内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「夢の中にも夢を見るかな」、詠嘆を認識に転じる一語 ― 日本文学史に現われたる哲学的エレメント

2018-02-28 21:12:25 | 哲学

 学部最終学年後期必修の近世文学史を担当して今年で四年目になる。すでに今年の1月18日の記事で触れたことだが、来年度からの新カリキュラム導入とともにこの講義はなくなる。来週は、俳諧についての三回目の講義になる。俳諧についてはこれが最終回。本心を言えば、後期はすべて俳諧の話だけにしたいくらいこの主題については言いたいこと、いや言うべきことがある。しかし、それではあまりにも偏っているとの誹りを免れないだろう。
 来週の授業では、芭蕉の紀行文と俳諧論の話をする。その準備として、廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー、1993年)を電子書籍版で購入して、久方ぶりに読み直した。その思想的探索の測深度の深さにあらためて感銘を受ける。
 「あとがきにかえて」の次の一節には、そこからまた一つの新たな哲学的研究を始めることを可能にするだけの深い洞察が示されている。

 長明もまた、すき心と仏道を調和させることで、乱れる心をしずめようとした。しかしそれは、完結した時空を仮構するためであった。西行のそれは、未完の時空に逍い出るためのものであった。「常」なるものは、どこにもなかった。そこから始まるほかなかった。

夢の世にまた旅寝して草枕夢の中にも夢を見るかな   慈円

 この「かな」は詠嘆を認識に転じた「かな」であろうか。

 芭蕉の紀行文は、「独自な詠嘆的文章」と評されることが教科書的にはまま見られる。しかし、詠嘆を認識へと転じる表現装置こそが芭蕉の文章に不朽の価値を与えていると言うべきなのだろう。













無数の思考の断片が万華鏡のごとく映り煌めき自ずと結び合う場所としての無色透明な虚空という純粋経験

2018-02-27 21:07:40 | 哲学

 今日の記事はただ一言。
 いつものように記事を書いている時間がないからではない。星雲のごとくに渦巻いていた無定形な思考の断片が惑星群として今まさに徐々に一つの系を形成しつつあるこの瞬間を取り逃がすわけにはいかないから、今その瞬間に注意を集中させたいから。
 眩いばかりに色とりどりの無数の思考の破片が万華鏡のごとくそこに映り煌めき自ずと結び合う場所としての無色透明な虚空という純粋経験。













「幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」― 三木清『人生論ノート』より

2018-02-26 16:26:08 | 哲学

 三木清『人生論ノート』の「幸福について」というエッセイを修士一年の演習で読んでいることは先日の記事で話題にした。新潮文庫版でわずか8頁の文章だが、西洋哲学史上の古典的な著作家とその言葉への言及が数カ所に見られる。
 いずれの場合も三木自身の理解と見識に基づいた言及あるいは引用であり、引用された文言が原典の文脈の中でもっている意味に必ずしも忠実であるとはかぎらない。それだけに注意深い読解が求められる。
 パスカルの『パンセ』からの引用については、先日の記事ですでに見た。アウグスティヌスは、名前のみ言及され、特定の著作からの引用はない。
 エッセイの終わりの方にゲーテからの引用がある。

 人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。(21頁)

 これはゲーテ晩年の詩集『西東詩集』(1819年)の中の「ズライカの巻」から引用である。大山定一訳を引く。

庶民も奴隷も支配者も/みんなが口をそろえていいます/地上の子の最大の幸福は/人格のみである と/自分自身を失わなければ/どんな生活も苦しくはない/自分が自分自身でさえあれば/何を失っても惜しくはない と。(『NHK100分 de 名著 三木清『人生論ノート』』より)

 上掲の「幸福について」からの引用部分だけを読むと、三木は、人格をそれになるところのものと捉えているように読めてしまう。引用箇所の次の段落でも、「人格というものが形成されるものである」とも言っている。
 ところが、この解釈では、上掲のゲーテの詩の内容とずれてしまう。なぜなら、この詩では、人格とは、何を失っても失われることのない、自分自身がそれであるところのものにほかならないからである。この意味では、人格は、「なる」ものではなく、つねにそれで「ある」ところのもののはずである。
 三木は誤解しているのであろうか。そうではない。それは、エッセイの最後から二番目の段落を読むとわかる。

 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。(21頁)

 この定義に従うならば、幸福とは、すべての「持ち物」が失われても己がそれであるところのものを自覚するところにある、と言うことができるだろう。












虚空は何色か ― シベリア寒気団襲来中の青空を見上げながらのきれぎれの思念

2018-02-25 15:48:25 | 哲学

 先週からシベリア寒気団が襲来していて、身を切るような冷たい風が街に吹き荒れている。今日の最低気温は零下7度、最高気温は零度。ただ気温が低いだけなら、この程度の寒さはそれほど身にこたえないのだが、自転車で走っていると押し戻されそうなほどの逆風の寒気に晒され続けると、やはりちょっとつらい。
 よくわからないことがある。なぜ大学への行きも帰りも逆風なのか。シベリアからの寒気団なら北東風のはずではないか。自宅がある市の北東部から大学へ南下するときは追い風であってしかるべきなのに、いつも逆風なのである。これって、俺の人生そのものじゃん、などと口辺に皮肉な笑みを浮かべつつ独り言ち、ヤケクソにペダルを踏み込む。生まれてこのかた、順風満帆なんて、学校で四字熟語として学習したことがあるだけで、実人生ではついぞ経験したことがない。まあ、もう諦めてるからいいけど(浮き世はけっきょく憂き世だよね、サイカクさん)。
 今朝は、零下の寒風吹きすさぶなかの屋外水泳であった。さすがの常連たちもきょうはいつもの半数くらい(あっ、昨日から冬のヴァカンスが始まったってこともあるか)。しかし、水の中に入れば、水温は28度から30度あるので、少しも寒くないのである(嘘だと思うなら、お試しあれ)。寒風に吹き洗われ雲一つない青空を見上げながら、背泳ぎでガンガン泳いだ。泳後の爽快感は、その日一日をポジティブに生きてみようかという気にさせるに充分である。
 さて、唐突であるが、今朝から一つの問いに取り憑かれている。来月27日にする講演の内容と関連してのことである。
 虚空とは何色であろうか。夕日に染まった虚空とか、雲に覆われた虚空とか、雨降る虚空とかって、あまり想像しないと思う。そもそも虚空は何色かという問いの立て方が間違っているのか。いや、やっぱり、虚空は、雲一つない青空のことではないのか。
 しかし、そうだとしても、虚空の青は他の色と区別あるいは対立する一つの色として見えている青ではないと思う。それはどこまでも透明な眼に見えない青(ここで昔懐かしい村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を思い出された方もあるかもしれないが、それとは何のカンケイもありません。そもそも読んだことないし)という、矛盾した表現を要請する何かのような気がする。
 虚空は、実体ではないが、幻影でもない。抽象概念でもない。視覚対象でもない。それ自体はどこにもないが、現れるすべてのことを包み超える永遠に黙せる無窮の動性とでも言えばよいであろうか。
 Gaston Bachelard, L’Air et les Songes. Essais sur l’imagination du mouvement (1943) (邦訳『空と夢―運動の想像力にかんする試論』法政大学出版局、「叢書・ウニベルシタス」、1968年)を読み直しながら、少し考えてみよう。












引用の連鎖 ― 三木清・パスカル・モンテーニュ

2018-02-24 23:32:34 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた三木清『人生論ノート』の中のパスカル『パンセ』から引用箇所を特定しようとしていたとき、以下のようなごく短い断章に行き当たった。

Contradiction, mépris de notre être, mourir pour rien, haine de notre être. (Br. 157, Laf. 123, Sellier 156, LB. 114)

矛盾。われわれの存在を軽んずること、つまらぬもののために死ぬこと、われわれの存在に対する嫌悪。(前田・由木訳)

 セリエ版のこの断章の脚注には、モンテーニュ『エセー』第二巻第三章「ケオス島の習慣」から、ルクレティウス『事物の本姓について』からの引用を除いた、以下のような長い引用がある。宮下志朗訳のみ引く。

 また、われわれの生を軽蔑するという考え方も、ばかげたものというしかない。というのも、なんといったって、それこそが、われわれの存在なのであって、われわれの全体なのであるから。われわれよりも、もっと気高く、豊かなものを有する存在ならば、人間存在を責めることもできようが、われわれが自分を軽蔑して、投げやりな態度をとるのは、自然に反したことというしかない。自分を憎み、軽蔑するのは、人間特有の病気であって、他のいかなる被造物にも見られないのである。
 われわれが、現在の自分とは別の存在でありたいと望むのも、これ同様の無意味な考えである。それは自己矛盾する願望であるから、その結果は、われわれにはなんの関わりももたない。人間から天使になりたいと望む人は、自分のためになにもしたことにはならないのだし、そのことでなにか得したかといえば、全然そんなことはない。なぜならば、そもそも自分がいなくなってしまったら、はたしてだれが、この進歩向上を感じて、それを喜んでくれるというか。
[…]
 死という代償を支払って、安心や、苦痛や苦しみの不在、現世における不幸からの脱却を買い取っても、われわれになんの幸福ももたらしはしない。戦争を避けても、平和を享受できなければ詮なきことだし、苦痛から逃れても、安らぎを味わえないのなら、これまた詮なきことというしかない。












「ひとは唯ひとり死ぬるであらう」― 己の最期を予言するかのごときパスカル『パンセ』からの引用

2018-02-23 20:42:26 | 哲学

 三木清『人生論ノート』の第二エッセイ「幸福について」の中にパスカルからの引用がある。三木は、「「ひとは唯ひとり死ぬるであらう」、とパスカルはいつた。」と記しているだけで、『パンセ』のどこからか出典を示していない。しかし、次の断章(ブランシュヴィック版211、ラフマ版151、セリエ版184、ル・ゲルン版141)からの引用であろう。

 Nous sommes plaisants de nous reposer dans la société de nos semblables, misérables comme nous, impuissants comme nous. Ils ne nous aideront pas. On mourra seul.
 Il faut donc faire comme si on était seul. Et alors bâtirait-on des maisons superbes, etc. On chercherait la vérité sans hésiter. Et si on le refuse, on témoigne estimer plus l’estime des hommes que la recherche de la vérité.

 われわれが、われわれと同じ仲間といっしょにいることで安んじているのは、おかしなことである。彼らは、われわれと同じに惨めであり、われわれと同じに無力なのである。彼らはわれわれを助けてはくれないだろう。人はひとりで死ぬのである。
 したがって、人はひとりであるかのようにしてやっていかなければならないのである。それだったら、りっぱな家を建てたりなどするだろうか。ためらわずに真理を求めることだろう。そして、もしそれを拒むとしたら、真理の探究よりも、人々の評判のほうを重んじていることを示している。

前田陽一・由木康訳『パンセ』中公文庫、1973年

 この断章の注解は別の機会に譲ろう。
 今日はただ、「ひとは唯ひとり死ぬるであらう」と1938年にパスカルを引用した三木が、七年後の1945年3月、治安維持法の容疑者を仮釈放中にかくまい、保護逃亡させた嫌疑で警視庁に検挙され、敗戦後も一月以上に渡って官憲によって非人間的な環境の牢獄に不当にも閉じ込められたまま、病苦の果てに、誰一人看取るものもなく、監獄の粗末なベッドから転げ落ちて息絶えたことを思い起こし、そのあまりにも孤独な非業の死に一輪の花を手向けたいと思う。












〈主体〉再考(3)― ちょっと寄り道、三木清『人生論ノート』について

2018-02-22 17:43:06 | 哲学

 木曜日は、修士一年の演習の日である。二つの演習が連続してあり、計3時間。最初の1時間は、日本語のライティング実習。10名の学生にそれぞれ自分のプロジェクトを書かせている。プロジェクトの内容は、研究計画でもいいし、将来計画でもいいし、起業計画でもいい。自分を未来に向かって投企する内容であればなんでもいい。全員があらかじめ提出したテキストを教室で直していく。こうすることで、当の書き手以外にも役に立つ指摘を全員で共有することができるからである。
 残りの2時間は「近現代思想」である。今年は、三木清の『人生論ノート』を読解テキストとして選んだ。23のエッセイからなるこの小著は、1941年の初版以来、今日まで読み継がれている。新潮文庫版は、2016年現在で、第108刷に達している。昨年4月には、NHKの「100分 de 名著」でも取り上げられた。
 先週から「幸福について」と題されたエッセイを読んでいる。読む速度は遅く、一回の演習で2頁くらいしか進めない。しかし、それは内容的に文章の密度が高く、学生たちに一文一文読ませた後の私の注解に時間がかかるからである。学生たちもテキストの内容に惹きつけられているのがわかる。
 今日は、このエッセイに出てくる構想力という概念について詳しく説明した。この概念は、未完に終わった三木の最後の哲学的著作である『構想力の論理』の根本概念であり、このエッセイを読んだだけではなんのことかよくわからないからである。
 今日もう一ヶ所少し立ち入って注解を加えた箇所は、「主体的」という言葉が三回出てくる段落である。「主体」という語を « Subjekt » の訳語として、マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」の翻訳(1930年)に用いたのは、他ならぬ三木であり、これが日本で出版された哲学書における「主体」の最初の用例とされる(小林敏明『〈主体〉のゆくえ』参照)。その後、「主体」という語は、京都学派共通の鍵語として濫用されるようになったばかりでなく、その圏域をはるかに超えて、一つの流行語になっていく。
 それから八年後に書かれたこのエッセイの中では、しかし、三木が苦々しい思いでこの流行を見ていたことがわかる。

 幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに従って多くの倫理的空語を生じた。例えば、倫理的ということと主体的ということとが一緒に語られるのは正しい。けれども主体的ということも今日では幸福の要求から抽象されることによって一つの倫理的空語となっている。そこでまた現代の倫理学から抹殺されようとしているのは動機論であり、主体的という語の流行と共に倫理学はかえって客観論に陥るに至った。(新潮文庫版、17頁)

 今日でも、哲学的関心のあるなしにかかわらず、日本人は「主体」という語がかなりお好きなようである。その嗜好の背後に隠された日本人の精神病理についは2017年12月18日の記事で話題にしたことがあるので、参照いただければ幸いである。













〈主体〉再考(2)― 「主体的」と「主観的」とは互いに反意語である

2018-02-21 04:38:49 | 哲学

  『生物の世界』の中で今西の生命観がよく表れている「一 相似と相異」の一節を読んでみよう。

われわれは、われわれがわれわれに認めるような生命を無生物にも認めようとは思わない。しかし無生物には無生物の、無生物らしい生命というものがあったって、一向差支えはないのである。それを何でも擬人化して考えないでは気がすまなかったところに、無生物の生物化が主観的な、非科学的な態度として排斥される理由があったのと同じように、われわれの本来の認識、われわれの本来の主体的反応に背いて、動物をさえ擬物化し、動物をさえ一種の自動機械と見なそうという、生物の無生物化は、これもまた主観的な、非科学的な態度であるとの、譏りを受けねばならないであろう。(『生物の世界 ほか』中公クラッシクス、20頁)

 無生物をなんでも擬人化して考えるという意味での「無生物の生物化」も、動物までも自動機械の一種と見なそうとする「生物の無生物化」も、主観的で、非科学的であるという点では同じだと批判している。
 この一節で用いられている「主体的反応」という表現は、この一節以前にも繰り返し用いられている。どういう意味においてか。主体的反応とは、生物個体が環境を構成するいろいろな要素に対して、それらとの類縁関係に応じて引き起こす反応であるという意味においてである。主体的反応とは、個体がそれに属するところの種に共通に見られる反応であり、その反応の担い手が主体である(先取りして言うと、今西自然学において、いかなる種にも属さない単独の個としての主体は、定義上ありえない)。この主体は、一方的に環境に作用を及ぼすのではなく、類縁関係の親疎に応じて、環境から働きかけられ、それに適応しつつ、環境へと働きかける。「環境の主体化はすなわち主体の環境化」(132頁)だと言われる所以である。
 他方、「主観的」であるとは、人間が、その環境認識において、相互連関的な作用を一切認めず、一方向的な作用しか認めない態度を取ることを意味している。つまり、この文脈では、「主観的」は「主体的」のまさに反意語なのである。
 ところが、この一節の中の、「それを何でも擬人化して考えないでは気がすまなかったところに」から「これもまた主観的な、非科学的な態度であるとの、譏りを受けねばならないであろう」までのの一文の仏訳においては、「主体的」も「主観的」も « subjectif » あるいはそれから派生した副詞 « subjectivement » と訳されている。

On peut reprocher au point de vue anthropomorphique d’être un point de vue subjectif et non scientifique ; mais on peut faire le même reproche à l’idée selon laquelle les animaux ne seraient que de la matière ou des automates : car nous réagissons subjectivement à eux en tant qu’êtres vivants.

Le monde des êtres vivantsop. cit., p. 52

 日本語原文の一文は、かなり長く、しかも構文的にもいささか複雑であるから、それを二文に分けて訳したのは、むしろ賢明な選択だと言っていいだろう。原文での同一表現の繰り返しをそのまま直訳することは、フランス語では躊躇われるのもわかる。しかし、仏訳の最後の一文で « subjectivement » を用いたことは、致命的である、と言わざるをえない。なぜなら、上に述べたように、「主観的」と「主体的」とはこの文脈で互いに反意語だからである。
 それ自体は環境世界に帰属せず、それに対して超越的な認識主観と、環境世界のネットワークの中の一要素として環境から働きかけられ、それに適応し、働き返す生物主体とは、認識論的にも存在論的にも相容れない。にもかかわらず、「主観」と「主体」とを同じ « sujet » あるいはその派生語を用いて訳してしまうと、どうしても上掲の訳のような矛盾した論述になっていまう。
 問題は、しかし、単なる訳語の選択の適否にあるのではないことは言うまでもなかろう。フランス語では ― そして他の欧米言語も同じことだが ―、« sujet » という一語が、「主観」と「主体」との認識論的・存在論的差異を隠蔽してしまっていることこそが問題なのである。

 












〈主体〉再考(1) ― 今西・ユクスキュル・ギブソンを手掛かりに

2018-02-20 13:16:26 | 哲学

 主体概念について、今西錦司『生物の世界』、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』、J・J ・ギブソン『生態学的視覚論』の三書を手掛かりに、今日から時間をかけて考察してゆく。
 これは6月30日のイナルコでの発表の準備作業の一環としてである。その発表は、すでに1月25日の記事で取り上げたように、シモンドンの個体化の哲学が開く視角から西田における主体概念と田辺における個体概念とを読み直すのが主たる目的だが、その考察を現代思想のより広い文脈の中に位置づけるために、上掲三著に見られる生命観・生物学的世界観・生態学的世界観における主体概念を、粗略な仕方にとどまるとしても、ひととおり検討していおきたい。
 一昨年のシモンドン論のときような毎日連続の長期連載という形は取らない。そこまでの準備はできていない。他の話題を取り上げる記事の合間に、間歇的に、研究ノートの一部を公開するようなつもりで投稿していこうと思っている。

 今日から何回かは、今西錦司『生物の世界』の仏訳を手掛かりとして、今西自然学における〈主体〉概念の特異性を瞥見する。
 今西錦司の古典的名著『生物の世界』の初版が弘文堂から出版されたのは1941年である。戦後も全集版や文庫版などで繰り返し出版されている。現在では、中公クラッシクス版(2002年)がもっとも入手しやすいだろう。1972年初版発行の講談社文庫版は、2011年に電子書籍化されている(用語検索にはこの電子版が威力を発揮してくれる)。他の版としては、燈影舎『京都哲学撰書 第19巻 今西錦司 行為的直観の生態学』の中に、「序」以外は全文収録されている。この燈影舎版には、生命科学者の中村桂子による、いささか冷めた、しかし示唆に富んだ解説が巻末に付されていて、同撰書の中で異彩を放っている。
 『生物の世界』の仏訳 Le monde des êtres vivants. Une théorie écologique de l’évolution, Éditions Wildproject, coll. « domaine sauvage » が出版されたのは、初版出版からちょうど70年後の2011年のことである。 かなり問題の多い訳であると言わざるをえない。この仏訳だけを読むと、今西の自然観を誤解してしまうどころか、まったく逆さまの意味に取り違いかねない。
 『生物の世界』には、「主体」「主体的」「主体性」「主体化」など、「主体」及びそれを含む表現が百箇所以上で使用されている。この主体概念をどう理解するかが同書の理解にとって鍵になる。ところが、もともとは « sujet »(subject, Subjekt)の翻訳語だった「主体」が今西において意味するところは、もはやその原語の意味を超え出てしまっている(この日本に固有な〈主体〉概念の生成と展開、及びそれが孕む諸問題は、今西だけのことではなく、京都学派だけの話でもない。この点については、小林敏明『〈主体〉のゆくえ―日本近代思想史への一視角』講談社選書メチエ、2010年を参照されたし)。
 案の定、仏訳者は、「主体」およびそれを含む合成語を必ずしも sujet, subjectif, subjectivité などを用いて訳していない。例えば、「環境の主体化」(「四 社会について」、中公クラッシクス版、132頁)は、« autonomie sur l’environnement »(op. cit., p. 127)となっている。訳者が今西における主体概念を理解できていないことの証左の一つである。それどころか、これらの語が出てくる箇所を、おそらく故意に、訳し落としている場合も少なからず見られる。
 しかし、誤訳や訳の不備の指摘がここでの目的ではないことは言うまでもなかろう。この〈主体〉の « sujet » からの乖離と、それが引き起こさざるをえないパラダイム・シフトこそが私たちの問題である。











忘却への意志 ― 再び「忘却のエチカ」について

2018-02-19 00:00:00 | 哲学

 私たちは忘れることを意志することができるだろうか。
 コンピュータのデータを消去するようには自分の意志で自分の記憶を抹消できないことは言うまでもない。
 例えば、テレビドラマや映画によくある設定ではあるが、その人の過去を知らずに付き合いはじめた後に、その人が過去に殺人を犯していたことを知ったとする。それを知ってしまった後に、あたかも何も知らなかったかのように以前と変わらずにその人と付き合うことは私たちにはまずできない。表面上、その人に気づかれないように、以前と変わらず振る舞おうと意志することができる場合もあるかもしれないが、知ってしまった過去の事実の記憶を完全に消去することはほぼ不可能と言っていいだろう。
 個人のレベルでは、人工的に脳にある処置を施すことでその記憶だけを消去することは脳神経学的にはすでに可能なのかもしれない。薬物投与によってその記憶を完全に抑圧してしまうことも不可能ではなくなるかもしれない(あるいは、すでに可能なのかもしれない)。もちろん、そのような医学的措置が法的に認可されるとはとても思えないが。
 ただ、本人自身が、なんらかの理由で、ある記憶の消去を願望あるいは意志するということはありうる。そして、そのために上記のような措置を自ら望むということはありえないことではない。しかし、そのような場合でも、忘却そのものを本人が意志的に実行したのではないことには変わりがない。
 ところが、個人のレベルではなく、ある集団の複数の世代間については、話が変わる。
 ある世代が、もうこの記憶は次世代には受け継がせないほうがいいと判断し、あらゆる記録を自分たちの世代で抹消することによって、その集団が自らの歴史の中のある出来事を「忘れる」ことを決断するということはまったくありえない話ではないだろう。もちろん、実際には、このような仕方で完全に過去の出来事を集合的に忘却することはきわめて困難だとは思うが。
 先週月曜日のセミナーで、忘却の倫理という問題を私は提起した。そのときは時間の都合で一言言及しただけで終わってしまった。だから、この問題をそれこそ忘却しないために、ここにその記録を残しておく。
 この問題については、2015年8月16日の記事「忘却のエチカ、失われた理想を求めて」ですでに一度取り上げ、若干の考察を述べたことがある。ご参照いただければ幸いである。