内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

第三回目の「ロックダウン」

2021-03-31 23:59:59 | 雑感

 フランスは、昨年三~五月の第一回目、十月から十二月の第二回目に続いて、第三回目のロックダウンに来週月曜日から入ることになってしまった。さしあたり三週間の予定。
 ただ、前二回とは異なっている点も多々あるし、そもそもロックダウンという言葉はあまり適切ではないが、今回の措置を一言で言い表すために便宜的に使っている。まず、午前六時から午後七時までの外出は、時間に関しては制限されないし、許可証を携帯する必要もない。居住地を証明する身分証明書さえ携行していればよい。移動範囲は居住地から半径十キロ以内(日曜必需品の買い物はこの制限を受けない)。県を跨ぐ移動は原則禁止。上掲の時間外は、原則外出禁止で、外出の場合は例外許可証の携行が義務。営業の継続が認められる業種の範囲も前二回に比べて拡大された。
 第二回目と違い、幼稚園から高校まで学校が全面閉鎖される(ただし医療関係者の子供たちは対面授業を継続)。幼稚園と小学校は四月六日から三週間、中高は四週間。しかし、四月には復活祭の二週間の休みがあり、通常はABCの三つのゾーンで一週間ずつ休暇期間がずれているのだが、今年は四月十二日からの二週間に全国的に統一されたので、実質的な学校閉鎖は一二週間にとどまる。
 さて、大学だが、「週一回の対面」が認められている。この言い方は一月の大統領演説でも使われ、大学関係者から「馬鹿げている」と激しく批判された。実際、学生たちを週一回だけキャンパスに来させるのは非現実的な選択である。そこで、ストラスブール大学では、これを「週一日分」と敢えて曖昧に解釈し、キャンパスに同時に来られるのは全学生数の二割までという制限を守りつつ、三月から大半の授業をハイブリッド方式、つまり対面+ストリーミング・録音(あるいはストリーミングか録音のみ)にした。
 今回も同じ表現が使われたということは、大学に関しては現状維持でよいと解釈できる。そうであってほしい。しかし、それでよいかどうか確認するために、今回の大統領演説を受けての大学当局の指針発表を待つ必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


春の水洗い ― 万物再生の息吹

2021-03-30 23:59:59 | 雑感

 一気に春らしい陽気になった。気温は二十度を超え、桜、山吹、木蓮など、一斉に開花し、樹々の新芽も開き始めた。万物再生の息吹を感じる。
 毎年はじめてこのような陽気になった日にベランダの水洗いをする。秋以降は落ち葉の掃き掃除を月に一度するくらいで、白地のタイルが少し埃に覆われたままなのを書斎の窓扉から眼下に眺めては、水洗いしたくなるような陽気を待つ。今日がまさにその水洗い日和であった。
 洗剤を溶かした温水に浸したデッキブラシでタイルを擦って汚れを落とすときの音が心地よい。辺りでは、春の到来が嬉しくてしかたがないかのように鳥たちが囀り続け、それはまるで混声合唱のようだ。
 ブラシで汚れを落とした後は、ひたすらバケツに汲んだ水を流す。排水溝から洗剤の泡が消えるまでこれを繰り返す。始めてから最後の水流しまで、半時間ほどの作業だ。
 乾ききる前のタイルに反射した春の陽射しが眩しい。
 恒例の「春の水洗い」を終え、また博論審査報告書の作成に戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


審査する方が審査される方より能力的に明らかに劣っているという情けなさを身に沁みて感じる

2021-03-29 22:36:09 | 哲学

 一日十時間も哲学の博士論文を読んでいると、いくらそれが自分の専門分野であるとはいえ、やはりうんざりしてくる。でも、誰も責められない。審査の依頼を「喜んで」引き受けたのは、ほかならぬ私自身なのだから。内容的にきわめて高度かつ優れた研究であることは確かだ。これまでフランス語でなされた日本哲学研究の中で最高峰に位置すると言い切っていいだろう。しかし、まさにそうであるからこそ、審査する方が審査される方より研究者として劣っていると言わなくてはならない。私の能力を完全に超えている部分が、少なく見積もっても、全体の三分の二以上を占めている。審査当日は、評言というよりも称賛を捧げることしか私にはできないだろう。とはいえ、質問がないわけではない。だが、つまらない質問をするのは、この論文に十年以上をかけたであろう著者に対して誠に失礼である。愚問に時間をかけるのは誰のためにもならない。明日からの三日間は、せいぜい恥ずかしくはない質問を準備することに充てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナ禍によるサマータイム廃止の延期

2021-03-28 23:59:59 | 雑感

 一九七六年に欧州連合加盟国で三月の最終日曜日に夏時間に切り替わるようになってから今年で四十六年目、今年がその最後になるはずであった。ところが、こんなところにもコロナ禍の影響があって、少なくとも来年は維持されることになった。なぜかというと、昨年のコロナ禍以来、夏・冬時間の切り替え廃止に伴う各国の調整が中断し、廃止に向けての準備ができていないからである。十数年前から、毎年夏時間に切り替わる前後に、廃止論が取り沙汰されてきたが、そのたびに様々な理由で実現には至らなかった。その大きな理由の一つが経済的なマイナス効果である。ヨーロッパ諸国間の取引・流通・移動を円滑に行うために中央ヨーロッパ時間に統一されていたわけだが、サマータイムを廃止するならするで、さまざまなシステム変更を必要とし、しかも足並みを揃えないと混乱を来してしまう。ところが、サマータイム廃止後に夏時間を維持するか冬時間するかで関係諸国がまだ合意に達していない。コロナ禍でそれどころではなかったというわけである。ちなみにフランス人の六割近くが夏時間維持を支持している。私もどちらかというと夏時間派であるが、どっちでもいいから早く終わりにしてくれというのが正直な気持ちである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


朝の水泳の前のウォーキング

2021-03-27 20:22:58 | 雑感

 今週木曜日から、朝七時からの水泳の前にウォーキングを取り入れることにした。最寄りのプールに徒歩で直行すると五分ほどで着いてしまう。これだと一日一万歩の目標に到達するためには、泳いだ後に一時間ほど歩かないといけない。しかし、朝できるだけ早く仕事に取り掛かりたい。そのためにはその水泳後の一時間がちょっともったいない。そこで、水泳の前に歩くことにしたのだ。まだ二回試みただけだが、とても調子がいい。ウォーキングが水泳前のちょうどいいウォーミングアップになっていて、泳ぐピッチを最初からトップレベルに上げることができる。結果として、より少ない時間でカロリー消費量を上げることができるようになった。来週金曜日まで自宅でほぼ缶詰状態が続くので、このリズムを維持する。多分、その後も続けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


開店休業のお知らせ

2021-03-26 23:59:59 | 雑感

 来週の授業はすべて休講にした。理由はひとつである。来週金曜日の博士論文の審査レポートに一週間全神経を集中するためである。LES LOGIQUES ABSURDES. Essai sur les logiques non-aristotéliciennes(不条理な諸論理 ― 非アリストテレス的論理試論)と題されたこの論文は、六四〇頁の大作であり、古代から中世を経て現代に至るまでの西洋哲学の論理を縦横に論じ、それらの間に新たな連関を付けるばかりでなく、龍樹の中論も出てくるし、京都学派の西田・田辺・西谷・山内には総計百数十頁が割かれている。京都学派とも関連の深い数学者末綱如一も登場し、その論文の一部の仏訳が補遺として収録されている。まことに大河ドラマのような大論文なのである。京都学派を直接の対象とする第三部には、私の論文も十数箇所引用されている。その部分の評価を担当するのが審査員ととしての私のミッションである。はっきり言って、授業の準備などしてる暇はないのである。緊急性のない雑用もすべて来週金曜日以降に処理する。
 今日の授業では、休講に関しての「説明責任」を果たすべく、学生たちに「まことに私の時間配分のミスであり、そのことで君たちに迷惑をかけてしまうことを恥ずかしく思う」と説明した。心優しい学生たちは理解を示してくれ、「先生、頑張ってください」と激励の言葉をくれたり、「明日からお邪魔しないために、今日中に質問します」と気を使ってくれたりした。もちろん、補講はするが、それは五月に入ってからである。
 というわけで、明日から来週金曜日まで、このブログは開店休業状態になります。生きているサインという意味もこのブログにはあるので、毎日投稿は継続しますが、せいぜい数行の他愛もない話か、審査対象の論文の話に限定されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


共同の「記憶の仕事の場所」としての資料館

2021-03-25 19:01:53 | 講義の余白から

 昨日面談した修士二年の学生は、昨年の八月末までの一年間、学習院大学に留学していた。留学前の修士一年ときに彼女が選んだ研究テーマは、「神風特攻隊の心理と記憶と記録」という、まだかなり漠然としたものであった。それを研究テーマとしてどれだけ絞れるかが留学中の彼女の課題であった。留学の後半は、コロナ禍の渦中であったが、可能なかぎり特攻隊の記憶と記録が残っている場所を訪ね歩き、図書館で資料収集に努めた。その中で、自分はいったい何に特に関心があるのか、しだいにはっきりとしてきた。
 しかし、昨年末に提出された素案には関心事項が詰め込まれているだけで、論文のテーマとしてはまだ絞りきれていなかった。昨日の面談は、何を本当にテーマにするのか絞り込むことが目的だったが、本人もまだどちらに踏み出せばよいのかわからない状態から始まったので、問答にえらく時間がかかった。一時間半を過ぎたところでようやくメインテーマとすべき主題が見えてきた。
 それは、一言で言えば、「記憶の場所 lieu de mémoire」ということになるだろう。歴史的事実の記録と保存は、その多くを文字史料に負っている。もちろん、それだけでなく、音声、画像、図像、動画等の史料も歴史的事実の記述には重要な役割を果たす。しかし、それらの歴史的事実は「どこ」にどのように保存されるのか。その保存は何のためなのか。誰のためなのか。もし事実が記録として何らかの媒体によって保存されるだけに終わるのならば、それにどれだけの意味があるのか。記録は記憶されてはじめて意味を持つのではないか。その記憶とは、しかし、ただ事実を機械によって「再生」することとは違う。データとして保存されているメモリーそのもののことでもない。記憶とは、過去の事実を今も忘れずにいることであり、それは現在の私たちの意志的行為なのだ。そして、その記憶はその「場所」を必要とする。その場所とは、しかし、個々人の脳内のことではない。いわゆる思い出の場所でもない。歴史的事実が起こった地理的場所は、確かに記憶と切り離せない場所だ。しかし、その場所が記憶してくれるわけではない。「記憶の仕事 travail de mémoire」を具体的に形にした「資料館」こそ、その場所の一つなのだ。この場所は、もちろん単なる物理的な箱物のことではない。記録を生きている記憶として保存し続ける共同の意志の場所なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナ禍における「プラグマティック」な修論指導

2021-03-24 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日今日と、修士二年の学生二人に対して修論指導のためのZOOMでの個別面談を行った。二人とも提出物の締め切りをきちんと守る真面目な学生だが、これから今年末までに修論を仕上げるためには、それぞれに乗り越えていかなくてはならない階梯がまだいくつもあり、それらを本人たちに明確に自覚させることが今回の面談の主な目的であった。
 江戸時代の対馬藩の朝鮮との外交史をテーマにしている学生は、今年度九州大学に留学し、このテーマについて同大学の大学院で一年間指導を受ける予定であった。ところが、今年度の留学はコロナ禍でキャンセルになり、来年度、つまり今年の九月からの留学にアプライしているが、まだ先方からの返事がなく、もしかすると留学を諦めざるを得ないかも知れない。
 誰も望んではいないそのキャンセルの場合を想定して、修論の構成を大幅に変えることを彼女に提案した。フランスにいても資料的に困らない部分を大幅に増やし、日本でしか閲覧できない文献・資料の参照がどうしても必要な部分を可能なかぎり縮小するというプランである。
 江戸時代の外交史は、フランスではまだ本格的な研究が乏しく、対馬藩についてのモノグラフィーはまだない。だからこそ、彼女にこのテーマを提案した。本人も大いにこのテーマに関心を示し、フランスにいながらにしてはかなりよく資料を収集し、昨年中の困難な状況の中でよくやっていると思う。
 しかし、個別的な事実関係に関する研究は、やはり日本に行かないことには難しい。そこで、対馬藩と朝鮮との関係史をより大きな歴史的文脈に位置づける考察に重点を置くことにしたのである。本人は歴史研究の専門家を目指すつもりはない。日本学科修士課程を終了したら、翻訳家養成の修士課程に進むつもりでいる。こちらの要求水準もそれを考慮したものになる。
 彼女の場合のように、学業は修士までで終え、職業生活を目指す学生が多数を占める傾向はすでに数年前からはっきりと見られる。それでなくても、研究者を目指して博士課程に進む学生はそれ以前からごく少数だ。だから、修士のカリキュラムの内容もそれに合わせて改定すべきだと私は思っている。しかし、それには乗り越えなくてはならない問題がいくつもあり、そう簡単には実現しそうにない。これもまた私の定年後の話であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小さな宝石箱を開いてみるとき

2021-03-23 23:59:59 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」の授業で、学生たちと柳父章の『翻訳語成立事情』を読みながら、明治期に生まれた新しい翻訳語とともに新しい価値観が日本に導入されていく過程をできるだけ生き生きと再現しようと試みている。この試みは、一方では、日本固有の近代化のプロセスを学生たちに理解させることを目的としているが、他方では、フランスの教育制度の中で価値観を形成してきた学生たちに社会思想の基本的な概念を問い直すことを求めることでもある。「社会」「個人」「自由」など、今日の私たちが自明視している基礎概念が欧米においていかに形成されてきたか、今日、グローバリゼーション、ポピュリズムの台頭、AIによる技術革命、地球規模の環境危機などとの関係において、そして現在のパンデミックの渦中で、それらの基礎概念について私たちがいかに再考を迫られているか、と彼らに問うことでもあり、それ以前に、私自身が自らに問うことでもある。
 『翻訳語成立事情』の「個人」の章に、柳父が「カセット効果」と名づけた日本語における漢字の効果の指摘がある。これは今でもとても示唆的だ。

カセット cassette とは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。「社会」も「個人」も、かつてこの「カセット効果」をもつことばであっったし、程度の差こそあれ、今日の私たちにとってもそうだ、と私は考えている。

 この本が出版されたのは1982年でもう四十年近く前のことだ。私たちはもはや「社会」にも「個人」にも特別な魅力は感じないかも知れない。しかし、漢字がもつカセット効果は今もなお機能している。一方、それに取って代わるように、カタカナ言葉が氾濫するようになって久しい。漢字のような重々しさがない代わりに、プラスチックあるいは新素材でできたもっと手軽な「カセット」がやたらと出回っている。「社会」や「個人」は、その登場から百数十年を経て、カセットの中味もいくらかは充実させられてきたと言えるかも知れない。それに対して、プラスチック製のカセットは中味もまた軽い。いやそもそも中味などないのかも知れない。そして、瞬く間に消費される。あるいは賞味期限が切れて廃棄処分される。
 「社会」「個人」「近代」「存在」「自然」「権利」「自由」― これらのカセットの蓋を開けてみよう。そして、これらの言葉の価値を今の私たちの世界の問題として吟味してみよう。そういう授業を私はしたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ただ自分が傷つきたくないだけの卑怯な諦観に浸潤されて沈降する見た目穏やかな私という虚偽

2021-03-22 21:08:28 | 雑感

 何かこれといって特にはっきりとしたきっかけがあったわけではありませんが、今日、明日の授業の準備や遠隔面接など、大学教員としての職務を粛々とこなしながら、以下のようなしょうもないことをぼんやりと思った次第であります。
 フランスは、私のようなどこの馬とも知れぬ異国の木偶の坊に大学のポストを与えてくれた「寛容」この上ない共和国であります。そのことには心から感謝しております。だから、自らの無能を自覚しつつ、せめてもの恩返しとして、無能は無能なりに、日々の授業の準備は手を抜かず、入念にしております。やたらに時間ばかりかかって、その成果たるや、「トホホ」の一語に尽きるのでありますが。その他の仕事も、他の人に迷惑が掛からない程度にはきちんとこなしています。
 でも、誰に強いられたわけでもなく、正直に言わなくてはなりません。かれこれ二十五年近くこの麗しき「人権の祖国」に住まわせていただきながら、私は特にこの国が好きなわけではありません。こんなことを言うと、「恩知らず! 今すぐ出ていけ!」と石礫を投げつけられるかも知れません。でも、後生ですから、それはしないでください。あるいは、敢えて言いましょうか、「汝らのうち、罪なきものまず石もて打て!」と。
 悲しいかな、私は誰も何も本当には愛せない人間なのだと思います。だから、何に対しても激高することはないし、立ち直れないほど悲嘆にくれることもありません。「ああ、そうだよね。こうなのだよね。そういうものなのだよね」と、あっさりと事態を受け入れ、何事もなかったかのように日々を見かけ上淡々と生きているに過ぎません。
 ただ自分が深く傷つきたくないだけのこのように卑怯な諦観って、隠そうとしても、わかる人にはわかってしまうのですよね。こんな人間と誰も積極的には付き合いたくないでしょう。私も嫌いですよ、こんな奴。