内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(24)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ④ 現代はフィリア喪失の時代なのか

2022-06-30 23:59:59 | 哲学

 『ニコマコス倫理学』第八巻の今読んでいる箇所は、アリストテレス自身の考えを述べているわけではなく、当時広く受け入れられていたフィリアについての考え方の紹介です。当時のギリシア人たちがフィリアをどのように考えていたかがわかって興味深いですね。その紹介の後にそれを踏まえた上でアリストテレス自身のフィリア論が展開されていきます。

また、愛は子どもに対する親のなかにも、親に対する子どものなかにも自然に生まれてくるもののように思える。愛は人間のなかにあるばかりでなく、鳥のなかにも大部分の動物のなかにもある。そして、同じ種族の者のあいだではそうである。このことゆえにわれわれは、あらゆる人に愛が及ぶような人を賞賛する。また人は、どこかに度に出かけても、いかなる人間も人間同士「身内」であり、「親しい仲」であることを目にすることができるだろう。

 この一節を読んでわかることは、フィリアは、一方的なものではなく相互的なものだということ、人間についてのみ認められるものではなく、広く動物たちの間にも認められるものであることです。動物界のみならず、宇宙の成立を、互いに似たもの同士が引き付け合うこと、あるいは、相対立するもの同士が一つの全体を構成することから説明しようとする考え方はアリストテレス以前からありました。アリストテレス自身はこのような汎フィリア主義には与せず、フィリアを人が幸福であるためになくてはならぬ徳と考えています。
 アリストテレス自身の考えは後に見るとして、上掲の一節を読むと、現代はフィリア喪失の時代ではないのかと言いたくなりませんか。それは極端にすぎるとしても、コロナ禍に襲われた直近二年間のことは措くとして、現代ほど人の往来が世界規模で自由に迅速にできる時代はかつてなかったのに、現代ほど通信技術が発達し世界中の人々と「つながる」ことが容易な時代はかつてなかったのに、フィリアがそれにともなって増大しているとは言えないでしょう。


日々の哲学のかたち(23)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ③ フィリアの恒常的再生可能性

2022-06-29 18:31:15 | 哲学

 すぐには得心できなくても、どうにも納得できないところがあっても、とにかくまず読んでみましょう。そういう辛抱が必ず報いられるのが古典というものだと私は思っています。古典にこだわっていると、だから、たくさんの本は読めません。それでいいではないですか。そのこと自体が古典の効用の一つではないでしょうか。
 ほんの少しだけ、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第八巻の続きを読みましょうか。

貧困や、ほかのさまざまな不運において、人々は友人だけが自分の避難所となると考えている。また、若者にとって友人は、自分の過ちを防ぐために役立ってくれるし、年老いた者にとっては、世話をしてもらい、衰えのゆえに自分がうまくできずしくじる行為の手助けをしてもらうために必要なのである。そして、壮年期の者にとって友人は、美しい行為をおこなうために必要なのである。「二人がともにあゆめば」ともいうとおりである。なぜなら、二人ならば一人でいるより、考えることも行為することも、いっそうよくできるものだからである。

 結婚式のスピーチでちょっと使ってみたくなるような一節のようにも思えなくありませんね。それはともかく、フィリアは、アガペーでもなくエロスでもなくカリタスでもなく、もっともっと普通にあっていいはずのことなのだということがこの一節からわかります。この一節を読んで、私はこう思いました。私たち現代人は、「神の死」後を生きているとしても、フィリアはいつでも再生可能なのだ、と。なぜなら、フィリアは、何かの到来を待機することなく、私たち自身で今すぐに始めることができるのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(22)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』日本語訳の水準の高さについて

2022-06-28 17:25:31 | 哲学

 私ごときが付けるつまらぬ感想は蛇足以下の代物ですし、優れた日本語訳とそれに付された訳注とを読むほうがいいに決まっているので、明日以降何日か日本語訳を掲載するにとどめ、それを読んでご興味を持たれた方は、続きをご自身でお読みになってください。他の古典を引用したときにも繰り返して申し上げてきましたが、読んで損することは絶対にありません。それだけは保証します。
 私の手元にある二つの日本語訳、岩波文庫版と光文社古典新訳文庫版はいずれも電子書籍版ですが、やはり紙版を手に持って読みたいですね。光文社版の渡辺邦夫氏による「訳者あとがき」には、さらに三つの訳が挙げられています。岩波書店のアリストテレス全集13の加藤信朗訳(1973年)、同じく岩波書店から刊行された新アリストテレス全集の神崎繁訳(2014年)、京都大学学術出版会から2002年に刊行された朴一巧訳です。
 光文社版の「訳者あとがき」から上掲四訳の評言を引いておきましょう。日本におけるアリストテレス研究の長い伝統とその水準の高さがよくわかります。

京都大学学術出版会の朴一巧訳は名手の翻訳で、完成度が高く正確だと感じることが多かったものです。アリストテレスの訳文として匹敵する水準と正確さとを目指しました。

最新の神崎繁訳はわれわれ二人ともに親しい先輩研究者の訳で、長年の研鑽を感じさせる同訳の新アイデアについて、対応する解釈を考え、訳文にも反映させました。

加藤信朗訳は、わたしが大学生であった頃出会って衝撃を受けたものです。耳から入る日本語文の本格的哲学をつくろうという野心的な試みです。わたしも、いつか自分が訳す時には、言葉と心の深層に根ざす実践哲学という、同じ志のもとで訳そうと思いました。本訳が加藤先生の長年の学恩に少しでも報いるものであるなら、望外の喜びです。

最初の日本語訳である高田三郎訳は、正確さと訳注の水準の高さにおいて、その後の邦語研究すべての礎となった、尊敬すべき業績です。高田先生が何回も訳文と訳語を考え直し、そして最終的に決定版としたものが現在の岩波文庫版である、と人づてに聞いたことがあります。アリストテレスの単刀直入な誠実さを、間違いのまったくない、可能な改善をつくした形で日本語にするという作業は、他の多くの難解な哲学書の場合とも異なる、持続的で繊細な努力を必要とします。高田先生が倦むことなく一生を翻訳の改善にささげられたように、われわれも今後努力を重ねたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(21)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ② フィリアがなければだれも生きてゆこうと思えない

2022-06-27 13:13:03 | 哲学

 それでは第八巻「愛について」を読んでいきましょう。光文社古典新訳文庫版では、愛に「フィリア」とルビがふられていますが、それは省略します。
 冒頭で、「愛は徳(アレテー)のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要なもの」であることが愛を論ずる理由として示されています。愛が人生にとってとりわけ必要である理由をアリストテレスは次のように説明しています。

実際のところ、たとえほかの善をすべてもっていたところで、友人がいなければだれも生きてゆこうと思えないものである。なぜなら、富んだ人々にも、支配的地位や権力を保持している人々にも、友人はもっとも必要なものだと思われているからである。実際、友人を相手にするときにこそもっともよく生まれ、そして友人相手のときにこそもっとも賞讃に値するものとなる親切な行いを、この人々が為すことはできないということになったならば、かれらのそのような繁栄は、いったい何のためのものなのだというのだろうか。そうではないとしても、親しい人間がいない場合に繁栄が維持され保全されるということは、ほとんどありえないことである。なぜなら、繁栄が大きければ大きいほど、崩壊の危険もそれだけ増すものだからである。

 この一節を読むかぎり、フィリアとは友情のことだと考えてもよさそうですね。しかし、友人とは親切な行いを為す相手のことですから、いわゆる仲良しという意味での友人には限定されません。自分が持っている徳性、才能、能力、財産、地位、権力などを、相手がもっとも生かされるかたちで用いることがフィリアですから、フィリアの対象は、単に気の合う相手や気心の知れた相手には限定されません。フィリアがないということは、自分のもてるものを生かす相手がいないということですから、確かにそれでは生きている甲斐がありませんね。いくらもてるものが多くても、大きくても、フィリアの対象がなければ「宝の持ち腐れ」に終わってしまいます。それどころか、その宝を宝そのものために維持したり保全したりするのは、それが本来の目的のために生かされないままに保持しようとすることになりますから、その宝が大きければ大きいほど、人から狙われたり、あやまった運用によって失われる危険もそれだけ増大することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(20)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ① 愛の広がり

2022-06-26 13:03:18 | 哲学

 パヴィの『精神的修練としての哲学』第六章は、「他者から学ぶ」ことを主題としていますが、その二つの主軸は共同体と友情です。共同体については昨日の記事で少し触れましたので、今日から何回かにわたって、友情をめぐるテキストを読んでいきましょう。共同体論より友情論のほうが精神的修練にとって重要だからというわけではありません。ただ、私たちにとってより身近な友情という主題に即して精神的修練としての哲学についての理解を深めていきましょうという一つの提案に過ぎません。
 いまいちおう「友情」という言葉を使いましたが、アンソロジーとして集められたテキスト全体の内実を覆うより適切な言葉は、ギリシア語の「フィリア」に相当する意味での「愛」です。現代日本語で一般的に使われている「友情」では意味が狭すぎるのです。
 この章の最初のテキストであるアリストテレスの『ニコマコス倫理学』第八巻(と第九巻)はまさにこのフィリアを主題としています。手元にある五つの仏訳はいずれも « amitié » と訳していますが、このフランス語のほうが確かに日本語の「友情」よりは広い意味をもっています。しかし、ギリシア語のフィリア、というよりも、アリストテレスの定義するフィリアは、もっと広く深く豊かな意味をもっています。全十巻のうち第八巻と第九巻とがフィリア論に割かれていることからもわかるように、フィリアはアリストテレス倫理学の根本概念の一つです。
 アリストテレスの本文読解のための準備作業として、二つの日本語訳に付されたフィリアの語義に関する注を読みましょう。
 まず岩波文庫版(1971年)の訳者高田三郎の注です。第八巻冒頭を「親愛ないし友愛という「愛」(フィリア)」と訳した上で、そこにかなり長い注がついています。

「フィリア」に該当する適切な邦訳語は見あたらない。[…]それは「友愛」と普通訳され、「親愛」とも訳しうるが、いずれも充分とはいいがたい。[…]その的確な意味は、けっきょく、アリストテレスの語るところからこれを読み取ってもらうほかはない。しいていうならば、それはアリストテレスが「フィリア」と呼ぶところの、最もひろい意味での「愛」なのである。つまり、アリストテレスにおいて「愛」とは何であったかという問いに答えるのがこの「フィリア」論なのである。これを逆にいえば、アリストテレスは当時「フィリア」と呼ばれたもの[…]をいわば現象学的に分析し、これによって「フィリア」の本質的なるものの把握に迫るとともにその諸相を体系的に叙述することを試みているのである。

 読み始める前にこちらで勝手にフィリアのイメージを拵え上げずに、虚心坦懐にアリストテレスのテキストをゆっくり読みながら、フィリアのイメージが徐々に形成されるのを辛抱強く待つ必要がありそうですね。
もう一つの訳は光文社古典新訳文庫版(2015・2016年)の渡辺邦夫・立花幸司訳です。訳者たちはフィリアを「愛」と訳し、注でこう言っています。

原語は philia で、友愛、親愛、愛と訳されてきた。中心的 philia は、徳(アレテー)を認めあう対等の友人(philos、複数 philoi)の「友愛」である。しかし「友愛」「友情」は、夫婦愛や家族愛、場合により国中の人々全員に及ぶ「愛」などを表すためには自然な表現ではない。そこで本訳ではこの意味の広がりを重視し、「愛」(まれに「友好」)と訳して、原語を示すルビをつける。恋愛や男女の愛が中心でないことに注意されたい。philos の訳語は「友人」と「親しい人」を併用する。

 今日のところはここまでにして、明日から『ニコマコス倫理学』第八巻を最初から読んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(19)― 他者とともに学ぶ精神的修練としての哲学

2022-06-25 13:41:48 | 哲学

 ピエール・アドの語る exercices spirituels をずっと訳さずに原語表記してきましたが、昨日紹介した『ウィトゲンシュタインと言語の限界』の中でそれに「精神の修練」あるいは「精神的修練」という訳があてられており、おそらくそれは昨年末刊行された『生き方としての哲学』(法政大学出版局)での訳語を踏襲しているのでしょう。ですから、拙ブログでも今後はこのいずれかの訳語を使わせていただくことにします。
 ただ、パヴィの本のタイトルの訳にはまだ問題が残っています。というのは、原タイトルは Exercices spirituels philosophiques ですので、上掲の二つの訳語に「哲学的(philosophique)」という形容詞をさらに付け加えなくてはなりません。ところが、「哲学的精神の修練」としても「哲学的精神的修練」としても、誤解を招く恐れがあります。「哲学的」は「修練」を形容しているからです。一つの解決策として、「精神の哲学的修練」とすることが考えられますが、こうすると、精神を哲学的に修練する、つまり、他の仕方でする精神の修練もあり、それとは異なったものとして哲学的な修練があるのだという印象を与えてしまいます。それはけっしてまったくの間違いだというわけではないのですが、パヴィが本書で強調しているのは、「精神的修練=哲学」という等式であり、この等式が適用できる古今の哲学のテキストのアンソロジーを編むことが本書の目的ですから、哲学的ではない精神の修練は本書ではそもそも論外なのです。
 以上の諸点を考慮して、さしあたりの妥協案として、『精神的修練としての哲学』を本書のタイトルの仮訳としておきます。
 さて、本書の第六章は « Apprendre d’autrui » となっています。「他者から学ぶ」ということです。精神の修練は、ただ独りで行うことも不可能ではありませんが、他者について学ぶ、あるいは他者とともに学ぶことも可能であるばかりでなく、古代ギリシアではさまざまな修練の共同体が各地に形成されていました。この点、近代以降の哲学について私たちが抱いている通常のイメージと大きく異なるわけですが、精神の修練としての哲学は、近代においても、いや現代においても、他者とともに形成する共同体という性格をなんらかの仕方で維持していますし、それを基盤としています。それがむしろ哲学の本来の在り方だったと言っても過言ではありません。
 難解な哲学書を読み、それについて考え議論し、論文を書き、本を出版する、あるいは、大学の教室で哲学の講義をしたり受けたり、演習を指導したり、それに参加したりするのは、本来の哲学の在り方からかなり離れてしまっているのです。もちろん、それらの活動が無意味だとは思いません。高度に専門性の高い問題を扱うためには、哲学研究のための「専門教育」を受けなければなりません。そうしなければ、いわゆるスペシャリストとして認めてもらえません。
 しかし、精神的修練としての哲学は、哲学研究・教育を職業とする人たちだけがそれを実践する資格をもっているわけではありませんし、それらの人たちがちゃんと実践しているともかぎりません。逆に、いわゆるアカデミックな哲学とは「無縁な」暮らしをしている人たちのなかに精神的修練としての哲学を実際に生きている人たちもいます。精神的修練としての哲学は、研究の対象とされた「哲学」とは無縁な人たちによってこそよりよく実践されうる、とさえ言えるのではないかと私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(18)― 不要な独断的判断を自らといっしょに押し流す「下剤」としての哲学言語

2022-06-24 15:55:52 | 哲学

 講談社選書メチエの今月の新刊、ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(合田正人訳・古田徹也解説)の古田の優れた解説を読んでいたら、古代懐疑主義者の一人、セクストス・エンペイリコスの『学者たちへの論駁』からの引用があり、それにとても興味を惹かれたので、備忘録としてここに書き留めておきます。
 真理を主張する一切の判断を保留するよう自他に求める古代懐疑論者たちに対して、自分たち自身の主張は真であると判断しているのではないかという批判が当時からありました。この種の批判に対して、セクストス・エンペイリコスは、自分たちが繰り出す言葉は、ある種の薬のようなものだと応じています。
 「すなわち、薬が効き――つまり、懐疑主義者の言葉を受け入れ――、哲学者が自分の思い上がりや性急さを省みて判断保留への至って、アタラクシア(無動揺、不動心、心の平静)の状態に落ち着くならば、そして、そこで平安を得て満足するならば、自分たちの言葉はそこでまさに用済みになるのであって、それ以上の意義は何もない、というのである。」(古田氏解説)
 そして、セクストスの『学者たちへの論駁』から以下の一節が引用されています。

〔…〕浄化剤〔下剤〕は身体から水分を排出した上で、いっしょに自らをも押し出すのであるが、それと同様にして、証明に反対する議論もまた、あらゆる証明を否認したのちに、いっしょに自らをも無効にすることができる〔…〕。

 


日々の哲学のかたち(17)― 「専門家はみな猫背である」 ニーチェ『愉しい学問』より

2022-06-23 06:57:01 | 哲学

 ESP の第五章 « Apprendre l’usage du corps » から紹介する二つ目のテキストはニーチェの『愉しい学問』(『喜ばしき知恵』)の断章366です。パヴィの本にはこの断章の全文が引用されているのですが、このブログの記事の中に引くには全文はちょっと長すぎるし、もしこの断章に特にご興味をもたれた方がいらっしゃれば、複数の日本語訳が簡単に入手できますし、図書館で借りることも閲覧することもできるわけですから、最初の三分の一ほどを紹介します。それだけでもニーチェの見事な毒舌はかなりよく味わえます。前回同書を引用したときと同様、講談社学術文庫版の森一郎訳です。

一冊の学問書を目の前にして。――われわれは、書物の間に挟まれ書物の刺激に基づいてやっと思想に辿りつく者たちには属していない。――われわれの習慣は、歩きながら、跳びながら、登りながら、踊りながら、野外でのびのび思索することだ。できれば、孤独な山上で、あるいは海岸に面して、つまり道さえもが思慮深くなるような場所が、一番よい。書物や人間や音楽の価値に関して、われわれは真っ先にこう尋ねる。「彼は歩けるのか、いやそれより、踊れるのか」。……われわれはたまにしか読書しないが、だからといって読書が下手というわけではない。――おお、われわれには何と早く分かってしまうことか。ある人が自分の思想にどのように到りついたかを。インク壺の前にじっと坐り、腹部が圧迫されるほどの前傾姿勢で、机の上の紙に頭部を屈みこませて、ではなかったかと。われわれは、その人の本をまた何と素早くこなしてしまうことか。内臓が締めつけられていることは、すぐばれるものだ、賭けてもいい。部屋にこもった空気や、部屋の天井の低さ、部屋の狭さも、同じくすぐばれる。――これが、一冊のきちんとした学問書をちょうど読み終えて閉じたとき、私が感じた複雑な気持ちであった。感謝しながら、とても感謝しながら、他方ではホッとしながら。……学者の書いた書物には、ほとんどつねに、何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。つまり「専門家」が、どことなく顔を覗かせる。当人の熱中ぶり、真面目さ、憤怒、重箱の隅を突くように瑣事にこだわり過ぎること、猫背が。――専門家はみな猫背である。学者の本はつねに、ねじ曲げられた魂も映し出す。

 ここを読んで、ああ学者でなくてよかったなあと私は密かに胸をなでおろしたというのは冗談ですが、直ちに、いや、学者でさえなく、同断章の後半でニーチェが戯画化する「多芸多才な」文筆家でもなく、「無能無芸にして、ただこの一筋につながる」(芭蕉『笈の小文』)風狂の人でもなく、要するに、私って、いったいなんなの、と今更遅すぎるのですが、自問せざるを得ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(16)― 精神(霊)に命令するのは誰か

2022-06-22 07:00:02 | 哲学

 Exercices spirituels を日本語に訳すことを避けてきた理由の一つは、 spirituel に「精神的」あるいは「心的」をあてることによって、この exercices における身体的側面が軽視されかねないからです。もっとも、これは原語自体が孕んでいる問題ですから、訳をどうするかということよりも、spirituel という言葉をどう理解するべきなのかということのほうがより重要な問題だと言ったほうがよいでしょう。
 肉体あるいは身体の魂(âme)あるいは精神(esprit)に対する関係は、一言で言えば、exercices がそれによって実行され、そこにおいて具体的な形をなす場所ということです。両者は、一つの全体をなす互いに不可分な両部分というばかりでなく、相互的に有機的な関係にあり、肉体(身体)なき魂(精神)にも魂(精神)なき肉体(身体)にも exercices spirituels は実行不可能です。
 ESP の第五章は « Apprendre l’usage du corps » と題されていて、生き方としての哲学にとっての身体の使い方がその主題です。この章には古代から現代まで十人の哲学者たちのテキストが集められています。その中から二つ紹介しましょう。今日はモンテーニュの『エセー』第二巻第一七章「うぬぼれについて」の一節を読みましょう。宮下志朗訳と関根秀雄訳(国書刊行会 2014年 ありがたいことに青空文庫で全巻無料で読めます)、そしてモンテーニュ時代の仏語原文です。

肉体は、人間存在の主要かつ重要な部分にほかならない。したがって、肉体がどのような仕組みと構造をしているのかを、しっかりと考慮にいれる必要がある。肉体と精神という、われわれにとって主要な二つの部分を、別々に切り離してしまおうと考える人々はまちがっているのであって、逆に、この両者を連結して、結びつけないといけない。精神に命令して、自分だけ脇にひっこんで、勝手に楽しんでいて、肉体を軽蔑したり、見捨てたりしないようにして――そのようなことは、自己欺瞞の見せかけでしか、できるはずもないのだが――、むしろ、肉体の味方となり、これを抱きしめて、慈しみ、助け、抑制し、助言を与え、立て直し、道を踏み外した場合には、連れ戻さないといけない。要するに、肉体を妻となして、自分はその夫として仕える必要があるのだ。そして、この両者の働きが、ちぐはぐで、対立するのではなく、一致した、一心同体のものになるように努めないといけない。

肉体は我々の存在の大きな部分であって、そこに重要な役割をもっている。それで体の恰好や釣合が重要視されるのは当然である。我々の主要なこれら二つの部分を引離し、霊と肉とを別々にしたがる人々は間違っている。あべこべに両者は結び合わせなければならない。霊魂には片隅に引込んだり・独りぽつねんと構えたり・肉体を無視したり・放棄したり・なぞするように命じないで(それにそんなことをいったって、いくらか猫かぶりでもしないことには、到底それはできっこないのである)、かえって肉体に結びつき、これを抱擁し、これを愛し、これを助け、これを制し、これに勧告し、これが迷いかけたらこれを常道に引き戻すよう、要するにこれと結婚しこれの夫となるように、命じなければならない。そうやって両方の成果がちぐはぐな食いちがったものとならず、調和一致したものとなるようにしむけなければならない。

Le corps a une grand’part à nostre estre, il y tient un grand rang ; ainsin sa structure et composition sont de bien juste consideration. Ceux qui veulent desprendre nos deux pieces principales et les sequestrer l’une de l’autre, ils ont tort. Au rebours, il les faut r’accoupler et rejoindre. Il faut ordonner à l’ame non de se tirer à quartier, de s’entretenir à part, de mespriser et abandonner le corps (aussi ne le sçauroit elle faire que par quelque singerie contrefaicte), mais de se r’allier à luy, de l’embrasser, le cherir, luy assister, le contreroller, le conseiller, le redresser et ramener quand il fourvoye, l’espouser en somme et luy servir de mary ; à ce que leurs effects ne paroissent pas divers et contraires, ains accordans et uniformes.

 肉体(corps)と精神(âme)あるいは霊と肉との関係を婚姻関係になぞらえるのはモンテーニュの独創ではなく、十五世紀のスペインの神学者レーモン・スボンが『自然神学』のなかで繰り返し説いていることです。
 この一節だけを読むと、肉体と精神とはどのような関係であるべきかモンテーニュが考えているかはわかりますが、素人として気になるのは、誰があるいは何が精神に命令するのか、ということです。文脈からして、それは肉体ではありえません。命令するものは精神でも肉体でもない何かでなければならないはずです。それは一体何でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(15)― 走り、書く〈私〉の可塑性

2022-06-21 03:50:30 | 哲学

 昨年四月まで十一年あまり水泳を続けていたことについて、その継続を可能にしていた理由はなんだったのだろうかと今あらためて自問するとき、その一つは、体は心よりも正直だ、と言うことができます。言い換えると、体への働きかけは、いや、もっと単純に言えば、体を動かすことは、それが理にかなった仕方で行われるとき、あれこれ考えて心のなかで気持ちだけを制御しようとすることよりも、はるかに確実な効果を心身に直ぐにもたらす、ということです。
 泳いだ後のあのなんとも快い全身的疲労感は、「今日も泳いでよかった」と毎朝泳ぎ終えた度毎に感じさせてくれたものでした。前日の疲労を引きずりプールに行くのがちょっと億劫になりかけていたときもときどきありましたが、そんな思いを振り切るようにプールに向かい、泳いだ後で後悔したことはただの一度もありませんでした。
 この一年余り、水泳はまったく止めてしまいましたが(ずっと通っていた市営プールの前を今は素通りするだけです)、それに代わってジョギングをほぼ毎日続け、それによる如実な体の変化とそれに伴う心の変化とを経験して、水泳のときとはまた違った、いや、より本質的だと思われる心身の認識を得るに至りました。難しげな言い方になりかけているので、そちらに傾かないように端的に言うと、奇妙な言い方に聞こえるかも知れませんが、私は自分の体に感謝したいのです。
 一昨日の日曜日、二十七キロ走り、走行距離のパーソナルレコードをまた更新しました。昨日の朝、十キロ走ったのですが、前日の疲れがまったく感じられないのです。老化によって神経が鈍化しているだけで、実のところ私の物理的身体はかなり疲労しているのかも知れません。その疑いは完全には払拭できません。しかし、たとえそうであったとしても、実際に走れてしまうのですから、疲労によって身体の機械的機能が低下しているわけではないとは実証できているわけです。
 私にとって、運動を続けることは、身体的能力の維持あるいは向上を主たる目的とはしていません。年齢からして、どう頑張っても、どのみち、遅かれ早かれ、下り坂です。数値的記録は自己観察とモチベーション維持の手段に過ぎません。体型の維持も最終目的ではありません。健康維持もほんとうの最終目的ではありません。
 なんらかの目的のためではなく、ただ端的に、私は走りうるものであることを日毎実証するために私は走っている。こう言うと一番気持ちに合っているようです。
 そう、このブログも、たとえその内容が傍から見ればどれほどつまらないものであるとしても、私は考えることができるものであることの私自身による日々の実証なのです。
 そして、日々走り続けることでその身体の動的な在り方を実証している〈走りうるものである私〉と、日々このブログを書き続けることでその精神の動的な在り方を実証している〈書きうるものである私〉とは、同じひとりの〈私〉であり、その〈私〉が可塑的存在であることを、走り、書くことで、私は実証し続けてきたのであり、これからもそれを続けていきたいと思っています。