文学や哲学に限った話ではありませんが、私たちが今読んでいるテキストの著者たちが録音装置開発以前の時代の人たちである場合、その肉声を聞くことはもはやできません。骨相や遺伝情報から科学的にその人たちの声を人工的に「再現」してみたところで、それはその人たちの本当の肉声ではありません。
その肉声が再現不可能であるからといって、「過去」の人たちによって書かれたテキストの理解を不可能にするわけではもちろんありません。もしそうだったら、古典研究は成立し得ません。
同時代の書き手であっても、その肉声を聞いたことがないままに著作だけを読むことは珍しくありません。今日のように通信技術が高度に発達した時代であっても、書き手の声を聞いたことがないままにその人の文章を読むということはよくあることです。
でも、こんな経験をしたことはないでしょうか。書き手に会ったことも声を聞いたこともないのに、読んだ文章からその書き手の声をいつのまにか想像していて、いざ本人に実際に会ってその声を聞いたり、動画等でその人の肉声を聞いたりすると、意外の感に打たれるということが。その意外性によって、それまで自分がもっていたその人の作品に対する印象やその人自身に対する印象が変わるということが。
もう二十年以上前のことです。娘が小学校低学年の頃でした。毎日のように詩の暗唱が宿題と課されていました。で、親子でどっちが先に完璧に暗唱できるか、競い合ったことがありました(楽しかったなぁ。覚える速さでは、ほぼいつも私の勝ち。発音に関しては、言わずもがな、娘の圧勝。「パパのフランス語聞かされる学生たちは可哀想だよね」だってさ)。
宿題ではなかったのですが、アポリネールの「ミラボー橋」をどっちが先に覚えられるか競争したことがありました。どっちが勝ったか覚えていません。そんなことより、おもしろかったのは、アポリネールが自作朗読した音源をネットで見つけて、それを二人して聴いたときのことです。 « Sous le pont Mirabeau coule la Seine / Et nos amours » の最後の « amours » をなんかやたらに引き伸ばして読むのです。それを二人で真似しては笑い転げました(アポリネールさん、許してね)。
現に生きている書き手であれば、読み手が勝手に想像していたその書き手の声がその人の肉声と現に一致しているかどうか確かめることができます。でも、その声が録音されていない古典の著作家たちの声に関してはもはや確かめようがありません。これは今更どうしようもないことですし、思想の理解にとってはどうでもいいことなのかも知れません。
でも、私にはそうは思えないのです。「謦咳に接する」、「耳朶に響く」などの表現があるように、人の声に直に触れるということは、テキストのみに基づいた知的理解とは異なった「何か」をもたらすと思うのです。今となっては詮無きことと知りつつ、そう夢想するのです。
ソクラテスはソフィストたちとどんな声で議論したのだろう。プラトンはアカデメイアでどんな声で弟子たちと語り合ったのだろう。アリストテレスの講義は聞き取りやすかったのかな。アウグスティヌスは論争するときどんな口調だったのだろう。アベラールはどんな声でエロイーズの耳元に口説き文句を囁いたのだろう。悪筆名高きトマス・アクィナスはどんな声で口述筆記させたのか。エックハルトはストラスブールでベギンの女性たちを前にどんな調子で説教したのだろう。オッカムの鋭利な論調、聴いてみたかったな。モンテーニュの独り言、こっそり隣室で聴きたかった。デカルトはどんな声で議論したのだろうか。パスカルはどんな声で熱を帯びた告白をしたのだろう。スピノザの何気ない日常会話、ライプニッツの堂々たる演説、カントの散歩中の挨拶、ヘーゲルの超満員の大教室での講義、その同時間の閑散としたショーペンハウアーの講義、ニーチェの陽気な長広舌などなど、数え上げればきりがありませんが、それぞれどんな声だったのでしょうね。