内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

紫式部の弟惟規の最期の姿が『光る君へ』に取り入れられるとすれば

2024-06-26 13:58:33 | 雑感

 紫式部はその生没年を確定できないが、少なくとも一〇一三年には生きていたことが藤原実資の日記『小右記』の記事から確認できる。式部の弟(兄とする説もある)惟規(のぶのり)の没年は一〇一一年とわかっている。越後守として任地に赴任していた父為時のもとに下向する途上で病み、越後で父に看取られながら没する。弟の病没の知らせを式部は京で受け取ったはずである。
 その最期にまつわる説話が『今昔物語集』巻三十一の二十八「藤原惟規、越中国にして死ぬる語」である。父の任地が越後ではなく越中になっていること、父の名が為善になっていること、父を博士としていることなど、史実に違う点があり、この説話を実話に基づいていると受け取ることはもちろんできないが、惟規が後世に「風流人」としてその名を知られていたことがわかる。この説話では、その惟規の病床の最期の姿を罪深いこと、悲しいことと結論づけているが、その結論は取ってつけたようで、説話の主要部分は惟規の姿を克明に描き出していて印象深い。

 いよいよ臨終間近になって、父は惟規に往生極楽を願えと、立派な僧を呼び、念仏を唱えさせようとした。その僧が惟規の耳元で次のようなことを囁く。
 地獄の苦しみが目前に迫っていること、その苦しみは筆舌に尽くしがたいこと、次の世に生を受けるまでに彷徨う中有では、鳥も獣もいない広大な野を独りとぼとぼと歩き、その心細さ、あとへ残してきた人の恋しさは耐え難いものである。
 それを聞いた惟規は、苦しい息の下に、その中有の旅の途中では、嵐に散りまがう紅葉や、風になびく薄の花などの下で鳴く松虫などの声は聞こえないのでしょうかと、ためらいながら、息も絶え絶えに尋ねる。
 この問いかけに腹を立てた僧は、なんのためにそんなことを聞くのかと惟規に問い返す。すると、惟規は、もしそうならば、それらを見て心を慰めましょうと、やはり息も絶え絶えに答える。それを聞いた僧は、狂気の沙汰だと、席を立って帰ってしまう。
 父はなおも息子のそばにつきそって見守っていると、惟規は両手をひらひらさせる。父はそれが何を意味するのかわからない。すると、脇に控えていたひとが、何か書きたいのではないかと気づく。そこで筆と紙を惟規に与えると、「みやこにもわびしき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞ思ふ」(わびしく都にいて、このわたしを待ってくれているあまたの人もいることだから、なんとしてでも、この旅を生きながらえて、もう一度、都にかえりたい)と歌を記す。
 最後の文字「ふ」を書き終えずに息が絶えてしまったので、父がその「ふ」の字を書き加え、形見にする。それをいつも出しては見て泣いていたので、紙は涙に濡れて、ついに破れてしまった。
 このことを父が京に帰り語ったところ、これを聞いた人たちは、みな心からあわれなことと思った。

 この説話に基づいて惟規の最期が『光る君へ』で描かれるとすれば(直接的にか、あるいは、父の語りの中の回想シーンとして)、惟規の最期について父の話を涙ながらに聞く式部の姿も必ずや組み込まれるだろう(と私は期待している)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大河ドラマ『光る君へ』に採用してほしい『紫式部日記』のなかの一場面 ― 弁の宰相の昼寝姿

2024-06-25 17:45:02 | 雑感

 大河ドラマ『光る君へ』には『源氏物語』から取られたエピソードや描写などが紫式部の生きている現実の世界の中に織り込まれていて、それをフィクションが歴史的現実のなかに混入しているとおかたく批判もできようが、これはドラマであってドキュメンタリーではないのだから、これはこれでなかなか心憎い演出だと私は思うし、そう思いながらご覧になっている方も少なくないようだ。
 私が特に興味と期待を持っているのは、『紫式部日記』のなかに語られた出来事や式部の内省や女房たちへの批評がどのような形でドラマに取り入れられるかである。
 式部の生涯を語るにあたってはさして重要ではないが、私が是非とも見たいと思っているのは、彰子後宮の局でうたた寝をしている弁の宰相の君に式部がいきなり声を掛けて起こしてしまう場面である。
 式部が彰子の御前から自身の局に下がる途中、宰相の君の局の戸口を覗くと、彼女はちょうど昼寝をしている。日記には、その可愛らしい姿が彩り鮮やかにかつ微細に描写されている。その姿が絵に描いたお姫様のようなので、式部は思わず彼女が被っていた衣を除けて、「物語の女の心地もし給へるかな」と声をかけてしまう。それに対して宰相の君は「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心地なく驚かすものか」と抗議する。その姿がまたなんとも優美だと式部は感嘆する(この段については、2014年11月30日の記事で一度話題にしている)。
 弁の宰相の君を誰が演ずるかという興味も含めて、このシーンが『光る君へ』に採用されることを放映が開始される前の昨年末から私はずっと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


都市の勃興・市民階級の成立と贖罪の場としての煉獄の誕生とダンテの「煉獄篇」

2024-06-24 04:51:27 | 読游摘録

 「煉獄」という言葉は聖書にはない。煉獄という考え方は十二世紀半ばにカトリックの教義に取り入れられたことは一昨日の記事で見た。「聖書に帰れ」を標榜するプロテスタントはだから煉獄を認めない。ダンテの時代にも煉獄の場所や構造が確定していたわけではない。
 講談社学術文庫版『神曲』(全三巻、2014年)の訳者原基晶氏による「「煉獄篇」を読む前に」から、「煉獄篇」がそのなかで構想された歴史的文脈とダンテが煉獄を構想した理由とを簡潔に記している箇所(「煉獄篇」p. 7-8)を摘録しておく。

 キリスト教が興ってから長期間、死後の世界は天国と地獄の二つに分かれていた。これは世界が貴族とそれ以外の人々の二つに分かれていたことを反映している。その中では、聖職者はまだ一つの階級を構成していなかった。なぜなら彼らもまた貴族出身の支配者以外の何者でもなかったからだ。ところが、商業経済が栄えて封建制の農業経済にとって代わり、都市が勃興してくると、第三の勢力である市民が台頭してきた。
 こうして社会が、上層階級(貴族・高位聖職者)、中間層(都市市民)、下層階級(農民や都市労働者)に分かれると、死後の世界も、天国、煉獄、地獄の三階級に分かれた。高貴ささえ貴族の占有物としないダンテにとって、高貴とは、血統でも、教皇に代表される聖職者として神に近いことでもなく、生き方の問題となり、それとともに死後の世界における人の高貴さの判定も複雑になった。ダンテにとって、多種多様で複雑な人生に死後の世界を対応させるためには、贖罪の場である煉獄が必要だったのである。
 ダンテの煉獄は、それまでよくあったように地下にあるのではなく、地上で最も高い山の頂、天国のすぐそばにある。そして煉獄の魂は、生前に犯した七つの大罪を七つの円状をなす環道において罰を受けて償い、贖罪は債務に例えられ、その精算が終わると天国に昇天する。煉獄の罰は地獄のようでありながら、そこでの滞在時間は犯した罪の重さによって計られ、それは都市の商人の合理主義を思い起こさせる。
 もしも人の生が、『神曲』冒頭で述べられているように、天国へと向かう歩みであるならば、煉獄とは、ここに見られるようにまさしく生の延長である。実際、煉獄だけは永遠ではなく、最後の審判の後では無人になる。まるで現世のように。そして地上の世界に平和をもたらし、人々が神、つまり天国を思って生きる世界を実現するというダンテの満たされなかった願望は、煉獄にその場所を持つこととなった。煉獄はダンテによってはじめて確固たる存在になったとされるが、それは、彼の願望が一つの世界となって結晶したものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代ヨーロッパ」の陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパはどこに見出されるか

2024-06-23 04:17:29 | 読游摘録

 煉獄の観念がキリスト教世界において成立する以前と以後の違いについて、阿部謹也の『西洋中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2012年、原本1989年、弘文堂)から関連箇所を摘録する。

煉獄の観念が成立する以前においては、死後の人間が行く場所は天国か地獄のいずれかでしかなかった。教義に基づいていえば、キリスト教信者にとっては亡霊や幽霊は存在しないことになるのである。

『黄金伝説』や中世の説話集などにおいては、死後の人間の運命が明瞭なかたちで説かれていた。現世においてなした善行や悪行に基づいて、死後審判が行われ、善人は天国へ悪人は地獄にいくという構図ができあがっていた。しかし中世都市の台頭と商業経済の復興のなかで利子の問題が浮上し、利子を全面的に禁止することが不可能となった状況のなかで、煉獄の構想が生まれている。もとよりル・ゴフが明瞭に述べているように、煉獄の構想それ自体はかなり古くからあったのだが、十二世紀に最終的に煉獄のイメージが定着することになる。このころから、すでにみたように死後、煉獄で苦しむ死者のイメージがあらゆる文献に現れ出し、死者は常に生者に対して救いを求める哀れな姿で登場する。

 ここで阿部が参照しているのがル=ゴフの『煉獄の誕生』であるのは言うまでもなかろう。
 カロリング・ルネサンス期にキリスト教会は国家権力と結びついて、民間信仰の世界に激しい攻撃を加える。しかし、それにもかかわらず、死者に対する古来ゲルマン的な考え方は消え去ってしまうことはなかった。それを示す民話、民謡、口承伝承には枚挙にいとまがないほどで、『西洋中世の罪と罰』のなかにもいくつか紹介されている。そのうえで阿部はこう述べている。

話の本質にはキリスト教は何の関係もなく、古ゲルマン以来の伝承が口頭伝承の形で今日まで伝えられたものと考えられる。「アイスランド・サガ」からこれらの話へと続く死者のイメージの群れと、天国・地獄・煉獄のなかで生まれた哀れな亡霊のイメージの群れとの間には大きな隔たりがあり、両者の関係についてもこれまでのところまったく説明されてはこなかった。

 煉獄の公認による中世キリスト教世界における宗教的世界観の変化、その変化と社会経済の構造的変化との不可分の関係、それらの変化にもかかわらず生き残った非キリスト教的民間伝承のなかの死者のイメージを重層的に捉えるとき、いわゆる近代ヨーロッパの陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパを垣間見ることができる。
 『西洋中世の罪と罰』の最終章第七章「生き続ける死者たち」の最後の段落を全文引く。

「贖罪規定書」にみられるような教会による日常生活への厳しい介入は、公的な部分でのヨーロッパを形成するのに大きな力をもっていた。それがなかったら今日のヨーロッパはありえなかったであろう。ヨーロッパにおいては教会に代表される力が世俗権力と結んで圧倒的な力をもち、個々人の生活にも介入しながら国家や教会が団体としての人間ではなく、個人としての人間を捉えようとしたてんにヨーロッパ社会の独自な性格が生まれる最大の原因があった。その意味で、一二一五年の告解の強制はヨーロッパ史のなかで重要な一歩だったのである。上から強制されるという形をとりながらも、ヨーロッパではそのとき以来個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が画されたからである。以上のような観察は、わが国の歴史をふりかえるときのひとつの参考になるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


西洋中世キリスト教世界における煉獄の公認の社会思想史的・哲学思想史的衝撃

2024-06-22 13:19:21 | 読游摘録

 煉獄の思想の萌芽はアウグスティヌスに見られるが、キリスト教の教義のなかに本格的に組み込まれるのは十二世紀になってからのことであり、ローマ・カトリック教会によって正式に教義として認可されるのは、1274年のリヨンの公会議においてである。同年トマス・アクィナスが亡くなっており、この年を中世キリスト教史の一つの転回点とみなす研究者たちもいる。マイスター・エックハルトがドミニコ会エルフルト修道院の修練士になったのは1275年と推定されることが多いが、前年とする説もある。ダンテがベアトリーチェを初めて見かけたのも1274年だとされる。
 社会経済史的には、ジャック・ル=ゴフによれば、煉獄の思想の確立は、悪徳とされた高利貸しの救済を可能にし、それが資本主義の誕生に貢献した(La naissance du Purgatoire, Gallimard, 1981,『煉獄の誕生』法政大学出版局、1988年)。しかし、本人これを挑発的な見解だと断ってはいる。

J’ai même avancé l’opinion provocatrice que le Purgatoire, permettant le salut de l’usurier, avait contribué à la naissance du capitalisme.

 この変化は高利貸しに限られたことではなく、煉獄の公認は、それ以前はキリスト教世界で伝統的に罪深いとされてきた職業に携わっている人たちにも地獄からの救済の可能性が開かれるという大きな社会的変化をもたらした。

Une des fonctions du Purgatoire a été en effet de soustraire à l’Enfer des catégories de pécheurs qui, par la nature et la gravité de leur faute, ou par l’hostilité traditionnelle à leur profession, n’avaient guère de chances d’y échapper auparavant.

 思想史的には、天国か地獄かという二項対立的世界観とは異なる、両者の間の媒介項を認める三項的世界観の公認を意味し、そこに近代の弁証法的思考の前兆を見て取る研究者たちもいる。

C’est là une réalité de plus d’importance qu’il ne paraît, dans la mesure où l’on peut y déchiffrer l’amorce d’une révolution mentale qui substitue à la logique binaire – ciel et enfer – une pensée à trois termes, annonce lointaine d’une procédure de type dialectique.

Gwendoline Jarczyk, Pierre-Jean Labarrière, Maître Eckhart ou l’Empreinte du désert, Albin Michel, 1995, p. 34.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おのれのほかに対象がない生への執着が地獄である ― シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

2024-06-21 11:03:53 | 読游摘録

 フランス語に moignon という言葉がある。フランス語歴史辞典によれば、古フランス語として遅くとも十三世紀には登場している。「(切断された四肢の)残り部分」、より正確には、「切断された肢の切断面から関節までの部分」という意味で使われた。どうしてこの部分を特に指し示す言葉が必要とされたのだろうか。もともとは医学用語として使われたのでもないようである。
 この言葉、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に四回出てくる。いずれも幻影肢(membre fantôme)の現象を考察している文脈においてである(p. 90 - 102)。この文脈では、切断後に残った当該部位を指し示すために使われているから、おぞましい印象を与えることはない。
 シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のなかにこの同じ言葉が使われている箇所がある。そこではおぞましい印象を与える。ただし、この箇所、ティボン版にはなく、ガリマール社の『シモーヌ・ヴェイユ全集』第六巻のカイエ(II)にのみ見られる(p. 321)。この語が見られる断章は全集では全部イタリックになっており、それはヴェイユの手書きのノートでは下線で強調されていたことを意味する。
 その断章の最初から三分の二ほどが岩波文庫版では訳されている。「自我」(Le moi)と題された八番目の章に収録されている(訳者の慧眼に深謝)。

 不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剝きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
 この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
 かかる仕組みゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えないときでさえも」。
 かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。

 「この局面から捉えられた」からその段落の終わりまでの原文を以下に示す。

Le malheur sous cet aspect est hideux, comme est toujours la vie à nu ; comme un moignon, comme le grouillement des insectes. La vie sans forme. Survivre est là l’unique attachement. C’est là que commence l’extrême malheur, quand tous les attachements sont remplacés par celui de survivre. L’attachement apparaît là à nu. Sans objet que soi-même. Enfer.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄」― 見田宗介『まなざしの地獄』より

2024-06-20 07:48:31 | 読游摘録

 見田宗介の論文「まなざしの地獄」の初出は『展望』1973年5月号で、1979年に単行本『現代社会の社会意識』(弘文堂)に収録され、現在は単行本『まなざしの地獄』(河出書房新社、2008年)として、「新しい望郷の歌」(初出『日本』1965年11月号、単行本収録『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)と合わせて刊行されている。この河出書房新社版には大澤真幸の力作解説が付されている。
 著者の見田宗介は2017年にこの論文について朝日新聞のインタビューを受けている(朝日新聞2017年3月22日掲載)。それもまた興味深い内容を含んでいる。
「まなざしの地獄」の初出からちょうど五十年後の昨年、仏訳 L’enfer du regard. Une sociologie du vivre jusqu’à consumation, CNRS Editions が出版された。訳者のお二人は私もいくらか存じ上げている方たちで、信頼のできる訳であることは間違いない。
 「地獄」という言葉が使われている箇所を、書名、目次、小見出し等で使われている場合を除き、本文から拾ってみた。最後のやや長めの引用は「まなざしの地獄」の最終段落である。

そしてN・Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体として、〈尽きなく存在し〉ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった。

それは彼らを不意にのぞきこみ、分類し、レッテルを貼って、彼ら自身ではない、まるで別の存在に、彼ら自身を仕立てあげ変身させてしまう、あのまなざしの地獄からの避難場所である。

こんにち都市に、その先住者たちを含めて広汎に存在している、蒸発と変身への衝動は、まさにこのようなまなざしの地獄からの脱出の願望に他ならない。

都市が人間を表相によって差別する以上、彼もまた次第に表相によって勝負する。一方は具象化された表相性の演技。他方は抽象化された表相性の演技。おしゃれと肩書。まなざしの地獄を逆手にとったのりこえの試み――。

ボヘミヤの箱は堅固な物質によって、成長する少年たちの肉体を成形してゆく。〈まなざしの地獄〉は他者たちの視線によって、成長する少年たちの精神を成形していく。ボヘミヤの箱と異なって、それは少年の内面を成形するのであるから、それは彼らの自由意思そのものを侵食せざるをえない。

まなざしの地獄の中で、自己のことばと行為との意味が容赦なく収奪されてゆき、対他と対自とのあいだに通底しようもなく巨大な空隙のできてしまうとき、対自はただ、いらだたしい無念さとして蓄積されてゆく。

ある人はある人とよりも貧しく、ある人はある人よりもいっそうさげすまれている。だから貧困や屈辱の体験は、直接にはいつも、同胞と自己とをまさに差異づけるものとして、孤独のうちに体験される。だからこの直接性にとどまる限り、それは同胞への怨恨や怒りとして経験される。この蟻地獄の総体をのりこえさせる力は、怒りそのものの内部にはない。

「世間」はその無関心によって、家族の無関心を罰する。〈見捨てる者〉の因果の地獄。だがわれわれ「世間」にとっての「世間」とは何か? それはもちろん、世間の外なる世間、亜・世間である。それはわれわれ自身でもあるが、とりわけ抑圧され、差別され、「亜人」として、物として存在することを強いられたものすべての怨恨である。

われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

 自分もまたこの「存在の原罪性」を負ったものであることを私は認めないわけにはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「地獄は一定すみかぞかし」―『歎異抄』より

2024-06-19 13:13:10 | 読游摘録

 「地獄」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべる日本の古典は『往生要集』と『歎異抄』である。前者の「厭離穢土」に見られる凄絶な地獄の描写は一度読んだら忘れられるものではなく、後者に録された親鸞の言葉「地獄は一定すみかぞかし」は、いわゆる「悪人正機」説よりも私の脳髄には強く響いた。

念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりとていふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。

 そして同じ第二条のむすびの言葉にも、最初に読んだときからその立場の徹底性ゆえに驚嘆した。

詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


沈黙の中の心の叫び

2024-06-18 23:59:59 | 雑感

 午前中、来年度のために新たに募集した講師のポストの最終面接に召喚する候補者の選考を二人の同僚とテレビ会議で行い、その直後にやはりテレビ会議で、副査をお願いした別の同僚と一緒に、私が指導教官を努めている修士一年生の年度末審査を行った。午後には日課のジョギングで11キロ走る。夕方には、学科長と来年度の担当科目の割り振りについてテレビ会議で話し合った。傍から見れば、職務を粛々と執り行い、健康維持にも配慮された、特段の問題もない平穏な一日のように見えたかも知れない。
 だが、本人の心のうちはその外見とは裏腹に不安に満ち、一瞬の安堵感も許されない状態がずっと続いている。
 我が身の上に今直接関わること、職場での来年度の想定外の重い責任、近い将来に置かれざるをえない不安的な状態、ますます不寛容で差別的で排他的になってゆく社会の諸問題、もう帰る場所もない祖国、今世界で起こっている戦争、その間も深刻化し続ける環境破壊・気候変動などなど、これらすべてのことが小さき我が身にのしかかる途方もない重圧となって、近くから遠くから、四方八方から、心を締めつける毎日を送っていると、いつまでこの身がもつかわからないし、ましてやその先は想像すらできないし、かといってすべてを投げ出して遁走することもできず、誰にも助けを求めることもできず、そんな中でもなんとか一日一日を大切に生きようと朝早く起き出してもすぐに安易に流れ、瞬く間に一日は終わり、人生は情け容赦なく不可逆的に痩せ細っていき、それでもふっと蝋燭の火が消えるように静かに生を終えられる保証はなく、ただ死ねないから生きているだけで、そうしていれば苦しみは増すばかりなのに、苦しみの叫びをあげることさえ許されず、すべては因果応報と諦観に傾きつつも、きっぱりとあきらめることもできず、来世などあるはずもないと理性に囁かれ、あらゆる救済への扉は固く閉ざされている。
 これまさに「生き地獄」でなくてなんであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幸いにも出会うことができたなつかしき作品たちへの感謝の言葉

2024-06-17 03:13:37 | 雑感

 私にもかつてあった青年期、と言いたくなるほど今では非現実的な過去の彼方にある昔、吉田秀和の文章をよく読んでいました。その理由は、一方では、全幅の信頼を置ける音楽評論家としての彼の楽曲・作曲家・演奏家等についての評言を知りたかったからであり、他方では、どんな主題を扱っていても明度が高くてしなやかで凛としたその散文を嘆賞するためでした。
 もう茫々たる遠い思い出なので確かなことは言えませんが、名曲を解説する吉田の文章の中で、この曲をまだ知らず、発見する喜びをこれから味わえる人たちを羨むという趣旨の文言に何度か出会ったことがあります。
 そうか、知らないからこそ発見の喜びというものがあるのか、と自分の無知をいささか慰められ、嬉しかった覚えがあります。知る人ぞ知る名曲であれ、それを知らない本人にとっては、まったく新鮮な曲として聴くことができるわけであり、これは無知である者の「特権」とも言えなくもありませんよね。
 以来、知らないことを恥ずかしがらず、初めて聴いたときに、「わあぁ、これって、なんていい曲なんだろう」と、素直に喜べるようになりました。それは今もそうです。
 ことは文学作品でも同様であると一応は言えるでしょうか。ただ、音楽とはちょっと違うかなとも思います。
 高校一年生まではろくすっぽ本を読まなかった私は、いわゆる児童文学の傑作・名作は何も読んでいないに等しく、それを「大人」になってから読んでも、もう素直に「発見の喜び」とは言えません。それなりに楽しめるかも知れませんが、子どものときに読んでいたらば得られたであろう感動はもはやどうにも不可能であり、それは取り返しのつかないことです。それを今さら後悔しても始まりません。
 若い頃に読んでおくべきであった名作を今さら焦って読み漁ろうとはもう思えません。幼年期も思春期も青年期ももう帰っては来ないのですから。新しい作品との出会いを是が非でも求めるよりも、この半世紀ほどの間に馴染んできた、お世話になった、あるいは深い愛着を覚える少なからぬ作品たちを丁寧に読み返していきたい、今はそう思います。そして、読みながらそれらの作品たちそれぞれに、「ありがとうございました。あなたに出会えたことは私にとって幸いでした」と感謝の挨拶をしていきたい。昨日の記事で取り上げた『蜻蛉日記』もそのような一冊です。
 その挨拶は、同時に、出会うことのできなかった数々の名作たちへの間接的な別れの挨拶でもあります。「あなたたちの評判はかねてより聞いていたのですが、いつか読んでみたいとは思っていたのですが、ついに手にとって読む機会が私にはありませんでした。残念です。ごきげんよう、さようなら。」