神状態を指していることである。それは、絶対性・純粋性を希求する人たちが陥る無力感についてこの語が使われる場合でも同様である。
Nostalgie は、希求するものと希求されるものとの間に乗り越え困難な隔たりがあるかぎりにおいて発生する精神状態である。したがって、その隔たりが何らかの仕方で乗り越えられるか解消されるかすれば、そのとき nostalgie もまた消滅する。しかし、希求する対象と希求する自己との隔たりが原理的に乗り越え不可能であるとわかっていながらその対象を希求せざるを得ないとき、希求する者において nostalgie は精神生活の基調となる。
それに対して、「なつかし」は、死者あるいは滅亡したものが対象である場合でも、それらの回帰不可能性・再生不可能性をそれとして了解しつつも、その不在あるいは非在の対象との現在における心的融合を希求するところに生じる感情である。生と死との間の断絶がそれとして受けとめられながら、〈なつかしきもの〉と〈なつかしむもの〉との感情世界における生死を超えた共生、それが、特定の対象について一時的に感じられる感情としての「なつかし」を超えた、この世界における存在様態としての「なつかし」である。
「なつかし」が失われた過去を思慕・愛惜する気持ちを意味する用例が出てくるのは中世以後である。
謡曲「二人静」の中の「昔忘れぬ心とて、さも懐かしく思ひ出の、時も来にけり静の舞」は、明らかに、「昔のことが思い出されて慕わしい」という意である。しかし、この場合も、失われた帰らぬ過去へ思いを馳せるというよりも、その過去を今も慕わしく思わずにはいられないという、過去に対する現在における自発的感情を表現しており、慕わしい過去の現前の経験と見るほうが妥当だろう。
謡曲「井筒」の「見れば懐かしや。われながら懐かしや」も、今、井戸の底の水に映る姿が、それがわが姿とは知りつつも懐かしい、ということであり、そのとき、業平の形見の装束を身に纏っている井筒の女(の霊)において、恋しい業平が再現前しているのだから、単なる失われた過去への追慕ではない。
『平家物語』「灌頂巻」の女院出家の段の「昔をしのぶつまとなれとてや、もとの主のうつし植ゑたりけん花橘の、簷近く風なつかしうかをりけるに」という箇所も、なつかしい香が、今、風にかおっているということであり、その香が過去の再現前を生起させている場面である。
いずれの場合も、現在の感覚的要因が生起させた過去への思慕の情によってその過去が現在において再賦活されている状態を「なつかし」と表現している。「なつかし」が、このように過去を愛惜することを意味している場合でも、単に過去の思い出に浸るだけの受動性ではなく、過去を今慈しむという能動性が含意されているのは、その原義がそこになお保持されているからであろう。
現代日本語の「なつかしい」とフランス語の nostalgie とは、懐旧という同じ意味を共有している。ところが、それぞれ原義に立ち返ってみると、両者は、情意のベクトルが真逆であることがわかる。
「なつかし」は、動詞ナツク(懐く)の形容詞化した語である。『古典基礎語辞典』の解説をまず見てみよう。
ナツクは近寄り、密着して、親しむの意で、ナツカシの原義は、なつきたい、目前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち、ナツカシの対象は、人・自然・物・動物など広い。人については、男性・女性、また同性・異性を問わず用いる。離れていたり、過去の存在である人や物事についての親近感から、目前にあるゆかりの物になつき寄りたいと思う気持ちをいう用法を経て、後に、目前にない対象、離れていたり過去のことであったりするものが慕わしく思い出される気持ちをいうようになった。
第一の語釈は、「近寄りたい、身近にしたい気持ちのさま。心がひかれるさま」である。つまり、もともとは、懐旧の情とは無縁であり、今眼の前にあるものに心惹かれて引き起こされる感情であった。相手あるいは対象が、「こちらから慕い寄って行きたいさまをしている」(『旺文社古語辞典』第十版)ということである。
佐保渡り吾家の上に鳴く鳥の声なつかしき愛しき妻の声(巻四・六六三)
これは、かわいい妻の声のうるわしさを褒めて「なつかしき」と詠っている。過去はここではまったく関係ない。家持の長歌「恋緒を述ぶる歌一首」(巻十七・三九七八)の冒頭「妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく」も、「寄り添っていても、ますます心引かれるばかり」(伊藤博『釋注』ということで、妻に対する今の気持ちである。
「なつかし」が現在の対象に対する気持ちを表現している用例は、『枕草子』『徒然草』にも見える。
良ろしき男を、下種女などの誉めて、「いみじう懐かしうこそ、御座すれ」など言へば、やがて思い落とされぬべし(『枕草子春曙抄』第二九五段、三巻本では第三一一段)
カギ括弧内は、「たいそう、心が惹かれるお方でいらっしゃること」(島内裕子訳)という意であり、現在のこととして、良ろしき男を褒めている。この場合も過去は関係ない。
『徒然草』第百二十八段の「万の鳥・獣、小さき虫までも、心を留めて有様を見るに、子を思ひ、親を懐かしくし」も、「子は親を慕い」ということで、親に対する子の普遍的な心情を意味している。
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ (巻三・二六六)
言わずと知れた柿本人麻呂屈指の名歌である。第二句の「夕波千鳥」は、人麻呂の手になるもっとも美しい造語の一つである。原文でもこの通りの漢字四文字。たった四文字で、夕暮れ時、波間に群れてたわむれる、あるいは湖上を飛び交う千鳥の姿が見事に立ち現れる。第一句によって、場所は限定されており、琵琶湖上の広い視界の中にこの光景が現成する。その光景の中の千鳥に「汝」と呼びかけることで、たった一羽の千鳥がズームアップされる。その千鳥の呼子のような細く高い鳴き声が響く。すると心が撓み萎れるほどに〈いにしへ〉のことが思われる。
この〈いにしへ〉は、この歌においては近江朝以外ではありえない。今を去ること二十年ほど前には、湖畔の高台に壮麗な大殿・大宮が聳えていた。それが今はあとかたもない。
この歌は、薨じた都を偲び、栄枯盛衰を思い、人の世の無常の深さを詠っているのだろうか。あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジーだろうか。しかし、撓み萎れる心に〈いにしへ〉は自ずと現前している。夕波千鳥という形象は、無常の象徴でもノスタルジーの誘因でもない、と私は思う。夕波千鳥は、今、ここに、いる。私はそれを、今、見ている。その鳴き声を、今、聞いている。
「現在が現在自身を限定することによつて、過去と未来とが限定せられるのである、現在といふものなくして時といふものはない」(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)。夕波千鳥は、永遠の今の自己限定の具体的形象として湖上に漂っている、そう私はこの歌を解釈したい。