紫式部はその生没年を確定できないが、少なくとも一〇一三年には生きていたことが藤原実資の日記『小右記』の記事から確認できる。式部の弟(兄とする説もある)惟規(のぶのり)の没年は一〇一一年とわかっている。越後守として任地に赴任していた父為時のもとに下向する途上で病み、越後で父に看取られながら没する。弟の病没の知らせを式部は京で受け取ったはずである。
その最期にまつわる説話が『今昔物語集』巻三十一の二十八「藤原惟規、越中国にして死ぬる語」である。父の任地が越後ではなく越中になっていること、父の名が為善になっていること、父を博士としていることなど、史実に違う点があり、この説話を実話に基づいていると受け取ることはもちろんできないが、惟規が後世に「風流人」としてその名を知られていたことがわかる。この説話では、その惟規の病床の最期の姿を罪深いこと、悲しいことと結論づけているが、その結論は取ってつけたようで、説話の主要部分は惟規の姿を克明に描き出していて印象深い。
いよいよ臨終間近になって、父は惟規に往生極楽を願えと、立派な僧を呼び、念仏を唱えさせようとした。その僧が惟規の耳元で次のようなことを囁く。
地獄の苦しみが目前に迫っていること、その苦しみは筆舌に尽くしがたいこと、次の世に生を受けるまでに彷徨う中有では、鳥も獣もいない広大な野を独りとぼとぼと歩き、その心細さ、あとへ残してきた人の恋しさは耐え難いものである。
それを聞いた惟規は、苦しい息の下に、その中有の旅の途中では、嵐に散りまがう紅葉や、風になびく薄の花などの下で鳴く松虫などの声は聞こえないのでしょうかと、ためらいながら、息も絶え絶えに尋ねる。
この問いかけに腹を立てた僧は、なんのためにそんなことを聞くのかと惟規に問い返す。すると、惟規は、もしそうならば、それらを見て心を慰めましょうと、やはり息も絶え絶えに答える。それを聞いた僧は、狂気の沙汰だと、席を立って帰ってしまう。
父はなおも息子のそばにつきそって見守っていると、惟規は両手をひらひらさせる。父はそれが何を意味するのかわからない。すると、脇に控えていたひとが、何か書きたいのではないかと気づく。そこで筆と紙を惟規に与えると、「みやこにもわびしき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞ思ふ」(わびしく都にいて、このわたしを待ってくれているあまたの人もいることだから、なんとしてでも、この旅を生きながらえて、もう一度、都にかえりたい)と歌を記す。
最後の文字「ふ」を書き終えずに息が絶えてしまったので、父がその「ふ」の字を書き加え、形見にする。それをいつも出しては見て泣いていたので、紙は涙に濡れて、ついに破れてしまった。
このことを父が京に帰り語ったところ、これを聞いた人たちは、みな心からあわれなことと思った。
この説話に基づいて惟規の最期が『光る君へ』で描かれるとすれば(直接的にか、あるいは、父の語りの中の回想シーンとして)、惟規の最期について父の話を涙ながらに聞く式部の姿も必ずや組み込まれるだろう(と私は期待している)。