内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

雪の日の断想 ―『遠隔寺僧房日録』より

2021-01-28 11:23:04 | 随想

 昨日は早朝から雪が降り始め、午前八時過ぎには人通りのない地面には数センチ積り、なおも降り続いていました。九時半にいつものカットサロンに予約を入れてあったので、雪が降りしきる中、歩いて行きました。まだ誰の足跡もついていない真っ白な遊歩道を、一歩踏み出すごとにキュッキュッと靴音をさせ、雪の柔らかな弾力を足下に感じながら歩くのは何か楽しくさえありました。
 主人がたった一人でやっているこのサロンに通いはじめてもう六年以上になります。いつもテキパキとしていて、しかも仕上げは丁寧なその仕事ぶりがとても気に入っています。前回カットに来たのはちょうど三月前の十月末でした。昨年末に一度行こうかと思ったのですが、つい億劫がっているうちに年が明け、また一月ほど経ってしまい、さすがに少し鬱陶しくなってきたので、気分転換もかねて散髪しました。
 ここ数ヶ月、人に直接会うこともほとんどなく、話すといってもほとんど遠隔ですから、つい身なりや身だしなみがおろそかになりがちです。気心が知れた相手との気軽なおしゃべりのためならそれでも構わないでしょうけれど、会議や授業のときには、実際に会っても恥ずかしくない服装に着替えています。どうせ下半身は見えないとわかっているわけですが、上半身だけちゃんとした格好をしていても、下はラフなスウェットパンツでは気持ちが引き締まらないし、上下がちぐはぐだと気分がよくないので、一応上下のコーディネートもセンスのない私なりに考えています。
 カットサロンから帰宅すると、注文した本の到着を知らせるメールがFNACから届いていたので、すぐにまた雪の中を出掛けました。ここ数ヶ月、特に急ぎでもないかぎり、どこに行くのも歩きです。自転車はガレージで埃をかぶっています。
 今年に入って、水泳は土日のみとし、平日はウォーキングを中心にしています。それでも充分に健康維持はできるし、歩いているときにはいろいろ考えられるので、仕事の効率もアップさせることができるとわかったからです。
 一昨年までは年間の水泳の回数を二百四十回以上に保つことにこだわっていましたが、昨年はコロナ禍のせいでそれも不可能になりました。結果として、そのこだわりから解放されました。心身の健康が維持できればそれでいいではないかと思うようになったのです。
 午後には雪もやみ、気温も零度を超えたので、路面の雪はみるみる消えていきました。行きには自宅周辺の歩道を覆っていた雪も、帰りには僅かな跡を残すばかりとなっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日記をつけるのは不幸だからか ― K先生の酔狂随想集『暮らしの中の因果応報』(没企画)より

2020-02-16 23:59:59 | 随想

 人から強制されて読んだ作品でそれが面白かったということはあまりないように思う。国語の教科書で授業中に読まされたりすると、せっかくの名作であっても、素直に作品の中に入っていけなかった。もっとも、後に同じ作品を自分で自由に読んで楽しめるようにはなったけれど。
 読書感想文も嫌いであった。別に読みたくもない本を読めと強制され、しかもそれについてもっともらしい感想を書けと強要するのは非人道的な拷問である。小学校から中学にかけてかなりこの拷問を受けたはずだが、幸か不幸か、何を読んだかまったく覚えていない。
 中学まではろくに読書をしなかった。これは今さら後悔しても仕方がないことだが、子供のときに読んでおけばよかったような名作をだからほとんど読んでいない。読書熱に取り憑かれたのは高二のときだった。当時、我が家は暗かった。父が入退院を繰り返し、十二月に亡くなった。その暗さの中で読書に沈潜した。新潮文庫で読めるかぎりの太宰治の作品を数ヶ月で全部読んだ。
 その直後、不思議なことに、国語の成績が突然よくなった。それまではクラスの中の上といったところだったが、以後常にクラスのトップを争うようになった。だから今でも太宰治には感謝の気持を抱かずにはいられない。
 同じころ日記も付け始めた。格好をつけて言えば内省録であったが、実のところは鬱屈した心のはけ口だった。数年後に焼却した。哲学科の院生だった頃、「日記をつけるのは不幸だからだ」という自説を突然ぶちはじめた先生がいた。居合わせた別の先生が「私は昔からずっと日記をつけていますが、自分が不幸だとは少しも思いません」と反論したら、「それはあなたが自分の不幸に気づいていないだけだ」と日記不幸論者は譲らなかった。確かに当時の私は不幸だったのかも知れない。
 ここ十数年、その日の出来事をメモ程度に記す仏語日記をずっとつけているが、これは後になって何か思い出す必要があるときに結構役に立っている。日記をつけることは不幸だからだとしても、日記にはそれなりの効用もあるわけだ。
 今日は、授業の準備の一環として、教室で読ませたい文学作品を探していた。つまり、少年時自分がその犠牲者であった罪を今は学生たちに対して犯す側に回っているというめぐり合わせである。罪深い話である。
 その探索の合間、明治三十九年一月九日付の漱石の森田草平宛の手紙が目に止まった。当時漱石は東京帝国大学文科大学英文科講師・第一高等学校講師であった。前年に『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表し、この年の四月には『坊っちゃん』、九月には『草枕』を発表する。その手紙に、「僕もそれだから大に聡明な人になりたい。学問読書がしたい。従ってどうか大学をやめたいと許り思って居ます」とある。翌年四月に漱石はそれを実行に移し、朝日新聞社に入社する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


筆写、あるいは書物の世界と一体化する方法 ― 未使用の原稿用紙を眼の前にしての随想

2018-06-13 21:10:23 | 随想

 今、私の目の前には、南方熊楠顕彰館と下方に印刷された四百字詰原稿用紙の一束が置かれている。
 2010年7月、ある人と二人で、熊楠の生まれ故郷である和歌山県田辺市にある南方熊楠顕彰館を訪れた。かねてより是非訪ねてみたい場所であった。当時のままに保存されている旧熊楠邸に隣接する顕彰館は、旧邸とは対照的な斬新な現代建築の資料展示館になっており、熊楠の直筆原稿や採集した標本などが十分な自然採光の下で見ることができるようになっている。館員の方に伺ったところによると、展示されているのは同館に収蔵されている膨大な資料のごく一部に過ぎず、熊楠自身によって収集された標本や大量の抜書ノートなどがまだ未整理のままとのことだった。
 今私の眼前にある未使用の原稿用紙は、その訪問時に受付でいただいた。B4サイズのやはり下方に南方熊楠顕彰館と印刷された封筒は持ち重りがして、なんだろうかとその場で開けてみて、それが原稿用紙だとわかって、二人で大喜びしたことをよく覚えている。以来、使わずに大切に保存してきた。
 昨日の記事で熊楠のことを取り上げて、その原稿用紙のことを思い出し、封筒から取り出してみた。一枚目の端が少しめくれてしまっている以外は新品同様である。でも、こうしてもったいながっていつまでも使わないでいるのも馬鹿げたことのように思えてきた。
 熊楠は、幼少の頃から読んだ本の抜書をすることを習慣としていた。その量だけでも異常だったが、その記憶力も常人離れしていた。しかし、筆写することは、熊楠の場合、単に記憶の方法ということにとどまらなかった。
 筆写することは、熊楠にとって、その書物の世界と一体になる方法でもあった(唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書)。熊楠は、筆写することで「対象と一体化できるほど深く入り込むことができる特別な集中力(熊楠自身は「脳力」と言う)を持っていたのである。」(同書より)
 熊楠のように何もかも筆写する人は当時も稀有であったが、今日では、写経など特別な場合を除いて、一般には、筆写という習慣そのものが失われつつある。他方、私たちは膨大なデータを時々刻々コンピューターを使って処理し、それによってかつては得られなかった知見を手にしていることも確かである。
 しかし、筆写は、ただ物理的に文字を書き写すだけの作業ではない。それだけのことなら、その時間と労力を省いてくれるコピー機やスキャナーを使えばよい。キーボードを叩いてテキストを入力する作業とも違う。より直接的にテキストそのものにまさに身体的に触れ、そのことによってそのテキストの世界との交流を可能にする方法、それが筆写だと言えるのではないだろうか。
 (今日の記事に貼り付けた写真は南方熊楠顕彰館訪問の際に連れが撮影した写真である。)











春のけしきのもののあはれ、あるいは「心浮き立たせる」無常について

2018-04-28 17:28:54 | 随想

 色とりどりに咲き匂う花々に囲まれると、人は自ずと微笑み、浮き立つような気持ちになるものなのであろうか。
 昨日、ブリュッセルにあるラーケン王宮温室内の花尽くしとその巨大な建物の周りの広大な庭に咲き乱れる花々を観ながら、それらを愛でる人たちの多くもまた花咲くように笑い交わしながら庭園と温室を巡るのを見ていてそんなことを思った。
 と同時に、『徒然草』第十九段の一節を思い出した。この段は、四季の移り変わりを主題としている。そのはじめの方に「もののあはれ」という言葉が用いられている。

「物のあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今ひときは心も浮きたつ物は、春のけしきにこそあめれ。(岩波新日本古典文学大系39『方丈記 徒然草』)

 この後、その春のけしきの例がいくつか挙げられていくのだが、それらの例からして、「心も浮きたつ物」という表現における「心浮きたつ」は、現代日本語でのこの表現の語感とは異なっていることがわかる。あるいは、兼好独自の鋭敏な感性がそこに込められていると見るべきなのかも知れない。
 新日本古典文学大系本の久保田淳による脚注には、「そわそわして心も落ち着かなくなるものは」と意を通し、「一種の不安感を伴っており、陽気に浮かれるという現代語の語感とはいささか異なるか」と注している。確かに、そう読んでこそ、この文の冒頭の「もののあはれ」とも照応する。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)の「浮く」の項を見てみよう。
 「物が、地表や底から離れて空中や水面に漂う意。[中略]ウクは不安定な状態をいうので、人事については、身が定まらないこと、不安であること、話が不確かであること、態度が浮ついていることなどをいったが、心のあり方については、中世以降、ウクが浮き立つ意をもつに至り、ウカル(浮かる)に近づき、陽気な状態にある意を表すようになった。」
 心「浮き立つ」状態は、本来、けっして陽性の気分一色ではなかったわけである。むしろ、心が一所に落ち着かず、地に足がちゃんと着いていないような、いつもそわそわした状態のことであり、そのような状態にあってこそ、秋に感じられる深沈とした淋しみにおいてよりも、「もののあはれ」はより深く心に感じられる。そう兼好は言いたかったのではないであろうか。











南仏の真夏の太陽、あるいは永遠の今の自己限定

2016-08-09 14:58:47 | 随想

 今日の午前中も昨日同様区立中学校のプールで泳ぐ。十時の開門時には数人いた入場客も、この酷暑である、十一時過ぎには一人また一人と立ち去り、最後は私一人。昨日と違って今日はコースロープで一コース完泳用に確保されていた。クロールと背泳ぎと交互に泳ぎ続ける。
 プールを出て、校庭を見やると、誰もいない。普段は部活の生徒たちの掛け声が響いているのだが、今日は外での練習は禁止されたのかも知れない。照りつける太陽の下、静まりかえっている校内を歩きながら、ふと十八年前の夏のことが思い出された。
 十八年前の夏、フランスで二度目の夏のヴァカンスを南仏で過ごした。二週間ほどだったろうか。その頃はまだ車を持っておらず、ストラスブールから電車で南下。リヨンで一泊、そこからアルルまでまた電車。ヴァカンス出発前に予約しておいたレンタカーをアルル駅のすぐ脇のエージェントで借りて、アヴィニョンとアルルの間にある人口数百人の小さな村に向かう。名前は忘れてしまった。
 その村の中の一軒家の一階を借りきった。二階は家主が住んでいた。ご主人はオランダ人元外交官、奥さんは日本人。定年後は南仏で暮らすのが夢だったとのこと。滞在中、お茶や夕食に招待してくれたこともある。
 広い庭は自由に使ってよかった。当時四歳半の娘が朝からその庭の草むらに膝を抱えて座り、頭上の樹々の葉が風にそよぐのを飽かずに眺めていたのを思い出す。そんな時間の過ごし方は生まれて初めてのことだった。
 暑い夏だった。空気は乾き切り、日中の外気温は四〇度に達することもあった。それでも、日陰に入れば涼しい。毎日出かけはしたが、車で二、三時間で往復できる範囲に止め、訪れた場所をゆっくりと歩いた。帰宅後、夕食時に飲むきりりと冷えたロゼの喉ごしはまた格別であった。
 日没は九時過ぎであったから、午後が長い。雲一つないどこまでも碧い空から照りつける太陽はあたかも中空にとどまったままであるかのようになかなか沈まない。まるで時間が止まってしまったかのような感覚に襲われた。
 南仏で過ごしたこの最初の夏は、私の時間意識に決定的とも言えそうな変化をもたらした。私たちによって生きられている時間は、その内にその時間を切断する無数の瞬間を包蔵している。古代ギリシアからの歴史が幾重にも重なり合っている南仏の地を照らす真夏の太陽は、人間の歴史的時間意識を垂直に断ち切る瞬間的切断面を、その下に広がる風光を通じて、垣間見させてくれた。その風光は、私にとって、永遠の今の自己限定の具体的形象にほかならない。















































離接の時あるいは形而上学的瞬間 ― 根源的受容性への〈開け〉

2016-01-12 10:48:41 | 随想

 職責上避けがたい仕事によって一日の大半を心身ともに拘束されればされるほど、その長い拘束時間に対して、持続の質において截然と異なり、屹然と対抗し、さらにはそれを凌駕し、ついには放下し、そこから離脱する瞬間を、少なくとも日に一度はもつこと。その瞬間において、慣性に支配されている日常的時間から己を切り離すこと。積み重ねによって何かを得ようとするのではなく、水平的連続性の内に無量に包蔵された垂直的瞬間に注意を集中すること。
 そのためにこそ私は毎日読みかつ書いている。たとえ身辺雑記であっても、それは自分の日常そのものが記録されるに値するなどと考えてのことでは毛頭なく、書くことそのことが、日常に接しつつそこから離れること、この意味において、「離接」の実践そのものなのである。たとえ愉しみための読書であっても、読むことそのことのうちで、時に魂は優に千年を遊行し、〈今〉〈ここ〉と、身体において、離接する。
 その離接の瞬間は、恍惚でも忘我でもなく、解脱でも救済でもない。端的に、根源的受容性への〈開け〉である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


風問答

2015-02-15 18:24:43 | 随想

 今日も一日、「風」について考え続けた。
 風は何処に吹くのか。これが今日の問題である。と言えば、たちどころに、「あんた、よっぽど暇なんやなあ、そんなこと考えて何になります? そりゃあ、あんた、風ならどこでも吹きますがな、外ばかりじゃのうて、家の中でも隙間風っていうのが吹きまっせ、おお寒っ」と、もう呆れてものも言えんという顔で応じてくれるお節介な関西人(なぜここで関西人が登場するのか、私にもわからないが、気分的にそうなのである)も世の中にはいるであろうが、そういう人たちはお呼びでない。
 風は何処に吹くのか。「そんなに気にしはるんなら、気象予報士のお姉ちゃんにでも聞かれたらどうです?」と、またしでもお節介な関西人はしつこく絡んでくるであろうが、それもお門違いである。これは、まさに哲学的な問いなのである。これを聞けば、さっきの人は言うであろう、「もう勝手にしなはれ」と。そうくれば、私がもし江戸っ子であれば、「上等でぃ、とっとと失せやがれ!」と応じたことであろう。因みに、私は東京生まれの東京育ちであるが、山の手育ちのお坊ちゃまであるから、下町言葉は使わない(というか上手に使えない)。幼少の頃、私の母は、椅子に座って足をブラブラさせている行儀の悪い私を注意するのに「◯◯ちゃん、御御足(「おみあし」と読む)!」と宣われたそうで(注意された本人はもう覚えていないが)、それを脇で聞いていた幼い妹は、「ふーん、お兄ちゃんの足は「オミアシ」って言うんだぁ」としばらく思い込んでいたと昨年末に聞かされた。
 こんな落とし噺をするために今日の記事を書き始めたのではなかったのだが、つい筆(ではなくて、キーを叩く手)が滑って、思わぬ展開となってしまった。気を取り直して、なんとか立て直そう。
 風は何処に吹くのか。関西人曰「もう、ええっちゅうに!」(あれっ、まだいたんですか? もう無視する)。
 もちろんここで期待されている答えは、気象学的なものではないし、流体力学的なものでもない。なぜなら、この問は、人間存在の根本に関わる形而上学的な問いだからである(と大きく出れば、先の関西人でなくても引くであろうことは自覚している)。
 風は、何処にも吹く。しかし、何方より来たり、何方へと去るのか。風は、物を震わせ、樹々草花を揺らせ、水面を波立たせるが、己自身は姿を見せず、実体を有たない。風は、世界の事物の一部をなすのではなく、それらの「間」を自在に流れる。風は、物に満たされた世界につねに現前している目に見えない「開け」の「おとずれ」でなくて何であろう。風に触れて、私たちの心が、あるいは心地良く、あるいは冷たく、あるいは恐ろしく震えるのは、私たちが日常そこに生きている物に覆われた世界が、実は無限の「開け」において結ばれる仮象にしか過ぎないことを、そのとき直接感受するからこそではないのか。風は、全存在を無限に超え包む無窮の動性、太古の記憶、永劫の未来、永遠の現在のメッセンジャーとして、それらへの招待状として、「開け」から「開け」へと虚空を吹き抜け続けている。『正法眼蔵』「現成公案」には、「風性常住無処不周」とあり、この「風性」は「仏性」に他ならない。
 この「風」に気づき、その声に聴き従いつつ、それに呼応する詩的表現の精錬を目指す生活のあり方が「風雅」、その「風雅」に徹して、普段の生活の軛を断ち切り、不断の「旅」に出るのが「風狂」だと言えるのではないだろうか。蕉風確立の第一歩となる『野ざらし紀行』の第一句が「野ざらしを心に風のしむ身かな」であるのは、偶然ではないであろう(この句についての私見はこちらの記事を参照されたし)。














自己認識の方法としての異文化理解(八)

2015-01-15 02:56:32 | 随想

 自文化の起源・源泉は、必ずしもその文化そのもののうちにはない。そのすべてではないにしても、自文化の主要な構成要素のうちには、それらの起源が異文化のうちに見いだされるものも少なくない。この特徴は、日本文化について特によく当てはまる。現代日本の文化の中に西洋文化に由来する要素があることは言うまでもないとして、より一般的に、日本文化を構成する諸要素の起源にまで遡れば、それらのほとんどが日本の外部に由来する要素であるとさえ言えるであろう。
 そもそも、自文化から「外なるもの」を排除し、「内なるもの」だけでそれを規定しようとすること自体が方法的に妥当性を欠いているのであろう。起源が己の外部にあるものを「外来」とし、それが元々己の内に見出しうるとされるものを「土着」とする二分法自体が、自文化および異文化の理解を妨げる最大の障害になりかねない。

抑々、日本思想における外来性・土着性とは何か。仏教的・儒教的、云々的という仕方で外来性を述べたてていくとき、土着的・固有的なものとして一体何が 残り得るであろうか。なるほど、神話的・民俗的な"固有思想"や"皇室中心主義的思想"の如き幾つかのモメントが残るかもしれない。しかし、思想史的にみて、また比較文化論的にみて、真に「日本的」と形容されるに価するものは、果たしてそのような"土着的"なモメントであろうか? 鎌倉時代以降の「日本仏教」や江戸時代後半の「日本儒教」のごときは、優れて「日本的な」思想形象ではないのか? なるほど、それらは「仏教」であり、「儒教」であるというかぎりでは外来的かもしれない。しかし、そのように言うとき、西洋文化なるものも、宗教にせよ学問にせよ、西洋諸国自身にとっての外来文化、すなわちヘブライ・ギリシャ的な外来 文化と称せざるを得なくなるであろう。認定の基準を余程明確にしつつ思想的内実を詳らかに検討することなくして、安直に外来的か固有的かと劃することは、思想史的分析や思想的討究においては百害あって一益もない。
(廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史へ一視角』講談社学術文庫、1989年p. 212-214)

 この廣松渉の指摘は現在もなおその妥当性を失っていない。「自己に固有なもの」をいたずらに賞揚する自文化中心主義も、外来文化の優越性を手放しに強調する自虐的文化観も、「外来的か固有的か」という非生産的な二元論に陥っているという点においてなんら違いはない。
 それに、そもそも、なぜ、「自己に固有なもの」は「外から来る他なるもの」よりも己にとってより価値があると言えるのであろうか。この問題については、二〇一三年八月九日の記事「外なる源泉への回帰 ― ヨーロッパ文化の起源」の中で論じられているので、そちらを参照されたい。
 自文化の遙かなる外なる源泉への回帰は、異文化ならびに自文化を理解しようとする者を自ずと謙虚にする。と同時に、その源泉は「己に固有なもの」ではなく他者に対しても開かれたものであるがゆえに、その源泉を介して、自己と他者との間に共通理解の場所が開かれうる。そこにおいてはじめて成立する自己認識は、自己変容をもたらさずにはおかないであろう。異文化と自文化との間に開かれる、共通の外なる源泉についての相互理解を通じて、私たちは自己の可塑性を自覚することができるようになるだろう。


自己認識の方法としての異文化理解(七)

2015-01-14 06:32:42 | 随想

 異文化理解が自己認識の方法であるための手続きの一つとして、歴史の中に自分を「書き込む」という作業が要請される。この作業は、対象である異文化に対する自文化の時空の隔たりを自覚的に計測し、己の立ち位置を両文化との関係において限定することからなる。この自覚的限定作業を経てはじめて、異文化は、単に知的に理解されて終わる対象としてではなく、その構成要素が、歴史の中の現在において、己の立つ場所で、批判的に摂取・継承・展開させうるものとして受容される。
 したがって、歴史の中のこの自覚的限定作業は、それを行うものに自己変容をもたらさずにおかない。なぜなら、この作業を通じて、異文化の構成要素は、たとえそのごく一部であれ、自文化との時空の隔たりを超えて、歴史的関係性を有するものとして己に開かれ、時間的持続性の中で己において生きられるものとなるからである。
 この「歴史の中に自分を書き込む」という作業については、二〇一三年八月十七日十八日の記事でさらに詳しく述べているので、そちらを参照されたい。


自己認識の方法としての異文化理解(六)

2015-01-13 13:18:32 | 随想

 異文化の理解の仕方は、様々でありうる。しかし、それらを自明性の相対化を介した自己認識の方法として自覚的に実行するためには、それらを類型化しておくことも無駄ではないであろう。ここでは三つの類型を提示する。
 第一類型と第二類型とについては、このブログでも度々取り上げている Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge を参照しつつ述べる。
 西欧中世における理解の二つのスタイルは、〈言い換え(paraphrase)〉と〈注釈(commentaire)〉である。理解の対象となっている文化事象を読解すべきテキストと捉えるならば、前者は、原テキストの表現形式を自文化の表現形式に変換することであり、後者は、原テキストはそのまま尊重し、それを理解するために必要な注意・解説・情報を加えることである。前者は、異文化を自文化の中に〈消化・同化・統合〉する過程に対応し、後者は、異文化と自文化とを交わらせず、異文化をそれとして〈封入・保存・隔離〉する過程に対応する。
 両者の間に見出しうる第三の異文化理解の方法が〈受容(réception)〉である。外なるもの・異なるもの・未知なるものを、受け入れ、用い、それらに対して己の身を位置づけ、それらとの関係において働く。この理解の方法としての〈受容〉の三つの構成要素は、他なるものの尊重・自己の固有性と限界の自覚・受け入れ方の柔軟性と可塑性である。
 異文化理解の方法のこれら三つの類型については、すでに二〇一三年八月七日八日の記事で取り上げて、かなり詳しく論じているのでそちらを参照されたい。