三木は、『愛の情念に関する説』をパスカルの著述と認めた上で『パンセ』と対比し、両者の対照的な所説を再三提示しているが、結局のところ両書のパスカルにおける関係については何も語らない。というよりも、語り得なかったのであろう。三木の言うように前者の目的が生の内在的な解釈にあったとしても、結局その解釈は『パンセ』に表明された思想によって否定されざるを得ない。両者のパスカルにおける関係を考えるには、大きな思想的転換がパスカルにおいて生じたことを仮定せざるを得ないが、そのような大胆な仮説を立てることはさすがに三木にもできかねたのであろう。
実際、『愛の情念に関する説』において擁護された自愛(amour-propre)が『パンセ』では仮借なき批判の対象になっている。自愛の本性は、「自己のあるがままの状態、すなわち自己の欠陥と悲惨とを覆い隠すにある(100)。したがって生を正しく解釈するためには我々はなによりも自愛の心を棄て去らねばならぬ。『パンセ』の思想を貫く根本命題は、「自己は厭うべきものである」ということである。」(『パスカルにおける人間の研究』110頁)
この後に『愛の情念に関する説』から自愛の心の源に関する命題の引用があるが、その引用の直後に、そのような命題は「容赦なく否定される」と三木は記し、自己愛を否定する『パンセ』の断章からの引用を重ねる。では、何を愛すべきなのか。この問いに対する答えとして三木は次の断章(S471、L564、B485)を引用する。
La vraie et unique vertu est donc de se haïr, car on est haïssable par sa concupiscence, et de chercher un être véritablement aimable pour l’aimer. Mais comme nous ne pouvons aimer ce qui est hors de nous, il faut aimer un être qui soit en nous, et qui ne soit pas nous. Et cela est vrai d’un chacun de tous les hommes. Or il n’y a que l’être universel qui soit tel. Le royaume de Dieu est en nous. Le bien universel est en nous, est nous-même et n’est pas nous.
真の唯一の徳は、それゆえに、自分を憎むこと(なぜなら、人はその邪欲のゆえに憎むべきものであるから)と、真に愛すべき存在を愛するために、それを求めることである。しかし、われわれは自分の外にあるものを愛することはできないので、われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在を愛さなければならない。このことは全人類の一人一人について真実である。ところで、そのようなものは普遍的存在のほかにはない。神の国はわれわれのうちにある。普遍的な善は、われわれのうちにあって、われわれ自身であり、しかもわれわれではないものである。(前田陽一訳)
三木は、人間の愛と神の愛との構造的相似性を認める。「愛は一方では自己から出てゆく運動である。愛する者は幸福を外部に向かって求める。けれど他方では愛はすべてを自己に関係させる運動である。ひとは自己との関係を離れて何ものをも愛さない。」(113頁)
愛はこのように相矛盾する方向を有する。人間の愛の場合、この矛盾は不安定と無常との原因である。神の愛においては、「この矛盾はこの愛の目指すものが神であるの故をもって止揚され、総合されることが可能である。神は我々の裡にあり、そして我々自身であり、しかも我々ならぬものである。したがって愛が神を対象とするときには、外に向かう運動は同時に内に還る運動であり、自己以外の者を愛することは同時に自己を愛することとなる。二つの相矛盾する方向は唯一なる神において統一され、この統一において愛は安定を得て完全になることが出来る。」(113‐114頁)
神におけるこのような愛の弁証法を認めることが当時の三木におけるキリスト教理解の臨界点だったのだと思われる。