内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(7)

2018-03-31 13:41:21 | 哲学

 空の〈青〉について独自の思索を展開した詩人の一人として、バシュラールはポール・クローデルを挙げる。引用は、Conversations dans le Loir-et-Cher (Gallimard, coll. « Biblipthèque de la Pléiade », p. 710-711 ; coll. « L’imaginaire », p. 50-51)からである。
 四人の会話という形式のこの散文作品の登場人物の一人が提起した「〈青〉とは何か」という問いに対して、「〈青〉は見えるようになった冥闇である」(« Le bleu est l’obscurité devnue visible. »)と別の登場人物が答える。
 この一文を引用した上で、バシュラールは、このイメージを感じるために、引用文中の過去分詞を現在分詞に置き換えようという。想像力の領域には過去分詞は存在しないから、というのがその理由である。「〈青〉は見えるようになりつつある冥闇である。」(« Le bleu est l’obscurite devenant visible. » Bachelard, op. cit., p. 220)どういうことか。
 空の〈青〉は、何も見分けられなかった冥闇からあらゆるものが徐々にその形姿を色とりどりに現してくるその始まりの〈とき〉だということだろう。ものが〈日〉の光の中で形を取り、その色を放ち輝き始めるそのはじまりのときが空の〈青〉なのだ。「〈青空〉は恒久の夜明けである」(« Le ciel bleu est une aurore permanente. »)と、バシュラールは、クローデルに唱和するように言う(ibid., p. 221)。
 〈青空〉は、ものが形と色とともに生まれてくる世界の目覚めの時空である。空の〈青〉は、私たちを現象世界のもっとも基礎的な要素へと立ち戻らせる。「はじめの青は永遠に空の〈青〉である。」(« Le premier bleu est à jamais le bleu du ciel. » Ibid.)その〈青〉は、〈事〉分ける〈言葉〉に先立って、すべてを包み、浸している。












青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(6)

2018-03-30 14:35:56 | 哲学

 ただぼんやりと夢想に耽れば、自ずと空の純粋な〈青〉が眼前に立ち現われてくれるわけではもちろんない。空の〈青〉へのしかるべき接近方法が要求される。それはどのような方法か。
 バシュラールによれば、懐疑という方法は、あまりにも仮想性が強く、表象から離脱するには不適切である。懐疑のかわりに、バシュラールは、「消去法」(« méthode d’effacement »)を提示する(op. cit., p. 219)。この方法は、大気を浮遊するかのような夢想によって、想像する主体の存在を最小限へと縮小し、それによって思惟する主体の存在を極限まで縮小する。
 このような方法としての夢想は、極限的な孤独へと導く。そこで、物質は、溶解し、消失する。懐疑は、懐疑の対象と共に己の形を失う。
 この方法は逆説的だ。なぜなら、イメージを消去することで想像力の根源的な性質を証明しようとしているからだ。「イメージなき想像力」(« imagination sans images »)とは、つまり、いっさいのイメージを消去することで想像力に己自身を享受させ、己の生命そのものを見出させようとする方法なのである(ibid.)。
 この方法によって私たちに開かれる世界は、〈青空〉の「透明の世界」(« le monde de la transparence »)である。その世界で、私たちは、いっさいの現われの虚しさを覚る。この世界の透明さこそが現われのうちの最も現実的なものであることを知る(ibid., p. 220)。
 〈青空〉は、「裏面なき鏡」(« miroir sans tain »)であるibid.。そこで私たちは、〈空〉を経験する。空の〈青〉と一つになる。












青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(5)

2018-03-29 05:55:46 | 哲学

 いちいちバシュラールの L’Air et les songes の « VI. Le ciel bleu » のどこを参照しているか注記はしないが、今回の連載は、バシュラールのテキストをいわば跳躍台にして、西から東へと中空に概念的な架橋を試みている。
 誤読あるいは牽強附会との誹りも免れがたい逸脱的翻案もあると思う。それでもなお、私自身が〈西〉の空の〈青〉を詩的空間において捉え、そこから〈東〉の虚空への道筋をつけたい。そう願いながら、毎日、僅かな時間だが、記事を書いている間だけは、思考を集中させようとしている。
 夢想する想像力が空の純粋な〈青〉を前にすることができるとき、つまり、いかなる対象もそこから追い払われた〈青〉を前にしているとき、見るものと見られるものとが同時にそこに生まれる場所に立つことができる。そのときそこでは彼方なるものと直なるなるものとが結ばれている。彼方にある見られるものと直に与えられている見るものとが結ばれている。
 表象の世界から想像の領域へと身を移すとき、想像する精神と想像される物質との共生が可能になる。とりわけ、空の〈青〉がそれとして生きられるとき、その共生はより完全に近づく。そのようなあり方をバシュラールは、「現象なき現象性」(« phénoménalité sans phénomènes »)と呼ぶ。言い換えれば、それは、「最小限の現象性」(« phénoménalité minima »)である(Bachelard, op. cit., p. 219)。














青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(4)

2018-03-28 00:00:00 | 哲学

 空の〈青〉の純粋さを見ることができるのは誰か。
 それは「純粋な視者」(« voyant pur » )である。虚空の無限に透明な鏡を前にして、純粋な視者は純粋視覚を現実化する。
 空の〈青〉を前にした純粋視覚からは、すべての対象が追い払われている。そこでこそ表象と夢想との境界で相互浸透が起る。物象化によって隠されていた世界の無限の奥行の〈無〉がそこで回復される。そのとき、虚空の無限に透明な鏡の中の〈映り〉としてこの世界が立ち現れる。

D’abord il n’y a rien, puis il y a un rien profond, ensuite il y a une profondeur bleue (Bachelard, L’Air et les songes, op. cit., p. 218).

まず、何も〈無〉い。次には、〈深い〉無。そして、青い〈深み〉。











青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(3)

2018-03-27 00:30:21 | 哲学

 空の〈青〉に本来的な無限の奥行きは、想像力による非物象化過程を経てはじめて捉えうるようになる。というよりも、その奥行によって私たちが捉えられる、と言ったほうがよい。
 私たちは青空を見ていると信じている。ところが、突然、青空こそが私たちを見ていることに気づく。そのとき、青空と私たちの間には何もない。その何もないという純粋さを、詩人は、「詩的意識に直接与えられたもの」(« donnée immédiate de la conscience poétique », Bachelard, op. cit., p. 216)として捉える。
 〈青〉の純粋さの中では、形あるものは何の役割も果たさない。鳥も雲もそこからは追い払われる。そこには影も形も音もない静かな力が働いている。見えるものと見えないものという区別もそこでは意味を失う。〈青〉空は、無限に透明な鏡にほかならない。
 詩人の夢見る想像力は、表象化される前の世界の詩的認識が、諸対象に分節化された表象の理性的・合理的認識に先立っていることを私たちに教えてくれる。

Le monde est beau avant d’être vrai. Le monde est admiré avant d’être vérifié (ibid.).

世界は真である前に美しい。世界は検証される前に賛美される。










青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(2)

2018-03-26 06:22:08 | 哲学

 詩人の感性は、私たちの通常の感覚では感じ得ないことを感じ取る。それを言葉によって表現へともたらすことが詩人の仕事だ。
 例えば、紺碧の空とそれを横断する鳥との対立・競合が引き起こす苦痛に詩人は苦しむ。その苦しみは、詩人によって表現されることを要求する。
 空の〈青〉とそこにさまざまな形をもって現れる事物との間には、決闘とも言える緊張関係がある。その緊張関係の中で、それらの事物は、雲一つない青空にいわば「傷」を負わせる。その「傷」の痛みをを我がこととして感じるとき、十全たる〈青〉を空に回復させたいという欲求が私たちのうちに生まれる。
 その〈青〉空とは、そこに万有が現前する絶対的な基底である。
 この基底としての〈青〉と融合するためには、その〈青〉の上に立ち現れる一切の対象を払い除けなくてはならない。対象なき感情性、対象への投企なき純化・昇華が要請されなくてはならない。













青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(1)

2018-03-25 07:20:43 | 哲学

 西洋近代文学における空についての表象は、それこそ無数にある。対象を青空に限ってもそうである。
 しかし、天空の〈青〉がほんとうにその還元不可能な固有性とともに自覚され表象されている例はどれほど稀であることかとバシュラールは言う(L’Air et les songes, Le Livre de Poche, « biblio essais », p. 210)。というよりも、それはそもそもきわめて困難なことなのだ。ある物の色ではない〈青〉というのは、それ自体は表象のしようがない。軽やかに、たおやかに、どこに固着することもなく、他のなにものにも還元され得ない〈青〉。それは、どこか特定の場所にあるのではなく、いたるとろこにある。一切の実体化を拒否しつつ、現成する〈青〉。この〈青〉を私たちは物の色と同様な仕方では見ることができない。
 この〈青〉は、物象化しえない。それを表現するためには、したがって、非物質・物象化(dématérialisation)の力学を必要とする(ibid., p. 211)。
 この〈青〉を捉えうるのは、どのような精神の運動か。それは、青く、穏やかで、かぎりなく、形なく、最小限の実体性しか有さず、非物象性にあたうかぎり近い、ほとんど差異化されていない世界の中で、その世界と融合しうる存在の軽やかでたおやかな夢想である(ibid., p. 212)。












青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(予告編)

2018-03-24 00:29:19 | 哲学

 明日から数回に渡って、空についての哲学的考察を行う。
 この一行を読まれて、多くの方は、仏教における「空」(くう)の思想のことを思い浮かべられたのではないだろうか。しかし、私が試みるのは、私たちが普段見ている空(そら)についての考察であって、仏教思想あるいは東洋哲学における根本概念としての「空」についての考察ではない。
 私たちが普段見ている空についての哲学的考察って、何それ?、と疑問に思われた方も少なくないであろ。そこで、今日は、その予告編として、前置きを一言。
 西洋近代文学の中に空についての哲学的考察を可能にする要素あるいは素材を見出すことはむずかしいことではない。拙ブログで今月前半に雲雀についての哲学的考察を行なった際に再三引用したバシュラールの『空と夢』の第6章「青空(Le ciel bleu)」がそれを充分に提供してくれているからである。
 そこには、世界の現われ方一般についての哲学的考察を空の知覚から展開するための手掛かりを与えてくれる文学作品が少なからず引用されている。それらの引用を最初の手掛かりとして、空についての哲学的考察を始めることにする。
 例によって、この考察も、なにかすでにできあがったプランがあって始めるわけではない。その日その日の考察が次の日の考察を呼び起こすような仕方で少しずつ議論を展開していければと思う。同じ問題のまわりをぐるぐると堂々巡りするだけに終わる日もあるだろう。一言断片を記すのがやっとという日もあるだろう。そんな日があることも日々休みなく続ける哲学演習にとっては避けがたい。しかし、持続することそのことが哲学的思索を励起しつづけるように考えることだけは休むまい。












天体から地上の身体へ ― 古代日本の一詩人によって読み解かれた天からのメッセージ (7)

2018-03-23 02:06:11 | 哲学

エピローグ

 天平十年(738)、七月七日の夜、憶良を崇拝していた若き詩人大伴家持は、独り、天の川を仰ぎ見ながら、七夕伝説についての懐いを短歌に託す。

織女し 舟乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ちわたる(巻第十七・3900)

 この歌は、湧き上がる雲という、憶良の歌(1527)の立ち上る霧と照応するイメージを導入することによって、その憶良の歌と対関係を成していると読むことができる。かくして、地上世界に生きる有限的存在である人間の運命を深い共感とともに歌った詩人である憶良による七夕歌十二首によって展開された詩劇は、憶良の死後数年にして、万葉のもう一人の詩人、大伴家持によってその幕を閉じられる。
 招かれることなかった詩宴から遠く離れた場所で、その孤独な詩魂によってつねに憂愁に沈みがちだった若き詩人家持は、独り、瞑想する。その姿はまた、万葉の時代の最後期である第四期の幕開けを告げる場面でもある。
 言うまでもなく、これは別の物語の始まりである。












天体から地上の身体へ ― 古代日本の一詩人によって読み解かれた天からのメッセージ (6)

2018-03-22 07:03:47 | 哲学

第四歌群 ― 天上の歓喜、あるいは地上の有限的人間存在の運命愛(1527-1529)

 憶良七夕歌十二首の最後の三首を読もう。
 この三首も、上掲の長歌一首・反歌二首からなる三首の歌群と同じ演劇的形式をに従って構成されている。つまり、まず、導入として第三者の観点が提示され、それに次いで、舞台上の登場人物の観点へと移動する。

彦星の 妻迎へ舟 漕ぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは(1527) 

 この歌では、立ち上る霧によって彦星(牽牛)の悦びが象徴されている。

霞立つ 天の川原に 君待つと い行き帰へるに 裳の裾濡れぬ(1528)

 この歌では、行ったり来たりするという身体的所作によって、待ち焦がれる気持ちが織女自身によって表現されている。

天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも(1529)

 彦星(牽牛)の到来を待ちながら、船出を告げる聴覚的徴表である波音を聴き、織女の悦びはいやが上にも高まる。年にただ一度の再会という、永遠に変わることのない運命をそれとして受け入れることによって急速に高まりゆく歓喜の中で、天空の二つの魂は輝きを増す。これまで無数に繰り返された再会が間近に迫っていることがもたらす悦びの前に、別離の悲しみは影を薄くする。たとえその別離がその日の終わりにはまた避けがたく課されるとしても。
 憶良によるこの一連の七夕歌の終わりにおいて、無限に繰り返される別離を超えて、愛が永遠化される。それは、己の有限性を自らすすんで受け入れ、倦むことなく「もう一度」と叫ぶ人間存在における運命愛によってこそ可能になる。