内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

なにはともあれ、皆様、どうぞよいお年をお迎えくださいますよう

2020-12-31 14:02:27 | 雑感

 二〇二〇年最後の日を迎えましたね。幸いなことに、まだ人類最後の日ではないようです。
 朝はいつものプールで今年の泳ぎ納め。今年は、コロナ禍のせいでたったの百回しか行けませんでした。ここ数年コンスタントに二百四十回以上通っていましたから、その落差は大きく、体重はなんとかほぼ現状維持(BMI=22)できましたが、体脂肪率が上がり、筋肉量が落ちてしまいました。年齢から来る筋肉量減少は避けがたいとしても、運動量の減少がその主な理由であるに違いありません。来年は巻き返しを図りたいと思っております。が、ちょっと懸念もあります。というのも、今年、外出制限令下、プールが閉鎖されている期間が都合五ヶ月間ほどあり、それまでの十年間に習慣化していた水泳へのモチベーションが下がってしまったからです。それまでは行くのが当たり前だったのに(休むと後ろめたさを感じるほどに)、なんとなく腰が重くなってしまって、さしたる理由もなく休んでしまった日も今年の後半には少なくありませんでした。幸いなことに、それでも体調を崩すということはありませんでした。それだけでも天の恵みと感謝すべきなのかも知れませんね。
 皆様も、どうぞお体大切に。繰り返しになりますが、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


残日憂悶録残闕

2020-12-30 21:36:24 | 雑感

 まだ生国倭国におりしころ、と書き出して、もう来年で四半世紀前の昔になることに気づき、なすところなく西方の外つ国仏国で消尽した幾星霜に半ば呆然としつつ、この憂き世の残日もそう多くはないことに思いを致し、では、これから何をどこでどうするのかと問われても俯き口ごもるばかり、目の前のことにばかりかかずらい、あれよあれよと言う間もなく、またしても時は容赦なく過ぎてゆくという徒なる繰り返しをただ嘆くことしかできぬこの情けなさ。ほんとうにもうこんなこと止めないと、死んでも死にきれぬ。


ピアノの円やかで澄んだ音の響きに癒やされています ― キース・ジャレットによるヘンデルのクラヴィーア組曲集

2020-12-29 19:24:02 | 私の好きな曲

 家で仕事や勉強をしているとき、あるいは好きな本を読んでいるときは、大抵音楽をストリーミングで流しっぱなしにしています。主にiTunes を利用していますが、Apple Music : Musique classique の中のさまざまなテーマごとに編集されたアンソロジーを特によく聴いています。様々な楽器によるとてもヴァライティに富んだ曲が集められていて、しかも定期的に更新されるので、飽きが来ません。ときどき Amazon. Music も利用しますが、どうも編集の仕方が気に入らないことが多くて、自ずと iTunes 利用の頻度が高まります。
 今年も随分たくさんの曲を聴きました。クラシックですから、すでに知っている曲も多いのですが、様々な演奏を愉しんでいます。二週間ほど前のことでしょうか、Matins Classiques というアンソロジーを流していて、ある曲が始まると、はたと仕事の手が止まりました。それはヘンデルのクラヴィーア組曲集(かつてはリヒテルとガヴリーロフが交互に演奏したライブ盤を愛聴していました)の中の一曲でよく知っている曲、組曲第2巻・第7番変ロ長調 HWV.440 の第一曲アルマンドだったのですが、そのあまりに心地の良いピアノの音の響きに聴き入ってしまったのです。それはキース・ジャレットが1993年9月にニューヨーク州立大学パーチェス校で録音した演奏でした。すぐにアンソロジーから当該のアルバムのページへと移動し、アルバムの全体、七つの組曲(HWV 452, 447, 440, 433, 427, 429, 426)を聴きました。以来、毎日必ず一回は全曲聴いています。録音の優秀さも特筆に値します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


年末年始の休暇モード ― 『細雪』と過ごす

2020-12-28 23:59:59 | 雑感

 今日から一週間、このブログも年末年始の休暇モードに入ります。
 昨年末から今年の正月五日にかけては、七回に渡って『風姿花伝』の「位の差別」について連載したのですが、この年末年始はそのような真面目な文章をものすることもいたさず、休息に努めます(って、努めたら休息にならないか)。だらだらします。とはいえ、三十一日を提出期限とした小論文が二つあり、そろそろ届き始めており、これが総計七十本になるので、溜めこんで新年早々憂鬱な気分で添削することにならないように、届いたら即読んでコメント書いて、点数もつけていくつもりです(結局、休みならないじゃん)。そんなわけで、仕事を離れた読書も結局ままなりませんが(溜息)、せめて一冊くらいは、愉しみのためだけにゆっくりと読みたく思っています。当然、考え込ませるようなテツガク的な本は避けます。と思いながら、本棚を眺めているのですが、我も我もと立候補してくる本たちが目に飛び込んできて、選択に悩んでおります。そうこうするうちに一時間経ってしまいました(アホやなぁ)。でも、決定しました。谷崎潤一郎『細雪』(中公文庫 全一巻版)です。
 今年はどなた様にとっても大変な一年でしたね。まだまだ厳しい状況が続きますが、何はともあれ、どうぞ良いお年をお迎えくださいますよう、心より祈念いたしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


キリスト教グノーシスへの共時的アプローチ

2020-12-27 23:59:59 | 読游摘録

 筒井賢治の『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』(講談社選書メチエ 2004年)は、「グノーシス」という概念のいわば出発点にひとまず立ち帰り、照準を二世紀のキリスト教グノーシスに絞るという共時的アプローチをその方法論として明確に打ち出し、その時代を代表するグノーシス主義を代表する三者、ヴァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の思想の詳解を主要な三章としている。グノーシスについての実証的な歴史研究に基づいたこのアプローチは、「グノーシス」「グノーシス主義」という言葉がやたらと拡張された意味で使用されることで見失われがちなその元来の意味に立ち帰り、何をもって「グノーシス的」とするかという点を明確にするために採用されている。著者によれば、そのような基準モデルとしての「グノーシス」は、二世紀のキリスト教グノーシス以外には考えられない。共時的アプローチによってキリスト教グノーシスの歴史的な原点ないし出発点を捉えることができてはじめて、広義のグノーシスについても、古代キリスト教史以外の各分野を専門とする人々を含めて、さまざまな立場や観点の間で、地に足をつけた対話を開始することができると著者は言う。
 まったくその通りだと思う。本書のおかげで、グノーシス最盛期の歴史的現場についての認識を深めることができた。グノーシス的とされる個々の教説ももちろんとても興味深いのだが、特に、グノーシス主義が生まれて来た状況(社会・政治・思想・神学・哲学などに横断的に関わる)について学ぶところが多かった。
 最終章の第六章「結びと展望」の中で、著者は、「キリスト教グノーシスはあくまで初期キリスト教史(前史と周辺世界の歴史を含む)という枠内、つまり直接・間接の因果関係が考えられる領域に限った範囲で研究し、そうした努力を通じて「グノーシス」のちゃんとした定義や歴史叙述を目指すという伝統的な方法にこだわりたい」と述べているが、これは歴史研究を専門とする学者としての倫理的原則でもあるだろう。
 「キリスト教グノーシスがギリシア哲学を積極的に採り入れ、それが正統多数派教会の教義形成を牽引する結果となったこと、またマルキオンの正典が現在の「新約聖書正典」成立への呼び水となったということ、こうした事情は、地味なように見えて、実はキリスト教史において、ひいては西洋文化史において、重大な意義を有している。」
 正統と異端という固定的な対立図式は、初期キリスト教史にはまったく妥当性を欠いていること、一つの宗教の生成と確立のプロセスをその動態において捉えるにはどのようなアプローチが要請されなくてはならないのか、この一文を読んだだけでわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


師走ネガティヴ日記

2020-12-26 19:46:25 | 雑感

 未曽有の一年があと数日で終わろうとしていますね。そんな年の暮れに大変恐縮なのですが、今日の記事はただひたすらネガティヴです。こんな記事、書かなきゃいいのにね。今日も一日なんとか生きてしまいましたという痕跡を残すためだけに書いています。スミマセン。
 何か個人的に特別な出来事があったわけでありません。淡々と過ぎた一日でした。ですが、いろいろ、感じるところがありましてね。心事の詳細は省きますが、非論理な結論として、まあ、何と言いますか、諸々、もうどうでもいいかなって感じです。これだけでは、まったく意味不明ですよね。それはわかっているのですが、説明する気にもならないのです。説明したって、それを聞かされる方には、ほんと、ツマラナイ話だし。かといって、何かもかも投げやり、というのとはちょっと違うのです。表面的には、多分、これからも、今まで通り生きていきますよ。それもけっこう健気に(褒められたら、ちょっと嬉しいかも)。体裁にこだわる度し難い性格からして、死ぬまでそうかなと思う。でもね、他方、もう、ほんと、頑張るの、やめようかな、という感じなんです。バ~カみたい、いつもこっちから持ち出しばっかり。疲弊するだけ。その虚しい努力(とさえ言えない徒労)に対して、この先なんの見返りがあるわけでもありません。別にそんなものを期待して生きてきたわけではないけれど、この徹底した無償性、いや、無意味性はいったいなんなのだろう。「生命の本質は贈与である」とか、実のところは物質的にけっこう恵まれた安閑な生活を送っている無益な知識人たちよ、安易に言わないでほしい。あなたたちは、自分が批判している対象と一蓮托生なのだから。何もできずに虚しく死んでいく有象無象の一人として、それだけはお願いしておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『現代思想』2021年1月号 「特集=現代思想の総展望2021」明日発売

2020-12-25 11:37:26 | 哲学

 明日発売される『現代思想』2021年1月号「特集=現代思想の総展望2021」に、「他性の沈黙の声を聴く」というタイトルの論文を寄稿いたしました。そのおよその内容は、このブログでの今年八月の連載「植物哲学序説 ― 植物の観点から世界を見直すとき」と重なりますが、最終節ではシモンドンの技術論に若干説き及んでおり、その分、議論に新たな展開を与えております。お時間があるときに書店あるいは図書館等でご笑覧いただければ幸甚に存じます。


現代社会の慢性化したグノーシス主義症候群に対する有効な治療法はいまだ開発されていない

2020-12-25 11:10:44 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした大貫隆の『グノーシスの神話』の「結び」の最終節である「グノーシス主義を超えて」からに示された、グノーシス主義的な時代としての現代についての著者の所見を以下に摘録し、若干の私見をその後に付す。

グノーシス主義は、その至高神が実は人間の本来の自己の別名に過ぎないのであるから、「絶対的人間中心主義」とでも呼ばれてしかるべきである。そしてこれは、一方で現実の世界の過酷さから多かれ少なかれ逃避したい欲求に駆られるものの、他方はだからと言って人間を絶対的に超える超越神を信じることもできずにポストモダンの現在を生きている者たちには、まことに心地よいメッセージなのではないだろうか。ブルーメンベルクが近代によって超克されたと考えたグノーシス主義の傷痕は、ポスト近代の現在になって再び痛み始め、見過ごせない症候群となって現れているように思われる。この意味で現代はグノーシス主義的な時代なのである。
 しかし、グノーシス主義の独我論あるいは絶対的人間中心主義でゆく限り、現実の世界はわれわれにとって課題であることを止めてしまう。世界は人間の本来の自己の仮の宿であり、本来の自己という光の断片が回収されるべき舞台ではあっても、救済の対象にはならないからである。しかし、前述のような近代合理主義が生み出した地球規模での行き詰まり、「終わりなき日常」の荒涼たる原風景を前にして、何かが違う、どうすればいいのかと自問しないで済ませられる者は少ないであろう。

 コロナ禍に明け暮れた2020年は、いわば「終わりなき非日常」に世界が苦しめられた一年だった。しかもまだ終息には程遠い。この間、私たちはかつての「日常」に戻りたいと願ってきた。しかし、それはもう不可能だろう。それに、そもそもその日常は本当に望ましい日常だったのだろうか。「終わりなき日常」という慢性化したグノーシス主義症候群にただ無自覚だっただけではないのか。今回のコロナ禍はいつか終息するだろう。しかし、より深いところで現代社会を蝕み続けているグノーシス主義症候群への有効な治療法はいまだ見出されていない。いったい誰がその研究開発に取り組んでいるのだろうか。それさえ定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グノーシス主義の社会学的根拠

2020-12-24 23:59:59 | 読游摘録

 大貫隆の『グノーシスの神話』(講談社学術文庫 2014年 初版 1999年)の「Ⅰ グノーシス主義とは何か 二 グノーシス主義の系譜学 3 社会学的根拠」はごく短い一節だが、「そもそもなぜグノーシス主義という世界観あるいは救済観が発生し得たのか」という問いへの答えのヒントの一つを与えてくれる。「この問いに答えるためには、宗教社会学的な視点と同時に、深層心理学的な視点からの研究が必要である」と断った上で、著者は次のように付言している。

グノーシス主義は社会学的に見ると、農村部より都市部の現象であった。ヘレニズム時代の地中海とオリエント世界では、思想と宗教の混合はとりわけ都市部において顕著であった。アレクサンドリアはその典型である。そのような都市部では、人間は個別化され、それぞれの伝統的基盤から乖離し、社会的方向性と自己同一性の喪失の危機に面していたのである。この危機は、強大なローマ帝国の支配の中に併合されて政治的な禁治産宣言を下された東方地中海世界の諸民族、その中でもとりわけ都市の知識層の場合に深刻であった。グノーシス主義はそのような知識層を主要な担い手とする政治的、社会的なプロテストなのである。

 このような社会学的な観点からすれば、社会とそこに生きる個人が同様な危機に直面すれば、〈グノーシス的なもの〉はいつの時代にも現われうるということになる。もちろん、それと歴史的実在としてのグノーシス主義とは区別されなくてはならない。しかし、本書の「結び グノーシス主義と現代」で言及されているような現代の「グノーシス主義症候群」について自覚することは、現代の世界的な思想状況をよりよく認識するために無益ではないと私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グノーシス主義の危険な魅惑に魂が揺るがされるのはなぜなのか

2020-12-23 23:59:59 | 哲学

 なぜグノーシス主義に私はこんなにも興味があるのだろうかとここ数日自問している。
 先日、プレイヤード叢書に収められた Écrits gnostiques. La bibliothèque de Nag Hammadi (2007) を購入して以来、毎朝数頁読んでは溜息をついている。これらの文書は、眩暈を呼び起こさずにはおかない途方もない言語宇宙を形成しており、その危険な魅惑に満ちた言説群が構成する思考の星雲は妖しく煌きながら私を誘惑してやまない。ちょっとやそっとのことでは手が出せない畏怖すべき精神の領域なのだが、気になって仕方がない。初期キリスト教の成立過程を具に辿るためには避けては通れない途であるが、入り込んだら最後、もう帰ってこられない(って、どこに?)という恐れを感じないではいられない。それらの文書とその関連書籍、死海文書、キリスト教外典、特に『ユダの福音書』(太宰治に読んでほしかったなあ)、それに言及・糾弾しているエイレナイオスの『異端反駁』など、すべて手元にあり、仕事机から離れずにすぐに取れる場所に並べてある(あなたのご専門は何ですか? ― ありません、そんなもの)。
 おそらく、かくもグノーシス主義に引き寄せられるのは、古代ユダヤ教世界の中で複数の原始キリスト教団が相互に差異化しながら胎動しつつあった紀元前後からの二世紀末までの初期キリスト教の時代に立ち返る思想的必要性を私が今強く感じているからだと思う。それは、二十数年前にストラスブールに留学生としてやってきたときに、ライン川流域神秘主義に強く惹き付けられたこととどこかで通じている。その通底する何かを敢えて一言で言えば、「正統な」神学体系が構築される以前の共同信仰生活と密接に結びついた世界および宇宙認識と、「正統」が確立されたキリスト教世界をその内側から揺るがした神秘主義とは、精神の深層における何か共通した衝迫から生まれているのではないかという問いである。
 もちろん、それぞれに固有な歴史的文脈を無視した理念型還元主義的アプローチ、あるいは際限なき拡張的系譜学的アプローチが、問題の在処を見誤らせる危険を孕んでいることに気づいていないわけではない。だが、グノーシス主義についての学術的歴史研究それ自体に興味があるわけではない(それへの敬意を忘れているわけではない)。哲学する者のいわゆる「自己責任」において、上記のような問題意識を私なりに深めていかなければならないと思っている。