ジャン=ルイ・クレティアンを読んでいて楽しいのは、西洋思想史全体を覆うその無双の博覧強記が可能している縦横無尽な引用である。クレティアン自身の主張には納得できない箇所でさえ、そのなかの引用にはクレティアンの意図を超えた内容が含まれていて、それをこちらで勝手に引き出すために夢想に耽るのも楽しい。
アウグスティヌスはクレティアンにとってもっとも重要な神学者・哲学者・思想家・著作家であり、アウグスティヌスを中心とした著作も多い。Fragilité でももっとも多く引用されている著作家である。その引用箇所の一つが説教XVIIからのそれである。
« Est-ce que nous ne portons pas nos périls avec nous dans cette chair qui est la nôtre ? Est-ce que nous ne sommes pas plus fragiles (fragiliores) que si nous étions de verre ? Le verre, en effet, même s’il est fragile, dure pourtant longtemps si l’on fait attention à lui : tu peux bien voir des coupes, venues des grands-pères et des arrière-grands-pères, où boivent leurs petits-fils et leurs arrière-petits-fils. C’est au long de bien des années qu’une si grande fragilité a été protégée. Mais nous autres hommes, c’est au milieu de bien des périls quotidiens que nous cheminons fragiles. » (p. 58)
この「グラスよりも壊れやすい人間」というイメージは、アウグスティヌスの他の説教にもさまざまなニュアンスのヴァリエーションを伴いながら繰り返し登場する。クレティアンにとってもお気に入りのイメージの一つのようである。
このイメージ、ロジックとしては簡単に難癖をつけられるが、レトリックとしては印象深い。グラスはそれにふさわしい慎重な扱いをすれば何世代にもわたって受け継がれ得るものであり、祖父あるいは曽祖父がワインで唇を濡らしたグラスで孫あるいは曾孫が酒杯を傾けることもできる。壊れやすいグラスはかくしてそのままの姿で守られ、使われ続けることできる。それに対して、私たち人間は日常的に多くの危険に曝されて生きていかなくてはならない。いつ壊れてしまうかわからない。
しかし、グラスも人間もいつ壊れてしまうかわからないという点では同じである。両者の違いは、それらから守らなくてはならない危険の多さとそれらへの対処の難しさ、人間の場合はその身を滅ぼす危険が己のうちにもあること、そして何よりも個々の人間の生の本来的有限性にある。そうであるからこそ、いつ壊れてしまうかわからないという人間の本性が今この時を無駄に過ごしてはならないという倫理的帰結をもたらし得る。
この「今をおいて時はおそらくなし」という姿勢の真逆の姿勢を示すフランス語が procrastination という言葉である。「一日延ばし」「先延ばし」という意味である。ルネッサンス期にラテン語 procrastinatio から生まれた言葉で、初出は16世紀前半。17世紀から18世紀にかけてはほとんど使われず、19世紀になって教育の分野で、戒めるべきこととして使われるようになる。20世紀に入って「エレガントな」文章語となる。プルーストの『失われた時を求めて』に数例見出すことができる。
Les difficultés que ma santé, mon indécision, ma « procrastination », comme disait Saint-Loup, mettaient à réaliser n’importe quoi, m’avaient fait remettre de jour en jour, de mois en mois, d’année en année, l’éclaircissement de certains soupçons comme l’accomplissement de certains désirs.
À la recherche du temps perdu, « Bibliothèque de la Pléiade », tome IV, 1989, p, 95.
私の健康状態、私の優柔不断、サン・ルーが言っていた私の「先延ばし」(癖)が何を実現するのも困難にしていたが、その困難がある疑念の解明やある願望の実現を、日々、月々、年々と、私に先送りにさせていた。
耳に痛く響くエレガントな言葉である。クレティアンのおかげで出逢うことができたこの言葉、多分一生忘れることはないだろう。