また、生得の位とは長(たけ)なり。嵩(かさ)と申すは別のものなり。多くの人長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく勢ひのある形なり。またいはく、嵩は一切にわたる義なり。位、長は別のものなり。たとえば、生得幽玄なるところあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき為手の長あるもあり。これは幽玄ならぬ長なり。
この引用部分から解釈問題が発生する。生得の位は長であると言っておきながら、生得幽玄ならぬ為手にも長を認めているからである。訳者(解釈者)は、位と長との区別と関係について、概念間に何らかの相互的整合性がある一定の解釈を選択しなければ、この引用部分の後半は訳せない。下に引く訳から明らかなように、表章は、(天性の)位と(稽古の積み重ねによってのみ到達できる)長とは、互いに別ものだという解釈を取っている。竹本訳も同様の解釈を採用している。
また生まれつきの位とは、長(品格)があることである。嵩と言うものは、長と似てはいるが別のものだ。人は多くの場合、長と嵩とを同じものと誤解しているが、嵩というのは、物々しくて勢いのある強い有様の形容であり、またすべてに行きわたっていて芸の幅が広いという意味でもある。また、位と長とも、厳密に言えば別々のものだ。具体的に言えば、生まれつき幽玄な所があるのは、それが位である。一方、ちっとも幽玄ではない役者で、長のある人もいる。だから幽玄と長とは異質なわけで、位と長とはまったく重なり合うわけでもないのである。
この解釈では、位と長との間の異質性が強調される。この解釈に従うかぎり、生得的な位と非生得的で成熟の結果としてのみ到達されうる長とは互いに異質なものでなければならない。端的に言えば、長は位とは別ものでなければならない。ただ、表訳には、最後に「位と長とはまったく重なり合うわけでもない」と、両者に何らかの共通性あることを示唆する補足を加えることで、「生得の位とは長なり」との非整合性を縮減し、この後に来る箇所での世阿弥の所説との整合性をも予め確保しようという意図が働いている。しかし、このような含みのもたせ方はもっぱら解釈者によるテキストへの「踏み込み」であって、原文自体は、相互に対立的な複数の解釈を許してしまうほどに一貫性を欠いた記述であることに変わりはない。