リュティガー・ザフランスキーによるショーペンハウアーの伝記『ショーペンハウアー 哲学の荒れ狂った時代の一つの伝記』(法政大学出版局、1990年)の第二刷(2005年)を購入したのは昨年一月のことだった。以来、気にはなりつつも、ところどころ拾い読みしただけで通読することはなかった。月末締め切りの原稿が一昨日仕上がり時間に余裕ができた年末までの数日で本書を読み上げることにした。
昨日、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の中の植物についての考察が引用されている箇所に行き当たり(365頁)、それがとても印象に残った。ここに読書記録として書き写しておきたい。ただし、引用するのは、中略がある伝記からではなく、西尾幹二訳(中公クラシックスの電子書籍版、2013年)から当該箇所全文である。
自然のなかでもわけても植物界が、われわれに向かって美的な観察をするようにうながし、いわば否応なしにそれをするように迫ってくるさまは、目を見張らされる思いがする。そのため誰でも次のように言ってみたい気持ちになるかもしれない。すなわち、植物は動物の身体のように、それ自体が認識の直接的な客観ではないので、植物は盲目的な意欲の世界から表象の世界のなかへ姿を現わすためには、たぶん悟性をもった別種の個体を必要とするのであろう。そのため植物は、意欲の世界から表象の世界へ姿を現わすことをいわば憧れていて、直接的に自分ではできないことをせめて間接的にでも達成しようとするのであろう。
これはかなり大胆で「夢想となりかねない」思想だから、完全に未決定のままにしておきたいとショーペンハウアーはこの直後に付け加えている。「なぜならこのような思想を鼓吹したり是認したりするのは、自然をきわめて親密かつ献身的に考察したあかつきにはじめて可能になることだからである」というのがその理由である。
死の前年1859年刊行の『意志と表象としての世界』第三版の当該箇所にショーペンハウアーは以下のような注を付している。
ここに述べた思想をわたしがじつに控えめにためらいながら書き留めてから四十年たった今、聖アウグスティヌスがすでに同じ思想を表明していることを発見して、わたしはそれだけいっそう嬉しい気がするし、驚いてもいる。すなわち、「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」〔『神国論』第十一巻第二十七章〕
この発見はショーペンハウアーにとってほんとうに嬉しかったのだろう。だからこの注を付けずにはいられなかったのだろう。
1872年2月、フランス人法学士ブスケ(Georges Hilaire Bousquet, 1846-1937)が司法省明法寮(のちの司法省法学校)の教師として26歳の若さで来日する。1876年5月に帰国するまでの四年余り日本に滞在する。当時未開の法制面に顧問として十分にその役割を果たした。ブスケに代わり、長期にわたって日本の法制の整備に多大な貢献をしたのがボアソナードである(梅渓昇『お雇い外国人』講談社学術文庫、2007年に拠る)。
ブスケは帰国した翌年に Le Japon de nos jours という二巻本の浩瀚な日本見聞録を出版している。原書は BNF の Gallica で閲覧できるし、ダウンロードもできる。(邦訳は『日本見聞録』というタイトルで、みすず書房から1977年に刊行されているが、未見)。
本書の中でブスケが記している日本人の仕事ぶりが興味深い。『逝きし世の面影』からの孫引きになるが引用しよう。
日本人の働き手、すなわち野良仕事をする人や都会の労働者は一般に聡明であり、器用であり、性質がやさしく、また陽気でさえあり、多くの文明国での同じ境遇にある大部分の人より確かにつきあいよい。彼は勤勉というより活動的であり、精力的というより我慢づよい。日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果している。しかし彼の努力はそこで止る。……必要なものはもつが、余計なものを得ようとは思わない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようとしないし、一つの仕事を早く終えて、もう一つの仕事にとりかかろうとも決してしない。一人の労働者に何かの仕事を命じて見給え。彼は常に必要以上の時間を要求するだろう。注文を取り消すと言って脅して見給え。彼は自分がうけてよいと思う以上の疲労に身をさらすよりも、その仕事を放棄するだろう。どこかの仕事場に入って見給え。ひとは煙草をふかし、笑い、しゃべっている。時々槌をふるい、石をもちあげ、次いでどういう風に仕事にとりかかるかを論じ、それから再び始める。日が落ち、ついに時間がくる。さあこれで一日の終りだ。仕事を休むために常に口実が用意されている。暑さ、寒さ、雨、それから特に祭である。……一家を支えるにはほんの僅かしかいらない。
幕末から明治前期に来日した欧米人たちが遺した観察記録の中には、今日の日本人と同じような勤勉ぶりを称賛する記述が見られる一方、他方では、このブスケの見解のように、日本人の働かなさぶりを驚きとともに記述している例も少なくない。
スイスの通商調査団の団長として1859年に来日したルドルフ・リンダウ(Rudolf Lindau, 1829-1910)も、その著書 Un voyage autour du Japon(Hachette, 1864. 邦訳『スイス領事の見た幕末日本』人物往来社、1986年)でやはり日本人の働かなさぶりに言及している(日本人のうちの「多くは、まだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほどに無精者である」)。一昨日の記事で話題にしたグリフィスにも(「日本では時は金ではなく、二束三文の値打ちもないことがわかった」)、昨日の記事のモースにも(「日本人は何をやるにしてもゆっくりしているので、外国人は辛抱しきれなくなる」「自分の助手たちは何でも喜んでやるが、時間の価値をまるで知らない」)と、同様な見解が見られる(上記三例は、石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』角川ソフィア文庫、2019年に拠る)。
幕末から明治前期にかけて、少なからぬ欧米人の眼にかくも「無精者」と見えた日本人が数多くいたというのはとても興味深い。明治中期以降、日本人が世界に冠たる勤勉な労働者になった(あるいはならざるを得なかった)ことで得たものも多かろう。しかし、それによって決定的に失われたものもあったことがこれらの記述からわかる。
昨日引用した『逝きし世の面影』第二章「陽気な人びと」のグリフィスの手紙の一節の直後には、グリフィスの態度とは対照的なエドワード・シルベスタ・モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)の学問的な姿勢が紹介されている。その紹介の段落は、「しかし、共感は批判におとらず理解の最良の方法である」という一文から始まる。モースの引用は『日本人の家とその周辺』(Japanese Homes and Their Surroundings, Boston, Ticknor and Company, 1886, p. 22)からである。
他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民族学の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略のうえからも、ずっと有利なのである。
In the study of another people one should look if possible through colorless glasses; though if one is to err in this respect, it were better that his spectacles should be rose-colored than grimed with the smoke of prejudice. The student of Ethnology as a matter of policy, if he can put himself in no more generous attitude, had better err in looking kindly and favorably at a people whose habits and customs he is about to study.
モースは、「わたしはたぶん、ばら色の眼鏡をとおして事物を見るという誤謬を犯しているのかもしれないが、かりにそうだとしても、釈明したいことは何ひとつない」(“I may have erred in looking through spectacles tinted with rose; but if so, I have no apology to make”)とまで言い切っている。それは、「このような調査をおこなうには、対象に対する共感の精神を持たなければならない。そうしなければ、見落としとか誤解とかが多くなる」(“Such an investigation must be approached in a spirit of sympathy, otherwise much is lost or misunderstood”)というモースの信念から来ている。
渡辺氏は第二章を「われわれはこのような共感者に対しても、おなじく感謝を捧げねばならない」と結んでいる。
これら幕末から明治期前半にかけて来日した欧米人たちが遺してくれた日本及び日本人についての観察と見解から私たち日本人は学ぶべきことが今もなお多々あることを『逝きし世の面影』は教えてくれる。
渡辺京二の『逝きし世の面影』の英訳が Remnants of Days Past: A Journey through Old Japan というタイトルで出版文化産業振興財団(Japan Publishing Industry Foundation for Culture=JPIC)から2020年に出版されている。本書はその全編を通じて英語原典からの引用に溢れているので、原文を確かめるのに好都合だと思い紙版・電子書籍版の両方を購入した。元の日本語版にはない書誌情報も若干追加されているのもありがたい。
ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843‐1928)は、アメリカ人の「お雇い外国人」第一号であり、日本に関して十数冊の著作がある(新渡戸稲造『武士道』に一度名前が出てくる。梅渓昇『お雇い外国人』[講談社学術文庫、2007年]の「学術文庫版あとがき」にグリフィスについての若干の言及がある)。そのグリフィスが日本政府から1908年に勲四等の旭日章を贈られたときの「よろこびだけでなくおどろき」を記した手紙が本書第二章「陽気な人びと」に引用されている。
というのは私は日本と日本人を批判するのをやめたことはけっしてないからです。……私はこれまで日本人にへつらったことはありませんし、単なる身びいきで彼らを擁護したこともありません。西洋に対する東洋の通訳たらんとする努力において、私は科学の学徒の精神で進んでまいりましたし、私の意図は、民族的であれ宗教的であれ社会的であれ、偏見と無知と固執の壁を打ち破り、恐怖も偏愛もなしに真実を述べることにありました。だからこそ私は、自分の国と国民に対してと同様に、あらゆる日本の事物を自由かつ忌憚なく批評してきたのです。
英語原文は以下の通り。
I have never ceased to criticize Japan and the Japanese…I have never flattered the Japanese or Have (sic) I defended them in a mere partisan spirit. In endeavoring to be an interpreter of the Orientals to the Occidentals I have proceeded in the spirit of the scientific student, my aim to break down the wall of prejudice, ignorance and bigotry whether ethnic, religious and social, and express the truth, without fear or favor. Hence I have criticized all things Japanese as freely and unreservedly as I should my own country and people.
Edward R. Beauchamp, An American Teacher in Early Meiji Japan, Hawaii University of Hawaii Press, 1976, p. 140.
渡辺氏はこの引用の後に「われわれはこのような批判者をえたことに感謝してしかるべきである」とコメントを付しているが、私もその通りだと思う。
昨日、渡辺京二氏が逝去された。齢九十二歳。死因は老衰。自宅で息を引き取られたという。天寿を全うされたという表現がふさわしく思う。新聞・テレビなどの報道では、評論家、思想史家、日本近代史家などと紹介されているが、ご本人はそのいずれでもないと思っていらっしゃったのではないか。自らを「独学者」と考えていた。
手元には、『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)、『黒船前夜』(洋泉社)、『バテレンの世紀』(新潮社)の紙版があり、電子書籍版では、『幻影の明治』(平凡社ライブラリー)、『維新の夢』(ちくま学芸文庫)『民衆という幻像』(同文庫)、『無名の人生』(文春新書)、『父母の記』(平凡社)を所有している。
『逝きし世の面影』を最初に読んだのは数年前のことだ。衝撃的だった。幕末から明治初期の名もなき庶民の生き方についてそれまで漠然と抱いていたイメージがことごとく覆された。その文章に魅せられた。歴史研究者の文章ではない。論文には使えない生き生きとしたエピソードが実に巧に鏤められている。
本書は古き佳き失われた日本の礼賛本ではない。『幻影の明治』に収められた新保祐司氏との対談の中で渡辺氏自身、「これは、日本人の書き手として、日本人がこんなによく書かれている、嬉しいな、という本ではない。むしろあえて言えば、西洋人の立場から、日本は面白い、と書いた本だと思う。[…]要するに人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人なんです。そういうものとして読んでいかないと面白くないし、また単に面白いエピソードを並べるだけでもしょうがない。そうしたエピソードを自分自身の時代把握の中でどう配置するかが重要です。」と述べている。
以後、上掲の著作を次から次へと読んだ。そして今でも繰り返し読んでいる。自ずと愛読したくなる文章なのだ。歴史叙述としてこれほど楽しんで読める文章はそうそうないのではないだろうか。
『バテレンの世紀』と『逝きし世の面影』とは講義「近代日本の歴史と社会」で毎年言及する。それはそこに叙述されたエピソードの面白さを知ってほしいからだけではなく、日本近代を捉え直す視点を学んでほしいからだけでもなく、何よりもその文章を味わってほしいからだ。
昨夜は、氏の冥福を祈りつつ、上掲の諸著作のところどころ読み直して過ごした。
漢語としての「文化」は、古代中国から使われていた語で、「武力や刑罰などの権力を用いず、学問・教育によって人民を教化すること(説苑・指武)」(『漢辞海』第四版、2021年)である。同辞書は第二の意味を「文字の運用能力や図書に関する知識」としている。そして第三の意味は「人間が理想の実現のために果たしてきた精神活動と、それが生み出した物質的財産の総称。学問・芸術・法律・政治などの総称」となっている。私たちは通常この第三の意味で「文化」という語を使っている(ただし、今の現実社会においても政治について「文化」という語を使えるのだろうか)。
「カルチャー」となると、単独で用いられることは少なく、「サブカルチャー」とか「カルチャーセンター」とかの合成語として使われることが多い。この「カルチャー」を「文化」に置き換えられるかというと、必ずしもそうではない。「カルチャーセンター」というはいわゆる和製英語で、『新明解国語辞典』(第八版)によると、「一般社会人を主対象とする各種の教養講座」である。これに対して、「文化センター」というと、「文化」の前にさらに限定語を加えて何か特定の文化を対象としている場合が多いのではないだろうか。
では、culture はどういう意味か。上掲の漢和辞典の第一の意味はない。第二の意味も派生的であって原義ではない。第三の意味は現代の用法としては culture にも当てはまる。
「文化」の「化」には人や物事を変化させるという意味があるが、その動的性格は culture にもある。それは cultiver という動詞に由来することで、その原義は「耕す」ことである。
何を耕すのか。大地を耕せば agriculture である。人間の魂を耕すこと、それが culture である。人間の魂を耕すとはどういうことか。それは教養を身につけることである。しかし、ここでいう教養とは、自分の専門外の広い知識のことではない。
マルク・フマロリは、『哲学の慰め』に寄せた序文の中で、ボエティウスは、キケロが cultura animi というときの cultura の根源的な意味を回復させたという。その意味とは、端的に言えば、魂の「存在理由」ということである。この意味での「文化(あるいは教養)」とは、「虐げる者によって打ちのめされた人が、その虐げる者に立ち向かい、崩折れることなく、己の信じるところを固く守ることを可能にするもの」である。
この意味での「教養」を身につけることは、よく生きていくために必要な精神的修練(exercice spirituel)である。
現在 Payot et Rivage社の « Petite Bibliothèque » という文庫版に収められている『哲学の慰め』の巻頭には Marc Fumaroli による三十頁を超える序文が置かれている。その序文のはじめの方でフマロリはおよそ次のようなことを言っている。
『哲学の慰め』が読者に引き起こした讃仰は、それが書かれたときの著者の「悲劇的な」状況とはほとんど関係がない。本書はヨーロッパ文学及び思想の傑作の一つで、それ自体で自足している。著者はやがて処刑されることを知りつつ、繰り返される拷問の合間に本書を書いたのだということを私たちがまったく知らなくても、本書は傑作であり続けるだろう。
しかし、どのような状況の中で本書が書かれたか知ることも無駄ではない。その理由として、暴政と死に直面して思想によって一人の人間が至りうる偉大さを本書は証言しているからだとフマロリは言う。
当時のキリスト教界はボエティウスに冷淡であった。そして以後も彼を列聖することはなく、ただ「幸いなるもの」とするだけだった。敬して遠ざけるというに近い。その大きな理由は、ボエティウスの哲学的思考はキリスト教に負うものがほとんどないことである。ボエティウスの哲学はプラトンに何よりも多くを負っていた。
この点に関しての現在の専門家たちの意見を私は知らないが、畠中尚志は訳者解説の中で次のように述べている。
キリスト教的感化はと言へば、これは従来全く否定的に解されるの慣はしとなつてゐる。事実、本書はキリスト教徒が死の関頭に於て書いたものであるにかゝはらず一度も主の御名にすがることをしてゐない。其処に説かれてゐるのはあくまで理性の福音であつて、信仰のそれではない。この一見奇異な現象から推して、彼は実はキリスト教徒でなかつたのだ、或ひは平素抱いてゐたキリスト教を最後の日に於て放棄したのだ、とする見解が広く行はれて来た。然し推論をそこまで進めることは慎むべきであらう。当時の学者としての彼には、哲学はギリシア、信仰はキリスト教といふ二重的態度があり得たと思はれる。キリスト教とは別に、哲学の中からも宗教的慰めを得るといふことが十分可能だつたのであらう。彼は今哲学を問題とし周囲の万物を理性的に説明しようとしてゐるのであって、神学と啓示とを説かうとしてゐるのではない。だからその中に信仰する魂の表白が特に示されてゐなくても不思議とは言へぬのである。それに本書の思想は、キリスト教精神と背馳しはしない。大局的観点に於てそれはこれと結局調和し得るのである。(『畠中尚志全文集』、p. 175)
畠中が言う「二重的態度」が仮に可能だとしても、中世西洋においてキリスト教界がそれを是認しはしなかったことも事実である。にもかかわらず、本書が西洋で広く読まれたのは、本書の思想がキリスト教精神と背馳はせず、大局的には結局調和し得るからだとするだけでは、見方としてやや穏健にすぎはしないだろうか。しかし、哲学の慰めはあらゆる宗教と独立に可能なのであるかどうかという問いに今答えを出せるだけの準備が私にはできていない。
今日のところは、フマロリに依拠しつつ以下の一点を指摘して記事を締めくくる。
当時、古代ローマ世界においてキリスト教は「近代」を代表し、プラトンやアリストテレスに代表されるギリシア哲学思想はキリスト教よりはるかに長い歴史がある「古代」を意味し、ボエティウスが苦心していたのは、その伝統をいかにキリスト教内に移植するかということであった。
『哲学の慰め』は、ボエティウスが反逆罪の科で525年に処刑される直前、獄中で書かれた。中世末期前後まで西洋で最も広く読まれた哲学書である。
畠中尚志訳が岩波文庫の一冊として刊行されたのは1938年のことで、以後、改訳されることもなく2001年あたりまで刷を重ねてきたようだが、今ではもう古本でしか手に入らない。仮に入手できたとしても、活字も相当に摩滅しているであろう。
『畠中尚志全文集』に収められた訳者解説「ボエティウス――生涯・業績・文献」は、十二頁ほどだが行き届いた内容で、今日の事典類に見られる記述よりもはるかに充実している。当時としては日本で最高水準の内容だったのではないかと思われる。『全文集』刊行をきっかけに復刊あるいは現代表記での改版が出ることはないだろうか。
その他の訳としては小林珍雄訳(1949年)、渡辺義雄訳(1966、1968、1985年)があるが、こちらも絶版で、古本でしか手に入らない。
来年一月に京都大学学術出版会から松崎一平訳『哲学のなぐさめ』(西洋古典叢書)が刊行される。学術的にきわめて厳密な仕事であろう。アマゾンで予約注文しておいた。
フランス語訳は手元に三種ある。いずれも現在流通しており簡単に入手できる。日本語でも、学術出版とは別に、もっと入手しやすい形で新訳が出てもいいのではないかと思う。例えば、光文社古典新訳文庫あたりはどうだろうか。
今日は日中気温が十二度まで上がった。先週末の大寒波が嘘のようである。昨日も今日も明け方から昼ごろまで雨が降ったこともあり、もう雪は跡形もない。
午後から晴れ間も広がった。ただ、風が強かった。ジョギング中、向かい風のときは押し戻されるように、追い風のときは背中を押されているように感じられ、横風のときはバランスをくずしそうになるほどだった。
天気予報によれば、ノエルは雨模様の暖かい日になりそうだ。ノエルの後、年末に向かって少しずつまた気温が下がっていくようだ。
年末が締め切りの原稿は今日書き始めた。この論文の基礎となる二つの草稿と既発表の論文が三つあるので、そんなに時間を掛けずに仕上げられるだろう。
畠中尚志訳『アベラールとエロイーズ――愛と修道の手紙』の訳者解説の中に、アベラール最晩年の姿を伝える尊者ピエール(ペトルス・ウェネラービリス Petrus Venerabilis)のエロイーズ宛の書簡がかなり長く引用されている。とても感動的な文章だ。弔辞として死者を讃える意味合いもあり、聖人伝的な定型も混じっているだろうし、エロイーズへの配慮も働いているであろうから、すべて額面通りには受け取れないにしても、アベラールが最晩年に至り着いた境地を見事に描き出している。
この尊者ピエールは、伊東俊太郎の『十二世紀ルネサンス』(講談社学術文庫、2006年、原本、岩波書店、1993年)に「十二世紀において西欧とイスラムの間に立っていた、最も善意ある良識に富むキリスト教聖職者として」詳しく紹介されている。
ジャック・ヴェルジェ(Jacques Verger, 1943-)の L’amour castré. Histoire d’Héloïse et Abélard, Hermann, 1996 にも尊者ピエールのエロイーズ宛の書簡は「十二世紀が私たちに遺した最も美しいテキストの一つ」(p. 184)として、その内容が詳述されている。