内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その二)― 「偏見はたのしい」

2014-01-31 01:42:00 | 読游摘録

 昨日の続きで、『竹内好 ある方法の伝記』から、印象づけられた或は気になる箇所を摘録し、それに若干の感想を加えていく。
 戦中、中国そして日本で、竹内は何人かの中国人作家たちとの交友を通じて、日本人と中国人の在り方について思いを巡らす。その時期の竹内について、鶴見はこう書く。

彼は自分が生きてゆく時に、自分をみちびいてゆく心像を大切にする人である。しかし、自分の心像だけをたよりにして、それをつくりだした外の現実に目をとざすというふうではない。(中略)自分が偏見によって生きる他なく、しかし、その偏見をうちくだく知識をさがし求めるという竹内の方法は、この時代に、すでにあらわれている(91-92頁)。

 誰にせよ、いつであれ、偏見は避けがたいことを自覚した上で、自分の偏見を正確な言葉で述べること。そして、その発言に責任を持つ。その上で、その偏見を克服する知識を探求する。そのような知識が見出されたら、自分の過去の偏見を捨て去り、それを示す新たな行動あるいは発言・文章表現を行う。このような方法的態度を貫くことによって自己を形成していく。この過程におそらく終わりはないであろう。これこそが思想的営為の一つの形であろうかと思う。
 竹内は『転形期 ― 戦後日記抄』の中に、「偏見はたのしい。しかし、無智はたのしくない」(1962年6月21日)と書き記しているという(92頁)。自分の考えを大切にしつつ、それを突き放して見ることができる心の余裕がなければ、こうは言えないだろう。












鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その一)― 北京留学

2014-01-30 02:27:00 | 読游摘録

 先週火曜日21日のパリ第七大学研究集会から早一週間以上が経ってしまった。この集会にディスカッサントとして参加するのための準備として読んだテキストと当日の議論を振り返りながら、そこで得られた知見を反芻する時間がなかなか見つからない。今日(29日水曜日)もまだ試験の採点と明日の講義の準備が残っているので、ごく簡単にその反芻の緒を記すにとどめざるを得ない。
 合田正人氏の発表では、鶴見俊輔に思想的に深い動揺を引き起こしかつ強烈な吸引力を感じさせた異数の思想家として、竹内好が取り上げてられていた。竹内は1910年生れで、鶴見より12歳年長。合田氏が参照していたテキストは、鶴見の『竹内好 ある方法の伝記』(岩波現代文庫、2010年)。同書の初版は、1995年にリブロポートより「シリーズ民間日本学者」の一冊として刊行されている。岩波現代文庫版には、このブログでも先週26日の記事ですでに言及した「戦中思想再考 ― 竹内好を手がかりとして」が併録されている。
 戦中戦後と鶴見とは異なった思想的道程を歩んだこの思想家が、その生き方そのものによって提起した思想的課題を考え抜くことが鶴見にとって最終的な課題の一つであることは、竹内の没後二十年近く経って七十歳を過ぎてから同書が書かれていること、その副題が「ある方法の伝記」となっていることからも推測できる。この知的評伝をよく理解するためには、その前提として竹内自身の著作、少なくとも同書で引用されている著作類は一通り読んでおかなくてはならないであろう。しかし、今それはどうにも無理なことなので、今できることとして、これから自分で問題を考えていくための手がかりになりそうな箇所をいくつか同書から引用して、それらにコメントをつけておきたい。
 竹内は、1937年10月から約二年間、途中父の死に際して一時帰国した期間を除いて、北京に留学している。ただ留学と言っても、当時の中国の大学は閉鎖されていた。その時の状況を述べた箇所を鶴見の本から引く。

日本軍による中国人の無差別虐殺のはなしがそれも当事者によってほこらかにつたえられる。こういう状況の下で、日本人とのつきあいは竹内好にとって重苦しい。(中略)まして中国人に対しては、同情を率直に表現することははずかしく、おたがいの思想の伝達は、抑制を必要とした。にもかかわらず、竹内は中国人の間に、友人を得た(62頁)。

 この友人宛に竹内は「中国人のある旧友へ」と題した文章を『近代文学』1950年五月号に発表している。鶴見はこの文章から竹内の内心の声を聞き取ろうとしている。鶴見の本には、この文章からの長い引用がいくつかあるが、その「結び」も引用されている。そこに竹内はこう記している。

 一口にいえば、私はほとんど現状に絶望しております。さまざまな動きがありますが、どれも私には戦争中のものと本質的なちがいがあるように思えません。日本と中国とを結ぶ紐帯は、人民的規模において、まだ基盤が準備されていないような気がします(68頁)。

 この文章が書かれてから64年経った今日、当時とは大きく異なった時代状況にありながら、竹内好によって感じられた絶望はさらに深まってしまったと言わざるをえないのではないであろうか。













「同時代思想」試験採点終了!

2014-01-29 00:12:00 | 講義の余白から

 イナルコの「同時代思想」の採点は、結局昨晩中に終えることができず、今日(28日火曜日)の昼までかかってしまった。
 最終結果は以下の通り。23人の履修登録学生中受験者は16人。うち2名は白紙答案だったから、もちろん零点。この2つの答案を除いた14の答案の平均点は20点満点で12点。これはかなり高い方だ。合格最低点である10点以上を得たものが12名。つまり不合格は2名だけ。最高点は16.9点。第二位が15.4点。第三位が14.4点。この後14.3、14.1と僅差で続く。
 最高点を取った学生の答案は、おそらく時間をかけて準備した成果であろう、見事な小論文になっていた。立てた問いは、「我々が感情の在所なのか、あるいは世界それ自体が感情的なのか」。選んだテキストは、時枝誠記、井筒俊彦、大森荘蔵。問いは、一見して明らかなように、大森のテキストに直接関係するが、時枝における〈場面〉論、井筒における世界の〈分節化〉論と巧みに組み合わせて問題を展開し、大森哲学における独我論と天地有情論の矛盾を的確に指摘し、この矛盾解消には、世界に於ける〈内部〉を認めざるを得ないと結論づけている。
 第二位の答案は、九鬼周造、井筒俊彦、大森荘蔵をテキストとして選択。問いは、「世界の知覚と現出について現代日本の哲学者たちはどのようなアプローチを試みているか」。論述が解説的・羅列的になりかねない問いの立て方で、その点では高く評価できない。しかし、まず仏訳が素晴らしかった。三つのテキストともほぼ完璧。小論文の方は、それぞれの哲学者の問題点を要領よくまとめてあった。しかし、私が特に高く評価したのは、講義中は時間がなくて読めなかった箇所もちゃんと自分で読んだ上で、時枝の〈場面〉についてきわめて適確な理解を示し、そこから日本語文法の固有性と知覚の関係に説き及び、言語と知覚の不可分性を浮かび上がらせることに成功していることである。
 第三位の答案は、田辺元のテキストを仏訳に選んだ唯一の答案。他二つは、丸山眞男と和辻哲郎。問いは、「個人は国家によって構成されたのではない固有性を持つことができるか」。まず田辺のテキストを選んだ「勇気」を讃えたい。とはいえ、訳は、やはり難しかったようで、六割くらいしかちゃんと訳せていなかった。しかし、小論文の中で、田辺が種の論理において、種としての〈民族〉を還元不可能な実体として、〈類〉と〈個〉とに対して特権的位置を与えてしまうという誤謬に陥っていることをちゃんと指摘してあったから、授業での私の説明はよく理解してることがわかった。国家に対して個人の還元不可能な固有性を認めうるかという問題を、今日の問題としてフランスと日本を比較しつつ論じ、個人の国家への創造的な働きかけの可能性を認めることをその結論として論文を閉じている。
 その他の答案も、与えられたテキストを読み込みながら、自分で立てた問に取り組んでおり、講義の内容をなんとか理解しようという姿勢がそこから伝わってきて、嬉しく思った。中には、プラトン、スピノザ、カント、ショーペンハウアー、バシュラール、サルトルなどを引用しながら、問題と格闘しているのもあったし、中国古代の思想家を比較の対象に引っ張り出してきたのもあったが、このように「店を広げる」と自分で収拾がつかなくなってしまいがちである。しかし、それはそれで読んでいて微笑ましかった。
 これで第一セッションに関連する作業はすべて終了。今回受験しなかった学生と落とされた学生たちのための第二セッションが六月にある。それまで「同時代思想」とはしばらくお別れである。













採点がまだ終わりません

2014-01-28 02:16:00 | 講義の余白から

 今朝(二七日月曜日)、プールでひと泳ぎした後、午前九時から夕方まで、昨日の記事で試験問題を公開した「同時代思想」の答案の採点をずっと続けているのだが、まだ終わらない。あと六つ残っている。今晩中には終わらせないと、水曜日の講義の準備に差し支える。受験者は十六名で、そのうち二名は白紙答案だったから、ちゃんと読んで採点すべき答案はたった一四枚なのだが、それでも容易ではないのである。
 その理由はいくつかあるが、まず、一つの答案の長さ。答案用紙はA3を二つ折りにした四頁を一枚と数えるが、私の講義の試験では、書きたいだけいくらでも書いていいことになっており、しかも試験時間は三時間あるので、熱心な学生たちは十頁以上の答案を書く。もうこれは立派な小論文である。だから、単純に総頁数だけでもかなりの量になる。しかし、それだけではない。昨日掲載した十のテキストを試験一月以上前に送っておいたからであろう、学生たちはテキストをちゃんと読み込んできており、訳を要求した三つのテキストだけでなく、他のテキストも引用し、さらには講義で取り上げた他のテキストや論点まで言及してある答案が大半で、こちらも相当に考えながら読まないといけない濃い内容になっている。だから、答案を読むだけでも時間がかかるのである。それに、単に点数をつけるだけではなく、答案の余白に細かくコメントを書き込んでいくということもある。この作業に特に時間がかかる。
 どうしてそこまでするか。学生たちは、成績発表後に自分の答案を見る権利があり、採点に疑問があれば、担当教員に問い合わせる権利も持っている。それに、点数に不満な学生だけでなく、良い点数を取っている学生も、自分の答案がどう評価されているか知るために見に来る。だから、私がどうのように答案を評価しているかを答案の余白に詳しく書き込んておくことで、それらの要求に予め答えることになるのである。ここまでしておけば、採点についての問い合わせはまず来ない。
 今日の記事の締め括りとして、昨日掲載した十のテキストの「人気番付」を発表し、それについての感想を記しておく。

一位 大森荘蔵 九票
二位 井筒俊彦 七票
三位 西田幾多郎 六票
四位 和辻哲郎 五票
四位 三木清 五票
六位 九鬼周造 三票
六位 時枝誠記 三票
八位 丸山眞男 二票
九位 田辺元 一票
九位 家永三郎 一票

 大森の一位は、昨年に続き二年連続。これは予想通り。仏訳しやすいし、テーマが論じやすいものだからだろう。今年度初登場の井筒が七票集めたこと、西田が三位に入ったことは、ちょっと意外だった(昨年は六人の著者を仏訳問題に出したが、西田を選んだ学生は零だった)。井筒人気は、学生たちの問題意識を反映してのことだろう。西田のテキストが選ばれたのは、講演原稿で日本語として訳しやすかったのと、内容も比較的理解しやすかったからであろう。和辻のテキストは、いわゆる日本思想の典型的な問題の一つを扱っているが、訳すとなるとちょっとやっかいなのだ。三木のは、イメージ豊かで十のテキストの中では一番文学的なのだが、構文的に難しいところがあり、かなり出来る学生でないと訳しきれない。九鬼のは、講演原稿で構文的には訳しやすいのだが、偶然性固有の問題を把握するのは容易ではなかったのであろう(昨年は大森と人気を二分したのだが)。時枝を選んだのは、日本語が特によくできる学生たちだったようだ。丸山のテキストの不人気は、構文的に入り組んでいて、よく理解できなかったことと、他のテキストとの関連付けも難しかったことによって説明できるだろう。家永については、構文は見て取りやすいのだが、丸山のテキストと同様、他のテキストとの関連付けの難しさが不人気の理由だと思われる。田辺のテキストは、構文・語彙ともに難しく、しかも何が問題か摑むのさえ容易ではなかっただろう。















「同時代思想」試験問題

2014-01-27 01:38:00 | 講義の余白から

 今日も昨日の続きで21日の研究集会のことを記事にするつもりでいたのだが、24日金曜日にあったイナルコの「同時代思想」の試験答案の採点が思うように進んでおらず、この記事を書いた後すぐにまた採点作業に戻らなくてはならないので、その試験問題をここに和訳して公開することで記事に代える。この試験の採点結果については後日記事にする。それに値する力作答案がいくつかあると考えるからだ。

I.次の十のテーマのうちから一つ選びなさい。
1. 主体・客体(主観・対象)関係
2. 世界の知覚と現出
3. 人間の身体の創造性
4. 個人の国家に対する関係
5. 言語と世界の分節化
6. 思想史学の方法論
7. 東西思想比較
8. 日本の近代化と日本の伝統思想
9. 想像力と科学技術
10. 倫理と論理

II.選んだテーマについて、よく限定された一つの問いを自分で立てなさい。

III.立てた問いに関係があると思われるテキストを三つ、予め配布してあった十のテキストの中から選び、訳しなさい。

IV.立てた問いに訳した三つのテキストを参照しながら答えなさい。

 試験の一月以上前に学生たちに送信しておいた十のテキストは以下の通り。

現在の体は作られたものである。[…] 此の体が作られたものでありながら作っていく。自分の体を超えて子孫というものを生んでいく。つまり作られたものが作るものである。それが創造の世界である。我々はそういう世界の一つのエレメントである。我々が動物の世界、生物の世界を考えるにも、歴史的世界を根柢として其処から考えてゆかねばならない。其の歴史的世界は創造的なるもので、人間は其の歴史的世界の創造的要素である。
西田幾多郎「歴史的身体」(1937)、『西田幾多郎全集』第十巻、363-364頁。

民族は、たとい階級の廃棄が行われても、より原始的なる生命の種化の発見として、廃棄せられるものではない。種は種と対すること不変の本質である。しかも個と個との対立を統制する共通者としての種に対して、さらに種と種との対立を媒介すべき類は、それ自身種の如くに直接存在するものではないのであるから、種を類に由って統制すること、種に由って個を統制する如くすることは不可能なのである。
田辺元「社会存在の論理」(1934)、『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ』岩波文庫、176-177頁。

あることもないこともできるというだけではまだ単に可能という性質でありまして、偶然ということの成立に必要なものではありますが、それだけではまだ足りないのであります。偶然が成立するためには可能が可能のままで実現される、必然に移らないで可能のままで実現される、といった風のことがなくてはならないのであります。
九鬼周造「偶然と運命」(1937)、『九鬼周造随筆集』岩波文庫、73頁。

人間は単に「人の間」であるのみならず、自、他、世人であるところの人の間なのである。が、かく考えた時我々に明らかになることは、人が自であり他であるのはすでに人の間の関係にもとづいているということである。人間関係が限定せられることによって自が生じ他が生ずる。従って「人」が他でありまた自であるということは、それが「人間」の限定であるということにほかならない。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(1934)、岩波文庫、22頁。

生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の条件である。けれどもこの 条件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが、海というものを離れて考えられないように、それなしには人間が考えられぬものである。人生は泡沫の如しという思想は、その泡沫の条件としての波、そして海を考えない場合、間違っている。しかしまた泡沫や波が海と一つのものであるように、人間もその条件であるところの虚無と一つのものである。生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。
三木清「人間の条件について」(1939)、『人生論ノート』新潮文庫、58頁。

場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界である。かくして我々は、常に何等かの場面に於いて生きているということが出来るのである。例えば、車馬の往来の劇しい道路を歩いている時は、我々はこれらの客観的世界と、それに対する或る緊張と興奮との融合した世界即ちこの様な場面の中に我々は歩行して居るのである。従って我々の言語的表現行為は、常に何等かの場面に於いて行為されるものと考えなくてはならない。
時枝誠記『国語学原論(上)』(1940)、岩波文庫、60-61頁。

思想史学は、対象がどのような思想を形成したかを究明するだけではなく、どのような思想を欠落させていたかをも究明して、はじめて対象を批判的に考察したことになるのである。史家は対象を追いかけるにとどまらず、史家の主体性に立脚して対象の思想を、思想的に考察するものであらねばならぬ。思想史家はその意味で、自己自らの思想をもつ思想家たることを必須の条件とするのである。
家永三郎『田辺元の思想史的研究 — 戦争と哲学者 —』(1974)、『家永三郎集』第七巻、4頁。

日本の「近代」のユニークな性格を構造的にとらえる努力— 思想の領域でいうと、いろいろな「思想」が歴史的に構造化されないようなそういう「構造」の把握ということになるが — がもっと押しすすめられないかぎり、近代化した、いや前(ぜん)近代だといった二者択一的規定がかわるがわる「反動」をよびおこすだけになってしまう。
丸山眞男「日本の思想」(1957)、『日本の思想』(1961)、岩波新書、6頁。

「気づく」とは、存在にたいする新しい意味づけの生起(せいき)である。一瞬の光に照らされて、今まで意識されていなかった存在の一側面が開顕し、それに対応する主体の側に詩が生れる。「気づき」の対象的契機がいかに微細、些細なものであっても、心にみ入る深い詩的感動につながることがあるのだ。
井筒俊彦「「気づく」― 詩と哲学の起点」(1987)、『読むと書く』慶応義塾大学出版会、434頁。

事実は、世界其のものが、既に感情的なのである。世界が感情的であって、世界そのものが喜ばしい世界であったり、悲しむべき世界であったりするのである。自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。
大森荘蔵「自分と出会う」(1996)、『大森荘蔵セレクション』、453-454頁。













無限相互媒介の記号論理学 ― パース哲学を介して見出される鶴見俊輔と田辺元の交叉点

2014-01-26 01:37:00 | 哲学

 昨日の記事の続き。合田氏の鶴見俊輔についての発表について私が問題にした第二の点は、発表の中では示唆的に示されただけの鶴見と田辺元との接点である。ちょっと考えただけでは、この両者の間に接点を見つけることは難しい。鶴見自身「戦中思想再考」(初出『世界』1983年3月号、鶴見俊輔『思想の落とし穴』岩波書店、1989年収録、『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫、2010年再録。引用はこの最後の版による)の中で、「戦争中、私は、小林秀雄、保田與重郎、田辺元、西田幾多郎、和辻哲郎、こういう人たちの著作を読んだんですけれども、しかし、そういう著作は、自分の心を奪うものにはならなかった」(231頁)と述べているから、田辺を同時代思想として読んではいたが、田辺哲学に強い関心を持ったとはとても言えない。合田氏は特に両者に見られるカントの範疇表への関心に両者の接点を求めようとしていた。それに対して、それだけでは両者の哲学に見られる共通問題というところまでは発展させがたいだろうというのが私からの批判であった。しかし、まさに合田氏のテキストが与えてくれた示唆によって、質問を準備する段階で私なりに両者の接点を見いだせるかどうか自ら問うことへと導かれた。
 両者の哲学がそこで交叉しうるであろう概念として、私は〈媒介〉を集会当日の質疑応答の際に提示した。パースの哲学に見出される主要な特徴として鶴見が数えあげる中に、スコラ的実在論と連続主義がある。一言にして言えば、前者は、記号としての事物と事物との間の関係の実在性を認める。後者は、いかなる判断も連続した一連の判断の中の一つだと考える。これらの基本的テーゼは、即自的な実体への固着を拒否し、社会の諸現象を記号の連鎖として読み解こうとする鶴見の後年の思想的傾向全体を支配していると言えるだろう。他方、田辺の絶対媒介の弁証法は、すべての関係項は他の関係項によって媒介されることではじめてその表現の定立を得、それ自体で自存する最終的・絶対的な項を原理的に否定しなければならない(しかし、田辺自身によって戦中に実際展開された種の論理は、この決定的な点において論理的一貫性を欠いていたことは、昨年9月11日からの田辺の種の論理を巡る一連の記事で繰り返し取り上げた)。この両者に見られる〈即自性〉の拒否は、諸現象を構成する諸項・諸関係・諸記号の無限連鎖関係あるいは無限相互媒介の論理学の構想へと収斂させることができるだろうというのが私の提示した解釈であった。このテーマもまた私自身の哲学的構想である「受容可能性の哲学」のパースペクティヴの中で今後検討されなくてはならないであろう。












脱構築の先駆けとしてのプラグマティズム ― パースの記号論からデリダの『グラマトロジー』へ

2014-01-25 03:23:46 | 哲学

 21日のパリ第七大学研究集会での合田正人氏の発表は、鶴見俊輔におけるプラグマティズムを中心的なテーマとしていたが、発表の後半で竹内好が鶴見に最も深い影響を与えた思想家の一人として取り上げられており、その部分はプラグマティズムという問題圏を超え出る内容を含んでいるので、その部分については、鶴見を直接の対象とした部分の紹介を終えてから、別の記事として取り上げる。
 合田氏の鶴見解釈の狙いははっきりとしていた。『アメリカ哲学』での鶴見によるパース哲学の紹介を介して、同書での鶴見の哲学的企図を同じくそのパースの哲学に強い関心を示したデリダの脱構築の先取りとして解釈するという目論見である。より正確に言えば、デリダが『グラマトロジー』の中でパースの記号論に言及している箇所を手掛かりに、すべての思考は記号における思考であり、記号を超越したいかなる外的対象そのものを思考することも、内的直観によって直接的に自己そのものを把握することも原理的に不可能であるとする、根本的記号論への志向を鶴見の中にも読み取ろうとする試みである。思考とは、ある対象を何らかの仕方で代理する記号においてのみ可能なのであり、その記号は他の記号へと無限に先送り・転送され、それら記号の連鎖の果てにそれらによって指示されたそれ自体は自己同一的にとどまる実体そのものを思考することは原理的にできない。こうした徹底した態度を鶴見はパースのプラグマティズムから学んだとするのが合田解釈である。
 私は、この解釈に対して、少なくとも1950年という『アメリカ哲学』刊行時の鶴見の立場をそこまでデリダの脱構築に引きつけて解釈することには無理があり、そのような解釈は当時の鶴見自身の哲学的企図の射程を見損なわせる危険があるのではないかと質問した。それに対して、合田氏自身、この解釈の展開はこれからの自分の課題の一つだとの応答だったので、氏による後日の展開を期待したい。
 この質問に付随する形で私が素描した別の解釈は、『アメリカ哲学』第十五章の次の一節を念頭に置いてのことだった。

 哲学の改革は、哲学の打倒に始まらなくては、少しもきき目がない。哲学専門家というクラスの人々を、なくしてしまい、哲学のニナイ手が、外の人たち(非哲学者)に移るように努力するのが有効である。
『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房、1975年)第一巻、171頁。

 哲学のニナイ手は、職業哲学者から、それ以外の人々に移らなくては困る。今まで哲学の外にあった人々こそ哲学の本当のニナイ手なのだ。
 哲学を、哲学者の手からとりもどして、人々にかえすことこそ、今日の重大な問題である。なぜなら、哲学は別に特別の一学問ではなく、「どんなことが正しく、どんなことが善く、どんなことが美しいか」についての思索なのであるから。これらの問題について考えることは、今日の社会に生きているそれぞれの人の役目である。(同書同頁)

 職業哲学者によって大学で知識として教えられる哲学の諸学説が哲学なのではなく、哲学とはまずもって普段の暮らしの中で基本的な問題を考え抜くことであり、そのようにして生きることそのことが哲学なのだということが同書同章では切実に訴えられている。鶴見がここで「哲学を人々にかえす」というとき、その哲学とはまさに生き方としての哲学であり、それは日々の生活の中での実践という形で実現されるべきことである。このようなパースペクティヴの中で、鶴見のプラグマティズムを、このブログで昨夏7月30日から8月3日にかけて五回に渡って紹介したピエール・アド(Pierre Hadot 1922-2010)が言うところの exercice spirituel の一つの形としてその系譜に連なる哲学的実践として捉えてみようというのが私の提案した解釈であった。














文化生成のダイナミクス―断裂と継承、もしくはミメ―シス問題 ― 21日のパリ第7大学研究集会を振り返って

2014-01-24 01:15:00 | 雑感

 21日火曜日はパリ第7大学での研究集会に参加した。集会のテーマは、今日の記事のタイトルに掲げた通り。明治大学とパリ7との共同企画。発表者三人はすべて明治大学の教授たち。
 午前中は、合田正人氏による鶴見俊輔ついての発表。タイトルは、「日本のプラグマティスト、鶴見俊輔 ― 哲学の刷新とアジアの薄暗」。鶴見の『アメリカ哲学』を主な対象としたフランス語での発表。内容豊かで、とても刺激的だった。これに対して私はディスカッサントとして参加。氏から予め送られてきたテキストについて用意しておいた質問を一通りした後、他の参加者も交えてより自由で活発な議論が行われた。私の質問はすべてフランス語で行われたが、他の参加者からの質問の一部は日本語でされ、議論も一部は日本語で行われた。
 午後は、森鴎外についての発表二つ。井戸田総一郎氏の「鷗外の演劇言語にみる近代」と大石直記氏の「晩期鷗外文学における伝承性への視角 ― 或いは、模倣と創造の交差する場へ」。こちらは発表も質疑応答もすべて日本語。両者の鴎外へのアプローチは異なっているが、どちらの発表も鴎外の文学作品全体への理解を深めさせてくれる洞察に満ちた内容だった。フランス側からは、パリ7の坂井セシル教授とイナルコのエマニュエル・ロズラン教授がディスカッサントとして参加。この午後の部でも私は自分の意見と感想を述べさせてもらった。
 それぞれ発表が一時間、その後の質疑応答もそれぞれ一時間余り。参加者は十数人だったが、それだけに、午前も午後も大変に密度の高い議論をすることができ、日本から来た三人の発表者たちも大変喜んでいたようだし、私自身大変得るところの多い研究集会だった。
 その内容を私自身が反芻し、そこからの新たな思索の展開の方途を探るために、明日から、三つの発表のそれぞれについてその内容を紹介し、それに対する私の感想も記していきたい。













私撰万葉秀歌(8) あはにな降りそ ― 遥望御墓悲傷流涕御作歌

2014-01-23 00:51:00 | 詩歌逍遥

降る雪のあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒くあらまくに(巻二・二〇三)

 歌の詠まれた場面を示す題詞をそのまま書き下し文で引く。「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」。高市皇子・穂積皇子・但馬皇女は、天武天皇を父とし、それぞれに母を異にする異母兄弟妹。但馬皇女は初め高市皇子と同居していたが、穂積皇子に想いを寄せ、密かに通じ、それが露顕したことが、同巻・一一四-一一六の一連の皇女の歌からわかる。その皇女が亡くなり、時が経ち、ある冬の日、吉隠の猪養の岡にあるその墓を遥かに想いやり、涙を流しながら穂積皇子が作ったのが上掲の歌である。「吉隠」は「ヨナバリ」、「猪養」は「イカイ」と訓む。この岡は初瀬峡谷の奥にあるから、皇子は藤原京から遥か東方を眺望して追慕したのである(岩波文庫新版『万葉集(一)』注釈より)。「降る雪よ、たんとは降ってくれるな。吉隠の猪養の岡が寒いであろうから」(角川文庫『新版万葉集 一』伊藤博訳)。題詞に示された僅かな手掛かりから、想像力を駆使して、皇子・皇女たちの悲恋に想いを馳せるのも、万葉集を読むときの醍醐味の一つである。












私撰万葉秀歌(7) 見すべき君が在りと言はなくに ― 哀切極まりない慟哭の挽歌

2014-01-22 03:08:00 | 詩歌逍遥

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(巻二・一六六)

 罪死した弟大津皇子の遺体が葛城の二上山に移葬された時に、同母姉大伯皇女が悲しんで作られた歌。長年の愛読書の一つ塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)には、「謀られて死に逐ひつめられた悲劇の皇子大津を悼む同母姉の悲痛な挽歌」、「不壊の名作であらう。馬酔木の蒼白く脆く、しかも微香を漂はす花と、この慟哭のいかにあはれに響きあふことか」と、撰者自身の感動が伝わってくるような評釈が付されている。角川文庫『新版万葉集 一』の脚注にある、「当時、死者に逢ったことを述べて縁者を慰める習慣があった。これを踏まえる表現。罪人については人々は口をつぐんだ」という説明を読むことによって、下二句の「見すべき君が在りと言はなくに」という痛切な叫びがより深く胸に響く。罪人として刑死せざるを得なかった弟の死を嘆き悲しむ自分を慰めるために、弟のことを語ってくれる人さえいないのだ。同版の伊藤博訳を引いておく。「岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折りたいとは思うけれども、これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。」