内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

曖昧な日本語が気になる老教師のモノローグ ― 遅れることを怖れずに立ち止まって考える

2023-03-31 23:59:59 | 日本語について

 ネットの新聞記事のようにその日その日に書かれては消費されていくレベルの文章は、推敲と呼べるような注意深い作業はもちろん経ておらず、他者によるチェックが入っているのかも怪しまれる「粗悪品」であることが多い。商品としての「情報」さえ伝わればいい、ということだろうか。
 大手新聞社の記事であっても、特に若手の記者の書いた文章には、間違って使われている慣用句や漢字熟語などをよく見かける。日々、取材と雑務に追われながらの記事執筆であろうから、落ち着いて文章を推敲する時間などないのだろうと同情しつつも、もう少し勉強しろと言いたくなるときもある。こんな粗製乱造を繰り返しているだけでは、新聞記者という文章のプロであっても、文章力は向上しないだろう。
 私の授業では、新聞記事を取り上げることはまずないのだが、一般書籍はどの授業でも毎回必ず読ませる。一般書の中でも日本語として比較的読みやすいものを選ぶし、量的には一回の授業でせいぜい数頁なのだが、取り上げるテキストを授業の準備の際に読み直していると、日本語の表現としてちょっと気になるところに出くわすことがしばしばある。
 例を二つ挙げてみよう。著者の名誉のために書名と著者名は伏せる。
 一つ目の例は、高校生向けの日本史教科書の自由民権運動を説明している箇所に見られる表現である。「欧米の近代的な自由と民主主義の考え方」という表現である。文法的には何も間違っていない。しかし、「近代的な」は何を限定しているのだろうか。「自由」だけなのか、「民主主義」にもかかるのか、あるいはそれらではなくて「考え方」にかかるのか。日本語では限定句が何にかかっているのかしばしば曖昧になりがちだが、これはその一例である。文脈から考えれば、「考え方」にかかっていると見るのが妥当で、そうであるならば、「自由と民主主義という欧米の近代的な考え方」とすれば、上に指摘した曖昧さを回避することができる。
 二つ目の例も、文法的には間違いではないし、内容理解においても誤解の余地はなさそうなのだが、フランス語に訳そうとすると、言葉が足りないことに気づく。

[…]そうした歴史地理的に恵まれない条件にかかわらず、たえず日本民族の文化的エネルギーは積極的に先進文化を取り入れ、これを消化して先進国に劣らぬ日本の文化を形成してきた。

 どこが気になるかというと、日本の文化が劣らないのは「先進国」に対してではなくて、「先進国の文化」に対してである。だから、この文を仏訳すると例えば次のようになる。

Malgré ces conditions historiquement et géographiquement défavorables, les énergies culturelles du peuple japonais ont toujours activement adopté et digéré la culture avancée pour former une culture japonaise qui n’était pas inférieure à celles des pays avancés.

 つまり、celles という指示代名詞(この文ではもちろん cultures を指す)が必要なのだ。仏語でさらに厳密さを要求されるのは、「先進国」の単複とその「文化」の単複である。この点、どれが正解かは原文の著者の考えに依存するので、文法的には決定できない。
 私はここで、だからフランス語のほうが日本語より厳密だ、などと言いたいのではない。日本語としてはさらっと読め、一見誤解の余地もなさそうなところに、立ち止まって考えてみるべき問題が隠されていることがあり、外国語に訳すという作業はそのことに気づかせてくれる一つの手段となりうる、と言いたいだけである。しかも、これは先達たちによってすでに繰り返し言われてきたことに過ぎない。
 日々消費されるためだけに書かれた文章の洪水の中で読み流しているだけだと、その洪水に実は流されているだけであり、ほんとうには何も読んではいない、ということになりかねない。そうはならないように、遅れることを怖れずに、気になるところで立ち止まって考えることを日々実践したい。このブログもいわばその実践の場の一つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


待機と屈辱 ― シモーヌ・ヴェイユ「ロンドンで書かれたノート」より

2023-03-30 23:59:59 | 哲学

 シモーヌ・ヴェイユが1942年7月から死の前月の1943年7月まで、ニューヨークそしてロンドンで書き続けた最晩年のノートは、『超自然的認識』というタイトルで1950年にガリマール社から出版された。その中に収められた「ロンドンで書かれたノート」は以下の文章で始まる。

 La méthode propre de la philosophie consiste à concevoir clairement les problèmes insolubles dans leur insolubilité, puis à les contempler sans plus, fixement, inlassablement, pendant des années, sans aucun espoir, dans l’attente.
 D’après ce critère, il y a peu de philosophes. Peu est encore beaucoup dire.
 Le passage au transcendant s’opère quand les facultés humaines — intelligence, volonté, amour humain — se heurtent à une limite, et que l’être humain demeure sur ce seuil, au-delà duquel il ne peut faire un pas, et cela sans s’en détourner, sans savoir ce qu’il désire et tendu dans l’attente.
 C’est un état d’extrême humiliation. Il est impossible à qui n’est pas capable d’accepter l’humiliation.
                            Œuvres complètes, tome VI, volume 4, Cahiers 4, Gallimard, 2006, p. 362.

哲学本来の方法は、解決不可能な問題を解決不可能なままに明晰に把握し、次に、何も付け加えずに、たゆまず、何年もの間、何の希望も抱かずに、待機のうちに、その問題をじっと見つめることにある。この基準に照らすと、哲学者はほとんどいない。ほとんどと言ってもまだ言い過ぎなぐらいである。超越への移行が果たされるのは、知性、意志、愛といった人間の能力が限界に突き当り、人間がその敷居に留まり、その敷居を一歩も超えられず、引き返さず、自分が何を欲しているのかもわからず、待機のうちに張りつめているときである。屈辱を受け入れられない人には不可能である。
          『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』今村純子訳、河出書房新社、河出文庫、2018年、「まえがき」より

 自分にこの待機と屈辱の受け入れができるとはもちろんまったく思えないが、それでもなお、深く心に銘記したい一節である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小失望連鎖症候群、慢性失望状態、そして、何も望まないという不可思議な待機態

2023-03-29 23:59:59 | 雑感

 大いに期待していた事が実現しなかったときは、やっぱり誰でも多かれ少なかれがっかりするものだろう。期待をかけていた人のそれを裏切るような行動を目の当たりにすれば、失望してしまうものだろう。それでもまた性懲りもなく期待してしまうこともある。あるいは、そんな失望はもう味わいたくないから、最初から期待しないといういわば失望予防法を事によっては採用する人もいるだろう。
 一つ一つは些細で相互に関係がなく日々の生活にほとんど何の影響も及ぼさない程度のことどもに関して、ちょっとがっかりするという経験が繰り返されると、その都度は気づかなくても、あるいは、「たいしたことではない」と軽く受け流していても、あたかもボディブローのように心身にじわじわとそれらが効いてくるということはないであろうか。
 自分でもなぜだかよくわからないうちに、徐々に気持ちが消沈してゆき、喜怒哀楽の感情が乏しくなり、積極的に行動する意欲を失い、すべてに関してなんかもうどうでもいいやという気分に支配されてしまうことはないであろうか。
 それはまさに鬱症状、あるいは鬱病の一歩手前ですよ、気をつけてください、と人は言うかもしれない。しかし、もう少し自分自身でこのような気分の理由を考えてみよう。
 なぜこんな気分を引きずっているのだろうと考えてみて、それは小失望の連鎖がもたらした結果だと気づく。こんな気分も、大抵の場合は、運動でもすれば解消される。私の場合は、毎日のジョギングがそのリセット効果をもっているので、小失望連鎖症候群と名づけたくなるような気分が何日も続くことはない。
 だが、最近、心のもっと深いところで、慢性失望とでも名づけられそうな精神状態が広がりつつある。それは何か特定の対象に関する失望ではなく、心が常に失望状態にあるとでも言えばいいであろうか。この深層における失望は、しかし、日常生活に直ちに影響を及ぼすわけではなく、日々を淡々と過ごすことを妨げることもない。
 ここまで読むと、やけに暗い話のように思われるかもしれない。しかし、実はそうではない。こちらからは何も望まないという心の状態は得ようとしてもなかなか得られるものではなく、ひとたびそこに至り着いてみると、逆説的に聞こえるかもしれないが、何も望まないという恒常的な待機態はある種の解放感とどちらかと言えば心地よい緊張感を伴っていることに気づく。
 このブログに表面的でくだらないことを綴っているときも、それはこの不可思議な待機態においてなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治初期のダイレクトメソッド ― 梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)より

2023-03-28 23:59:59 | 講義の余白から

 年によって取り上げたり取り上げなかったりだが、今日の記事のタイトルに示した本を授業で紹介することがある。今年は一回の授業丸々使ってその一部を読んだ。
 初版は1965年(日本経済新聞社刊)で、2007年に講談社学術文庫として復刊された。初版から復刊までの半世紀余りの間に積み重ねられたこのテーマに関する研究も日本語では多数あるし、英語圏でも、アメリカ人お雇い外国人第一号であったウイリアム・グリフィスが米国帰国後生涯かけて収集に努めたお雇い外国人関連資料のコレクションがあるから、それに基づいた研究が少なくないであろう。
 フランス人お雇い外国人もかなりの数にのぼり、著名なボアソナードについてはもちろんのこと、その前任者のブスケについてのフランス語圏での研究はもちろんあるが、お雇い外国人全般に関しては、管見の及ぶかぎり、寥々としている。近年このテーマを扱った博士論文があるという話も聞いたことがない。フェノロサについては本格的な研究一つがあるが、それは「お雇い外国人」という枠に限定されたものではない。
 確かに、日本研究の枠組みの中では傍流ということになるであろうが、明治政府に雇われたフランス人たちが日本の近代化にどのように貢献したのかという問題を総合的に取り上げる研究があってもよいと思う。あるいは、その中の一人についてのモノグラフィーも博士論文のテーマになりうると思う。学生たちが概して興味を持つテーマでもある。
 私自身が特に興味を持つのは、仕事柄、やはり教育の分野である。とりわけ、教育に用いられた言語に関心がある。お雇い外国人たちは、日本語で講義することはなく、英語かそれぞれの母国語で行った。明治初期、いくらまだ学生は少数だったとはいえ、それぞれの専門分野に関していきなり外国語で行われる講義には、それをする側も聴く側も多大な困難が伴ったと想像される。ボアソナードは仏語で講義し、初期の聴講者の証言によれば、やはりなかなかついていくのが難しかったようだ。
 しかし、日本語を介在させないがゆえに、取り上げられる事柄そのものの理解はかえって速かった場合もあるのではないかと思う。対応する概念がまだ形成されておらず、それをできたばかりの翻訳語に置き換えて日本語の中で問題を考えようとしても無理があっただろう。中江兆民が開設した仏学塾で漢学を必修とし、自身の著作も最晩年の『続一年有半』の一部を除いてすべて漢文脈で書いたのも、当時まだ建設途上にあった近代日本語ではヨーロッパの思想を伝えることができないと考えていたからだった。
 明治初期のお雇い外国人たちによる教育を受けた世代が教師になる時代になると、授業は当然のことながら日本語で行われたから、その教育を受けた世代は、語学力、特に聴解ではかえって第一世代よりもレベルが下がってしまったこともあったであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『今未来物語集』(近未来説話集・本朝篇)― 現世の人生百年という生き地獄

2023-03-27 00:00:00 | 雑感

 今は未だ来てはおらぬが、都会の陋屋に独居する身寄りのない瘋癲老人に近い将来こんなことが起こるそうだ。

 国のすべての住人の生きる時間を管理している日本時間銀行からある日老人のところに一通の封書が届く。
 その封書には、「近々65歳で定年を迎えられるあなたに今後の人生35年間を無利子でご融資しいたします。」という書き出しではじまるチラシが入っていた。同封の説明書には以下の様なことが書かれている。

 手続きは一切不要、弊銀行が契約に必要な書類はすべてご準備いたします。契約はあなたの65歳の誕生日に発効し、以後35年間、毎年一月一日に自動的にあなたの時間口座に一年振り込まれます。
 ただし、この契約はあなたの側から解除することはできません。つまり、あなたは百歳までは生きなくてはならないのです。その後は、どうされようとあなたの自由です。
 支給年金額が必要最低限の生活費を下回る場合、すべて自己責任でお願いたします。つまり、ご自分でなんとかしてください、ということです。
 この契約を拒否される場合、65歳の誕生日から、あなたの命の保証はありません。

 契約が成立してから十年ほど後にはこんなことになるという。
 老人が独居する築五十年のぼろアパートの扉をガンガン叩く音がする。
 「〇〇さーん、居ることはわかってんのや。今日の生活費、払ってもらいましょうか。光熱水費・食費・その他各種公共料金・医療費、全部コミコミで一万円ポッキリや。安いもんやろう。」
 日本時間銀行と裏で繋がっている闇時間金融組織が雇っている反社会的勢力の構成員たちが生活費の取り立てに来たのだ。彼らは執拗に毎日取り立てに来る。
 しかし、老人の年金ではどうにも払えない。働こうにも働き口がない。金を借りるあてもない。
 これが百歳まで続くのかと思うと、老人は生きた心地がしない。病気がちで、体を自由に動かすこともできない。これじゃあ死んだほうがましだと老人は涙を流す。しかし、死ねない。
 これを「生き地獄」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 こんな話が語り伝えられるようになる日も遠くはないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「世界」と書いて「りふじん」とルビを振りたい夏時間初日 ―『瘋癲老人閑話録』(死後、遺稿として出版予定)

2023-03-26 15:09:56 | 雑感

 世界中、理不尽なことだらけである。世界そのものが理不尽であるとさえ言いたくなる。「世界」と書いて「りふじん」とルビを振りたい衝動を覚えるのは私一人ではあるまい(と思いたい)。
 そもそも理不尽とはどういうことか。
 『日本国語大辞典』によれば、「道理をつくさないこと。また、すじみちの通らないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。むりむたい。」
 『新明解国語辞典』(第八版)はもっと先鋭な語釈を示している。「筋の通った論拠に基づくことなく、弱い立場にある相手に有無を言わさず自分の方の主張を一方的に通そうとする様子だ。」
 『新明解』のこの語釈に現時点において該当する大国を二つ挙げなさいと聞かれたら、あなたはどの二国を挙げますか。簡単すぎて問題にもならぬ、と鼻で笑うだろうか。しかし、笑って済ませられる問題ではないことは皆さん同意してくださるでしょう。この世界はかくも理不尽なのだ。その終末が近づいているのも宜なるかな。
 閑話休題。と、この便利至極な表現をつい使って、その不適切さに直ちに気づく。「閑話休題」とは、「本筋からはずれて語られていた話やむだ話をやめにすること。」(『日本国語大辞典』)だからである。そもそも本筋などなく、思いついた無駄話をただだらだらと書いているだけの拙文にこの表現は使えない。
 さて(くらいにしておきますか)、中央ヨーロッパ夏時間を採用しているEU諸国は今日夏時間に移行した。私自身、二十七回目の夏時間である。が、いい加減、止めてほしい、と切に願っている。オイルショック後、つまりもう半世紀も前に採用され、ここ二十年程は毎年廃止論が喧しく取り沙汰されるのが夏時間移行前後の恒例行事化している。コロナ禍直前の2019年には、欧州議会でいよいよ廃止が本決まりになったはずだが、その後のコロナ禍のてんやわんやでまた話がうやむやになってしまった。
 なんで時間の変更を強制されなくてはならないのか。私には、それが理不尽であり、不愉快なのだ。こちらが望んでもいない融資を国家権力によって「無利子ですよ」と押し付けられ、こちらの口座に勝手に一定額が振込まれ、その額が半年後にこれまた一方的にこちらの口座から引き落とされているような不愉快さと言えばわかってもらえるだろうか。
 これを毎年繰り返す。何の意味があるの? 冬時間移行に伴う一時間の「融資」など、最初からこっちは必要としていない。にもかかわらず、十月最後の日曜日だけ25時間にして、三月最後の日曜日は23時間にして帳尻を合わせる。これは理不尽である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ドヴォルザーク『チェコ組曲』―『のだめカンタービレ』のおかげ発見できた郷愁誘う管弦楽の佳曲

2023-03-25 20:04:42 | 私の好きな曲

 この六日間、いくら大事な事柄とはいえ、根を詰める話が続いたので、今週末は「私の好きな曲」というカテゴリーに当てはまる、少し緩やかな話をさせていただきたいと思います。正直に申し上げますと、今回のお題、自分で勝手に始めておきながら、書いていてちょっとしんどかったのです(でも、まだまだ続けますよ、ほそぼそと)。
 半世紀に亘って(っていうと、なにか凄そうですけど、実のところは、五十年間にも亘って性懲りもなくだらだらと、というほどの意味です)、クラシックについて、というか、音楽全般について、下手の横好き程度付き合い方をしてきました。
 ですから、クラシックについて傾けるような蘊蓄はなく、日頃傾けているのは只管酒盃(「しかんしゅはい」と訓む)であります。
 テレビドラマでクラシック音楽が使われていれば、名うてのクラオタの方たちは、即、その曲を特定できるのでしょう。私にはそのような該博な知識はないので、「いい曲だなあ。誰の何という曲なのだろう」と気になることが一再ならず過去にありました。
 その中でも特に印象に残っているのが、テレビドラマ化された『のだめカンタービレ』の第一話の冒頭にプラハの風景とともに流された管弦楽曲でした。私にとって未知の曲でした。シーンの情景からしてドヴォルザークかスメタナの曲であろうとはすぐに見当がつきましたが、当該の曲がドヴォルザークの『チェコ組曲』であると特定するのには少し時間がかかりました。
 特定できてすぐにCD(プラハ室内管弦楽団、Supraphon, 1977年)を注文し、繰り返し聴きました。しみじみといい曲だと思いました。ドヴォルザークには『弦楽セレナーデ』という押しも押されもせぬ名曲がありますが、『チェコ組曲』は、その妹分というか弟分というか、確かに質的に落ちるところはあるのですが、その地味さがいいなあというか……。
 今日、この記事を書くためにあらためてこの曲を聴きましたが、はじめて聴いたときのことを想い出して、ちょっとほろっとしてしまった年寄りなのでありました。

 爺ちゃん、なんなん、こんなクソつまらない記事、ブログとして書く意味あるん? ― もちろん、あるわけなかろう。でもなぁ、誰に迷惑かけてるわけでもなし、これくらい許してくれんかのう ― どーでもええけど、あんまり長生きせんといてや。それ、老害やし ― おまえに言われんでもわかっておるわ。自分の始末は自分でつけるさ ― ほな、よろしく~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Compatir(共に苦しむ)とはどういうことか(六)― 黙せる被造物全体における神の現前の透見

2023-03-24 16:18:06 | 哲学

 エックハルトの説教一〇三番のマンジャン氏による注釈を読み続ける。
 魂における神の御言葉の誕生がそのまま私たちに見えることがないとすれば、どのようにしてそれを知ることができるのだろうか。
 神が魂の内奥にその御言葉を生むためには、すべての被造物が騒めくのを止め、沈黙しなくてはならない。しかし、魂において神の誕生が成就するとき、被造物らはただもはや障害とならなくなったばかりでなく、神をそれぞれの仕方で示現するようになる。

被造物らすべては、汝に神のことを、その誕生のことを語る。[…]汝は万物において神の誕生以外のことを捉えるのではない。[…]万物は、汝にとって、純粋にかつ単純に神となる。というのも、万物において、汝は純粋にかつ単純に神以外のことは思わず、愛さないからである。

説教一〇三番、マンジャン氏による仏訳からの重訳

 かくして、魂の内奥の経験は人の世界に対する関係をも変容させる。いや、より正確には、魂における神の誕生によって、創造全体が創造主を透見させる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Compatir(共に苦しむ)とはどういうことか(五)― エックハルトにおける pâtir とagir の関係について

2023-03-23 23:59:59 | 哲学

 以下の論述は、エックハルトの説教103番のエリック・マンジャン氏による注釈の要点である。
 魂における神の御言葉の誕生をエックハルトは二相において見る。それは魂の離脱と神の誕生との二相であり、それぞれ pâtir と agir という動詞に対応する。
 両相は、一見時間的順序と持続性において捉えうるように思える。そして、人と神との間には一種の相互性があるようにも考えらえる。あるいは両者のあいだの役割分担とでも言えそうな関係があるようにも考えられる。
 なぜなら、まず人が神の誕生の条件に叶うように魂を整え(離脱-pâtir)、その条件が整ったところで神が魂において働く(御言葉の誕生-agir)、という順序において事柄を記述できるようにも思えるからである。とすれば、離脱は、魂における神の御言葉の誕生一つの準備過程を成しているのであろうか。
 そうではありえない。このような時間的順序に従った表象には、魂の離脱の経験を神がそこで働くように「強いる」経験として捉えてしまう危険がある。あるいは、少なくとも、神の働きに一定の限定を与えることになってしまう。そればかりか、このような時間的順序に従った表象は、神の根源的先行性を見損なわせる。
 実のところ、すべては同じ一つの瞬間に成就する。神が魂の離脱を可能にし、この離脱において神はその御言葉を魂のうちに生む。エックハルトにおける離脱とは、この離脱(脱却)と受容との二重の経験にほかならない。
 もちろん、このような経験が自らの内においてそれとして現成することを見て取ることは人にとっていつも容易なことではない。
 この困難は、夙にアウグスティヌスによって強調されていたことであった。

私にとってまさにこの自分自身が、多くの困難と汗を要する畑となってしまったのです。[…]記憶するのはこの私、すなわち心としての私です。私でないものならばそれが何であるにせよ、自分から遠くはなれていてもさほど不思議ではありません。しかし、私自身にとって自分ほど近いものがありましょうか。

『告白』第十巻第十六章・二五節、山田晶訳、中央公論社『世界の名著14』、1968年、351-352頁。

 実際、私たちにとってもっとも内奥にあるものがなぜかくも不透明なものとして現れるのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Compatir(共に苦しむ)とはどういうことか(四)― エックハルトにおける pâtir Dieu

2023-03-22 23:59:59 | 哲学

 Éric Mangin 氏は、Maître Eckhart ou la profondeur de l’intime (Éditions du Seuil, 2012) という美しいエックハルト研究の中で、エックハルト自身の手になることが専門家たちによって認められた数少ない説教の(101~104)に依拠しながら、pâtir Dieu という魂における経験を数カ所で犀利な仕方で分析している。それらの分析を辿ることで pâtir Dieu ということがらに可能なかぎり近づいてみよう。
 第103説教の中で、エックハルトは「ルカによる福音書」における12歳の少年イエスのエピソードに言及する。寺院で語る少年イエスを両親が探しに来る場面である。エックハルトは、このイエスは魂における神の誕生であるという釈義を示す。この誕生が顕となるためには、つまりイエスをイエスとして見出すためには、両親は群衆を後にし、元の場所へと立ち戻らなくてはならない。この場面で群衆は魂の諸力と諸作用とを表象している。「後にする」「立ち戻る」「見出す」という一連の動きは離脱の経験の諸相だが、これは魂の働きというよりも、むしろ魂の内で経験された pâtir である。「純粋に神を苦しむことのうちに完全にとどまる」ことである。黙し、人において神が働くに任せることである。平穏なる内的沈黙のうちにおいてこそ、神はその御言葉を生む。
 ここまで読んだだけでも、pâtir ということについて、一般の語義によってとはまったく異なった視界が開けてくる。さしあたり「苦しむ」という訳語を与えたが、おそらくこれは適切ではない。私たちが一般に経験しうることとしての「苦しむ」ことがここでの問題ではないことはすでに明らかだ。
 エックハルトという精神的気圏の高みにまで上昇することには精神の多大な危険が伴う。エリック・マンジャン氏をよきガイドとして、一歩一歩その気圏へと接近していこう。