内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

小雪舞うなか、歩いて本を取りに行ったら、草原で羊の群れに遭う

2025-01-22 15:32:19 | 雑感

 ネット上で購入した紙の本を自宅以外の受取場所に取りに行くことが月に何度かある。注文時に受取場所の候補のなかから最も都合良い場所を普通は指定する。大抵は自宅から一番近いところを選ぶ。複数の受取可能な場所が距離の点で大差ない場合は、受取可能曜日・時間帯がより幅広い場所を選ぶ。これまで、受取に関して特段のトラブルはなかった。
 ただ、配送請負業者によっては、こちらの承諾なしに、何らかの理由で、受け取り場所を一方的に変更してくることがたまにだがある。今日受け取りに行った本がそうだった。昨日夜に受取場所への配達が完了したとのメールが届いたのだが、その受取場所が指定した最寄りの場所ではなく、自宅から2,5キロほど離れた場所に変更されている。
 以前だったら、「なに勝手に変更してんだよ!」と腹を立てていたに違いない。ところが、ジョギングを日課とするようになってから、受け取りを兼ねてジョギングあるいはウォーキングすればいいやと、少しも腹が立たなくなった。自転車ならば往復で30分も見れば十分だが、そんな楽をしては「もったいない」と思ってしまう。
 で、今朝、小雪舞う中、歩いて取りに行った。なぜ走らなかったかといえば、深夜に降った雪で歩道は覆われており、走ると滑って転ぶ危険があると思ったからである。
 それに、歩行にはそれなりの思考のリズムがあり、歩行の速度でしか見えない景色もある。
 本を無事受け取り、そのまま帰ろうかとも思ったが、せっかくここまで来たからと、帰り道とは反対方向に歩き始めた。
 倉庫や会社が両側に並んでいるだけの殺風景な道路だが、以前何度か走ったとき、その先には何があるのか、ちょっと気になってはいた。
 建物が尽きたところから白銀の雪化粧で覆われた樹々の間を舗装路が続いている。どこに出るのかわからないまま歩き続けた。
 数分も歩くと、薄っすらと雪に覆われた草原が見えてきた。これは予想外だった。その草原の隅では、暖かそうな厚毛に包まれた羊たちが群れをなして朝食の冬草を食んでいる。私に気づくと、顔を上げて警戒するようにこちらをじっと見ているのが何頭かいる。近づいて写真を撮ろうとすると、みんな一斉に逃げ出した。少し離れたところから振り返り、「なに、こいつ、あやしい」という目でみんな私を見ている。それがおかしくて思わず笑ってしまった。何枚か写真を撮らせてもらって礼を言ってから、一本道を歩き続ける。
 一時間歩いてもまだ先がありそうなので、ここから先は次回のお楽しみということで、踵を返し、帰路につく。都合10キロあまり歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「目ガ覚メテモ独リ」―『老残日録』(作者未詳)ヨリ

2025-01-16 07:23:13 | 雑感

『老残日録』(作者未詳)のなかに次の一節を見出し、共感する。

先日、夢ノ中デ、詩人ト哲学者ト三人デ場末ノ料亭ニテ歓談ス。酒杯ヲ重ネ、談論深更ニ及ブ。明朝所用有ル故、二人ヨリ先ニ辞シ、帰路ニツク。月無ク街路灯乏シキ深夜ノ帰リ道、フト底無キ孤独感ニ襲ワルル。恐怖ニ押シ潰サレサフニナリ、絶望感カラ思ワズ奇声ヲ発ス。ソコデ夢カラ覚メル。目ガ覚メテモ独リ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


はてなブログへの引越し明朝には完了します

2025-01-06 01:39:23 | 雑感

はてなブログへのデータのインポートの操作がとても簡単なことがわかり、当ブログのすべての記事をはてなブログにインポートしているところです。データ量が大きいので、丸一日かかりそうですが、写真もコメントもすべてそのまま記事としてインポートされており、まるで最初からはてなブログを使っていたかのようです。ページレイアウトはまだ仮のものですが、これはゆっくりと時間をかけてカスタマイズしていこうと思っています。

というわけで、明朝にはブログの引っ越しも完了しそうですので、昨日の記事で予告したような二つのブログへ同じ記事を同時投稿することはせず、明日以降、こちらのブログに記事をアップすることは原則ありません。ただ、記事内に貼ったブログ内リンクの差し替えには相当に時間がかかりそうなので、こちらのブログもしばらくは公開のままとします。

これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます。そして、これからはこちらのブログ(タイトルはそのまま)で引き続きご贔屓にあずかれれば幸甚に存じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パスカルの milieu は〈私〉の「居場所」ではない ― 新年のご挨拶に代えて

2025-01-01 06:17:19 | 雑感

 皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 と書き始めてみたものの、年頭にあたって特に言いたいこともない自分にはたと気づきました。昨年を振り返って感慨に耽ることもなく、新年を迎えて気持ちが改まるということもなく、干支にはまるで関心がなく、今年の抱負を捏造する元気もなく、無無尽(ナイナイヅクシ)の元日です。

 2025という数字を見て、二十一世紀最初の四半世紀の最後の年なのだなあとは思いました。この間の世界の加速度的な変容にはもうとてもついていけず、どこにあっても「居場所のなさ」感が日々つのるばかりです。

 何々から何十年という区切り方はあまり好きではないのですが、戦後八十年というのはやはり重く響きます。

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件から三十年ですね。自分が日本で暮らしていた最後の年の大きな出来事だったこともあり、当時の衝撃が今でも鮮明に蘇ってきます。

どうして私の知識、私の背丈は限られているのか。どうして私の寿命は千年ではなくて百年なのか。自然にはいかなる理由があって、私の寿命をそう定め、無限の中で、他でもなくこの居場所を選んだのか。他の居場所より気を引くものは何もないのだから、あれよりもこれを選ぶ理由はないではないか。(パスカル『パンセ(上)』塩川徹也訳、岩波文庫、2015年)

Pourquoi ma connaissance est-elle bornée, ma taille, ma durée à cent ans plutôt qu’à mille ? Quelle raison a eu la nature de me la donner telle et de choisir ce milieu plutôt qu’un autre dans l’infinité, desquels il n’y a pas plus de raison de choisir l’un que l’autre, rien ne tentant plus que l’autre ? (L194, S227, LG183, B208)

(但し、ブランシュヴィック版では、milieu ではなくnombre となっています。この点について、手元にあるどの版にも注記がなく、理由が判りません。前田陽一訳はブランシュヴィック版に拠っているので、当該箇所は「なぜあの数でなくこの数なのだろう」と訳されています。)

 パスカルにおける « milieu » については、2023年10月4日11月1日2日3日の記事で取り上げているので、それを前提にしての話ですが、「居場所」という訳語には違和感を覚えてしまいます。「選ぶ」(choisir)の意味上の主語は「自然」であり、私の意志とも希望ともまったく関わりなく自然が私を置いた「無とすべてとの間(entre rien et tout)」の有限の時空間が milieu なのですから、それは〈私〉の「居場所」ではありえないでしょ、って思うのですが……。


母の命日 ―「善き人たちは死ぬものだと言うなかれ」

2024-12-22 07:19:13 | 雑感

 今日は母の命日である。十年前の今日、自宅で最後の息を引き取った。84歳だった。私自身が原因で引き起こされた数々の心配と心労が母の寿命を縮めたのはほぼ間違いない。それらがなければ、今もなお健在だったかもしれない。親孝行と言えることは何一つできなかった。慚愧に堪えない。
 亡くなる日の朝、背中が痛むから擦ってほしいと頼まれた。母の躰に直接触れたのは、おそらく幼少期以後、そのときが初めてだったと思う。しばらくだまって擦ってあげると、「ありがとう」と小さいがしっかりした声で言ってくれた。それが母から聞いた最後の言葉だった。
 亡くなった日の翌日から、感謝と弔いの意を込めて、九日間「たまゆらの記」と題した追悼記をこのブログに綴った。
 それを読み返しつつ、当時を思い起こし、母の生涯を回想しながら、今日一日を過ごしたい。
 昨日の記事で触れた三木清の「幼き者の為に」の冒頭には、古代ギリシアの詩人カリマコスのエピグラムの一行がギリシア語のまま、第一文の主語を省いて掲げられている。それを母の墓碑銘として捧げる。


「聖なる眠りを眠る。善き人たちは死ぬものだと言うなかれ。」
« dort d’un sommeil sacré ; ne dis pas qu’ils meurent, les gens de bien. »


少しも嬉しくない暗鬱なノエルの休暇が始まる

2024-12-20 23:59:59 | 雑感

 今日午後の二つの試験監督を無事終え、年内業務終了。やれやれ。
 少しはホッとできるかと思っていたら、来年度募集する准教授のポストの外部審査員が思うように決まらず、冬休み中も未決定のまま、決定にこぎつけられるのが年明けになるのはほぼ避けがたく、少しも気が休まらない。こちらの努力でどうなることでもない。だから嫌なのだ、審査員長を引き受けるのは。このような心理状態を引きずるのはほんとうに身体に悪い。
 今回のポストは、同僚が研究員として日本に出向期間中に任期が限定された特殊なポストである。日本であれば「特任准教授」とでも言うのであろうが、こちらはもっと味気ないというか、身も蓋もないというか、「契約准教授」と呼ぶ。一年契約で三回まで更新可という、なんとも落ち着かないポストで、応募者からすれば魅力に乏しいだろう。その存在を知らない大学教員も少なくなく、先日パリで他大学のベテラン教授にこの話をしたら、「そんなポストがあるなんて知らなかったよ」と驚いていた。
 さらに弊学科にとって状況を悪くしているのは、来年度は日本研究分野で4つも専任准教授のポストが全国で公募される。もともと全国レベルで応募資格者がそれほど多いわけではないから、そもそもどれだけ応募があるかさえ心もとない。仮にいくつか応募があったとしても、優秀な候補者は他の専任ポストに採用され百パーセントそちらを選ぶであろうから、こちらが望むような教員を採用できる可能性はかぎりなく低い。
 あ~、考えれば考えるほど、気持ちが重く暗くなる。キラキラしたイリュミネーションで沸き立つクリスマスは、私には無縁の遠い世間の祝祭である。ひたすら暗鬱で寂しいノエルの休暇が明日から始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


燃え尽きないように

2024-12-07 23:59:59 | 雑感

 毎年、燃え尽き症候群に陥ってしまう学生が一学年に一人二人いる。それらの学生は概して優秀かつ極めて真面目である。というか、この二つの条件が揃わなければそもそも燃え尽きたりしない。何事にも適当であまり真面目でない人間は、不完全燃焼で燻ることはあっても、燃え尽きたりしない。
 今日の正午から一時間あまり、この九月から日本学科修士一年に席を置きつつ、文科省の奨学生として東京の大学に一年間留学している学生とZOOMで話した。先週、本人からなかり落ち込んでいる状態を知らせるメールが届き、ZOOMで話を聴くことをこちらから提案しておいた。
 この女子学生は学部一年から三年までつねに抜群の成績で首席を貫いた。その日本語能力は奨学金応募者の面接審査にあたった審査官を驚かせたほどである。確かに、学部三年間で彼女ほどのレベルに達することは稀である。三年生になってからの私と彼女との会話はすべて日本語であった。
 今日のZOOM面談もすべて日本語。まず、事情を聴いた。彼女のいまの心理状態はおおよそ把握できた。学年トップの成績なのにいわゆる自己肯定感が低く、自分で自分を追い詰めているところが学部のときからあった。
 他者とのコミュニケーションは得意なほうではない。教室ではもう一人の優秀な女子学生といつも並んで座っていた。他の学生と一緒にいるところはほとんど見かけたことがなかった。
 今受講している日本語コースは八段階の上からニ番目の上級者コースで、クラスは、日本語レベルがとても高い中国人を中心としたアジア系が多数派で、さらには日本人とのハーフの子までいて、それらの学生と比べれば、さすがに彼女もトップレベルというわけにはいかず、本人の弁では、授業中ちょっとばかにするような眼で見られることもあるという。
 まあ、それくらいよくある話で、落ち込むほどのことではないとも思われるのだが、いつも一番だった彼女にはそれだけで耐え難く、自分を責め、落ち込むに十分な理由になる。それで孤立感も深めてしまったようだ。
 話を聴いただけで、私に何ができるわけでもない。これまでずっと十分すぎるほど頑張ってきたのだから、これ以上自分に何かを求めるのではなく、おもしろくない授業は手を抜いてもいい。成績など二の次であり、ぎりぎりセーフだっていい。せっかく一年間日本にいるのだから、この貴重な機会をもっと楽しむようにしたらいい。などなど、気休め程度のことしか言えなかった。
 現在東京に出向中の日本学科の同僚のところに話を聴いてもらいに行ったらどうかとも示唆した。一月には日本学科の他の同僚二人が短期で東京に滞在するから、そのときに会って話を聴いてもらえるように私の方から話しておくことも約束した。
 これからも彼女が燃え尽きないように、遠くからだが、見守っていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


博論審査ミッション完了!

2024-12-06 22:50:55 | 雑感

 今日の博士論文の口頭審査は途中に十分ほどの休憩を挟んで4時間を超えた。
 審査は、型通り、まず博士論文提出者の20分あまりのプレゼンテーションから始まった。このプレゼンテーションでは、通常、博論での問題意識をより広い文脈に位置づけたり、博論のテーマに至る過程や今後の展望などが語られたりする。今日のプレゼンテーションには、論文作成中の個人的な困難な事情が語られた部分があり、ちょっと意外に思ったが、その直後の指導教授からのコメントのなかでその点が補足され得心がいった。
 指導教授のコメントのあとは、事前報告書を書いたパリ・ナンテール大学の教授からの講評と質問。小休止を挟んで私の番。準備したコメントに多少その場で付加したことはあったが、20分あまりだった。私の質問に対する回答はあまり満足のいくものではなかったが、質問を重ねてさらに追求してもそれ以上の回答は引き出せそうもなかったので、それでよしとした。
 私のあとは二人。パリ政治学院の教授と審査委員長を務めたイナルコの教授。この審査委員長のコメントが40分ほどに及び、かなり批判的であった。
 全審査員の講評と質問の後、審査を受けた学生と陪席した聴衆(といっても数人だったが)は一旦席を外し、審査員たちだけが審査会場に残って審議する。審議後、審査を受けた学生と聴衆が再び会場に呼び入れられ、審査結果が発表される。
 博士号は無事授与されたが、審査で指摘された表現上の諸問題を、指導教授の監督下、今日からの1ヶ月間で修正するという条件付きで博論は受理された。この条件は、誤りを少なからず含んだ博論をそのまま公開しなくて済むということでもあるから、博論を書いた本人のためでもある。
 もう一点審査結果として審査員長から本人に告げられたのは、イナルコの内規に基づいて、今年度イナルコに提出された全博論中から選ばれる最優秀論文の審査に推薦するということであった。この推薦は、その年に提出された博論の数が多ければ、その中から選考対象に残ったことを意味するから、最優秀論文に選ばれなかったとしても、推薦だけで一つの積極的評価であることを意味する。
 今回の博論は、最上等の出来ではないが、テーマのオリジナリティその他高く評価できる点もあり、最優秀論文の審査に推薦することには私も他の審査員も異存はなかった。
 かくして今回の審査は無事終了した。
 審査後、指導教授とパリ政治学院の教授とサン=ジェルマン=デ=プレ教会近くのイタリア料理レストランで遅めの軽い昼食を取りながら歓談。昼食後レストランを出たところで二人と別れ、サン・ミッシェル大通りのジベール・ジョゼフ書店に哲学書の新刊をチェックしに行く。
 これは実は私にとって「危険な」行為なのである。この大型書店には、哲学関係で私が欲しくなるような本がこれでもかというほどいつも平積みになっているからである。今日もやはりまんまと「罠」にはまってしまった。フラマリオンから11月に出たばかりの一巻本ニーチェ全集が目に飛び込んできた。さすがにその場では買わなかったが、ストラスブールに戻ってから注文することになるだろう。それと、これは嬉しい驚きだったが、シモンドンの Du mode d’existence des objets techniques の改定増補版がフラマリオンの文庫版叢書 Champs essais の一冊として10月に刊行されていた。こちらは今後自分の研究上必要にもなるので、紙版はストラスブールで注文するとして、電子書籍版を即購入した。その場で購入した中古本が一冊ある。Bruno Latour の La religion à l’épreuve de l’écologie, La Découverte, 2024 である。この本については後日このブロブでも語る機会があるであろう。
 TGV は完璧に定刻通り。自宅に帰り着いたのは午後八時過ぎ。
 かくして今回のミッション完了!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


キンドルの検索機能についての感想 ― 特にその難点の一つについて

2024-12-04 07:46:23 | 雑感

 明後日に迫った博論の口頭審査の講評と質問は一応仕上がった。あとは午後にパリに移動する明日に最終的な確認をするだけである。当日その場で講評および質問を読み上げている間や、審査対象の博論提出者からの応答に応じて付け加えることは出てくるだろうが、それらはそれこそその場になってみなければわからない。
 私を含めて審査員は五人だが、審査開始直前に審査委員長を互選する。発言の順序は、審査委員長が最後と決まっている以外は、やはり審査直前に決められる。どうやって順番が決まるかというと、私のこれまでの経験からだと、その場の「阿吽の呼吸」である。
 その順番によっては準備した原稿を修正する必要も出てくる。まったく同じ講評や質問というのは考えにくいが、自分より先に発言した審査員の講評や質問と自分のそれらとの間に重複があれば、それら重複部分は省略しなくてはならないからである。
 審査員の顔ぶれからして、私はおそらくトップバッターかニ番目だろう。重複をまったく気にする必要がないトップバッターを期待している。
 講評および質疑応答は一人当たり20~30分くらいが目安だが、トップバッターだと短くても長くてもよいという気楽さもある。というのも、度外れに長いのはさすがに慎むべきだが、多少長めでも、逆に短めでも、審査時間全体が予定された時間枠に収まるようにする調整はニ番目以降の審査員と特にトリをつとめる審査委員長に任せればよいからである。
 今回、仕上げに時間がかかったヘーゲルとその同時代のドイツロマン主義との関係についての質問の準備のために文献調査をしているとき、電子書籍版や PDF・WORD 版が使える文献はほんとうに時間の節約に多大な貢献をしてくれた。
 例えば、昨年邦訳が出た Philippe Lacoue-Labarthe / Jean-Luc Nancy, L’absolu littéraire. Théorie de la littérature du romantisme allemand, Éditions du Seuil, « Poétique » の原本は留学してすぐに購入した1978年刊行の初版が手元にあるのだが、その索引は実に「大雑把」(失礼!)で、あまり使いものにならない。驚いたことに、ヘーゲルは立項されてさえいないのである。
 そこで、電子書籍版を購入して、Hegel を検索したところ45箇所ヒットした。実際、それらの箇所の中には、案の定、ヘーゲルとドイツロマン主義との間の微妙な関係に関する重要な指摘がいくつもあった。そこから今回の審査に必要な箇所をコピーするのに(そう、書き写す手間さえいらない)ものの数分もあればよかった。
 もし本文が400頁を超える紙の原本でヘーゲルへの言及箇所を探すとなれば、少なく見積もって数日はかかるであろうし(そんな時間は、ナイ)、見落としも避けがたいであろう。
 ただ、キンドル版には一つ大きな難点がある。最近気づいたのだが、検索を掛けた語の直後に注番号が振られていると、検索から漏れてしまうのである。これは注番号も含めて一語と認識されてしまうためである。その注番号をあらかじめ知ることはできないから、これが原因の検索漏れを探すとなれば、すべての注を確認しなければならない。注が多数付されている書籍の場合、これは一仕事になってしまう。ぜひ改善を望みたいところである。
 ついでに言えば、その他にも検索漏れが発生する場合があるのだが、その原因はまだよくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「鴉」は「烏」でも「からす」でも「カラス」でもない!

2024-12-02 17:07:04 | 雑感

 漢字についての与太話である。
 同じ対象を指し同じ訓みでも正字か略字かで印象が随分異なることがある。常用漢字あるいは教育漢字として今日通用している漢字を「略字」と呼ぶのももはやふさわしくないだろうし、「学」の代わりに「學」とするのは、引用する原文そのままの場合以外は、さすがに衒学趣味ということになるだろう。
 昨日話題にした和辻哲郎の『ケーベル先生』には漱石の同名の名随筆からの引用がある。
 「この夕べ、その鴉のことを思い出して、あの鴉はどうなりましたかと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留まったまんま翌日になると死んでいましたと答えられた」という箇所である。この引用中の「鴉」が、手元にある岩波文庫版『思い出すことなど 他七篇』(1986年)では「烏」に置き換えられている。
 まったく個人的な感じ方にすぎないと思うが、ここはぜひ「鴉」であってほしい。「寒い晩に庭の木の枝に留まったまま」死んだのは「鴉」であって「烏」ではないとさえ言いたくなる。「そんなこと、どうでもいいでしょ、どちらもカラスなんだから」とお考えの方も少なくなかろうと拝察する。他方、「そうですよねぇ、ここは「鴉」じゃなくっちゃあねぇ」と共感してくださる方も少数ではあろうがいらっしゃるだろうと期待したい。
 『三省堂国語辞典』(第八版、2022年)で「からす」を引いてみて少し驚いた。「鴉」も「烏」も常用漢字表にはない漢字なのだ。つまり、新聞雑誌などの文章では「からす」か「カラス」と表記するということである。「カラスの勝手でしょ」(懐かしい!)というわけにはいかないのである。しかし、「からす」も「カラス」も「烏」も「鴉」ではないのである(ってまだ言ってる……)。