内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ゆくりなく」はなぜ「思いがけないことに」という意味になるのか調べたら

2024-05-24 23:59:59 | 詩歌逍遥

 その日どんな話題を記事にしようかあらかじめ決めてなく、ただ書き出しの言葉だけが念頭にあるときがある。今日の記事では、「思いがけないことに」と言うかわりに「ゆくりなく」というちょっと古風な言葉を使おうと思っていた。この言葉、なぜだか自分でもよくわからないのだが、多分響きのせいだろうか、お気に入りの言葉の一つだ。ただ、どうして「ゆくりなく」が「思いがけないことに」という意味になるのか気になり、調べだしたら、そっちのほうが面白くなってしまったので、それを今日の話題にする。
 この語は、このブログでもたびたび参照している私の大のお気に入りの辞典『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、二〇一一年)に立項してある。その解説によると「副詞ユクユク(他人の気持ちなど構わないでものをするさま)やナリ活用の形容動詞ユクリカ(突然だの意)と同根。ユクは相手の事情や心情を考えずにする意で、リは状態を示し、ナシは程度のはなはだしいさまを表す接尾語。思いがけないことが突然起こるさまの意。」なるほどと得心がいく。
 『古典基礎語辞典』や『全訳読解古語辞典』(三省堂、二〇一七年)が用例として挙げている万葉歌が佳作だ。ただ、この歌、第一句の訓みや歌の解釈がいくつかあって、それがまた面白い。まず岩波文庫版の漢字仮名交じり表記で引用しよう。

ゆくりなく今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を(巻第十・二二八四)

 現代語訳は「偶然にでも今すぐ見たいものだ。秋萩のようにしなやかなだろうあなたの姿を」となっていて、注釈には「初句は、ふとした拍子にの意。原文は「率尓」。[…]約束して逢うのではなく、今すぐ偶然にでも見かけたいという気持ちか。いつも絶えず見ていたいと詠うのが恋歌の常だろうが、ここは、今の今どうあっても見たいという差し迫った心を詠う。」とある。
 ところが、伊藤博の『萬葉集釋注』は岩波文庫版とは違った訓みと解釈を示している。

いささめに 今も見が欲し 秋萩の しなひにあるらむ 妹が姿を

 伊藤はこの歌の意をこうとっている。「ふっと、今すぐにでも見たい気持ちがこみ上げてくる。今頃も秋萩のようにしなやかに振る舞っているあの子の姿は、ああ。」つまり、「今すぐにでも会いたい!」という気持ちが、思いがけず突然にこみ上げてくるという意に取っている。ところが、初句の訓みは「いささめに」としている。この訓みを採用した理由が『釋注』には示されていない。しかし、「いささめに」は万葉の時代から「かりそめに」「いい加減に」の意であり、訳との整合性にやや欠ける。
 私としては、初句の訓みは岩波文庫版の「ゆくりなく」を採り、歌の解釈は伊藤訳に賛意を表したい。素人にはこんな詩歌逍遥のしかたもあってよかろうと、専門家諸氏のご海容を乞う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死の豊かさ ― ジョン・キーツ「ナイチンゲールに寄せるオード」にふれて

2024-05-10 23:59:59 | 詩歌逍遥

 キーツ関連の書籍をネットで検索していたら、Ode to a Nightingale からの引用が目に留まった。Ode とは OED  によると、

(a) In early use (esp. with reference to ancient literature): a poem intended to be sung or one written in a form originally used for sung performance (e.g. the Odes of Pindar, of Horace, etc.). 
(b) Later: a lyric poem, typically one in the form of an address to a particular subject, written in varied or irregular metre. Also in extended use.
Traditionally, an ode (in sense 1(b)) rarely exceeded 150 lines and could be much shorter. The metre in longer odes is usually irregular (e.g. Dryden Alexander’s Feast, Wordsworth Intimations of Immortality), or consists of stanzas regularly varied (e.g. Gray’s Pindaric Odes), but some shorter odes consist of uniform stanzas (e.g. Gray’s shorter odes). The popularity of the ode as a poetical form tended to diminish during the 20th cent.
The term is sometimes applied to certain short Old English poems, such as The Battle of Brunanburh.

 引用されていたのは、第六節の第一行から第五行までだったが、節全体は以下の通り。

Darkling I listen; and, for many a time
I have been half in love with easeful Death,
Call’d him soft names in many a mused rhyme,
To take into the air my quiet breath;
Now more than ever seems it rich to die,
To cease upon the midnight with no pain,
While thou art pouring forth thy soul abroad
In such an ecstasy!
Still wouldst thou sing, and I have ears in vain —
To thy high requiem become a sod.

 第五行目の « rich to die » の rich はどのような意味なのだろう。その次の行が死の様態を具体的に示しているけれども、真夜中に苦痛なく命を終えることができれば、それだけで充分に満たされているということだろうか。最後の四行は、恍惚として歌い続けるナイチンゲールの歌声がレクイエムとなって、それが響き続けるこの世に別れを告げて、私は土へと還ってゆく、と謳う。
 この十行の詩句を声低く繰り返しながら今日一日を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「喜びも、悲しみも歓迎する」― ジョン・キーツ A Song of Opposites より

2024-05-08 14:12:55 | 詩歌逍遥

 研究休暇中で毎日が日曜日みたいな暮らしをしているからということもありますが、迂闊なことに、今日明日が連休であることをすっかり失念していて、朝になってようやくそのことに気づき、ほとんどの店が閉まっているから今日は買い物ができないではないかとちょっと慌てました(日本ではありえないことですね)。幸い自転車で五分ほどのところに休日祝日祭日でも午前中はほぼ休みなく営業しているスーパーが一軒あり、そこで今日明日に必要最低限の買い物は無事済ませることができました。
 今日五月八日がヨーロッパ戦勝記念日で、明日木曜日がキリストの昇天祭、およそ何の相互関係もない二つの祝日からなる連休なのですが、後者が移動祝日(復活祭から数えて六回目の日曜日後の木曜日)であるために何年かに一度、こういうことになります。金曜日は平日ですが、その日も自主的に「休日」にしてしまう人たちも多く、そうなると五連休ということになります。大学さえ一部の建物は施錠されて入れなくなります。もう学年末ですが、この金曜日に補講や試験などを組もうものなら、学生から大ブーイングを受けること必定です。私はそれらすべてのことを今年は傍観者としてぼーっと眺めているだけです。
 さて、帚木蓬生氏の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』のなかに引用されているジョン・キーツの詩 A Song of Opposites にちょっと感動したので、同書に示された訳詩(おそらく帚木蓬生氏自身の訳。漢字の誤りと思われる一箇所を改変)をまず掲げ、その後に原詩を掲げます。原詩で脚韻がどのように踏まれているか知ることもこの詩の味わいを深めてくれます。

喜びも、悲しみも歓迎する
忘却の川の藻も、ヘルメスの羽も同じだ
今日も来い、明日も来い
二つとも、私は愛する
悲しい顔を、晴れた空に向け
雷の中に、楽しい笑い声を聞くのも
私は好きだ
晴天も悪天候も、どちらも好きだ
甘美な牧草地の下で、炎が燃えている
不思議なものへの、くすくす笑い
パントマイムの思慮深い顔
葬式と、尖塔の鐘
幼児が頭蓋骨で遊んでいる
晴れた朝の、嵐で難破した船体
すいかずらの巻きつく毒草
赤いバラの中で、蛇が舌を鳴らす
優雅な服をまとったクレオパトラが
胸に肉汁のゼリーをつけている
踊る音楽、悲しい音楽
二つとも正気で狂っている
輝く詩の女神と蒼ざめた女神
暗い農耕の神と、健全な滑稽の神
笑って、溜息をつき、また笑え
ああ、何という痛みの甘美さよ
詩の女神が輝き、蒼ざめる
そのヴェールをとって顔を見せておくれ
私に見せ、書かせておくれ
その日と夜を
二つともで私を満たしてくれ
甘美な心の痛みに対する私の大いなる渇き
私の東屋をお前のものにして
新しい銀梅花や松、花満開のライムの樹で
包んでおくれ
そして低い芝草の墓が私の寝椅子だ

Welcome joy, and welcome sorrow,
     Lethe’s weed and Hermes’ feather;
Come today, and come tomorrow,
 I do love you both together!
 I love to mark sad faces in fair weather;
And hear a merry laugh amid the thunder;
 Fair and foul I love together.
Meadows sweet where flames are under.
And a giggle at a wonder;
Visage sage at pantomime;
Funeral, and steeple-chime;
Infant playing with a skull;
Morning fair, and shipwreck’d hull;
Nightshade with the woodbine kissing;
Serpents in red roses hissing;
Cleopatra regal-dress’d
With the aspic at her breast;
Dancing music, music sad,
Both together, sane and mad;
Muses bright and muses pale;
Sombre Saturn, Momus hale; -
Laugh and sigh, and laugh again;
Oh the sweetness of the pain!
Muses bright, and muses pale.
Bare your faces of the veil;
Let me see; and let me write
Of the day, and of the night -
Both together: - let me slake
All my thirst for sweet heart-ache!
Let my bower be of yew,
Interwreath’d with myrtles new;
Pines and lime-trees full in bloom,
And my couch a low grass-tomb.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「冥きより冥き途にぞ入りぬべき」― 和泉式部歌についての一断想

2024-05-04 08:24:42 | 詩歌逍遥

くらきより くらき道にぞ いりぬべき はるかに照らせ 山の端の月

 この和泉式部の代表作は、『拾遺和歌集』巻第二十「哀傷」に雅致女式部の名で入集し、平安時代から名歌として知られる。『古本説話集』や『無名草子』は、罪障深い和泉式部がこの歌を詠むことで成仏したとする。『沙石集』など、他の説話集類も同歌にまつわる説話を伝える。鴨長明の『無名抄』にも式部の名歌のひとつとして言及されている。
 『拾遺和歌集』の詞書には、「性空上人のもとに、詠みて遣はしける」とある。『和泉式部集』の詞書は、「播磨の聖の御許に、結縁のために聞こえし」となっている。「播磨の聖」は性空上人のこと。性空上人は「播磨の書写山円教寺を創建した名僧。」(岩波文庫版注)「比叡山で天台教学を究め、日向・筑前の山で修行の後播磨の書写山に留まって、円教寺を創建した。」(岩波文庫版『和泉式部集・和泉式部続集』脚注)「花山院・円融院・藤原道長・公任らの尊信を受けたが、都へ上ることはなかったという。多くの女人が結縁を求めたという説話も伝えられている。」(新潮日本古典集成版頭注)「結縁」(けちえん)は、仏教語、「受戒・写経・法会などをして、仏道と縁を結ぶこと。未来に成仏する因縁を得ること」を意味する(三省堂『詳説古語辞典』)。
 上の句は、『法華経』化城喩品「従冥入於冥、永不聞仏名」(くらきよりくらきにいりて、ながくぶつみょうをきかず)を踏まえる。結句の「山の端の月」は性空上人を指し、下の句は「上人が導師となって、はるかに真如の世界へ導いて下さい、と願う意。」(岩波文庫版脚注)
 三省堂『詳説古語辞典』は同歌に「私は煩悩の闇から闇へと入り込んでしまいそうだ。はるか遠くまで私を照らしてほしい、山の端にかかる月よ」と訳を付している。角川『全訳古語辞典』は参考欄で、「「暗き」とは、煩悩をいい。「山の端の月」とは「真如の月」(=不変の真理)をさし、その体現者である上人をなぞらえているという。迷い多き自分の煩悩を、仏法の真理の力で取り払ってほしいと願うのである」と説明している。新潮日本古典集成版の現代語訳は、「私はいま闇の世界を冥府に向って進んでいるようです。どうかお上人様、はるか彼方からでも、あの山の端の月のように、私の足もとを照らす真如の光で、私をお導き下さいませ」。塚本邦雄は、『淸唱千首』(冨山房百科文庫)で、「調べの重く太くしかも痛切な響を、心の底まで傳へねばやまぬ趣。[…]女流にしては珍しい暗い情熱で、一首を貫いてゐるのは壯觀である」と評している。
 「くらき」をそのままひらがな表記する版もあるが、漢字をあてる場合は「暗」を採っている版が多い。手元にある『和泉式部集』の諸版では清水文雄校注の岩波文庫版(一九八三年)のみが「冥」をあてる。
 ただ、近藤みゆきも、『和泉式部日記』(角川ソフィア文庫、二〇〇三年)の補注37に同歌を引用するとき、「冥」をあて、さらに「みち」には「途」をあてている。その補注は、日記中の歌「山を出でて冥き途にぞたどりこし今ひとたびのあふことにより」のなかの「冥き途」に付されている。そのなかで近藤は、「「冥途」は本来、死者の霊魂が赴く地下世界をいうものだが、ここでは煩悩に満ちた俗界の意で用いている。また同じ語を用いた和泉式部の代表作「冥きより冥き途にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」(拾遺集・哀傷・一三四二番)は、この前年の長保四年(一〇〇二)頃に詠まれたものである」と説明しており、この説明に依拠するならば、和泉式部において、「くらきみち」とは、いわゆる冥途のことではなく、煩悩尽きぬばかりか深まりゆくほかないこの世俗世界にほかならない。そこからの離脱は絶望的に困難である。そうであってこそ、救済願望も痛切を極める。
 なお、「冥き途」については、二〇一九年四月二八日の記事「和泉式部の「つれづれ」、あるいは存在の空虚と共振する言葉(三)」でも言及している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「琴の音に峰の松風通ふらし」―『拾遺和歌集』より

2024-04-19 00:00:14 | 詩歌逍遥

 『拾遺和歌集』は、藤原道長による摂関体制最盛期を目前とした寛弘二、三年(1005、1006)頃の成立。花山院自撰とされ、『古今集』『後撰集』に次ぐ三番目の勅撰集。1351首収める。歌集としての知名度はさほど高くはないけれど、小倉百人一首に十首採られている。壬生忠見の「こひすてふ」、平兼盛の「しのぶれど」、藤原道綱母の「なげきつつ」など。
 岩波文庫版『拾遺和歌集』(2021年)の歌林のなかを気の向くままに逍遥していて、斎宮女御の次の一首に行き当たる。

琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ(雑上・451)

 「琴の音色に、峰の松風の音が似通っているようだ。松風は、どの山の尾、どの琴の緒から、奏で始めたのだろうか」。詞書には「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに、松風入夜琴といふ題を詠み侍りける」とある。野宮は、斎宮が伊勢下向の前に精進潔斎する仮宮。ここは村上天皇皇女規子内親王。この歌の詠み手はその母、斎宮女御徽󠄀子(ぎし)。四句、山の「尾」に琴の「緒」を掛ける。「庚申」は、「道教に由来する庚申待ちの行事。この夜に寝ると、体内にいる三尸(さんし)という虫が抜け出して、天帝にその人の罪を告げるとも、虫そのものが人の命を危うくするともいわれ、神仏を祭り徹夜する習俗となった。徹夜のため、詩歌管絃の催しも行われた」(岩波文庫版、73頁、152番歌の注より)この一首、塚本邦雄の『淸唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)にも採られていて、「徽󠄀子の數多の秀作中でも、最も有名な一首。これまた後世、數知れぬ本歌取り作品の母となつた」とある(140頁)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「菫」を巡る言葉の散歩道

2023-04-10 23:59:59 | 詩歌逍遥

 塚本邦雄の『百花遊歴』(講談社文芸文庫、2018年。初版、文藝春秋社、1979年)の「菫」の章を読んでいると、人家の傍や野道にざらに生えているはずの立壺菫や、それよりももっと一般的であるとされている標準型の「菫」さえ、今日ではなかなか出会えないとある。そもそも「人家」や「野道」さえ少なくなってきているのだから、そこに咲いているはずの菫にお目にかかれなくなっているのも致し方ない。
 「人家」とは、ただ人の住む家を指すのではなく、「〔無人の野山・原始林などに対比して〕人が住んでいる(いた)家」(『新明解国語辞典』第八版)を指す。『新漢語林』第二版(2011年)には、唐の詩人杜牧の「山行詩」から次の一節が引かれている。「遠上寒山石経斜 白雲生処有人家」(とおくカンザンにのぼれば、セキケイななめなり。ハクウンショウずるところ、ジンカあり)。「遠く郊外まででかけ、さびしい山を上っていくと石の転がる小道が斜めに続き、白い雲がわき出ているあたりにも、人の住む家があった。」
 「人家」は、だから、街中に密集する住宅を指すことは稀であり、人の住まぬ領域との対比において、人が生活している場所としての家を指し、無人の領域と人里との境界領域にある家を指すことがしばしばある。例えば、「人家もまばらな」と言えば、人里離れた土地に点在する家を指す。
 そんな人家の傍にひっそりと咲いている菫に出会ったことは私にはもちろんなく、ストラスブール大学付属植物園でお目にかかったことがあるだけである。それでも好きな花であることにかわりはない。
 日本の詩歌の中で「菫」を詠んだ歌として著名なのは山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻八・一四二四)だ。しかし、この歌は菫そのものを讃えているわけではない。もちろん詠われた景色の構成要素として菫も欠かせないにしても、赤人がなつかしんでいるのは野辺の美しさである。当時、菫は薬草として用いられていたというから、菫摘みとは薬草狩りであったと考えるのが妥当なようだ。
 この歌、授業で「なつかし」の原義を説明するときに必ず引く。中世以降に現れ、今日ではそれがこの言葉の一般的になっている「(昔や亡き人を)懐かしむ」という意味は万葉集の時代にはなかったことに注意を促し、「なつかし」の原義は、「いつまでもそこにとどまりたい」「いつまでもいっしょにいたい」という気持ちであることを強調する。だから、古語「なつかし」は「ノスタルジー」とは無縁である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「深き谷」となった「人を思ふ心」―「本物の心と出会おうとする冒険」

2022-12-10 11:27:44 | 詩歌逍遥

 来週一週間で前期の授業をほぼ終える。一月に一コマだけ補講があるが、それは試験週間の初日に行われるので、その週の金曜日の試験のための総復習にあてるつもりだ。
 この年末年始の一時帰国は諦めた。航空運賃がべらぼうに高いこともあるが、年末までに仕上げなくてはならない論文があり、参考文献が手元にある自宅でそれに集中したいということもある。この論文はかなり大規模な共著に収録されることになっている。編集責任者からも是非書いてくれと再三連絡があったこともあり、それだけこちらも力が入っている。
 あと一週間でノエルの休暇に入ることが気持ちに少し余裕を与えているのだろう。先日から詩歌を読んで楽しむ心のゆとりが生まれた。それはただ酔うために酒を飲むのではなく、酒そのものを味わうことができるときの心のゆとりに似ている。
 誰かの私家集、勅撰和歌集、あるいは現代歌人の手になる古典名歌のアンソロジーなどを行き当たりばったりに開いて、ところどころ読む。そのときのこちらの気持ちによって目に留まる歌も変わる。
 詩歌の世界を逍遥するとき、自分で作歌することもない無粋な私には、やはり手練の玄人の導きがありがたい。塚本邦雄氏の手になる数々のアンソロジーは私にとってかけがえのない案内書だ。現代歌人の馬場あき子さんのご著作にもときどきお世話になっている。『日本の恋の歌 恋する黒髪』(角川学芸出版、2013年)もその一冊だ。
 本書の第一章は「和泉式部の恋と歌」と題されている。他の歌人の歌も引かれてはいるが、それも和泉式部の恋の歌の名手としての稀有な才能と感性を際立たせるためである。彼女の数々の歌が今も私たちの心を直接に打つことが多いのは、それらの歌が技巧を超えて切実な実感をたたえているからだと馬場さんは言う。その通りだと思う。
 和泉式部は、『後拾遺集』において男女通じて圧倒的な入集歌数(六十八首)を誇る。そのうちの約半数が恋の歌である(雑の部に収められた恋にまつわる歌を含む)。そのほとんどに歌が詠まれた現場を示す詞書が付されている。そのことについて、馬場あき子さんは、当時の歌人たちが「心から心に伝わる言葉の秘密がどこにあるかを、和泉式部の歌にみていたにちがいない」と見ている。

いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん     『和泉式部正集』

 この歌は二句切れである。「いたずらにこの身を捨ててしまった。深い谷となったような人を思う心に。」この歌を馬場さんは次のように解している。

「人を思う心」を「深き谷」だといっている。これは言葉のあやとしての比喩ではない。式部が多くの「恋」の場を通して得た実感といった方がふさわしい。その心づくしの谷は深く、暗く、恐ろしいような空隙である。いったん身を投げればその人の人生を狂わせるような「谷」の自覚が式部の恋なのである。命がけのような真摯な眼がそこにはある。本物の心と出会おうとする冒険が式部の恋の一つ一つにあったと思わせるような恋の部の冒頭歌である。

 ひとを真剣に恋するゆえに深い谷となった我が心に身を捨ててしまった、というのは確かに彼女の実感であったに違いない。それは恐れ慄かされるような実感である。それを宿命として受け入れ、恋に生きることではじめて、和泉式部の恋歌は生まれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人はいさ ― 乱れてやまない己の心を秘められたまま凛と立たせる張りと勁さ

2022-12-09 23:59:59 | 詩歌逍遥

 昨日の記事で引いた和泉式部の歌は「人はいさ」で始まるが、『和泉式部集正・続』での用例はこの一首のみ。『日記』にも一首見られるが、これは宮(敦道親王)の歌である。
 「人はいさ」といえば、百人一首にも採られた古今和歌集の貫之の歌「人はいさ心もしらずふるさとの花ぞ昔の香ににほひける」が有名だが、同集中この歌以外には、在原元方の「人はいさわれはなき名の惜しければ昔も今も知らずとをいはむ」の一首しか用例がない。『伊勢物語』には第二一段に「人はいさ思ひやすらむ玉かづら面影にのみいとど見えつつ」の一例がある。『千載集』に「人はいさあかぬ夜床にとどめつるわが心こそ我を待つらめ」の一首あり。『風葉集』に三首用例がある。
 『万葉集』『竹取物語』『蜻蛉日記』『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』『更級日記』『新古今和歌集』『山家集』『金槐和歌集』には用例なし。
 思っていたほど用例がなかった。古語辞典にあげられている用例は『古今和歌集』の上掲二首にほぼ限られている。意味は、人一般を指して「他の人はどう(思っている)かわからないが」となる場合と、特定の相手を指して「あなたがどう(思っている)か知りませんが」となる場合がある。
 塚本邦雄の『清唱千首』には『伊勢集』から「人はいさわれは春日のしのすすき下葉しげくぞ思ひみだるる」が採られている。評釈には「虚詞のやうに見える初句の「人はいさ」が、ともすれば暗く沈みがちな忍戀の歌に、一種の張りと勁さを與へてゐる。「春日」の地名もまた、仄かな明るみを齎す」とある。
 初句に「人はいさ」を置くことが、忍ぶ恋の相手に対して乱れてやまない己の心を秘められたまま凛と立たせる張りと勁さをこの歌に与えている、ということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ながむる女の魂はいづこにありや

2022-12-08 23:59:59 | 詩歌逍遥

 和泉式部が「あくがる」という動詞をどれくらい使っているかちょっと気になって調べたら、『和泉式部続集』に収録された「人はいさわがたましひははかもなきよひの夢路にあくがれにけり」の一首のみであった。『日記』には出て来ない。これだけの事実から早急に結論づけることはできないが、式部はめったなことでは「魂があくがるる女」ではなかったとは言えるかもしれない。
 それに対して、唐木順三も『無常』のなかで指摘しているように、『日記』では「ながむ」という動詞が頻用されている。唐木はそれらの用例から式部における「ながむ」を「眺めながら物を思っている」ことだとまとめる。「この女性は視ることにおいて想っている」という。
 上掲の一首ではたしかに「我が魂が夢路にあくがる」のであるが、「物思へば」の一首では、沢の蛍を我が魂かと見ている式部がいる。
 『日記』における「ながむ」については2014年11月23日の記事で一度話題にしている。今回は「あこがれ」という言葉の使用例をきっかけとして、古語「あくがる」へと遡り、和泉式部の歌を久しぶりに再訪し、そこから唐木の『無常』を介して『日記』の「ながむ」へと再びたどり着いた。
 こんなふうに一つの言葉をきっかけとして古典の世界を「あくがる」ように旅するとき私は時間を忘れてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


貴船神社の魔界の只中で飛び交う螢として「あくがれる」和泉式部の魂

2022-12-06 23:59:59 | 詩歌逍遥

 「あくがる」という動詞が使われている和歌としてすぐに思い出されるのは和泉式部の有名な歌「物思へば沢の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」である。
 『後拾遺集』(雑六神祇)に見える。『和泉式部集正集』『和泉式部続集』いずれにも見られないが、『宸翰本和泉式部集』には採られている。この『宸翰本』は新潮古典集成の『和泉式部日記 和泉式部集』で読むことができる。
 仕事机右脇の書棚の、立ち上がればすぐに取れる位置に並べられている。その隣に並んでいるのが同じ集成版の『紫式部日記 紫式部集』である。それを見たら、日記で和泉式部に対して辛辣な批判を浴びせている紫式部はあまりいい気持ちはしないかも知れないが、どちらも私の愛読書なのだからお許し願いたい。
 さて、上掲の和泉式部の歌には、「男に忘られて侍りけるころ、貴船に参りて、みたらし川の、ほたるのとび侍りしを見て」と詞書が付けられており、どのような時にどのような場所で作歌されたかわかる(その信憑性はここでは問わない)。
 この「男」が誰かは不明とされるが、古来よりいろいろと詮索はされている。例えば、『俊頼髄脳』は、二十歳ほど年の離れた再婚相手藤原保昌とする説を採っている。中世の御伽草子『貴船の本地』でもそのように想定されている。現代では、寺田透が筑摩書房『日本詩人選』中の一冊『和泉式部』(昭和四十六年)でやはりこの説を踏襲している。
 ところが、この歌が貴船で詠まれたことには注目していない。しかし、歌の解釈のためにはこちらのほうが重要だと私には思われる。式部はなぜ貴船に行ったのか。
 貴船神社はすでに平安時代後期には、縁結びの神として知られていた。だが、同神社は、小松和彦氏によると、「洛中洛外の数ある魔界のなかでも屈指の魔界であった。」(『京都魔界案内』光文社、2002年)
 同書で小松氏は『貴船の本地』に見られる和泉式部についての伝承に言及している。その伝承によれば、式部は保昌を深く愛していたが、その保昌に女ができたことで、夫婦の危機が訪れる。思い悩んだ式部は、貴船神社に参詣して、巫女に夫婦和合を依頼した。その甲斐あって、夫婦はよりを戻す。
 一見美談のようだが、小松氏は、「このような縁結びには、新しい女との保昌の「縁切り」が必然的に伴っていた。こうした三角関係のなかから、やがて「復讐」=「呪い」の念がわき上がってくることになる」と述べている。
 この伝承を背景として上掲歌を読むと、男に捨てられた女の嘆きの深さが魂をあくがれさせたとばかりは言えないのではないかと思えてくる。深い「怨念」が魂を体から遊離させ、あくがれさせたのではなかったか。
 それに、歌に詠まれた螢は単数なのか複数なのか。私は複数説を採りたい。川面を飛び交う螢が千千に乱れる式部の魂の状態を表している。そう解釈したい。