内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

国家は原理的に〈神話〉を必要とするのか

2019-03-31 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の記事は、その件名に掲げた問いについて考えるための二つの資料を引用するだけである。
 第一資料は、エルンスト・カッシーラーの『国家の神話』(The Myth of the State, 1946)の第一章の冒頭である。

 われわれは、過去三十年間、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に、政治生活と社会生活の深刻な危機を経験したばかりでなく、幾多のまったく新しい理論的な問題にも直面してきた。われわれは政治的思惟の諸形式が急激に変化するのを体験した。諸々の新たな問題が提起され、そして新たな解答が与えられた。十八世紀および十九世紀の政治思想家たちにとって未知であった諸問題が突如として前景に現われてきたが、おそらく近代政治思想のこの発展において、もっとも重大な、そしてもっとも気遣わしい特徴は、新しい力、すなわち神話的思惟の力の出現であろう。神話的思惟は、現代の若干の政治制度において、明らかに合理的思惟にたいして優位を占め、それは束の前の激しい闘争の後に、明白かつ決定的な勝利を獲得したかのようであった。この勝利はどのようにして可能であったか。政治的地平線にかくも突如として現われ、そしてある意味では精神的および社会的生活の性格に関する従来の一切の観念を逆転させるようにみえた、この新たな現象を、どのようにすれば説明できるだろうか。(宮田光雄訳『国家の神話』講談社学術文庫、2018年)

 第二資料は、嘉戸一将の『北一輝―国家と進化』(講談社学術文庫、2017年、初版2009年)である。より正確には、本書からの孫引きである。そうすることでかえって論点を浮かび上がらせることができると考えてのことだ。第三章「北一輝と革命」の第四節「絶対者をめぐって」から抜粋する。

 真理を保証する絶対者とは何か。国家論や制度論において言えば、それは制度的世界の創造主である。
 例えば、創造的行為について語ったフランスの詩人・批評家ヴァレリーは、精神による創造的行為は、単にその行為が偶然や気まぐれであることに満足することなく、自然における創造がそうであるように原因を要求し、自らが出現した後で原因や合理性を求めて過去に遡行すると言う。事後的に原因を生み出すことは時間の顚倒であり、そのためそれは過去の捏造であり虚偽であるが、にもかかわらず因果法則であることを標榜するかぎりにおいて合理性の思想である。これをヴァレリーは「神話」と呼ぶ。[中略]要するに、創造的行為が意味あるものであるためには「神話」を必要とせざるをえないのである。[中略]
 この問題を、国体論批判と社会主義的な制度の準拠の「構想」という立場から取り上げたのが、三木清である。[中略]ヴァレリーの神話論を踏まえて、三木は「神話」が時間という客観的な次元に属するのではなく、主観的な次元に属することを強調する。この主観的な次元に属する「神話」の「論理」を、三木は「構想力の論理」と呼ぶ。ここで重要なのは、三木が「神話」論を制度論に移調していることである。すなわち、「この社会の制度そのものがすでに何等か神話的意味を含むと云ふことができる。我々にとつて問題であるのは現在も存在しまた創造されるやうな神話である」(『三木清全集 第八巻』岩波書店、一九六七年、二八頁)。

 戦後に出版されたカッシーラーの『国家の神話』の上掲の問いに対して、それに先立つこと九年、一九三七年に原理的な解答を試みているのが三木清の「構想力の論理」であることがこの一節を読むだけでわかる。












『蜻蛉日記』の夢の記録が意味するもの(下)― 苦悩の果ての判断停止がもたらした眼差し

2019-03-30 10:49:01 | 講義の余白から

 『蜻蛉日記』に記述された夢の記録でもっとも印象深いのは、天禄二年四月の記事であろう。まず、その全文を引く。

 二十日ばかり行なひたる夢に、わが頭をとりおろして、額を分くと見る。悪し善しもえ知らず。七八日ばかりありて、わが腹のうちなる蛇ありきて、肝を食む、これを治せむやうは、面に水なむいるべきと見る。これも悪し善しも知らねど、かく記しおくやうは、かかる身の果てを見聞かむ人、夢をも仏をも、用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり。

 この箇所について、性的苦悩のうずきを見ているのが岩波古典文学大系本校注者の川口久雄である。一昨日の記事で引用した箇所と合わせて、川口は補注で次のような解釈を提示している。

石山の夢と共にこれらは作者が長い間の空閨のもだえ、性の渇きが、転移され昇華されて、法師が法水を注ぎかける夢となったのであろう。蛇が肝をはむというのも恐怖というよりも惨酷な願望の変型で、蛇は男性器を意味するかもわからない。これら三つの夢はいずれも一聯のものであって、作者の内なる性の欲望と、神へのおそれとの葛藤、獣性と神性との二元のたたかい、はげしい矛盾とみじめなコムプレックスの象徴として興味がある。

 これはこれで夢の解釈としては妥当なのかも知れないが、道綱母自身がなぜこの夢をこのような仕方で記述したかの答えにはなっていない。西郷信綱も、夢の精神分析学的解釈には興味を示さず、夢そのものの記述の後の「かく記しおくやうは、かかる身の果てを見聞かむ人、夢をも仏をも、用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり」という道綱母の注釈に注目する。
 西郷が言うように、これは当時として実に驚くべき態度の表明だ。夢が「仏のみせ給ふ」ものとはその時代の通念であり、道綱母もそれを共有してはいた。

しかし作者のなめた経験の量と質は、こうした一般通念の枠をきわどく越え出て行き、わが身のはてを見とどける人が、夢とか仏とか信ずべきかどうか、これをもとに後に決めよと記す。作者は夢とか仏とかは頼りにならぬものだといい張ろうとしているのではない。時代通念を括弧にいれ、あるがままを記すというこうした判断中止に到達せざるをえないところまでおそらく図らずもやって来たのである。(178頁)

 西郷が言うように、道綱母がこの日記を書き残さざるをえなかったのも、このような判断中止を実人生の経験そのものによって迫られたことと無縁であろうはずはない。「肝心なのは、それがかの女に、生にたいするどういうまなざしを与えたかである。」(179頁)
 日記の冒頭で、道綱母は、「そらごと」が多い古物語とははっきりと一線を画し、自分の「身の上」をありのままに綴ろうと宣言する。この散文精神と先の夢に対する判断中止的態度とは、人生に対しての同じ自覚の表明なのだ。西郷は、道綱母の夢に対する醒めた態度は、懐疑ではなく、判断停止と見る。

人生の指針として深く夢を信じた神話時代が過ぎさり、そうかといってそれを救済すべき中世の宗教的ドグマがまだ形をなさない過渡期の平安中期には、「かかる身のはてを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり」といういいかたに示されているごとき断念の目で以て、どう落着するとも知れぬ混沌たるその経験世界を眺めようとする態度が、一つの極限状況として獲得されえたのではなかろうか。(179-180頁)

 『蜻蛉日記』の作者の自らの夢に対する醒めた態度を手がかりとして、その独自の散文精神が日本精神史においていかなる位置を占めるかを鮮やかに捉えた一文である。













『蜻蛉日記』の夢の記録が意味するもの(中)

2019-03-29 17:39:59 | 講義の余白から

 西郷信綱の『古代人と夢』(平凡社ライブラリー、1993年、初版1972年)の第六章「蜻蛉日記、更級日記、源氏物語のこと」には、六頁ほどだが、『蜻蛉日記』の作者の夢に対する態度について鋭い指摘があり、その指摘は私たちが道綱母の複雑な心の在り方を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。
 西郷信綱がまず言及するのは、天禄元年七月の石山詣の際に見た夢の話である。陀羅尼を尊げに読みながら礼堂に佇む法師が、「去年から山籠りをし、穀断ちしている」と言うので、「では、私のために祈ってください」と道綱母はその法師に頼む。後日、その法師から、自分が見た夢の内容を知らせる便りが届く。ところが、その内容が『過去現在因果経』に典拠があるような典型的な「吉夢」なのだ。
 道綱母は、それを聞いて、「いとうたて、おどろおどろし」(「まあいやだ、大げさなことだわ」)と、件の僧の、口から出まかせの阿諛でもあろうか、と疑う。それで馬鹿馬鹿しくなって、夢解きを誰に頼むこともなく、そのままにしておいた。その折も折、ちょうど「夢あはする者」(夢判断をする者)が来たので、他人事として夢解きをその者に頼むと、その回答は、「朝廷を思いどおりに動かして、望みのままに政治を動かすことになるでしょう」と、明らかに夫兼家に好都合な予言になっている。
 この夢解きを聞いての道綱母の反応が彼女の微妙な心理状態を実によく表している。「さればよ。これが空合わせにはあらず、言ひおこせたる僧の疑はしきなり。あなかま。いと似げなし」(「思ったとおり。この夢解きがいい加減なわけではなく、私に夢の話を言い寄こしたあの僧が疑わしいのだわ。このことはご内密にね、まったくとんでもないことだわ」)。
 一方で、道綱母は、件の僧が、自分の夫が兼家であることを知って、その意を迎えようとして、こんな夢の作り話をしたのであろうと疑う。しかし、他方、夢解きの信憑性そのものは疑っていない。道綱母がこの一件をそこで打ち捨てたのは、僧の「はったり」がまるで自分の心事を理解していない、まとはずれな迎合であることにあきれたからである。
 しかし、それだけではない。道綱母の心事はもっと複雑である。上掲箇所の少し先で、彼女が一昨日見た夢の夢解きを同じ夢解きに頼む。その夢は、右足の裏に男が門という文字をいきなり書きつけたので、びっくりして足を引っ込めた、というものだった。大系本や集成本は、抑圧された性的願望の顕れをそこに見ているが、そのような精神分析学的解釈がここでの問題ではない。道綱母が夢解きに対してどう反応したかが私たちのここでの問題である。
 夢解きは、その夢は一子道綱がゆくゆく大臣公卿になるべき吉夢という。ところが、道綱母は、「これもをこなるべきことなれば、ものぐるほしと思へど」(「これも馬鹿馬鹿しいことなので、変な話だわ」と思ったけれど)と、「夢解きの色よいいい草にふりまわされず自分の経験の方に就こうとする」(西郷信綱『古代人と夢』一七六頁)。
 とはいえ、道綱母は、夢あわせをまるっきり拒否しているわけでもない。この夢あわせを「をこ」と感じつつも、溺愛する一子道綱が出世するという吉夢だと言われてみれば、「さらぬ御族にはあらねば、わが一人持たる人、もしおぼえぬさいはいもやとぞ、心の内に思ふ」(「そういったことがあり得ない御一族ではないので、私がたった一人持っているあの子が、もしかしたら思いもかけない幸運をつかむのかしら、と心の中で一人ひそかに思います」)と、まんざらでもなかったのである。












『蜻蛉日記』の夢の記録が意味するもの(上)

2019-03-28 23:59:59 | 講義の余白から

 修士一年の演習の講読テキストを唐木順三の『無常』にしたことは先月16日の記事で話題にしたが、今日の演習がその四回目であった。二人の学生に「(三)かげろふの日記」のⅢを前半と後半とにわけて報告してもらった。どちらも真面目で優秀な学生で、概ね内容をしっかりと把握できていた。ただ藤原道綱母の心理の複雑さについての唐木による立ち入った分析にはちょっとついていきかねるところもあったようだ。それは無理もないことだ。そのあたりは私の方からできるだけ噛み砕いて説明を試みた。
 その『無常』「(三)かげろふの日記」のⅢの後半に、『蜻蛉日記』の中の夢の話に言及している箇所がある。たった一文だけなので、『蜻蛉日記』の当該箇所を読まなければ、なんのことだかわからない。どの箇所を指しているのか唐木の本には示されていないが、文脈からして、中巻の「石山詣で」の段に出てくる夢の話のことであろう。

 さて夜にはなりぬ。御堂にてよろず申し、泣き明かして、あかつきがたにまどろみたるに、見ゆるやう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかくと見る。ふとおどかされて、仏の見せたまふにこそはあらめと思ふに、ましてものぞあはれに悲しくおぼゆる。

 岩波古典文学大系版の川口久雄による補注には、「銚子や水は正しく性的な象徴で、岡一男氏のいわれるようにこの夢は禁断された願望の昇華されたものであろう」とある。
 新潮古典集成版の頭注には、「この夢の内容について、「銚子―膝―いかく」は、明らかに性的な象徴であろう。そこに「抑圧された願望の昇華されたもの」(岡一男『道綱母』)を読み取るのは、おそらく正しいであろう。だが、この夢をここに位置づけた作者にはそうした自覚はなく、むしろ現下の懊悩からの救済を暗示する、霊験譚的な夢告として受け取られていたようである」と、さらに懇切な注解がある。
 ジャックリーヌ・ピジョーの仏訳の脚注は、 « On a glosé ce rêve, en l’interprétant soit comme la sublimation d’un désir refoulé (la louche, le genou, l’acte de verser étant des symboles sexuels), soit comme un rite conjuratoire de guérison par l’eau, etc. » と中立的に既存の解釈を記すに留めている。
 私が演習で特に問題にしたのは、夢のフロイト的解釈の妥当性ではなく、道綱母がこの箇所も入れて計六つの夢の記録を残したのはなぜか、そして、その記述の仕方から道綱母の心の在り方をどう読み取るか、ということだった。これらの問いに答えるために重要な手がかりを与えてくれるのが西郷信綱の『古代人と夢』である(この名著には2017年12月12日の記事でも言及した)。












「問題提起的で近代の本質に迫る」には、天皇機関説および天皇機関説事件は言及するに値しないのか(下)

2019-03-27 00:58:20 | 講義の余白から

 驚いたことに、山川出版社から2016年に刊行された『大学の日本史 教養から考える歴史へ』(全四巻)には、近代に一冊(294頁)まるごと充てられているにもかかわらず、ただの一行も天皇機関説および天皇機関説事件についての記述がない。もちろん美濃部達吉の名前もどこにも出てこない。ところが、現日本国首相の母方の祖父であるA級戦犯容疑者だった岸信介には計十頁も割かれている。
 当該の年代を対象とした16章「満州国」と17章「近衛文麿と昭和の戦争」は、季武嘉也という創価大学文学部教授が執筆を担当している。岸信介のことが全体のバランスからすればかなり目につく仕方で、しかも写真入りで記述されている19章も同じ筆者である。奇妙なことに、16章にも17章にも、1931年以降について、だいたいどの年についても何らかの記述があるのに、1935年についてだけ、何もないのである。あたかもその年には言及すべき出来事が何も起こらなかったかのように。
 山川出版社のサイトの本シリーズの謳い文句は、「高校の日本史を卒業し、本格的に歴史を学ぶためのテキスト。様々な素材を駆使して時代を探り、どのように歴史像をつむぐのか、その醍醐味にふれる」となっている。近代以前の三冊については、確かに、その謳い文句に恥じないだけの内容を備えていると言ってもいいかも知れない。
 ということは、ちょっと皮肉な言い方をすれば、日本近代史において、天皇機関説および天皇機関説事件など、高校までに学んでおくべきことで、本格的に歴史を学ぶためには、今更わざわざ言及するまでもない「瑣末な」既習項目である、ということなのだろうか。
 本書の「はじめに」の冒頭にはこうある。

 本書は、放送大学の日本近代史および日本近現代史の授業で使用した印刷教材『近代日本と国際社会』(放送大学教育振興会、二〇〇四年)、『日本近現代史』(同、二〇〇九年)をもとに、章を二〇に整理し、各章を大幅に加筆修正したものである。
 日本近代史に関する通史は数多あるが、大学レベルのテキストであるならば、概説的な歴史叙述ではなく、問題提起的で近代の本質に迫る内容構成であることが望ましいと思われる。

 同書の帯には、「本格的に歴史を学びたい人向けの日本史教科書」と謳ってある。ということは、「問題提起的に近代の本質に迫る」ためには、天皇機関説および天皇機関説事件はまったく言及するに値しないと著者たちは判断したということだろうか。
 この完全な無視をどう理解すればいいのだろう。類書で概説されているような「常識的な」ことは、あえて切り落とすことで、新たな視角から問題提起を試みた、ということだろうか。
 百歩譲って、その企画の意図は認めるとしよう。それにしても、天皇機関説および天皇機関説事件についての記述の完全な欠落と現総理大臣の母方の祖父である岸信介についてのあからさまに弁護的な記述とは、そこに何らかの政治的「忖度」が働いていると疑わせるに十分である、と言えば、人は私の病的なまでの猜疑心を憫笑するであろうか。
 ここまで書いてきたことが、度外れな杞憂、根拠なき懐疑、的はずれな非難であることを、私は、これからの日本のために、切に願う。












「問題提起的で近代の本質に迫る」には、天皇機関説および天皇機関説事件は言及するに値しないのだろうか(上)

2019-03-26 05:45:06 | 講義の余白から

 もともとだらしのない日和見主義的ノンポリだし、俄に血迷って政治づいたわけでもまったくないのだが、天皇機関説および天皇機関説事件について、ちょうどそれらが授業で扱うテーマということもあり、手元にある参考文献の中でそれらがどのように記述されているか、ちょっと比較してみた。その結果、いささか気になることが見えてきた。
 まず、『大学でまなぶ日本の歴史』(吉川弘文館、2016年)は、第35章「内政・外交の変質」中の「国体明徴運動と二・二六事件」と題された節で、一頁の三分の二以上を割いて天皇機関説事件について次のように説明している(213頁)。

 1935年(昭和10年)2月、貴族院で東京帝国大学教授美濃部達吉の憲法学説が国体に反するとして、その取り締まりを要求する質疑がなされた。統治権の主体を国家であるとする美濃部の学説(いわゆる天皇機関説)に対しては、神聖不可侵の天皇を国家の「機関」になぞらえる国体破壊の邪説であるとの批判が以前からあった。衆議院でも政友会所属の議員が美濃部を攻撃し、その著書を不敬罪で告発した。
 3月に入ると、貴族院では政教刷新建議案が、衆議院では国体明徴決議案が可決された。陸相と海相は岡田啓介首相に機関説排撃を要望した。4月には、陸軍皇道派の真崎甚三郎教育総監が、機関説は国体に反すると全軍に訓示した。司法省は美濃部の著書を発売禁止とした。
 その後、右翼団体や在郷軍人会を中心とした機関説反対の国体明徴運動が全国に広がる。機関説排撃の政府声明、美濃部の処分、機関説論者の政府高官更迭を要求する決議や意見書が、政府首脳に贈りつけられた。8月、政府は声明を発表したが、反対運動はその内容が曖昧であるとして反発を強めた。10月、政府はふたたび声明を発表して、統治権の主体は天皇にあり、天皇機関説は国体に反すると表明した。国体明徴運動はようやく収束した。
 国体明徴運動は、日本の政治を取りまく言語空間を変えた。曖昧で多義的「国体」という言葉で、みずからの主張を正当化したり、対立する相手を非難・罵倒することが横行しはじめたのである。

 天皇機関説事件に関わる部分を全文引用したのは、古代から現代までをカヴァーするわずか260頁の本書の中でどれだけのスペースがこの事件について割かれているかを示すためである。そうすることで、同書が、満州事変以降敗戦までのいわゆる十五年戦争の過程においてこの事件を重要な出来事として位置づけていることが単純に量的な配分からもわかる。
 その他の参考文献、例えば、『詳説 日本史研究』(山川出版社、2008年)や『いっきに学び直す日本史 近代・現代』(東洋経済新報社、2016年)でも、天皇機関説および天皇機関説事件についてそれなりに詳細に記述されており、そこを読んだだけでも、「日本の将来を担う」若者たちに事柄の歴史的重大性は自ずとわかるようになっている。













現代日本の政治的無防備、あるいは日本的無常観の宿痾

2019-03-25 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた山崎雅弘『「天皇機関説」事件』の「あとがき」からの孫引きになるが、著者は、季刊誌『kotoba』(集英社)第二四号に掲載されている宗教学者の島薗進との対談記事で次のように述べている。

天皇を統治機構の一機関と見なす天皇機関説は、先ほど指摘された近代の合理的な立憲主義と、天皇が神の子孫であるといういわば「信仰」の領域を、かろうじて結びつけていました。しかし国体明徴運動はそれを否定して除去し、天皇を統治の主体として、いくらでも神聖視してよいという方向にもち上げていった。その結果、合理的な思考はいつしか失われ、最終的に天皇に話を結びつけさえすれば、どんな犠牲でも許されるという図式が、形式的に完成してしまいました。

 このような天皇の神聖化は現代日本ではほぼ不可能であるとしても、神聖化の対象を天皇とは別のものに置き換えれば、現在の日本人たちにも受け入れられかねない構図をもっているとは言えないであろうか。
 例えば、今年2月28日の記事その他で何度か話題にしたことがある高畑勲の「積極的無常観」に典型的に見られるような、いわゆる日本的自然観は、上掲引用文中の図式と親和性をもっている。つまり、最終的に自然に話を結びつけさえすれば、どんな犠牲でも許されるという非合理的図式の成立を妨げる要素はこの自然観には備わっていない。
 「個々人が犠牲になるのはやむを得ない、それが自然というものだ、無常というものだ、だから、私たちはそのままその現実を受け入れ、いたずらに未来に希望を託すことなく、今を楽しく生きていましょう」と、何があっても文句も言わずに健気に生きていこうとする庶民ほど国家にとって好都合な国民もないだろう。
 こう言えば、即座に、自然と政治はその本質において根本的に違うという反論が予想される。しかし、政治が根本的に人間の〈作為〉つまり〈人為〉に拠るものであり、したがって、立憲国家であれば、その改善(あるいは改悪)も、その政治体制下に生きる国民自身の手によって、憲法の定める一定の手続きを踏んで合理的に為されるべきであり、「自然」の成り行きにまかせてはならないという近代国家の原理が現代日本にしっかりと定着していると私たちは自信をもって言うことができるだろうか。
 やはり今年2月27日の記事で話題にした村上春樹の無常観にせよ、高畑の積極的無常観にせよ、それぞれご本人たちの発言当時の意図は今措くとして、それらのいわゆる日本的無常観が広く支持を集めてしまう美しく儚い日本の〈私たち〉は、あまりも政治的に無防備ではないだろうか。1935年の天皇機関説事件が今またアクチュアリティをもってしまっていることも、この政治的無防備と無関係ではない。












今必要とされる天皇機関説事件についてのリテラシー、あるいは現代日本の立憲主義の危機について

2019-03-24 13:57:54 | 講義の余白から

 昨日の記事で話題にした天皇機関説問題について、その近代日本政治史における重大性を、今日の政治状況とリンクさせて一般読者にもわかりやすく懇切丁寧に説明している良書が山崎雅弘の『「天皇機関説」事件』(集英社e新書、2017年)である。授業の準備も兼ねて、ここに何箇所か本書から摘録しておく。そこに含まれている問題は、しかし、単に近代日本史学習にとっての一重要項目という枠におとなしく収まるものではなく、現代日本に直結する重大な問題の一つである。

 天皇機関説は、天皇という古い制度を近代国家の枠組みに整合させる「仕掛け」であったと同時に、天皇の特権的地位を根拠とする政治権力が、コントロールを失って暴走するのを防止するための「安全索(ワイヤー)」のような存在でもありました。

 その仕掛けを不敬であると攻撃し、葬り去った結果、どうなったか。

 その結果、「天皇」あるいは「権力」と「近代国家」をかろうじて結び付けていた、天皇機関説という「ワイヤー」が、バチンと大きな音を立てて切断され、「権力の暴走」を止める安全装置が失われました。

 太平洋戦争での破滅的な敗北にいたるまでの昭和史を、「軍部の暴走」の一言でまとめることはできないことはいまさら言うまでもないとしても、その暴走を許してしまったのは大日本帝国憲法そのものにある欠陥だと短絡的に結論づけることもできない。同憲法の危険性に気づき、国家の暴走が起きうることを想定し、あらかじめ制度面で何らかの対策を講じておく必要があると考えた人たちが、明治・大正・昭和初期にも少なからずいた。その一人が美濃部達吉であった。
 著者が本書を書こうと思い立った動機は「あとがき」に詳しく述べられている。そのもっとも重要な論点は、「一九三五年の天皇機関説事件が、日本における立憲主義を停止させた」ということである。ここ数年、日本では、安保法制の採決(二〇一五年)をめぐる議論など、さまざまな場面で「立憲主義」という言葉を多く目にするようになった。少なからぬ憲法学者たちが、その立憲主義が今脅かされていると、天皇機関説事件を引き合いに出しながら警鐘を鳴らしているのを見て、著者は不安を覚える。

 もちろん、天皇機関説事件が起きた一九三〇年代と現在では、立憲主義の基になっている憲法の内容そのものが大きく異なっているので、単純な比較はできません。それでも、権力者と国民の関係を規定する憲法と、それに基づいてさまざまな社会制度を構築する立憲主義が失われた時、国民の将来が大きく変わってしまうことを、一九三五年に起きたこの事件は、後世の日本人に教えています。

 美濃部が一九三四年に雑誌記事で書いた「過度の国家主義を信奉する者が、それに反対する者を、不逞不忠の非国家主義者と決めつけ、これを圧迫しようとする傾向を生じやすい」という文言も、ここ数年の日本における社会の変化と照らし合わせると、不気味な説得力を持つように感じられます。

 天皇機関説事件を同時代史の問題として、つまり現在の私たちに直接関わりのある重大な問題の一つとして読むリテラシーが今の日本には必要なのだと思う。












教科書的記述を超えて歴史を読むための良書

2019-03-23 23:59:59 | 講義の余白から

 今週の「近代日本の歴史と社会」の授業では、大正デモクラシーを主題として、1923年の関東大震災、1925年の普通選挙法と治安維持法制定、1928年の初の普通選挙実施まで辿り着いた。
 来週は、吉野作造の民本主義と美濃部達吉の天皇機関説の概略を説明した後、1930年代に入る。このあたりまで来ると、学生たちに紹介する日本語文献で使用されている語彙の中に彼らにとって比較的馴染みがある語が増えてくるし、現代日本社会とも密接に関わってくる論点が多くなるので、その意味では私の方もやりやすい。反面、教科書的な通り一遍の説明だと、漏れてしまうことも多い。それに、最新の昭和史研究は、その教科書的な記述に大幅な修正をせまる点も多々ある。しかし、そこまで立ち入っている時間はない。
 日本人学生にとっては手頃な新書版の良書も、こちらの学生たちにただ推薦しても意味はない。図書館で借りようもないし、電子書籍は買えるにしても、まあまず彼らは買おうとはしない。仮に買う気があっても、何冊も買うことを強制することはできない。授業では、それでも毎回数冊推薦図書を挙げ、それぞれについてごく簡単に内容を紹介してはいる。
 来週の授業では、まず山川出版社の『詳説日本史B』の第IV部第10章「二つの世界大戦とアジア」第5節「軍部の台頭」を読んだ後、井上寿一先生の『教養としての「昭和史」集中講義 教科書では語られていない現代への教訓』(SB新書、2016年)の中の「天皇機関説問題を政治利用した政友会」と題された節を読む。
 そこでの問題は、1930年代前半には、国民の間に二大政党制を目指そうという流れができかけていたのに、実際にはなぜできなかったのか、という問題である。
 この問題について、井上先生が上掲書で考察対象としていた『日本史B』に比べれば、かなり記述が詳しい『詳説日本史B』では、次のように説明されている。

天皇機関説はそれまで明治憲法体制を支えてきたいわば正統学説であったが、現状打破をのぞむ陸軍、立憲政友会の一部、右翼、在郷軍人会などが全国的に激しい排撃運動を展開したので、岡田内閣は屈服して国体明徴声明を出し、天皇機関説を否認した。こうして、政党政治や政党内閣制は、民本主義と並ぶ理論的支柱を失った。

『日本史B』に比べれば確かに含みのある記述になっており、単純に内閣が軍部に屈服させられたわけではないことが読み取れる。しかし、井上書は、さらに踏み込んで次のように当時の状況を説明している。

[…]問題となるのは、軍部の台頭よりも、政党の側の自爆行為なのです。それが1935(昭和10)年に起きた天皇機関説問題です。[…]
天皇機関説とは政党政治を支える憲法学説のことで、政府の公式見解でもありました。「天皇は法人である日本国家の最高機関である。機関の大臣は、首相を含めて、国会議員が務める」。政党にとってはありがたい学説です。
これに対し政友会は、政党にもかかわらず、「天皇陛下を機関と捉えるとは何事か」と文句をつけたのです。要は、天皇機関説のうえに成り立っている政府はおかしいと。先に述べた民政党と無産政党による連立政権として政党内閣が復活することを最も恐れたのが政友会でした。その政友会が政党内閣の枠組みを崩すために、手っ取り早く、天皇機関説問題を利用したのです。
[…]
軍部が力を増してきたために政党内閣が復活できなかったというよりも、政党の側にも問題があったことは明確に押さえておくべきでしょう。

 本書は、教科書の記述をただ否定するのではなく、そこには語られていないことは何かを示し、どのような問題意識をもって歴史を読むべきかを教えてくれる。












「無常観の上に根をはやして生きよう」 ― 阿部謹也『「世間」とは何か』の万葉集の読み方

2019-03-22 18:19:58 | 読游摘録

 昨日の記事のはじめに触れた山上憶良の「哀世間難住歌」における「世間」の特異性について、阿部謹也が『「世間」とは何か』(講談社現代新書)の中で次のように指摘しているのが目に留まった。

少年少女もたちまちのうちに老いてゆき、年をとった者が嫌われる厳しい現実が詠まれているが、ここでは、無常観は、他の歌人達とは違ってそのものとして客観化されている。最後につけられた反歌「常盤なす斯くしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも」が全体をまとめている。永久に変わらない岩のようにありたいものと思うが、うつろいやすいこの世では年も命もとどめられないということを歌っている。いわば無常観の上に根をはやして生きようという覚悟のほどが歌われているといったらよいだろうか。

 阿部謹也は、ドイツ中世史家として高名な学者であり、『ハーメルンの笛吹き男』(一九七四年)によって一般読者にも広く知られるようになり、そのエッセイ集は好評を博した。しかし、日本の上代文学については、三重の意味で非専門家である。だから、和歌の規定の仕方や万葉集歌の解釈などには、そのまま肯うわけにはいかないところもある。
 しかし、阿部が万葉集歌に何を読み取ろうとしていたのかというのは自ずと別の問題である。上掲引用箇所が私の目に止まったのも、その捉え方の面白さによってだった。当該の憶良の歌に、いわゆる仏教的な無常観におさまりきらないもの、運命愛とまではいかないが、ままならず何ごとも留めがたいこの厳しく苦しい世間をそれとして認識した上で、それでも生きていってやるっ、という覚悟のようなものを阿部は読み取っている。