内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

科学者の散文の美学

2021-01-31 00:00:00 | 読游摘録

 河出文庫から2013年に出版された中谷宇吉郎『科学以前の心』の解説「科学という詩」の中で、編者である福岡伸一は、中谷宇吉郎の有名な言葉「雪は天からの手紙である」について次のような独自の解釈を提示しています。

これは、一般には、雪の結晶構造を調べることによって、上空の気温や水分の状態がわかる、という意味に解釈されている。科学者・中谷宇吉郎にとって、いかにもふさわしい表現である。しかし私は、理に落ちるそのような解釈ではなく、ごく自然にこの言葉を受け止めたい気持ちがする。つまり、雪は、読もうとするとその端から消えていくような、はかなくも淡い手紙のようなものであると。中谷の文章には過剰な情緒や感傷がほとんどない。でもそれは彼が冷たい人であったことを示すものではない。むしろ私は中谷がきわめて心細やかな、やさしい、温かい人だったと思う。ただ、それをあえて表には出さなかった。中谷は科学においてはすぐれて能弁な語り手であり、同時に、すぐれて抑制的な詩人だったのだ。私は、そんなふうに考えたい。雪の結晶に似て、ささやかながら、冷たく、固く、美しい秩序を保つこと。それはほんの一瞬かたちをとってまもなく失われる。それが中谷の文章に対する礼節であり、美学だったのだ。そう思えるのである。

 『雪』の本文は、昨日の記事で見たように、「雪の結晶は、天から送られた手紙である」となっていますから、この文の解釈としては福岡の捉え方は支持しにくいと私には思われます。しかし、中谷宇吉郎の散文の美学についての評言としては正鵠を得ているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


平明で美しい日本語で綴られた科学書の古典 ― 中谷宇吉郎『雪』

2021-01-30 14:21:46 | 読游摘録

 昨日紹介した『雪月花のことば辞典』の第一部「雪のことば 付(つけたり)霜と氷のことば」のの「はじめに 雪――天から送られた手紙」の冒頭に、世界的な雪氷学者として知られた中谷宇吉郎の古典的名著『雪』からの引用があります。引用されているのは雪の定義を述べている箇所です。同書の第二「「雪の結晶」雑話」の第七節冒頭からの引用です。『雪月花のことば辞典』にはごく一部しか引用されていませんが、ここにはその部分の前後を含めた二段落をまるごと引用しましょう。

 雪とは一体何であるか。それは簡単にいえば水が氷の結晶になったものであるということが出来る。しかし普通の水が凍ればそれが雪になるかと言えば、決してそうではないことは誰も知っている通りである。池の水が凍ったものを雪と呼ぶ人はいない。雪解けの水や滝の流れが凍って棒状になっても、それは氷柱であって、雪にはならない。凡てわれわれが普通に知っている氷は液状の水が凍ったものであるが、この種の氷は雪にはならないのである。
 雪は水が氷の結晶となったものなのである。それで結晶とはどんなものであるかということを簡単に述べることとする。結晶について詳しく学ぶことは、非常に難しいことであって、その述説は恐らく一冊の本になるであろうが、此処で必要な程度に結晶の定義をいえば、「物質を作っている原子が空間的に或る定まった配列をもってならんだものである」というに尽きる。

 こんな調子で、読者を雪の研究の世界へとやさしい言葉遣いで徐々に導いてくれます。そして、最終部である第四部はよく知られた次のような美しい文章で結ばれています。

 このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。そしてその中の文句は結晶の形及び模様という暗号で書かれているのである。その暗号を読みとく仕事が即ち人工雪の研究であるということも出来るのである。

 本書の解説(樋口敬二)は、本書の古典たる所以を次のように述べています。

『雪』を読んでゆくと、まるで自分も中谷といっしょに仕事をしているかのような気持ちになって、研究の道筋をたどり、それを通して、自然を見る目、現象について考える態度が身につき、自然科学の研究の面白さがわかる。そのような“知恵の本”は、日本では『雪』に始まり、その魅力は時を超えている。だから、古典なのである。

 平明で美しい日本語で綴られたこのような一般向けの科学書の古典を持っていることを、日本人として誇らしく、また幸いなことであると私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『雪月花のことば辞典』(角川ソフィア文庫)― 今月の文庫新刊より

2021-01-29 23:59:59 | 読游摘録

 先日来の雪に誘われて、角川ソフィア文庫の今月の新刊『雪月花のことば辞典』(宇田川眞人=編著)を購入しました。「人々の心情と文化、歴史が結晶した雪月花のことば全2471語を三部構成にして収録。古今東西の自然と暮らし、祭りと習俗、詩歌や伝説に触れながら、詩情あふれることばとの出会いを愉しめる、極上の辞典」というのがその宣伝文句です。極上かどうかはわかりませんが、読んで愉しい辞典です。巻頭の編著者のことばはこう結ばれています。

 本書を繙くことによって、読者の皆さまはカプセルからあふれ出した古人の床しい心根や失われた美しい風景、詩情あふれることばの数々に際会することができるかもしれません。第一頁から巻末へとたどる通常の読書とは異なる、また必要な語彙の意味だけを検索する普通の辞書とは違う、たまたま開いたページで巡り合ったことばとの偶然の出会いを愉しむような、気ままな拾い読みに身を任せていただけたらと思います。

 私が購入したのは電子書籍版で、こうした気ままな拾い読みににはあまり適していません。それでも、目次に網羅されているコラムのタイトルをタップすれば該当ページに飛んでいけます。そのコラムの前後にあいうえお順に並んだ言葉にも目が行きます。例えば、「雪と氷の境目」と題されたコラムの直後に「玉塵」(ぎょくじん)という言葉が置かれています。「雪を意味する雅語。舞い落ちる雪片を白玉に削りくずの塵と言いなした。「玉屑」ともいう」と説明されています。知らない言葉でした。こんな小さな発見が随所で楽しめる辞書です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雪の日の断想 ―『遠隔寺僧房日録』より

2021-01-28 11:23:04 | 随想

 昨日は早朝から雪が降り始め、午前八時過ぎには人通りのない地面には数センチ積り、なおも降り続いていました。九時半にいつものカットサロンに予約を入れてあったので、雪が降りしきる中、歩いて行きました。まだ誰の足跡もついていない真っ白な遊歩道を、一歩踏み出すごとにキュッキュッと靴音をさせ、雪の柔らかな弾力を足下に感じながら歩くのは何か楽しくさえありました。
 主人がたった一人でやっているこのサロンに通いはじめてもう六年以上になります。いつもテキパキとしていて、しかも仕上げは丁寧なその仕事ぶりがとても気に入っています。前回カットに来たのはちょうど三月前の十月末でした。昨年末に一度行こうかと思ったのですが、つい億劫がっているうちに年が明け、また一月ほど経ってしまい、さすがに少し鬱陶しくなってきたので、気分転換もかねて散髪しました。
 ここ数ヶ月、人に直接会うこともほとんどなく、話すといってもほとんど遠隔ですから、つい身なりや身だしなみがおろそかになりがちです。気心が知れた相手との気軽なおしゃべりのためならそれでも構わないでしょうけれど、会議や授業のときには、実際に会っても恥ずかしくない服装に着替えています。どうせ下半身は見えないとわかっているわけですが、上半身だけちゃんとした格好をしていても、下はラフなスウェットパンツでは気持ちが引き締まらないし、上下がちぐはぐだと気分がよくないので、一応上下のコーディネートもセンスのない私なりに考えています。
 カットサロンから帰宅すると、注文した本の到着を知らせるメールがFNACから届いていたので、すぐにまた雪の中を出掛けました。ここ数ヶ月、特に急ぎでもないかぎり、どこに行くのも歩きです。自転車はガレージで埃をかぶっています。
 今年に入って、水泳は土日のみとし、平日はウォーキングを中心にしています。それでも充分に健康維持はできるし、歩いているときにはいろいろ考えられるので、仕事の効率もアップさせることができるとわかったからです。
 一昨年までは年間の水泳の回数を二百四十回以上に保つことにこだわっていましたが、昨年はコロナ禍のせいでそれも不可能になりました。結果として、そのこだわりから解放されました。心身の健康が維持できればそれでいいではないかと思うようになったのです。
 午後には雪もやみ、気温も零度を超えたので、路面の雪はみるみる消えていきました。行きには自宅周辺の歩道を覆っていた雪も、帰りには僅かな跡を残すばかりとなっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仮象として遍在するリモートな〈私〉の存在の耐え難い軽さ ―「接続」は「繋がり」ではない

2021-01-27 05:17:44 | 雑感

 数年前からテレビ会議を使って日仏合同ゼミを企画しようと試み、実際にはトホホな結果しか残せなかったことは認めるとして、地球の反対側にある国同士の間の合同遠隔授業をとにかく実践しようとしてきた老生としては、ちょっと格好つけて言えば、やっと時代が私においついてきたわいとさえ言いたい気分に、昨年前半、束の間、ちらっとなったものでありました。
 しかし、コロナ禍に明け暮れた昨年、そんな浮かれ調子はたちまちにして雲散霧消、したたか遠隔授業及び会議を経験した上での現在の率直な感想を申し上げますと、「やっぱ、これ、体の芯から疲れるし、深いところで心が蝕まれている気がする」ということになります。対面に対して補助的あるいは相補的な方式として遠隔が大いに有効であるばかりか、それ固有のメリットさえあることを喜んで証言しますが、リモートがデフォルトになるような世界には私の居場所はないとひしひしと実感したここ数ヶ月でありました。
 どこにいたって、ネットへの接続環境さえあれば、「その場」に臨場できちゃうって超便利ですよね。でも、そのことは同時に、あなたはここにいなくてもいい、必要なコミュニケーションができれば遠隔で充分、場合によってはあらかじめ録画しておいたものを配信してくれればオッケー、ということです。これが恒常化すると、自己存在の止めどない希薄化をもたらしかねません。画面に映っている〈私〉は私ではありません。二次元空間に平板化され、触れることもできず臭いもしない音声付き動画は私ではありません。〈私〉は私でなくてもいいのです。
 どんな状況でもすぐにぱっと適応できちゃう柔軟な精神をお持ちの方々は、喜々としてこれからの時代を生きてゆかれるのでしょうね。さも最初からこうなることがわかっていたかのように。昭和に精神形成を曲がりなりにも終えてしまい、平成は失意と後悔と諦念に色濃く染められた三十年であった老生はもう駄目であります。このゲーム、降ります。今すぐには降りないけど、どんなに甘く見積もっても、せいぜいあと二年が限度かな。
 今の気持ちを一言で言うと、接続(connexion)は繋がり(lien)ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一物も貯へず、其身其儘なり」― 江戸時代、旅に生きたマルチタレントな女性、田上菊舎

2021-01-26 08:12:55 | 読游摘録

 無知は無知なりに楽しい。他の人が知っていることを聞いて、「へぇ~」「ほぉ~」「えっ、うそ!」と感心したり驚いたりして、その都度世界がちょっと広がったような気がする。傍から見ればただのおバカかも知れないが、本人が嬉しければそれでよいではないか。なんでもご存知の物知りには味わえない境地である。
 立川昭二の『日本人の死生観』を読んで、江戸時代の女性俳人たちを私的に楽しく「発見」できたのも、そんな無知のおかげである。江戸時代の女性の俳人として、千代女(一七〇三-一七七五)の名前と「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は知っていたが、江戸期のその他の女性俳人たちについてはまったく無知だった。そのおかげで、今回、田上菊舎を初めて知ることができた。
 菊舎は、宝暦三年(一七五三)に長門国(山口県)長府藩士の娘として生まれた。十六歳で村田氏に嫁したが、二十四歳で夫に死別、実家に帰った。二十九歳のとき剃髪、旅に出て美濃派の傘狂に師事。北陸・奥羽を経て江戸に長期滞留し、三十二歳の冬いったん帰郷、その後もさらに旅を続け、上洛は数度、九州行きも数回に及ぶ。詩・書・画のほか茶道・香道・琴曲にも長じ、当時の女性としては珍しく多彩な一生を送った。生涯を旅に明け暮れた驚異的にマルチタレントな女性である。編著に『手折菊』がある。
 『手折菊』の巻頭句、「月を笠に着て遊ばゞや旅のそら」は、最初の大旅行の前年の二十八歳のときの句だが、軽やかにして決然、闊達自在、こんなに自由で自立した女性が江戸時代にいたことに私はただ驚嘆する。
 最晩年には、「塵取に仏生ありや花の陰」という境地に至り、文政九年(一八二六)に七三歳で逝去。
 同時代人の神沢杜口は『翁草』の中で菊舎をこう称賛している。

京に在かと見れば忽焉として東武にあり、候家に召されて、風塵の境界を賞せらるれども、夫を忝しとせず、忽去て野に伏し山にふし、六欲を脱して、風雅を友とするの外他なし。……四季折々の衣も、所々にて施され、衣食乏しからず、垢づき破れば脱捨て、一物も貯へず、其身其儘なり。

 小学館の日本古典文学全集中の『近世俳句集』には『手折菊』から五句採られている。その最初一句は春の句。

解て行物みな青しはるの雪

 この句の同集の鑑賞を引いておく。

奥羽・東海の大旅行を終え、久しぶりに帰郷、父母のもので新春を迎えたときの吟である。野山をうっすらとおおっていた春の淡雪が、暖かい日ざしに解けはじめる。その下からは若草が姿を現し、見る見るあたりを青くそめてゆく。大地にたちまち生色がよみがえるような感じである。「物みな青し」はいかにも新鮮な把握であり、久しぶりに生家で春を迎えた喜びにあふれている。

 まだ真冬、春は遠い。でも、こんな句を読むと、心がほのかに明るく暖かくなるのを覚える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神なき時代の終わりなき終末論的世界の只中にあって、「ぐじぐじ」話すのはやめようと思ったのですが…

2021-01-25 23:59:59 | 雑感

 いつまで続くかわからないコロナ禍の渦中にあって、いずこにあっても皆様不安な毎日をお過ごしのことと拝察申し上げます。皆様におかれましては、どうぞできる範囲で気持ちを健やかに保ち、この困難な状況をなんとかノラリクラリと生き延びられますよう心より祈念申し上げます。
 私の勤務しておりますおフランスの大学でも、後期開始二週目の現時点で、ほとんどカオス状態といっても過言ではないほどに事態は混迷いたしております。為政者たち及び大学執行部の言説の不条理さ加減は、カフカやカミュの文学的世界のそれをも凌駕し、ひょっとしてコロナウイルスが彼らの脳を冒しているのではないかと疑われるほどであります(― そういうあんたは大丈夫なの?)。
 まことに末法の世とはかくの如きかと慨嘆され、厭離穢土欣求浄土の願いが強まるばかりでございます、とは仏教徒ではない老生は申し上げられませんが、神なき時代の終わりなき終末論的世界を私たちは今生きつつあるのだとの実感を噛みしめつつある今日このごろでございます。
 だからといって、こんな話をぐじぐじしても、する本人も面白くないし、読まされる方もそもそも読む気にもならないですよね。
 と書いて、さて、「ぐじぐじ」とはいつ頃から使われているのかしらと『ジャパンナレッジ』内の『日本国語大辞典』で調べてみたら、「ぐぢぐぢ」という表記で室町末期から使われていることがわかりました。説明として、「物言いや物音などがはっきりしなくて、聞きとりにくいさま、また、口の中でつぶやくように、不平などを言うさまを表わす語」とあります。今日もほぼそのままの意味で使われていますね。第二の用法として、「態度などがはっきりしなくて、どっちつかずのさま、歯切れの悪いさまを表わす語」とあり、こちらは江戸時代に広まった用法です。こちらの用法も現役ですね。昔から人間は「ぐぢぐぢ」しがちな生き物であったようです。
 わたくしも度し難い「ぐじぐじ」人間でございますが、どうか皆様の寛容なお心でそのまま受け入れていただければ幸甚に存じます(― って、オチになってないし、そもそも意味不明なんですけど)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


女子会の起源は江戸時代にあり?

2021-01-24 17:19:23 | 読游摘録

 以下、どうでもいい話である。
 「女子会」という言葉は、いったいいつごろから使われ始めたのだろうか。ちょっと気になって、ジャパンナレッジで調べてみた。イミダス2018の説明が一番詳しかった。

女性限定で気の置けない仲間が集まって、おしゃべりを楽しむ飲み会やお茶会。女性同士の宴会は昔からあったが、最近の流行は、アメリカの人気テレビドラマシリーズで映画化もされた「セックス・アンド・ザ・シティ(SEX AND THE CITY)」に影響を受けた日本の雑誌モデルらが、ブログなどで自分たちの個人的な集まりを「女子会」と称して情報発信したのが始まりだという。集まるメンバーは学生時代からの友人や職場の同僚などが多く、主な楽しみとして、同性ならではのあけすけな本音トークによるストレス発散や共感、また趣味やファッション、美容、恋愛などの話題から情報交換や刺激を得ることなどが挙げられている。

 この説明によれば、この語が広く使われるようになるのはせいぜいここ十数年のことである。実際、私がまだ日本にいた二十数年前には聞いたことがない。しかし、この説明の中にある、「女性同士の宴会は昔からあった」という一言がまた気になった。「女性同士の宴会」はいったいいつ頃からあったのであろうか。こういう問いの答えは、柳田國男や宮本常一の本の中にありそうである。でも、わざわざ彼らの著作にあたってそれを調べるだけの時間はさすがに今の私にはない。
 ところが、この問いに対する答えを立川昭二の『日本人の死生観』の中に期せずして見つけた。その答えが含まれている一節を引用しよう。

 いうまでもなく江戸時代の女性は家族や身分にきびしくしばられ、現代女性のような自由は許されなかった。しかし、そうした時代、女性にもそれなりの息抜きの行事や組織があった。たとえば正月十五日を「女の正月」といい、この日は女は朝からなにもせず、男が料理し、女はただそのご馳走を食べ、晴着を着て、近くの社寺に参詣し、仲間を集めて、親しい家々を廻りながら歌ったり踊ったりした。また五月五日の夜を「女の家」といい、この夜は男は家を出て、女だけが家にのこり、食べたり、飲んだりした。女の酒盛りである。
 こうした女の集会は、やがて女だけの伊勢参りなどの「講」の組織になり、信仰を名目に女たちが連れ立って旅をするまでになった。小林一茶に〈春風や逢坂越る女講〉という句がある。家から離れ、男から解放された女たちが、にぎやかにおしゃべりしながら旅をしている光景が街道に見られたのである。(一九九頁)

 出典は何も示されていないし、本書には歴史的根拠を示さずに安易に断定している箇所も少なくないので(まあ一般書だから、文句を言う筋合いではないのだが)、鵜呑みにしていいかどうかはわからない。でも、上掲の引用の中にあるような光景が江戸時代に見られたことを想像してみるのはちょっと楽しくありませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


旺盛な好奇心が歩かせ、歩くことが気を養う ― 神沢杜口の健康法

2021-01-23 16:37:40 | 読游摘録

 立川昭二『日本人の死生観』の「足るを知る――神沢杜口」の章からの摘録を続ける。それに昨日の記事のごとく若干の感想を付す。
 神沢杜口の生き方は遁世ではない。厭世的でもない。行脚に出るのでも、旅に生きるのでもない。田舎暮らしではなく、都会暮らしを選ぶ。私生活は慎み煩わされないように心がけながらも、人間に対して旺盛な好奇心を持ち続け、あらゆる情報や事件に興味を示し、それを記録し続けた。その観察記録が『翁草』全二百巻となった。しかも、七十九歳のときに京の大火で隠宅と『翁草』の原稿の大半とを一度失った上でのことである。

雲水の身も羨しげなれど、我都の美に馴るゝ事八十年、今更雲水の望は絶ぬ。其美と云は、華奢の美には非ず、衣は木綿あたたかし、布涼し、食は米白く味噌醤油うまし、是都の美ならずや。はた行脚の慕はしき時は、千里行の千の字を取りのけて、十里行にして、畿内近国を経歴し、わびしらになれば、日を経ずして我栖へもどる、行もかへるもすみやかなれば、倦事なく、懶き事もなく、只たのしき許なり。

 杜口のように、独り暮らしの老人が質素ながらも余裕をもって好きなことに没頭できるには、まずそれでも経済的に生活が成り立つのでなくてはならない。そして、世間や係累に煩わされないという条件も必要だ。そして、なによりも、健康であることだ。
 前半生に病弱であり、それが理由で早期退職した杜口が八十過ぎまで矍鑠として仕事ができたのは、ひとえに養生の賜物であった。彼の養生法は貝原益軒の流れにそうもので、「気」を基本とする考えであったが、気を養うためには執着しないことを大切にした。
 杜口は、各地の出来事を探訪するため、よく歩いた。八十歳になっても一日に五~七里(二〇~二八キロ)歩いて疲れなかったという。旺盛な好奇心が体を動かし歩かせ、歩くことがおのずと気を養い、結果としてそれが健康法になっていた。
 杜口が、自身そう願っていたとおり「静かに眠るが如く」に息を引き取ったのは、八十五歳、寛政七(一七九五)年二月十一日のことである。京都市上京区出水通七本松東入七番町の慈眼寺にある朽ちかけた墓石には、「辞世とはすなわち迷ひ唯死なん」という辞世否定の句が刻まれているのみで、寺にも末裔の家にもその生涯を伝えるものは何も残っていないという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「仮の世は、かりの栖こそよけれ」― 神沢杜口における引越しの美学

2021-01-22 23:59:59 | 読游摘録

 立川昭二の『日本人の死生観』を読むまで、私は神沢杜口を知らなかった。本書に取り上げられた十二人の人物の中では、知名度はもっとも低いと言っていいだろう。しかし、神沢杜口に充てられた一章は生彩に富んでいる。西行、鴨長明、兼好法師にそれぞれ割かれた最初の三章は、いずれの場合も限られた紙数の中で扱うには対象が大きすぎて、彼らの思想はやや図式化・単純化されてしまっているきらいがあるのに対して、神沢杜口ははるかに「常識人」であり、それだけ私たちに身近な存在であり、その考え方にも共感を覚えるところが少なくない人物として活写されている。
 以下、『日本人の死生観』からの摘録である。
 神沢杜口は一七一〇年京都に生まれ、一七九五年に同地で没している。与謝蕪村と親交があったが、前半生はふつうの勤め人であった。十一歳のとき神沢家の養子となり、その家付娘と結婚、二十歳頃に養父の家督を継いで京都町奉行の与力となる。いわば中級公務員である。勤務すること二十年。四十歳頃に病弱を理由に退職し、娘婿に跡を譲る。退職後も京に住み、家禄の一部をいわば年金がわりに生活の資とし、死ぬまでの四十数年、好きな俳諧のほか、『翁草』二百巻の大著をはじめ、膨大な著作の編述に没頭する。『翁草』からは森鴎外が『高瀬舟』『興津弥五右衛門の遺書』の素材を得ており、永井荷風は杜口の執筆姿勢を日記に感動を込めて記している。
 杜口は、四十四歳のときに妻に先立たれている。子どもは五人いたが、うち四人にも先立たれ、末娘が婿養子をとって家を継ぐ。孫は三人生まれたが、二人は亡くなり、一人だけ残った。ふつうならこの娘一家と暮らすはずである。それなのに、男鰥となった杜口はあえて独り暮らしを選択する。今日ならともかく、江戸時代としては稀な生き方である。
 独り暮らしを選んだ退職者ならふつう「終の栖」をさだめて落ち着こうとする。ところが、杜口は頻繁に転居する。「我仮の庵を、そこ爰と住かゆること十八ヶ所」という。死ぬまでの四十二年間に、平均二年半に一度転居していることになる。当然のことながら、それらの家は借家である。「家賃をやればそれだけの主となり、我が身さへかりの世に、自の家他の家と云差別有べきや」というのが杜口の住居についての考え方である。
 以下、一言感想を述べる。
 杜口は、転居と借家のすすめの現実的な理由を、「同じ所に居れば情が尽る」としているが、この「情が尽る」とはどういう意味だろう。飽きる、感性が鈍る、といったほどの意味だろうか。他方、「仮の世は、かりの栖こそよけれ」とも言っているから、単に飽きたから住み替えるというよりも、仮生たる人生にふさわしい暮らし方として、頻繁な転居は、いわば美学的かつ倫理的な要請でもあったのであろうか。