内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

トリトメな記 ― 採算度外視でスライドを作り込むのはプロではない?

2025-02-10 19:19:38 | 講義の余白から

 午前三時起床。本日の授業の準備。すでに頭にインストールされていた内容をスライド化する作業。
 今でも日本にあるのかな、豆腐屋さんみたいに夜明け前に仕込んで、早朝からお客さんに手作り商品を提供する店。
 あっ、ゴメンナサイ。そもそも比較するのが無礼、無神経ですね。「手作り」ってところはちょっとだけ似ているかもしれないけれど、こっちは、公務員で毎月の給料が保証されていて、その前提があってはじめて、何をどうしようが採算度外視でいいっていうことですから。
 基本、気楽ですよ、ホント。
 そのくせ、昨日の記事みたいに、毎日出勤して疲れたとか、ほざいているんですからね。下手したら、「てめぇ、ざけんじゃねぇ!」て、寝首をかかれても文句言えないかも、ですね。
 まあ、それはともかく、夜明けまでまだ三、四時間あるこの時間帯、まわりは静まり返っています。二重窓の外から雨音が微かに聞こえます。このままだと、今日、自転車通勤、無理かな。
 授業で使うスライド、ものすごく仕込む。一回きりじゃないっていうのはもちろんある。一度しっかり作っておけば、あとは多少の手直しで使い回せるから、今頑張っておけば来年以降楽って言うのは確かにあります。
 実際、我ながら、なんでこんなに時間かけているんだろうって思うこと、ときどき、いや、かなり頻繁に、あります。一時間の授業のスライド作りに数時間かけますから。そんなことしたって、こっちの苦労や工夫やかけた時間なんて、学生たちは、ごく一部の例外を除いて、まったく気づかないからね。
 それにもかかわらず、このほとんど「無償」(無益とまでは言いたくない)の作業、嫌いではないのです。
 思い切って大げさに言えば、準備がうまくできれば、たとえそれがどんなに些細なものであっても、たとえまったく理解されなかったとしても、あたかも一作品を仕上げたかのような満足感(もちろん、自己満足にすぎませんよ)があるのです。
 それに、ときどきですが、いるんですよ、「センセイ、今日のスライド、とってもよかったです。ベンキョウになりました。アリガトウございました!」って、授業後にわざわざ言いに来てくれる学生が。
 そんなとき、「ありがとう」はこっちのセリフだよって心のなかで呟いて、教室をあとにします。
 今日の授業がそうでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生たち自身が協働することで生み出した自由な議論の空間

2025-02-07 22:46:48 | 講義の余白から

 今日の午前中は日仏合同ゼミの二日目のプログラムであるグループディスカッション。日仏合わせて27人の学生を、昨日の発表グループを分散させる形で四つのグループに分け、教員側が提案した三つの主題―居場所、自己肯定感、必要最低限のケア―をめぐって一時間ほど自由に議論させた。
 教員二人は原則それらを外側から見ているだけだったが、どのグループでも、日本語だけでの議論が言語的なバリアをほとんど感じさせないで形で展開されていたのは、やはり昨年10月からこの合同ゼミまでに積み重ねてきたオンラインでのコミュニケーションが準備段階としてあり、昨日一日のプログラムのなかですでに参加者が自由に発言できるコミュニケーションの空間が醸成されていたからであろう。
 グループディスカッション後、各グループ代表からディスカッションの内容の要旨が報告され、それを受けて全体でのディスカッションが締めくくりとして行われた。ここではディスカッショングループ間での質疑応答があり、個々のグループディスカッションからさらに議論を展開させるいくつかの可能性が垣間見られた。
 プログラム全体として、二日間を通してこれだけ充実した発展性のあるディスカッションを学生たち自身が実現したことを高く評価したいと思う。そのいわば産婆役を務めた教員二人にとってもこれは満足できる結果であった。
 参加した学生ひとりひとりにとって、この経験が今後何らかの仕方で活かされることを願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ブラボー!」― 日仏合同ゼミ第一日目を終えて

2025-02-06 22:39:32 | 講義の余白から

 合同ゼミ一日目を終えて帰宅したところでこの記事を書いている。
 八人あるいは十人からなる三つの日仏合同チームが、それぞれ二つないし三つの作業部会ごとに準備してきた成果を発表した。それぞれに選んだテーマについて昨年十月から話し合いを重ね、その途中経過報告は月一のオンライン合同授業でされてきていたので、内容的にはすでにおおよそは把握済みであったが、最終的にそれぞれの部会で仕上げられたスライドとそれを使っての発表は、さらに内容豊かであった。まずそのことを称賛したいと思う。
 それにもまして高く評価したいのは、発表後のディスカッションである。核心を突くいい質問が多く出て、それに対する回答がさらなる発言を誘発するという好循環が生まれ、全体の議論が活発に行われた。学生たち自身の積極性が発言しやすい空気を自ずと醸成していた。
 司会進行役だった私は、発言を希望して挙手する学生たちに「はい、どうぞ」と順に発言させ、「いい質問ですね」とか、「なるほど」とか、合いの手を入れ、あとは若干の「交通整理」をするだけでよかった。
 全体として、オンラインで一般公開にしても恥ずかしくない内容だったなあとで思うくらいに上出来であった。合同ゼミのプログラムとして明日午前中のグループディスカッションが残っているから、総括はまだできないが、今日一日に関して、参加したすべての学生たちに向かって「ブラボー!」と喝采を送りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2025年度前期集中講義シラバス

2025-02-05 23:59:59 | 講義の余白から

 明日から明後日にかけて行われる日仏合同ゼミは、村上靖彦の『ケアとは何か』(中公新書)を課題図書として学生たちが前期を通じてケアをめぐる問題を考えてきた成果を発表する機会である。
 7月末から8月はじめにかけて日本で行われる集中講義では、その成果も前提としつつ、ケアをめぐる問題について哲学的に考察する。その講義のシラバスはすでに一月前に提出済なのだが、その後大学側から何も言ってこないから第三者チェックも無事通過したのであろう。以下がそのうちの「講義の内容と目的」である。

 「ケア」という言葉が日常語化してすでに久しく、ケア関連書籍の近年の夥しい出版にもかかわらず、専門職としてケアに携わる人たち及びその分野の研究者たち以外にケアの現場での実践的課題と理論的考察がよく知られているとは言いがたい。
 しかし、哲学研究者としてケアの現場に長年関わってきた村上靖彦は『ケアとは何か』(2021年)の「まえがき」のなかで、「ケアとは人間の本質そのもの」であり、「弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である」と述べている。
 本演習は、村上靖彦の上掲書の精読を通じて、「ケアとは何か」という問いを現代社会において提起されている哲学・倫理の現在の問題として考察することを目的としている。
 同書には、著者が長年行ってきたケア専門職に携わる人たちへのインタビューが多数引用されているが、それらは著者の他の著作に拠っていることが多いので、それらの著書も随時参照しながら、ケアとは何かという問いついて、現場の経験に即した基礎的考察をまず行う。これが本演習の1つ目の目的である。
 同書では、他方、他の著者からの引用も多岐に亘っており、それらすべてを参照することは演習時間内では難しいが、特に重要と思われる著書(とりわけ参考書として挙げた西村ユミの二著『看護実践の語り 言葉にならない営みを言葉にする』新曜社、2016年、『語りかける身体 看護ケアの現象学』講談社学術文庫、2018年)はできるかぎり参照することによって、村上書で提起されている諸問題をさらに広いパースペクティブのなかに位置づけることを試みる。これが本演習の2つ目の目的である。
 村上は「あとがき」で、「本書の内容そのものが現象学的な他者論であり、身体論であり、自我論となっている。その意味で、本書は哲学者の名前がほとんど登場しない哲学書」であると述べている。この哲学研究の基礎になっているのがインタビューデータの現象学にもとづいた読み込み作業である。その方法論を詳述している村上の他の論考(『摘便とお花見 看護の語りの現象学』付章「インタビューを使った現象学の方法)を参照することで、ケアの現場以外にも適用可能な一つの哲学の方法を学ぶこと、これが本演習の3つ目の目的である。
 テキストは平易な日本語で書かれており、読解に困難を覚えることはないはずであるから、最初から考察と議論を中心に演習を展開してく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


授業を入れ替える

2025-02-04 23:59:59 | 講義の余白から

 今週は、毎年二月の第一週に行われる日仏合同ゼミが木金とあり、そのために木曜日の担当授業が行えない。
 たいていの年は、一回くらい休講にしても一週間先送りにすれば学期末までに全回終了できるように学年暦が組んである。ところが、今年はそれがきわめて難しい。
 というのは、今年は五月の五回の木曜日のうち三回が祝日だからである。一日が Fête du Travail(労働祝祭日、メーデー)、八日が Fête de la Victoire de 1945(戦勝記念日)、二十九日がAscension(昇天祭)なのだ。このうち一日と八日は固定祝日で、毎年いずれかの曜日がニ週連続で祝日となる。昇天祭は復活祭と連動する移動祝日で、復活祭から四十日後の木曜日であり、今年はそれが五月二十九日というわけ。
 五月はちょうど学年末にあたり、多くの試験がその月のうちに行われる。六月に試験を行ってはいけないわけではないが、学生たちはひどく難色を示すのが普通である。六月から連日バイトする学生もいるし、旅行を予定している学生も少なくないからである。
 というわけで、六月に試験を遅らせることなしに担当授業のプログラムを終わらせなくてはならない。
 解決策として、木曜以外に学部ニ年生の授業を担当している同僚にお願いして、今週に限り、その授業と私の木曜日の授業とを入れ替えてもらった。こうすれば学生にとっては二つの授業が入れ替わっただけで、通常の時間割の時間帯にも教室にも変更がないから、一番簡単な解決法だからである。過去にも同じ手を使ったことがある。これでなんとか五月中に木曜日の授業も終えられる。
 それで今日「現代文学」の第二回目を行った。戦後の「老大家の復活」がテーマ。主に谷崎潤一郎の『細雪』の刊行までの経緯を説明し、内容を概観し、最後に中公文庫版『細雪(全)』(本文だけで九二〇頁超)から僅か半ページだけだが原文を読んだ。Pléiade 版の仏訳と比較し、仏訳がどのような工夫をして、主語が示されていない動詞句を訳しているかを若干説明したところで時間になる。
 来週は、もう少し同箇所の文体分析をした後、川端康成の『山の音』を読む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『夏の花』から始めた「現代文学」講義

2025-01-31 06:25:37 | 講義の余白から

 昨日の担当授業は、一昨日と同じ学部ニ年生を対象とした「現代文学」。前期開講の「近代文学」は戦中までを扱い、別の教員が担当した。私が請け負うのは、いわゆる戦後文学から平成の終わりまで。といっても12回の授業でできることは限られており、おのずとテーマの選択を強いられる。
 そもそも今年度から私がこの授業を担当することになったのは、現代文学が専門の同僚が今年度から研究員として日本へ出向することになり、最短でニ年、きわめて高い確率で四年間、不在だからである。この担当は消去法による決定で、私が適任者だからではもちろんない。いわゆる「困ったときは〇〇」に私の名前が当てはめられたにすぎない。
 ストラスブール大学日本学科は今年で開設四十周年を迎えるが、文学の授業を古代から現代まで全部担当したことがあるのは私だけである。野球に例えるならば、どこのポジションでもこなせる超ユーティリティ・プレイヤーといったところであるが、それで特別手当があるわけでもなく、将来「殿堂」入りするわけでもなく、要するに、「あいつならなんとかしてくれるんじゃない」という根拠のない淡い期待を背負った「何でも屋」ってことで、別に嬉しくもない。
 まあ、新学科開設の責任者として赴任し8年間勤めた前任校では、日本経済・政治・法律、さらには東アジアの地政学(それも修士課程)まで担当したことがあるし、ストラスブールでも、他校のポストへの採用が決まって抜けた同僚が担当していたメディア・リテラシーを引き継いだこともあったから、それに比べれば、今年度担当科目は「おだやか」なものです。
 気の毒なのは、私ではなく、学生である。私の専門分野が「哲学」らしいということを彼女ら彼らは薄々知っているが、まさにそうであるからこそ、「現代文学」の担当教員が「なんで〇〇なの?」と訝しく思い、さらには不審の眼差しを私に向ける学生がいたとしても不思議はない。
 しかし、そこは百戦錬磨のベテランである。テキトーにうわべを取り繕う手立てにはストックがかなりある。それらを使い回して今学期を乗り切るのが私自身のパーソナルで極秘の目的である。
 昨日は、初回だから、授業概要、成績評価・試験方式、提出課題など、前置き的な話で時間を稼ぎ(って、この使い方間違ってるか?)、ついで、基本方針として、小説中心の文学史的説明という偏向を排し、詩歌・劇文学・評論・エッセイなど、とかく軽視されがちな分野にも広く眼を配る、とぶち上げて、小説についての説明が手薄になることへの事前の正当化を密かに行い、さらに、フランスでもよく知られ、翻訳も多数出回っている作家は軽く扱い、これまであまり注目されてこなかった作家や作品を紹介するという独自性を前面に出して学生の気を引き、毎回コラム的・箸休め的に近現代詩歌を紹介する時間を設けるという変化球を投げ、その日扱うテーマと関連する漫画やアニメや映画を紹介することもあるかも知れないと期待をもたせるというおまけをつけた。
 そのうえで、戦後文学の一つの出発点として、原民喜の『夏の花』(仏訳あり)を紹介した。紹介後、この作品に描かれた原爆投下前後の広島の光景との関連で、片渕須直監督のアニメーション映画『この世界の片隅に』のなかの原爆投下直前直後のシーンをちょっと見せたところで残り30分。
 その時間には、この授業のメインテキストとして使う『新日本文学史』(文英堂、2106年)の編著者たちによる気品溢れた、しかし気合が入りすぎて難解な「はじめに」をぶち込み、学生達を呆然とさせておいたうえで、「でも、心配することはないですよ。このテキスト、高校生向けだけれど、この「はじめに」を一回読んだだけで理解できる高校生はほとんどいないと思います。でも、大事なのはその中身ですから」と私自身が用意した仏訳を読み上げたところで、授業終了。
 その「はじめに」の全文は以下の通り。

 日本文学史と名づけられる書物の数は、はなはだ多い。しかしながら、文学史とは何か、また文学史はどのように学ばれるべきかについての明確な意識につらぬかれた書は、いたって少ない。単に作家と作品と文学に関する諸事項についての知識を、それらの生起した時間的序列に従って蓄えるのが文学史学習の目的ではあるまい。
 いったい、文学という事実は、我々が主体的にそれとかかわることによって、その姿を立ち現すのである。したがって、文学はつねに我々の現在的経験としてのみ存在するのだといえようが、しかし、そのことは、過去の時代の文学遺産を、現在の我々の立場からほしいままに鑑賞したり解釈したりしてよいということではない。過去の文学を現在の経験として存在させるということは、それらを現在にひきすえようとしても、そのことを拒否するそれぞれの固有性に目を開き、過去の文学と我々との間の距離を自覚し、両者を見直す往反運動を重ねることによって、過去から現在へと連なる血脈をさぐりあてるという作業なしには不可能なのである。
 本書は、現在の我々が過去の文学とそのような関係を正しく取り結ぶための指針の書として編まれたのであり、そうした目的のもとに、全時代にわたる文学の諸事実を歴史的に体系だてたものである。執筆にあたっては、日本文学の研究者として現在第一線に立つ気鋭の諸氏六名に強力を依頼したが、これらの諸氏の熱心な討議を経て書き下ろされた本書は、高校生諸君の文学史学習のための最適な書となりえていることは、編著者の大いなる喜びである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悪夢への意趣返し、あるいは悪魔祓、そして、偽装された哲学講義としての「仏文和訳」

2025-01-30 07:59:30 | 講義の余白から

 水曜日には二コマ担当授業がある。前期から引き続いての「日本思想史」(学部三年生対象)と後期のみで今年度から導入された学部ニ年生対象の「Thème」(自国語から外国語への翻訳作文、日本学科の学生にとっては仏文和訳)である。
 前者は、フランスでの二十七年間の教育経験のなかで、もっとも熱が入り、もっとも楽しんでいる講義である。後期に取り上げる最初のテーマは、『風姿花伝』における「花」、である。このテーマを選んだのは、新年早々見た悪夢(1月6日の記事を参照されたし)への意趣返し、あるいは悪魔祓という意味合いもあると勝手に思っている。だから、ものすごく入念に準備した。
 今日はイントロダクションで、来週は、自分の論文 « Le geste dans le théâtre nô : approche phénoménologique — Réflexion phénoménologique sur la forme vivante, mise en scène dans le théâtre nô —»(in La Fleur cachée du Nô, textes réunis et présentés par Catherine Mayaux, Honoré Champion, Paris, 2015) に基づいて話す。
 「仏文和訳」のほうは、まだ日本語を学びはじめて一年半ほどの学生が大多数であるニ年生対象であるから、構文的・語彙的にそう高難度な文章を課題とすることはできない。かといって、平易ではあるがありきたりの文章ではこっちがつまらないし、そう思ってやっているとその気分が学生達にも感染してしまう。そこで、私自身で仏文和訳のためのアンソロジーをぼちぼち作っていくことにした。
 初回の今日は、翻訳の的確性を判断する三つのレベルについてまず説明した。それは、構文、文脈、社会・文化という三つのレベルである。この三つのレベルは、相互浸透的で、完全に別々に扱うことはできないが、まずは構文レベルから始める。つまり、文脈その他の要素を一旦考慮外に置き、元のフランス語文の意を適切な日本語の構文に移すことから始める。
 始めてみてすぐにわかることは、文脈抜きでは、適切な語の選択からして決定できない場合がいくらでもあるということである。さらに、構文は完全で文脈からして誤解の余地はなくても、日本社会の慣習として、そういう言い方は普通しないという場合も少なくない。
 つまり、翻訳は社会・文化的レベルまで理解が及ばないと完了しない。言い換えれば、翻訳は社会と文化を学ぶ一つの方法なのである。
 授業で出した一例は « Il pleut ! » という短文である。「君たちはどう訳しますか」と聞くと、すぐに「雨が降っています!」という答えが返ってきた。「正解。他の訳し方はないですか」と聞くと、「雨が降っている!」と常体に言い換えた学生がいた。これももちろん正解。「でもね、文脈次第でもっといろいろな訳がありうるんだよ。例えば、「雨!」だけでもいいし、「雨だ」でもいいし、「雨よ」もありうるし、まだまだ他にも考えらられる。」
 誰がどんな状況で誰に対して言ったのか、その人はどんな性格なのか、どんな心理状態なのか、などなど、さまざまな要素を考慮すればするほど、訳のヴァリエーションも広がる。
 もう一例は、 « Il fait froid. » / « J’ai froid. » これは「寒い」一言でもOKだし、若者たちは「さむ!」って縮めていうことも多い。「こわ」「はや」「おそ」などなど、形容詞の変化語尾「い」を省略する言い方は今ではまったく日常言語化している。と説明したうえで、「私は嫌いだし、自分では絶対に使わないけどね。君たちも、教室の外で使うのは勝手だけど、私の前では使わないでくれ」と釘を指しておいた。
 すると、最前列に座っていた女子学生が、「先生、あえて「さむ!」と訳すことで、それが使われた会話の雰囲気を伝えられるということはありますか」と聞いてきた。「とてもいい質問だね。そう、たった一語、的確な選択をすることで、その場の雰囲気について他の説明を加えなくても伝えられることもあるね。」
 そして、感謝の表現例を説明したときには、「あざす」とか「あざーす」が何を意味するかは知っておいてもいいが、「私の前では絶対に使うな。使ったら単位はあげないからな」と脅しておいた。
 授業の締めくくりは、デカルトとモンテーニュ。
 « Je pense, donc je suis. » 学生達は一年のとき、人あるいは生き物の所在を示すときは「いる」、無生物は「ある」と教わる。ところが、ここで「いる」は使えない。なぜか。これはもう翻訳の問題ではなく、ここからは哲学の問題だ。
 モンテーニュからは、 « Quand je danse, je danse : quand je dors, je dors. » 私の手元にある日本語訳は、すべて、漢字かひらがなかの違いを除けば、「私/わたし」を文頭に一回置いているだけ。ところが、原文では « je » が四回も繰り返されている。どうして日本語訳では繰り返さないのか。この問いに答えるには、助詞「は」の機能の理解が必要である。
 来週は、パスカルとヴァレリーから課題文を選ぶつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


後期の授業が始まる ―「日本事情」

2025-01-29 04:22:50 | 講義の余白から

 今週月曜日から後期の授業が始まった。月曜日から早速一コマ担当授業があった。応用言語学科・英日併修コースの一年生向けの「日本文明」で、これは前期担当した「日本文明入門」の続き。
 週一時間の授業で、受講者は四〇名程度。まあ、概してよく聴いてくれているけれど、受講者諸君が実のところ日本のどんなところに関心をもっているのはよくわからずに授業内容を組み立てている。
 前期の最初の三回は、現代日本を代表する名作アニメーション映画である『かぐや姫の物語』『君の名は。』『聲の形』をそれぞれ題材とするという、若者の「気を引く」という戦術を採用し、これは見事に当たった。
 その後の三回はけっこう重厚な内容を扱ったが、問題そのもの ―〈和〉の原理の根本的欠陥、二次的自然の文化的創造、『風姿花伝』における「花」― には関心をそれなりもってくれたようで、前期中間試験の成績はまずまずであった。
 後半は、日本列島の地理的紹介。北海道から沖縄まで、一道・三十二県、日本列島を南下する形で紹介していった。試験結果はまあまあってところ。近畿地方の二府五県と関東地方の一都六県は時間が足りなくて触れることさえできず、後期に回し、一昨日の授業で足早に紹介した。
 この地理的紹介の目的は、日本列島全体についての地理的イメージ、特にその多様性を理解してもらうことにある。というのも、日本学科の学生でさえ、日本の地理を一通り勉強する機会はなく、近畿や関東など日本の中心的な都市が集中する地方については歴史の授業でいくらかは知識を得ることはあっても、おそらく都道府県名を全部言える学生はゼロに等しく、ましてや各県・各地方の特徴を簡単にでも説明できる学生はいない。
 かねがねこのような地理的知識の欠落が気になっていたが、今年度一年生のこの授業を担当する機会を与えられ、その欠をいくらかでも補うべく微力を尽くした次第である。
 後期は、科目名から「入門 introduction」という語が外れて「日本文明 civilisation japonaise」となったから(私がそうしたわけではなく、カリキュラム上そうなっているだけのことだが)、もう好き勝手にやることにした。
 科目名を直訳すれば「日本文明」だが、実質は「日本事情 choses japonaises」紹介みたいなものであり、日本史は、ニ年次・三年次に古代から現代まで通史を勉強するから、歴史には直には触れないという制約もあり、日本についての知識がまだ乏しく無邪気なフランスの若者たちに、「日本ってこんな感じですよ」と、数十年にわたって蓄積された豊富な経験と深い知識と凝り固まった偏見に基づいて、一方的に講釈するってところですかね。
 誰ですか、学生たちが可哀想って、呟いているのは? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士一年後期演習で三木清『人生論ノート』を再読する

2024-12-21 13:37:34 | 講義の余白から

 後期の授業開始は1月27日(月)だから、一月余り授業およびその準備から解放される。少し気が楽である。しかし、その間の試験監督と採点作業は当然の義務として、後期開始以前にやっておくべきことや準備しておくべきことを数え上げたらかなりあり、昨日の記事で話題にした理由とは別に、この休暇中はあまり心が休まりそうにない。
 まず、読んでコメントしなければならない演習レポートが30本あまり、指導中の修士論文が数本ある。
 2011年から行っている夏期集中講義の来年度のシラバスの締め切りが1月12日。
 後期、新たに担当する修士一年の「近現代文学」の演習と学部2年生の「現代文学」の講義の準備。この演習と講義は、現代文学が専門の同僚がずっと担当してきたのだが、その同僚が今年度からおそらく4年間出向で不在なので、とりあえず今年度は私が担当することになった。
 それで昨日は修士一年の演習の講読図書を何にするかあれこれ考えていた。9月以降何度か思案したことはあったのだが、決められずにいた。
 一回2時間の演習を6回、計12時間だから、そうたいした量は読ませられない。だから、本の一部のコピーでもPDF版でもよいようなものなのだが、それでは味気ない。学生たちに日本語の本を手にして読むという経験をさせたい。
 「近現代文学」といっても広い意味でとらえてよいので、文学作品や文芸批評に分野を限定する必要はない。哲学的エッセイもありである。
 ただ、一冊の本を選ぶにはいろいろと条件がある。まず、高い本を買わせるわけにはいかない。それで選択範囲はおのずと文庫か新書に限定される。価格としては800円(5€)あたりが上限。
 一冊丸ごと読ませる時間はないにしても、演習内でいくらかはまとまった量を読ませたい。だから薄めの本のほうがよい。語彙や構文があまりにも難しい本は当然却下。
 一方、私の方の事情として、上記の演習と講義以外にも今年度からの新設科目である学部2年の「仏文和訳」も後期担当するということがあり、これまでの蓄積が活かせない分、準備に時間がかかる。だから、修士の演習には、これまでの蓄積が活かすことができ、準備に時間をあまり必要としないテキストを選びたい。
 と、今日も朝からあれこれ思案した結果、過去に二回「近現代思想」の演習で学生たちと一緒に読み、全仏訳がほぼ完成している三木清の『人生論ノート』に決定した。この作品は「青空文庫」で入手できるし、それをもとに授業で使いやすいように私の方で編集したPDF版もあるから、学生たちに金銭的負担をかけなくてもいいのだが、彼(女)らには角川ソフィア文庫の紙版(2017年)を購入してもらいたいと思っている(電子書籍版もある)。ただ、いくら安価でも購入を強制することはできないので、購入諾否を問うメールを学生たちに先ほど送った。
 新潮文庫版のほうが安いのだが、現在どうやら新本は購入できないようだし、角川ソフィア文庫版には、『人生論ノート』の他に、三木の哲学の原点とも見做しうる若書きの『語られざる哲学』と一人娘洋子に宛てて書かれた感動的な文章「幼き者の為に」も収録されている(この文章については2017年12月17日の記事で取り上げている)し、岸見一郎氏による解説によって、三木の生涯にとって重要な出来事や時代背景ついて若干の知識が得られるという利点があるので、こちらの版にした。
 学生たちと一緒に再度精読することで、きっと新たな発見もあるだろうと今から期待している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


AI翻訳に脅かされる翻訳家の悲痛な叫び

2024-12-18 23:59:59 | 講義の余白から

 修士2年の仏文和訳上級の最後の演習を今日オンラインで行った。これで年内の授業はすべて終了。年内に残っている職業的義務は明日と明後日の試験監督だけである。明日は、試験監督といっても、明後日の試験が仕事上の都合で受けられないたった一人の学生のための、本人からの要望に応えての特別措置である。試験時間は一時間。
 « Traductologie – niveau 3 » という科目名の今日の演習、同僚と二人で前半後半に分けて3回ずつ担当するという今年からの新しい試みであった。事前に二人でテーマについて相談し、政治・社会問題・テクノロジー・気候変動という4つのテーマを選定した。そして、同僚がそれらのテーマに関するフランス語の記事をテーマごとに複数選び、私は日本語の記事を同じように選んだ。難易度・記事の長さ等を考慮して、最終的に選ばれたテーマは、石破首相誕生の政治的経緯、ヤングケアラーの現状、AI翻訳であった。一回の演習で一つの文章を扱うという原則で選択・編集した記事を学生たちに事前に送り、翻訳を準備させた。
 今日の授業で検討したのは、今年10月24日付けのル・モンド紙に掲載されたAI翻訳に関する投稿記事で、筆者は大学でも翻訳教育に携わっているドイツ文学の翻訳家である。構文的にはさほど難しくない文章だが、日本語には馴染みにくい表現が散見され、テーマに関して日本で現によく使用されている語彙にいくらか通じていないと適語の選択がちょっと難しいという程度の難易度であった。
 事前に提出された7つの翻訳を私が授業の前にすべて添削しておく。授業では、それらの翻訳一つ一つについて、一段落ごとに、細部にわたって問題点を説明していく。それはそれで学生たちの勉強になる作業ではある。
 しかし、記事の内容そのものはあまり面白くなかった。というか、古色蒼然とした「人力」翻訳擁護論で、正直、まだこんなこと言っているのかと少し呆れてしまった。要するに、文学作品の翻訳の精神的効用論で、こんなことで現状に一石を投じたことになるとでも思っているのかというほどに黴臭い御託である。時代錯誤的な喩えで恐縮だが、敵からの空爆が繰り返される危機的な状況のなかで、竹槍訓練で心身を鍛えることの効用を説いているようなものである。
 記事のなかでも言及されているように、大学での進路に迷っている若者とその家族が翻訳業の未来に対して不安を抱いているのが現状である。そのような先の見えにくい状況にあって、「みなさん、将来どんな職業につくにしても、文学作品を機械に頼らず自力で訳す訓練には、言語能力を磨き、精神を鍛え、思考力を高めるという効用がありますよ」と言われて、大学で文学作品の翻訳に打ち込む気になる高校生やその選択に賛同する親御さんたちがどれだけいるというのか。
 文学作品の翻訳作業の効用として上記のような諸点を挙げること自体を否定するつもりはない。市場原理が席巻する現状をひたすら追認し、それに遅れないように「適応」することを金科玉条とせよとも思わない。AIに白旗を上げて降参せよと言いたいのでもない。文学作品の翻訳が完全に自動翻訳のみになってしまうこともおそらくないであろう。
 しかし、翻訳市場全体を見渡せば、生成AIの登場とその急速な普及と驚くべき質的向上が翻訳の社会的機能に空前の変化をもたらしていることは誰にも否定できないだろう。
 文学作品の翻訳が占めているのはその一部でしかなく、そこでは通用する議論を他の分野に無条件に拡張することはできない。
 翻訳に求められているものは、その利用者および市場のニーズによって可変的である。メディアの情報、広告、取扱説明書、観光ガイド、映画字幕、各種契約書、行政文書、法律文書、外交文書、政治的声明、科学雑誌、学術論文等、数え上げればきりがないが、翻訳対象となる文章の質と目的によって要求水準・内容も大きく異なってくる。
 AIが生成した翻訳は、蓋然性の高さに基礎を置くアルゴリズムの結果としての「疑似言語」であって、人間による「血の通った」創造的言語活動の成果ではない、という、上記の記事の筆者である翻訳家の悲痛な叫びは、世界を覆い尽くす情報の大洪水による喧騒によってほとんどかき消されてしまっているとしか私には思えない。