内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

熊本地震について

2016-04-18 08:55:51 | 番外編

 14日からずっと熊本地震のことが頭から離れず、ネットでずっと状況を追っていますが、その被害の甚大さと避難生活の困難とが明らかになるにつれ、とても心を痛めています。最初の地震(後に「前震」と見なされた)の数時間後、震源地の隣町に住む友人にメールで安否を尋ね、幸い家族全員無事、物損も最小限との返事をすぐにもらって安堵していたら、その後に本震が襲ったとの報道。それ以後、無事を祈りつつも、逆に余計な気遣いをさせたり手間を取らせてはと、連絡を控えています。

 犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、不自由な避難生活を余儀なくされている方々に迅速・適切な救援措置が取られることと今後への不安を和らげるような見通しが一日も早く立つことを心から願っています。


2015年11月13日金曜日のパリ無差別テロについて ― 狂信のメカニズム

2015-11-14 18:53:13 | 番外編

 昨晩というか、たまたま深夜にのこのこ起きだして、ネットでニュースのページを開いて、驚愕、呆然とした。最初は、何か質の悪い冗談かと思ったくらいである。しかし、各紙のサイトを数時間に渡って見続けていると、犠牲者の数がどんどん増えていく。1月7日のシャルリ―・エブド襲撃も大きな衝撃であったが、今回の犠牲者は、一桁多い(ヨーロッパ中央時間現在時午後六時の時点で、死者128人)。負傷者の中には深刻な状態の人たちもいるようだから、まだ犠牲者の数は増えるかもしれない。
 すべての犠牲者の方たちに心からの哀悼の意をここに表する。それら犠牲者の方々のご家族・親しい方たちにはお悔やみの言葉さえ見つからない。
 精確なところはまだよくわからないが、フランス大統領は、ISの犯行と断定した。実行犯たちは、国内外の共謀者たちの協力を得ながら、周到に準備計画した上で同時多発テロを実行したとのことである。
 シャルリ―・エブド襲撃との違いは、今回は、完全な無差別テロだということである。その点で、衝撃度は、2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロに匹敵する。街中のカンボジア料理店がターゲットになった理由はよくわからないが、多数の観客が観戦し、フランス大統領も観戦中のサッカーの独仏親善試合の最中に自爆テロを実行しているのは、とても偶然のはずはなかろう。アメリカのヘビーメタルバンドのコンサート会場が襲撃対象となったのも、狭い場所に多数の人が詰めかけ、身動きが取りにくく避難しにくい場所というのがその選択の少なくとも一つの大きな理由であろう。犯人の一人は、舞台上に上がって、客席に向かって自動小銃を乱射し、床に身を伏せた人たちにさえ、情け容赦なく銃弾を浴びせたという。
 明らかに、無差別的にできるだけ多くの犠牲者を出すことそのことが今回のテロの目的の一つであったと考えられる。犠牲者の中には、犯人たちの同郷人だっているかもしれないのである。何が犯人たちをこのような未曾有の犯行に駆り立てたのか。
 犯人たちは、「アッラーフ・アクバル」(アラビア語で「神は偉大なり」)と叫びながら、テロを実行したとの証言がある。本来のイスラム教信仰からは完全に逸脱しているどころか、そう叫んで犯行に及ぶことで、イスラム教そのものを否定している、このような狂信のメカニズムが機能し続ける限り、テロはなくならないだろう。日本についても、過去、そのような狂信のメカニズムはなかった、とは、誰も言えないだろう。
 すべての先進諸国はフランスとの連帯を表明し、アメリカを中心としてこれまで以上に徹底したテロリスト殲滅作戦を展開することであろうが、いくら空爆を繰り返してもテロはなくならないだろう。仮に現在生存するすべてのテロリストの抹殺に成功したとしても、狂信のメカニズムとその「潤滑油」となっている他なるものへの憎悪が人間の心に残っているかぎり、またどこかでテロは起るだろう。
 国際都市「花の都」パリというヨーロッパ社会の中心の一つが、その周縁に押しやられた人たちの心に深く巣食った憎悪をさらに駆り立てる増幅装置を操る組織によって襲撃されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 


提携大学ゲストハウスからの最後の記事

2014-07-26 01:11:00 | 番外編

 先ほど投稿した二六日付の記事が滞在中の提携大学ゲストハウスからの最後の記事になる。今日二六日土曜日朝一番の関空発羽田行きで東京に戻る。
 昨日金曜日夕刻からの日本語研修プログラム参加学生たちの送別パーティーへの出席が、現在の勤務大学の教師として私が自分に課した最後の「勤め」だった。今年で六回目だったこの三週間の研修も無事終了、参加学生十二名は、皆本当に最初から最後まで楽しむことができたようだ。毎年のことだが、別れを惜しみ、泣きじゃくる女子学生も少なくない。今年は、もう数日前から「フランスに帰りたくない」と泣き始めた子がいたほどであった。そんな彼女たち同士がお互いを慰めるように二人三人で抱き合ったり、友だちになった受け入れ大学の学生たちとも男女ともに抱き合ったりしているのがこの送別パーティーでは例年あちこちに見られる。
 三週間、学生たちを喜んで受け入れて下さり、細やかな配慮と巧まざるユーモアとともに彼らと生活を共にしてくださったホスト・ファミリーの方々には、本当に心から感謝している。受け入れ大学のスタッフの献身的なサポートにはいつも頭が下がる。参加学生たちとの楽しい時間をたくさん作ってくれる同大学の学生さんたちとは、毎年このプログラムがきっかけで多くの友情が生まれ、それが大学を終えた後も続いていく。同じプログラムには、台湾と韓国からもちょうどフランス人学生と同数の学生さんたちが参加していて、彼らの方が日本語は遥かによくできるから、日本語のクラスは別々だったが、文化体験等のプログラムは一緒なので、皆すぐに仲良くなり、フランス人学生たちがたどたどしい日本語で彼らと楽しそうに会話しているのは、いつ見ても微笑ましい。
 送別会も終わりかけた頃、十二名のフランス人学生たちが私の所に来て、これまでの私の講義とこのプログラムのフランスでの準備作業についての感謝と別れの言葉を送ってくれた。私からは、「この三週間は、君たちにとって日本人との付き合いの始まり、ここで出会った日本人、そして台湾、韓国の学生たちとの友情を大切に育てていってほしい。それこそがこのプログラムの本当の目的なのだから」と応えて、会場を後にした。
 日も落ち、気温もいくらか下がった夜空の下、二〇〇九年に自分が立ち上げた企画にこうして一区切りをつけ、後任にいい形で手渡すことができることに満足感を覚えながら、ゲストハウスの自室へと戻った。明朝は五時にゲストハウスを出る。荷造りももう済んだ。
 午前十時前には実家に着くだろう。来週火曜日から始まる五日間の集中講義の準備に直ちに集中しよう。










「ストラスブールからの最初の記事」

2014-07-18 00:55:42 | 番外編

 六月四日の記事でも触れたことだが、いつも日本時間で午前零時に投稿することを習慣としているので、日本とは七時間の時差(夏時間の間)があるフランスでは、日本のその時刻は前日の午後五時である。だから、今日の連載記事も日付上は十八日になっているけれど、実際に書いていたのは前日十七日の午後五時少し前のことであった。
 その十七日に実際は書いた連載記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)」は、私にとって、記念すべきストラスブールで書く第一号記事となった。今日(十七日)の昼過ぎにストラスブールの新しいアパートへの引越し荷物の搬入が済み、今、まだ本がぎっしり詰まった段ボール箱が山積みにされた書斎の中にようやく机を置くだけのスペースを確保して、そこでこの記事も書いている。二十一日には日本に発つので、この数日間は荷物整理、特に本の整理に追われるだけで終わってしまいそうである。
 引っ越しのときに一番うんざりするのが、本の詰まった段ボールの数とその重さである。引っ越し業者には荷物の搬出・搬入だけを頼んだので、箱詰めは自分の作業。ここ一週間あまりはその作業に忙しかった。日本にいる時から自分の引っ越しばかりでなく、友人の引っ越しを手伝った経験がかなりあるので、荷造りは得意な方であるが、それにしても、詰めても詰めてもまだこんなに残っているのかと、本棚の本を眺めては、何度も溜息をつきながらの作業であった。それに、段ボール箱の数が増えるにしたがって、それでなくても狭いパリのアパートの居住空間がますます狭くなり、引っ越し前日など、山積みされた段ボール箱の谷間に寝ていたようなものである。
 十七日付の記事は、だから、パリのアパートから投稿した最後の記事になった。それにも感慨を覚えないわけにはいかなかった。荷物が全部搬出された後の空っぽのアパートに一人残り、八年間暮らしたそのアパートでの最後の夜を、荷造りの後の重い疲労を感じながら、ワイン片手に過ごした。この八年間のあれこれの出来事を思い出しては、もうここに戻って来ることは二度とないのだと、いささか感傷的にもなったが、明日からはいよいよ自分の人生の新たなステージが始まるのだという新鮮な思いがそれに取ってかわるのにさほど時間はかからなかった。
 今度のアパートは、居住面積だけでもパリのアパートのほぼ二倍、それにそこで十分三四人で食事ができるほどの広さのベランダ、地下の物置、さらにはシャッター付き地下個別ガレージもすべて込みで、家賃はパリのアパートより二五%も安い。周りは溢れんばかりの緑に囲まれていて、書斎の正面には樹々が生い茂り、その木の間から日中柔らかな陽射しが差し込む。アパートの敷地を囲む蒼々と茂るポプラと糸杉の巨木が風に吹かれて葉を翻す音が聞こえてくる。大学までも徒歩と路面電車一本を合わせて三十分ほど。それに、このアパートを借りる決め手の一つにもなったのだが、新装オープンしてまだ二年ほどの市営プールまで徒歩五分なのである。買い物にちょっと不便なのが難点だが、商店街までの道も緑に恵まれた閑静な住宅街なので、散歩がてら買い物にでも行こうかという気分にもなる。
 現在連載中の記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学」は、七月三十一日をもって終了予定。そのときは東京の大学で集中講義の最中ということになる。八月十七日にフランスに戻る。すぐにはストラスブールに戻らず、翌日パリに到着する娘のアパート入居を二三日手伝ってから戻る。
 娘は来年の五月末までパリ政治学院で勉強する。先日DALFのC2に合格したと連絡があったから、学業の方の準備は順調のようだが、アパート探しに関してはちょっと私に頼りがちだったので、一昨日少しきつい調子のメールを送ったら、返事が来ない。手数料や前金など支払いは私がこっちで代行したよう結果になり、留学生のくせに少し甘ったれているんじゃないかと言っただけなのだが。もちろんこれは立て替えただけで、後で返してもらうことになっている。











再びストラスブールに呼ばれて

2014-06-04 14:17:58 | 番外編

 日本時間でちょうど午前零時にブログ記事を投稿することを習慣としているが、ときどきその時間帯にインターネットへのアクセスがなく、それができないことがある。昨日がそうだった。日本時間の午前零時は、中央ヨーロッパ時間では、夏時間の期間、前日の午後五時。昨日、その時間、変わりやすい空模様の下、いささか重たい暑さの中、ストラスブールの街をアパート探しのために歩き回っていた。三月三日から連載が続いている「生成する生命の哲学」の記事とは別に、いわば番外編として、なぜストラスブールで家探しをしていたかについて、この記事を書く。
 五月六日に事実上はすでに決まっていたことなのだが、昨日六月三日、ストラスブール大学への転任が同大評議委員会によって正式に承認された。三年間望み続けたことだった。ようやくそれが叶った。学科のスタッフとはすでに何度か一緒に仕事をしており、先方も望んでいた人事であった。これからは自分の本当に教えたいことを大学院レベルの講義で教えることができる。
 ストラスブールについては、すでに何度かこのブログの記事でも触れたことがあるが(こちらこちら)、十八年前に博士課程留学生として初めての海外生活を始めたのがストラスブールだった。それまでは海外旅行の経験すらなかった。しかも家内と二歳半の娘と一緒だったので、最初は本当に何をするにも大変で、毎日右往左往、少しも先が見えない日々だった。ちょっとしたことでひどく落ち込みもし、精神的に不安定になったことさえあった。それからいろいろなことがあった。だがそれについては今日の記事では書かない。
 自分がそこで学び、類稀な師に出会い、教師としてのスタートを切ることを可能にしてくれたストラスブール大学に、こうして専任教員として「帰る」ことができることを心から有難いこと幸いなことと今しみじみ感じている。あえて日本人的感覚で言えば、ストラスブール大学への恩返しのために、これから定年まで、甚だ微力ながら、全力を尽くす所存である。それが自分の「召命」なのだと思う。
 こちらの現地校での小学校教育修了と同時に母親と一緒に帰国した娘が、今年二十歳になり、この夏から一年間、パリ政治学院の留学生としてパリに暮らす。子供の頃に九年間住んだフランスへの留学は、本人もかねてから望んでいたことであった。これが生まれて初めての一人暮らし。いい経験になるだろう。パリ-ストラスブール間はTGV で二時間十五分程、何か問題が発生すれば、助けに来ることも難しくない距離。ノエルの季節にはストラスブールに遊びに来るつもりだと娘は言っている。
 娘と入れ違いに、私はパリを去る。もうパリに住むことはないだろう。パリにもう大した未練も残っていないのだが、ただ、イナルコの「同時代思想」の講義が担当できなくなることだけは残念に思っていた。イナルコの日本学部長は、ストラスブール大のポストの外部審査員の一人だったので、私の任命は既にご存知だったわけだが、改めて直接メールをさし上げて、「同時代思想」の講義を来年度担当することはもうできないとお知らせした。私が後任として推薦した研究者仲間の一人からは、再来年度からだったら引き受けられるが、来年度は無理との返事だった。その仲間とこの講義の件について話したとき、集中講義形式にすれば、私が来年度も続けることも不可能ではないという話はしたのだが、イナルコの方で授業の編成上無理なのではないかと推測し、敢えて先の学部長宛のメールではその可能性には触れなかった。ところが、数日前イナルコのポストの最終面接試問に外部審査員として参加した際に、その審査委員会の委員長である同学部長から、講義をいくらか集中させて私がパリに来る回数を減らすようにして、来年度も続けてもらえないかとの要請を受け、そうしてもよろしいのならばと喜んでお引き受けすることにした。
 昨年6月2日に立ち上げたこのブログも二年目に入った。この一年間、一日も休むことなく記事を投稿できたのは幸いであった。このブログを始めたきっかけについては、最初の記事にも書き、その後再度話題にしたこともあったが、とにかく精神的バランスを崩しかけていた自分を自分の手で何とか立て直したいという藁にも縋る気持ちで始めた。一年経った今では、毎日必ず一定の時間ブログを書くことに充てることが習慣として確立している。そのブログが二年目に入るというこの節目に、そこにかつて住み、またそこで働きたいとかねてから願っていた歴史ある美しい街に帰ることを許され、自分の人生の新たなステージを与えられたことを心の底から感謝している。











誕生日メッセージへの感謝の返事

2013-08-23 00:00:00 | 番外編

Facebookを始めた2009年の翌年2010年の夏のことだったか、フランスで教えている学生あるいは卒業生たちから私の誕生日に祝福のメッセージが多数届き、そんなことは全然予期しておらず、1人1人に御礼の言葉を送るのはちょっと大変そうで、でもせっかく送ってくれたのだから一言くらいはお礼の気持ちを伝えたいと思い、Facebook上で全員宛にお礼のメッセージを送った。以来、毎年誕生日には同じようにメッセージを送ってくれる学生たちがいるので、こちらからも同じように1つのお礼の返事をFacebook上で返している。ただ通り一遍の御礼の言葉ではつまらないと思い、それなりに推敲して、面白おかしくかつ誠意もある文章を書くように努めている。去年と今年の文章は特に念を入れて書いたものなので、自分でも愛着があり、ここに記念として残しておきたい。

まず去年2012年のもの。

Mes chers amis,

Profondément ému par vos messages chaleureux qui fêtent mon énième anniversaire que j’ai arrêté de compter depuis dix ans, je vous en remercie de tout mon cœur dont le tréfonds est réputé insondable.
Grâce à l’alerte automatique prévenant de l’anniversaire des « amis » y compris ceux à qui l’on est purement et simplement indifférent, je reçois chaque année lors de mon anniversaire un nombre non négligeable de mots d’amitié de la part de mes amis par voie électronique.
Pour ma part, il est maintenant devenu un peu comme rituel solennel d’adresser à tous ceux qui ont la charité de ne pas dédaigner de se donner la peine de taper quelque signes pour un pauvre fonctionnaire étranger que je suis un discours de remerciement résolument tordu à cette occasion qui se présente annuellement et tout à fait indépendamment de ma volonté.
Selon la théorie des probabilités la plus rigoureuse, il n’est pas totalement exclu que je devienne d’ici mille ans président de la République dont on me disait autrefois que sa devise était « Liberté, Égalité, Fraternité », mais dont je ne sais toujours pas où elle était (certainement, il nous faudrait la chercher ailleurs qu’en France ou la reconstruire si elle avait déjà vraiment existé quelque part). Une fois que sera réalisé ce beau rêve chimérique dont la probabilité nanotechnologiquement infime, et si notre planète existe encore ce jour-là (ce n’est plus évident, comme on le sait depuis Fukushima au moins), je vous promettrais de vous offrir généreusement, et gracieusement, comme un signe de remerciement pour votre fidélité une pension de retraite largement suffisante pour que vous puissiez ne rien faire que de jouir du soleil tous les jours qui vous resteront encore sur un banc propre dans un jardin bien fleuri, ou au bord de la mer paisible si vous voulez, et cela à partir de votre cinquantième anniversaire.

Soyons optimistes volontaires sans fondement aucun dans un monde qui ne fait que nous désespérer.

Je vous suis très reconnaissant d’avoir bien voulu consacrer votre précieux temps à la lecture de ce message d’insincérité déguisée.

Votre utopiste dévoué

そして今年のもの。

À mes chers amis que vous êtes et dont je suis toujours admiratif pour le courage aveugle et le désespoir rationnel face à la crise dont la France souffre il y a déjà quelques années et qui s’y généralise désormais partout au-delà du domaine de l’économie proprement dit, je vous présente très sincèrement toute ma gratitude pour votre mot fêtant mon anniversaire (s’il en est toujours digne) depuis le bord du gouffre qui est prêt à vous engloutir tous, et où, moi, je tiens à demeurer dans une baraque minable afin d’observer attentivement avec un regard désintéressé le monde moderne européen qui me semble en train de s’effondre malgré mon espérance d’un avenir meilleur pour vous tous, espérance fondée sur un optimisme existentiel sans fondement aucun (quelles contradiction que je vis !).

Grâce à la gentillesse avec laquelle vous avez pensé à m’adresser un mot pour cette occasion qui se présente annuellement en été, j’ai bien constaté avec une folle jubilation et une tristesse profonde bien mélangées que je n’étais pas encore devenu un fossile appartenant au passé paisible, mais que je restais un vieil être humain sensible qui continue à prendre de l’âge involontairement dans ce monde agité qui me semble se précipiter dans le vide sans fond.

À titre de signe de remerciement et d’encouragement pour vous tous, je vous offre un mot qui m’est très cher d’un philosophe français véritable, Vladimir Jankélévitch (1903-1985), celui tiré de son livre, L’irréversible et la nostalgie (Flammarion, 1re éd. 1974, actuellement disponible dans la collection « Champs essais », p. 339) :

Celui qui a été ne peut plus désormais ne pas avoir été : désormais ce fait mystérieux et profondément obscur d’avoir vécu est son viatique pour l’éternité.

Ce beau passage est d’ailleurs gravé sur la plaque de marbre qui se trouve à côté de la porte de l’immeuble dans lequel le philosophe a vécu depuis les années 1930 jusqu’à sa mort sauf pendant la Seconde Guerre mondiale où il s’est engagé dans les activités clandestines de la Résistance sous l’occupation allemande. Depuis que je vis dans la Capitale de la France dont la belle devise est « Fluctuat nec mergitur (Il tangue mais ne coule pas) » (Vous y croyez ?), chaque fois que je passe devant cet immeuble standing qui se situe 1 Quai aux Fleurs de l’Île de la Cité, tout près de la Cathédrale Notre Dame de Paris, je ne peux m’empêcher de m’y arrêter quelques instants pour contempler le présent éternel dans lequel nous vivons et que nous vivons tous sans aucune exception.

Disce gaudere (Apprends à te réjouir) !

Amitiés