先日の記事で言及した吉川幸次郎の『古典について』(講談社学術文庫 二〇二一年)の原本は一九六六年に筑摩叢書として筑摩書房から刊行された。収められた諸論考の初出年は一九四〇年から一九六五年までと四半世紀に渡る。そのなかには吉川の他書にも収録された文章もあるが、『吉川幸次郎全集』(筑摩書房)を除けば、現在は本書でしか読めない論考も少なくない。本書の再刊は小さくはない慶事であるとひとり祝いでいる(共感してくださる方がいらっしゃるとなおのこと嬉しい)。
本書は三部構成になっており、それぞれ「古典について」「受容の歴史」「江戸の学者たち」と題されている。第三部に収められた仁斎・徂徠・宣長につての長短とりまぜた論考・随筆の大半は以前に他書で一再ならず読んでいるが、第一部と第二部に収められた文章は今回はじめて読む。第一部は、明治の文明・文芸・学問に対する吉川の微妙な距離のとり方がよくわかって面白い。第二部は、その全体が一つの論考で、初稿は一九五九年、「日本文明に於ける受容と能動」という題で『日本文化研究』第七巻(新潮社)に発表され、翌年補筆・改題され、『日本の心情』(新潮社)に収録される。昨日の記事で取上げた「受容」の問題がまさに日本思想史の固有性として論じられている。これは私にとってもとても重要な問題だが、まだ第二部を読み終えていない。精読の上、後日取上げたい。
第一部にそれぞれ「注釈の学」「辞書の学」と題された節が連続しており、両学が対比されている。この両節から私にとって重要と思われる箇所を今日の記事では摘録しておきたい。
従来の日本の文明には存在しながら、明治の文明が失ったものの一つは注釈の学であると吉川は慨嘆する。契沖の『万葉代匠記』、仁斎の『論語古義』、徂徠の『論語徴』、宣長の『古事記伝』を例として挙げ、「いずれも対象とした古書に対する精緻きわまる迫力ある注釈である」と称賛する。この精緻な注釈の学は清朝古典学の方法とほぼ同じものであるが、それに先立っている。江戸期には日本固有の誇るべき注釈学の系譜があったということである。
彼らの注釈は、語学的に精緻であるばかりでなく、哲学の書としての迫力をもっている。対象とする古典が、自己と一体なのである。注釈は古典の注釈であるとともに、同時に自己の哲学の表明である。あるいは時に古典の字句を離れて、自由に自己の哲学を説く部分がはさまれることもある。しかしおおむねは古典の字句に即する。
このような精緻にして迫力ある注釈が明治に乏しいばかりでなく、それ以後もはなはだ心もとないのではないかと吉川は疑問を呈する。第一部の一連の文章は、一九六五年十月七日から二十二日にかけて『朝日新聞』紙上に掲載されたのが初出である。それから半世紀以上が経過しているが、吉川が言う意味での注釈の学がその間にどれほど行われたかは、分野にも拠るであろうが、こと思想に関しては、やはりはなはだ心もとないままなのではないだろうか。
「注釈の学」の次節の「辞書の学」は、前者固有の意義をより際立たせるために書かれており、明治以降の辞書の隆盛に対して、「注釈に寄与するように見えて、かえってその堕落を招いた」と手厳しい。辞書好きの小生としては辞書の学の肩を持ちたいところだが、この記事では吉川の言に耳を傾けよう。
辞書の対象とするものは、単語である。単語は概念の符牒であり、それゆえに意味内容を一定するように見える。果たしてそうなのか。よい人は善人である。お人よしは善人すぎる人である。よい男は美貌の男子をいうものとして、堅気の男子にも用いられる。よい女は、美貌の女子をいうけれども、堅気の家の娘さんには用いられない。よい、というこの簡単な日本語が、いかなる他の語とむすびつくかによって、かくも意味を分裂させ、変化させる。辞典はその平均値をいい得るにすぎない。
更にいえば、単語という現象は、辞書に現われるだけで、実在の言語の現象としては存在しないといえる。実在するのは、常に文章である。いくつかの単語がつづりあわされた文章、それのみが、口語としても、記載としても、実在である。そもそも実在ではない単語について、辞書のわり出す平均値は、いかに辞書家が努力しても、虚像であり、いずれの文章の中にあるその語の、価値の実像でもない。
辞書に関しての吉川のこの苛烈とも言えなくもない批判に対する私の考えは明日の記事で提示する。