内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記㉘ 習慣の両義性 ― ラヴェッソンの自然哲学の根本概念

2014-08-31 16:43:21 | 哲学

 今日で夏休みも終わり。このブログの「夏休み日記」も今日が最終回。
 朝から灰色の雨雲が空を覆い、九時から十時まで屋外のプールで泳いでいる間は降られなかったが、プールの行き帰りには傘が必要なほどの雨に見舞われた。夕方になって雲間から薄日が射す。
 午前十一時からは、先週と同じ映画館の同じ席で『かぐや姫の物語』の二度目の観賞。観客は私も含めてやはり十数名。そのうち小学生以下の子供が四人。先週日曜日はほとんど何の予備知識も持たずに観たが、今日はたくさん「復習と予習」をしてから観たことになる。特に各場面構成の細部に注意して観た。場面ごとの状況に応じて、描線のタッチがかなり変わっていることがよりよくわかった。そのことが全体としてより深い奥行とより豊かなニュアンスを映像に与えているのもわかった。

 昨日の記事でラヴェッソンとベルクソンの決定的な乖離点を問題にしたが、これは単にこの両者の哲学の方向性の違いということに尽きる特殊限定的な問題ではなく、哲学的思考の基本的方向性の違いというより一般的な問題へと深められる。そのような問題深化のための手がかりとなる一節をベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と著作」から引用しよう。

Notre expérience interne nous montre dans l’habitude une activité qui a passé, par degrés insensibles, de la conscience à l’inconscience et de la volonté à l’automatisme. N’est-ce pas alors sous cette forme, comme une conscience obscurcie et une volonté endormie, que nous devons nous représenter la nature ? L’habitude nous donne ainsi la vivante démonstration de cette vérité que le mécanisme ne se suffit pas à lui-même : il ne serait, pour ainsi dire, que le résidu fossilisé d’une activité spirituelle (La pensée et le mouvement, op. cit., p. 267).

我等の内的経験の示すところ、習慣とは、意識から無意識へ、意志から自動性へ、知らず識らずに移つて行つた活動性である。ではこの形式の下に、不明瞭になつた意識また眠りに入つた意志として、自然を考ふべきではないか。かくて習慣は我々に、機械性が自足的のものでないといふ真理の生きた証明を與える。機械性は、いはば、精神的活動の化石せる残基に外ならぬであらう(野田又夫訳、ラヴェッソン『習慣論』岩波文庫、94頁)。

 この引用での「化石せる残基」( « résidu fossilisé »)という表現は、ラヴェッソンの習慣概念を裏切る「ベルクソン化」としてしばしば批判の対象になってきた。なぜなら、この表現は、習慣に意識の機械化傾向のみを見ようとするベルクソン固有の思想にはよく対応するが、ラヴェッソンが習慣形成の内に見て取っている積極面を捉え得ていないからである。ラヴェッソンによれば、習慣は単なる機械化への頽落傾向ではなく、自発性の発展に寄与しうるものでもあるのだ。ラヴェッソンにおけるこのような習慣の両義性は、次の一節を読めば明らかであろう。

La loi de l’habitude ne s’explique que par le développment d’une Spontanéité passive et active tout à la fois, et également différente de la Fatalité mécanique, et de la Liberté réflexive (Ravaisson, De l’habitude, PUF, 1999, p. 135).

習慣の法則は、同時に受動的で能動的な、且つ機械的宿命と反省的自由とのいづれとも相異せる自発性、の発展によつてしか説明されないのである(野田訳、45頁)。

 ドミニック・ジャニコーは、Ravaisson et la métaphysique, Vrin, 1997 の中で、ベルクソンとラヴェッソンとの決定的な相違点を次のように規定する

Un résidu fossilisé est une matière morte ; l’habitude au contraire insuffle la vie à l’inerte. […] Bergson refuse à l’habitude les caractères de la vie, alors que l’orientation ravaissonienne est inverse. L’habitude n’est pas seulement une fossilisation du spirituel : elle est spiritualisation de l’inerte (p. 43).

化石せる残基は死せる物質である。習慣は、それどころか、不活性なものに生命を吹き込む。[…]ベルクソンは習慣に生命の有つ諸性格を与えることを拒む。ところが、ラヴェッソン思想の取った方向はその逆なのである。習慣は、単に精神的なものの化石化なのではなく、不活性なものの精神化なのである。

 ラヴェッソンの自然哲学は、本来的にハイブリッドな性格を有した習慣を根本概念とした、物質から精神までをその連続性において包括的に捉えようとする、一つの生命の哲学なのである。


夏休み日記㉗ 素描 ― 無限に多様な生命の顕現の形を捉える技法

2014-08-30 16:46:40 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたラヴェッソンの素描論は、一八八二年に刊行された『初等教育学辞典』の « Dessin » の項目に最も詳細かつ深められた仕方で展開されている。この素描論のラヴェッソン哲学にとっての重要性をベルクソンの慧眼は見逃すことはなかった。しかし、ラヴェッソンがレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論の中で特に重きを置く鍵概念 « ligne serpentine » (蛇の動きのようにうねりながら進む線)の解釈については、ラヴェッソンとベルクソンとの乖離は明らかであり、この点でベルクソンはドミニック・ジャニコーによって厳しく批判されている(ジャニコーのラヴェッソン論については六月二十一日の記事を参照されたし)。
 ラヴェッソンにとって「蛇形の線」とは、存在論的な真理の素描であり、それを画家が捉えて描き出す技法は、描かれる対象から偶発的なものを排除し、その対象の本質的なものを見えるものとして引き出し、その物の定義を与えるためのものもである。したがって、その本質的なものは、描かれたものそのものの「背後あるいは彼方」(つまり物体的客体としての素描を超えた目に見えない次元)あるいはその「手前」(つまり描き手の側の目に見えない精神的な次元)にそれ自体として在るのではなく、その素描そのものにおいて現成していると考えられている。
 ところが、ベルクソンにとっては、作品としての素描は、その背後に「単純な思想」(« pensée simple »)を見出すために乗り越えられるべきものでしかない。画家によって捉えられる〈動き〉とは、目に見える線の背後にあり、さらにはその動きの背後に「何かもっと秘められたもの」、「形と色の無限の豊穣さと等価な単純な思想」があり、それを探究するために画家は描くのだとベルクソンは考える。このような解釈を、ジャニコーは「観念論的誤り」として糾弾するのである。
 このようなラヴェッソンとベルクソンのダ・ヴィンチの絵画論を巡っての乖離の理由は、ベルクソンがラヴェッソンの習慣論を不十分にしか評価できなかった理由と同じである。その理由を一言で言えば、ベルクソンはあらゆる物質性の彼方に持続する内的生命をどこまでも探し求めていたのに対して、ラヴェッソンは物質的に多かれ少なかれ限定された無限に多様な形それぞれに生命の顕現の形式を認めていたということである。


夏休み日記㉖ 精神によって思惟される存在の生成軸としての線

2014-08-29 13:43:02 | 哲学

 一昨日と昨日の記事でアニメーションの描線のことを取り上げたとき、ある一連のフランスの哲学者たちのテキストと彼らが参照している一人の芸術家のテキストとを私は念頭に置いていた。それらの哲学者とは、ラヴェッソン、ベルクソン、メルロ=ポンティであり、芸術家とは、レオナルド・ダ・ヴィンチである。
 メルロ=ポンティは、『眼と精神』の第Ⅳ章で、描線を対象それ自体の実定的な属性や固有性として捉える考え方、例えば、林檎の輪郭あるいは耕作地や草原の限界線が世界の中にあたかも点線として現前するものとし、鉛筆や筆はそれをなぞるだけだとする、線についての「散文的な」考え方を示した上で、そのような線は、近代絵画のすべて、そしておそらくはあらゆる絵画によって異議を唱えられているものだとして、ダ・ヴィンチの絵画論に言及する。
 ところが、面白いことに、そこでの引用は、孫引きならぬ曾孫引きになっている。メルロ=ポンティが引用しているのは、ベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と著作」の一節なのであるが、そのベルクソンのテキストに引用されているのは、ラヴェッソンがある教育学辞典のために執筆した項目「デッサン」で言及しているダ・ヴィンチの絵画論なのである。メルロ=ポンティは、絵画を生み出す線についての自分の考察をこれらの名前によって代表される思想の系譜の中に位置づけた上で、そこから独自の絵画論を展開し、さらにはその絵画論から存在論的含意を引き出そうとしている。
 これらのテキスト、つまり、ダ・ヴィンチの絵画論、ラヴェッソンの素描論、ベルクソンのラヴェッソン論、メルロ=ポンティの『眼と精神』は、いずれも極めて興味深いテキストであり、実際それぞれ大いに研究されてもいるわけだが、他方では、ラヴェッソンのダ・ヴィンチ解釈、ベルクソンのラヴェッソン解釈、メルロ=ポンティのラヴェッソンとベルクソンに対する批判等、それぞれに問題を孕んでもいて、それら全部について考察することは、「絵画にとって線とは何か」という問題についての美学的考察を深め、さらには、「線とは何か」という端的な問いを存在論的問いとして或は形而上学的問いとして追究する途の一つを開いてくれる。
 今日のところは、メルロ=ポンティが引用しているベルクソンのテキストを、省略されている箇所を復元し、引用箇所の前後も含めて原文で引用し、その後に野田又夫訳(ラヴェッソン『習慣論』岩波文庫に「附録」として収録されている)を示して、締め括ることにする。

Il y a, dans le Traité de peinture de Léonard de Vinci, une page que M. Ravaisson aimait à citer. C’est celle où il est dit qu l’être vivant se caractérise par la ligne onduleuse ou serpentine, que chaque être à sa manière propre de serpenter, et que l’objet de l’art est de rendre ce serpentement indidivuel. « La secret de l’art de dessiner est de découvrir dans chaque objet la manière particulière dont se dirige à travers toute son étendue, telle qu’une vague centrale qui se déploie en vagues superficielles, une certaine ligne flexueuse qui est comme son axe générateur. » Cette ligne peut d’ailleurs n’est aucune des lignes visibles de la figure. Elle n’est pas plus ici que là, mais elle donne la clef de tout. Elle est moins perçue par l’œil que pensée par l’esprit (« La vie et l’œuvre de Ravaisson », Le pensée et le mouvent, PUF, 2009, p. 264-265.)

レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」の中には、ラヴェッソン氏が好んで引用した一節がある。そこにはかくいはれている。生物は波形即ち蛇形の線によって特徴づけられ、すべての存在者はその固有のうねり方を有ち、芸術の目的はこのうねりを個性的ならしめることである、と。「素描の芸術の秘訣は、すべての対象の中に、それの全表面に亙って ―― 恰も中心的な一つの波が表面的な多くの波に発展するように ―― その生産軸ともいふべき或曲りくねった線が運動し行く特殊な様式を、発見することである。」しかしてこの線は、図形に於て目に見える線の何れでもないことがある。それは彼処になくて此処にあるといふやうなものではなく、全体を啓く鍵なのである。それは眼によって認められるといふよりも精神によって思惟される(91頁)。


夏休み日記㉕ 自己形成的な描線から生命の躍動へ

2014-08-28 12:11:11 | 随想

 昨日の記事で『かぐや姫の物語』の中でもとりわけ印象深いシーンの一つであるかぐや姫の疾走シーンを話題にした。このシーンは、映画の予告編で使われていたこともあり、映画公開以前からいろいろと話題にもなっていたようである。しかし、私はそのような予備知識一切になし映画を観て、このシーンから圧倒的な印象を受けた。それは極点にまで達した怒りと悲しみの疾走であり、そこには私たちがこれまで形成してきたかぐや姫の伝統的イメージを一挙に粉砕してしまうだけの強烈なエネルギーがこもっていた。
 私たちがアニメーションを観て感動するのは、そのストーリーや登場人物の生き方・在り方によってであることが多いかもしれない。しかし、あのシーンは、前後のストーリーを抜きにしても、それ自体で観るものを感動させる何かがあった。それは何なのだろうか。私は次のように考えた。
 私たちがそこに見たのは、生命の息吹から生まれ出た自己形成的な形である。その形は、ものを一定の領域・枠組みの中に閉じ込めてしまう輪郭線によって描かれうるものではなく、そのような反生命的傾向を持った線に収まりきらず、それを突き破ってさらに遠くまで、さらに多方向に進もうとする躍動的な描線によってのみ表現され得る。このような自己形成的な生命の描線は、生物にのみ現われるものではなく、ものを描く〈手〉を通じて、万象に伝播しうる。そのような生命の自己形成的な描線の躍動を目の当たりにするとき、私たちは言い知れぬ感動を覚える。


夏休み日記㉔ 線描によって躍動するアニメーション

2014-08-27 17:49:51 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした『ユリイカ』2013年12月号に掲載された高畑勲へのインタヴュー「躍動するスケッチを享楽する」についての感想の補足。
 高畑の映画製作のモティーフの一つに、スケッチの持っている特性をアニメーションに活かすことはできないかということがあった。これはすでに『となりの山田くん』で試みられていたことだが、『かぐや姫の物語』ではその技法がとことん追求されている。
 この技法は、次の三つの基本特性を持っている。その第一は、省略である。例えば、寝殿造りの建物の細部まで描きこまず、そこに人物を動かすことで、生ける空間を現前させ、場面全体として生動させる。第二は、動性である。一本の輪郭線に整理されてしまう以前のスケッチの動的な線のことである。これは、かぐや姫が都の邸宅から幼少期を過ごした田舎へと疾走していくシーンに見事なまでに結実している。第三は、非完結性である。あるシーン自体が一つの絵として完結しておらず、そのことが観る側にそのシーンを超えた世界への想像力を喚起する。
 これらのスケッチの特性を活かしたアニメーションの作製は、それがとくに長編の大規模な作品であるとき、技術的に極めて困難であるばかりでなく、多数の有能なスタッフによる膨大かつ緻密な作業を必要とする。高畑自身、『かぐや姫の物語』についてよくこんなすごい作品が出来たものだと思っており、「それを成り立たせてくれたスタッフたちみんな、とりわけ中心人物である田辺修、男鹿和雄ですよね。彼らがいたからこそ出来たんです。すごい才能の持ち主です」と言っている(78頁)。
 描線の持っている躍動性をアニメーションに活かすという技術的な革新を多数のスッタフの緊密かつ高度な共同作業によって長編アニメーションとして実現したということだけでも、『かぐや姫の物語』は「商業アニメーション百年の歴史上に突然現れた、全く新しい作品」(細馬宏通「線と面」『ユリイカ』同号、175頁)になっていると言えるのだろう。


夏休み日記㉓ 積極的な無常観から内在論の哲学へ

2014-08-26 11:36:00 | 読游摘録

 一昨日観た『かぐや姫の物語』の余韻に浸りながら、昨日はプールと買い物に出かけた以外は日がな一日『ユリイカ』2013年12月号の特集「高畑勲『かぐや姫の物語』の世界」を読み耽っていた。高畑勲、プロデューサーの西村義明、かぐや姫の声を担当した朝倉あきの三人への三つの独立したインタヴュー(タイトルはそれぞれ「躍動するスケッチを享楽する」「日本一のアニメーション映画監督と過ごした八年間」「無心で演じたかぐや姫」)、アニメの歴史に精通した細馬宏通と奈良美智との対談(「アニメの歴史を変える映画」)、神道史、歴史学、古代文学、日本文学、社会学、比較文学、文芸批評、コミュニケーション論、アニメ評論、画家、美術家など実にさまざまな分野の研究者あるいは実践者たちによる『かぐや姫の物語』を巡るエッセイや小論文からなる読み応えのある特集である。
 私はとりわけ高畑勲へのインタヴューを興味深く読んだ。聞き手であるフランス文学研究者の中条省平の大仰な賞賛と度外れな解釈にはいささか鼻白む思いを禁じ得なかったが、高畑の応答の中には、はっとさせられる発言がいくつもあった。例えば、3・11の東日本大震災に触れている箇所で、日本の庶民が持っている「積極的な無常観」について、高畑は次のように言っている。

大震災でなくても毎年何かしらかなりの災害が起こる。そんな危険なところに住まなきゃいいのにと思うけれど、住んでいられるのはある種の無常観があるからです。何が起こるかわからない。しかし、何があっても生きていきましょうという強さがある。無常というのは絶望ではなくて、強さななんです(74頁)。

 常ならぬこの世を襲い続ける災害に苦しみ、それらをその都度嘆き悲しみつつも、その無常性をそのままに受け入れ、何があっても生きていく。時間を超えた不変の実体に依拠するのでもなく、超越論的自我の牙城に立てこもるのでもなく、この世に揺蕩い、予期せぬ出来事に心身ともに揺すぶられ、それによって必然的に沸き起こる喜怒哀楽とともにこの世の生々流転を生き抜いていくという庶民の強さを高畑は積極的に肯定したいのだろう。
 この「強さ」は、圧倒的な威力で人間に襲いかかる自然の猛々しさを前にして、物理的には「弱さ」でしかないかもしれない。実際、毎年多くの被害と犠牲者が生まれる。しかし、この物理的な「弱さ」をそれとして受け入れる人間の心身の受容性は、「不動にして絶対確実なもの」を措定しそれに依拠して生きることをしないという精神的な「強さ」の情感的基底となりうる。そしてこの基底から、次のような「内在論の哲学」がもつべき真理の概念を精錬し、それを把握する知の実践へ途が開かれると私は考える。

そのような真理の概念は、超越的な客体を根拠とするのでもなく、また超越論的な主体をその基礎とするのでもなく、それら双方を一時的で歴史的なものでしかないものに変換しながら、同時にそれら客体と主体の動的な再編成を要求するそういった歴史的生成を本質とするものであるだろう。そしてそのような真理を把握する知とは、みずから知の限界を知ることで問いを提起すると同時に、その問いを解くことでみずからの知の限界を侵犯し、その限界を引きなおすようなそういった弁証法的で歴史的なものであるだろう(近藤和敬『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』月曜社、2011年、261頁)。

このような真理を把握しようとする「内在論の哲学」における知とは、普通に想像されるような意味でなにかを計算できることでもなければ、なにかをよく覚えていることでもなく、あるいはなにかをうまく説明できることでもないだろう。むしろそれは、既成の知の安全地帯のそとで問いを立てることができるという力のことだと言わなねばならない。なぜなら問いを立てることができるということは、つまりみずからの無知を自覚するということであり、それゆえにみずからの知の限界をつねに乗り越える潜在性を現在の無知が秘めているということでもあるからだ。したがって、「内在論の哲学」における真理の概念は、知そのものの理解に基づくべき教育の考えかたにも大きな変化をもたらすことになる。「内在論の哲学」における教育とは、同一の結果を生み出すことのできるなにものかを訓育するものではなく、現在の不可能性を問いとして直視することに耐えつつ、それを解決可能な問題へと粘り強くつくりかえていく歴史的ポイエーシスを支え助けるものでなければならない(同書262-263頁)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏休み日記㉒ 『かぐや姫の物語』を観て

2014-08-25 08:07:21 | 雑感

 昨日日曜日、ストラスブールで唯一『かぐや姫の物語』を水・土・日にそれぞれ一回だけ午前十一時から上映している映画館で観た。料金はたったの4€50。上映開始時間二十分前に映画館に着き、座席数八十席の小さな上映室に一番乗り、中央の席に陣取った。開始時間が迫るにつれて、パラパラと客が入ってきたが、観客は私を含めて十二名。幼稚園児とおぼしき可愛らしくもお喋りな女の子をつれた父親、小学校低学年とおぼしき大人しい女の子を連れた母親、二十代と思われるカップルが一組。私の隣の席に老婦人が一人。その他の観客は、私の席のある列の背後の席だったので、上映終了後に席を立つ時に見かけただけだったが、男女それぞれ二人ずつ、皆一人で観に来た人たち、ばらばらに座っていて、年齢も様々。
 映画そのものはどうだったか。アニメーション映画としての映像の革新性、そこから生まれるこれまでのアニメーション映画になかった躍動的な映像美、ストーリーの細部の至るところに込められた一度観ただけでは捉えきれない豊かな意味性、全編を貫くこの世の生命についての問いかけの深さなどに深く感じ入りながら観ることができた。ただ、極めて残念だったことは、フランス語版だったので、主役のかぐや姫を担当した朝倉あきやその他の役を担当した日本の名優たちの声で聞けなかったことである(フランス語版の出来は、吹き替えとしては決して悪くはなかったが)。このことは、この映画が映像作成前にセリフを全部録音するプレスコだっただけに、観ていながらなおのこと欲求不満をつのらせた。一部に関してはアフレコによって置き換えられたとしても、基本的に全編それぞれの役者さんの声に合わせて映像が作られいて、特にそれらの声に合わせて登場人物たちの所作の細部が仕上げられていったからである。オリジナル版だけで十全に実現されているであろうこの声と身体的所作のシンクロニシティを観賞するのは、フランスでは十月二九日予定のDVDの発売まで待たなくてはならない。
 第一回目の鑑賞後の私の最初の感想は以下の通り。
 有限、未完・不完全で、多かれ少なかれ穢れた生き物以外ではあり得ない人間にとって、そこでこそ生きたいと願う〈理想郷〉への最終的回帰は予め禁じられている。しかし、この回帰不可能性を苦痛と悲しみとともに自覚することそのことの現実性の中に〈理想郷〉は永遠にそれとして生きられている。だからこそこの地上の生は限りなく愛おしい。ラストシーンで、月へと帰ってゆくかぐや姫が地上での一切の記憶を失っていこうとしている時、地球を振り返りながら無言の裡に残したのは、このようなメッセージだったのではないだろうか。


夏休み日記㉑ ストラスブール市営プール通年フリーパス購入

2014-08-24 06:03:59 | 雑感

 六月にストラスブールに来た時にすでに二回利用しているので、まったく初めてではないのであるが、アパートから徒歩五、六分のところにある最寄りの最新設備の市営プールを昨日から本格的に利用し始めた。昨日の誕生日を記念して市営プール共通の通年フリーパスを購入した。133€(約18300円)也。これで一年間いつでも回数・時間制限なしにどの市営プールも利用できるようになった。最寄りのプールは、二年前に全面改装されたばかりで、環境・設備ともに抜群である。日本ではおそらく例がない北欧タイプの屋外プールで、屋外であるにもかかわらず通年オープンしている。ストラスブールの冬は寒い。真冬には気温がマイナス十度くらいまで下がることがある。それにもかかわらず通年オープンということは、おそらく冬場は水温を高めに設定するのだろう。しかも、更衣室から外気に触れずに、まず室内で全身を温水に浸してから外のプールに直接出られるような構造になっている。この構造は、ストラスブールから車で五十分ほどで行けるドイツのバーデン・バーデンカラカラ浴場の構造と同じである。こちらの浴場にはかつてストラスブールに暮らしていた時には時々行っていた。確かに真冬でも一旦肩まで温水に体を沈めてから外に出れば寒くない。今から楽しみである。
 それにしてもこの夏のフランスの寒さは悲しい。いくら日本で酷暑をたっぷり味わったからといって、ここまで寒いと、あの照りつける太陽が恋しくなる。ここのところ日中の最高気温は二十度前後で、昨日などは午前中から夕刻にかけて雨が秋の長雨のようにしとしと降り続けていた。もう夏の陽射しは帰って来ないのであろうか。


夏休み日記⑳ 悲喜交々、馬齢を重ねつつ、これからの罪の償いを想う

2014-08-23 00:13:36 | 雑感

 昨日朝、何度か研究会で世話になったことがあるアルザス欧州日本学研究所のスタッフの一人から、プライベートで日本から旅行に来ている先生が会いたいと言っているが都合はど うかというメールが突然届く。存じ上げている先生であり、こちらも特に予定がなかったので、喜んでご一緒するとの返事をすぐに返す。昼、カテドラルのすぐ近くのアルザス地方料理専門の有名店の一つ Muensterstuewel で、ストラスブール大の同僚も一緒に会食。
 話題は主にその先生の現在置かれている極めて困難な状況についてだった。私にはそれがその先生にだけ生じた特殊な問題とは思えず、何か現代日本社会の構造的な歪みの一つの結果のように思われた。話を聞きながら、日本の大学は、一つの閉鎖的な権力構造を形成しており、それが独立行政法人化によって拍車をかけられ、学内には民主主義の理念も希薄になり、基本的人権の尊重も疎かにされ、何よりも他者の立場に立って考える他者感覚の欠如は深刻なまでに進行しているとの印象を持たざるを得なかった。
 夜には娘に電話をして、パリ政治学院の留学生向けウェルカム・プログラムの初日の様子を聞く。全般的な説明は英語、その後小グループに分かれてのオリエンテーションは仏語だったという。新入生の45%が外国人学生、その国籍は80カ国に上るとのこと。話を聞いていると、一昨日昨日に比べて、娘の声が若干明るくなっているのが分かる。新しい世界への扉が開かれていくことにワクワクし始めているのだろう。
 さて、今日、八月二十三日は、私の誕生日である(だから、どうした)。ギロチンによって処刑されたルイ十六世の誕生日と同じ日である(意味不明)。「いたずらに馬齢を重ねる」という表現があるが、これは馬に対して大変失礼な言い方である。いたずらに年齢を重ねがちなのはむしろ人間の方であろう。一人勝手に年齢を重ねるだけならまだしも、家族や人様に迷惑をかけながら年齢だけは重なっていくというのはなんとも情けない話であるばかりでなく、罪深い話でさえある。
 今、私は、自分の人生を卑下もしないし誇りもしない。一回限りの人生に対して、どちらも無益無意味な態度だと思われる。自分に残された日々がどれだけあるのか知らない。ただ、これからの一日一日が罪の償いに値するものでありたいとは願う。


夏休み日記⑲ 一つ一つ生活に必要な物を揃えていく

2014-08-22 09:25:38 | 雑感

 昨日の午前中は、前日夜に日本からフランクフルト経由でストラスブールに到着した留学生の大学宿舎入居手続きに付き添う。
 宿舎はまだ本格的な入居開始前で閑散としていたが、受付窓口には何人か学生たちや彼らの付き添い者が並んでいた。窓口の担当者もまだ学生アルバイトとおぼしき若い女性たちが大半で、その対応には覚束ないところがある。そのせいで二つの建物の間を行き来させられたが、無事必要な支払いを済ませ、部屋の鍵を受け取ることができた。部屋はまあまあ綺麗であり、窓の正面にはかなり離れたところに別の宿舎があるだけで、空が大きく広がり、正面の建物の右手にはカテドラルも見える。まずまずの住環境と言うべきか。しかし、インターネットの接続に関しては、まだ新年度用の受付頁が CROUS de Strasbourg のサイト上にアップされておらず、差し当たりは待つしかない。ストラスブール中央駅前のホテルに預けておいたスーツケースを取りに帰り、中央駅からまた路面電車で宿舎に戻るところまで同行して別れる。
 午後二時に大学人事課に書類のサインのために立ち寄る。手続きは十分ほどで済んだので、仕事机の上に置く電気スタンドを探しに市の中心部に引き返す。ところが、そもそもまともな品揃えがある店が見つからない。仕方なしにインテリア用の小物を扱う店に置いてあった小さなスタンドでとりあえず我慢することにする。作りはまあまあしっかりしている。デザインは極普通。ただ、仕事用としては機能性に欠ける。
 七月十七日に越してきて四日後の二十一日には日本に発ち、戻ってきたのが一昨日。引っ越し後の生活の立ち上げが中断したままであり、しかもまったく家具も台所設備もないアパートであるから、まだ足りないものだらけ。しかし、もう当分引っ越す気はないから、慌てずに、ゆっくりと、一つ一つ必要な物を買い揃えていこう。