ワードプロセッサーが市場に出回るようになったのは1980年代前半のことであったと思う。私は卒論をワープロで作成したが、その当時はまだごく少数派だった。80年代末から自身で使いながら、これは文書作成方法に大きな変革をもたらすだけでなく、日本語そのものに変化をもたらすだろうと予感した。それから三十年ほどの間に文章作成ツールとして、パソコン、携帯電話、スマートフォン、タブレットが圧倒的な勢いで不可逆的に普及し、手書きで文章を書く機会は私自身ほんとうに少なくなってしまった。個人的には、講義ノートをあえて手書きにするなど、ささやかな抵抗を試みてはいるが。
文章作成ツールの目覚ましい技術革新に伴うもう一つの大きな変化は、文章を作成してからそれが人目に触れるまでの間が恐ろしく短くなったことである。SNSでもメールでも送信ボタンをクリックしたら瞬時に相手に届いてしまうし、ネット上に記事を投稿すれば、あっという間に拡散されたり、炎上したりする。実に忙しなくなった。いちいち粗製乱造などと批判するのも空しくなるくらい、推敲どころか、ろくに字句の誤りのチェックもされていない文章がネット上を無数に飛び交っている。新聞記事にしても大同小異で、ずいぶんひどい誤記誤字脱字を発見するのは日常茶飯事で、それらにいちいち目くじらを立てていては、それだけで読むこちらが疲れてしまうほどである。だから、テキトーに読み流す。わかりゃいいじゃん、情報さえ得られればOK、というわけである。これでは、一国の「文章ますます雅醇に赴く」(中江兆民『一年有半』)わけはなく、「物質文明の加速度的進歩は典雅なる文化の退廃を招かざるを得ず」(遠隔寺蓬庵主『老耄瘋癲日記』〔偽書〕)と慨嘆してみたくもなる。
他方、話し言葉の方はどうであろうか。時代とともに生まれては消えてゆく新語・流行語のことは措くとして、日本語の口頭表現にどのような変化が起こっているのだろうか。普段西方の外つ国で暮らしておる小生には直感的には掴みかねるところがある。ネット上での間接的な観察に基づいた推測に過ぎないが、これだけ技術革新のスピードが速いと、それについていける世代とそうでない世代、あるいは同世代であっても、時代の変化についていけている人とそうでない人との間で、言葉遣いも自ずと目立って違ってきているのではないであろうか。
祖国より遠く離れてひっそりと黄昏れつつある老生は、二重の意味でそのスピードにはついていけていないから、もしそのスピードに乗って行われている会話を傍聴する機会があっても、まるで何のことかわからず、「???」状態になることは、ほぼ火を見るより明らかである。そのとき、天を仰いで、慨嘆、悲憤慷慨し、空しく深い溜息をつくことしかできないであろう。時代についていく努力はすでに放棄し、余生をいずこにて静かに送るか、それだけが将来に対する蓬庵主の真剣な関心事である。
それにしてもなあ、と往生際悪く独り言つ。普段、日本語を学んでいる学生たちに接していて、いったい何を教えればよいのだろうと、あたかも新米教師のように考え込んでしまうことがある。いつものことながら、老生十八番の「今更話」である。
それでも敢えて言おう。彼らに伝えるべきは、どこで使っても恥ずかしくない、美しく品格のある日本語であり、私はこのミッションのためにここにいるのだ、と。