内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ゲーテ『自然と象徴』― 発見されることを地下で待っている煌めく鉱石群のごときアンソロジー

2020-01-31 11:33:38 | 読游摘録

 もういつ買ったのか思い出せないが、24年前の渡仏のはるか以前に購入して以来ずっと今も手放さずに持っている本が僅かだがある。その間、何度も引っ越したし、売り払ってしまった本の数は今持っている本の数倍はあるから、それだけそれらの本には愛着があるということである。
 そんな本の一冊がゲーテ『自然と象徴 ― 自然科学論集 ―』(高橋義人編訳・前田富士男訳 冨山房百科文庫 1982年)である。ゲーテの自然科学研究に関する論文・紀行・章節・断章・詩句・対話などから採られた文章を、自然観・方法論・形態学・色彩論の四部に分け、それぞれの部内にも細かく章節を立てて分類したアンソロジー形式になっている。
 ゲーテの自然科学研究の全体についての見通しを与える編訳者の解題が巻頭に据えられ、巻末には、用語解説兼索引、人名解説兼索引、ゲーテ年譜が添えられ、本の真ん中あたりには理解を助ける図版が挟んであり、この一冊でゲーテの自然研究主要部分を見渡すことができるようにバランスが取れていて且つとても内容豊かな構成になっている。解説付索引は、ゲーテの形態論や色彩論についてちょっと調べたいときにとても便利な作りになっている。
 各種論文からのまとまった引用を読むことによって、ゲーテの現象学的観察態度と実証的精神と批判的洞察力と詩人的直観を知ることができ、独自の自然研究方法論とそれに基づいた推論過程を直に辿ることができる。より短い引用の連鎖は、パスカルの『パンセ』を彷彿とさせ、読む者を自然についての思索へと誘わずにはおかない。いきあたりばったりに頁を開いても、必ずといっていいほどハッとさせられる文章に出遭う。
 四百頁に満たないコンパクトで比較的安価でしなやかな造本のこの一冊の中には、無限に豊かな自然の内奥へと私たちを導いてくれる智者の言葉が、地下に眠る煌めく鉱石群のように今もなお発見されることを待ち続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


書籍の庭を眼で「散歩」する

2020-01-30 23:59:59 | 雑感

 ちゃんと数えたことはないから、ごく大雑把な数字だが、この四十数年間に購入した本を一切手放さずに持っていたとしたら、少なく見積もって蔵書三万冊は下らなかったであろうと思う。もちろんそれらすべてを収納することができるような家に住んだことはないから、どう考えてもありえない話ではあるが、手放した後にひどく後悔した本もけっして少なくはない。
 今の住まいでは、蔵書はすべて書斎の書架に並んでいる。数えるのも面倒なので、これもまたざっくりした数字だが五、六千冊くらいだろう。特に分野別とか著者別とか時代別とか一貫した配列基準はないが、この程度の量なら、しばらくご無沙汰していた本でもすぐにどこにあるかわかる……いや、かつてはわかった、と言いなおさなくてはならない。というも、耄碌したせいであろう、確かに持っているはずだが何年と手に取ることがなかった本を探す必要があると、見つけるまでに時間がかかることが最近ときどきある。それは前後二列に詰め込んである書棚の後列の隅に追いやられている本だとはかぎらない。灯台下暗しというか、探している本の背表紙が視界にちゃんと入っているのに気づかずに通り過ぎ、しばらく本棚の前をうろついているうちに、十分、いや二十分経ってしまうことがある。やっと見つけても、それまでに費やした時間に愕然としてしまったこともある。
 そこで、今後ますますひどくなるであろう耄碌対策として、ときどき、書棚に並ぶ本を順に眺めるようになった。小さい書籍の庭を眼で「散歩」しているような心持ちである。これがまるで色とりどりの花草木を眺めるようでなかなか楽しい。いずれも自分が好んで入手した本であるし、それぞれに思い出がまといついているから、懐かしくもある。ときに手にとってパラパラと頁をめくっていると時が経つのも忘れてしまいそうになる。これもまた本の愉しみ方の一つではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


慢性的書籍購入熱、あるいは病との付き合い方

2020-01-29 23:59:59 | 雑感

 年に一、二回、まるで熱病かなにかにかかったかのように、書籍購入熱に取り憑かれる。今がそうである。若い頃からそうであるから、これはもう慢性的な「不治の病」である。買っている間は、一種の興奮状態にあり、「これを買わずしてどうする」という強迫観念に取り憑かれているから、その結果どういうことになるか、そこまで考えが及ばない。
 熱が冷めると、机の上にうず高く積まれた書籍の量に愕然とする。それを何十年と繰り返している。馬鹿である。今、仕事机の脇の小机にはもう置き場所がないほどの本並んでいる。やれやれまたか、という思いである。が、それでもやはりそれらの本を眺めていると、日暮れて途遠しの感はひしひしと身に迫る一方、なんか嬉しいんである。もう手の施しようがない。
 三年前から新しい症状が現われた。これが急速に深刻の度を増している。電子書籍購入熱である。これは目の前に物理的に量が増えるということがないから、知らぬ間に症状が深刻化しがちである。特に去年あたりから、講義の準備中にちょっと参照してみたい本があると、電子書籍版ですぐに買ってしまうようになった。おかげで準備の速度は格段に増し、密度も飛躍的に高まったことは確かだ。それに、かつては授業中に紹介する本を教室にもっていかなくてはならなかったが、それには量的限界がある。電子書籍にはそれがない。この便利さも症状を悪化させる理由の一つになっている。
 まあ、体に悪いわけではないから、経済的・場所的に問題を引き起こさない範囲で、この「病気」とはこれからも仲良くつきあっていく所存である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「混迷した世界の中の真理への入口」としての「陰翳の現象学」

2020-01-28 23:59:59 | 哲学

 ゲーテの色彩論についてはかねてより関心をもっていて、関連書籍もいくつか手元に集めてあるのだが、ちょっと今の忙しさでは、残念ながら、すぐには手が出せそうにない。一言だけ触れておく。
 マックス・ミルナーがゲーテの色彩論について必読文献として挙げている Jean Lacoste, Goethe. Science et philosophie, PUF, 1997 の第二章は、まさに « La part d’ombre » というタイトルが付けられている。その章のはじめの方に『ゲーテとの対話』からの引用がある。その引用箇所は岩波文庫の山下肇訳では次のようになっている。

この世界は、現在では老年期に達していて、数千年このかたじつに多くの偉人たちが生活し、いろいろと思索してきたのだから、いまさら新しいことなどそうざらに見つかるわけもないし、言えるわけもないよ。私の色彩論にしてからが、完全に新しいものだとはいえない。プラトンやレオナルド・ダ・ヴィンチや、その他たくさんの卓越した人びとが、個々の点では私よりも前に、同じことを発見し、同じことを述べている。しかし、私も、またそれを発見し、ふたたびそれを発表して、混迷した世界に真理の入口をつくろうと努力したこと、これが私の功績なのだよ。(1828年12月16日)

 『陰翳礼讃』を合同ゼミの課題図書としたことがきっかけとなり、陰翳という現象をより広い視野から再考してみようと「陰翳の現象学」というアイデアが生まれ、その手始めにメルロ=ポンティの『眼と精神』を読み直し、マックス・ミルナー『見えるものの裏側』を手がかりに、『眼と精神』でも一箇所言及されているレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論における影に関する考察の理解に努め、そこから今度はゲーテの色彩論へと考察の対象を拡大することで、ますます陰翳というテーマの広がりと奥行に魅せられている。
 このように考察対象が広がりつつある「陰翳の現象学」というパースペクティヴの中で改めて『陰翳礼讃』を読み直すことができるようになるとは、昨年七月に課題図書に選んだときには思いもしなかった。これはほんとうに「嬉しい誤算」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(九)― レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品に見事に適用されている視覚理論

2020-01-27 18:14:40 | 哲学

 ここ数日の記事で見てきたようなレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論あるいはその前提となる視覚理論は、もしそれが単なる机上の理論的記述でしかなかったとすれば、私たちの関心をここまで引くことはなかっただろうし、見えるものへの存在論的考察へと導かれることもなかったであろう。
 実際には、ダ・ヴィンチの絵画作品における技法的実践のうちにそれらの理論の実践的適用とその成功例を見ることができる。例えば、ダ・ヴィンチがその創始者とされるスフマート(「空気に消えてゆく煙のように」、画面の明るい部分からごく暗い部分まで、境界線なしに、徐々に変化する諧調)がそうである。その最も有名な例が「モナ・リザ」である。スフマートが用いられた作品では、ヴェールで覆われたような雰囲気によってものの輪郭が消されているが、その効果は光と影の巧みな組み合わせによってさらに高められている。あるいは、和らげられた光の描写法にも視覚理論の適用を見て取ることができる。この技法によって、人の顔や物の細部にあたうかぎりの繊細さが与えられている。

顔立ちに優雅さを与える雰囲気をどのように選択すればよいか。もし君が亜麻布で覆うことができる中庭を所有しているのなら、そこでの光は好適なものとなろう。あるいは、誰かの肖像を描きたいとき、天気が悪い日か夕暮れ時を選ぶがよい。そして、モデルを中庭の壁の一つを背にして立たせよ。日暮れ時に街中で行き交う人々を観察してみるがよい。なんともいえぬ優雅さと繊細さがそこに現れているのに気づくだろう。[…]あるいは、雲が立ち込め霧がかった日没時に描くがよい。その雰囲気は非の打ち所がないものであろう。

 ダ・ヴィンチにおいて、宇宙の統一の深い意味、このうえない多様性をもった宇宙の諸側面の間の連続性の深い意味が、光と影の間の関係に関する理論と実践を通じて表現されている。同様な理論と実践をダ・ヴィンチから三世紀後のゲーテの色彩論の中に私たちは再び見出すことになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(八)―〈うつし〉としての光と闇の同一性から導かれる非実体論的存在論

2020-01-26 18:44:32 | 哲学

 昨日の記事で拙訳を掲げたダ・ヴィンチの絵画論の一節には、編訳者アンドレ・シャステルの脚注が付いている(私が所有している大型版 Traité de la peinture, Calmann-lévy, 2003 では p. 137)。ミルナーはその大部分に当たる以下の箇所を引用している。

Les corps jettent des reflets colorés comme ils émettent des images visuelles — ou plutôt images et reflets sont la même chose ; les unes et les autres n’étant d’ailleurs que des aspects particuliers de l’émission de lumière ou de lustre — et aussi bien, ajoute Léonard, de l’émission de ténèbres ; car l’obscurité aussi est active et les « rayons d’ombre » jettent leurs « reflets » sur le corps. Une loi non mathématique, l'unité de type, garantit aux yeux de Léonard l’identité essentielle de phénomènes comme ombre colorée, l’image visuelle et sa « perspective », le rayonnement du soleil, la réflexion de sa lumière, le voile des ténèbres. 

 物体は、その様々な視覚像を放射するのと同様に、色合いをもった反映を放つ。あるいはむしろ視覚像と反映は同じことである。それにどちらも光や光沢の放射の特殊な側面でしかない。あるいは闇の放射の特殊な側面でしかない。というのも、暗闇もまた動的に働くものであり、「影の放射線」はその反映を物体上に投射する。タイプの統一という非数学的な法則が、レオナルドの眼には、色合いを持った影、視覚像、その「眺望」、太陽の輝き、その光の反射、暗闇の覆いなどの諸現象の本質的な同一性を保証している。
 光も闇も他の物へと三重の意味で「うつる」(映・写・移)ものとして同一性を有しているという視覚論は、私たちを非実体主義的な動的存在論へと導く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(七)― ものに暗さを纏わせる「源泉」としての闇

2020-01-25 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で、あまり考えもせずに「出処」と訳したのは « source » という語だが、次頁でミルナーはこの語を思いつきで使ったのではないと言っている。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの視覚論には、光の当たっていない物の部分から発出する、まさに「暗闇の放射線 rayons de ténèbres」と呼ぶべきものの放出という考えが含まれているからだと言う。これをもっと逆説的な言い方にすれば、暗闇が発する「光線」がある、ということだ。だから、この文脈でのミルナーの考えにより忠実に « source » を訳すには、「源」あるいは「源泉」の方が適切だろう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論の中でこの考えがより端的に示されているのは、ダ・ヴィンチが顔の表象について考察しているところだ。

光が当たっている顔の色合いは、その顔が黒い面に対しているとき、その黒い影と混合される。これは黄、緑、青その他どんな色でも、それらの色が顔に対して置かれているときに起こる現象だ。この現象は、すべての物体はそのイメージを周囲の大気中に発散することから説明できる。これは遠近法において証明されていることである。それに、これは太陽光線で私たちが経験していることでもある。太陽が照らすすべての物体は太陽の光を受け取り、それを他の物体に反映させる。[…]闇もまた同じ作用をする。なぜなら、闇はその内に隠されたすべてに暗さを纏わせるからだ。

 たとえ太陽でもつねに隈なく照らすということはないとすれば、つまり、まったき光というものが地上にはないとすれば、すべてのものはつねにいずこかの闇から放射される暗さを多かれ少なかれ纏っており、その暗さと混じり合い、その暗さから完全に分離されることはけっしてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(六)― 影はまったき闇ではないし、光は影の追放ではない

2020-01-24 23:59:59 | 哲学

 マックス・ミルナー『見えるものの裏側』第三章「影の創造性」の中のレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論を取り上げている節を今しばらく追っていこう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの陰翳論によれば、世界の可視性は光と影との競合の結果として生まれる。この競合には、バロック期のテネブリストたちがそれに与えた悲劇的な性格はない。なぜなら、光が影に完全に勝利することもなく、その逆もまたなく、両者の競合には無限の階梯があるからである。「影はどこまでも暗くもあれば、明るさに向かって無限のニュアンスを見せもする。」ここから、影の暗さをその出処の最も暗いところから徐々に低減させるようにという画家たちへの助言が出てくる。「だから、影をその原因のもっとも近くではもっとも暗く描き、その対極では光へと変容させよ。つまり、闇が無際限な広がりへと化すようにせよ。」
 影はまったき闇ではないし、光は影の追放ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(五)― 物の可視性の動的原理としての影

2020-01-23 16:40:45 | 哲学

 影は、光に応じて変化するだけでなく、対象物やその周囲の色に応じても変化する。その変化は、影が色に与える一方向的なものではなく、影もまた対象物や周囲の色によって変化させられる。影と物とは切り離し難いだけでなく、相互に作用し、浸透し合う。
 これは単に絵画の技法に関わる問題ではない。ダ・ヴィンチの絵画作品の隅々にまで染み通っている視覚の哲学と美学に関わる問題である。
 ダ・ヴィンチは絵画論にこう記している。「影は、物の形を、その物によって、顕にする。物の形は、影なしにそれ固有の姿を現すことはない。」
 ダ・ヴィンチは影を動的原理と考えている。この原理としての影が物の可視性を保証している。影がなければ、物は光の流れの中に飲み込まれてしまう。絵画論のある箇所では、影は光と同等な実体と見なされている。それどころか、他のある箇所では、影は光より強力なものとさえ考えられている。
 「影は光より強い。なぜなら、影は光を阻み、物からすっかり光を奪うことができるが、光は物からすっかり影を奪い取ることはできない。すくなくとも不透明なものからその影を奪い取ることはできない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陰翳をめぐる随想(四)― 陰翳、影の多様で複雑なグラデーション

2020-01-22 23:59:59 | 哲学

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、その未完の絵画論の中で、絵画にとって最も重要なのは陰翳と輪郭だと言っている。特に陰翳の重要さを強調する。陰翳の裡にはより多くの知が隠されている。と同時に、その把握には困難が伴う。例えば、物の輪郭をそれとして捉えてなぞるには、その物に覆いを掛け、その前に平滑で透明なガラス板を置けば、そのガラス板上の薄紙に輪郭を写し取ることができる。ところが、同じ方法では陰翳は捉えられない。というよりも、それではそもそも陰翳が消えてしまう。
 陰翳は対象物の属性ではない。その物が置かれた場所の諸条件によって変化する。陰翳という複雑な現象を捉えるには、三つのタイプの影を区別することが重要だとダ・ヴィンチは考える。まず、「影そのもの」、つまり、対象物の光の当たっていない部分。次に、「派生的な影」、つまりある面に光が当たっている対象物の陰に隠れた別の対象物上の影、そして、「投射された影」、つまり、対象物の形が正確に投射された平面上の影である。
 陰翳の問題を考えるには、さらに光源の違いも考慮しなくてはならない。ある一点から直接対象物に光が投射されるとき、光の当たる部分とそうでない部分とにはっきりとした区別ができる。派生的な影についても同様である。しかし、光源にもっと広がりがある場合、そして複数の光線が入ってくる角度に異なりがある場合、対象物の影の部分も派生的な影も、光源の広がりと角度によって様々に変化する。この変化は、光源の強さが関与するとき、さらに複雑化する。これは対象物の投射された影についても同様である。
 これら無限に多様で複雑な影のグラデーションが陰翳という「存在の織地」を成している。