内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

集中講義第三日目 ― 難所につぐ難所の登坂路

2019-07-31 23:59:59 | 哲学

 今日は、集中講義の前に国際部のスタッフとの会合があったり、学長から突然ちょっと会いたいから来てほしいと連絡が入り、演習の合間に学長室に面会に行ったり、演習が終わり、後片付けをしていたら、この三月に短期研究者招聘でストラスブールにいらした先生が挨拶に来てくれたりと、計八名の方々にお目にかかり、慌ただしくも、それぞれに面白くお話しできたのは幸いであった。私は、もともと人付き合いのよいほうではないだけに、いささか遅きに失したとはいえ、あれこれ繋がりが拡がるのは悪いことではないと思った。
 演習そのものは、難所につぐ難所で、学生たちもしんどかったと思う。西田とメーヌ・ド・ビランとの比較研究は、博論の五つの章の中でももっとも自信があり、博論製作中も指導教授から最も高く評価された章なのだが、十六年ぶりに読み直してみると、粗も隙も目立ち、学生たちが難儀したのも無理はないと申し訳なく思った。演習後に学生たちが送ってきてくれた感想を読んでも、いまだ腑に落ちないところが記されてあり、明日の演習ではまずそれに応答することから始める。
 四時間半も根を詰めて難解なテキストに向き合うのは、それだけでも楽なことではないから、途中、息抜きとして、ときどき脱線する。そのための話題には事欠かない。そんな雑談の中にふと本題についてヒントが見つかったりもする。
 そんなこんなで、明後日の最終日に向けて、少しずつメインテーマの souffrance の哲学的意味へと、酷暑に負けず、坂道を上りつつある。












集中講義第二日目 ― 演習は愉しい

2019-07-30 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は、集中講義第二日目。
 まず、課題として提出を要求した初日の感想に対する私からの応答。その感想は、二人とも、こちらが嬉しくなるくらい、いいところを掴んでくれていた(センスいいよ、君たち)。だから、当然、私からの応答にも熱が入る。一限目(一時間半)の大半は、それに費やす。というか、学生たちの反応がいいと、こちらもそれに刺激されて、次から次へと言いたいことが出て来る(つまり、感謝すべきなのは私の方だということです)。それは、こちらの考えを一方的に披瀝するというよりも、彼らがこれからそれぞれの問題意識に引きつけて考えていく上で、参考になるだろう(あるいは、そうなってほしい)と思えるアイデアが自ずと浮かんでくると言ったほうがよい。それが単なる独りよがりの押し付けなのか、彼らに本当に受けとめられているのかどうかは、小さな演習室の中のことであるから、即、実感できる。もちろん、初日の後がそうであったように、落胆することもある。でも、先程、彼らから届いた今日の演習に関する感想を読んで、ますます噛み合ってきたことが確認できた。こうなると、半年以上も前に提出しなければならなかったシラバスの内容などどうでもよくなってくる、というのは言い過ぎであるとしても、毎回の演習の現場で起る議論のほうが大切になってくる。
 演習は、だから、愉しい。














暑さに対する耐性の向上か、老化による感覚の鈍化か

2019-07-29 23:47:12 | 雑感

 十年ほど前までは、暑さに弱かった。夏バテするというのではない。ある程度以上気温が上がると、イライラしてきて、ひどく不機嫌になってしまうという意味での弱さである。それは一緒にいる人間を不愉快にするか呆れさせるほどの極端な変化であった。それを指摘されるとますます不機嫌になる。まるで辛抱のできない子どものようであった。それが大の大人でそうなのだから、洒落にもならない。
 それが、いつからか、暑さによってそれほど気持ちが左右されなくなっている自分に気づいた。何が変わったのかよくわからないが、ちょうど十年前に、水泳を規則的に始めたことともしかしたら関係があるかも知れない。
 水泳は小学生のころにスイミングスクールに通っていたから、泳ぎはそのときから得意であったが、中学以降、時々泳ぐことはあっても、年間を通して泳ぎ続けるということはずっとなかった。それが、ちょうど十年前の8月1日から、一念発起して、健康維持のために規則的に水泳を続けるようになり、今月末でちょうど丸十年になる。今回の帰国当日の朝も泳ぎ、それが通算2354回目だった。年間平均240回にはちょっと欠けるが、およそ月平均20回のペースを保っていることになる。そのおかげもあり、この年になってもあまり体力の低下を感じることはなく、体にどこも悪いところはなく、体調も安定している。
 今日、日中、暑い中、買い物に出た。十分も歩くと汗が吹き出してくる。シャツやズボンが汗で体に張り付くのはけっして気持の良いものではない。それは以前と同じだが、暑いとは感じても、気持は変わらないというか、平静のままなのである。そんなこと特別なことではなく、自慢するようなことではもちろんないが、本人としては、少しは精神的に成長したのかなと思う。
 すると、「いや、年取って、暑さに鈍感になっただけだろう」と耳元で意地悪なダイモーンが囁く。













是枝裕和監督書き下ろしの小説化『万引き家族』を読む

2019-07-28 23:57:09 | 雑感

 集中講義は、日・月の二日間を置いて、火曜日が第二日目になる。月曜日にできないのは、私の都合ではなく、希望日時を提出する時点でその日は選択できないようになっていた。その日が前期の通常授業の最終日だからということらしい。結果として、二日続けて休めることになったのはありがたい。時差ボケがまだ残っていて、なんとなく体がまだだるいから。今日は一日、どこにも外出せず、ゆっくりと休息でき、ほぼ体調は万全となった。明日一日、落ち着いて講義の準備ができる。
 今日は、テレビを見たり、ときどき横になったりしながら、今日届いた是枝裕和監督書き下ろしの『万引き家族』(宝島文庫)を一気に読み終えた。映画はすでに映画館で一回、ブルーレイで数回観ているが、この書下ろしを読むことで、映画を観ているときには気づかなかった細部に気づかされ、また観たくなった。映画を観てから、いわゆる小説化(ノベライズ)を読むのも、さらに映画の理解が深まって面白い。











集中講義第一日目 ― 伝えることのむずかしさ

2019-07-27 23:59:59 | 講義の余白から

 学生の出席は三名。昨年まで二年間TAを勤めてくれたIさんが、忙しい中、今日だけということで参加してくれた。多謝。
 イントロダクションとして、自己紹介もかねつつ、かなり自由に話しながら、学生たちの反応を探った。感触として上々、つまりかなりセンスがいい応答が返ってきた。来週火曜日からの第二回目以降が楽しみだなと上機嫌で帰路についた。
 例年通り、その日の感想を四百から六百字で送るよう授業の始めに頼み、終わりにも念をおした。二名は、要求通り、感想を送ってくれた。期待通り、二人とも、それぞれに自分の問題関心に引きつけて、いいところを掴んでいる。
 ところが、もう一人は、詳細は省くが、火曜日以降の欠席を知らせてきた。礼儀正しい文章。ただ、文面から察するに、こちらの意図がよく伝わっていないこともわかり、その点について一言釈明した上で、あとは自分で判断するよう返事した。授業への出席は、権利であって、義務ではない、というのが私の基本的なスタンス。だから、それ以上は言えない。
 今日の演習で自分が話したことに後悔はない。でも、それが相手に伝わるかどうかは別問題。ほんとうに実りあるコミュニケーションは難しいと改めて思う。
 ともあれ、今日の演習でのやりとりは、それはそれで、一期一会。そのことにはただ感謝するのみ。













時差ボケ日記

2019-07-26 23:59:59 | 雑感

 時差ボケの程度は、機内でのコンディションやこちらの体調、時間帯等、さまざまな要因によって 可変的である。今回は、私自身としては中程度か。昨日夕方に到着して、すぐに寛ぐことができ、夕食時にビールや日本酒を飲んで、いい気分で十一時頃に就寝した。ところが、午前一時に目が醒めてしまった。明日からの集中講義で話す内容を少し考え出したら、すっかり覚醒してしまった。そこで、起き上がってしばらく具体的に話の内容を頭の中で細かく組み立て始めた。しかし、これでは時差ボケを長引かせてしまい、肝心の集中講義のときに調子が出ないかも知れないと、一時間ほどで切り上げ、電気を消し、布団の上に横になり、目を閉じた。疲れを感じて、少しうとうとしたが、一時間もしないうちに、また目が覚めた。講義のことを考え続けてしまう。これを三度繰り返したら、本格的な睡魔が襲ってきて、結局八時に起こされるまで寝てしまった。日中も、なんどか睡魔に襲われ、その都度横になって少し寝た。それでも夕食前には頭もすっきりしてきた。夕食後、アルコールのせいでまた眠くなってしまい、安楽椅子に身を沈めていると、しばらくウトウトしてしまった。十一時過ぎになってまた頭が冴えてきた。明日の講義の準備はほぼ完了している。初日は、毎年のことだが、学生たちの反応を見て、それに応じて話の持って行きかたを変えるので、話の種をいくつか仕込んでおけばいい。それで二日目以降の準備を進めていたら、深夜になってしまった。だから、この記事は厳密には26日の記事ではないが、26日のことなのでその日付で投稿する。













ひと月お世話になります

2019-07-25 23:59:59 | 雑感

 往路はいたって順調。機内では、三列席の真ん中でいささか窮屈ではあったが、まあまあよく寝られた。羽田から渋谷まではリムジンバスで移動。そこに迎えに来てくれた妹の車で、夕方、妹夫婦の家に着いた。すぐにシャワーを浴びて、さっぱりしたところで、三人で乾杯。美味しい夕食を食べなら歓談。四匹の猫たちとも挨拶する。昨年から家族に加わった二匹(同時に生まれたのだが、兄妹、それとも姉弟?)がすっかり大きくなっていていた。雌のほうが特にいたずらっこらしい。約一月間お世話になります。












「猛暑のフランスを逃れて ― シャルル・ド・ゴール空港に向かうTGVの中から」

2019-07-24 14:11:20 | 雑感

 この記事はシャルル・ド・ゴール空港行のTGV の中で書いている。昨日からフランスは六月末以来の猛暑の再来で、ストラスブールの本日の予想最高気温は37度である。朝はそれでもまだ20度を少し超えたくらいで、よく晴れた夏空の下、いつものように7時からプールでひと泳ぎしてきた。その後11時半に家を出るまで、しばらく家を空けるときのいつもの「儀式」を行った。家中の掃除である。すべての部屋を隅々まで掃除しただけでなく、ベランダまでデッキブラシで「清めた」。粛々とではなく、汗を流しながら。家を出る頃には気温はすでに30度を超えていた。
 夏の一時帰国のときは、大抵の場合、快適な気候のフランスから猛暑の日本へということになるのだが、今回は逆のようだ。しかし、日本のことである。遅かれ早かれ、猛暑は襲って来るのだろう。昨年などは「災害レベル」という言葉が使われたことを覚えている。
 日本滞在は8月23日まで。翌24日朝に東京を発ち、その日の夜にはストラスブールに戻る。
 明日25日の記事から約一月、日本から記事を発信する。












マルクス・アウレリウス、覆される哲人皇帝像

2019-07-23 18:54:02 | 哲学

 マルクス・アウレリウスという名前を聞けば、古代ローマの五賢帝時代の最後の皇帝で、哲人皇帝と称され、戦陣で執筆された『自省録』は、後期ストア哲学の代表作とされる云々といった辞書的説明がすぐに思い浮かぶ方も多いだろう。日本でも、神谷美恵子訳の岩波文庫版『自省録』は、初版刊行から六十年を超える今も売れ続けているロングセラーである。欧米諸国でも、同様によく読まれており、私の手元にある仏訳だけでも五種類ある。
 ところが、最近の研究によって、ストア哲学を実践する哲人皇帝というイメージが大きく揺らぎつつある。『自省録』がマルクス・アウレリウスの著作ではないという仮説まで出ている。つい最近まで、フランス語圏、あるいはそれを超えて欧米語圏で、マルクス・アウレリウスのイメージの形成に与って力があったのはピエール・アドの研究である。その自己の内面を凝視する孤独な哲人皇帝というイメージを根底から覆す研究が2016年に出版された。Pierre Vesperini の Droiture et mélancolie. Sur les écrits de Marc Aurèle, Verdier がそれである。
 まだ読み終えてはいないのだが、本書が途轍もないインパクトをもっていることは間違いないと思う。ピエール・アドの作り上げたマルクス・アウレリウス像がいかに多くの文献を無視することによって作り上げられたものか、徹底した文献の博捜に裏づけられた論証によって歩一歩明らかにされていく。同時代文献を根拠とする批判を通じて、アドが内的〈個〉としての自己という近代的概念をマルクス・アウレリウスのテキストに読み込むというアナクロニズムを犯していることを批判するその論の運びは、圧倒的な説得力を持っている。
 批判の対象になっているのはアドだけではない。アドの古代研究に影響を受けて「自己の配慮」をその晩年の哲学の中心に置いたミッシェル・フーコーに対する批判もまた容赦ない。
 近代的な自己概念を古代哲学に読み込むというアドのアナクロニズムに対する批判は、別の文脈で、 Vincent Descombes の Le complément de sujet. Enquête sur le fait d’agir de soi-même, Gallimard, 2004 ですでに示されてはいた(p. 265-267)。しかし、ここではその批判が哲学史家としての地道な文献探査の作業を通じて緻密にかつ冷静に実行されている。
 著者は、本書を出版した時点で三十代前半であったと思われる。恐るべき俊才である。












カール・クラウスの「言葉の実習(Sprachlehre)」、あるいは言葉への敬虔さ

2019-07-22 23:17:01 | 哲学

 昨日取り上げた古田徹也の『言葉の魂の哲学』に、カール・クラウスが『炬火』誌上に長年に渡って発表し続けた論考「言葉の実習(Sprachlehre)」についての詳しい説明がある。「言葉の実習」とは、「個々の言葉の微妙なニュアンスの違いを比較や例示などを通して具体的に浮き彫りにしていく」ことである。それは面倒な営みであり、日常生活の中では余計なことのように思われる。それでも敢えてその面倒な実習を引き受けるのは、クラウスによれば、責任の問題である。クラウスにとって、「言葉を選び取る責任」は、「行われるべきこととしては最も重要な責任」である。
 クラウスはなぜそう考えたか。この問いに対する詳細な考察は本書に譲り(ご興味を持たれた方は是非この良書を読まれたし)、昨年刊行されたフランス語で初めてのカール・クラウス伝である Jacques Le Rider, Karl KRAUS. Phare et Brûlot de la modernité viennoise, Éditions du Seuil では「言語の実習」についてどう説明しているか覗いてみよう。

Les leçons de langue et de style de Karl Kraus sont autant de professions de foi. Elles n’ont pas pour objectif la construction d’un système théorique ou la rédaction d’un manuel didactique, et elles ne reposent sur aucun dogme, mais au contraire sur une mise en question de toutes les idées reçues sur la langue. Les leçons de Karl Kraus, maître de langue allemande s’adressant aux germanophones, ont pour intention de mettre en doute les fausses évidences et de rendre ceux qui parlent allemand comme ils respirent capables de s’étonner des mots qui sortent de leur bouche et de leur plume, et d’y réfléchir avant de parler et d’écrire (p. 411-412).

 「言語の実習」とは、言語理論の構築でも教科書作りでもなく、何らかの教義に基づくものでもなく、言語についてのあらゆる既成概念を疑うことである。人々が自明だと思い込んでいることを問い直し、自分たちの口からあるいはペン先から(あるいはキーボードを叩くことで)出て来る言葉に驚き、話す前あるいは書く前に、それらの言葉を吟味することである。
 このような言語に対するどこまでも注意深い態度は、単にクラウスの個人的な嗜好から生まれたものではない。それは深く時代と切り結んでいる。この点、古田書ももちろん詳細に考察している。

Face à la crise morale, autant qu’économique et politique, dans laquelle sont plongés Vienne, l’Autriche et tout le monde allemand, et constatant l’insuffisance des politiques culturelles mises en œuvre, même à « Vienne la rouge », Karl Kraus entreprend non seulement de « réparer » la langue outragée par tous les mésusages que lui infligent ses contemporains, mais aussi de ramener le processus de civilisation dans la voie dont il s’est écarté. Pour Kraus, la culture commence par l’amour et le respect de la langue, par une sorte de piété du bon usage, par le goût des mots, du bien parler et du bien écrire (p. 412).

 1920年代にウィーンが陥っていた道徳的危機、並びに経済的・政治的危機に直面して、クラウスは、そこに見られる誤った言葉遣いの蔓延(常套句の濫用、紋切り型の拡散)を正そうとしたばかりでなく、逸脱した文明をその正道に戻そうと試みた。クラウスにとって、文化は、言語への敬愛、その正しい使い方への敬虔な態度、言葉選び・良い話し方・良い書き方へのセンスから始まるものであった。
 この「言葉の実習」を日本語において私なりに実践していきたいと、上掲二書を読んで強く思った。