内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

集中講義第一日、つまらない質問というものは存在しない ― 夏休み日記(15)

2017-07-31 23:50:16 | 講義の余白から

 昨日までの比較的凌ぎやすい天気から一転して、今日は暑い日でしたね。でも、マンションの玄関から大学の正面玄関まで徒歩三分(白山通りのなが~い信号待ちを含む)ですから、ほとんど暑さの影響は受けませんでした。
 それに、今日の集中講義の後、講義中にパワーポイントを映すために使ったテレビ受像機のリモコンをしまうラックの鍵を、迂闊にもラックの扉に差したまま帰宅してしまい、帰宅してからそのことに気づいたのですが、すぐに大学に取って返して、鍵を締め、講師控室に鍵を返し、またマンションに戻るのに15分ほどで済みました。これがもし昨年までのように地下鉄を乗り継いで片道50分もかかるような通勤路だったら、とても取って返す気になどならず、控室に詫びの電話を入れ、誰かに鍵を取りに行ってもらわなければならなかったところでしょう。
 こんなときは仕事場が近いとほんとうに助かりますね(いつもそうだと言いたいのではありませんよ)。
 さて、肝心の集中講義「現代哲学特殊演習②」そのものですが、今日はいわば今回の演習全体のキーノートであるシモンドンの技術の哲学について主に話しました。私が昨年日本語で発表したシモンドンについての論文をあらかじめ学生たちに読んでおいてもらい、その論文について学生からの質問を受けながら解説していったのですが、学生たちから次々といい質問が出て、かなり望んでいた通りのイターラクティヴな演習にすることができました。
 毎年、講義のはじめに、「つまらない質問というものは存在しない。なぜならどんな質問からでも議論を展開させることはできるからだ。だから、何も怖れずに、ふと疑問に思ったことがあったら、すぐに、遠慮せずに、私の話を遮ってでもいいから、質問してほしい」と言うのですが、今年の学生たち(今日の出席者は5名)は、いい意味でそれを素直に額面通りに受け取ってくれて、実に気持ちのいいやりとりができました。そのことをとても嬉しく思っています。












小石川界隈散歩中に見つけた石川啄木終焉の地 ― 夏休み日記(14)

2017-07-30 22:49:42 | 雑感

 昨晩は、ブログの記事を投稿した後に、結果として、すぐには寝付けず、テレビを点けたら、ちょうど世界水泳選手権の生中継をやっていたので、それを午前二時まで観てしまいました。

 今朝の起床は午前10時。普段のフランスでの生活では、たとえ日曜日でもまずありえない遅い起床でした。カーテンを開けると、細雨が降っているのか、目の前の通りを傘を差した親子連れが何組か通り過ぎていきました。窓を開けると、その会話が静かに湿った空気の中にやわらく響いてきました。

 夜更かしと遅い起床にいささかの罪悪感を覚えながら、午前中は、明日の集中講義初日の詳細プランをPCに入力し、言及するシモンドンのテキストの箇所を再読しました。昼過ぎ、雨はもう上がっており、空を見上げると、ところどころ雲が薄くなったところにうっすらと青空も透けて見えています。マンション付近を散歩することにしました。カメラをバックに入れ、用心のために昨日借りたビニール傘を手に外に出ました。
 ちょっとの散歩ですし、この界隈をよく知るわけでもなく、まずは近くの小石川植物園を目指しました。

 しかし、ゆっくり園内を見るほど時間に余裕があるわけではなかったので、正門前を通り過ぎ、播磨坂の方に歩いていきました。播磨坂桜並木の交差点の直ぐ脇にあった付近の地図を見ると、そこからすぐのところに石川啄木終焉の地の碑があることがわかり、そこに行ってみることにしました。

 その碑には、啄木直筆の原稿をそのまま写真版にした啄木最後の短歌二首が嵌め込まれていました。

 この碑の隣には、医療法人社団の建物の一角に10m²ほどの小さな石川啄木顕彰室があり、開放時間中は誰でも自由に見学できるようになっています。

 私が訪れたときは、他に誰もおらず、室内をゆっくり見ることができました。歌碑の二首も室内の壁に転写された三首もすべて『悲しき玩具』に収録されています。
 この思いがけずも見つけることができた啄木の終焉の地を訪れた記念に今日撮った写真を幾葉かアップしておきます。

   

 

 

 

 

 

 

 


無事滞在先到着 ― 夏休み日記(13)

2017-07-29 23:14:35 | 雑感

 昨日搭乗したエールフランス便は、本日日本時間で午前11時40分に無事羽田空港に着陸いたしました。到着予定時刻より30分近く早く着いたのですが、荷物が出てくるのは遅くて、40分以上待たされました。
 空港からは、京急と都営三田線を乗り継いで、帰国中最初の一週間の滞在先であるウィークリーマンションに直行しました。その所在地は集中講義をする大学のキャンパスの直ぐ近くで、大学まで徒歩5分です。借りた部屋はいわゆるワンルームマンションですが、建物の作りは見たところしっかりしており、大通りから一本入った住宅街でまわりは静か。三田線白山駅から徒歩7,8分で、買い物にも不自由しない便利さ、それに小石川植物園まで直線距離にして300メートルもありません。ウィークリーマンションを借りるのはこれが初めてなのですが、予想以上に快適に過ごせそうな内外の住環境です。
 午後2時過ぎにマンションに着き、荷物を整理した後、妹夫婦の家に預かってもらってある書類等を取りに行き、夕飯もご馳走になって、御酒ももちろんいただき、歓談後、かなり強まった雨脚の中、借りた傘を差して三軒茶屋駅まで歩き、そこから半蔵門線に乗り、神保町で三田線に乗り換え、さきほど9時半過ぎに気分良くマンションに戻りました。
 浴室はいわゆるユニットバスで、浴槽は膝を抱えて入れるほどの大きさです。それでも、帰りがけに白山駅脇のドラッグストア(午後10時まで営業と聞いて驚きました)で買った入浴剤をたっぷり入れて、ゆっくりお湯に浸かり、長旅の疲れも取れました。
 明日は、翌月曜日から五日間の集中講義の最終準備に一日充てるつもりですが、朝夕、ちょっと近所を散歩してみようと思っています。明日の記事にはそのときに撮った写真をアップするつもりです。
 それではおやすみなさい。










シャルル・ド・ゴール空港で搭乗便を待ちながら ― 夏休み日記(12)

2017-07-28 14:49:34 | 雑感

 今朝9時55分ストラスブール発のシャルル・ド・ゴール空港直行TGVに乗り、定刻通り正午一分すぎに空港に着きました。
 搭乗券は昨日すでにネット上で手続きしてスマホとタブレットにダウンロードしてあったので、荷物預かりのカウンターに直ぐに向かおうとして、ちょっと驚きました。昨年末に帰国したときと違って、荷物に貼るシールの発行も自動化されており、自分で端末を操作して発行するようになっていたからです。
 その発行手続きそのものは、搭乗券を空港で自動発行する端末と同様な流れで、戸惑うこともありませんでしたが、スーツケースそのものも自分で登録し、自分でベルトの上に載せ(お年寄りは難儀していましたよ)、重量オーバーでないかぎり(私のは23,9キロと制限ギリギリでパス!)、そのまま荷物はベルトコンベアに乗って流れていきます。その間、途中に説明のための係員が一人たっているだけで、その人も個々の手続きを助けてくれるわけではないので、実質、全部自分(たち)でやることになります。
 慣れてしまえば、実に簡単だし速く済みますから、効率化という観点からは進歩だと言えると思います。ですが、ベルトコンベアーに乗って流れていく自分のスーツケースを見送りながら、な~んか、大丈夫かなぁ、フランスのことだからねぇ、と、荷物がちゃんと羽田に届くかどうか一抹の不安を覚えてしまいました。ドイツのフランクフルト空港も自動化されていましたが、機械の側には複数の係員がいましたしね、そこはやはりドイツざますからね、信頼度が違います。
 荷物を預けるまでは、新しいシステムにちょっと戸惑いつつも、TGVを降りてから三十分ほどで済み、順調だったのですが、ここはフランスざます、そうすべてことが順調に運ぶわけはないんざます。パスポート検査には一時間行列いたしました。この時期ですから旅行客が多いのは当然ですし、安全対策も強化されています(私も出国時に居住者カード (carte de résident de 10 ans)を見せろと言われたのは今回が初めてでした)から、パスポート審査に時間がかかるは致し方ない面もあることは認めますが、それにしてももう少し効率化する工夫をしてほしいものです。
 その後の荷物検査は、検査員を大量動員していることもあって、ほとんど待たされることもなく、スムーズでした。
 そして、今、こうして搭乗ゲート近くでこの記事を書いているというわけです。搭乗開始まであと二時間ほどあります。少し免税店をぶらついてきます。
 明日の記事は東京の滞在先からになります。













明日の帰国準備をしながら ― 夏休み日記(11)

2017-07-27 17:44:22 | 雑感

 今日は、朝小雨が降っていて、プールには歩いて行きました。昨日よりは若干外気が暖かく感じられましたが、夏のこの時期としてはかなり涼しいことにかわりはなく、昨日同様、プールは空いていました。
 今月は、プールが臨時閉鎖された一日を除いて、今日までの二十六日間、一日も休まずに通い続けました。明日は朝こちらを発つので、泳いでから出発というわけにはいかないのが残念です。それに、昨年までの夏の東京滞在では、八月中実家の直ぐ近くの中学校のプール開放に十日から二週間ほど通っていましたが、今年はいろいろ予定が入っていてそのプールに行く時間を見つけるのも難しそうです。
 帰国中は、普段よりもいいものを食べるし、外食の回数も多く、どうしても体重増でこちらに戻って来ることになりがちなので、もう少し体を絞り込んでから帰国したかったのですが、それもかなわず、帰国中は、暑くなる前の早朝にウォーキングする(亡母の長年の習慣でした)など、少しでも体を動かす時間を確保したいと思っています。
 二十日間という例年より短い滞在で、それほど多くの人に会うことはできませんが、それでも、集中講義期間中にも東京にある二つの提携大学を訪問することになっていたり、集中講義の翌週は北海道に人を訪ねたり、けっこう盛り沢山な予定が入っています。
 いろいろな方に会ってお話しすることは、とても楽しくもあり、またさまざまな刺激もいただきます。暑さに負けずに、それらの人たちとの約束の一つ一つを大切にし、そして大いに楽しんできたいと思います。














街吹く風が皆休もうよと囁いている ― 夏休み日記(10)

2017-07-26 18:28:52 | 読游摘録

 今日、朝方は今にも雨が降り出しそうな曇り空で、気温もプール開門の午前7時の時点で16度前後でした。こんな天気のときに朝から屋外で泳ごうという人はあまりなく、いつもより空いていて、とても快適に泳げました。それでなくても、多くの人がヴァカンスに出かけてしまうこの時期、夏なのにプールはかえって空いているというのがフランスの都市部の市営プールのいいところです。
 昼からは晴れ間が広がり、それにともない気温も上昇し、夕方には22度に達しました。湿度は逆に下がり、50%を切り、気持ちのよい爽やかな風が樹々を揺らせる中、大学まで書類を取りに自転車で行ってきました。もうキャンパスに人影はまばらで、路面電車の大学の最寄り駅も閑散としていました。
 それはまるでこの期間は皆休んでいいんだよと街吹く風がいたるところで囁いているかのようです。自宅から大学へのいつも通勤路をまわりの景色に目をやりながらゆっくりと往復する間、その風の囁きをずっと聞いていました。
 今年の二月三日の記事で紹介した Mickael Lucken 先生の中井正一論 Nakai Masakazu. Naissance de la théorie critique au Japon, 2015 を今さきほど読み終えました。中井正一の知的伝記を縦軸としながら、同時代の他の日本の哲学者・思想家・歴史家・文学者・画家・劇作家の時代との関係を横軸にすることで、中井固有の思想的立場を明らかにし、大正期から戦争期を経て中井が亡くなる50年代初めまでの近代日本哲学史を、同時代の欧米哲学思潮との関係・差異を丁寧に検証しながら辿り直した労作です。多くのことを私は本書から学びました。
 来週の集中講義でも次の一節を取り上げ、技術と批判思想との関係について学生たちと議論するつもりです。

Le principe, comme on l’a déjà vu, est la généralisation de la pensée critique qui suppose le rejet des conceptions hypostasiées, théophaniques de la vérité. Le reste est affaire de technique. Nakai ne méprise pas cet aspect, au contraire. Il a beaucoup réfléchi aux questions d’organisation, car, au fond, technique et pensée critique sont synomymes (op. cit., p. 213).











 


朝から繰り返される驟雨を眺めながら、技術が技術そのものとして現れるスポーツの世界について考える ― 夏休み日記(9)

2017-07-25 18:56:07 | 哲学

 今日は、昨日にもまして涼しい一日で、日中の最高気温は二十度以下でした。
 雨は昨日ほどの降りではなく、時に晴れ間も見えましたが、外が少し明るくなったことに気づき、本から目を上げて窓外の空に目をやると、たちまちかき曇り、窓前の樹々がざわざわと風に揺れ始め、さっと驟雨が襲ってきました。そんなことが日に何度か繰り返されました。
 この涼しさのおかげで講義の準備がよく捗ったのは嬉しいのですが、こんな快適さに慣れてしまうと、今週末からの東京滞在中の暑さに耐えられるかと、少し心配になってしまいます。
 今回の集中講義で取り上げる哲学者の一人は、写真・映画とスポーツについて哲学的に考察した日本で最初の哲学者である中井正一(1900-1952)です。岩波文庫版『中井正一評論集』(1995年)に収録されている「スポーツ気分の構造」(1933年)の中で、中井は、遊戯としてのスポーツを技術が目的生産性から遊離した技術そのものとして現れる一つの世界として捉えていて大変興味深く思いました。
 シモンドンを援用することで、中井の考察を技術論として発展させることができると同時に、逆にシモンドンの技術の哲学をそこには見られない視角から照らし出すことにもなります。
 シモンドン、三木清、中井正一それぞれの哲学が他の二者に対して触媒として働くことで、私の脳内の思考の網状化がより密になっていくのを、今また降り始めた驟雨の音を聞きながら、悦びとともに感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


蕭条と雨降る一日の仕事が与えてくれたささやかな充足感 ― 夏休み日記(8)

2017-07-24 18:30:19 | 雑感

 今日は、朝から蕭条と雨が降る涼しい一日でした。
 自宅からプールまでの徒歩六七分ほどの道沿いには、片側にポプラ並木がリル川に架かる太鼓橋まで続き、その並木と向かい合った農地に今年は玉蜀黍が一面に植えられています。かつては一面菜の花畑だったこともあり、その満開時の黄色の絨毯はとても美しい景色でした。
 ポプラ並木と畑の間の道を過ぎ、太鼓橋を渡って緩やに下る道沿いにもたくさんの樹々が道の直ぐ脇まで植えられており、今日のような雨の日は、プールまでの行き帰り、それらの樹々を見上げながらゆっくりと歩きます。
 ポプラの木の枝が風に揺られ、それにともなって枝を覆い尽くした瑞々しい葉が顫動するのを眺めるのが私はとても好きです。それが真夏の午後の真っ青な空を背景にしてのときは、見上げながら思わず深呼吸します。胸膨らみ、静かな喜びがそこに湧いてくるのが感じられます。灰色の雲に覆われた空を背景にした今日のような雨の日にポプラの葉の揺れを見ていると、自ずと沈思黙考へと誘われます。
 雨音を窓外に聞きながら、集中講義の準備に一日静かに専心できた今日一日の充足感が、次第に迫ってくる九月からの新学年に待ち受けている数々の職責に憂鬱になりがちな心を少し慰めてくれました。












「作品」としての廃墟の美学 ― 夏休み日記(7)

2017-07-23 17:26:20 | 哲学

 一昨晩、そして昨晩深夜、かなりの強風が吹き荒れました。特に、一昨晩の強風の激しさは、プールまでの道沿いに蒼々と並び立つポプラの木から吹き千切られた枝が路上に散乱しているほどでした。幸い近所には強風による被害はなかったようですが。
 スタロバンスキーの « Ruines » と題された短いエッセー(Ecritures, I, 1964, p. 44-47)には、ジンメルによる「廃墟の美学」の定義がスタロバンスキーによって次のように要約されています。

Simmel, définissant l’esthétique de la ruine, disait qu’il faut considérer comme une œuvre inédite cet hybride où l’effort vertical de l’architecture se compose avec les forces naturelles de chute et d’inertie : un équilibre momentané s’établit, où les puissances antagonistes de la nature et de l’art se réconcilient passivement derrière notre passage, au moment où se défont les traces de l’effort humain et où la sauvagerie regagne le terrain perdu...

Jean Starobinski, La beauté du monde, Gallimard, coll. « Quarto », 2016, p. 1094.

 この引用箇所を私なりに変奏すると次のようになります。
 垂直上方へ向おうとする建築の努力の痕跡とすべてを地上に転落させ動かなくしようとする自然の力との組合せからなる廃墟には、それ固有の束の間の均衡が生まれることがある。それは人の手によってそうされたのでもなく、自ずからそうなったのでもない。それはそれで一つの「作品」なのだ。文明がそこを通り過ぎた後、人間の構築の意志はそこから姿を消し、野生がまたその失地をそこに回復しようとする。その間、自然と技術(芸術)との相対する力が、完全なる保存と壊滅との間で、期せずして均衡を保つときがある。それが廃墟という「作品」なのだ。












レンブラントの描く人物画それ自体の宗教性、ジンメル『レンブラント』より ― 夏休み日記(6)

2017-07-22 15:20:34 | 哲学

 今日は夕方から拙宅に人をお招きしているので、その前にごく短い記事を投稿するだけです。
 昨日言及したジンメルの『レンブラント』は、ジンメル最晩年の仕事の中でも最重要な成果の一つです。1918年に亡くなる二年前の1916年、本書の初版がライプツィヒのクルト・ヴォルフ社から出版されています。ちなみに、ジンメルは当時ストラスブール大学の哲学の正教授でした。
 本書の第三部は宗教的芸術をその主題としていますが、レンブラントの描く人物画それ自体の宗教性を指摘しているところは、シモンドンにおける宗教性の次元を考えるためにもきわめて示唆的です。

... les hommes que montrent ces tableaux paisibles, familiers n’ont pas de religion, comme contenu objetctif de leur vie, mais ils sont religieux (G. Simmel, Rembrandt, op. cit., p. 183. En gras dans le texte).