内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(二)

2019-12-31 00:00:20 | 哲学

 次の箇所に進もう。まず原文。

また、生得の位とは長(たけ)なり。嵩(かさ)と申すは別のものなり。多くの人長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく勢ひのある形なり。またいはく、嵩は一切にわたる義なり。位、長は別のものなり。たとえば、生得幽玄なるところあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき為手の長あるもあり。これは幽玄ならぬ長なり。

 この引用部分から解釈問題が発生する。生得の位は長であると言っておきながら、生得幽玄ならぬ為手にも長を認めているからである。訳者(解釈者)は、位と長との区別と関係について、概念間に何らかの相互的整合性がある一定の解釈を選択しなければ、この引用部分の後半は訳せない。下に引く訳から明らかなように、表章は、(天性の)位と(稽古の積み重ねによってのみ到達できる)長とは、互いに別ものだという解釈を取っている。竹本訳も同様の解釈を採用している。

また生まれつきの位とは、長(品格)があることである。嵩と言うものは、長と似てはいるが別のものだ。人は多くの場合、長と嵩とを同じものと誤解しているが、嵩というのは、物々しくて勢いのある強い有様の形容であり、またすべてに行きわたっていて芸の幅が広いという意味でもある。また、位と長とも、厳密に言えば別々のものだ。具体的に言えば、生まれつき幽玄な所があるのは、それが位である。一方、ちっとも幽玄ではない役者で、長のある人もいる。だから幽玄と長とは異質なわけで、位と長とはまったく重なり合うわけでもないのである。

 この解釈では、位と長との間の異質性が強調される。この解釈に従うかぎり、生得的な位と非生得的で成熟の結果としてのみ到達されうる長とは互いに異質なものでなければならない。端的に言えば、長は位とは別ものでなければならない。ただ、表訳には、最後に「位と長とはまったく重なり合うわけでもない」と、両者に何らかの共通性あることを示唆する補足を加えることで、「生得の位とは長なり」との非整合性を縮減し、この後に来る箇所での世阿弥の所説との整合性をも予め確保しようという意図が働いている。しかし、このような含みのもたせ方はもっぱら解釈者によるテキストへの「踏み込み」であって、原文自体は、相互に対立的な複数の解釈を許してしまうほどに一貫性を欠いた記述であることに変わりはない。


内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(一)

2019-12-30 06:26:09 | 哲学

 合理的な解釈が最良あるいは最適な解釈であるとはかぎらない。解釈の対象となる本文自体に非合理性・曖昧さ・矛盾等がある場合、それを無視あるいは「修正」して得られた整合的な解釈は、内的には合理的ではありえても、対テキスト的には適切な解釈とは言えない。本文に明らかな欠落がある場合も、その事実を無視して、不完全なテキストを完全な全体としてそれに整合的な解釈を与えることは、やはり、対テキスト的に妥当性を欠いている。
 解釈の対象である不完全なテキストを、それ以外のテキストを援用することで補訂・補完することにも、少なくとも解釈の第一段階においては慎重であるべきだ。同一著者という限定内であっても、先行著作あるいは後年の著作によって欠落を補完する、曖昧さを払拭する、あるいは矛盾を解消することは、必ずしも許されることではない。それが許されるのは、解釈の対象であるテキストと他のテキストとの間で著者の思想にまったく変化がない場合、あるいは著者自身が両者の間の相互補完性を認めている場合などに限られる。
 『風姿花伝』第三問答条々中の「問 能に位の差別を知ることは如何」は、『花伝』中、もっとも難解な一条とされている。実際、互いに相容れない複数の解釈が諸家によって提案されている。しかも、いずれの解釈も整合性をどこかで欠いている。これは、しかし、解釈そのものの不整合性によるのではなく、原文それ自体の不整合性あるいは不完全性の反映としてそうなのである。
 同条の現代語訳は、それぞれの訳者がどの方向に原文の不整合性あるいは不完全性を補正しようとしているか(あるいはそれを断念しているか)を示しているだけでなく、その補正を根拠づけるそれぞれの世阿弥能楽論理解を垣間見せてもいる。
 まず原文の最初の数行を読んでみよう。

問。能に位の差別を知ることは如何。
答。これ目利きの眼には易く見ゆるなり。およそ位の上がるとは能の重々のことなれども、不思議に十ばかりの能者にもこの位おのれと上がれる風体あり。ただし、稽古なからんはおのれと位ありともいたづら事なり。まづ、稽古の功入て位のあらんは常のことなり。

 今手元で参照できるのは、市村宏訳(講談社学術文庫)、小西甚一訳(たちばな出版)、表章訳(小学館 日本古典文学全集)、竹本幹夫訳(角川ソフィア文庫)、佐藤正英訳(ちくま学芸文庫)の五つの訳だけであるが、これらの訳を比較検討するにあたって、その暫定的な基準として、表章訳を引く。原文の「およそ」以下に対応する箇所は以下のようになっている。

一般的には、位が上がるとは、能の段階段階を順次に登ってゆくことだが、不思議なことに、才能ある十歳ばかりの役者にも、位が自然に上がっている芸風が備わっていることがある。しかし、稽古がおろそかでは、天性の位があっても無駄に終わってしまうだろう。まず修行の年功が積って位が高まるのが、普通の場合だ。

 芸の位に天性のものがあり、それは十歳の役者においても顕現することがある。しかし、天性の位だけで芸の質が持続的に保証されるわけでも、向上するわけでもない。芸の位が高まるには、なんといっても稽古を重ねることが必須であり、芸位の向上は段階的である。ここを読むかぎり、天性の芸位と年功が積ってはじめて到達できる芸位とは厳密に区別されなくてはならないと言える。上掲諸訳もそう読めるように訳してある。












今月の新刊『風姿花伝』(佐藤正英校注・訳 ちくま学芸文庫)についての苦言

2019-12-29 12:20:46 | 読游摘録

 以下に記すのは、佐藤正英校注・訳『風姿花伝』にざっと目を通してみたかぎりでの第一印象である。
 昨日の記事にも引用したように、本書の裏表紙には、「画期的注釈書」とある。ところが、どこか「画期的」なのか、正直なところ、さっぱりわからない。訳者は倫理学・日本思想史を専門とされる東大名誉教授であるが、思想史家としての特段の創意工夫や独自性が訳文に込められているようには読めない。語句の注解には、高校の古典学習レベルの語学的な説明もあり、よく言えば、懇切丁寧だが、厳しく言えば、あらずもがなの注も目につき、なによりも、まさに思想史的観点から注解すべき難語に何の説明もないのに落胆させられた。解説も書誌的・伝記的略述に終始するあっさりとしたもので、新味に乏しい。それに、世阿弥の専門家たちからすれば、行き過ぎと思われる一面的断定も散見され、校注者はいったい誰に向かってものを言っているのか、私にはよくわからない。
 もし、『風姿花伝』の校注・訳に思想史家としての独自性が発揮されうるとすれば、各条に付された補説においてであろうが、そこも、多くの場合、訳の要約(それも、しばしば不要な)、あるいは世阿弥の後年の伝書『花鏡』『至花道』の関連箇所を挙げるにとどまり、それらは既存の注釈書ですでに指摘されているようなことばかりだ。
 能楽は神仏の祭祀である。これが校注者の強調したい点である。「猿楽は、神・仏事の儀礼であって、神・仏の祭祀において十全に祀られた神・仏に接し、触れるべく願う人々の根源的な欲求に基づいている」(180頁)。「猿楽は、時・空に制約されている老人、女人、武人、物狂、修羅、鬼などが神・仏に接し、触れている夢想を観衆にもたらし、己れもまた、それらとは異なるありようにせよ、神・仏に接し、触れ得る夢想を観衆に感得させる。観衆は修者の物まねにおいて「面白き」に遇う」(181頁)。
 しかし、もし猿楽一般がそうであるなら、世阿弥の説く能の独自性はどこにあるのか。むしろ猿楽一般から抜け出し、己に固有な能作を世阿弥が目指した結果として夢幻能が完成されたのだとすれば、世阿弥独自の能楽論を「一般能楽論」として読むことは、少なくとも歴史的には、誤読でしかない。そこまでは言わないとしても、宗教性を持った「能楽本質論」を説く「思想書」として世阿弥の能楽論をあえて読もうというのならば、それ相当の「補説」が要請されなくてはならない。それが本書には欠けている。
 ただ、本書の購入が解釈ということについて考えるきっかけを与えてくれた。明日の記事では、『風姿花伝』第三問答条々の中の一条に即して、解釈の合理性という問題について若干の考察を示す。













いと面白き中世 ― 昨日購入した文庫四冊について

2019-12-28 23:59:59 | 読游摘録

 最近は、フランスでも日本でも、本屋に足を運ぶ回数がめっきり減った。書籍の購入はほとんどネットで済ませてしまうからだ。それでも、たまに本屋さんに行くと、以前そうだったように、店内を「散策」して時間を過ごす。
 昨日、御茶ノ水駅前の丸善にネットで注文して取り置きしてもらっていた本を取りに行った。その折、すこし店内をぶらついた。最近刊行(新刊・再刊)された文庫が平積みされている書棚の前で足が止まった。何冊か手に取り、買おうかどうか迷った。結果として、次の四冊を買った。
 阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫、1988年)。言わずと知れた名著で、四十年近く前に知的興奮に駆られながら読んだのを覚えている。電子書籍版も持っている。でも楽しみながら再読するにはやはり紙の本がいい。それに電子書籍版には石牟礼道子の解説が付いていない。
 網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎮夫『中世の罪と罰』(講談社学術文庫 2019年。初版 1983年。戦後の日本中世史研究の革命者であるいわゆる「四人組」が揃い踏みした圧巻の一冊。これも電子書籍版は先月購入済み。電子書籍版は主に講義に使うためで、じっくり読むにはやはり紙の版がほしい。
 北川忠彦『世阿弥』(講談社学術文庫 2019年。今月の新刊。初版は1972年)。世阿弥を通して能を見るのではなく、能の流れの中に世阿弥をおいて、「なぜ彼はその後半生において世に捨てられたのか」と問う視点が面白い。
 佐藤正英校注・訳『風姿花伝』(ちくま学芸文庫)。これだけがほんとうに今月の新刊と言える一冊。『風姿花伝』はすでに六冊ほど注釈書を所有しているが、本書裏表紙の紹介文に「本書は『風姿花伝』を日本思想史の文脈のなかに位置付け、捉え直した画期的訳注書」とあるのに惹かれて購入した。まんまと出版社の術中にはまったわけである。こう言いたくなる理由について明日の記事で一言述べさせていただく。












名著が伝える時代の空気を深々と吸い込む ― 松尾聰『改訂増補 古文解釈のための国文法入門』のことなど

2019-12-27 23:59:59 | 読游摘録

 遠い昔、受験生だった頃、古典の参考書としては、小西甚一の『古文研究法』(洛陽社 初版1955年 改訂版1965年)一冊を繰り返し読んだ。古語辞典は数冊持っていたが、同じく小西甚一の『基本古語辞典』(大修館書店 初版1966年 新装版2011年)を最も頻用した。大学に入ってからもこれら二著はずっと書架に並べてあった。もう記憶が曖昧になってしまったが、1996年にフランスに留学するときにその他の多くの本とともに売り払ってしまったのだと思う。2011年に『基本古語辞典』の新装版が出るとすぐに買った。2015年に本書が「ちくま学芸文庫」として復刊されたときも、すぐに買った。読み直していると、受験勉強のころの自分を取り巻く空気が蘇ってきて、懐かしくてたまらなかった。以来、座右の書として書斎の机に向かって右手の本棚の座ったまま手の届くところに並べてある。
 今年に入り、五月に佐伯梅友著『古文読解のための文法』(三省堂 1988年)がやはり「ちくま学芸文庫」として復刊された。この夏の一時帰国時に購入した。本書の出版は受験生時代以後であるから、「佐伯文法」の名は知っていても、同書を手にとって見ることは今回の復刊までなかった。この本も以来座右の書の一冊に加わった。
 そして、今日、ちくま学芸文庫の九月の新刊の一冊、松尾聰著『改訂増補 古文解釈のための国文法入門』を購入した。初版は1952年、改訂増補版が1973年、研究社刊。文庫版の小田勝の解説はこう結ばれている。

 松尾聰、小西甚一、山岸徳平、佐伯梅友、今泉忠義らが活躍していた時代  まだ国文学と国語学とはぴったりと寄り添っていた。本書はそんな時代の空気を今に伝えている。両者が完全に没交渉になり果てた今、国文学と国語学との協同ということについて、もう一度反省する必要もあるのではないだろうか。そんな思いも込めて、初学の学習者にも、プロの専門家にも有意義な本書の文庫化を心から喜びたい。

 この休み中、そんな時代の空気を、私もまた、これら碩学の名著をじっくりと読みながら、深々と胸に吸い込みたい。












歯医者での歯ぎしりの認知行動療法談義から一つの哲学的考察へ、そして中国古代思想に思いを馳せる

2019-12-26 23:59:59 | 哲学

 日本での冬休み初日の今日、朝からプールに行くという当初の計画は断念し(というのは大げさで、単に、まっ、いいか、一日くらいサボっても、という軽い気持ちでやめただけです)、午前中は、今回の帰国時に購入して持って帰ろうと思っている本をネット上で検索・発注して過ごした。
 午後は、帰国のたびに通っている歯医者さんのところに点検とクリーニングに出かける。この夏の帰国時に、帰国前に破損していた奥歯の一部を修復してもらったところなどを点検してもらう。夏以降、歯の調子はとてもよく、何の問題もなく過ごすことができた。それまでひどかった歯ぎしりも、あまりしなかったように思う。嬉しいことに、歯医者さんも、歯そのもの状態だけでなく、歯茎もとても健康な状態だと保証してくれた。
 クリーニングをしてもらいながら、歯ぎしり談義になった。と言っても、嗽のとき以外、こちらは口を開いたまま、「あー」とか「うー」とか相槌を打つことしかできなかったけれど。
 歯ぎしりは、心因も大きく関与しているので、歯そのものに対策を施しても効果は一時的なものにとどまる。マウスピースも単なる対処療法でしかなく、歯ぎしりそのものの根本治療にはなっていない。学説にも推移があり、それに応じて治療法も変化している。歯医者にとって、歯ぎしりとの戦いはまだまだ続くと先生は言っていた。
 彼は、認知行動療法を取り入れており、私にも一年前に説明してくれた。私が理解した限りでは、この療法は、歯医者による患者の直接治療から成るのではなく、歯医者の指示にしたがって、患者自身がどこまで自分の認知・行動パターンを変えることができるかどうかにその成否がかかっている療法である。つまり、自分の認知行動パターンを変えるために、日常的な小さな習慣的動作の意識的変更を患者自身がどこまで意志的に実践できるかが問題なのである。実践の結果として、行動パターンに変化が生じたかどうか、目標到達に至るまで、歯科医とともに検証を繰り返す。
 歯ぎしり問題を超えて、これは哲学的に面白い問題だ。なぜなら、無意識的な動作パターンの変化を最終結果として定常化させるために、意識的努力を出発点として到達することができるか、という問題だからである。これは西洋哲学にとっては実に厄介な問題として哲学者たちを悩ませてきた。
 しかも、スポーツ、芸能、武道などにおける一定の境地への到達が目標となっている場合のように、何かある動作をより完璧に実行することが最終目的にあるのではなく、意志的努力の結果として、意志の制御が利かない領域において単に「何もしないようになる」ことが最終目標なのである。これはほとんどアポリアではないのか。
 この問題にインテリジェンスとユーモアとエレガンスをもって取り組んだ好著が、11月8日の記事で言及した Romain Graziani, L’Usage du vide. Essai sur l’intelligence de l’action, de l’Europe à la Chine, Gallimard, « Bibliothèque des idées », 2019 である。古代中国思想、特に道教にとって、非意志的な理想状態にいかにそれを意志することなしに到達することができるのかというアポリアがその根本問題であった。このアポリアについての道教の教えが今日学び直されるに値することを、本書は私たちに具体例を挙げながら実に鮮やかに示している。












羽田から渋谷に向かうリムジンの車中から

2019-12-25 20:31:16 | 雑感

 シャルル・ド・ゴール空港ではさすがにいささか待ち時間をもてあましたが、空路は順調そのものだった。座席のUSBポートで充電できなかったのはお愛嬌というところ。出発地のストラスブールからここまですべてが順調だが、こんなことは珍しい。フランスではとにかくトラブルは日常の一部だから、いちいち腹を立てていたらきりがない。いや、しかし、最後に落とし穴が待っているかも知れない。油断しないようにしよう。
 ストラスブールもそれほど寒くなかったが、東京も寒くない。昨年の帰国も同日だったが、昨年は事故の影響等でリムジンの運行が乱れていて、どれだけ時間がかかるかわからないとカウンターで言われたので、羽田からタクシーで滞在先の妹夫婦宅へ直行した。今年は、単なる渋滞による遅延が予想されるということだけだったので、先を急ぐわけでもなく、安上がりなリムジンにした。
 確かに、夏の帰国時に比べれば、乗客数は格段に多い。高速もやや渋滞している。しかし、流れてはおり、渋谷セルリアンタワー着がいつもより10分程度遅れといったところか。そこには、いつものように妹が車で迎えに来てくれる。
 年末年始、8日までお世話になります。



 








シャルル・ド・ゴール空港で搭乗便を待ちながら

2019-12-24 17:55:46 | 雑感

 昨年同様、24日のクリスマス・イヴにストラスブールを発った。この日以前に出発できないこともなかったのだが、航空券の値段がぜんぜん違う。24日なると三割ほど下がる。それが第一の理由だった。24日、しかもその午後に旅行に出発しようというフランス人は相対的に少ない。家族でイヴを過ごすには遅すぎるからだ。こちらはそのおかげで、比較的安い運賃で移動できる。
 今年はそれに別の要素が加わった。12月に入ってからずっと続いている年金制度改革反対のストライキである。一月以上まえから予約してあったTGVがちゃんと運行されるかどうか心配だった。先週木曜日19日にSNCFから予定通りの運行を確約するメールが届いて一安心したが、実際に乗るまではほんとうには安心できない。幸いなことに、定刻通り、しかも、隣席は一時的に乗客がいたが、あとはずっと空席だった。
 シャルル・ド・ゴール空港も人が少ない。ネットで予め搭乗手続きを昨日のうちに済ませておいたので、手荷物預けも空港の自動発券機を使い、無人のカウンターでスーツケースを自分で計量し、あっという間にスーツケースはベルトコンベアーで運ばれていった。ストラスブールからここまで、まったくストライキの影響を蒙ることがなかったどころか、いつにもましてすべてが順調だった。
 搭乗便は23時20分発のエール・フランス274便、搭乗開始までまだ4時間半以上待たなくてはならないが、気分は軽い。お土産も買ったし、あとは、好きな音楽を聴きながら、ネットサーフィンと読書をして過ごすことにする。












謙虚と廉直と誠意を学ぶためのレッスンとしての外国語作文

2019-12-23 17:28:55 | 日本語について

 明日の帰国を前にして、今日の夜を締切りにしてあった『ちはやふる -結び-』の感想文(400字前後)が早朝より学生たちからパラパラと届く(もっと早く送れよな)。直ちに添削して返す。短いものであれば10分以内、多少長くでも20分以内には添削を返信する。その捌きの見事さは、次から次へと押し寄せる攻め手を左右に身をヒラリとかわしながら薙ぎ払う剣豪のごときである、と自分では思っている(勝手にどうぞ)。
 添削の難易は、一般に、学生の日本語レベルに対応する。つまり、相手のレベルが低いと、添削も容易であり、高いとちょっと手こずる。レベルが低い場合、間違いだらけでも添削は簡単だ。そもそも日本語でたいしたことが言えるわけではないし、本人も言おうとしないから、ただの一文もちゃんとした文がなくても、瞬時に言いたいことは想像がつき、それに応じて容赦なく朱を入れる。
 超優秀で、ほぼ完璧な日本語文を書いてくる学生が二三人いるが、それは例外とする。
 面倒なのは、知的レベルは高いのに、日本語のレベルが中途半端な学生の作文だ。妙に難しい熟語を使いたがる。構文も複雑にしようとする。しかし、大抵の場合、不適切あるいは文法的に誤った使い方をしている。しかも、何を言いたいのかよくわからない。前後から推測しようと試みるが、整合的な添削が困難な場合がある。
 こういう学生は、フランス語でいろいろと自分なりに考えてくれているのだが、その内容を表現できるだけの日本語力がまだない。自分の力量を自覚して、日本語の文章をそれに応じて単純化してくれればいいのだが、それはプライドが許さないのだろうか(そんなプライドはさっさと棄ててほしいのだが)。無理にでも自分の考えを稚拙な日本語文(ともいえない奇怪な言葉の組み合わせ)で言おうとする。まったく日本語になっていない。こっちも途方に暮れ、匙を投げることもある。
 元になっているフランス語が透けて見える場合はなんとかなる。これはお利口さんタイプに多い。フランス語でまず作文しておいて、辞書を引き、単語レベルで置き換えていく。これも作文の方法としてはだめなのだが。
 外国語での作文の訓練は、何でも自由に書けるという境地に達する手前では、己の身丈にあわせて自らの思考を明確に表現するという、謙虚と廉直と誠意を学ぶためのレッスンでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


健康第一を掲げる酒飲みの支離滅裂な妄言 ―『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

2019-12-22 18:22:15 | 雑感

 昼からアルコールを摂取するのは、少し後ろめたい。会食の場合、そんなことはまったくないのだが、いわゆる家飲みだと、お天道様が照っているうちに(って、今日は朝から曇り時々雨でお天道様も見えないけれど)飲むのは、ちょっと大袈裟に言えば、背徳の薫りがする。
 そんなケチくさく根拠もない道徳感を払い棄て、今日は昼から飲んだくれていた。日曜日である。冬休みである。ノエル間近である。これだけの理由が揃っていれば、いいでしょ。普段買うのよりちょっと高いワインを数本買い込んであるし。
 ところがである。本人は飲み続けてやるぞって気があるのに、日没前、一年で一番日没が早いこの季節なのに、体のほうが「もういい加減にしてくださいよ」って感じで、急に飲みたい気分が穴の空いた風船のように萎んでしまったのである。
 というわけで、この愚にもつかない記事を粛々と書いているわけであるが、なんとなく釈然としない。
 普段は、翌日の仕事のこともあるから、けっして飲みすぎることはない。そのへん、かなりストイックに、一日一本に抑えているのである。しかし、今は、せっかくの休みである。例年に比べても、休暇中の大学外の仕事も少ない。だから、明日のことを気にしないで、飲みたいだけ飲める条件は整っている。なのに、もういいかなって感じで、酔いもすっかり醒めてしまった。
 まあ、素直に体の言うことを聴いておいたほうがいいですよね。せっかくですから、かねてから観たいと思っていた映画を真剣に観ることにします。