内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(三)― 神に酔える中世女性神秘家たち(二)

2015-03-31 12:14:45 | 哲学

 十二世紀から十四世紀にかけて、西洋中世の女性神秘家たちは、その活動・著作・書簡等によって、西洋キリスト教史に不滅の刻印を残したが、それ以後の時代になると、彼女たちの神秘思想の多くは、幾人かの神秘家に深い影響を及ぼしたということはあったにしても、その著作の大半は数世紀に渡って忘れ去られてしまい、キリスト教思想研究の中でまともに取り上げられるようになったのは二十世紀に入ってからのことであり、彼女たちの著作の中には戦後になってようやく最初の信頼できる校訂版が出版されたものさえある。そして、この「女性キリスト教徒たちの失われた歴史」(« l’histoire perdue de la chrétienté féminine » (Voir Femmes troubadours de Dieu, p. 214)が、中世以降の男性優位・知性偏重のキリスト教史を裏側から照射している。
 この「女性キリスト教徒たちの失われた歴史」を辿り直すことによって、私たちは、少なくとも、次の三つのテーマを、宗教・哲学・文学に跨る問題として立てることができる。第一に、現存在の様態としての「男性」と「女性」という問題(それぞれ「おとこせい」「おんなせい」と読むことで、性別としての男性・女性と区別し、かつ喧しい現代のジェンダー論とも一線を画すことにする)。第二に、第一の問題と不可分な仕方で提起される、知性・理性と感性・想像力との対立という問題(前者を「男性」に、後者を「女性」に配当することで形成された「分水嶺」が、中世から近代にかけての西洋思想史の山脈を貫いている)。第三に、文学と宗教における〈愛〉のモデルという問題(この問題は、中世に関しては、宮廷風恋愛詩に見られる既婚の高貴なる婦人に対する若き騎士の服従的・献身的愛というモデルが、ベギン会の女性神秘家たちによって、永遠なる神の〈愛〉の本質形象に、いわば「錬金術的操作」(ibid.)によって、変容される過程という問題として提起される)。
 これらの三重の問題群の中にエックハルトの「男性的な」知性優位の思弁的神秘主義を位置づけることで、その特異性を西洋キリスト教史の枠の中でさらに明確化することができるだろう。序に言えば、このブログでも以前に書いたことだが、私は、エックハルトの神秘主義を禅仏教に近づけて読む、いわゆる東西比較思想的アプローチに対してきわめて懐疑的である。なぜなら、そのようなアプローチの多くは、それぞれの思弁の特異性を希釈することにしかならず、その結果として、それぞれの思考の衝撃力を減衰させることにしかならないからだ。あるいは、それぞれの一番の難所を、他方の語彙を借りて言い換えただけで、実のところは何も説明していないに等しいような循環的言説は、思考の怠慢でしかない。
 このようなパースペクティヴの中で、とりわけ示唆的なのは、エックハルトがストラスブールに滞在した十年余りは、「南ドイツおよびライン河流域地方の諸修道院、ことに女子修道院と、民衆信徒の霊的生活を指導する総監督」(『上田閑照集』第七巻『マイスター・エックハルト』、183頁)としての教導が主たる使命であったにもかかわらず、その説教活動を通じてむしろエックハルトのほうがベギン会の女性たちから影響を受け、独自の神秘主義思想を、当時の現地語である中高ドイツ語によって展開していくことになり、それが後年異端の嫌疑を教皇庁からかけられる誘因の一つにもなっていることである。
 エックハルトの神秘主義を「女性」の観点から読み直すとき、以下に引用するような西谷啓治によるエックハルトのドイツ神秘主義の中での位置づけ方(それ自体は、当時の日本(一九四〇年)の神秘主義研究の水準からして、卓越していると思うが)を再検討する必要があることがわかる。

獨逸中世の女流神秘家達の像は、或は豫言者の如く荘重に、或は透視者の如く幻像に滿ち、或は詩人の如く籠れる熱情を以て、或は肉の氣なき靈そのものの如く清純に、それぞれ個性的に美しい風格を示してゐる。そして彼等を通じて、ベルナールによつて高揚された情感の神秘主義、即ち基督を花婿とする魂の婚姻、受苦の基督への同苦等が、殆んど惑溺の域にまで昂まつたのである。然るに、吾々が婦人神秘主義者からエックハルトに移ると雰圍氣が全く一變する。一ニの例外を除いて、すべての女流神秘家の世界を息苦しきまで充してゐた幻覚や幻想、禁欲の戰、殆んど變態心理と境を接する如き、受難の基督への同苦、花婿基督への思慕、幼児基督への溺愛、恍惚の興奮と寂寥感との絶え間なき交替などは全く影をひそめる。時として性的なる匂をすら感じさせる情感の陶酔や想像力の異常な昂進の代りに、そこでは明澄にして鋭利な、全く醒め切つた宗教的知性の思辨が支配してゐる。神と魂との内奥をあくまでも深く切り開き、そこに豁然と打開される神的「砂漠」を見出したエックハルトは、その知性の透徹にして大膽なると精神の高邁濶達なることに於て、西洋の全精神史のうちでも最も男性的なる思想家の一人に數へられ得る。[中略] 彼の神秘主義は普通に人が神秘主義の特色と見なす如き、そして彼以前の女流神秘家達に最も顕著に現はれた如き、宗教的情感の過度な横溢とは凡そ正反對の性格をもつている(「獨逸神秘主義」『西谷啓治著作集』第七巻、156-157頁)。

西洋中世の女性神秘家たちの今日における再発見と彼女たちの神秘思想への関心の再生は、「眠れる森の美女の目覚めの時」(Femmes troubadours de Dieu, op. cit., p. 214)が到来したことを意味している。これまでの数世紀に渡るその長い眠りは、一方では、西洋中世に蔓延していた「女嫌い・女性蔑視」を、他方では、スコラ学者たちが、知性(男性によって象徴される)に優位を置き、想像力と感覚(女性によって象徴される)を劣った力能と見なしていたことをその主な理由とする(ibid.)。













「離脱・放下」攷(二)― 神に酔える中世女性神秘家たち(一)

2015-03-30 12:55:06 | 哲学

 「魂の平等性」(l’égalité d’âme = 諸事物を前にして、それらすべてに対して等しく距離を取り、それらにいっさい惑わされることのない態度)というテーマは、エックハルトのテキストにしばしば見られるテーマの一つである。昨日の記事で取り上げた Traités et sermons (『エックハルト論述・説教集』)の訳注の最後の部分で、アラン・ド・リベラは、そのテーマが二様の次元を持っていることを指摘する。
 第一の次元は、「能動的」(active)で、「逆境・災厄を激昂することなしに受け入れること、物事をあるがままに受け取ること」(accepter sans passion l’adversité, prendre les choses comme elles sont)。第二の次元は、「瞑想的」(contemplative)で、「物事を在るがままにさせること」(laisser être les choses comme elles sont)。
 この「在るがままにさせること」という次元は、エックハルトの神秘思想にも影響を及ぼしたとされる、十三世紀半ばに活動したフランドル地方の女性神秘家アントウェルペン(アンヴェルス)のハデヴィジック(Hadewijch d’Anvers)のテキストに、「高貴さの修練と離脱の忍耐」(l’exercice de la noblesse et la patience du détachement)としてすでに見出すことができる。
 その一例として、ハデヴィジックがある女性及びその女性が属する共同体に宛てた手紙の一節を下に掲げる。ハデヴィジックの原テキストは中高オランダ語で書かれているが、アラン・ド・リベラも同注で引用している現代フランス語訳(G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988)を用いる。

Veillez donc avec grand soin à la noble perfection de votre âme, (par nature) noble et parfaite. Mais entendez bien ce que cela veut dire : tenez-vous dans l’unité sans vous mêler d’aucune œuvre bonne ou mauvaise, haute et basse ; laissez les choses suivre leurs cours et restez libre pour le seul exercice (de l’union) avec votre Bien-Aimé, et pour satisfaire aux âmes que vous aimez dans l’Amour. » (p. 160)

 どうか、それゆえ、細心の注意を払って、貴方たちの魂 ―(その本性からして)高貴で完全な魂 ― の高貴なる完全性に心を留めるようにしてください。しかし、その言わんとするところをよく心得てください。いかなる良きあるいは悪しき業、高きあるいは低き業にも関わり合うことなく、合一のうちにとどまりなさい。諸々の物事をそれが流れていくままにし、ただひたすらに貴方たちの〈最愛なるひと〉との(合一の)修練のために自由なままでありなさい。そして、それは、〈愛〉のうちで貴方たちが愛する魂を満足させるためでもあるのです。

 仏訳の下に掲げた拙和訳では、仏訳では大文字で始まっている語を〈 〉で示してある。〈最愛なるひと〉とは、もちろん神のことであり、〈愛〉とは、神の愛のことである。細かいことだが、アラン・ド・リベラの引用では、最後が « dans l’amour » と小文字になっており、これは、引用として不正確なだけでなく、誤解を招きかねない。なぜなら、この箇所は、神の愛の内においてしか人は愛せないというキリスト教的原事実を前提としているからである。
 なお、この引用の後、アラン・ド・リベラは同注の終りに、「ハイデガーは、放下のこの第二の次元を過小評価していたとも考えられなくもない」(« Il n’est pas exclu que Heidegger ait sous-estimé cette seconde dimension de la delâzenheit »)と、何か奥歯に物が挟まったような言い方でハイデガーのエックハルト理解の不十分さを仄めかしているが、この点については、もう私たちの主題から逸れるので、立ち入らない。
 明日の記事では、このハデヴィジックもその大きな流れに属している十二世紀から十四世紀初めにかけての西洋中世女性神秘家たちの言説と活動が、当時の西洋キリスト教思想の中で果たした役割、とりわけエックハルトを頂点とするライン河流域・フランドル地方神秘主義に与えた影響について、上で言及した Femmes Troubadours de Dieu(『神の女性トルバドールたち』)に依拠しながら、一瞥を与える。

 

 

 

 

 

 

 


「離脱・放下」攷(一)― ハイデガーからエックハルトへ、解釈の捻れを超えて

2015-03-29 20:37:25 | 哲学

 昨日の記事の中で、「放下(Gelassenheit)」という言葉が、現代の科学技術万能社会にあって私たちが取るべき態度を示す言葉としてハイデガーによって用いられていることに言及した。この語は、ハイデガー自身がそう言明する通り、マイスター・エックハルト神秘主義思想の根本語の一つ « Gelâzenheit » に由来する。
 この « Gelassenheit » の意味するところについてハイデガーが詳しく説明しているのは、まさにこの語そのものをタイトルとした、一九五五年に生まれ故郷メスキルヒで行った同地出身の作曲家コンラディン・クロイツァー(Conradin Kreutzer、1780-1849)の生誕一七五年記念講演と、その講演にその註釈として付加された対話篇の中でのことである。
 その講演の中で、ハイデガーは、技術世界が私たちに提供する諸事物を前にしての「魂の平等性」あるいは「魂の平穏」を指し示す語として「放下」を用いている。このような「単純で平穏な」態度は、同時に、技術世界の隠された意味への開けを私たちに与えもするという。
 ところが、このような意味をハイデガーによって与えられた「放下」は、エックハルトにおける「放下」とは厳密に区別されるべきことが、アラン・ド・リベラ訳『エックハルト論述・説教集』(Eckhart, Traités et sermons, trad. fr. Alain de Libera, 3e étidtion, GF Flammarion, 1995)の訳注の一つ(p. 188-189)の中で詳述されている。

 この訳注を一つの手がかりとして、「離脱(Abegescheidenheit)」と「放下(Gelâzenheit)」 という、エックハルト神秘主義思想の根本語の理解に少しでも迫って行きたいと思う。
 急にこのテーマを思いついたのではない。むしろ私にとって十数年来の懸案と言ったほうがよい。とはいえ、その間、この問題への取り組みを意識的に準備してきたわけではない。ただ、折に触れ、エックハルトを読み返してきたに過ぎない。
 だが、何事も機縁がなくては始まらないだろう。今回、その機縁が与えられた、ということだと思う。入念な準備の後、機が熟して、実行に移す、というのではない。ふと、「始めようか」と思ったのである。
 きわめて困難なテーマであるから、記事の継続には、多大の難渋が予想される。しかし、それもまた道行である。その難渋そのものが哲学的思考の実践の場でもあろう。先の見通しを立てることなしに、ゆっくりと粘り強く続けていきたい。途中でときどき小休止を入れることはあるだろうけれど。

 さて、上に言及した同じ訳注の中で、アラン・ド・リベラは、このハイデガーの « Gelassenheit » が、一九六六年に出版された仏訳では、« sérénité »(平静、平穏)となっており、以後、フランス哲学界では、「Gelassenheit=sérénité」 という等式が数十年に渡って流通することになったことを指摘している。つまり、この等式がフランスにおけるハイデガー技術論の解釈の方向性を決定づけたばかりでなく、仏語圏におけるエックハルト解釈にも何らかの影響を及ぼしてきたと考えられるわけである。
 おそらく、それゆえに、アラン・ド・リベラは、多数の引用を交えた懇切な注によって、エックハルトの « Gelâzenheit » は、ハイデガーの « Gelassenheit » とは厳密に区別されるべきこと、後者は、その源泉が聖書そのものにまで遡るキリスト教神学の中の « aequo animo esse »(魂の平等性=諸事物に対して等しく距離を取る魂)という思想の伝統に連なっていること、そして、そのかぎりにおいては、ハイデガーもまた、エックハルトやヤコブ・ベーメと同じ伝統の中に生きていることなどを示しているのであろう。
 私たちは、ここでハイデガーの思想圏を離脱し、明日から、まずはアラン・ド・リベラを「導師」として、そして他の碩学たちの教えにも学びつつ、一歩一歩、ドイツ神秘主義の最高峰エックハルトの「気圏」へと登っていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(十)― 科学技術に支配された現代社会における「放下」の実践

2015-03-28 15:36:46 | 読游摘録

 三月十七日から続けてきた Penser ce qui advient の紹介も、今日が最終回。
 これまでの拙ブログでの紹介記事をお読みくださり、同書に興味をもたれた方でフランス語をお読みになる方は、是非同書を自らお手にとってお読みください。そして、もしさらに詳しくダスチュール先生のお考えを知りたいとお思いになったとすれば、先生の他の著作もどうぞお読みになってください。喧しいメディアとは無縁の、現在のフランスにおける哲学の実践の最良の姿の一つがそこに生動しています。
 今日の記事は、同書の最後の五頁を対象としているが、その忠実な紹介というよりも、そこを読みながら私の裡に引き起こされた反響的思考もかなり交えた「変奏曲」になっていることを予めお断りしておく。
 ハイデガーがかの有名な講演「技術への問い」をミュンヘンでおこなったのは、一九五三年のことである。その年は、エコロジー運動がドイツで盛んになりはじめた年でもある。その講演の中で、ハイデガーが特に憂慮していたのは、科学技術の発展そのものではなく、現代人がその発展に伴う世界との関係の変化についていけなくなっていることだった。
 ハイデガーは、しばしばそう誤解されるように、科学技術に単純に真っ向から反対していたのではなかった。私たち現代人がこれから生きていかなくてはならない高度技術社会に対して、それを盲目的に拒絶することの愚かしさは、彼もそれを十分によく理解していた。
 ハイデガーがその技術論で強調したかったことは、科学技術が支配的となった現代社会が孕んでいる内的矛盾である。その矛盾とは、一方で、「自然を支配する」という近代思想の理想を現代社会は高度に達成しつつあるが、他方では、まさにその達成のゆえに、その社会の構成員である私たちがその成果の「奴隷」となりつつある、ということである。
 現代社会において、人間は、科学技術の達成を享受しているだけではなく、その操作の対象にもなっている。その典型が医療の世界である。しかし、それだけではない。私たち現代人は、科学技術のもたらす諸システムに依存せずに生きることがますます困難になっている。その結果として、自らの生活・人生について、もはやその「主人」ではありえず、逆説的にも、自分の生活・人生について、それを支配する科学技術に仕える「奴隷」に成り下がってしまっているのである。
 このような文脈において、ハイデガーは、マイスター・エックハルトに由来する « Gelassenheit »(「放下」)という言葉を用いることによって、科学技術の支配に対して、それをただ「在るがままに在らしめる」態度を前面に打ち出す。この態度は、科学技術の諸成果をそれとして利用しながら、それらに対して自由なままであること、より正確に言えば、それらは決して絶対的な支配を私たちの存在に対して行使するものではなく、本質的には私たちの存在には関与しないものと見なすことからなる。
 このような態度をもって世界を構成する「もの」らに対するとき、その「もの」らは、科学技術の操作の対象としての現われの彼方をそれとして私たちに開いてくれる。そして、その「開け」が、存在という大地に対して根無し草となった現代人である私たちに、新たな「根づき」の場所を示してくれる。
 今日、私たちは人類史上最も高度に発達し、これからもさらに発達していくであろう、ワールドワイドなコミュニケーションツールを手にしている。それは、私たちを擬似的に相互により近づきやすい対象にしているかのようだ。しかし、まさにそのヴァーチャルな「お近づき」が私たちを「もの」から遠ざけ、その「もの」においてしか開かれてこない存在から疎外しており、しかも、私たちはますますそのことに気づきにくくなっている。
 しかし、だからといって、そのコミュニケーションツールをただ否定し、それらとの接続を断てば、私たちの存在への開けが自ずと回復されるわけでもない。それらを使いこなしつつ、それらには使われない、振り回されないことが大切なのだと思う。
 存在からのそのつど真新しい贈り物がこの世界という「明るみ」に到来しつつあることに盲目にならないために、言い換えれば、世界が在るということの神秘に驚く感性を失わないために、ますます高度に科学技術によって支えられ、まさにそれゆえに否応なくその支配・統制下に置かれている現代社会において、在るものをあるがままに在らしめ、そのいずれにも執着しないための工夫を、日々試行錯誤を繰り返し、練習を重ね、実践を続けることで、凝らしていくことを、私たちは、存在から呼びかけられている。しかし、その呼びかけをこの喧騒に満ちた世界の只中で聴きとることは容易ではない。私たちはそういう困難な時代に生きているのだと思う。
 私たち自身の過ちによってもし世界が滅びるのならば、自分たちの過ちの報いとしてそれを受け入れる外はないのではないかと私は思う。きっとそのような時が迫っても、自分だけは助かりたいと切望する人たちも少なくないであろう。現代社会の「支配者」たちは、自分たちを救うために、もてる巨万の富を惜しまないであろう。それからの社会にとって「有益な」自分たち以外のすべての「無益な」人類を犠牲にすることも躊躇わないであろう。しかし、おそらく、その先にはもう未来はない。
 来るべき滅亡のその日にも、それを恐れ慄きつつ、それでもなお、その瞬間に到来しつつある存在の神秘を感受し得るものでありたい、と私は切に願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(九)― ネオ・コロニアリズム、フェミニズム、社会不平等起源論

2015-03-27 22:16:26 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の最終章第八章は、現代社会の諸問題の中から、特にネオ・コロニアリズム、フェミニズム、科学技術、エコロジーが取り上げられている。
 日本に限らず、フランスでも「ポスト・コロニアリズム」という言葉が大流行だが、したがって、この言葉も、その他の流行語同様、近い将来に藻屑のように消えていくであろうが、この対談では、現代はむしろ「ネオ・コロニアリズム」の時代として捉えられている。
 主にアフリカ諸国が念頭に置かれての話だが、「ネオ・コロニアリズム」を一言で要約すれば、かつての植民地に政治的に「自由」と「独立」を与えて、植民地時代に終わらせた後、その同じ過去の植民地諸国に、今度は、経済的援助と引き換えに、自然資源を搾取することによって再び支配下に置くことである。
 こうした経済的帝国主義は、過去の植民地支配に対する修正主義と表裏をなしている。その修正主義は、植民地主義の積極的側面を強調する。一言で言えば、政治・経済・文化・教育・医療・インフラ等など、「未開」世界に「文明」をもたらした貢献を強調しつつ、「悪いことばかりじゃなかったし、こっちが与えてやったもののお陰で、あいつらも、それまでは野蛮な状態だったのに、今となっては、政治的独立を獲得し、経済的にも発展することができたんじゃないか」と開き直るわけである。
 このような考え方の背景には、ヨーロッパ先進諸国のもうなんとも抜きがたい自民族中心主義がある。彼らは、自分たちは世界全体に通用する「普遍的なもの」を歴史的に他の諸地域に先んじて実現し、現実のシステムとして具体的に適用してきた「最も優れた」民族であるから、その他の「遅れた」地域にもそのシステムは適用されるべきである、と考えるわけである。それこそ時代遅れの世界観だという批判には耳も貸さずに、その解体されるべき幻想にいまだにしがみついているのは、なにも政治家たちには限らず、あろうことか、市民の先頭に立って権力に対して言論によって立ち向かうべき知識人・文化人の中にも少なくはないのである(彼らの中には、大きな声ではそうは言わない「賢い」連中も多いから、なおのこと質が悪い)。
 ダスチュール先生は、フェミニズムには、批判的とまでは言わないにしても、非常に警戒的である。なぜなら、社会的不平等の根源は、男女間格差・差別ではないと考えているからだ。もちろん男女間格差・差別が現実社会のいたるところにあることは、彼女も認めているし、それを放置しておいていいとも思っていない。しかし、男女間格差・差別のすべての原因が男性の側にばかりあるのではなく、女性の側にもそれを助長するような態度・生き方をしている人たちが少なくないという。こんなことをもし男性が不用意に口にすれば(私はしませんよ、臆病者ですから)、たちどころに世の良識と教養を備えた女史たちから、「男性優位主義者」「性差別主義者」とレッテルを貼られて、袋叩きにあうことであろうが、それを女性であるダスチュール先生が言っているのである。
 先生は、社会の不平等を現実的に決定づけているのは、性差でもなく、肌の色でもなく、社会的地位と貧富の格差だとずっと思ってきたという。このような確信には、やはり自分の貧しい労働者階級という出自が反映していることは否定できないだろう。
 より具体的には、手仕事・手作業を貶める価値観の支配する階級社会こそが不平等の起源だということである。今日の民主主義社会もそのような価値観から少しも自由になっていないどころか、ますます深刻化していると先生は見る。若きマルクスが夢見たような、諸個人が、一つの職業に縛られることなく、「朝に狩り、午後は釣り、夕べには家畜の飼育、夕食後には批評家と、好きなように選びつつ、しかもそのいずれの専門家にもならない」ような社会から、現代はますます遠ざかろうとしているのである。
 明日の記事では同章の後半、科学技術に支配された現代社会とエコロジーの問題を論じている箇所を紹介する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(八)― 哲学の外なる思想の経験との対話

2015-03-26 11:57:56 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第七章は、« Orient / Occident » と題されていて、ダスチュール先生の「非ヨーロッパ」との出会いと対話を主題としている。
 先生は、ソルボンヌの学部三年生であった一九六三-六四年度にフライブルク大学で一年間ドイツ国家給費留学生として学業に集中するチャンスに恵まれた。ドイツを留学先に選んだのは、一八世紀末から二十世紀初頭にかけてのドイツの哲学と文学がヨーロッパ文化の精髄をもっともよく代表していると考え、その研究に集中しようという決意からであった。
 そのドイツ留学時代に、将来夫となる留学生と出会う。その留学生は、インドからの留学生で、パ―ルシー(九世紀にペルシアでイスラム教徒の迫害を避けてインドに逃れてきたゾロアスター教徒)の末裔であった。当時のフライブルク大学には、同時代のソルボンヌに比べて、はるかに多くの「第三世界」(アフリカ、アジア、中東などの非ヨーロッパ圏の諸国)からの留学生が学びに来ていた。ダスチュール先生自身、ドイツでは外国人留学生だったわけで、それらの非ヨーロッパ諸国の留学生たちと留学の当初から顔を合わせる機会が頻繁にあったという。
 この出会いが、それまで古代ギリシア語とドイツ語の哲学と文学とに限定されていた先生の学問的・思想的関心を一気にヨーロッパ圏外へと拡大させる。留学中に、将来のご主人の手引で、ヒンディー語とサンスクリット語の学習とゾロアスター教の研究を始める。留学後、パリに戻ってからも、当時の東洋語学校(現在のイナルコの前身で、「ラング・ゾー」の通称で知られていた)に通ってヒンディー語の学習を継続する。それには、ご主人と一緒にインドに移住する計画を当時立てていたということもあった。しかし、この計画は、先生がソルボンヌの助手に任用されるという予想外の展開のために放棄されることになる。
 しかし、先生は、結婚後、最初は夫の家族に会うため、そして後には講義・講演のためにも、インドにしばしば滞在する機会を持つようになり、そこで非ヨーロッパ世界での社会生活をまさに身をもって経験することになる。この経験が先生の世界への眼差しを大きく転回させることになる。
 ヨーロッパでは、インドについて、いまだ否定的なイメージがつきまとう。今日もなお不公平きわまるカースト制の残滓が見られる非民主的な国家だという偏見が根強い。特に、平等主義を掲げ、政教分離が確立した共和国として、自国を鼻にかける輩が少なくないフランスでは、ことほかそれが目につく。
 ところが、民主主義賛美の美辞麗句を並べた偽善的な言説がいまだに横行するフランスこそ、「一種のカースト社会」だと先生は批判する。近代社会は、前近代社会の階級制を終焉させたどころか、「権利上平等な社会秩序」という表層の下に、階級制を別の形で再生産しているに過ぎない。一介の工場労働者や被雇用者たちが、社会の富の大半を独占している三百人ほどの富豪たちと同じ人類に属していると、いったいどうしたら信じることができるだろうか。「エリート主義」の根強いフランス国家・社会に対する先生の眼差しは、ご自身が貧しい労働者階級の出身であるだけに、とても厳しい。
 このような手厳しいフランス批判の後に、先生は、現代インド社会における民主化の進展と伝統的に異なった多種の信仰に対する寛容さとを、具体例を挙げて強調している。その上で、これらのことをすべて考慮するとき、どうして、ヨーロッパ文化全体を、これまでとまったく別の視角から考えなおさずにいられるだろうか、と問う。
 その別の視角から見れば、ヨーロッパは、ヴァレリーが言うように、「アジア大陸の小さな岬」なのであり、そのヨーロッパが「地上世界の貴重な部分」になったのも、アジアからもたらされたものにその多くを負っていることがわかる。
 しかしながら、ヨーロッパにおける「自民族中心主義」は根深く、フッサールでさえ、その例外ではなく、ハイデガーもまた、少なくとも三十年代までは、フッサールと同じような世界観を持っていた。
 とはいえ、ハイデガーに無条件的な西欧中心主義者を見るのは誤りだと先生は言う。特に、Ereignis (創文社版『ハイデッガー全集』では「性起」という、どうしたらこんな変な日本語(とも言えない)訳(とも言えない)があてられているが、ダスチュール先生は « événement »(出来事)という普通のフランス語をあてている)を巡っての言説には、西洋哲学を超え出て踏み出されるべき一歩が見られる。ハイデガーが Ereignis(「出来事」)というとき、それは、現存在である人間がすべてそこに置かれ、存在の到来へと開かれている世界という「明るみ」での事柄であり、そこにおいてこそ、西洋哲学の枠組みを超えたところでの対話が可能になる。その対話の一つの例として、ハイデガーが手塚富雄と一九五三年から一九五四年にかけて行った対話が挙げられている(この対話がハイデガーに『言葉についての対話』を書かせることになったことはご存じの方も多いであろう)。
 先生ご自身、西洋哲学の枠組みの中にしっかりと自覚的に立ち位置を取りながら、その外なる思想の経験との対話をたゆまず実践されている。今から十四年前、Daseinsanalyse のセミナーで木村敏の著作の仏訳がメイン・テキストとして読解の対象となっていた年に、そこに頻繁に引用されていた西田哲学に、とりわけ「行為的直観」という概念に関心を持たれた先生は、原語をそのまま「コーイテキチョッカーン」と面白そうに繰り返し発音しながら、私たちの拙い説明に辛抱強く耳を傾け、それの意味するところを理解しようと努められていたことを懐かしく思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


間奏曲 ― 医術の在り方、あるいは十七頭のラクダの話

2015-03-25 06:30:04 | 読游摘録

 先週から紹介を続けている Penser ce qui advient には、あと二章残っているが、今日は一休み。くたびれたからではなくて、昨日の記事の補遺として、紹介したい話が一つあるからだ。
 やはり昨日紹介した、ダスチュール先生とカベスタン氏の共著 Daseinsanalyse の結論部には、医術としての現存在分析は、現場において具体的にどのような態度となって現れるべきなのかというデリケートな問題に答えるために、その一つの出発点を提供してくれるであろうと、メダルト・ボスのIntroduction à la médecine psychosomatique (心身医学序説)に引用されている、アラブに古くから伝わる伝説がそっくりそのまま引用されている。それは次のような話である。

年老いた父親が、その死の床に三人の息子たちを呼び、彼の全財産を彼らに相続させる旨伝えた。その全財産とは、十七頭のラクダである。長男には、その半分、次男にはその三分の一、三男には九分の一、それぞれ相続させる。これだけ言うと、父親は息をひきとった。三人の息子たちは、どうしてよいかわからず、すっかし頭を抱えてしまった。そこで、一人の貧しい賢者に知恵を借りることにした。この賢者は、たった一頭のラクダしか所有していない。息子たちは、賢者を呼んで、自分たちが当面している、この見たところ解決不能な相続問題をなんとかするよう助けてほしいと頼んだ。息子たちの話を聴いた賢者が彼らに提案したのは、ただ、自分が所有していた一頭のラクダを、彼らが相続するべき十七頭に付け加えることだった。ところが、それによって、たちどころに難問が解けた。三人の息子たちは、父親の遺言通り、それぞれの相続分を受け取ることができるようになったのである。つまり、長男が半分の九頭、次男が三分の一の六頭、三男が九分の一の二頭を受け取ったのである。しかし、それらを足しても十七頭にしかならないではないか。当然のこととして、十八番目のラクダは、つまり賢者の一頭はその中には数えられていない。もう必要ないからだ。たとえ、それが一時必要だったとしても。

 この話には、様々な解釈が可能な要素が複数含まれてはいる。残された三人の息子たちの困惑、相続分の不均等性、父の遺言の忠実な実行、賢者の貧困など。しかし、メダルト・ボスは、この賢者の振る舞い方を特に強調したかったのである。というのは、医術の精髄はこのようなものだと彼は考えるからだ。つまり、話の中の賢者のように、分別を持って適切に、必要なときに必要な場所に介入し、用が済めば、そこから姿を消す、それこそが医術なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(七)― 存在関係総体の療法としての現存在分析

2015-03-24 21:12:51 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第六章のタイトルは、「精神医学、精神分析、現存在分析」となっており、現存在分析の根本規定とその精神療法としての現代的可能性と問題が主な内容となっている。
 ダスチュール先生は、一九九三年に設立された「現存在分析フランス学会」の四人の設立者の一人であり、現在はその名誉会長。対談相手のカベスタン氏は、ここ十年あまり、同学会の最高責任者の一人である。二人は、Daseinsanalyse(現存在分析)という書名の共著(220頁)を二〇一一年に Vrin 書店から刊行しており、その中で、順に、現存在分析の基礎概念とその要諦、前史・先駆者、創始者ビンスワンガーと「再創始者」メダルト・ボスの貢献、その継承者たち(そのなかには木村敏も入っており、七頁に渡って紹介されている)による展開、フロイトの精神分析学との対比を、実に丁寧に行き届いた仕方で説明している。
 対談は、この本の内容を前提としているが、それだけを読んでも、精神療法として現存在分析がどのような哲学を基礎に据えているのかはよくわかる。言うまでもなく、その核心はハイデガーの哲学であるが、フッサールにまで遡る基礎概念も導入されており、現存在分析をハイデガー哲学の精神医学における臨床的適用と単純に見なすことはできない。現存在分析は、ハイデガー哲学の臨床的応用、転用、流用、借用、そのいずれでもない。
 今日の記事は、いつものような内容紹介ではなく、同章を読んで私の中に引き起こされた反応的思考の記録である。
 ハイデガーは、晩年の十数年間、メダルト・ボスと親交を結び、一九五九年から一九六九年にかけて、スイスのチューリッヒ近郊にあるツォリコーンのボスの自宅で、定期的なゼミナールを開いていた。そのゼミナールの記録は、邦訳『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房)も出版されているから、ご存じの方も多いであろう。そのゼミナールに参加していたのは、五十人ほどの精神科医や臨床心理学者たちだった。
 今も世界各地でさまざまな形で継続されている現存在分析の実践において、ハイデガー哲学の実存的「有効性」が、臨床の現場で試されている。この意味で、療法としての現存在分析は、一つの哲学的実践である。しかも、それは、治療者の患者に対する施療として一方的実践されうるものではなく、患者と治療者という制度的な関係を超えた、両者による一つの協働的な哲学的実践なのである。そうでなければ、現存在分析は、そもそも療法として成り立たない。
 現存在とは、個的に独立した人間存在のことではなく、人間の自己関係に内閉されることはありえず、「そこに在る」ことによって、己自身ではない他の存在者の存在へと開かれている。したがって、現存在分析は、個体の実存の分析ではなく、療法としての現存在分析は、個体としての患者の治療ではありえない。そこで問われるのは、なによりももまず、現存在において開かれてあるべき存在関係に発生した問題なのである。
 だから、療法としての現存在分析は、一個の人間を心身まるごと対象にするだけでなく、その人間の他の諸存在との関係の総体を対象とする。そして、その関係の総体の中には、当の治療者の患者に対する関係も必然的に含まれている。治療者のそこでの仕事は、患者の「病」を治すことではなく、傷ついた存在関係の自発的再生を関係性そのもの中で手助けすることである。
 現存在分析は、あらゆる意味で、人間を一つの独立したメカニズムとして扱うことを拒否する。ビンスワンガーもボスも、分析家・治療者としてのフロイトには賛辞を惜しまなかったが、ひとたびフロイトが精神分析を「学」として基礎づけようとし、心的メカニズムを想定し、それによってあらゆる心的障害を説明しようとしはじめたところで、精神分析学と袂を分ったのも、それゆえのことである。
 今日、現存在分析はもう過去のものと考えている専門家も少なくないようである。精神分析が幸わう国フランスでも、現存在分析の支持者は少数派である。問題のタイプによっては、他により有効な治療法もあるであろう。しかし、現存在が、己以外の存在者の存在につねに開かれていて、それゆえ、傷つく可能性をつねにもった存在であり、現存在分析が、傷ついた存在関係の総体の治癒を目指すものであるとすれば、今日こそ、単に臨床の現場にある人たちによってばかりでなく、私たちの日々の暮らしの中で、現存在分析は学び直されなくてはならないのではなかと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(六)― 人間を動物から分かつ「深淵」

2015-03-23 14:19:51 | 読游摘録

 Penser ce qui advient 第五章は、« L’homme, l’animal » というそのタイトルからも推測できるように、人間と動物との区別と関係、さらにはその他のすべての生き物との区別と関係がテーマである。これまでの章と同様、ハイデガーの議論を絶えず参照しながら、ダスチュール先生の考えが表明されている。ハイデガーにおける、「人間と動物との間には、両者を分け隔てる「深淵」がある」というテーゼにまつわる誤解を解きながら、議論は展開する。
 以下、ダスチュールの主張を私の方でまとめて提示するので、「師曰く」といった類の表現は、これを一切省略する。
 上記のテーゼは、人間の動物に対する、さらに他のすべての生物に対する絶対的優位性を主張しているのではない。それは、まったく逆に、人間を理性的動物と規定したアリストテレス哲学以降の人間観、そこから派生する人間中心主義、特に他の生物に対する人間の支配的立場の正当化を、根本的に問い直そうという意図から提示されている。
 人間と動物との連続性を認めた上で人間の固有性を理性に求めるという考え方は、さまざまな形をとって今日まで生き延びているが、一方、現代の生命科学の知見によれば、ますます人間と動物との差異は相対化されており、人間に固有と考えられてきた心理的現象も、脳内の情報伝達のシステムに還元されようとしている。
 しかし、いかなる科学者も、観察対象が生きる世界に人間として内属しているかぎり、まったくその世界に対して超越的な立場に立つことはできない。むしろ、世界へのこの本来的な内属性が、己自身が生きる世界内において、その「明るみ」の中に到来する存在をそれとして把握することを可能にしている。
 この存在は、しかし、主観に対する客観的対象として認識されるのではなく、つねに「己の外へと立たされている」被投企的な現存在である人間に出来事として到来する。世界の「明るみ」への存在の到来の場所が人間なのであって、人間がその「明るみ」そのものなのではなく、その起源なのでもない。人間は、その「明るみ」の主人なのではなく、そこへと到来する出来事の、いわば「番人」なのである。
 このように、世界へと到来するものに応じて開かれた可変的な関係性そのものが人間存在なのである。この関係性が人間に固有なものであり、それを根拠に他の生き物と人間との間には両者を分かつ「深淵」があると主張することは、一方で、人間の形而上学的優位性、その近代的な形態である進化論的な優位性を主張する一切の人間中心主義と手を切ることを意味しているのであり、他方では、人間を他の生物と等しく対象化しようとする科学的普遍主義、生物間に見られる「種差」からの類推によって「人種」間の優劣を根拠づけようとする疑似科学主義に対する根本的な批判を含意してもいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(五)― 死に対し、この身を守る術なく、ただなよなよと恐れ慄く

2015-03-22 17:55:55 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第四章は、 « Le temps, la mort » と題され、時間と死という、人間存在にとってそれぞれに大きな問題であるばかりでなく、相互に密接に結びついた二つの主題がそこで取り上げられている。ここでも、ダスチュール先生の思索の導きの糸となっているのはハイデガーである。
 先生が最初に出版された単行本は、一九九〇年にPUFから « Philosophies » という、日本で言えば新書サイズに該当するシリーズの一冊として刊行された Heidegger et la question du temps(ハイデガーと時間の問題)で、この本の第三版(一九九九年)は、今でもフランスにおけるハイデガー研究の基礎文献の一つとしてよく読まれている。この本の基になっているのは、先生の大学でのそれまでの講義ノートであり、ハイデガーにおける時間の問題を核とした時間論は、ダスチュール先生にとって、若き日からの主要問題の一つである。
 一方、死の問題に関しては、先生は、フランスの現役の哲学者の中で、哲学の問題として正面から死を論じ、著作を出版しているおそらく唯一人の哲学者である。特に、その初版が一九九四年に Hatier から、二〇〇七年に増補版がPUFから出版された La mort. Essais sur la finitude は、ジャンケレヴィッチの『死』(一九六六年)以後、死を哲学的主題として取り扱ったもっとも重要な文献の一つである。
 先生の時間論の主要テーゼを簡略にまとめるならば、次のようになるだろう。存在が己の姿を現存在の「明るみ」において現しゆくことそのことが時間である。移りゆく時の彼方に真理の住処として永遠性を措定する形而上学も、万有を移りゆきの中に溶解して自同的存在を生成の内に雲散霧消させる相対主義も、存在と時間を対立させている点では同じである。しかし、両者はそのように対立させるべき互いに排他的な二項ではない。現存在の「明るみ」への存在の到来こそが時間なのである。存在と時間との関係は、時間とは本来独立の存在が時間の中にその一部を顕在化させるということではなく、端的に言えば、存在とは時間なのである。
 このような時間論を前提として、死の存在論が展開される。ハイデガーが現存在の本質を « Sein zum Tode »(死への存在)と規定するとき、それは、生に不可避的にある日到来する死という結末に向かって人間は生きている、と言いたいのではなく、「死ぬ」とは、「不可避的な死に向かって生きる」過程だということである。この過程においてのみ、「在ることができる」ということがそれとして経験されるのであり、この可能的存在には終りがあることの絶対的確実性が、この有限な生におけるもっとも堅固な確実性の経験を私たちに与える。
 カベスタン氏は、そのような死すべき存在としての人間の死に対する真正な態度とは、どのような態度か、と問う。そして、三つの可能な態度を例として挙げる。それは、「死を克服する」(surmonter la mort)「死を無力化する」(neutraliser la mort)「死を引き受ける」(assumer la mort)である。
 この問に対して、ダスチュール先生は、例として挙げられた三つの態度の違いを明らかにしつつ、丁寧に答えていく。
 第一の「死を克服する」という態度は、それが神話的、宗教的あるいは哲学的な問題として問われるときは、魂の不死あるいはその永遠性への帰一という形を取るが、今日では、科学の進歩を根拠に、老化を遅らせ、死をできるだけ遠ざけ、さらには臓器移植や人工的な生命装置よる無際限の延命措置という形を取ることが多い。
 第二の「死を無力化する」という態度は、日々の気晴らしによって死から目を背け、死は自分以外の他者にのみ起る〈人〉の出来事で、この私の出来事ではないとして、死という問題そのものを「解消」してしまうという形を取るか、自分一個の有限の生を超えて様々な形で後世に残しう得るもの(遺伝子がその際たるものだが)によって死を相対化する「策謀」という形を取る。
 第三の「死を引き受ける」という態度は、ある種の哲学や宗教が教えるように、来るべき死に備えるということだろうか。そうではないと先生は考える。なぜなら、そのような場合、死への備えは、結局のところ、永遠なる生への準備段階でしかなく、第一の態度に帰着してしまうからだ。
 第一の態度も第二の態度も、死を、できることなら避けたいが避けられない「悪」、あるいは「敵」と見なしている。だからこそ、一方では、なんとかしてそれを遠ざけよう、避けようとし、他方では、それに恐れずに敢然と立ち向かおうという「英雄的」態度が出てくる。
 しかし、死には、もう一つ「別の顔」、「もっと好ましい顔」あるのではないか。その「顔」に近づくことは、死が引き起こす恐れ慄きを「黙らせる」ことではなく、無防備なままにその恐れ慄きに「身を委ねる」ことを受け入れることである。そのとき、私たちは、死の不可避性や生の有限性は、私たちの実存の「障害」ではなく、むしろそれら実存の限界こそが私たちの実存を可能にしていることを理解するに至るのではないか。ハイデガーの、死すべき存在である人間は、死が「可能な」存在である、という言明が意味するのは、このようなことだと思うと先生は言う。

Accéder à ce que j’ai déjà nommé cet autre visage de la mort, un visage plus aimable, ne peut signifier faire taire l’angoisse qu’elle génère, mais plutôt accepter de s’y livrer sans défense. On parviendrait alors peut-être à comprendre que la mortalité et la finitude ne sont pas des obstacles et que ces limites de l’existence sont au contraire ce qui la rend possible. C’est, je crois, ce que Heidegger voulait dire en affirmant que ces mortels que sont les hommes sont ceux qui sont « capables » de la mort (p. 85).


 私はこの箇所を読んで、本居宣長の「もののあはれ」論を思い出した。例えば、『石上私淑語』の次の一節など。

すべて世の中にありとある事にふれて、その趣き・心ばへをわきまへ知りて、うれしかるべきことはうれしく、をかしかるべきことはをかしく、悲しかるべきことは悲しく、恋しかるべきことは恋しく、それぞれに情(こころ)が感(うご)くが、物のあはれを知るなり。

 恐ろしき死に対し、無力なこの身を守る術なく、ただなよなよと恐れ慄くことを、気晴らしや忙しさにかまけることで避けるのでもなく、「雄々しく」克服するのでもなく、情けないことと恥ずかしがるのでもなく、ただそのように「情が感く」にまかせるとき、世界はこの上なく切なく美しものとして私たちに贈与されていることに私たちは気づくのではないだろうか。