内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「依存 dépendance」を内包した「自律 autonomie」―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

2024-09-27 07:23:20 | 講義の余白から

 一昨日の演習で提示した第二の「補助線」は、自立と自律の区別及び自律と依存との関係という論点である。
 『ケアとは何か』第二章「〈小さな願い〉と落ち着ける場所――「その人らしさ」をつくるケア」には、「自律」と「自立」が違った節で別々に取り上げられている。
 「3 文化的願い」では、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『「ユマニチュード」という革命』(誠文堂新光社、2016年)から、四肢が麻痺していて自分の手でリモコンを扱えない人が看護師の助けを借りて自分で見たい番組を選択するという例を引いた後で、村上靖彦氏はこう述べている。

願いを聴き取り、叶えるケアが、ここでは自律と結びつけられている。自律とは、一人で生活できることではなく、自分自身の願いを具体化できることなのだ。

 だが、これだけでは十分に「自律」の意味を引き出したことにはならない。英語の autonomy もフランス語の autonomie もギリシア語の autonomos に由来し、autos は「自分自身に」、nomos は「法律、規則」である。つまり、「自律」とは、自ら自分の行動規則を定め、それに従って行動することである。したがって、上掲の例のように、四肢が麻痺した人が看護師さんにリモコン操作をしてもらって自分の見たい番組を選択することも、それがその人自身が定めたルールであり、それを実行したのであるならば、「自律」と言うことができる。この例を一般化すれば、「自律は介助を内包しうる」となる。
 同章の「5 チームワークで願いを叶える」には、「自立とは何か」と題された節があり、脳性麻痺の当事者であり、小児科医であり、当事者研究の推進者としても活躍している熊谷晋一郎氏の言葉が引かれている。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でもそうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に普遍的なことだと、私は思います。

 これを英語やフランス語に訳す場合、「自立」を independence, indépendance と訳すことには無理があり、「自律」に相当する語 autonomy, autonomie を当てることになるだろう。なぜなら、前者は「依存 dependance, dépendance」の対義語であるのに対して、後者は、上に見たように、「依存」と相互排他的な関係にはなく、それを内包しうるからである。
 誰にも依存しない「自立」が虚構あるいは幻想に過ぎず、すべての人は相互依存的であるとする議論よりも、依存を内包した自律のあり方のさまざまな可能性を具体的に模索・検討・現実化するための議論のほうが生産的であろう。
 この点に関して、ロールズの正義論批判においては論点を共有しながら、依存論に関してはエヴァ・フェダー・キテイと一線を画すマーサ・ヌスバウムの議論が参考になる(« The future of feminist liberalism », in E. Feder et E. F. Kittay (dir.), The Subject of Care. Feminist Perspectives on Dependency, Lanham, Rowman & Littlefield, 2003, p. 186-214)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


患者のサインは、「信号」ではなく、「記号」である ― 『ケアとは何か』のよりよい理解のために

2024-09-26 14:16:41 | 講義の余白から

 『ケアとは何か』を学生たちと読み進めていく中で、本書の理解を深めかつ関連する諸問題に広く目配りができるように、一方では、村上靖彦氏の他の著作や氏が本書のなかで言及・引用している他者の著書なども紹介し、他方では、重要概念の理解を助ける「補助線」となるような論点も導入している。
 昨日の演習では、第一章の第一節で取り上げられている、患者のサインをいかにキャッチするかという問題に関連して、「信号 signal」と「記号 signe」の違いについて話した。そのとき、引用はしなかったが念頭に置いていたのは、フロランス・ビュルガの Qu’est-ce qu’une plante ?(『そもそも植物とは何か』)のなかの次の一節であった。

Les plantes voient-elles la lumière ? Non, les plantes sont comme si elles percevaient, comme si elles étaient sensibles. Un stimulus n’est pas un signe. Ce dernier désigne, annonce, représente quelque chose d’absent ou qui n’est pas donné en pleine présence. Les plantes ne vivent pas dans un monde de signes, c’est-à-dire un monde où circule du symbolique. Jacques Tassin, nous l’avons vu, parle d’ailleurs de « signal » et non de signe. Ce dernier est porteur d’une équivoque absente dans le signal. Le rapport sémiotique est triangulaire. Il engage l’individu sentant et se mouvant (le « sujet-vivant », animal ou humain), le signe (une matière, une chose, un son, etc.), et la signification à laquelle il renvoie. Il comprend un tiers absent. Le rapport qui existe entre le stimulus et la réaction est binaire, jamais virtuel ou oblique.
                            Florence Burgat, Qu’est-ce qu’une plante ?. Essai sur la vie végétale, Éditions du Seuil, 2020, p. 62-63.

植物は光を「見ている」のだろうか? いや、植物は「あたかも知覚しているかのように」、「あたかも感覚があるかのように」動いているだけだ。刺激は記号ではない。「記号」とは、そこにはないもの、目の前に存在していない何かを示し、告げ、表すものだ。植物は記号の世界には生きていない。植物の世界に、記号によって象徴されるものは行き来してない。前に見たように、ジャック・タッサンは、そもそも「信号」について語っており、「記号」については語っていない。記号は、信号にはないあいまいなものを伝えている。記号の世界は三角関係だ。そこには(1)感じたり動いたりする個体(「主体としての生物」、動物または人間)、(2)記号(物体、事象、音など)、(3)記号によって示される「意味」、の三つが関わっている。だが、三つのうちのひとつ、「意味」は実際には存在しないものだ。そして「刺激と反応」の関係性は一対一だ。そこに潜在的なもの、間接的なものは関わっていない。
              『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社、2021年、67‐68頁、一部改変)

 訳のなかの「実際には存在しない」は明らかに不適切である。意味は、個体と記号と同次元には不在である第三項である限りにおいて意味として機能するという前提でこの「三角関係」が述べられているからである。つまり、意味は、個体と記号と同じ資格でそこに存在してはいないが、実際には「不在」のまま機能としてそこに「存在」しているからである。
 それはともかく、このような「信号」と「記号」の違いを導入すると、ケアにおいては、一義的にその価値が確定していて曖昧さがなく解釈の余地がない「信号」ではなく、両義的あるいは多義的であり、解釈の余地があり、したがってその意味を捉えそこなう可能性がいつも伴う「記号」をいかに的確にキャッチするかということが課題なのだと問題を明確化することができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度日仏オンライン合同授業・第1回目

2024-09-24 23:59:59 | 講義の余白から

 今朝、6時20分から7時50分まで、法政大学哲学科の学部生15名とストラスブール大学日本学科修士課程一年生13名、法政側のK先生と私も含めて30名で今年度最初のオンライン合同授業が行われた。
 法政側は今日が今年度の「国際哲学特講」の第1回目だったが、こちらはすでに演習を2回行った上で合同授業に臨んだ。授業時間を最大限有効に使うために、学生の自己紹介は第1回目の演習のときに録画してあらかじめK先生に送信しておいた。法政の学生の自己紹介も後日録画が送られてくることになっている。だから、K先生の簡単な開講の挨拶後、すぐに本題に入った。
 今日の授業のためにこちらの学生には『ケアとは何か』の第一印象を日本語で3分にまとめて発表できるように準備させておいた。出席はしているものの体調不良の1名を除いて、他の12名はそれぞれに自分の考えを簡潔によく表現できていた。先週の授業でその12名はフランス語で第一印象を発表しているからすでに考えはまとまっていただろうし、今日の発表の準備のために生成AIを使った学生もいただろうが、少なくとも日本語での口頭発表に慣れるためにはよい機会であった。
 法政の学生たちは今日が初回であったから、教室での講読なしにいきなりの発表だったが、『ケアとは何か』に対する自分の関心の所在をそれぞれに短くよくまとめて発表してくれた。この本を読むまでは、「ケア」についてあまり関心がなかったし、医療や介護に携わる側の問題だと漠然と思っていた人が大半だったが、実は人間の本質に関わるテーマであること、自分たちにもさまざまな仕方で関わりがある事柄であることはすでに全員よく理解していた。
 第1回目としては上々の出来であったと評価できる。
 今後オンライン合同授業は10月、11月、来年1月の3回が予定されている。11月からはSNSとテレビ会議システムを使って日仏合同チームによる発表準備も始まる。それらと並行してそれぞれの授業も学期末まで継続される。日仏どちらの学生にとっても、他の授業や演習に比べて学習量・作業量が多く、それに遠隔での共同作業のための時間調整も加わるから、負担が大きいとは思うが、それだけ注力するだけのことはあるプログラムだと自負している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ケアとは何か」を自分自身の問題として考える

2024-09-18 20:24:26 | 講義の余白から

 今日は修士一年の「思想史」の演習で村上靖彦氏の『ケアとは何か』を読む第二回目。学生たちに、まえがき・目次・あとがき・第一章の読めたところまでについての個人的な感想をフランス語で発表してもらった。
 感想の内容はさまざまであったが、「ケアとは何か」という問いそのものには皆それぞれの仕方で強い関心をもってくれたことがわかって、まずは一安心。
 なんといっても現役の看護師の学生の発言には圧倒的な説得力と具体性があった。『ケアとは何か』で提起されている問題意識と彼の日頃のプロとしての実践のなかで問われている問題とがリンクしているという彼の発言は私にとってとても貴重だった。他の学生たちにとってとてももちろん有益だった。彼がいるからこの本を選んだわけではないけれど、彼がいてくれるおかげで、議論が安易な抽象論に流れることはないだろう。
 他方、「ケアとは何か」という問題はまったくの他人事でしかないとこれまで思っていた大半の学生たちのリアクションも興味深かった。
 以下、それらのリアクションを簡略にまとめてみよう。
 自分自身は今「ケア」を必要としている立場でもないし、「ケア」している立場でもないけれども、『ケアとは何か』を読んで、「ケア」とは人間の本質に関わるテーマで、実は自分にとっても直接関与する問題なのだということに気づかされた。
 ケアの成立にとって不可欠とも言えるコミュニティの形成はどのようにして可能なかのという問題に特に関心をもった。
 対人援助職の方たちが行うケアとは異なる、家庭内でそれと自覚されることなしに、家族なのだから当然という単純な理由で日々実行されているケアも同じ範疇として扱えるのだろうか。
 自らを社会から隔絶して生きようとする人たちはケアの問題とは無縁なのではないか。
 インタビューに基礎を置いた立論が、ケアについてこれまで何の知識も関心もなかった自分にも問題を現場に即して考える緒を与えてくれた。
 医療行為とは異なる、あるいはそれを超えた、ケアがあるということに気づかされた。
 ケアが関わる次元としての内側からそれぞれの人によって感じられている〈からだ〉が、医療の直接的対象となる身体あるいは臓器とは異なる次元にあることがわかった。
 医療はケアというより根本的な人と人との関わりを前提としてはじめて成立するのではないか。
 12名の学生たちの発言はもっとニュアンスに富んでいて、それらをここに忠実に再現できていないのはもっぱら私の非力のせいである。諸君、申し訳ありません。
 これから来年二月はじめの日仏合同ゼミまで、私も一素人として学生たちと議論を重ねながら、「ケアとは何か」という問いを自分たちも直接関わる問題として考えていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「センセイ、授業を定刻前に始めないでください。」

2024-09-17 23:59:59 | 講義の余白から

 月曜日に担当している二つの授業、8時半から10時までの「日本思想史」と14時から15時までの「日本文明入門」との間には4時間も空きがある。日本の大学のように個人研究室があれば、誰にも邪魔されずに授業の準備や雑務の処理もできるだろう。ところが、フランスの大学にはそのような贅沢なスペースは、基本、ない。
 日本学科の場合、専任であっても雑居状態の教員室があるだけである。しかも、教員数分の机さえない。6人の専任に対して4つしかない。だから自分専用の机さえないのである。今一人日本に出向中だから多少状況は改善されているが、それでも同じ部屋で教員ごとに異なった学生と面談することも珍しくない。しかし、面談の内容によっては個人情報を保護する必要もあるから、別々の部屋で話さなくてはならないこともある。そういうときは、いずれかの教員が空き教室を探さなくてはならない。
 言語学部の場合、学科間の格差もひどい。英語学科やドイツ語学科は二人で一部屋割当てられている。だから出校日が重ならないかぎり、その部屋を独占できる。日本学科の場合、それさえ保証されていない。学科長がこの嘆かわしい状況を学部執行部に再三訴えているが、日本学科に新たに一部屋与えるという話は一向に進んでいない。
 というわけで、私は朝一の授業後、一旦帰宅する。自転車で片道15分くらい。自宅と大学間は約4キロ、2往復で16キロ走ることになる。いい運動である。それに行き帰りの時間を差し引いても3時間以上自宅にいられるから、休息もできるし、授業の準備もできる。これはこれで悪くないかも、と自分を納得させている。
 今年度から新しいカリキュラムになり、学部の授業時間が1時間半になった。以前は2時間(大学院の演習は新カリキュラムでも2時間のまま)。実は私はこの変更にあまり賛成ではなかった。というのも、これも日本の大学ではありえないことだが、授業間に休み時間がないからである。8時から18時(乃至20時)まで、まったく休み時間がない(ただし、近頃は休憩時間を導入している大学もあると聞いている。実際、前任校は、私が転任する直前から休み時間導入を始めていた)。
 つまり、学生が入れ替わる時間も教室を移動する時間もないのである。履修した二コマの間に一コマ空きがあれば問題ないが、連続していることもしばしばある。
 どう対処するかというと、学生の方からは、事情を教員に説明して、終了時間少し前に退席する許可を得るか、次の授業の教員に事情を説明して、遅刻の許可を得ておくのである。
 教員側からは、個々の裁量権として、終了時間を定刻より少し早め、学生たちが少なくとも教室移動時間は確保できるようにする。だから、2時間の授業でも実質は1時間45~50分だった。ただし、このように気を利かさない教員も少なからずいて、彼ら彼女らは定刻ギリギリまで授業する。当然の権利(いや、義務か)だから、文句は言えない。それどころか、オーバーする教員もいる。そういうときは、さすがに一言次の授業の教員に謝罪してから、教室を後にする。こちらはにこやかに、 « C’est pas grave. » と心にもない決まり文句を返す。
 このようなシステム(の名にさえ値しないと私は思うが)は、学生にとっても教員にとっても不利益であり、実に馬鹿げている(absurde !)と、私はずっと憤慨し続けている。
 ところが、新カリキュラムで授業時間が30分短くなったにも関わらず、授業間に休み時間がないことには変わりがない。しかし、1時間半の授業から10分削ると、さすがに授業プランに支障を来す。そこで、先週と今週の2回、朝一の授業であることを幸いに、教室に授業開始時間の15分前に行き、プロジェクター等機材のセッティングを8時半前にすべて済ませ、定刻ぴったりに始めようとした。それどころか、あらかた学生たちが揃ったところで「フライング」をして定刻前に始めてしまった。定刻にやってきた数人の学生たちは教室の入口で驚いた顔をしている。当然である。それでも何事もなかったように私は授業を続けた。
 授業後、クラス代表からメールが来た。「先生、私たちの中にはかなり遠くから電車通学している者もいます。どうか授業を定刻前ではなく、定刻に始めてください。」
 私の返事。「要望、ごもっともです。「フライング」、スイマセンでした。来週から定刻にはじめることを約束します。」平身低頭である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ケアは人間の本質そのものである

2024-09-11 18:37:17 | 講義の余白から

 大学教師も学生たちに対してケアラーの役割を果たすことが求められるケースが増えてきている。ケアという言葉が流通するようになる前から、それぞれの学生たちが直面している或いは抱え込んでいる問題について教師が相談に乗り、解決に協力することはあったが、それは例外的なことであり、個人的な問題については、問題に応じて適切な対人援助のプロに委ねるか、家族内の問題 として間接的にしか関わらないのが普通であった。
 学科でのミッション・ハンディキャップ担当教員を二年間務めたことや、この夏の東京での集中講義でのことや、現在こちらでの修士課程の学生にも慎重な対応を求められるケースがあることなど、ケアとは何かという問題をいわば自分の仕事の現場でも問わざるを得なくなっている。
 今日の演習では、『ケアとは何か』のまえがきを、本文で展開される議論を先取りする補足説明を加えながら段落ごとに丁寧に読んでいったので、二頁ほどしか読めなかったが、ケアとは何かという問いが人間の本質に関わる問いであることは学生たちに理解してもらえたと思う。
 この点についての村上氏の基本的な考え方はまえがきのなかで以下のように端的に示されている。

 ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、「独りでは生存することができない仲間を助ける生物」として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。

 ここから「自由」や「自律」の再定義も要請される。「自立」した個人を前提とする人間観や社会観が根本から問い直される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度日仏合同ゼミ課題図書 ― 村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』(中公新書、2021年)

2024-09-10 23:59:59 | 講義の余白から

 日中、明日から始まるマスター一年生前期必修科目(今年から二年生も選択科目として履修可能となった)の「Histoire des idées 思想史」の授業の準備に没頭していた。
 このブログですでに何度も言及したことだが、この演習は、私が前期担当するもう一つの一年必修の演習「留学準備演習」と組み合わされており、両者共通の目的は来年2月に行われる法政大学哲学科の学生との日仏合同ゼミの準備である。

 まず「思想史」から始める。この演習では、合同ゼミのために私があらかじめ選択した共通課題図書を読む。今回は村上靖彦氏の『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』(中公新書、2021年)を選んだ。明日の演習は、二つの演習の概要説明後、本書のまえがき・目次・あとがきを読み、テーマ・内容・論点・方法についての基礎理解を得ることが目的である。
 この夏の一時帰国中、東京のいくつかの大型書店でケア関連の書棚を見て回ったが、医療や介護の現場に即した実践書からケアとは何かを問う理論書まで、その数の多さにいささか驚かされた。それらの書籍への関心とは別に、村上氏のケア関連の著作にはかねてより関心と敬意を懐いていた。さまざまな対人援助職に携わる方々の現場の声に長年にわたって耳を傾け、その間に積み重ねられた膨大なインタビューに基づいたその立論は、現場での実践的な課題を通じて見えてくる人間にとって根本的な諸問題を、説得的な仕方で、しかも専門の知識を持たない人に理解できるやさしい言葉で、私たちに明らかにしてくれている。
 今回の参加学生の中に、一人現役のフルタイムの看護師がいて、彼は学部時代から最優秀の成績を収めてきているのだが、彼からフランスの医療現場からの声を期待している。残念ながら、まさにフルタイムゆえに、毎回の参加は難しそうだが、彼が出席できる日には発言を期待したい。
 本書は、多くのインタビューが実施された大阪での事例とそれらインタビューの抜粋が基礎資料になっているが、そこで問われている諸問題は、まさに「ケアとは何か」という誰にとっても無縁ではありえない基本的な問いを、具体的な事例・場面を通じてさまざまな角度から問い直し、深めるかたちになっている。だから、それらの現場を直接知らなくても、読者それぞれが身近で知っている事例や経験に照らし合わせて、自分のこととして問題を考えることができるようになっている。それはフランス人学生たちにとっても同様であろう。一方、日本人とは違った反応や意見が彼らから出て来ることもありうるだろう。
 読解作業後、10月末から来年1月にかけて、学生たちはいくつかの日仏合同チームに分かれ、オンライン会議やSNSをツールとして駆使しつつ、2月初旬の発表準備に取り組む。チーム内での意見交換を通じて、本書で問われている諸問題についての理解を深め、そこから自分たちのテーマを引き出し、それについての発表を組み立てていく数カ月間の作業が、ケアについて頭で理解するだけではなく、他人事として済ませることなく、自分たち自身の日常の問題として考える機会になってくれることを切に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日から新学年度の授業が始まりました

2024-09-09 19:18:58 | 講義の余白から

 今日から新しい年度の授業が始まりました。今年から新カリキュラムが施行されます。このカリキュラムが施行される五年間、細部の修正は毎年可能ですが、大幅な内容変更は原則できません。
 前カリキュラムとの大きな変更点は、ほぼすべての授業が一コマ2時間から1時間半に短縮され、その分新たな科目が追加されたことです。学生たちにより多様なテーマを提供するというのがその狙いです。それと同時に、学部最高学年である三年の授業では、専任教員は皆自分の専門分野について授業を一コマ持つことができるようになりました。
 私は月曜日に二コマ担当します。午前8時半から10時までの日本学科学部三年生必修の「日本思想史」と午後2時から3時までの応用言語学科「英語・日本語コース」の一年生対象の「日本文明入門」です。
 どちらも教科書があるわけでもなく、与えられたテーマがあるわけでもなく、私が自由にテーマを選んで話せばいいので、初日の今日は、挨拶として、自分が最も得意とし、これまで授業や講演で何度も取り上げてきたテーマについて話ました。
 三年生には、「例の」言わざるを得ないくらいこれまで繰り返し話してきたし、このブロクでも連載記事にしたことがある、〈なつかし〉-〈nostalgie〉-〈Sehnsucht〉の比較意味論的考察について話しました。入念に仕上げられたパワーポイントがすでにありますから、それを適当に端折って使えばよいので準備も簡単です。内容は完全に頭の中に入っているのでノートも必要ありません、今日も最初から最後まで文章が自発的に形成・出力されるにまかせればよく、学生たちも最後まで集中力を切らすことなく聴いてくれました。
 一年生の方は、まだ入学したてですから、いきなり難しい話をしても面食らうだろうと思い、『かぐや姫の物語』を題材にして、そこに高畑勲がいう「積極的無常観」がどのように表現されているか、それと近い考えを村上春樹が2011年6月にカタルーニャ国際賞受賞の際のスピーチで語っていることにも触れながら、二人が「日本人に昔からある感受性」として何を強調しているかという話をしました。この話もいわば十八番の一つで、ほぼなんの準備も要りません。ただ、こちらの授業は一時間なので、映画の重要なシーンそれぞれについては詳しく話すことはできませんでした。ところが、授業後に一人の女子学生が近づいてきて、「小さい頃、この映画を観たとき、ラストがとても悲しくて、観た後20分間泣き続けたんですけど、今日の先生の話を聴いて、まったく違う観方ができることがわかってとてもよかったです」と嬉しそうに感想を話してくれました。
 かくてまずは順調に新学年度の第一歩を踏み出すことができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「サービス満点」の集中講義終了

2024-08-04 17:00:47 | 講義の余白から

 7月29日月曜日から7日にわたったオンライン集中講義が今日日曜日で終わった。大学の正式な学年暦では日曜日に授業を行うことはできないのだが、教務課にあらかじめ例外措置として許可を取り、履修登録学生たちの同意も得ていたので、滞りなく全日程を終えることができた。
 オンラインに終始したことはやはり残念ではあるが、連日の酷暑のなかをキャンパスまで通うのは学生たちにとってもかなりの苦痛であったろうし、当初5日間(一日3コマ=4時間半)の予定が7日間に延長され、毎日9時から始めて正午過ぎには終えたのも、学生たちへの過重な負担を避け、集中力を維持するためにはよりよいコンディションだったのではないかと思う。
 内容は昨年からすでに何度か他の場所と機会に取り上げてきたことがテーマであるし、自分の書いた二つの論文がテキストだったから、準備にさほど時間をかけることなしに授業に臨むことができた。
 この演習の指導方法として初回の2011年からずっと続けている毎日の授業後に提出させるミニ・レポート(400~600字)は今回もとてもよく機能した。しっかりとテキストを読みこみ、授業中の私の説明もよく理解したうえでの学生たちのコメントには、こちらが教えられるところも多く、私にとってもほんとうに勉強になった。
 受講者が二人だけだったからできた「贅沢」だったとはいえ、二人が前夜に提出したミニ・レポートについて毎回それぞれ30分くらい質疑応答する時間を取ることができたのは彼らにとっても有意義だったと思う。授業中に彼らが期待以上に積極的に発言してくれたのもありがたかった。これもオンラインだったからかも知れない。
 あとは12日締め切りの最終レポートの提出を待つばかりである。そのレポートについても、どんなテーマで書くか、最後の二回の授業内で相談する時間を設けたので、すでに二人ともある程度は指針が定まっている。
 こうやって振り返ってみると、我ながらなかなかに「サービス」の行き届いた集中講義ではなかったかと、度し難い自己満足に浸りながら今酒杯を傾けているところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人の死生観についての学生たちの発表を聴く(下)

2023-12-23 14:55:38 | 講義の余白から

 今週水曜日の「日本の文明と文化」の最後の授業では、二組のトリオと四組のデュオの発表を聴いた。タイトルはそれぞれ、「日本のポップと死生観」「『君の膵臓をたべたい』と死生観」「映画『おくりびと』の死生観」「喪の作業」「死生の儀式」「心中」であった。
 「日本のポップと死生観」のトリオは、神聖かまってちゃんの「Ruru’s Suicide Show」、米津玄師の「Lemon」、Aqua Timez の「ALONES」というそれぞれ別々の歌を取り上げ、歌詞から死生観を読み取るという発表。アイデアは良かったが、もう少し歌詞そのものに即した分析をしてほしかった。
 「『君の膵臓をたべたい』と死生観」のデュオは、劇場アニメ版のなかのセリフから桜良の死生観を取り出し、春樹が桜良との交際とその死を経験して死生観が変化していくことに焦点を合わせた発表。言いたいことはわかるのだけれど、日本語発表能力がそれに伴っていない。
 「映画『おくりびと』の死生観」は、成績が最優秀の二人の女子学生による発表で、内容も優れており、日本語もしっかりしているのだが、この二人に共通する欠点は、発表でも小論文でも、論点を絞りきれず、冗長に流れやすいこと。
 「喪の作業」のデュオの発表は、日本人の死生観という課題テーマから離れてしまっているという大きな欠点があるものの、発表テーマについてよく調べた発表であった点は評価できる。キューブラー・ロスの On Death and Dying(邦訳『死の瞬間―死にゆく人々との対話』)、ジョン・ボウルビィの Attachment and Loss(邦訳『母子関係の理論』全三巻)の要点を紹介した後、「予期悲嘆」にも言及していた。
 「死生の儀式」のトリオは、日本の死生の儀式についてよく調べてきた点は評価するけれども、自分たち自身の考察に乏しく、内容的には高く評価できない。
 「心中」のデュオも、調べたことを並べただけ。二人の日本語能力からして仕方のない面もあるのだが、テーマを自分たちで選んだという以外は、いわゆる「主体性」のまったくない発表。
 全体として、先週の第一回目の発表のほうが概して出来がよかった。
 まあ、それはさておき、学生諸君、これで前期の課題はすべて終わりだね。お疲れ様でした。よい年をお迎えください。