内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十四)―「われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在」を愛するということ

2023-10-31 08:55:54 | 哲学

 三木は、『愛の情念に関する説』をパスカルの著述と認めた上で『パンセ』と対比し、両者の対照的な所説を再三提示しているが、結局のところ両書のパスカルにおける関係については何も語らない。というよりも、語り得なかったのであろう。三木の言うように前者の目的が生の内在的な解釈にあったとしても、結局その解釈は『パンセ』に表明された思想によって否定されざるを得ない。両者のパスカルにおける関係を考えるには、大きな思想的転換がパスカルにおいて生じたことを仮定せざるを得ないが、そのような大胆な仮説を立てることはさすがに三木にもできかねたのであろう。
 実際、『愛の情念に関する説』において擁護された自愛(amour-propre)が『パンセ』では仮借なき批判の対象になっている。自愛の本性は、「自己のあるがままの状態、すなわち自己の欠陥と悲惨とを覆い隠すにある(100)。したがって生を正しく解釈するためには我々はなによりも自愛の心を棄て去らねばならぬ。『パンセ』の思想を貫く根本命題は、「自己は厭うべきものである」ということである。」(『パスカルにおける人間の研究』110頁)
 この後に『愛の情念に関する説』から自愛の心の源に関する命題の引用があるが、その引用の直後に、そのような命題は「容赦なく否定される」と三木は記し、自己愛を否定する『パンセ』の断章からの引用を重ねる。では、何を愛すべきなのか。この問いに対する答えとして三木は次の断章(S471、L564、B485)を引用する。

La vraie et unique vertu est donc de se haïr, car on est haïssable par sa concupiscence, et de chercher un être véritablement aimable pour l’aimer. Mais comme nous ne pouvons aimer ce qui est hors de nous, il faut aimer un être qui soit en nous, et qui ne soit pas nous. Et cela est vrai d’un chacun de tous les hommes. Or il n’y a que l’être universel qui soit tel. Le royaume de Dieu est en nous. Le bien universel est en nous, est nous-même et n’est pas nous.

真の唯一の徳は、それゆえに、自分を憎むこと(なぜなら、人はその邪欲のゆえに憎むべきものであるから)と、真に愛すべき存在を愛するために、それを求めることである。しかし、われわれは自分の外にあるものを愛することはできないので、われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在を愛さなければならない。このことは全人類の一人一人について真実である。ところで、そのようなものは普遍的存在のほかにはない。神の国はわれわれのうちにある。普遍的な善は、われわれのうちにあって、われわれ自身であり、しかもわれわれではないものである。(前田陽一訳)

 三木は、人間の愛と神の愛との構造的相似性を認める。「愛は一方では自己から出てゆく運動である。愛する者は幸福を外部に向かって求める。けれど他方では愛はすべてを自己に関係させる運動である。ひとは自己との関係を離れて何ものをも愛さない。」(113頁)
 愛はこのように相矛盾する方向を有する。人間の愛の場合、この矛盾は不安定と無常との原因である。神の愛においては、「この矛盾はこの愛の目指すものが神であるの故をもって止揚され、総合されることが可能である。神は我々の裡にあり、そして我々自身であり、しかも我々ならぬものである。したがって愛が神を対象とするときには、外に向かう運動は同時に内に還る運動であり、自己以外の者を愛することは同時に自己を愛することとなる。二つの相矛盾する方向は唯一なる神において統一され、この統一において愛は安定を得て完全になることが出来る。」(113‐114頁)
 神におけるこのような愛の弁証法を認めることが当時の三木におけるキリスト教理解の臨界点だったのだと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十三)―「人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛している」

2023-10-30 13:03:06 | 哲学

 かつてはパスカルがその著者に擬されたこともあった『愛の情念に関する説』(Discours sur les passions de l’amour)は、パスカルの書ではないとする点で今日の諸家の意見は一致している。ところが、三木は『パスカルにおける人間の研究』の第三章をこの「偽書」の考察に当てている。三木によれば、「本文の内面的批評がそれをパスカルの著作と見なすべき根拠を与え得るという意見は現今パスカル研究において権威ある学者の間にひろく行われておる」ということだが、三木がこの章を執筆していた当時であっても事実はそんな簡単なことではなかった。当時から、パスカルの手になる著述か他の著作家によるものかという議論は両陣営に分かれて行われていた。
 三木の意図は、『愛の情念に関する説』を、「生の内在的解釈」と見なした上で、それを『パンセ』における「生の解釈、すなわち人間の存在を超越的なるものとの関係において解釈する」企図と対比し、両者のあいだの「著しい対照」を際立たせることにあった。
 両者の決定的な違いは、三木によれば、宗教的不安の有無である。『愛の情念に関する説』にはそれが欠けており、『パンセ』においてはそれが超越的なもの、つまり神への人間の関係を顕わにする契機として重要な位置を占める。
 前者がパスカルの書ではない以上、両者を比較してパスカルにおける思想的変化を見出そうとする試みには意味がない。パスカルにおいて次元を異にした二つの考察として両者を扱うことにも意味がない。
 三木も指摘しているように、両者の論述には若干の類似点があるにはあるが、前者での考察は杜撰であり、両者の比較はそのことを際立たせるに過ぎない。三木は同章の後半で両者の比較を行っているが、結果として、『パンセ』における愛をめぐる冷徹な批判的考察を前にすると、『愛の情念に関する説』の所説は色褪せて見えるばかりである。
 三木自身、『パンセ』の至るところで人間の愛の果敢なさが説かれていることを、引用を重ねて示す。

Il n’aime plus cette personne qu’il aimait il y a dix ans. Je crois bien : elle n’est plus la même, ni lui non plus. Il était jeune et elle aussi : elle est tout autre. Il l’aimerait peut-être encore telle qu’elle était alors. (S552, L673, B123)

彼は、十年前に愛していたあの女性をもう愛していない。それはそうだろうと私は思う。彼女はもはや同じではないので、彼だって同じではない。あのとき彼は若かったし、彼女だって若かった。彼女はすっかり変わってしまった。あのときのままの彼女だったら、彼もまだ愛したかもしれない。(前田陽一訳)

Mais celui qui aime quelqu’un à cause de sa beauté, l’aime-t-il ? Non, car la petite vérole, qui tuera la beauté sans tuer la personne, fera qu’il ne l’aimera plus. […] On n’aime donc jamais personne, mais seulement des qualités. (S567, L688, B323)

ところが、だれかをその美しさゆえに愛している者は、その人を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。[…]だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

Qui voudrait connaître à plein la vanité de l’homme n’a qu’à considérer les causes et les effets de l’amour. (S32, L413, B162)

人間のむなしさを十分に知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。

 同章の最後まで読むと、三木が目論んだのは、二書の比較そのものではなく、『パンセ』における愛の弁証法を取り出すことにあったことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ニーチェ対パスカル ― 何を憎むべきなのか

2023-10-29 15:03:09 | 哲学

 ニーチェの『曙光』には、パスカルの「憎むべき〈私〉」(断章 S494、L597、B455)に反論している断章(§63)がある。
 他者が自分で自分のことを感じている通りに私たちは他者のことを感じるという仮説に立てば、そして、パスカルが言うように、自己自身が私にとって憎むべきものであるならば、私たちは他者をも憎まなくてはならないことになる。おそらくこれこそがパスカルが人間全体に感じていたことで、それはちょうど、ネロ帝政下で初期のキリスト教徒たちが懐いていた「人間という類への憎しみ」と同類だろうとニーチェは言う。
 ニーチェは、次第にこのような犠牲・献身・利他・同情を説く道徳に対して「エゴイズム」を復権させていく。このような自己を憎む思想こそ憎むべきだとニーチェは考える。自己否定には人類全体への蔑みが隠されていることを見抜く。
 『アンチクリスト』では、自分の理性の堕落は原罪に因るとするパスカルを批判する。パスカルの理性が倒錯しているとすれば、それは彼のキリスト教のせいだと断ずる(§5)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ニーチェのパスカルに対する両義的な態度

2023-10-28 23:59:59 | 哲学

 三木清の『パスカルにおける人間の研究』の「第二 賭」のなかにニーチェのパスカル評価に言及している箇所がある。三木が引用している「あらゆる基督者のうちの第一人者」という表現は、同書巻末の校訂者注によると、『曙光』の断章一九二に見られる。同注によると、この断章のなかで、ニーチェは、フランス人は、最も困難なキリスト教的理念を、観念としてではなく、人間として具現しており、この意味で最もキリスト教的な国民であると言い、その代表者としてパスカルを挙げ、「情熱と叡智と誠実とを併せもった、あらゆる基督者のうちの第一人者」であると書いている。
 ニーチェはパスカルを若い頃から愛読しており、その蔵書の中にはパスカルのいくつかの著作のドイツ語訳があり、そのなかには多数の書き込みが見られるという(Dictionnaire Nietzsche, Robert Laffont, coll. « Bouquins », 2017, p. 674)。ニーチェは、『曙光』ばかりでなく、『善悪の彼岸』『道徳の系譜学』『偶像の黄昏』『この人を見よ』や遺稿のなかでもパスカルに言及している。ただし、Pléiade 版ニーチェ著作集(全三巻)の第二巻に収められた『曙光』の上掲の断章に編者はかなり長い注を付しており、「ニーチェのパスカルに対する態度はきわめて両義的であるし、そうあり続けるだろう」と述べている(p. 1358)。
 ニーチェにとって、パスカルは、キリスト教世界のなかの最も優れた精神の持ち主の一人であり、まさにそれゆえにこそ敵対者として正面から戦うに値した。
 『善悪の彼岸』第三篇「宗教的なもの」の四五節には、「宗教的な人間の魂のうちで知と良心の問題がどのような歴史をたどったかを理解し、確認するためには、パスカルの知的な良心と同じように深く、傷つき、巨大な存在でなければならないだろう」と記されている(光文社古典新訳文庫、中山元訳、2013年)。
 同書四六節「キリスト教の信仰と古代精神」には、ニーチェのパスカルに対する両義的な態度が見られる。「原始キリスト教が要求し、しばしば到達していたあのような信仰は、懐疑的な南方の自由精神の世界のうちに登場したものだが[…]、それはパスカルの信仰に、理性が恐るべき方法で自殺し続けているようにみえるパスカルの信仰に、似たところがある。―パスカルの理性は蛆虫のように強靭で長生きだったために、一撃でひとおもいに殺すことはできなかったのである。」(同訳)
 『偶像の黄昏』には、「反時代的人間の渉猟」と題された章に、反芸術的なキリスト教に対する批判が見られ、その例としてパスカルの場合が挙げられている。「実際のところ、歴史の中には、こうした反-芸術家、生の飢渇者がふんだんに見出せる。彼らはどうあっても事物をわがものとして、それを喰らい尽くし、ますます貧相なものとしてしまう。例えば生粋のキリスト教徒の場合、パスカルの場合などがそれである。」(河出書房新社、村井則夫訳、2019年)
 『この人を見よ』では、パスカルへの「愛」が語られる。「私はパスカルを読むのではなく、愛している。私にとってパスカルは、キリスト教の犠牲としてもっとも教訓に富んでいる。最初はからだを、それから心理をゆっくり殺されていったのだが、その身の毛もよだつ非人間的な残酷さの形式を、パスカルは論理として体現している。」(光文社古典新訳文庫、丘沢静也訳、2016年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


〈生命〉(la vie)と〈生きること〉(le vivre)

2023-10-27 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で話題にした「生命倫理」というテーマをめぐるキーワードとして挙げたもう一つの対語は、〈生命〉(la vie)と〈生きること〉(le vivre)である。この区別はルノー・バルバラスに拠る。この区別に依拠して、フロランス・ビュルガは、Qu’est-ce qu’une plante ? Essai sur la vie végétale, Éditions du Seuil, 2020 のなかで植物と動物を次のように区別する(p. 91-92)。

Soit la vie est appréhendée à partir du vivre, c’est-à-dire de la diversité des modes d’être des vivants effectivement perceptible à l’observation. La caractérisation chaque fois spécifique des rapports qu’entretiennent les vivants avec leur milieu, avec les êtres qu’ils rencontrent mais aussi avec eux-mêmes, engendre alors, de fait, des distinctions essentielles entre la vie végétale et la vie animale. La distinction établie par Renaud Barbaras entre la vie et le vivre précise les choses. La vie est une poussée « surpuissante et éternelle », ou « archie-vie » ; elle « n’est pas un vivre parce que rien n’est vécu par elle ». En termes bergsoniens, la vie est la « force qui, laissée à elle-même, travaillerait dans la direction inverse » de la matière, qu’elle anime et qui la bride en même temps. Le vivre est la vie vécue par un vivant mortel – « un vivant n’est vivant que s’il est mortel mais il n’est mortel que s’il est d’emblée privé de la surpuissance et de l’éternité de la vie ». Le vécu se tient dans « l’écart entre la visée et la réalisation », il prend place dans « la distance ontologique ». La vie végétale ne serait-elle pas au plus près de la vie comme force surpuissante et éternelle, puisque son mode de vie n’est pas celui de l’être-mortel, qu’elle n’est pas une vie inquiète mais une vie indifférente, qu’elle se reproduit en se divisant, qu’elle renaît sans cesse de ses cendres, qu’elle ne se tient pas dans l’écart mais au contraire dans l’immanence avec son milieu (intussusception) ? Il y a une vie des plantes, mais non un vivre des plantes. 

 本書には日本語訳『そもそも植物とは何か』(河出書房新社、2021年)があるが、原文と照らし合わせると、かなり問題のある訳であることがわかる。わかりやすい訳を心がけているのは理解できるが、そのために原文の肝心なニュアンスが犠牲にされているところが少なからずある。しかし、翻訳の良し悪しを論うのが今の目的ではないから、いちいち問題点を指摘することはしない。
 この文脈での〈生命〉(la vie)は、それ自体にはなんらの限定もない永遠に持続する推力のようなものとして措定されている。それに対して、生きること(le vivre)は、生物個体が自らの置かれた環境世界において、その環境、そこで出遭う諸存在、自分自身との間に取り持つ諸関係のその都度異なった在り方のことである。この在り方の観察可能な多様性が動物的生と植物的生との本質的な区別をもたらすというのがビュルガの主張である。
 そこでバルバラスが援用される。〈生命〉は、いかなる有限な生物によっても生きられていない形なき推力そのものであり、個々の生物によって生きられている生命を超越している。〈生命〉は個々の生物によって生きられた形ある生命ではないのである。それに対して、〈生きること〉は、形ある一個の死すべき生物によって生きられた生命である。「一個の生物が生き物であるのは、それが死ぬからであり、死ぬということは、最初から生命の超越的な推力も永遠性も奪われているからにほかならない。」
 〈生命〉には何も欠ところがなく永遠に自己充足しているのに対して、〈生きること〉には常に何かが欠けている。その欠けているものを追い求めるのが〈生きること〉であり、一個の生物においてその追求が完遂することなく、遅かれ早かれ死を迎える。このような欠落態を生きる有限な存在が動物であり、人間である。
 それに対して、植物は永遠なる推力である〈生命〉に近い。不安に脅かされることなく、周囲に対して「無関心」であり、自己分割によって自己再生し、枯死してもたえず蘇る。環境に対して距離を取ることはなく、常に環境に内在している。植物には〈生命〉がいわば「内部浸透」している。
 植物は〈生命〉に直接与り、〈生きること〉はない。
 私はこの議論は破綻していると考える。なぜなら、観察可能な動植物の多様性の世界の考察に観察不可能な〈生命〉という形而上学的観念を導入しているからである。しかも、この論証抜きで措定されたに過ぎない〈生命〉の導入は、動物と植物を本質的に区別するという目的のためであり、論点先取の虚偽に陥っているからである。
 観察に基づいた動物と植物との本質的な区別の問題と複数の存在様態の存在論的区別の問題とは、次元を異にする二つの問題であり、両者の間のすり替えも混同も論理的に許されることではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生命(zoè)と個生(bios)

2023-10-26 23:59:59 | 哲学

  一昨日の記事で話題にした日仏合同ゼミの四つのテーマのなかの二番目「生命倫理」のキーワードの一つとして、「生命(zoè)と人生(bios)」という対語を挙げた。これは以下のハインツ・ヴィスマン(1935‐)の文章を参照してのことであった。

À la lumière de ces acquis, on peut tenter une autre approche qui, finalement, converge avec la reconstruction phénoménologique de la vie comme existence. Il s’agit de partir de la distinction grecque, approfondie par Aristote, entre zoè et bios, qui pose une nette distinction entre, d’une part, la vie végétative (zoè), qui se maintient dans un échange avec le monde extérieur réglé de manière invariable (encore que des mutations et des transformations évolutives peuvent survenir, mais de manière différée, c’est-à-dire dans la descendance), et, d’autre part, l’intégration progressive, c’est-à-dire historique, des expériences vécues (bios). L’intégration de modifications par la sélection naturelle est une chose, l’intégration de ses expériences par un individu en est une autre. Si le critère d’une vie vécue, et non pas simplement subie, est la capacité d’un organisme à intégrer lui-même les expériences qu’il fait de ses rapports avec le milieu, autrement dit s’il a une histoire de sa vie, il sort de l’ordre de la zoè pour entrer dans celui du bios, dont l’aboutissement est traditionnellement reconnu dans la biographie humaine. » 
                     Avant-Propos de Heinz Wismann pour Florence Burgat, Une autre existence. La condition animale, Albin Michel, 2012,p. 7-8.

 こちらの日本学科の学生たちにはフランス語原文を示しただけで、特に説明はしなかった。その必要もないくらい明快な文章である。しかし、日本人学生たちのなかでフランス語を学習している学生はほとんどいないし、いたとしてもまだ初歩段階だから、この文章を理解するには難儀するだろう。そこで、一昨日の遠隔合同授業で簡単に説明した。
 生命(zoè)は、植物的な生命を意味し、その生命と環境世界との関係は一定しており、個体間の差異はない。この生命が環境世界の変化に適応するために変化するとしても、または自然淘汰あるいは突然変異によって変化するとしても、それらの変化は種のレベルにおいてであり、しかもそれらの変化は次世代に起こる。
 「人生」と一応は訳したが、上掲の文章を読むかぎり、実は適訳とは言えない。というのは、bios は、生物個体個々に固有な生のことであり、必ずしも人間には限定されないからである。人間以外の生物個体であっても、その個体について、同じ環境世界に生きている同一の種に属する他のすべての個体とは異なった固有の経験を認めることができ、かつその経験を個体が順次統合することで、個体自身が環境内で成長・変化し、環境に適応できるだけでなく、それを変えることもできる場合、つまり固有の個体史が認められ得る場合、それはやはり bios だからである。これらの点を考慮すれば、「個生」という造語のほうが相応しいだろう。
 フロランス・ビュルガは、動物にも「個生」があり、それは人間の「個生」つまり一人一人の人生と同様に尊重されなくてはならないと主張する。この主張に対して学生たちがどのような議論を展開していくか、注視していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二十二世紀にまだ人類が地球上に生息しているとして、その時代の歴史家たちは二十一世紀をどう記述するだろうか

2023-10-25 23:59:59 | 雑感

 先日の記事で少し触れたことだが、今日、大学の中央キャンパスで、テロリストの襲撃を想定した大規模な防災訓練が行われた。といっても、参加したわけでも、見学に行ったわけでもないので、実際はどうだったのかは知らない。聞いたところによると、百人規模の犠牲者が出たという想定の下、警察や救急隊をはじめ関連機関総出で、テロリスト・グループ役はもちろんのこと、犠牲者役として多数の市民が参加したらしい。
 フランスは過去に何度もテロの襲撃に遭っている。2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件は記憶に新しい。ストラスブールでも2018年12月11日にテロ事件があった。ユダヤ人もアラブ人も多数住んでおり、ヨーロッパの「首都」として多くの国際機関が存在するストラスブールで今日のような訓練を行うことは確かに必要であろう。
 それに、現下の国際情勢である。今回の訓練は実に「絶妙な」タイミングだなどと冗談でも口走れる状況ではない。10月7日に勃発したパレスチナ・イスラエル戦争の数ヶ月前から予定されていた今回の訓練は、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻以来、緊張度が増大し不安定化し続ける国際情勢を背景として策定されたことは間違いない。
 1990年の湾岸戦争から三十三年、二十一世紀の最初の年である2001年の9月11日起きたアメリカ同時多発テロ事件から二十年余りが経ち、もともと危うかった世界の均衡状態はますます脆弱になっている。
 制御不可能な気候変動や深刻度を増す一方の地球規模の環境破壊のことを考えれば、人間同士が殺し合う戦争なんかに現を抜かしている場合ではないのに……。
 百年後にもまだ地球上に人類が生息しているとして、その時代の歴史家たちは二十一世紀の世界を振り返ってどう記述するだろうか。
 「世界各地でテロが繰り返され、多数の国家が戦争に明け暮れ、原発事故が相次ぎ、気候変動に因る大規模災害が連鎖的に世界中で発生し、生態系破壊に因って多くの生物種が絶滅し、ウイルスに因る犠牲者が数億人に達し、十数億人が極貧・飢餓・疫病に苦しみ、百年間で世界人口は半数以下に激減した。一方、人工知能は目覚ましい進化を遂げ、世界の富を独占するごく少数の特権階級のみが享楽的な生活を楽しみ、人類の99%はその特権階級と人工知能との奴隷となった。まさに人類史上最悪の世紀であった。私たち現代人は、その暗黒時代からの数少ない生き残りなのである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏合同遠隔授業第二回目

2023-10-24 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の早朝、日仏合同遠隔授業の第二回目が行われた。
 昨年度の反省を踏まえて、今年は日仏合同チームでの作業をできるだけ早く始めることができるように、今日の授業以前にすでにチームは教員の側で構成してあり、今日からブレイクアウトセッションを使って早速チーム内での話し合いを始めさせた。ブレイクアウトセッションの間、教員は原則介入しないので、話し合いの中身はセッション後の各チームの代表からの報告によって知るほかないが、その報告によると、どのチームでもかなり活発に話し合いができたようで、まずこちらの狙いどおりのすべりだしと言ってよい。
 それぞれのチームが今後来年二月にストラスブールでする発表に向けて今日から準備を始められるように、各チームの発表テーマも今日決定した。
 この決定までの過程についても、去年の反省を踏まえて、学生たちに自由に決めさせるのではなく、教員側があらかじめ四つのテーマを提示し、事前に日仏それぞれのグループ内で希望優先順位について話し合っておくように指示し、今日のブレイクアウトセッションで希望優先順位を日仏合同チーム内で決めさせ、セッション後に各チーム代表に発表させた。その結果を見て、最終的には教員側でテーマを決定した。
 私が準備し日本側の担当教員の承認を得てから学生たちにあらかじめ伝えおいた四つのテーマは、環境問題、生命倫理、動物倫理、肉食主義の四つである。それぞれのテーマごとに、学生たちが優先順位決定の際の参考になるように、いくつかキーワードと一冊の参考文献を挙げておいた。
 環境問題については、生態系(エコシステム)、環境倫理、森林破壊、気候変動、SDGs、自然と技術、人間中心主義、媒介者(médium)としての人間、絶対的他性としての植物、ガイア(地球という生き物)。参考文献:今道友信『エコエティカ―生圏倫理学入門』講談社学術文庫,1990年。
 生命倫理については、生命権(生存権)、個体性、生物多様性、種差別主義、反種差別主義、死生観、生命(zoè)と 人生(bios)、生命(vie)と〈生きる〉( vivre)、生命科学。参考文献:エマヌエレ・コッチャ『植物の生の哲学: 混合の形而上学』勁草書房,2019年。
 動物倫理については、動物の権利、アニマルウエルフェア、ヴィーガニズム、動物虐待、感覚性、 人間の責任・義務、他者としての動物、動物としての人間、主体性、植物と動物の区別と関係、ペット、家畜、野生動物、害獣。参考文献:田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社e新書、2021年。
 肉食主義については、菜食主義(végétarisme)、植物主義(végétalisme)、食文化、食産業 培養肉、民俗、風習、宗教、共生(convivialité)、カニバリズム。参考文献:ドミニック・レステル『肉食の哲学』左右社、2020年。
 優先順位発表の結果、生命倫理と肉食主義を第一位としたチームがそれぞれ一つ、二チームが動物倫理を第一位とした。こちらの当初の目論見としては、四チームにそれぞれ別のテーマに取り組んでほしかったのだが、環境倫理はどのチームも優先順位が三位以下だったので、それを無理強いしても今後の共同作業のモチベーションを低下させることにもなりかねないと教員側が判断し、二チームが動物倫理をテーマとして選ぶことを許可した。環境問題については、私がストラスブールでの日仏合同ゼミのどこかで発表することにした。
 上掲のいずれのテーマを選んでも、同じような問題に行き着く可能性は大いにあるが、それはそれでよいと教員側は考えている。むしろそのほうが二月の合同ゼミの際にチーム間での活発な議論をもたらしてくれるだろうと期待してもいる。
 というわけで、ここまではほぼ順調に作業計画が進んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学史家の仕事の作法について ― アンリ・グイエの場合

2023-10-23 23:59:59 | 哲学

 フランスにおけるパスカル研究に限ったとしても、その膨大な量はまさに「汗牛充棟もただならぬ」という慣用句が少しも誇張でないほどだが、1960年代から1980年代にかけてのパスカル研究において重きを成している一人がアンリ・グイエ(1898‐1994)であることに異論はないであろう。
 私の手元にもグイエによる三冊のパスカル研究書 Blaise Pascal. Commentaires, Vrin, deuxième édition mise à jour, 2005 (1ʳᵉ édition, 1966), Pascal et les humanistes chrétiens. L’affaire Saint-Ange, Vrin, 1974, Blaise Pascal. Conversion et apologétique, Vrin, 1986 がある。
三冊目の序論(Introduction)の冒頭でグイエは、哲学史家のあり方についてこう述べている。

Les règles de la méthode historique sont un code aussi élémentaire que celui du savoir-vivre ; dans l’esprit de tout historien sérieux, elles deviennent — parlons comme Pascal — « une seconde nature » : tout « naturellement », elles l’écartent de l’histoire romancée, elles le préservent des facilités de l’interpolation, elles l’obligent à ne faire état que de texte correctement établis, etc. Ce qui distingue entre eux les historiens de la philosophie, c’est que, plus ou moins consciemment, chacun d’eux pense à sa façon et l’histoire et la philosophie. (p. 13)

 哲学史家としてまさに礼儀作法のように遵守しなくてはならない規則は、哲学史家たちにとっていわば「第二の自然」になっており、そのような規則が哲学史家たちを創作混じりの歴史叙述から遠ざけ、安易な挿入や加筆を控えさせ、書誌学的に正しい手続きを経たテキストのみに依拠することを命じる。彼らの間にある区別は、多かれ少なかれ、各自それぞれの仕方で歴史と哲学とを考えていることに因る。

En gros : chaque historien se trouve placé à un certain point de vue par les circonstances, circum stantia : son temps, la langue dans laquelle les idées prennent forme, bref, le « milieu socio-culturel », comme on dit aujourd’hui. Mais, si importantes que soient dans la détermination du point de vue les conditions liées à la situation de l’historien dans l’espace et dans le temps, elles ne sont que des conditions : le point de vue est aussi l’effet d’un choix qui, lui, est lié à la réflexion de chaque historien sur l’histoire. (p. 13-14)

 それぞれの歴史家は、その置かれた具体的な状況によってある一つの観点に立たされる。その状況とは、彼の生きる時代であり、そのなかで思考が形をとる言語であり、要するに、「社会‐文化的な環境」のことである。しかし、歴史家が時間・空間内で置かれた状況と結びつた諸条件が観点の決定にとっていくら大事だといっても、それらは条件に過ぎない。観点は一つの選択の結果でもあり、その選択は、それぞれの歴史家の歴史観と繫がっている。
 これを一言でまとめるならば、歴史家は、置かれた環境の只中で考え、おのれの歴史観に基づいて一つの観点を選択する(Penser au milieu des milieux pour choisir un certain point vue lié à sa propre vision de l’histoire)となろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十二)―「ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくる」

2023-10-22 23:02:19 | 哲学

 1922年6月からハイデルベルクに留学していた三木がからマールブルクに移ったのは、今からちょうど百年前の1923年の秋のことである。フライブルクから転任してきたばかりのハイデガーが1923/1924年冬学期に行ったマールブルク大学での最初の講義「現象学的探究への入門」を三木は熱心に聴講する。この講義のなかでハイデガーが示した真理の定義「存在の蔽われずにあること」が三木にとってひとつの決定的な哲学的発見であったのではないかと思う。
 10月19日の記事で見た『パスカルにおける人間の研究』の箇所(35頁)にその反響を聴き取ることができる。それに、。後年、「読書遍歴」(1941年、1942年『読書と人生』に収録)のなかで、「『パンセ』について考えているうちに、ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくるように感じた」(『三木清全集』第一巻、429頁)と言っていることとも照応する。
 ハイデガーがこの講義のなかでパスカルについて語ったかどうか。デカルトについては多くの時間を割いているが、パスカルへの言及は見られない。
 三木自身、「読書遍歴」のなかで、パリで「ふとパスカルを手にした。パスカルのものは以前レクラム版の独訳で『パンセ』を読んだ記憶が残っているくらいであった」と記しているのみで、以前からパスカルに強い関心があったとは思われない。
 「ところが今度はこの書は私を捉えて離さなかった」という。「『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜更けて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることも屢々あった。」(全集第一巻、429頁)
 こうして最初に書かれた論文が「人間の分析」であるが、1925年5月に『思想』第四十三号に掲載されたときの題名は「パスカルにおける生の存在論的解釈」であり、こちらのほうが当時の三木の意図をよく表している。
 この論文は、哲学とのひとつの真正な出会い方の記録でもある。