内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

熊本地震について

2016-04-18 08:55:51 | 番外編

 14日からずっと熊本地震のことが頭から離れず、ネットでずっと状況を追っていますが、その被害の甚大さと避難生活の困難とが明らかになるにつれ、とても心を痛めています。最初の地震(後に「前震」と見なされた)の数時間後、震源地の隣町に住む友人にメールで安否を尋ね、幸い家族全員無事、物損も最小限との返事をすぐにもらって安堵していたら、その後に本震が襲ったとの報道。それ以後、無事を祈りつつも、逆に余計な気遣いをさせたり手間を取らせてはと、連絡を控えています。

 犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、不自由な避難生活を余儀なくされている方々に迅速・適切な救援措置が取られることと今後への不安を和らげるような見通しが一日も早く立つことを心から願っています。


認識の個体化、あるいは「物となつて考え物となつて行ふ」こと ― ジルベール・シモンドンを読む(58)

2016-04-18 00:00:00 | 哲学

 さあ、いよいよILFI「序論」読解の最終回です。
 私よりも先にゴールに着いた亀君と蝸牛君がこちらを振り返って、「あと一息だ、頑張れ」と声援してくれています。
 昨日読んだ箇所の最後で言われていたことは、個体化の把握は、いわゆる認識によってではなく、主体である私たち自身が個体化を実行すること、すなわち、自ら個体化し、己において個体化を行うことによってはじめて可能になる、ということでした。

cette saisie est donc, en marge de la connaissance proprement dite, une analogie entre deux opérations, ce qui est un certain mode de communication.

このように把握することは、それゆえ、いわゆる認識の余白における、二つの作用の間の類比であり、それはコミュニケーションの或る様式である。

 思考以外の諸存在の個体化を思考によって把握することは、思考そのものが個体化することと併行関係にあります。この併行関係は、認識主観としての思考が対象としての諸存在を認識するといういわゆる二元論的構図では説明することができません。この併行関係は類比的なものです。しかし、単に一方から他方へとある図式を転用するということではありません。この関係の両項の間に成立っているのは、或る種のコミュニケーション・モードです。

L’individuation du réel extérieur au sujet est saisie par le sujet grâce à l’individuation analogique de la connaissance dans le sujet ; mais c’est par l’individuation de la connaissance et non par la connaissance seule que l’individuation des êtres non sujets est saisie.

主体の外にある現実の個体化は、主体における認識の類比的個体化のおかげで主体によって捉えられる。しかし、主体ではない諸存在の個体化が把握されるのは、認識の個体化によってであって、ただの認識によってではない。

 主体による認識は、その外に在る現実を単に鏡のように反映することではもちろんありません。生きている個体に他ならない主体は、それだけで成り立ち揺るがされることのない根拠を認識に提供するものではないのです。外的現実に対して類比的な個体化が主体において実行されることではじめて、主体において認識が成立します。晩年の西田ならば、「物となつて考え物となつて行ふ」と言うところでしょう。

Les êtres peuvent être connus par la connaissance du sujet, mais l’individuation des êtres ne peut être saisie que par l’individuation de la connaissance du sujet.

諸存在は、主体の認識によって知られうるが、しかし、諸存在の個体化は、主体の認識の個体化によってしか把握され得ない。

 あらゆる個体化過程が完了した後にその結果として最終的に確定された諸存在のみを、その個体化過程をいっさい捨象して相手にするだけでよいのならば、それ自身は変化することのない、そして個体化されることもない超越論的主観性にその仕事を一任することもできるでしょう。しかし、存在するとは、存在が生成しつつあるということで、存在が生成しつつあるということは、存在が個体化しつつあるということであるならば、そのような主観性をあたかも絶対的治外法権のように予め存在の内部に措定することはできません。
 存在をその生成の相の下に捉えるとは、捉えるものそのものが己自身個体化過程にあることを自覚し、異なった大きさの秩序の間のコミュニケーション・モードの「媒介」(« médiation »)として、それらの秩序間に「形成」(« information »)を成り立たせることに他なりません。

 ようやく「序論」を読み終えました。本格的な個体化理論研究の出発点にやっとのことで辿り着いたということです。登山に喩えるならば、遙かなる高みにその頂上が見える険峻なる秀峰の麓に第一次ベースキャンプを張り終えたところとでも言えばよいでしょうか。
 「序論」に展開されていた個体化基礎理論、その不可欠な構成要素である根本的諸概念、それらによって構成されている命題、そこから引き出すことができる様々な論理的帰結、さらにはその展開と応用、そしてそれらすべてに対する内在的批判的検討は、今後、研究発表及び論文という形で、機会を恵まれるたびごとに、公にしていくつもりです。