内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

その昼寝姿は物語の姫君のごとく美しく ― 『紫式部日記』の中の宰相の君

2014-11-30 14:21:28 | 読游摘録

 中宮彰子の出産を間近に控えた土御門殿の主たる人物について、彰子その人からはじめて、その父であり邸の主である藤原道長、その長男の頼通と、それぞれにその賛嘆すべきところを描き出した後、これから生まれてくる彰子の子供の乳母になることが決まっている宰相の君に式部の筆は移る。
 宰相の君は、道長の兄・藤原道綱の娘、つまり、『蜻蛉日記』の作者の孫娘である。祖母が本朝三美人の一人であったのであるから、さぞ美しかったのであろう。宰相の君と式部は同僚であり、仲も良かったようである。

上よりおるる道に、弁の宰相の君の戸口をさし覗きたれば、昼寝し給へるほどなりけり。萩・紫苑、いろいろの衣に、濃きが打ち目心異なるを上に着て、顔はひき入れて、硯の箱に枕して臥し給へる額つき、いとらうたげになまめかし。絵に描きたるものの姫君の心地すれば、口覆ひを引きやりて、
「物語の女の心地もし給へるかな」
と言ふに、見上げて
「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心地なく驚かすものか」
とて、少し起き上がり給へる顔のうち赤み給へるなど、こまかにをかしうこそ侍りしか。
大かたもよき人の、折からにまたこよなく優るわざなりけり。

 宰相の君の昼寝姿の美しさを叙したこの一節には、式部の悪気のない悪戯っぽいところも垣間見られて、彼女の心の底に通奏低音のように流れ続けている憂愁の気分が一瞬だがさっと晴れたような明るさがある。
 式部は、彰子の御前から下がる途中で自分の局と同じ渡殿にある宰相の君の局をふと覗く。すると、宰相の君は硯箱を枕にして昼寝をしている。秋にふさわしい色とりどりの召し物の組み合わせがまず素晴らしい。顔を覆った打衣の隙間からわずかにのぞいている額のなんと若々しく美しいことか。その姿はまるで絵に描いたお姫様のようだったので、思わず、口を隠していた衣を引きのけて、「まるで物語の女君みたいよ」と宰相の君に声を掛ける。びっくりした宰相の君は、「なんてことをなさるの。寝ている人をいきなり起こすなんて」と少し顔を起こす。その時の顔がわずかに赤みを帯びていて、それがまた彼女の整った顔立ちをなおのこと引き立たせている。
 普段から美しい人が、こんな場面では、なおいっそう美しく見えたことであったと結ばれているこの一節には、それに先立つ部分と同様、中宮彰子の出産を控える場面としての予祝的機能が与えられている。しかし、そういう文脈を抜きにしてそこだけ読んでも、一人の女性の美しさを叙する文章としてとても印象深い一節である。













憂き景色 ― 自己省察としての『紫式部日記』

2014-11-29 17:55:27 | 読游摘録

 秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 この『紫式部日記』冒頭の一節には、特別な思い出がある。ストラスブール大で初めて教壇に立った今から十六年前に担当した授業の一つが学部三年生を対象とした古典入門であった。その頃は日本学科にはまだ学部しかなく、修士課程も博士課程もなかった。最終学年の学部三年生も、その年は確か全部でわずか六人であった。その学生たちとこの一節を読んだ。
 土御門殿の邸内の秋の景色を構成する音・声・光・色・風・水が見事に組み合わされた描写を一語一語丁寧に辿りながら、その景色を眼前に見るかのように再現できるように説明に努めた。それ以来もう何度読み返したか知れないが、今日、来週の授業のために改めてこの箇所を読み直して、やはり感嘆せざるを得なかった。
 しかし、今回の授業では、平安期の女流作家・歌人の「自照」あるいは「内省」がテーマであるから、取り上げる箇所は、紫式部がふと見せる心の中の記述が主になる。例えば、次のような一節である。
 敦成親王誕生で沸き返る土御門殿への一条天皇行幸が間近に迫り、その主家の晴事の準備に皆が忙しく立働いている。ところが、紫式部は、朝霧の中、菊が色とりどりに美しく咲いている庭を眺めながら、ふとどうしても晴れやかな外界とずれてしまい、心が沈んでしまう自分に向かって、「なぞや」と強い調子で問いかける。

めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引くかたのみ強くて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。いかで、今はなほもの忘れしなむ、思ふかひもなし、罪も深かなりなど、明けたてばうち眺めて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。

水鳥を水の上とやよそに見む
 われも浮きたる世を過ぐしつつ

 かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。

 外界の素晴らしい様子を見ても、心が浮き立つどころか、心を支配する思いに強く引かれて、気が重く、つまらなく、ため息ばかりが出る。それが自分でも苦しい。そんな思いも仏道からすれば罪深い執着であり、だから振り払おうとするのだが、夜が明ければため息をついて、水鳥たちが無心に遊んでいるのを見ても、今の自分に引きつけて、ああ無邪気そうに見えても、水鳥たちだってきっと苦しい思いをしているだろうなどと思ってしまう。
 沈みがちな心が邸内の景色として広がっている様が見事に叙述されている一節である。式部の個人的心情を吐露すことをその第一目的としてない『紫式部日記』においては、卓越した筆力による景色の描写が美しければ美しいほど、式部の心の苦しみの痛切さもまたそこに表現されている。そこに見られるのは、『和泉式部日記』のような感情の奔出の風景としての詩的形象化ではなく、風景の中に翳りある眼差しによって分節化された自己省察である。









 


大聖堂の建築現場で働く外国人労働者のように ― vocation について

2014-11-28 17:48:00 | 雑感

 当代随一の日本人パスカル研究者である塩川徹也氏は、一九七五年、パリ・ソルボンヌ大学に、第三課程フランス文学博士号の学位請求論文として提出され、三年後の一九七八年に出版された Pascal et les miracles (Editions A.-G. Nizet) によって、本国フランスでも極めて高く評価されて以来(同書は今でもパスカル研究の専門書の文献表には必ずといっていいほど載っている)、仏語と日本語との両方で多数の論文を発表されている(上記の本の日本語版は一九八五年に岩波書店から『パスカル 奇跡と表徴』として出版されている)が、二〇〇三年に出版された論文集『パスカル考』(岩波書店)の「あとがき」で、「いろいろの機会に書いたことだが」と断った上で、次のように述べている。

フランスの文学と思想を、本場の土俵でフランス語によって研究することは、いわばノートルダム大聖堂の建造に外国人労働者として参加するようなものである。石を切って積むのは日本人だとしても、所定の場に組み込まれた石は、フランスの地に根を張った建造物の一部であり、それ自体は故国に持ち帰ることはできない。かりに複製を持ち帰ることができたとしても、それをそのまま日本文化に組み込むことはできない。もちろん日本でも日本語によるフランス文学研究が行われているが、それは言ってみれば、茶室か寺院の建築を目指している。大聖堂の部品をそのまま寺院の建材に転用するわけにはいかない(三五一頁)。

 この文章を初めて読んだとき、その学者としての厳しい覚悟と謙虚な自己限定とに心打たれたものだが、翻って我が身のことを顧みて、別にこの超一流の学者に自分のようなつまらない者を引き比べようなどという不遜な気持ちは微塵もなくとも、やはり何とも情けなく、いったい自分は何をやっているのかと自責の念にかられざるを得なかった。
 フランスの大学の教員であり、したがってフランスの国家公務員の一員であったとしても、外国人労働者であることには変わりなく、そこだけは自分にも当てはまるが、そのことを除けば、自分のこれまでの仕事(そう呼べるとしての話だが)は、何かの建造物に組み込みうるような、そのくらいには堅固なたった一つの石を切り出すことにさえ成功していない。当然のことながら、それがそのまま使えるかどうかは別として、日本に持ち帰り日本の社会・文化の中で何らかの仕方で生かせるような業績も蓄積もない。これまで書いて発表したものなど、すべて淀みに浮かぶ泡沫の如きものである。
 たとえ無名の石工であっても、大聖堂の建築現場で働いたことにはそれとして矜持を持ちうるであろう。だが、私はそのような現場で働いたことさえない。仮に働こうとしたとしても、自分の貧しい力量では、労働許可さえ下りなかったことであろう。そして今からそのような現場で働こうとしても、もう年齢的に無理、遅すぎる。いったいこれから何をすればいいのか。ただ与えられた機会に応じて、お茶を濁すだけのような発表をしたり論文を書いたりして、「上滑りに滑って」行くほかはないのだろうか。
 しかし、ここまで書いてきて、このような思いそのものが上滑りであると気づく。その時の気分に流されて、自分のヴォカシオン(vocation)を聴き逃してはなるまい。

























私撰万葉秀歌(13) 「飲む水に影さへ見えて」― アンチ・ナルシシズム

2014-11-27 18:44:50 | 詩歌逍遥

 本当には愛することのできない自らの水に映った姿に恋い焦がれてしまったナルシスは、我知らず出口のない閉鎖サイクルの中に自分を閉じ込めてしまい、その中で決して触れることもできない水の向こう側にあると信じられた美しい姿を、それが自分の映しであると知らずに追い求め、ついにはその姿を捉えようとして水に飛び込み、溺れ死ぬ。これがナルシス神話の粗筋だが、古代ギリシアのナルシス神話にはヴァリエーションがいろいろあり、古代ローマではオウィディウスの『変身物語』の中のが有名であり、そこからまた同神話の数々の変奏が生まれた。
 下の万葉集の防人歌は、それとはまったく違った世界を表現している。

我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さえ見えてよに忘られず (巻二十・四三二二)

 水を飲もうと思って水面に身をかがめると、何とそこに映っているのは妻の影ではないか。それくらい妻は私のことを恋しがっているのだなあ、これではちっとも忘れられないと、と言いながら、水に映った自分の姿が妻のそれに見えるのはこの歌の作者のほうである。
 水が媒体となって、相思相愛の二人を隔てる物理的空間が溶解していると見たい。











私撰万葉秀歌(12) 「あが立ち嘆く息と知りませ」― 遠隔情意現前

2014-11-26 21:20:50 | 詩歌逍遥

 学部時代から講義や演習の際の必携書としていつも持ち歩いていた塙書房版『萬葉集 本文篇』が今も手元にあり、講義の準備の時などに万葉仮名本文を確認する必要あるときには必ず参照する。表紙はもう相当に傷んでいるが、私にとって最も大切な書物の一つであり、書斎の机に向かって右手の書棚の座ったままで手の届くところに、まさに座右の書として、並べられている。これからもずっとそうだろう。本文にはいたるところに書き込みがあり、今それを読み返すと、当時受けていた授業のことが懐かしく思い出されるとともに、今こうして奇しくも当時の勉学の現場に立ち戻っている縁の不思議を想う。
 明日の古代文学史の講義では、これまですでに四回の講義を充ててきた『萬葉集』の紹介の締めくくりとして東歌と防人歌について話す。そこで巻十四を一通り読み直していて最終ページに来たら、見開きの左側の頁は巻十五の最初の頁で、そこには頁一杯にいろいろと鉛筆で書き込みがしてある。遣新羅使節たちの別れを惜しんでの贈答歌群百四十五首の歌群としての構造分析を講義で習ったときに書き込んだものであろう。
 最初の十一首は、遠く旅立つ夫とそれを見送る妻との贈答歌群である。そこに表現されているのは、当時の旅の困難から来る不安や家族を残していくことへ気がかりという時代の特殊条件を超えた普遍的な感情の動きであり、読む者の胸を打たずにはおかない。
 別離の悲しみを「君を離れて恋に死ぬべし」と歌う妻の一首から始まり、以下交互に歌い交わす形になっているが、歌群三首目である妻の二首目は特に名歌として知られる。

君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ

 現代語訳を掲げるまでもないほど平明にかつ心深く歌い出された一首である。嘆きが霧や雨になると万葉人たちは信じていた。しかし、私たちがこの歌を読んで感動できるとすれば、それは当時の俗信あるいは迷信だと言って片付けることはできないであろう。
 遠く旅立った夫を想い、妻はたびたび門口に立って安否を気遣うことであろう。夫はこれから新羅に向う船を待つ海辺で、立ち上る霧を見て妻のことを想うであろう。それは想像ではない。遠く離れた二人の心が霧立つ空として広がり、結ばれている。霧をきっかけとして、そこにはいない妻を想うのではなく、霧が妻の心の現前に他ならない。そういう世界に二人は生きている。











「はかなし」考 ― 唐木順三『無常』に触発されて

2014-11-25 19:16:28 | 読游摘録

 唐木順三の名著『無常』は、三部構成、第一部が「はかなし」、第二部が「無常」、そして第三部が「無常の形而上学 ― 道元」とそれぞれ題されている。第一部は、主に王朝文学の中に見られる「はかなし」の意味の展開を追っている。その序で、唐木は、同書全体を貫く問題意識について簡潔に述べているが、次のように結論を先取りしている。

「はかなし」という言葉がふくんでいる王朝的な真理と情緒が、王朝末から中世にかけて、「無常」に急勾配で傾斜していく跡を証してみたいのである。

 その次の段落では、「無常」についてこう言っている。

「あはれ」と違って「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容があると、私は思う。

 この本の初版が出版されたのは、1964年、今からちょうど五十年前である。唐木の目には、世界中がニヒリズムに覆われていると見える。しかし、その超克を恒常的なるものに求めることはもはやできないこともわかっている。歴史が私たちに教えるのは、その途は何かを絶対化することでしかなく、遅かれ早かれ挫折するしかないからだ。「迂路をたどるべきではない。無常なるものの無常性を、徹底させるよりほかはない」と唐木は言う。この思索の方向性は、同じく西田と田辺の弟子であった西谷啓治によっても共有されていた。
 私は、「無常」の徹底化へと深化する唐木の思索の方向を辿る前に、その思索の出発点にもう一度立ち戻ってみたいと思う。つまり、王朝期の女流文学に表現された「はかなし」の意味を、今一度原テキストそのものを読み直しながら、それを人間存在の根本的様態として考えてみたいと思うのである。
 『無常』第一部「はかなし」の第一章は、「「はかなし」という言葉」と題され、「私に、「はかなし」についての思考の端緒を与えたのは、岩波の日本古典文学大系第二十巻所収の『和泉式部日記』の冒頭、「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに」云々の補注であった」と始まり、『日記』の校注者である遠藤嘉基によるその補注を引用する。
 その補注を読んだとき、唐木は、「あっと息をのむ思いがした」と言う。時枝誠記『国語語学言論』の形容詞論を前提としているその記述が、「はかなし」の意味についての再検討を唐木に迫るものだったからである。それまで、唐木は、「はかなし」は、「あはれ」に比べて、客観的属性が勝った形容詞だと考えていた。つまり、言語主体の情意性よりも事態の状態性を表現することに比重がかかった言葉だと思っていたという。ところが、遠藤の補注によれば、「はかなし」にも同じく言語主体の情意性が込められているということになる。
 私はこの問題を、さらにもう一歩深いところから考えてみたいと思っている。つまり、私にとっての根本的な哲学的概念である「根源的受容(可能)性 Passibilité」という観点から考えてみたいのである。情意性か客観性かというすでに二元論的な立論から出発するのではなく、すべての言語的分節化は「根源的受容(可能)性」から始まると考えたいのである。
 この「根源的受容(可能)性」において、すべての〈形〉と〈心〉がそれとしてそれ自身に与えられるのであるとすれば、まるで情意のない〈形〉もまるで姿形もない〈心〉というものはそもそもなく、客観的な対象と主観的な感情の「分裂」は、原初の分節化後の抽象化の結果だということになる。
 和泉式部が深い嘆息とともに「はかなし」と言わざるを得なかったのは、鋭敏極まりないその詩的感受性が、世界の原初の分節化の「はかなさ」に我知らず感応せざるを得なかったからではないであろうか。とすれば、『日記』に景情一致の歌文融合体によって綴られたのは、その「はかなさ」にまで到達してしまった式部の詩魂が見た景色・気色にほかならないであろう。












儚き憂き世に残されたものとして ― 和泉式部挽歌群を読む

2014-11-24 21:23:37 | 読游摘録

 和泉式部には最初の結婚相手である橘道貞との間に女の子が一人いた。その子の将来を見届けるためにも、出家などはできないと、憂き世にとどまり、ついには敦道親王の屋敷に召人という屈辱的な立場で入ることを決意するに至るが、この一人娘が後の小式部内侍である。当時の大スキャンダルであった母親の宮入り当時、七、八歳であった少女がそれをどこでどのように受け止めたのかは知る由もない。
 敦道親王の宮邸での日々は、そこに集う当代の文化人たちとの交流によって、歌人としての式部にも大きな影響を与えたことであろうが、そのような表向きは華やかであったでもあろう宮邸生活も四年足らずで、宮の死ととも終りを告げる。残された式部は、宮邸から立ち去り、心から奔出したであろう身を裂かれるような深い悲しみに、後に「帥宮挽歌群」と呼ばれるようになる独詠歌群として詩的形象を与える。全部で百二十二首を数える、故宮を思慕するその悲痛な調べは、読む者の心を打たずにはおかない。「師走の晦の夜」との詞書をもつ一首を引く。

なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂なきの里

 十二月晦の夜、死者の霊を祭る習俗が当時あった。式部は、その夜だけでも、宮の魂が身をまとって人として帰ってきてほしいと思ったのだろう。叶うはずもない願いであり、自らの魂さえあくがれ出てしまったように生気ない景色の中に式部は佇む。「なき」「なし」「なき」との三度の繰り返しが喪失の悲嘆の深さを響かせる。
 『日記』もこの挽歌群作成とほぼ重なる時期に執筆されたとするのが大方の専門家の見方だが、当時、文学的創作行為が個人の内発的動機にのみ因るものではなく、女性にとっては「後宮」という読者共同体を前提にしてはじめて成り立つものであったとすれば、『和泉式部日記』についてもそれを想定する必要があることになる。実際、故宮の逝去後二年ほどして、式部は中宮彰子のもとに出仕する。道長の慫慂によるとされる。この一条天皇中宮彰子後宮が『日記』誕生の母胎であったのかもしれない。
 この式部の出仕には、先に述べた一人娘も一緒に出仕したと考えられている。三十歳を過ぎて、十二歳の娘とともに、紫式部や伊勢大輔ら錚々たる才媛が仕える彰子後宮での生活が始まった。式部はそこで道長らから歌人として高く評価される。
 その後、藤原保昌と再婚し、式部の後半生は比較的穏やかに過ぎていこうとしていたかに見える。ところが、式部四十八歳頃と推定される年に、若くして掌侍の職にあった期待の娘の小式部内侍を出産がもとで失う。生まれたばかりの子を残してのその死は痛ましい。最愛の故宮の死から十八年後のことである。この度の母としての悲しみの深さは、小式部内侍挽歌の連作として刻印される。その内の痛切なる一首。

などて君むなしき空に消えにけん淡雪だにもふればふる世に

 娘の死後、式部が記録に現われるのは、その二年後の万寿四年(一〇二七)、九月に薨じた皇太后宮妍子の七七日の追善供養に夫保昌が玉を献上したときに詠歌したのが最後で、以後、歌人として表舞台に立つこともなく、その消息は知れず、没年はわからない。











「ながむる」女の夢よりも儚き世の中の物語 ― 『和泉式部日記』冒頭について

2014-11-23 19:21:48 | 読游摘録

夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、誰ならんと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。

 『和泉式部日記』の有名な冒頭部分であるが、作者のそこでの姿勢は、室内から邸内の庭の景色・気色を「ながむ」ことである。この日記には「ながむ」が頻出する。式部はよく「ながむる」女性であった。
 その「ながめ」が心模様そのものとして叙述され、そこに配された和歌によってその都度の情景が詩的に結晶化されていく。夢よりも儚き男女の仲さらには人々が織りなす世の中そのものを「ながむ」という姿勢が通奏低音のように日記全体を貫き、その上に心の底深いところから沸き起こってくる詩的感興が煌く。手厳しい紫式部の式部に対する批判的な評言の中でも、「口にまかせたることどもに、かならずをかしきひとふしの、目にとまるよみそへはべり」と認めざるを得なかった所以である。かくして、景情一致の歌文融合体が生まれた。
 この冒頭も、十ヶ月ほど前の前年六月十三日に薨去された為尊親王のことを以来繰り返し想い返しつつ、嘆き暮らし、度々放心したかのように、このように「ながめ」てきた式部を容易に想像させる。かくするうちに、ふと気づけばもう初夏、それまでにもすでに外の陽射しが眩しい日も少なくなかったであろう。しかし、式部の眼差しは、陽によって明るく照らされた外光の表面ではなく、その陽の下、輝きを増す樹々の緑にでもなく、それらの明るさと対比的に影を濃くする「木の下」、木陰に惹き寄せられる。あるいは、人が気にも止めないような築地の上の青草を眺める。
 その陰影を濃くする眺めの中に、新しい物語の始まりを予感させるように、亡き宮にお仕えしていた小舎人童が透垣の陰から登場する。この箇所に時刻を示す語句はないが、「この時代の一日の開始は、夕方からである」(新潮古典集成版野村精一校注『和泉式部日記 和泉式部集』「解説」一五六頁)とすれば、そろそろ陽が傾き始めた夕刻とするのが妥当であろう。











景情一致の歌文融合体 ― 『和泉式部日記』の「手習い文」について

2014-11-22 20:50:08 | 読游摘録

 『和泉式部日記』の中の「有明の月の手習い文」と呼ばれる箇所は古来名文として名高いが、暁の空のただならぬ気色の描写がそのまま屈折した震えるような心模様の表現となった、まさに景情一致、有情の世界の文学的表現として傑出している。
 「風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもあはれにおぼゆ」という一文で始まり、その中に四首(地の文に紛れ込んだ歌を含めれば、五首)の和歌が織り込まれた「手習い文」は、歌文融合体とも称すべき、和泉式部の詩魂によって生み出された新しい表現方法である。
 「消えぬべき露のようなわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに」、奥にも入らず、縁に伏していると、目が冴えかえって、眠れない。そんな私の心を知るべくもなく、侍女たちは皆すやすやと寝てしまっている。たった独り、「名残りなううらめしう思ひふしたるほどに」(己の悲しい運命をただひたすら恨めしく思いながら臥せっていると)、雁がかすかに鳴くのが聞こえる。他の人はそうは思わないのだろうけれど、私にはそれが耐えがたく切ない。ただ、このように雁の声を聞くよりはと、妻戸を押し開き、外を眺めると、「大空に、西へかたぶきたる月の影、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空の気色、鐘の音、鳥の音一つに響きあひて」、過ぎにし日々のこと、これからの行く末のことどもが、このようにしみじみと思われることはあるまいと思うと、涙に濡れた自分の袖の雫さえ不思議なほどに珍しいもののように見える。
 この手習い文を帥の宮に届けさせたら、宮からあたかも打てば響くように返書が届く。そこに連ねられた式部の心に感応した想いやり深い歌を読んで、式部は、やはり宮にお贈りしただけのことはあったと喜ぶ。
 しかし、この詩文のやりとりによって両者が憂き世から救済されたわけではない。救済なき暗き世の中にあることの深い孤独が、「手習い文」に表現された「空の気色」を介して、互いにさらに深く自覚されたと見るべきだろう。


儚き恋愛生活の永遠の形象化 ― 岩波文庫版『和泉式部日記』解説について

2014-11-21 21:00:20 | 読游摘録

 岩波文庫版『和泉式部日記』の校注者清水文雄による本文末の解説は、類稀な名解説である。それは、篤実な学者による書誌的解説でもなく、穏健な専門家による中立的な作品紹介に終わるものでもなく、気鋭の研究者による大胆な仮説の披瀝でもない。学問的裏付けを基礎としながら、詩的感性と思想的洞察が随所に煌めく、優れた文学研究でありかつ見事な文芸批評でもある文章である。同文庫の異なった版を何度か買い直し、この解説を折にふれて読み返しているという竹西寛子は、次のようにこの解説を極めて高く評価している。

 和泉式部の生涯にわたって述べながら、折々の作品との関係を考究してゆく文章は、直接の気分を制した静穏にととのって、テキスト分析の説得力に論の公平は保たれている。しかもその静かな文章の底深さに宿る詩情が文章の弾力となっての読後の余情と喚起力は私にとって、解説文としては抜群のものとうつる。

「耳目抄 ⁕ 315」『ユリイカ』2013年12月号、五五頁。

 その通りであると思う。私自身、この解説を読みながら、次々と喚起されてくるイメージとそこに含意されている実存論的とも言えるような問題によって思考が活性化されるという愉悦的でありながら真剣な読書経験を有つことができた。特に、解説末尾の次の一節は、和泉式部の日記執筆動機についての洞察としてとても深いところまで届いていると思う。

 瞬間といえば、この日記には、「今日の間の」「今朝の間に」「今のほど」「今日明日とも知らず」など、刹那を永遠と見なした語が頻出する。これらの語は、ひとしく異常の不安に裏付けされている。そうした不安は、恋によって刹那的にまぎらされてゆくとすれば、恋の相手を得ることが、とりもなおさず、式部の生の自覚を保証するものであった。「くらきよりくらき」に迷う式部は、魂の救いを書写山の性空上人に求めたこともあるが、けっきょくは、「ふねよせん岸のしるべしらずして」、つかのまの夢である恋に身をゆだねるほかなかった。式部の恋の対象がつぎつぎと変わっていったのも、ゆえあることであった。それらの恋人群のなかで、帥の宮にとりわけはげしい恋情を燃やしたとすれば、それは式部にとって、帥の宮が、現世における恋人として理想的な方であったからであろう。宮の死が、式部を絶望におとしいれた理由もここにあった。数々の挽歌が何よりもそれを雄弁に語っている。式部みずからの手によって、帥の宮との恋愛生活に永遠の形象が与えられる時が到来したのである(一三〇-一三一頁)。

 帥の宮と出逢いから式部の南院入りまでという二人の関係の最初の九ヶ月ほどの時間の中でも際立った刹那に永遠の形象を与えようとする式部の創作行為を、文学的創造による「垂直的脱自(extase verticale)」の一つの実践の形として読むことができれば、それは、とりもなおさず、九鬼周造がそのポンティニーでの仏語講演で提起し、晩年の文学論において解こうとした時間論の問題への一つの実践的解答例として検討しうるということを意味している。