主体概念再考のための九番目のテキストは、すでに森田真生氏の『数学する身体』を取り上げたときにも紹介した岡潔の文章である。岡潔の言う「情緒」もまた主客未分の世界の在り様を表現する言葉の一つであり、それゆえに今回演習でも読むことにした。学生たちはおそらく岡潔という名前さえ聞いたことがないかもしれないが、むしろそのほうが先入観なしにテキストと向き合えるから、好都合だとさえ言ってもよい。
情緒については、岡潔のテキストにも言及しつつ、私自身、「情緒論素描」というタイトルで2020年9月21日から10月15日にかけて、何回か単発の別の話題の記事を間に挟みながら連載記事を書いたことがある。それらの記事の中に今回の演習で読みたいテキストはすべて引用してあるのでここには繰り返さない。特に9月24日、9月27日、9月28日の記事の中に引用されているテキストをじっくり読みたい。
主体概念再考のために読む八番目のテキストは「大御所」の文章である(本人はこういう言い方をひどく嫌ったであろうとは思うが)。大森荘蔵の最後の文章「自分と出会う」である。大森荘蔵が生前に公表したこの最後の文章については、拙ブログですでに数回取り上げている。特に2013年12月17日の記事と2014年1月21日の記事を参照されたい。
これまで取り上げてきたテキストとは違い、「主体」という言葉が出てくるわけではない。しかし、心の在り処を問うことで主体概念が根本的に問い直されているから、この文章も取り上げることにした。短い文章だから全文を授業中に読むことができることも選択理由の一つである。
この文章は『大森荘蔵セレクション』(平凡社ライブラリー748、2015年)に収録されている。
主体概念を再考するために演習で取り上げる七番目のテキストは、伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ 2020年)である。本書には2020年11月13日の記事で言及している。本書を演習の主要テキストにしてもよいほどに示唆的で内容豊かな好著だ。今回は、しかし、演習で読む他のテキストと同様、「主体」という言葉が使われている箇所の中で特に注目すべき数カ所に限って取り上げる。
私たちが自分の体にふれるとき、私たちの体は同時にふれられる私でもある。この触覚特有の主体と客体の入れ替え可能性を、伊藤氏は本書で触覚の「対称性」と呼んでいる。さわる主体がさわられる客体にもなりうるこの「対称性」において、触覚は視覚とは異なる独自の特性を持つ。
伊藤氏がいう「対称性」と結びつく地点に、坂部恵が特に注目する触覚の「内部的にはいりこむ」性質がある。坂部はこの二つをまとめて「相互嵌入」と呼ぶ。「ふれることは直ちにふれ合うことに通じる」と言う。この「相互嵌入の契機」、「いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機」が「さわる」にはない、「ふれる」ならではの深みを作り出す。
他の知覚動詞が作用対象を助詞「を」で示すのに対して、「ふれる」対象は助詞「に」によって示される(この点は「さわる」も同じだが)。このように「に」が用いられるのは、「ふれる」が、その他の感覚と違って、主体と客体を明確に分離せず、内部に入っていく感覚だからだと坂部は言う。
ここまで坂部の議論を辿ったあとで、伊藤氏は、坂部の議論はいささか観念的で、本書が「倫理」という言葉でとらえようとしている具体的な内容とはいささか方向性を異にすると、自らの探究独自の方向性を打ち出していく。
以下に引用するのは伊藤氏が本書第4章「コミュニケーション」の中で引用している小倉虫太郎「私は、如何にして〈介助者〉となったか?」(『現代思想』1998年2月号、青土社、190頁)の一節である(145‐146頁)。
「障害者」も「介助者」もどちらもが主体であったり、客体であったりすることはなく、いわば「介助」アレンジメント‐複合体として歩く方向と速度と調子が暫時的に決定されていくのである。そしてさらに、歩いている時に遭遇する障害物、標識や知人、駅の階段を上り下りをする時の通行人への呼びかけ、両者の反応と行為は、非対称的でありつつ連動し、しかも「遅れ」は無視されず、あくまで「遅れ」をめぐって歩き回る車椅子の「介助」アレンジメントは、暫時的に再‐組織化されていく……。車椅子が進む方向を決定する主体は、「障害者」ではありながら、しかし厳密には、「介助者」が介入する余地がまったくないわけではないのである。ここには、単純な主体‐道具といった図式では表現できないいわば奇跡的なアレンジメントが出現しているわけである。
この考察もまた、具体的な経験に即して主体概念を再考することを私たちに促す。主体とは、動的・暫時的なもの、単体として規定しきれないもの、周囲の社会的な環境も含めたアレンジメントの結果として現出するものなのではないのか、と。
主体概念を問い直すためのテキスト第六弾は、西村ユミの『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫 二〇一八年 原本 ゆみる出版 二〇〇一年)である。本書については、二〇二〇年七月二九日から八月六日にかけて九回連続で取り上げている。本書の内容の詳細についてはそれらの記事に譲るとして、今日の記事には特に主体概念に直接言及している箇所を第一章「〈植物状態患者の世界〉への接近」から挙げておく。
このように植物状態患者の、身動きがとれず声を発することができない、あるいは認識できているか分からない状態では、彼らはただ身を曝すよりほかなく、知らず知らずのうちに私たちはこうした患者を突き離し、外側から観察してしまっているのである。というのも、人間は外側から客体として見られる限り、物体としての身体という存在としてある。とりわけ植物状態患者の場合、そのように見られがちになり、他者と関係できないと定義づけられてしまうのである(p. 40)
もっぱら客体として扱われることで主体性を剥奪された生ける身体にどのようにして主体としての尊厳を回復させることができるか、それが本書を貫く実存的な問いである。
患者に対する自然科学的態度として、臨床生理学的方法を採用するにせよ、グラウンデッド・セオリー・アプローチ(生理学的測定法によっては触れることのできなかった物事の意味と、この意味が導き出される社会的な相互作用に注目する理論で、「データ対話型理論」とも訳される)を採用するにせよ、患者の主体性を回復させることはできない。
要するに、これらの方法論および、植物状態患者の定義の背後に潜む問題は、植物状態患者が目に見える次元において何らふるまいも見せないし、言葉も発しないことから、彼らを観察される客体としての立場から連れ出すことができずにいたこと、にあったといえよう。というよりも、見ている私たちの側が、客体としての身体の内に彼らを押し込んでしまっていたのだ。植物状態患者に近づくっためには、よほど注意深く取り組まなければ、彼らをいとも簡単に物的存在へと貶めてしまうことになる。つまり、物事を細部にわたって分析し、その本質を見極めようとする自然科学的思考に慣れた研究活動そのものが、私たちを不断にそのような志向へと導いている。見る主体と見られる客体とが明確に分離されてしまったとき、植物状態患者は他者との交流を閉ざされてしまうのである。この主客分離の二元的枠組みを乗り越えられない限り、彼らとの交流の可能性は見えてこない。(p. 43)
著者にとって、この二元的枠組みの乗り越えを可能にしてくれるのが現象学的アプローチである。とりわけ、メルロ=ポンティの知覚の現象学が科学的な認識以前の「生きられた世界」に立ち帰ること、すなわち「世界を見ることを学び直す」ことへと私たちを導く。
現象学では、知覚された経験を、それ自体として存在するものではなく、「それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること」、として捉える。知覚経験では、関係が第一次的であり、関係の両項である知覚する主体と対象の存在は、関係の成立を前提としているという意味で第二次的なものである。関係によって現象する経験は、つねに解釈によって更新され、新たな「意味」として生成し続けるものと考えられている。(p. 44‐45)
主体と客体の分離の克服、これも重要な課題と考える。おそらくこの視点は、精神と身体、自己と他者等々、こうした二極に分離された世界から、植物状態患者を、さらには私たち自身を救い出すことにつながるであろう。現象学では、見るものと見られるもの、つまり主体と客体という図式によって人間存在を理解しようとしない。現象学が立ち帰ることをめざしている「認識以前の生きられた世界」とは、主体と客体という区別がまだなされていない次元のことをいう。この際、主体・客体のいずれにもなり得る両義的な私たちの〈身体〉こそが、生きられた世界経験の具体的な出発点とされる。〈身体〉は世界とのつながりであり、〈身体〉があるからこそ、世界との対話となるのである。植物状態患者と看護師とのはっきりとは見てとれない関係を開示するには、この視点が非常に重要な意味をもってくるのである。(p. 45‐46)
そもそも自分自身の〈身体〉は、自らの目の前に客体としてあるのに先立って、まずは世界を知覚し経験する媒体、世界が現われるための媒体としてある。例えば自分の右手で他者に触れたとき、私にとってこの右手は、見える対象物、他者の身体を接触する物体として意識される以前に、他者の体のぬくもりが伝わり、その〈身体〉との一体感を得る経験として現われるであろう。このような自分の〈身体〉に立ち帰ることによって、私たちは主体と客体、自己と他者の区別が未分化な次元の存在に気づくことになる。(p. 46‐47)
たいそう長い引用になってしまったが、それは、学生たちと一緒に主体の問題を考えていく上でそれだけ重要なヒントを与えてくれるテキストだと思うからである。授業では、具体的な事例をめぐって彼らと議論し、問題の理解を深めていきたい。
「現代哲学特殊演習」で読む次なるテキストは今西錦司の『生物の世界』である。このテキストについてはすでに2018年8月20日・21日の記事で取り上げており、今それに付け加えることもないので、当該記事のリンクだけを日付のところに貼っておく(拙ブログにすでに何度かお越しいただいている方はご存知のことと思いますが、記事中、青字あるいは青字+下線のところは、その上をクリックすると当該箇所が新しいウインドウで開かれるようになっています)。
今西錦司の次は西田幾多郎の論文「行為的直観」である。それはしかし今西の自然学が西田哲学に触発されたものであるという説を前提としてのことではない。同論文で「主体」と「環境」の関係に与えられた定式を見ておくために過ぎない。目的はあくまで「主体」という言葉が近現代の諸家によってどのように使われているか、ざっと見ておくことにあるからである。例えば以下のニ箇所である。
生命というのは単に種の形成作用というごときものではない。それは主体が環境を、環境が主体を限定し、主体と環境との弁証法的自己同一でなければならない。弁証法的一般者の世界の自己限定として生命というものが考えられるのである。
主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界に於ては、単に与えられたと云うものはない、与えられたものは作られたものである。与えられたものは作られたものであると云うことは、環境というものが主体的に摑まれたものと云うことでなければならない。歴史的に作られたものと云うのは、主体的に、種的に形成せられたものでなければならない。歴史的に形作ると云うことは、種的に形作ることである。併し無論、環境とは単に主体的に摑まれたものではない。
後期西田哲学の術語についての予備知識がないと「さっぱりわからない」箇所だろう。しかし、実はそれほど難しいことを言っているわけではない。
生物個体は、ある種に属する個体として、ある時ある所で、所与の条件下、自己が生きる環境によって規定されつつ、その環境に働きかけ、動的・可塑的な生命世界を形成する要素である。だから、生命世界には単に成立与件として生命に対して「客観的に」外から与えられたものはなく、すべては生命世界の中で作られたものであり、そしてそのかぎりにおいて作るものとして働きうる。この形成過程が歴史である。歴史の形成過程は、しかし、各個体によって直接的に無媒介に担われるのではなく、歴史の具体的構成単位である種に属する個によって現実化される。したがって、主体と環境との関係は、主体が一方的に環境を改変することでもなく、環境が主体を一方的に限定することでもなく、主体は種に属する個として自己の環境に歴史的に限定される限りにおいて、その環境の形成過程にそこで作られたものであるかぎりにおいて参与する。
このような生命世界においては、主体の環境に対する倫理的責任が「論理的に」発生するが、西田自身は形成作用を強調するばかりで、自らの生命哲学に内包されていた環境倫理学における可能性についてはまったく気づいていなかった。と言うよりも、それを主題化しうる歴史的条件がまだ与えられていなかったという言うべきだろう。したがって、この可能性を引き出すのは、地球環境の危機的状況の中を生きつつある私たちの課題である。
〈主体〉再考のために一昨日の記事で取り上げたユクスキュルの『生物から見た世界』からの引用を補完するテキストとして、ユクスキュル最晩年の未完の著作『生命の劇場』(講談社学術文庫 2012年 原本 博品社 1995年)から以下の数カ所も授業で読みたいと思っている。
あなたの説に対する私の理解が間違っていなければ、生物学は動物学とは逆に、個々の主体から出発する道をとるようです。つまり、宇宙から自我へではなく、自我から宇宙へと向かう道です。あなたは、生物のどんな自我も、その感覚器官を用いてそれぞれ独自の世界を作り出していると主張されています。そしてその独自の世界を《環世界》と呼んでおられます。あなたの説によれば、環世界の特色をなしているのは、それが主体にとって意味のある事物しか含まないということです。そこでは、主体に関わりのないものはいっさい無視され、何の役割も果たしません。
環世界と環境世界の区別と関係、前者においてのみ可能な主体の成立がここでの主要な論点である。
動物の主体は、従来私が繰り返し説明してきたように、その当の主体にのみ属している環世界の中に生きていますが、そうした環世界を満たしている事物は、同様に、動物の感覚器官によって外部へと移し入れられた知覚標識から構成されているのです。これでお分かりのように、動物の知覚器官を、たんに《受容器》と言うだけで済ませたり、まして《知覚装置》などと呼ぶのは、もはや私には到底受け入れがたいことです。
ここでのポイントは、知覚器官は単なる受容器ではなく、環世界を形成する能動的な構成作用をもっているということである。主体と主体がそこにおいて働く環世界とは全体として「機能環」を形成する。
つまり、ある動物の環世界の中で何らかの役割を果たしている諸事物の意味は、もっぱらそれらの事物の、媒質、敵、獲物ないしは食物、および性のパートナーとしての関係によって捉えることができ、そしてこの関係をさらに子細に調べていくべきだ、ということですね。そうであれば、同じ石が、ある動物の環世界では障害物であり、別の動物の環世界では通路とされている、といったことを容易に想定していくことができるわけです。また、いまおっしゃったことから言えることは、私たちは主体のこれらの四つの《機能環》のいずれかに受け入れられた事物のみが意味を有していると見なし、そしてそれのみをゲシュタルトとして取り扱わねばならない、ということです。つまりただ生命のみがゲシュタルトを生み出すのであり、したがってまた、生物はゲシュタルトを生み出すゲシュタルトである、と。
「生物はゲシュタルトを生み出すゲシュタルトである」というテーゼは、生物は「環世界」というゲシュタルトを生み出す「主体」というゲシュタルトである、と言い換えることができる。これらゲシュタルトは生物種ごとにある程度の准安定性を維持するが、種ごとに完全に固定的ではない。複数の環世界相互の関係は、調和・共存的でもありうるが、葛藤・闘争・排他性を排除するものでもないからである。そこから主体の動性・可塑性・有限性・解体可能性も出て来る。
一言、宣伝です。本日発売された『現代思想』8月号「特集=哲学のつくり方」に拙稿「日々の哲学のかたち ― 哲学のエクゼルシスの場としてのブログ」を寄稿しました。高名な他の諸先生方の玉稿の「箸休め」としてご笑覧いただければ幸甚です。
『数学する身体』の中で「主体」という言葉が出て来るもう一つの重要な箇所は、岡潔の数学観が主題となっている一節である。岡潔の「絵画」というエッセイからの引用の中に「主体」という言葉が出て来る。ただ、森田氏は岡の本文を少し省略して引用しているので、それを復元して下に掲げる。
数学の本質は禅師と同じであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を現わして来るのである。姿を現わしてしまえばもはや法界の法ではない。
禅師とは、上掲の段落の直前の段落で言及されている禅師のことだが、岡はその禅師の名前を忘れてしまったといって、禅師とその弟子との問答の内容そのものをその段落で紹介している。上の文章も難しいが直前の段落の文章も難しい。
だからよくわかったとはとても言えないが、上掲の文章が言いたいのはおよそ次のようなことではないかと私は思う。
考える主体である私が客体である研究対象に注意を集中していると、客体が次第に思量を満たし、ついには考える主体である私は客体とひとつになり、そのとき主体・客体という区別は無効となり、客体であった対象が対象であることを止めてそれ自体として十全にそこに現成する。
ただ、こう言い換えただけではまだ抽象的で具体性に欠けていてよくわからない。森田氏の読み解きについていこう。
数学においては人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。
「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。芭蕉が「松のことは松に習え」と言い、習うというのは「物に入」ることだと言ったのも、これである。
道元禅師は次のような歌を詠んでいる。
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水
外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説する。
自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかりを教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じた mind が、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのこともわからなくなった。
長い引用となったが、この文章は教室で学生たちとゆっくりと読みながら議論したいと思っている。このような「わかる」経験は誰でもできることなのだろうか。とすれば、それはどのようなときにどのようにしてなのか。とりわけ「わかる」と「理解する」の違いはどこにあるかという問題は私がフランスの大学の授業で毎年必ず取り上げる問題であり、私自身にとってもとても大切な問題である。
森田真生の『数学する身体』に「主体」という言葉が登場する文脈の中からあと二つ重要な箇所を見ておきたい。今日はそのうちの一つ、ユクスキュルの『生物から見た世界』に言及している箇所を見る。
『生物から見た世界』(岩波文庫 2005年)には「主体」という言葉が七十箇所ほど使われており、それらを網羅的に見るには時間が掛かる。今回の目的は「主体」問題を考えるヒントとして参照することがだから、森田氏の本の説明に依拠してユクスキュルにおける主体概念の基礎を押さえておくにとどめる。
『生物から見た世界』第一二章のはじめのほうに、一個のマッチ箱と三本のマッチを使いながら一人で遊んでいる少女の話が出て来る。その少女はお菓子の家やヘンゼルとグレーテルと悪魔の話を一人静かにしていたが、突然こう叫んだ。「悪魔なんかどこかへ連れていっちゃって! こんなこわい顔もう見ていられない」。
ユクスキュルによれば、少なくともこの少女の環世界(Umwelt)には悪魔がありありと現れていたのであり、彼はこれを「魔術的な体験」と呼ぶ。
ここからは森田氏の説明についていこう。
この少女の環世界には明らかに、彼女の想像力が介入している。ダニの比較的単純な環世界とは違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的世界」こそ、人が経験する「風景」である。
人はみな、「風景」の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った「主体にしかアクセスできない」要素が混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。
「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同様に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。
そうして私たちは、いつでも魔術化された世界の中を生きている。いや、絶えず世界を魔術化しながら生きている、と言った方が正確だろうか。(129‐130頁)
この一節で使われている「風景」という言葉は森田氏が導入した言葉で、『生物から見た世界』には出て来ない。この「風景」は単にその都度生成しては消滅していく儚い幻影ではない。この「その場に生成する」ことはフランシスコ・ヴァレラが言うところの「リアリゼーション」と重なりあう。主体の成立の契機をどこで捉えるかという問いに対する答えのヒントがここにある。
8月1日から始まる集中講義「現代哲学特殊演習➁」のタイトルは「主体の考古学」である。2011年に初めてこの演習を担当したときと同じタイトルである。根本問題は同一だが、11年間にこの問題について私の中に蓄積されたデータも相当な量にのぼり、今回はそれらを適宜援用しながら再度同じ問題へのアプローチを試みる。
基本的には古代ギリシアから歴史的順序にしたがって問題を辿り直す。だが、これをまっとうにやったら通年の授業でも数年はかかる。だから、たった5日間(毎日3コマ)のこの演習では、歴史的通覧は要点のみを押さえた駆け足になる。
出発点として、学生たち自身が「主体」という言葉をどのように使っているか、「主観」とどのように区別しているか問うところから演習は始まる。この二つの問いに対する彼らの反応に応じてそれ以降の展開を調整する。
次に、近現代の文章で、哲学以外の分野で「主体」ということばがどう使われているか、その実例をいくつか見ていく。それらの実例に特に決まった順序はないのだが、例えば、森田真生の『数学する身体』(新潮文庫 2018年 原本 新潮社 2015年)の以下の箇所などは「主体とは何か」という問題を考えていく上での一つの手がかりになる。
人間が人工物を設計するときには、あらかじめどこまでがリソースでどこからがノイズかをはっきりと決めるものである。この回路(異なる音程の二つのブザーを聞き分ける回路)の例で言えば、一つ一つの論理ブロックは問題解決のためのリソースだが、電磁的な漏れや磁束はノイズとして、極力除くようにするだろう。だが、それはあくまで設計者の視点である。設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが判然としないまま混じりあう。(38頁)
このテキストから、主体と環境との関係の可変性、主体の可塑性、リソースとノイズの区別の相対性、人工物作成と進化の過程との違い等の問題が引き出される。そこから、主体概念を問い直していく。
今日、日中、人間ドックで検査を受けた。まともな検査を受けるのは実に九年ぶりのことである。九年前は主な検査は胃カメラくらいだったから、本格的な検査は今回が生まれてはじめてのことである。
その間、ずっと健康に過ごしてきたが、さすがにそろそろきちんと検査を受けておこうと思い、今回の検査を受けた。帰国前に妹の旦那さんが人間ドックに特化したクリニックに予約等すべて事前の準備を済ませておいてくれた。
昨日昼以降、食事を抜き、水分補給だけとし、今朝はさすがにジョギングも休み、検査に備えた。検尿・採血・血圧・視力聴力検査など簡単に済む検査から始まり、胸部CT、頭部CT、がん腫瘍マーカー、胃カメラ、大腸カメラという順番。胃カメラ・大腸カメラの前に、腸管洗浄のために約二時間かけて洗浄剤を少しずつ飲む。総検査時間よりもこの時間の方が長かった。この二時間あまりの間、特にその後半、トイレに何度も行くことになる。看護師さんは一〇回くらいと言っていたが、私は一二回行った。お陰で最後はほぼ透明な液体が排泄されるだけになった。
胃カメラを鼻から入れる前に麻酔薬を鼻から注入したので、検査中のことはほとんど覚えていない。大腸カメラが終わったおわりかけたところで看護師さんに声を掛けられて起き上がろうとしたときはまだ麻酔から完全に覚めておらず、診療台から降りるときに少し足元がふらついた。
クリニックに入ったのが一〇時、出たのが一四時半であった。人間ドックに特化した完全予約制のクリニックで待たされることがないから、検査項目の数の割には早く済んだ。検査終了後、院長から説明を受けた。胃カメラと大腸カメラの画像を私に見せながら、胃に若干の炎症が見られるが気にするほどのことではなく、その他にはまったく問題がないとのことであった。すべての検査結果がわかるのは三週間後である。
これで今回の帰国の一つの大きな目的が果たせた。
明日からは、体を徐々に仕事モードに戻し、集中講義の準備と書評の推敲を進める。