内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

母なる言葉への愛と決して成就しない外国語への悲恋

2023-05-18 20:01:48 | 言葉の散歩道

 続けていて虚しくなることはないのかと問われれば、「それはあります」と答えざるを得ない。このブログのことである。こんなこと続けて何になるのだろうか、と。
 一つ一つの言葉を大切にしながら書きたいと思って毎日書いている。でも、なんといい加減なのだろうと自ら認めざるを得ない記事も少なからずあった。それでも、言葉遣いには丁寧でありたいと常に思ってはいるのだが。
 時間が許すかぎり読み直してから投稿する。それでも、必ずと言っていいほど、誤字脱字、打ち間違い、変換ミス、助詞の間違い、不適切な漢字、慣用句の誤った使用、呼応の不備等があって、後日それに気づいて、正直、自分で自分にゲンナリする。それら及び明らかな事実誤認に気づいた場合、記事内容に変更を及ぼさないかぎりという条件つきで修正している。
 自分の目は節穴なのかと吐き捨てたくなるようなミスが見逃されていることも珍しいことではない。そんなとき、お前はその程度の人間なのだという教訓をそこから引き出す以外、私には何もできない。
 これは言葉遣いの巧拙という問題ではない。僭越を承知で言わせていただければ、言葉への愛である。日本語への愛は、母への愛に似ている。フランス語への愛は、決して成就しない悲恋に似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


万葉歌の「思ひ遣る」は「憂いを晴らす」の意 ― 言葉の散歩道

2020-02-21 23:59:59 | 言葉の散歩道

 後期担当している近現代文学の講義で基礎テキストにしている『新日本文学史』(文英堂)の購入を希望する学生たちのために発注をかけたとき、自分用に二冊の学習古語辞典を併せて購入した。『ベネッセ全訳古語辞典 改訂版』(2007年)と『旺文社全訳古語辞典 第五版』(2018年)である。前者は特に古文入門から大学入試まで学習者を導くさまざまな工夫が随所に見られ感心しながら読んでいる。後者は前者に比べると地味な構成だが最近改訂されたものであり古語・古典の知識を深める囲み記事も充実している。
 今日はベネッセの方を読んでいた。「おもひやる【思ひ遣る】」の項に目が止まった。「空間的に離れた場所に気持ちを移す」という全体イメージがまず掲げられ、その下に「①憂いを晴らす。②思いをはせる。③想像する。④心配りする」の四つの語義が示されている。活用表の後にそれぞれの語義の語釈と用例とその全訳が示されているのは型どおりだが、その後に「発展 現代語とのつながり」という項があり、そこに「上代からあることばだが、中古では②の思いをはせる意味が圧倒的に多い。②~④の「やる」は、「思い」を「遠くまで行かせる」意味であるが、①の「やる」は「思い」を「晴らす」意味で用いられている。なお、現代語には、④の心配りする意味だけが残っている」とある。
 この①の「胸につかえていることを遠くへはらいのける、気を晴らす」(『古典基礎語辞典』)意味の万葉歌としてベネッセ版も旺文社版も巻第十三・三二六一を挙げている。

思ひやる術の方便も今はなし君に逢はずて年の経ゆけば

 ベネッセ版はこのような表記になっているのだが、ちょっと解せない。原文には「術」も「方便」も使われておらず、参照した万葉集のどの版でもどちらの語もひらがな表記になっている。ベネッセ版にはわざわざ「すべ」「たづき」と訓みを少活字で漢字の下に組み入れてあるが、こんな手の混んだことをする必要があるのだろうか。素直にひらがな表記にすべきだったのではないか。
 「たづき【方便】」の項を見てみた。そこにも万葉歌が二首(巻第四・六六五と巻第二十・四三八四)用例に挙げられているが、いずれにも「方便」をあてている。しかし、原文はそれぞれ「田付」「他都枳」となっており漢語「方便」をあてる理由は特にない。「すべ【術】」の項にも万葉歌(巻第二・二〇七)が挙げられていてやはり漢字表記だ。原文は万葉仮名二字「為便」の表音表記になっているからやはり「術」をあてる積極的な理由はない。
 とても優れた学習辞典だと思うけれど、この「こだわり」はどこから来ているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Intéressant(アンテレッサン)について ― 欧語散策(1)

2013-06-25 21:00:00 | 言葉の散歩道

 レミ・ブラッグ Rémi Brague という古代・中世哲学の大家がフランスにいる。パリ第1大学教授。単に古代・中世の専門家として傑出しているだけでなく、現代社会における哲学的問題にも常に注意を払っており、メディアでも発言する。自著の中で認めているが、挑発的な物言いを好む。私の專門からは遠いが、彼の著作からは学ぶことが多く、折にふれて読む。講義でも、学生たちの眠気覚ましに、彼の刺激的な主張をしばしば引用する。私が講義で特によく引き合いに出すのが、Au moyen du Moyen Âge(Flammarion, collection "Champs essais", 2008)。タイトルを日本語に訳せば、『中世を用いて(手段、手立て、手助けとして、)』とでもなろうか。しかし、見ての通り、原タイトルには moyen という語が二度使われていて、前者が名詞、後者が形容詞。 "Au moyen de" というイディオムは、「~を使って、用いて」という意味。大文字で "Moyen Âge" と書く時は原則としてヨーロッパ中世を指す。これらの点を考慮すると、『ヨーロッパ中世を通じて』の方がいいかも知れない。副題は「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教における中世哲学」となっている。これだけ見ると、現代社会とは何の関係もなさそうだが、哲学の社会におけるあり方という問題について、きわめて示唆に富む本で、近現代哲学への言及もそこかしこに見られる。著者自身同書で明言していることだが、タイトルがよく示しているように、「中世を使って」哲学の基本問題を考えようとしているのであって、中世の哲学を語ること自体が目的なのではない。中世哲学を取巻く数々の誤解を解き、偏見を排除することに多くの頁が割かれているのも、一つには、そうすることによって中世哲学をその本来の生ける姿で示すためだが、一つには、その作業の全体を通じて、哲学とはいったいどのような活動なのかという基本的な問いを繰り返し問うためなのである。
 同書に "La physique est-elle intéressante ?" と題された章がある。中身を読まずにタイトルだけを見れば、「物理学は面白いか」と訳しても間違いとは言えない。ところが同章の最初の数頁を読めば、そうは訳せないことがわかる。ここでの la physique は、今日私たちがいうところの物理学ではなく、またアリストテレスや中世の大半の哲学者たちが考えていた「自然哲学」、つまり都市社会での実践的な事柄にはかかわらず、何かの制作・製造技術にもかかわらず、それらの〈外〉で生起する諸事象を観想し、それらをひたすら理論的に研究する学問という意味でもない。それらの対象も含むが、もっと広い意味で自然全体を対象とする学問がここでは問題にされている。だから「物理学」でも「自然哲学」でもなく、「自然学」とでも訳した方がいいことになる。
 しかし、今日話題にしたいのは、このことではなく、タイトルに使われている形容詞 intéressant の方である。この形容詞は英語の interesting に相当し、基本的な用法は両語で重なり合っている。ブラッグはこの形容詞の意味を3つに区別する。第1は、「利益がある」という意味。「払ったら元が取れる、さらには利益を生む」ということだ。これは単に物質的なものについてだけ当てはまるのではなく、例えば、健康に「利益がある」ものについても当てはまる。第2は、「知的な関心を引く」という意味。自然の中には、小さな花の繊細な構造の美しさから、大空に広がる星座の荘厳さまで、そのようなものが数限りなくある。それらは私たちを「魅惑」する。そして第3の意味。ブラッグがここで強調したいのは、この第3の意味である。彼はラテン語の語源、inter-est から、この意味を規定する。"inter" は「~の間に」という意味の前置詞。"est" は動詞 esse 「在る」の三人称単数現在。したがって、この第3の、語源に最も忠実な意味は、「~の間にある」ということになる。では、何の間にあるのか。ここからがブラッグの強調するところなのだが、「私たちと私たち自身の間」にあるということだという。しかし、なぜ私たちと私たちの間にあるものが intéressant なのか。それは彼によると、私たちが私たち自身を知るのに必要だからだということになる。つまり、何かが私たちにとって intéressant なものとして現れるのは、それが自分たち自身を知るために私たちが必要とするもの、それを介してはじめて自分がよくわかるようになるものだからなのだということである。私たちが自分たち自身へと至るためにそこを通っていかなくてはならない物事が、この意味で、私たちにとって intéressant なのである。フランス語の再帰代名動詞の "s’intéresser à quelque chose" という用法は、intéressant が内包しているこの反省的構造をよく示しているとブラッグは言う。通常「何かに関心がある」と訳されるこの表現は、この第3の意味に忠実に訳せば、「何かに関係づけることを介して己自身を知ろうとしている」ということになる。
 ここからは上のブラッグの説明に基づいた私自身による敷衍。Intéressant のやはりラテン語に由来する古い意味に「違いをもたらすもの」という意味がある。この意味と先の第3の意味を組み合わせれば、私にとって intéressant なものとは、「私自身を変え、その変化を通じて、私に私自身を理解させるもの」ということになる。私がある対象に強い intérêt (関心)を持てば持つほど、それだけ私は変わり、自分はどんな人間なのかがよりよくわかる。何も intéressant なものがないということは、自分で自分がわからないと言っているに等しい。毎年、学年の初めに、すべての授業で、学生たちに、「この講義で学ぶ事柄が、あなたたちにとって、この第3の意味で intéressant なものになることを心から願う」と繰り返す。