内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

仏教伝来前の日本の古代人によって生きられていた豊穣な神話的世界像

2024-06-30 02:09:32 | 思想史

 西郷信綱『古代人と死』に立ち戻る。
 沖縄のニライ・カナイへの言及の後、西郷は論文「地下世界訪問譚」のなかに「海神の国」と題した節を設け、黄泉の国とも根の国とも違う他界である海神の国について次のように述べている。

古代人は、水平線には縁があり、そこが水の渦まく急な坂になっており、その下の方に海神の国という他界があると考えていた。だからそれもやはり「底つ国」であったといえなくはないが、黄泉の国や根の国と海神の国との間には、一つのいちじるしい違いが存する。海神の国は限りなく明るく、死臭はもとより死の影すら感じられない。つまりそれは死を超えた世界だといっていい。

 他方、天界に対しては、海神の国と黄泉の国や根の国とは一体としての earth をなす。

天界にたいし山と海とは、むしろ一体としての earth を示すものであった。山の神の女コノハナサクヤビメと海神の女豊玉姫や玉依姫は大地の生産力、その豊穣を象徴する女性であり、だから天つ神の子はそれと婚することによって稲穂みのる国の王たる資格を身につけるという神話的想定がここにはあるのである。ワタツミが農の水を支配する神たるゆえんでもある。

 仏教伝来前の日本の古代人によって生きられていた豊穣な神話的世界像がこのように生き生きと立体的に描き出されているのを読むとき、古語「なつかし」の原義が身に沁みるのを私は感じないわけにはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


根の国と黄泉の国とは大地の生と死の二つの側面を表している

2024-06-29 12:11:44 | 思想史

 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)は「黄泉の国」の項に三段組の一頁のほぼ全体を割いている。その項を読むと、語源等推定の域をでないことも少なくないことがわかる一方で、昨日の記事で引用した西郷信綱『古代人と死』の所説を裏付ける記述もある。両者合わせて確実と思われるところと昨日の引用を補う部分とを摘録しておく。
 闇(yamï)という語は黄泉(yomï)と語源を同じくする。「黄泉」の表記は漢語の借用で、地下(黄色は土を表す)の冥界を意味する。
 天父イザナギと地母イザナミの結婚によって世界の万物が誕生したが、最後に火の神が生まれてイザナミは死に、最初の死者となって黄泉の国へ行く。追いかけて行ったイザナギは、そこで死の国における妻の真の姿をのぞき見る。それは膿が湧いて脹れあがり蛆や雷まで発生させた醜いものであった。現世に逃げ帰ったときイザナギは、黄泉の国のことを「不須也(いな)凶目(しこめ)き汚穢(きたな)き処[醜悪ナ穢レタ所]」(『日本書紀』神代第五段)と呼んでいる。イザナギが現世と黄泉の国との境(黄泉比良坂)を大岩で塞ぎ、この岩を挟んでイザナギとイザナミが絶縁したとき、永遠の時間空間に終止符が打たれ、天地、生と死が分離した。
 黄泉の国は、イザナミの死と同時に出現し、ここで彼女(死の女神、黄泉津大神)の支配する国として確立したので、イザナミそのものというべき世界である。大地そのものであるイザナミは、すべての生物が死んで帰ってくる墓場(黄泉の国)であるが、同時にそこからすべてを生み出す万物の母でもある。黄泉の国に帰ってきた死者は、ここでもう一度受胎され、再び地上世界に生み出されていく。つまり死の世界である黄泉の国は、そこから生命を生み出す生産の場(母胎)としてのもう一つの側面をもつ。
 スサノヲは、イザナミの支配するこの国のことを「妣の国根の堅州国」(『古事記』上)と呼ぶが、黄泉の国のもつそのような生産的な側面は、「根の国」の神話によく示されている。スサノヲは母を求めてこの国に入り、また未熟な若者オオナムチはこの国を訪れてスサノヲによる試練を受け、地上世界の支配者オホクニヌシへと生まれ変わって帰還した。
 オオナムチが木の「股」の間から入ったとされることからもわかるように、この国はイザナミの胎内であり、ここに入って出ることは死と再生を意味している。つまり、大地の母神イザナミそのものであるこの胎内世界は、その生み出す母の国であり生命の根源の国としての側面を強調する場合には「根の国」と呼ばれ、死の国としての側面を強調する場合には「黄泉の国」と呼ばれるのではないか。
 根の国と黄泉の国は、それぞれ同じ大地の生と死の二つの側面を表していると思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「大地はおのれのなかに死者を受容するとともに、ものを生み出す女性原理を秘めている」― 西郷信綱『古代人と死』より

2024-06-28 18:05:29 | 思想史

 地獄の思想が日本に姿を現すのは仏教伝来以後であることは確かだが、いわゆる仏教公伝と同時に受け入れられたわけでもないし、公伝以前に帰化人を通じて伝えられた仏教にすでに六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)思想の片鱗があったかもしれないから、日本における地獄の思想のはじまりを特定することは難しい。
 それでも確かなことは、死後の世界を黄泉としてきた古代日本人にとって、地獄を最下層とする六道思想は、まったく異質な「新しい」世界観であったことである。地下にあるとされる黄泉の国は、ものを生み出す大地の女性原理に属しており、仏教の地獄や浄土とは大きく異なる世界であった。

人間は死ぬと、土葬の場合その死体は地に埋められる。地下に死者の世界があるとする神話的思考が生じるのは、もとよりこのことにもとづく。古墳に葬る場合も例外ではない。しかしこの地または大地つまり earth には、ひとの命を育み養うさまざまな食物を生み出す力、つまり生産力が蔵されており、豊穣という恵みをもたらしてくれる。《母なる大地》と呼ばれるのも、大地が人間の生にとって根源的なものであったことを示す。(西郷信綱『古代人と死』「はしがき」より)

 黄泉の国、つまり死者たちの棲む世界がどこにあると古代人たちによって信じられていたか。西郷は『古代人と死』のなかで結論的にこう述べている。

それはヤマトから西方にあたるイヅモ世界を暗い死者の国に見立てて、その国との「堺」の山にイザナミを葬ったという意に解していいはずである。人びとの生活次元に戻して考えるなら、耕作地の向こうにひろがる野や原、あるいはそれにつづく山地などがさしあたり死霊の世界ということになろう。(「黄泉の国・根の国」)

 神話が生きられる世界の共同的了解の総合形態であるとすれば、そしてそのなかで死者たちの国がこの引用でのように位置づけられていたとすれば、古代人たちは、西方の山の向こうの死霊の世界とともに生きていたということになる。
 このような黄泉の国と根の国とはどのような関係にあるのか。『古事記』のなかでオホムナジがスサノオの娘スセリビメと根の国で婚したことに言及したあと、西郷はこう述べている。

このような若き女性が棲んでいること、しかもそれが早くオホムナジの妻になること、ここに根の国の話の見逃せぬ一つの特質がある。私は大地はおのれのなかに死者を受容するとともに、ものを生み出す女性原理を秘めているとしたが、かくてこうした機能が古事記の根の国ではあざなわれるごとく語られているといえる。(「黄泉の国・根の国」)

 根の国についてこのように述べたあと、西郷は沖縄のニライ・カナイを想起する。その所在は海のかなたの国だったり、海底だったりするが、そこから神々が人間界を訪れて祝福を与えてくれるとされる。五穀の種も元来そこからもたらされたという。そして、「一門の宗家である根屋がニーヤ、そこから出た神女(根神)がニーガンと呼ばれるのでもわかるように、ニライは紛れもなく根の国と見合う」と西郷は言うのだが、ここは正直私にはよくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死生観探求の道行きを地獄の表象から始める

2024-06-27 13:45:09 | 思想史

 今年度前期に担当した「日本の文明と文化」という日本語のみで行う三年生の授業で、数回にわたって「日本人の死生観」というテーマを取り上げたことは2023年11月14日の記事で話題にした。その後、数回、その授業の内容に触れる記事も書いた。
 このテーマに拒否反応を示す学生が多かったらどうしようと事前には少し不安だったのだが、初回から彼女ら・彼らがテーマに対して高い関心を示してくれたことによってその不安は解消された。授業の仕上げとしてのグループ発表もなかなかの出来のものが多かった。
 死生観は、時代・文化・文明・宗教・社会等のさまざまなファクターによって変化する。それとして言表されずに人々によって生きられている死生観は、死とはなにか・生とはなにかという問いに直接的に答える仕方で表現されるとはかぎらない。
 そもそも、あなたの死生観はと問われて即座に答えられる人がどれだけいるだろうか。私にはこの問いに答える用意がない。そのことは、しかし、私が死の表象を何も持っていないということを直ちに意味しない。むしろ無意識の裡にある特定の死の表象に囚われているかも知れない。その囚われが自分の精神を萎縮させ不自由にしているとすれば、それはそれだけで不幸なことではなかろうか。
 しかし、その囚われから直接的に自分を解放する手立てを私は持っていない。そこで間接的な手立てとして、歴史と文学のなかに死生観を探り、それらとの関係において自分につきまとう死の表象を対象化・相対化するという迂遠な途をいま辿ろうとしている。
 それにしても、死生観を端的にそれとして表現している史料や作品に探求の対象を限定してしまうと、その背景に広がる豊穣で深淵な表現の次元を取り逃がしてしまうことにもなりかねない。その次元にこそ、多くの人たちによって暗黙のうちに共有された死生観が間接的・媒介的あるいは喩的に表現されているかもしれないのに。
 地獄の表象は死生観と不可分である。それは洋の東西を問わない。このブログでダンテの『神曲』を話題にしたのも、その背景には死生観への関心があった。源信の『往生要集』に言及したのも同じ理由からである。
 死生観探求の道行きを地獄の表象から始めよう。その端緒としてどこに自分の志向がまず向かうかといえば、日本にいたときのもともとの専攻であった日本上代文学である。行き着く先もわからず覚束なきことこのうえない漂泊、彷徨あるいは流離にも似たその道行きの記録をこのブログに残しておきたい。幸いなことに、頼りになる「案内人」がいる。先月15日の記事で話題にした西郷信綱の『古代人と死』(平凡社ライブラリー、2003年。原本、平凡社選書、1999年)である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の弟惟規の最期の姿が『光る君へ』に取り入れられるとすれば

2024-06-26 13:58:33 | 雑感

 紫式部はその生没年を確定できないが、少なくとも一〇一三年には生きていたことが藤原実資の日記『小右記』の記事から確認できる。式部の弟(兄とする説もある)惟規(のぶのり)の没年は一〇一一年とわかっている。越後守として任地に赴任していた父為時のもとに下向する途上で病み、越後で父に看取られながら没する。弟の病没の知らせを式部は京で受け取ったはずである。
 その最期にまつわる説話が『今昔物語集』巻三十一の二十八「藤原惟規、越中国にして死ぬる語」である。父の任地が越後ではなく越中になっていること、父の名が為善になっていること、父を博士としていることなど、史実に違う点があり、この説話を実話に基づいていると受け取ることはもちろんできないが、惟規が後世に「風流人」としてその名を知られていたことがわかる。この説話では、その惟規の病床の最期の姿を罪深いこと、悲しいことと結論づけているが、その結論は取ってつけたようで、説話の主要部分は惟規の姿を克明に描き出していて印象深い。

 いよいよ臨終間近になって、父は惟規に往生極楽を願えと、立派な僧を呼び、念仏を唱えさせようとした。その僧が惟規の耳元で次のようなことを囁く。
 地獄の苦しみが目前に迫っていること、その苦しみは筆舌に尽くしがたいこと、次の世に生を受けるまでに彷徨う中有では、鳥も獣もいない広大な野を独りとぼとぼと歩き、その心細さ、あとへ残してきた人の恋しさは耐え難いものである。
 それを聞いた惟規は、苦しい息の下に、その中有の旅の途中では、嵐に散りまがう紅葉や、風になびく薄の花などの下で鳴く松虫などの声は聞こえないのでしょうかと、ためらいながら、息も絶え絶えに尋ねる。
 この問いかけに腹を立てた僧は、なんのためにそんなことを聞くのかと惟規に問い返す。すると、惟規は、もしそうならば、それらを見て心を慰めましょうと、やはり息も絶え絶えに答える。それを聞いた僧は、狂気の沙汰だと、席を立って帰ってしまう。
 父はなおも息子のそばにつきそって見守っていると、惟規は両手をひらひらさせる。父はそれが何を意味するのかわからない。すると、脇に控えていたひとが、何か書きたいのではないかと気づく。そこで筆と紙を惟規に与えると、「みやこにもわびしき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞ思ふ」(わびしく都にいて、このわたしを待ってくれているあまたの人もいることだから、なんとしてでも、この旅を生きながらえて、もう一度、都にかえりたい)と歌を記す。
 最後の文字「ふ」を書き終えずに息が絶えてしまったので、父がその「ふ」の字を書き加え、形見にする。それをいつも出しては見て泣いていたので、紙は涙に濡れて、ついに破れてしまった。
 このことを父が京に帰り語ったところ、これを聞いた人たちは、みな心からあわれなことと思った。

 この説話に基づいて惟規の最期が『光る君へ』で描かれるとすれば(直接的にか、あるいは、父の語りの中の回想シーンとして)、惟規の最期について父の話を涙ながらに聞く式部の姿も必ずや組み込まれるだろう(と私は期待している)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大河ドラマ『光る君へ』に採用してほしい『紫式部日記』のなかの一場面 ― 弁の宰相の昼寝姿

2024-06-25 17:45:02 | 雑感

 大河ドラマ『光る君へ』には『源氏物語』から取られたエピソードや描写などが紫式部の生きている現実の世界の中に織り込まれていて、それをフィクションが歴史的現実のなかに混入しているとおかたく批判もできようが、これはドラマであってドキュメンタリーではないのだから、これはこれでなかなか心憎い演出だと私は思うし、そう思いながらご覧になっている方も少なくないようだ。
 私が特に興味と期待を持っているのは、『紫式部日記』のなかに語られた出来事や式部の内省や女房たちへの批評がどのような形でドラマに取り入れられるかである。
 式部の生涯を語るにあたってはさして重要ではないが、私が是非とも見たいと思っているのは、彰子後宮の局でうたた寝をしている弁の宰相の君に式部がいきなり声を掛けて起こしてしまう場面である。
 式部が彰子の御前から自身の局に下がる途中、宰相の君の局の戸口を覗くと、彼女はちょうど昼寝をしている。日記には、その可愛らしい姿が彩り鮮やかにかつ微細に描写されている。その姿が絵に描いたお姫様のようなので、式部は思わず彼女が被っていた衣を除けて、「物語の女の心地もし給へるかな」と声をかけてしまう。それに対して宰相の君は「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心地なく驚かすものか」と抗議する。その姿がまたなんとも優美だと式部は感嘆する(この段については、2014年11月30日の記事で一度話題にしている)。
 弁の宰相の君を誰が演ずるかという興味も含めて、このシーンが『光る君へ』に採用されることを放映が開始される前の昨年末から私はずっと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


都市の勃興・市民階級の成立と贖罪の場としての煉獄の誕生とダンテの「煉獄篇」

2024-06-24 04:51:27 | 読游摘録

 「煉獄」という言葉は聖書にはない。煉獄という考え方は十二世紀半ばにカトリックの教義に取り入れられたことは一昨日の記事で見た。「聖書に帰れ」を標榜するプロテスタントはだから煉獄を認めない。ダンテの時代にも煉獄の場所や構造が確定していたわけではない。
 講談社学術文庫版『神曲』(全三巻、2014年)の訳者原基晶氏による「「煉獄篇」を読む前に」から、「煉獄篇」がそのなかで構想された歴史的文脈とダンテが煉獄を構想した理由とを簡潔に記している箇所(「煉獄篇」p. 7-8)を摘録しておく。

 キリスト教が興ってから長期間、死後の世界は天国と地獄の二つに分かれていた。これは世界が貴族とそれ以外の人々の二つに分かれていたことを反映している。その中では、聖職者はまだ一つの階級を構成していなかった。なぜなら彼らもまた貴族出身の支配者以外の何者でもなかったからだ。ところが、商業経済が栄えて封建制の農業経済にとって代わり、都市が勃興してくると、第三の勢力である市民が台頭してきた。
 こうして社会が、上層階級(貴族・高位聖職者)、中間層(都市市民)、下層階級(農民や都市労働者)に分かれると、死後の世界も、天国、煉獄、地獄の三階級に分かれた。高貴ささえ貴族の占有物としないダンテにとって、高貴とは、血統でも、教皇に代表される聖職者として神に近いことでもなく、生き方の問題となり、それとともに死後の世界における人の高貴さの判定も複雑になった。ダンテにとって、多種多様で複雑な人生に死後の世界を対応させるためには、贖罪の場である煉獄が必要だったのである。
 ダンテの煉獄は、それまでよくあったように地下にあるのではなく、地上で最も高い山の頂、天国のすぐそばにある。そして煉獄の魂は、生前に犯した七つの大罪を七つの円状をなす環道において罰を受けて償い、贖罪は債務に例えられ、その精算が終わると天国に昇天する。煉獄の罰は地獄のようでありながら、そこでの滞在時間は犯した罪の重さによって計られ、それは都市の商人の合理主義を思い起こさせる。
 もしも人の生が、『神曲』冒頭で述べられているように、天国へと向かう歩みであるならば、煉獄とは、ここに見られるようにまさしく生の延長である。実際、煉獄だけは永遠ではなく、最後の審判の後では無人になる。まるで現世のように。そして地上の世界に平和をもたらし、人々が神、つまり天国を思って生きる世界を実現するというダンテの満たされなかった願望は、煉獄にその場所を持つこととなった。煉獄はダンテによってはじめて確固たる存在になったとされるが、それは、彼の願望が一つの世界となって結晶したものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代ヨーロッパ」の陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパはどこに見出されるか

2024-06-23 04:17:29 | 読游摘録

 煉獄の観念がキリスト教世界において成立する以前と以後の違いについて、阿部謹也の『西洋中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2012年、原本1989年、弘文堂)から関連箇所を摘録する。

煉獄の観念が成立する以前においては、死後の人間が行く場所は天国か地獄のいずれかでしかなかった。教義に基づいていえば、キリスト教信者にとっては亡霊や幽霊は存在しないことになるのである。

『黄金伝説』や中世の説話集などにおいては、死後の人間の運命が明瞭なかたちで説かれていた。現世においてなした善行や悪行に基づいて、死後審判が行われ、善人は天国へ悪人は地獄にいくという構図ができあがっていた。しかし中世都市の台頭と商業経済の復興のなかで利子の問題が浮上し、利子を全面的に禁止することが不可能となった状況のなかで、煉獄の構想が生まれている。もとよりル・ゴフが明瞭に述べているように、煉獄の構想それ自体はかなり古くからあったのだが、十二世紀に最終的に煉獄のイメージが定着することになる。このころから、すでにみたように死後、煉獄で苦しむ死者のイメージがあらゆる文献に現れ出し、死者は常に生者に対して救いを求める哀れな姿で登場する。

 ここで阿部が参照しているのがル=ゴフの『煉獄の誕生』であるのは言うまでもなかろう。
 カロリング・ルネサンス期にキリスト教会は国家権力と結びついて、民間信仰の世界に激しい攻撃を加える。しかし、それにもかかわらず、死者に対する古来ゲルマン的な考え方は消え去ってしまうことはなかった。それを示す民話、民謡、口承伝承には枚挙にいとまがないほどで、『西洋中世の罪と罰』のなかにもいくつか紹介されている。そのうえで阿部はこう述べている。

話の本質にはキリスト教は何の関係もなく、古ゲルマン以来の伝承が口頭伝承の形で今日まで伝えられたものと考えられる。「アイスランド・サガ」からこれらの話へと続く死者のイメージの群れと、天国・地獄・煉獄のなかで生まれた哀れな亡霊のイメージの群れとの間には大きな隔たりがあり、両者の関係についてもこれまでのところまったく説明されてはこなかった。

 煉獄の公認による中世キリスト教世界における宗教的世界観の変化、その変化と社会経済の構造的変化との不可分の関係、それらの変化にもかかわらず生き残った非キリスト教的民間伝承のなかの死者のイメージを重層的に捉えるとき、いわゆる近代ヨーロッパの陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパを垣間見ることができる。
 『西洋中世の罪と罰』の最終章第七章「生き続ける死者たち」の最後の段落を全文引く。

「贖罪規定書」にみられるような教会による日常生活への厳しい介入は、公的な部分でのヨーロッパを形成するのに大きな力をもっていた。それがなかったら今日のヨーロッパはありえなかったであろう。ヨーロッパにおいては教会に代表される力が世俗権力と結んで圧倒的な力をもち、個々人の生活にも介入しながら国家や教会が団体としての人間ではなく、個人としての人間を捉えようとしたてんにヨーロッパ社会の独自な性格が生まれる最大の原因があった。その意味で、一二一五年の告解の強制はヨーロッパ史のなかで重要な一歩だったのである。上から強制されるという形をとりながらも、ヨーロッパではそのとき以来個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が画されたからである。以上のような観察は、わが国の歴史をふりかえるときのひとつの参考になるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


西洋中世キリスト教世界における煉獄の公認の社会思想史的・哲学思想史的衝撃

2024-06-22 13:19:21 | 読游摘録

 煉獄の思想の萌芽はアウグスティヌスに見られるが、キリスト教の教義のなかに本格的に組み込まれるのは十二世紀になってからのことであり、ローマ・カトリック教会によって正式に教義として認可されるのは、1274年のリヨンの公会議においてである。同年トマス・アクィナスが亡くなっており、この年を中世キリスト教史の一つの転回点とみなす研究者たちもいる。マイスター・エックハルトがドミニコ会エルフルト修道院の修練士になったのは1275年と推定されることが多いが、前年とする説もある。ダンテがベアトリーチェを初めて見かけたのも1274年だとされる。
 社会経済史的には、ジャック・ル=ゴフによれば、煉獄の思想の確立は、悪徳とされた高利貸しの救済を可能にし、それが資本主義の誕生に貢献した(La naissance du Purgatoire, Gallimard, 1981,『煉獄の誕生』法政大学出版局、1988年)。しかし、本人これを挑発的な見解だと断ってはいる。

J’ai même avancé l’opinion provocatrice que le Purgatoire, permettant le salut de l’usurier, avait contribué à la naissance du capitalisme.

 この変化は高利貸しに限られたことではなく、煉獄の公認は、それ以前はキリスト教世界で伝統的に罪深いとされてきた職業に携わっている人たちにも地獄からの救済の可能性が開かれるという大きな社会的変化をもたらした。

Une des fonctions du Purgatoire a été en effet de soustraire à l’Enfer des catégories de pécheurs qui, par la nature et la gravité de leur faute, ou par l’hostilité traditionnelle à leur profession, n’avaient guère de chances d’y échapper auparavant.

 思想史的には、天国か地獄かという二項対立的世界観とは異なる、両者の間の媒介項を認める三項的世界観の公認を意味し、そこに近代の弁証法的思考の前兆を見て取る研究者たちもいる。

C’est là une réalité de plus d’importance qu’il ne paraît, dans la mesure où l’on peut y déchiffrer l’amorce d’une révolution mentale qui substitue à la logique binaire – ciel et enfer – une pensée à trois termes, annonce lointaine d’une procédure de type dialectique.

Gwendoline Jarczyk, Pierre-Jean Labarrière, Maître Eckhart ou l’Empreinte du désert, Albin Michel, 1995, p. 34.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おのれのほかに対象がない生への執着が地獄である ― シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

2024-06-21 11:03:53 | 読游摘録

 フランス語に moignon という言葉がある。フランス語歴史辞典によれば、古フランス語として遅くとも十三世紀には登場している。「(切断された四肢の)残り部分」、より正確には、「切断された肢の切断面から関節までの部分」という意味で使われた。どうしてこの部分を特に指し示す言葉が必要とされたのだろうか。もともとは医学用語として使われたのでもないようである。
 この言葉、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に四回出てくる。いずれも幻影肢(membre fantôme)の現象を考察している文脈においてである(p. 90 - 102)。この文脈では、切断後に残った当該部位を指し示すために使われているから、おぞましい印象を与えることはない。
 シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のなかにこの同じ言葉が使われている箇所がある。そこではおぞましい印象を与える。ただし、この箇所、ティボン版にはなく、ガリマール社の『シモーヌ・ヴェイユ全集』第六巻のカイエ(II)にのみ見られる(p. 321)。この語が見られる断章は全集では全部イタリックになっており、それはヴェイユの手書きのノートでは下線で強調されていたことを意味する。
 その断章の最初から三分の二ほどが岩波文庫版では訳されている。「自我」(Le moi)と題された八番目の章に収録されている(訳者の慧眼に深謝)。

 不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剝きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
 この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
 かかる仕組みゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えないときでさえも」。
 かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。

 「この局面から捉えられた」からその段落の終わりまでの原文を以下に示す。

Le malheur sous cet aspect est hideux, comme est toujours la vie à nu ; comme un moignon, comme le grouillement des insectes. La vie sans forme. Survivre est là l’unique attachement. C’est là que commence l’extrême malheur, quand tous les attachements sont remplacés par celui de survivre. L’attachement apparaît là à nu. Sans objet que soi-même. Enfer.