内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人が言ったことをそのまま思い出すことができないという欠陥

2021-05-31 23:59:59 | 雑感

 自分の欠点や欠陥を数え上げればいったいいくつになるか知らないし、知りたくもないし、だから数えたりしないが、数あるうちから一つだけ挙げるとすると、それは、人が言った言葉や読んだ文章をそのまま覚えられないことである。
 文章の場合、最初から暗記するつもりで読めば覚えられないことはないが、それらの場合は除外する。問題は、人と話をした数時間後、ある本を読んだ数時間後、その人が言ったことや読んだ本で印象に残ったはずの箇所をもうそのまま思い出すことができないことである。忘れてしまったのではない。自分で「編集」してしまうのだ。どういうことかというと、「要するに、こういうことがあの人は言いたかったのだ」、「あの文章の意味するところはこういうことだったのだ」と、こっちの頭の中で整理してしまうのだ。言い換えれば、その人やその文章が言いたかった(と私が理解したつもりになっている)ことを私の言葉でまとめてしまって、どのように言われたかということがすっかり抜け落ちてしまうことが多いのである。
 これはかなり深刻な欠陥であると我ながら思う。なぜなら、ある人あるいはある書物を理解するためには、何が言われたかよりも、どのように言われたかの方がはるかに重要なことがしばしばあるからである。とすれば、私は、多くの場合、ひとりでわかったつもりになっているだけで、実のところは、話した相手のことや読んだ書物のことを何もあるいはほとんど理解していないということになる。本当に注意すべきことに注意せず、手前勝手な解釈と編集の結果だけしか自分には残っていないとしたら、そのような疑似あるいは似非理解が脳内に蓄積されるだけで、他者や書物とのほんとうのつながりや交流はできておらず、ただひたすら独我論的世界が肥大していくだけである。
 このような知識の領野がいくら拡張されても、そこには、誰もいない。それはさびしく、「空虚な」な世界である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近世における日中それぞれの儒学の動機と方法論の類似と両者の学問に対する姿勢の差違について ― 吉川幸次郎「学問のかたち」に即して(下)

2021-05-30 09:50:58 | 読游摘録

 昨日の記事の末尾で予告したように、吉川が一九四六年当時の日本の自然科学が置かれていた状況について見解を述べているところを見ていこう。
 仁斎、徂徠の儒学が、経書の解釈において清朝の儒学の精緻さを欠くのは、研究対象言語が自国語でないというハンディキャップによってのみ説明されるものではなく、なお他に原因があり、その一つが昨日の記事で取上げたような日本の学問の習慣にあると吉川は見ている。
 そこからいきなり過去から現在へと、つまり一九四六年へと話が飛ぶ。しかも吉川自身のフィールドである人文科学についてではなく、自然科学についてである。この飛躍の理由はよくわからない。日本の再建にとってその要となるべき自然科学の振興が当時しきりと叫ばれていながら、それに見合うだけの成果が上がっていないことを吉川が深く憂慮していたからだろうか。しかし、敗戦からまだ半年である。まだ成果が上がっていないという当時の事実が問題というよりも、なぜそうなのかに吉川の関心はある。つまり、このままだといつまでたっても成果を上げにくいのではないかと懸念しているのだろう。
 その理由の一つとして、「わが国人の学問に対する考え方に、何か欠陥があるのではないか」と吉川は推測する。その欠陥とは「個人の能力への過度の信頼」である。こう書いたとき、吉川は何か具体的な事例を念頭に置いていたのであろうか。それはともかく、個人の能力頼みでは、たとえその研究者個々の能力が傑出していたとしても、学問の十分な発展は望めないということはわかる。
 「現代の精緻な自然科学に於いて必要なものは、チーム・ウォークである」という吉川の見解にはおそらく当時の当事者たちも今日の研究者たちも異存はないことと思う。確かに、「学問は個人のものという考え方」が支配的では、チーム・ワークの発展は阻害されるだろう。私には、吉川の見解が当時の自然科学研究の諸分野の趨勢についてどこまで妥当性をもっているのか判断できない。自然科学では、当時すでにチーム・ワークの重要性を説く人たちがいたことは吉川も認めているから、吉川の主たる憂慮は、やはり文化科学でも必要とされるチーム・ワークについての認識が学界でまだ乏しいことにあったのだろう。
 自然科学に触れた一段落の後、話がまた過去に戻る。このチーム・ワークの困難は過去の中国でも同じであった、と。そこからは吉川が知悉している分野の話である。しかし、筆を急いだのか、紙面の制約のせいなのか、論旨明解とは言えない。正直に言えば、吉川が何を言いたいのか、よくわからない。
 チーム・ワークの必要性、学派としての持続性、世代を超えた学統の形成、これらは同じ一つの問題ではない。日本では、テーゼに対して軽卒にアンチテーゼが悪意とともに飛び出し、学派が成立しにくい、乃至は成立しても永続しにくいと吉川は言うが、それをチーム・ワークの不在で説明するには無理がある。中国では、「将来に対する期待が、あまりにも漠然とした、散漫なものであるために、テーゼは出たままで、しぼんでしまう。」それにもかかわらず、吉川が言うように、学問の精緻化が中国の儒学では可能だったとすれば、テーゼの持続性は学問の精緻化の必要条件ではないということになるだろう。
 学問の精緻化には個人の努力を超えた学派としての数世代に渡る営々たる積み重ねが必要であるのはそのとおりだと私も思うが、そのような学派が形成されにくい、あるいは永続しにくいとすれば、その原因は別のところにあるのではないだろうか。仲間内で議論するばかりで、それを超えて他の流派・分野の人々と正々堂々、真剣かつ公平に議論を戦わせ、それを通じて横のつながりを形成する「公共」の場の不在にこそ求めるべきではないであろうか。晩年の丸山眞男が「他者感覚のなさ」と指摘した点である。
 吉川が「学問のかたち」を書いた年から七十五年後の今日、学問が置かれている現代日本の状況は当時と大きく異なっている。自然科学、人文社会科学を問わず、短期で成果を上げることを求められ、予算の配分は短期的な必要に応じて重点的に配分され、長期に渡ってチームを組んで持続的に一つの大きなテーマに取り組むことはきわめて困難になっている。これではそもそも学派など形成しようがないが、学派がなければ学問は成立しないというものでもないであろう。問題はもっと深刻なのだと思う。
 学問を国家の都合に奉仕させようとするだけで、学問の自律と自由を保証しない国家は、まさにそのことによって遅かれ早かれ衰退していく。日本はそんな国ではないと「部外者」である私は自信を持って言うことができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近世における日中それぞれの儒学の動機と方法論の類似と両者の学問に対する姿勢の差違について ― 吉川幸次郎「学問のかたち」に即して(中)

2021-05-29 16:19:54 | 読游摘録

 昨日の記事で見たように、吉川によれば、近世の日中両国の学術は「きわめて相似た形貌」を呈している。しかし、両者の間に差違がないわけではない。
 顕著な差違の一つは、我国の儒者・国学者たちは、古典を媒介として得た世界観なり人間観の全貌を集約的に且つわかりやすい言葉で綴った書物をそれぞれに残しているのに対して、中国の学者はあまりそういうことをしないところにある。そのような書物の例として、仁斎の『語孟字義』『童子問』、徂徠の『弁道』『弁名』、東涯の『訓幼字義』 『鄒魯大旨』、真淵の『国意考』、宣長の『直毘霊』『初山踏』などが挙げられている。
 彼らとて、これらの書物を自分の業績の中心と考えていたわけではない。彼らの本領はやはりその古典注釈にある。「これらの学者は、すぐれた実証主義者であり、個個の事実を丹念に熟視することによってのみ、個個の事実をつらねつつ、その背後にひろがるものは、把握されることを確信し、そうした確信の上に立って、ものを書いた人たち」である。「個体を説くものにこそ、全体についての考えは照射されているのであり、全体を全体として説いたものは、むしろ糟粕としたであろう」と吉川は言う。
 ところが、清朝の学者たちはほとんどそういう書物を残していない。しかし、そのことは、「個個の事実をつらねているもの」、つまり原理的な何ものかについて彼らが凝集された考えを持っていなかったということを意味しない。古語を解明し、伝承の真偽を決定する際に彼らが見せる推理の確かさと判断の強靭さは、その背後に確固たる全般的認識があり、それらがその「照射」であることを予想させる。ただ著者たちは全般的認識をそれだけまとめて語りたがらない。それを「個個の事実に托して、閃光のように、ひらめかせ、ほのめかす」に過ぎない。彼らは自らの方法についても語りたがらない。
 両者の相違はどこから来るのか。なぜ江戸期の日本の学者たちは自らの所説と方法論をわかりやすく要約して初学者たちに示そうとし、清朝の学者はそれをほとんどしなかったのか。この問いに対する吉川の解は次の通りである。この責務に対して、「日本の学者は、それを個人の責務としやすいのに反し、彼の国の学者は、むしろそれを社会全体の責務、乃至は人類全体の責務にゆだね、責務の完全な遂行を、より多く将来の学界の継承に待つのである。」
 両者の態度はたがいに一長一短であると吉川は言う。「日本では学問が早く凝集するかわりに、つぎつぎにあわただしく流れ去り、中国では、学問がなかなか凝集しない。」では、どっちもどっちで、優劣は決めがたいのだろうか。吉川の見方はそうではない。「一般に対する弊害は、或いは中国風の学問の方が、すくないのではあるまいか」という判定を下す。どういうことか。
 仁斎、徂徠、東涯、宣長など、超一流の学者たちが己の学問の成果として入門書を書くのはよい。しかし、それを書くという責務が彼らほどではない学者たち、つまり大半の学者たちにものしかかると、彼らは終点への焦慮に駆り立てられ、主観的で粗雑な議論に陥りがちになると吉川は見ている。つまり、それぞれの学者の学問が早く凝り固まりやすく、何世代もかけて一つの学問を営々と築いていくという息の長い仕事にそれぞれところを得つつ安心して携われない弊が日本の習慣にはあると見ているのである。
 吉川が日本の学問のこの弊を語るのは過去についてのみではない。同じ弊が、現代、つまり敗戦直後の日本においても、学問の生産性が高まらない要因の一つではないかと吉川は懸念しているのである。この問題は、私たちにとっても過去の問題ではない。明日の記事では、敗戦直後の状況と私たちの現在の状況とを比較しつつ、吉川の見解を検討する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近世における日中それぞれの儒学の動機と方法論の類似と両者の学問に対する姿勢の差違について ― 吉川幸次郎「学問のかたち」に即して(上)

2021-05-28 19:21:10 | 読游摘録

 吉川幸次郎の『古典について』を十日ほど前に購入して以来、毎日読んでいる。この機会にもう少し本書について書いておきたいことがある。
 本書第三部「江戸の学者たち」に「学問のかたち」と題された一文が収められている。初出は『世界』第五号、一九四六年五月刊である。同号は丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」が掲載されたことでよく知られている。吉川の文章の末尾には「一九四六年紀元節」と擱筆の日が記されている。その最後の段落に「わが国の学問の将来について憂いを担う人人に」とあり、敗戦からまだ半年経つか絶たないかという時期に、それらの人たちを念頭に置いて書かれた文章であることがわかる。『世界』同号が刊行された五月には東京裁判が始まる。
 主題は、日中両国の近世儒学の学問の方法における著しい類似と両国の学者たちの学問に対する姿勢における重要な差違についてである。連合軍占領下、「民主的な」独立国家としての国際的地位を獲得すべく国の再建をしはじめたばかりの時期にこのような主題を吉川が選んだのは、中国文学者だからという理由だけではないであろう。
 以下、吉川の叙述から近世における日中儒学の類似点を摘録する。
 伊藤仁斎・東涯父子と荻生徂徠に代表される元禄・亨保期の儒学と清朝の乾隆嘉慶期の儒学とは、その動機と方法においてきわめて類似している。時代的には、日本の古学のほうが清朝儒学に対して数十年から百年近く先行している。両者は共に儒学の古典である経書の解釈学としてあるが、宋明の儒者たちの恣意的な解釈を是正することをその動機としている。その方法は、いずれも古代言語の使用例を帰納綜合し、その知識の上に立ちつつ、経書をその本来の意味に立ち帰って読むことからなる。
 この方法の相似は、わが国における古学派の儒学が、一転して賀茂真淵、本居宣長の国学に受け継がれることによって一層強まる。私が特に興味深く思うのは、なぜ古学以上に国学において解釈学の方法が中国の儒学のそれと近似するのかという点である。その点について吉川は明示的には触れていないが、それは学問の対象である言語の違いによると思われる。
 吉川は、仁斎・徂徠らの古学をその方法において高く評価しつつも、「少なくとも中国の古語の解釈において、彼に劣るところがあるのは、やむを得ない」と弱点を認めている。いくら仁斎・徂徠が古代中国語に通じていたとしても、吉川が称賛するように見事な中国語の文章を綴ることができたとしても、外国語である中国語のしかも古語の解釈となれば、やはり本国の一流の学者にはかなわないであろう。ところが、国学の対象は日本語の古語である。だからこそ、真淵、とりわけ宣長は、古学から学んだ方法を自国の古語において徹底化させることで、清朝解釈学に引けを取らない高度な域にまで自己の解釈学の方法を精錬することができたのであろう。
 いかなる動機からどのような類似した方法が相異なった場所に生まれ、それらがそれぞれどのようにその地で継承され、いかなる契機を経て徹底化されていったのか。「学問のかたち」は、学問の方法の史的展開の力学についてのきわめて示唆的な話であると私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


辞書の中に言葉の意味はない ―「単語あって文章あるにあらず、文章あって単語あるのである」

2021-05-27 14:41:34 | 読游摘録

 昨日の記事の末尾で、吉川幸次郎の辞書批判についての私の考えを今日の記事で述べると書いた。が、実は只今、学年末試験答案の採点と学期中に提出された課題(これがうんざりするほど沢山あって、こんなに課さなければよかったと今頃になって後悔している)の評価とを並行して行っていて、あまり時間に余裕がない。が、答案と課題を朝から晩まで読み続けるのは明らかに心身に毒なので、ときどき好きな本を読んだり、お気に入りの音楽を聴いたり、今そうしているようにブログの記事を書いたりして、息抜きしている(息抜きの時間の方が長いのではないかという批判的な意見もあると聞くが、それは却下する)。
 さて、昨日引用した文章の中で吉川が実例として挙げているのは「よい」という一語のみであり、どんな国語辞典にも載っており、日本人にかぎらず、日本語を少しかじっただけの人でも知っている日常語だが、まさにそうであるからこそ、私たちはそのような「わかりきった」言葉を辞書で調べたりしない(私にはそれが面白いのですが、その話はまた別の機会に)。
 そういう言葉を辞書で調べてみても、なんらの発見もないかも知れない。特に一般の国語辞典の場合、用例は乏しく、語義の説明を読んでも、それでその語が実際どう使われるのかよくわからないことも少なくない。その言葉の用法の広がり、類義語との弁別を可能にする微妙なニュアンス、文章の中での他の語との組み合わされ方によって変幻する意味などは、現実の文章の中で捉えていく他にない。その言葉の微妙な意味の生動を文章の中で捉え、それを逐語的に説明していくのが注釈の基本である。しかし、事は注釈のみに関わることではない。
 「最初から辞書を引くな。わからない単語・文だらけでもいいから、めげずに前に進め。最初は文章を眺めるくらいのつもりでもよい。とにかく量を読み、その中に繰返し出てくる言葉・表現にまずは注意せよ。そして、二回目に読むとき、その言葉がどんな語と結びついて出て来ることが多いか、どのような文脈で出てくるかに注意しなさい。そしてそれら言葉の姿をそのまま掴め、訳そうとするな。訳すと、訳しか頭に残らないから」と、私は常日頃学生たちに繰返している。一言で言えば、言葉をその生きた形のまま現場で掴め、ということである。
 辞書を引いたら単語の意味がわかり、その単語が使われている文章が理解できるようになるというは、実は錯覚である。言葉の意味は生きた発語や書かれた文章の中にしかない。意味は、発語や文章の外にそれだけで保存できるものではない。したがって、辞書に意味は載っていない。
 西田幾多郎の『善の研究』の序のかの有名な一文「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」を恐れ多くも捩ることがもし許されるならば、「単語あって文章あるにあらず、文章あって単語あるのである」と私は言いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治の文明が失った注釈の学 ― 吉川幸次郎『古典について』より

2021-05-26 14:52:17 | 読游摘録

 先日の記事で言及した吉川幸次郎の『古典について』(講談社学術文庫 二〇二一年)の原本は一九六六年に筑摩叢書として筑摩書房から刊行された。収められた諸論考の初出年は一九四〇年から一九六五年までと四半世紀に渡る。そのなかには吉川の他書にも収録された文章もあるが、『吉川幸次郎全集』(筑摩書房)を除けば、現在は本書でしか読めない論考も少なくない。本書の再刊は小さくはない慶事であるとひとり祝いでいる(共感してくださる方がいらっしゃるとなおのこと嬉しい)。
 本書は三部構成になっており、それぞれ「古典について」「受容の歴史」「江戸の学者たち」と題されている。第三部に収められた仁斎・徂徠・宣長につての長短とりまぜた論考・随筆の大半は以前に他書で一再ならず読んでいるが、第一部と第二部に収められた文章は今回はじめて読む。第一部は、明治の文明・文芸・学問に対する吉川の微妙な距離のとり方がよくわかって面白い。第二部は、その全体が一つの論考で、初稿は一九五九年、「日本文明に於ける受容と能動」という題で『日本文化研究』第七巻(新潮社)に発表され、翌年補筆・改題され、『日本の心情』(新潮社)に収録される。昨日の記事で取上げた「受容」の問題がまさに日本思想史の固有性として論じられている。これは私にとってもとても重要な問題だが、まだ第二部を読み終えていない。精読の上、後日取上げたい。
 第一部にそれぞれ「注釈の学」「辞書の学」と題された節が連続しており、両学が対比されている。この両節から私にとって重要と思われる箇所を今日の記事では摘録しておきたい。
 従来の日本の文明には存在しながら、明治の文明が失ったものの一つは注釈の学であると吉川は慨嘆する。契沖の『万葉代匠記』、仁斎の『論語古義』、徂徠の『論語徴』、宣長の『古事記伝』を例として挙げ、「いずれも対象とした古書に対する精緻きわまる迫力ある注釈である」と称賛する。この精緻な注釈の学は清朝古典学の方法とほぼ同じものであるが、それに先立っている。江戸期には日本固有の誇るべき注釈学の系譜があったということである。

彼らの注釈は、語学的に精緻であるばかりでなく、哲学の書としての迫力をもっている。対象とする古典が、自己と一体なのである。注釈は古典の注釈であるとともに、同時に自己の哲学の表明である。あるいは時に古典の字句を離れて、自由に自己の哲学を説く部分がはさまれることもある。しかしおおむねは古典の字句に即する。

 このような精緻にして迫力ある注釈が明治に乏しいばかりでなく、それ以後もはなはだ心もとないのではないかと吉川は疑問を呈する。第一部の一連の文章は、一九六五年十月七日から二十二日にかけて『朝日新聞』紙上に掲載されたのが初出である。それから半世紀以上が経過しているが、吉川が言う意味での注釈の学がその間にどれほど行われたかは、分野にも拠るであろうが、こと思想に関しては、やはりはなはだ心もとないままなのではないだろうか。
 「注釈の学」の次節の「辞書の学」は、前者固有の意義をより際立たせるために書かれており、明治以降の辞書の隆盛に対して、「注釈に寄与するように見えて、かえってその堕落を招いた」と手厳しい。辞書好きの小生としては辞書の学の肩を持ちたいところだが、この記事では吉川の言に耳を傾けよう。

 辞書の対象とするものは、単語である。単語は概念の符牒であり、それゆえに意味内容を一定するように見える。果たしてそうなのか。よい人は善人である。お人よしは善人すぎる人である。よい男は美貌の男子をいうものとして、堅気の男子にも用いられる。よい女は、美貌の女子をいうけれども、堅気の家の娘さんには用いられない。よい、というこの簡単な日本語が、いかなる他の語とむすびつくかによって、かくも意味を分裂させ、変化させる。辞典はその平均値をいい得るにすぎない。
 更にいえば、単語という現象は、辞書に現われるだけで、実在の言語の現象としては存在しないといえる。実在するのは、常に文章である。いくつかの単語がつづりあわされた文章、それのみが、口語としても、記載としても、実在である。そもそも実在ではない単語について、辞書のわり出す平均値は、いかに辞書家が努力しても、虚像であり、いずれの文章の中にあるその語の、価値の実像でもない。

 辞書に関しての吉川のこの苛烈とも言えなくもない批判に対する私の考えは明日の記事で提示する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


受容の思想史から摂受の思想史へ

2021-05-25 14:36:00 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたように、「摂受」は、仏教語としては「しょうじゅ」と訓む。「仏の慈悲で衆生を救う」(『漢語林』)、「仏が人を受入れ、正法に帰依させる」(『漢辞海』)という意味で使われる。この意味での「摂受」を別とすれば、今日の日本語でこの語が使われる機会はあまりないのではないだろうか。一般語としては「せつじゅ」と訓み、仏教語と区別されるが、それでもそうめったにお目にかからない言葉であろう。
 手元にあるいくつかの漢和辞典で調べてみたところ、「摂受」の説明は、「受け入れる」「取り入れる」となっていて、特別な意味がある言葉ではない。「摂取」と同義として扱われる場合もある。こちらは「栄養を摂取する」など、現代日本語でもごく普通に使われている。
 「摂受」のニュアンスをよりよく摑みたく思い、手元にある五冊の漢和辞典で「摂」の字を引いてみた。それらの辞典の説明はそれぞれに興味深いのだが、『漢字源』にこの字の原義の説明として、「いくつかのものを乱れないように寄せ合わせて持つ」とあるのが目に留まった。ただ、取り入れるだけではないのだ。その他の辞典にも、語義として、「収める」「ととのえる」「やしなう」「たすける(佐)」「かわる(代理する)」「締める。結ぶ」などとある。
 これらの語義を勘案すると、「摂受」するとは、種々のものを受け入れ、取り入れ、それらを結び合わせ、あるいはそれらがある場所において互いによく機能するようにはからうこと、と定義できそうだ。つまり、「摂受」とは単なる受け身の姿勢ではない。
 こんなことを考えたのは、日本思想史を、異国の諸思想の受容史としてではなく、受容の思想史として、つまり異質なものの受容の工夫とその方法の系譜として読むという構想を十年ほど前に立てたことを思い出したからである。その構想をフランス語で最初に発表したとき、「受容」の訳語として réception を充てたのだが、それでは私が「受容」という語に込めたい意味はよく伝わらないという指摘を受けた。受け入れた側の受け入れたものに対する積極的な働きを示すことができないというのである。
 そこで気づかされたのは、そもそも日本語の「受容」から払拭するのが難しい受動性であった。以来、よりよい言葉を見つけられず、受容の思想史を問題にするときには、日本語では「受容」を、フランス語では réception をそのまま使い続けてきたのだが、「摂受」のほうが「受容」よりも私の意図するところをよりよく表してくれるのではないかと今更ながら気づいた次第である。
 摂受するとは、外から到来した異なる形にその形にとって新しい場所である私たちの「なつかしい」場所で新しい息吹を吹き込むこと、そう定義した上で、摂受の思想史を書いてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「摂受」か「折伏」か ― 日蓮の時代と現代

2021-05-24 23:59:59 | 読游摘録

 亀井勝一郎の『日本人の精神史 第三部 中世の生死と宗教観』の中で日蓮を論じている章節に「摂受」という言葉が出てくる。仏教語としては「しょうじゅ」と訓む。勝鬘経にも説かれていることであるが、人々を教え導くには二つの方法がある。相手の信仰がまちがっていても、寛容な態度をもって徐々に説得していくのが摂受であり、相手を強く責めてうちくだき、勢力をもって迷いから脱却させるのが折伏(しゃくぶく)である。
 日蓮の考えた末法の世とは、折伏の時代であった。摂受ではもはや間に合わないと見たところに日蓮の危機意識があった。『開目鈔』には、「無智悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多き時は、折伏を前とす、常不軽品のごとし」とある。注釈書を参照したわけではないので確かなことは言えないが、ただ無智ゆえに悪を犯す人たちに対しては摂受を優先すべきだが、誤った考えに染まり、法を蔑ろにする連中が蔓延る時代には折伏を優先すべきだとの意だろうか。
 今の日本はどうすればよいのでしょうか。もう摂受じゃだめでしょうか。折伏するしかないのでしょうか。そうだとして、折伏されるべき人たちには事欠かない今日このごろですが、誰がそれらの人たちを折伏するのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


体組成の変化には閾値があるという実感

2021-05-23 12:56:33 | 雑感

 先々週の土曜日から先週の金曜日まで7日間連続で早朝に12000歩の速歩(所要時間1時間25分、歩行距離9キロメートル)を実行した。その効果は如実に現れた。体重が2キロ減り、BMIは21、体脂肪率も16.2%まで下がった。それで気がついたことは、個人差があると思うが、体の組成の変化を引き起こすにはある閾値があり、運動量がそれに十分なレベルに達しないと数値はほとんど変化せず、せいぜい現状維持にとどまるということである。すでに良好な数値が維持できていればそれでいいわけだが、改善したい場合、これではモチベーションが下がってしまう。
 私の場合、毎日少なくとも2キロ泳いでいたころは、もう面白いように数値が良くなり、それがモチベーションを高めることにもなり、何年間か高水準の数値を維持することができた。昨年の第一回ロックダウン開始以前までは、まあまあ満足できる数値を保っていた。その8週間のロックダウン期間中、プールも閉鎖され、はじめは運動する意欲もちょっと失っていたが、これではいかんと速歩を始め、なんとか体調は良好さを維持していた。
 ところが、今年に入って、プールは営業しているのに、なんというか急激にモチベーションが下がってしまい、休みがちになってしまった。最初は目に見えるような変化はなかったのだが、三月に入って明らかに腹部がたるんできているのがわかった。それでも水泳へのモチベーションはあまり回復せず、週3回くらいのペースで行くには行ったが、1キロで上がってしまい、これくらいでは体を引き締めるには不十分であった。そこで四月に入って、水泳と速歩を組み合わせるようにした。それで数値も見た目も若干は改善されたのだが、これだけやっているのにこんなものかよという程度であった。
 四月下旬からは、混雑がいやで水泳は休んでいる。速歩も週三、四回で、これでは現状維持以上は期待できない。五月も後半に入り、少し時間的に余裕ができたこともあり、これまでにない負荷を体にかけてみた。すると、一週間の速歩で一気に目標の数値に近づいたのである。体感も明らかに違う。体全体に軽快感と安定感がある。どうやら、上に掲げた運動量が体に変化を引き起こす閾値に相当しているようだ。
 ここから先は急ぐ必要はないし、さらに負荷を増やす必要もない。無理は逆効果だ。同じ運動量を維持しつつ、体組成計で自己観察を続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「二重の異邦人」である現代日本人はどのように日本古代に足を踏み入れるか

2021-05-22 23:59:59 | 読游摘録

 亀井勝一郎の『日本人の精神史 第一部 古代知識階級の形成』を関連する参考文献の検索と並行して読んでいる。古代日本の精神史へのアプローチの仕方を考えるためである。より正確には、七月半ばにする学会発表の準備の一環としてである。この学会での発表のタイトルは二年ほど前から「近江朝と崩壊」と決まっている。これは当時私が提示したアイデアに対して学会主催者が私に提案してきたタイトルであった。異論はないのでそのまま受入れた。日本古代世界における時代を画する崩壊の経験が文学作品にどのように表象されているのかを見ることを通じて、古代人の世界観の変容の一側面に光を当てるのがこの発表の目的である。
 『日本人の精神史』の所説が発表内容に直接関わるわけではないのだが、現代の日本人自身にとって容易には接近し得ない日本古代精神史へのアプローチの方法についていろいろと考えさせてくれる。
 古代史へのアプローチについて、西洋との比較を排し、西洋に学んだ近代的解釈を拒絶したらどうなるかと亀井は問う。そこで亀井は「復原力」という言葉を使う。この復原力とは、亀井によれば、「学究としてのきびしい実証力と、詩人としてのゆたかな想像力との合致」である。「在りし日の原型、古代人の息吹に肉迫しようとする至難の業」だと認めた上で、その「復原力」自体に「すでに「西洋」の影響はつよく作用し、西洋文化からうけたイメージが混入している」と亀井は読者の注意を促す。
 亀井はその「復原力」に混入している「西洋文化からうけたイメージ」が具体的にどのようなものか詳しく説明しているわけではないが、本文から明らかなことは、そのひとつは「思想」という言葉そのものである。「西洋伝来の、堅固な体系と鋭い論理と抽象化能力によってつらぬかれた「思想」」を前提として「日本思想」に向った場合どうなるか。そうすることによって日本思想史を「再編成」することはできるかも知れないが、同時に、「何か重大なものを失ったように思う」と亀井は言う。
 以下に引用する二段落の亀井の所説に私は全面的に同意する。

 「日本思想」などは思想ではない。むしろ一切の伝統を根本から否定し、日本人の頭脳を改革して、全く新たにこれからの「日本思想」を形成すべきであるという論もむろん成り立つわけだ。我々はいまひとつの岐路に立っている。私はさきに二重の性格を帯びた特殊な「飛地文化地帯」と言ったが、ここに生育した我々は、或る意味で二重の異邦人と言ってもよかろう。これほど西洋に学びながら、西洋に対しては異邦人であり、これほど伝統伝統と言いながら、自国のそれに対してもすでに一種の異邦人となっているのではないか。現代の日本論、文化論の根底にあるのは、この浮草的知性を自覚したときの不安であろうと私は思っている。
 日本人の精神史研究というテーマは、私にとっては身にあまる仕事だということはわかっているが、日本史の各時代を通じて、我々の祖先は一体どんな精神生活を送ってきたのか。さきに述べた「飛地」に形成された知的エネルギーの性格と特徴を、この際私は出来るかぎり明らかにしたいと思った。古典とか伝統の名で、断片的に、雑然と、しかも変質しつつ眼前に存在している多くのものがあるが、大切なのは性急な解決でも統一でも解釈でもない。矛盾し混乱している諸要素を、まず出来るだけその原型においてつきとめてみることだ。すでに抜き難く我々の頭に入っている「ヨーロッパ的諸観念」と、それがさらに矛盾するならば、それをも深めてみることだ。私はこういう気持で、まず日本の古代に足をふみ入れようと思っている。