内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「後進文化圏としてのおのれを展開させるみち」― 川口久雄『菅家文草 菅家後集』解説より

2025-01-27 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で引用した川口久雄『菅家文草 菅家後集』解説の「結び、文学史的地位」に提示された雄大な比較文化・文学的視座は示唆的である。

大陸の異質な文化の重圧にたえて、東海の島国に自国文化を形成してきたわが古代にあって、巨大な中国古典遺産をたとえひきうつしにせよ、継承することが、後進文化圏としてのおのれを展開させるみちであった。原型とはやや次元を異にし、変容されたものではあっても、異質な文化的重圧はかくしてのみのりこえられるべきであった。言語・文学の面についていえば、漢文という古典の言語・文学の形式が日本化して日本漢文を形成する過程において、同時に日本語および日本文学の形式に影響を与えずにはやまなかった。すなわち日本語を洗練し豊富にし、また日本文学に芸術的生命をふきこみ、それ以後の展開を可能ならしめた。古今の真名序から仮名序の散文が、寛平期の漢文の散文形式から、延喜・天暦期の日本語の散文が生まれでてくる。きくところによれば、ちょうどラテン系の諸形式から、ヨーロッパ・バロック文学が生まれてくるように。源氏や枕の文体さえも、このような漢文系の形式と内容との影響をうけて形成されることが分析されつつある。そしてかような道筋は、明治において西欧という異質文化の重圧をうけた際に、奇しくも同じ足跡をたどろうとして現に苦闘しつつあるのである。こういう意味において、わが国の精神文化の形成を考える上において、道真において典型的にみられる漢文学の受容と日本漢文の形成は今日においても無意味ではあるまい。

 圧倒的な優位に立つ古代中国文明・文化に飲み込まれてしまうことなく、その摂取と変容と「うつし」を通じて数世紀をかけて徐々に形成されていったのが中古の日本語であるとすれば、明治以降急速に摂取・受容された西洋文明・文化をその不可欠の栄養素としながら、それを十分に吸収したとはいえない現代日本語はまだ形成途上にあるのではないだろうか。そうであればこそ、二つの外なる源泉から繰り返し養分を吸収することで形成されてきた日本語は、外に学ぶということ忘れなければ、これからもまだまだ「成長」できる言語なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


〈静心無〉― この世に生きる人の実存的様態

2024-12-26 10:27:16 | 哲学

 昨日の記事で述べたように、『和泉式部集』の一例を除いて、中古の文学作品において「静心」は「なし」と結合してほぼ一語化している。『ジャパンナレッジ』で小学館の日本古典文学全集全文に検索をかけても同様な結果が得られる。昨日挙げた作品以外では『栄花物語』に29例あるのが目立つ。
 語構成としては〈静心+なし〉と分解できるわけだが、「静心」が単独で名詞として用いられることがなく「静心なく」という副詞的用法が圧倒的に多く、体言を修飾する形容詞あるいはその述語としての用例が若干という言語的事実は何を意味しているのだろうか。
 どの古語辞書の「しづごごろ」の項を見ても、「静かな心」「落ち着いた心」といった語釈を示すのみで、そのような心の実在は当然のことのようにみなされており、なぜ用法としては「なし」を伴う例が圧倒的多いのか、その理由についての説明がない。
 人の心の安定した状態としての「静心」を示す例がない(和泉式部歌中の例「しづ心ある褻衣」は「家で落ち着いているときの平常着」の意で人の心の状態のことではない)からといって、「静かな心」「落ち着いた心」という意味での「静心」が現実に経験されることはなかったということにはもちろんならない。そのような平静な状態あるいは常態としての実定的な「静かな心」は、まさにそれが理由で文学作品において取り立てて表現する対象とはならなかったと一応は考えられる。
 では、人の心の状態が平常とは異なる不安定な欠如態に一時的に置かれたときに、その状態で何かが行われる様が「静心なく」と表現されるだけのことなのだろうか。確かに、『源氏物語』や『栄花物語』ではそのような用例がほとんどである。
 しかし、友則の「静心なく花の散るらむ」は、人の心のことではなく、散り急ぐ桜花の落花様態であり、「静心なく」は桜にとって常態である。
 和泉式部の「物思へばしづ心なき世の中にのどかにも降る雨のうちかな」においては、心休まることのない人の世(特に男女の仲)とそれを包み込むように穏やかに降る雨(「降る」に「経る」を、「雨」に「天」を掛ける)とが対比されており、「静心なき」は世(特に男女の仲)の常である。
 昨日も引用した紫式部の「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる舟のしづ心なき」については、ルネ・シフェールがその『紫式部集』仏訳(Murasaki-shikibu, Poèmes, POF, 1986)の同歌の註で « Il s’agit de tout autre chose que d’une simple description de paysage, la barque secouée par la tempête étant une image de la précarité du destin de l’homme en ce bas-monde. » (p. 24) と指摘しているように、これは単なる叙景歌ではなく、この俗世での人間の運命の不安定さを詠んだ一首である。
 これらの歌が表現している〈静心無〉は、何らかの理由で一時的に静心を失った一過性の心理的欠如態ではなく、モノの不可避的な有限で儚い存在様態、あるいは、静心を求めつつもそれを得られずにこの世を生き続けなければならない人間の実存的様態である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Inquiétude は、「不安」ではなく、「現に在るところのものに満足せず、常にその先を求める自発的な性向」である

2024-12-24 10:58:45 | 哲学

 Le Grand Robert (2024)の « inquiétude » の項には、三番目の語義として、Lalande の Vocabulaire technique et critique de la philosophie (17ème édition, PUF, 1991 ; 1re édition « Quadrige », 2002) の « inquiétude » の項から以下の定義が引用されている。

« Disposition spontanée (…) consistant à ne pas se contenter de ce qui est, et à chercher toujours au-delà. »

 「現に在るところのものに満足せず、常にその先を求める自発的な性向」ということだが、(…) で省略された部分には « plutôt active qu’affective »(「情意的であるよりは活動的な」)という補足規定がラランドでは挿入されている。
 つまり、この第三の語義において、inquiétude とは、単に不安定な心理状態のことではなく、何かに向かっての活動を引き起こす心的様態を意味している。
 このような inquiétude の用法はライプニッツの『人間知性新論』に見られるが、ライプニッツはこの語をジョン・ロックの『人間悟性論』のなかの uneasiness の訳語として用いている。
 ロックにおいて、uneasiness とは、不快という情意的な状態のことで、あらゆる意志行為の決定的な原因である。つまり、つまり、現状に何か居心地の悪さあるいは何らかの欠如を感じていることがすべての意志的行動の決定因だというのである。
 このような情意的状態は、意志的に志向されることはなく、各自においていわば「おのずから」感受される。人間の存在様態として「おのずから」発生するこの心的状態が「みずから」起こすあらゆる行動の起動因だと言い換えることもできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


真理探究の始源としての「安らぎなき心」

2024-12-23 07:18:13 | 哲学

 パスカルの『パンセ』に出てくる inquiétude は「不安」と訳される。例えば、断章19(セリエ版、ラフュマ版400、ブランシュヴィック版427)を見てみよう。

L’homme ne sait à quel rang se mettre. Il est visiblement égaré et tombé de son vrai lieu sans le pouvoir retrouver. Il le cherche partout avec inquiétude et sans succès dans des ténèbres impénétrables.

人間はどんな地位に自分を置いたらいいのかを知らない。彼らは明らかに道に迷っているのであり、自分の本来の場所から落ちたまま、それを再び見いだせないでいる。彼はそれを、見通すことのできない暗黒のなかで、不安にかられて、いたるところに求めているが、成功しない。(中公文庫、前田陽一訳)

 この断章中の訳語としての「不安」を別の日本語に置き換えるのは難しい。ただ、日本語の「不安」の通常の用例からの類推だけでは、パスカルにおける inquiétude の積極的意味は捉えがたい。
 「将来に対する不安」という表現は、将来についての見通しが立たず、あれこれと困難や障害が想像されて、気持ちが落ち着かない状態を意味していることが多い。なにかはっきりとした原因や理由があってあることが心配になるというよりも、むしろそれらがはっきりしないからこそ発生する不安定な心理状態が「不安」である。
 この状態が高じると、今やるべきことに集中できなくなる。つまり、現在の活動が阻害される。行動への意欲が削がれる。このような意味での「不安」に積極的な意味づけを与えることは難しい。
 不安に負けずに今できることに取り組むことができている場合であっても、それは、今できることに集中することによって不安を追い払おうとしているのであって、不安そのものが活動の原動力になっているわけではない。
 ところが、inquiétude は、探し求めているものがあるのだが、それがまだ見つかっておらず、心が満たされていないがゆえに、探し続けずにはいられないという、休むことなき(sans repos)精神の動的状態を意味することがある。
 この意味での inquiétude は、アウグスティヌスの『告白』にその淵源がある。 « fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te. »(I, 1, 1「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」) 
 この意味での inquiétude を真理探究の始源とする哲学の系譜の起点がパスカルであるというのが Laurence Devillairs が Philosophie de Pascal. Le principe d’inquiétude, PUF, 2022 で主張しているテーゼである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「みずから」と「おのずから」の接点を求めて ―『方丈記』の「一間の庵、みづからこれを愛す」を起点として(下)

2024-12-16 00:57:20 | 哲学

 古典的名著のなかの瑕瑾を血眼になって探し出して悦に入るような詮無き気晴らしがここでの目的ではない。
 偶然性の問題を考察するにあたって「おのづから」という副詞が一つの重要な概念になりうることは確かである。だが、13日の記事でも言及したように、この副詞は取り扱いに注意を要する。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)によると、「オノは、代名詞のオノ(己)。ツは、上代に用いられた、体言と体言とを関係づける連体格の格助詞。カラは「族・柄」で、生まれつきの意。よって、物事がもともとのそのままが原義。そこから、ひとりでに、たまたま、万一などの意が派生する。」
 昨日の記事に引用した『方丈記』の一節のなかで「おのづから」は「たまたま」という派生義で使われている。ところが、今月12日の記事で同じく『方丈記』から引用した「暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり」のなかの「おのづから」は「たまたま」ではない。現代の注釈書では「自然と」と訳されていることが多い。
 しかし、この「自然と」とはどういうことか。「なんとなく」という訳を当てている注釈書もある。いずれにしてもこれらの訳語だけではこの文での「おのづから」のニュアンスがいまひとつよく捉えられない。
 ひとつ言えそうなことは、主体の意思・作為の不介入ということである。つまり、感じる主体である長明の心において、何ら長明「自ら」の考えも意図も介入することなく、「暁の雨」と「木の葉吹く嵐」との類似性がそれとして感受された、ということである。フランス語で長明のこの経験を言い表せば、 « cette ressemblance s’éprouve ainsi en moi. » とでもなろうか。一言で言えば、「ひとりでに事が成る」ということである。その成り様が「おのずから」である。
 もうひとつ言えそうなことは、この「おのずから」は「必ず」ではない、必然性ではない、ということである。上掲の例に即して言えば、両者の類似性は必然的ではなく、かといって恣意的でもない。ある事・経験が一旦起動されてしまえば必然に従う(あるいはそう見える・思われる)が、その事の起動自体は必然に属していない。このような偶発事を起点とした準必然的な経験の様態を事の起動後に言い表すときに「おのずから」という言葉が使われる。つまり、事が一旦成立した後に、その事はそうなる他はなかったのだと認証するとき「おのずから」と言われる。
 こう考えてよければ、「おのずから」と「みずから」の接点が「おのずと」見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「みずから」と「おのずから」の接点を求めて ―『方丈記』の「一間の庵、みづからこれを愛す」を起点として(上)

2024-12-15 08:16:06 | 哲学

 日本の古典文学作品からある語の用例を挙げて、その語釈を根拠に議論を展開する。これは授業や論文で私もよく使う手段である。これによって議論に一定の説得性をもたせることができる。が、当該の古典作品の専門家による注解をちゃんと読み込んでから実行しないと、思わぬところで足を踏みはずしかねない。
 古今東西の古典から自在に引用して絢爛豪華な議論を披露なさる著作家や教授先生方もいらっしゃるが(誰のことか、皆様適当にご想像ください)、そのきらびやかさに目が眩んで、その議論に含まれた牽強付会やアナクロニズムが見えなくなってしまうことがある。いや、書いている本人自身それに気づいていないこともある。
 出だしがちょっと大げさになりすぎた。言いたいことは、もっと小さな、しかし、大事なことである。
 九鬼周造の『偶然性の問題』(1935年)が第一級の哲学書であることを讃嘆の念とともに認めたうえでのことだが、同書での古語の語釈にはときにかなり初歩的な誤りが見られ、その引用が少しも立論の根拠になっていないことがあるのをかねてから残念に思っていた。
 一例を挙げる。
 第二章「仮説的偶然」一二「因果的消極的偶然」で九鬼は『方丈記』の次の一節を引用している。

今さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、かへりてここにをる時は他の俗塵に馳する事をあはれむ。

 この引用中の「おのづから」に注して、「自然」を意味し、「その結果としてかえって因果的偶然に対立する」と九鬼は言っているが、これは誤りである。この「おのづから」はまさに「たまたま、偶然」という意味で使われている。「みづから」と「おのづから」が近接して使われているから両者の語義を対比的に示すのに好都合な箇所だとでも思ったのだろう。しかし、この節での九鬼自身の立論のためにこの引用はまったく必要ない。たとえこうした初歩的な誤りは論脈のなかでは瑕瑾に過ぎないと片づけられるとしても、当の古典作品に対して礼を失した態度だと私は感じる。
 「やめときゃよかったのに」の感なしとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


fragile と vulnérableの用例採集( 3)― vulnérabilité は「他者を思いやり、他者のために苦しむことを可能にする力」

2024-11-18 00:27:51 | 哲学

 コリーヌ・ペリュションがここ15年ほどにわたって展開・深化させてきた「傷つきやすさの倫理」(éthique de la vulnérabilité、以下「V の倫理」と略す)をその明示的な出発点から辿り直すためには、2009年に PUF から刊行された L’autonomie brisée. Bioéthique et philosophie と 2011年に Cerf から刊行された Éléments pour une éthique de la vulnérabilité. Les hommes, les animaux, la nature とをまず読まなくてはならない。その後に現在に至るまで彼女が矢継ぎ早に刊行している諸著作のなかでも、V の倫理に言及されているところでは両書への参照が求められている。
 しかし、かなり大部な両書(前者が474頁、後者が349頁。しかも行間が狭い)をじっくりと読む時間はノエルの休暇までないので、今日の記事では、より最近の著作のなかの二冊 Éthique de la considération, Éditions du Seuil, 2018, 2ᵉ édition avec une postface inédite, Éditions du Seuil, « Points Essais », 2021 と Réparons le monde. Humains, animaux, nature, Rivages poche, « Petite Bibliothèque », 2020 とから V の倫理の要点の一つがわかる箇所をそれぞれ一つずつ引用するに留める。それらからだけでも、なぜ彼女が V を倫理の中心に置こうとしているのかがわかる。

L’éthique de la considération est inséparable de la reconnaissance de notre vulnérabilité, qui est la marque de notre fragilité, mais aussi ce qui nous rend aptes à nous sentir concernés par les autres, voire à souffrir pour eux.

Éthique de la considération, « Points Essais », op. cit., p. 28.

La vulnérabilité renvoie moins à la fragilité qu’à notre condition charnelle, engendrée, mortelle et terrestre. C’est cette vulnérabilité, dont la mort comme séparation et radical abandon est la manifestation suprême, que je vois en autrui. Cette vulnérabilité fait que je suis responsable de lui. Ainsi, la vulnérabilité désigne la fragilité, mais elle est aussi une force parce que je suis capable de me tourner vers autrui, de me décentrer, parce que nul n’est réductible à ce que l’on sait ou voit de lui, et que le visage est en excès sur sa manifestation.

Réparons le monde, op. cit., p. 106.

 V とは壊れやすさのことだが、力でもある。なぜなら、私は他者と向き合い、自分のことを脇に置くことができるからであり、誰も私たちが知っていることや見ていることに還元されることはないからであり、顔はその表出を超えるものだからである。
 二つ目の引用の後半に示されたこの考え方からだけでもコリーヌ・ペリュションがレヴィナスを参照していることは明らかなのだが、実際引用箇所の前後でレヴィナスには明示的に頻繁に言及されている。他の著作でもレヴィナスへの言及は頻繁に見られるし、Pour comprendre Levinas, Éditions du Seuil, 2020 というレヴィナスについてのモノグラフィーも刊行しているくらいだから、これは少しも驚くにあたらない。
 今回の F と V をめぐる考察ではレヴィナスまでは遡らない。ペリュションの2009年の著作以降現在までの F と V をめぐる諸議論を一望できる視角を開くことができればそれでよしとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(4)人間はワイングラスよりも壊れやすい。ゆえに、今を措いて時はなし

2024-11-14 08:02:10 | 哲学

 ジャン=ルイ・クレティアンを読んでいて楽しいのは、西洋思想史全体を覆うその無双の博覧強記が可能している縦横無尽な引用である。クレティアン自身の主張には納得できない箇所でさえ、そのなかの引用にはクレティアンの意図を超えた内容が含まれていて、それをこちらで勝手に引き出すために夢想に耽るのも楽しい。
 アウグスティヌスはクレティアンにとってもっとも重要な神学者・哲学者・思想家・著作家であり、アウグスティヌスを中心とした著作も多い。Fragilité でももっとも多く引用されている著作家である。その引用箇所の一つが説教XVIIからのそれである。

« Est-ce que nous ne portons pas nos périls avec nous dans cette chair qui est la nôtre ? Est-ce que nous ne sommes pas plus fragiles (fragiliores) que si nous étions de verre ? Le verre, en effet, même s’il est fragile, dure pourtant longtemps si l’on fait attention à lui : tu peux bien voir des coupes, venues des grands-pères et des arrière-grands-pères, où boivent leurs petits-fils et leurs arrière-petits-fils. C’est au long de bien des années qu’une si grande fragilité a été protégée. Mais nous autres hommes, c’est au milieu de bien des périls quotidiens que nous cheminons fragiles. » (p. 58)

 この「グラスよりも壊れやすい人間」というイメージは、アウグスティヌスの他の説教にもさまざまなニュアンスのヴァリエーションを伴いながら繰り返し登場する。クレティアンにとってもお気に入りのイメージの一つのようである。
 このイメージ、ロジックとしては簡単に難癖をつけられるが、レトリックとしては印象深い。グラスはそれにふさわしい慎重な扱いをすれば何世代にもわたって受け継がれ得るものであり、祖父あるいは曽祖父がワインで唇を濡らしたグラスで孫あるいは曾孫が酒杯を傾けることもできる。壊れやすいグラスはかくしてそのままの姿で守られ、使われ続けることできる。それに対して、私たち人間は日常的に多くの危険に曝されて生きていかなくてはならない。いつ壊れてしまうかわからない。
 しかし、グラスも人間もいつ壊れてしまうかわからないという点では同じである。両者の違いは、それらから守らなくてはならない危険の多さとそれらへの対処の難しさ、人間の場合はその身を滅ぼす危険が己のうちにもあること、そして何よりも個々の人間の生の本来的有限性にある。そうであるからこそ、いつ壊れてしまうかわからないという人間の本性が今この時を無駄に過ごしてはならないという倫理的帰結をもたらし得る。
 この「今をおいて時はおそらくなし」という姿勢の真逆の姿勢を示すフランス語が procrastination という言葉である。「一日延ばし」「先延ばし」という意味である。ルネッサンス期にラテン語 procrastinatio から生まれた言葉で、初出は16世紀前半。17世紀から18世紀にかけてはほとんど使われず、19世紀になって教育の分野で、戒めるべきこととして使われるようになる。20世紀に入って「エレガントな」文章語となる。プルーストの『失われた時を求めて』に数例見出すことができる。

Les difficultés que ma santé, mon indécision, ma « procrastination », comme disait Saint-Loup, mettaient à réaliser n’importe quoi, m’avaient fait remettre de jour en jour, de mois en mois, d’année en année, l’éclaircissement de certains soupçons comme l’accomplissement de certains désirs.

À la recherche du temps perdu, « Bibliothèque de la Pléiade », tome IV, 1989, p, 95.

私の健康状態、私の優柔不断、サン・ルーが言っていた私の「先延ばし」(癖)が何を実現するのも困難にしていたが、その困難がある疑念の解明やある願望の実現を、日々、月々、年々と、私に先送りにさせていた。

 耳に痛く響くエレガントな言葉である。クレティアンのおかげで出逢うことができたこの言葉、多分一生忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(3)Fragilité はホラー映画の襲撃者のように私たちにつきまとう?

2024-11-13 13:59:59 | 哲学

 今日は軽く流す。
 Jean-Louis Chrétien et la philosophie には « Sens et forme de la fragilité. Entretien avec Jean-Louis Chrétien » と題された談話(2018年に Esprit 誌に掲載)が収録されている。そのなかでクレティアンは、Michaël Fœssel と Camille Riquier の質問に答える形で、前年に刊行された Fragilité の内容について詳細に語っている。
 興味深い内容ではあるが、なんか反発を覚える箇所が多くて、読んでいて楽しくない。その反発の由来を一言で言えば、ここまでして fragilité を人間存在の根本様態に祭り上げる必然性がどこにあるのかという疑問である。彼が返す刀で他の類義語を撫で斬りにすればするほど、自身の論拠が掘り崩されるばかりで、結果として議論が破綻しているようにしか私には見えないのである。
 その反感をなんとか抑え込んで彼の言わんとするところを捉えようとはしている。一つのイメージは掴めた。外部からのあらゆる襲来に対して何重にも厳重に守られた城館のなかに身を潜めていたとしても、人間存在が fragile であることには何ら変わりはない、というイメージである。この点では、確かに vulnérable(=v) とは違う。自分がそれに対して v であるものから自分を守る、遠ざけることはできるからである。しかし、たとえそうだとしても、何かに対して v であるという性質に変わりはない。
 面白いと思った喩えを一つ紹介する。F から逃れようよしても無駄であるということを説明するくだりでホラー映画が喩えとして使われている(p. 147)。自分に襲いかかろうとするものから必死になって逃れようとしてある部屋に逃げ込み鍵を掛けたところ、その部屋のなかに当の襲撃者がいることに気づくのと同じように、F はどこまでも私たちにつきまとうというのである。
 これは確かに怖いかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(2)F の哲学と V の倫理を相補的に読む試み

2024-11-12 08:26:43 | 哲学

 諸般の事情で毎日連載というわけにはいかないが、これから「壊れやすさ fragilité」と「傷つきやすさ vulnérabilité」についてかなり長期にわたって断続的に考えていくにあたって、いくつか約束事を決め、若干の予備的考察を示しておきたい。
まず、同じ言葉を繰り返す煩瑣を避けるために、簡略な記号を用いることにしたい。
「壊れやすさ」は F(=fragilité) あるいは f(=fragile)、「傷つきやすさ」は V(=vulnérabilité)あるいは v(=vulnérable) とする。大文字は一般概念・集合全体・範疇等を指し、小文字は特定の分野・領域あるいは個々の事例等を指すときに使う。
 昨日の記事のなかで立てた仮説を記号化すると、F∪V が問題の全領域(和集合)、F∩Vが両者の共通集合(積集合)、両者の関係は F≠V、F⊄V、F⊅V となる。
 次に、手元の数種の辞書に採用されていた両語の用例から帰納的に導かれる両語間の弁別的差異を示しておく。
 どちらもそれ自体が積極的価値を意味することはない。しかし、f は他の積極的価値の可能性の条件となりうる。例えば、繊細な硝子細工の工芸品としての美しさは、壊れやすさと不可分である。硝子のかわりにプラスチックを使えば、作品は壊れにくくなるが、工芸品としての美的価値は明らかに劣る(したがって商品価値も著しく低下する)。ところが、v であることがなにものかの積極的価値の可能性の条件になることはない。ある積極的価値と v とが共可能であることはあっても、後者は前者の必要条件ではない。例えば、コンピュータは水に v であるが、そのこと自体がコンピュータの高機能性を可能にしているわけではない。言い換えれば、水にも v ではないコンピュータがあればそれに越したことはない。
 F はそのものそれ自体の性質を示すことが多いのに対して、V は他との関係性として述べられることが多い。例えば、ワイングラスが f であるというときは、グラスそれ自体が f だということが主たる問題なのであり、そのグラスがどのような衝撃に弱いか、どのような条件下でそうかということは副次的な問題に過ぎない。それに対して、戦争状態にある国の特定の地域が v であるということは、その地域が敵国からの攻撃に特に曝されやすいということと、同国の他の地域よりもそうだということとを同時に意味している。
 F と V との以上のような用例上の弁別的差異が、ジャン=ルイ・クレティアンの F の哲学とコリーヌ・ペリュションの V の倫理との間に見られる根本問題の設定の仕方の違いを明確化する一つの指標になると思われる。
 前者において、F は、個としての人間の存在条件として、多様な形象および表象を伴いつつ、西洋精神史において古代から現代に至るまで通底する本質的要素として考察されているのに対して、後者において、V は、多様で可変的、多層性を孕み、個々の閉鎖系を超え出る開放性を有した関係の束の結節点である人間(および他の生物)の存在様態として、個の実存の次元を超え、政治的・制度的な次元、生態系の次元にまで拡張的に適用される。
 F の哲学と V の倫理を相互に排他的な立場としてどちらか一方にのみ与するのではなく、両者を互いに相補的な哲学的考察として読んでいきたいと思う。