内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

皐月晦日に暗い空からそぼ降る冷たい雨をなんと呼べばよいのだろう

2024-05-31 14:50:01 | 雑感

 初夏らしい晴れた日が片手で数えられるほどしかなかった寒い五月を締めくくる今日も朝から冷たい雨が降っていた。深夜から降り始めたその雨の音は防音性の高い二重窓越しにも寝床にまで微かに聞こえてきた。日の出は五時半なのに七時近くなってもまだ夜明け前のように暗かった。
 今朝は大学まで出向く用事が一件あった。この夏ストラスブール市内にある漫画専門店で研修をする学生の研修契約書に大学側の責任者として署名するためである。一分もかからずに済むこの用件のためだけに路面電車に乗って大学まで往復した。外気温は十三度前後、外出には本来秋冬に着るジャケットや防寒着が必要だった。
 五月末日に暗い空からそぼ降る冷たい雨をなんと呼べばいいのだろう。
 倉嶋厚・原田稔編著『雨のことば辞典』(講談社学術文庫、2014年)を開いてみた。「五月雨(さつきあめ)」という言葉がある。「陰暦の五月ごろじめじめと降りつづく長雨。「梅雨」「五月雨(さみだれ)」と同意。また、「皐月雨」「五月雨(さつきさめ)」「五月の雨」「さづきあめ」などとも。要するに「梅雨」のことだが、五月雨(さつきあめ)のほうに古風なひびきがある。」ただ、「さつきあめ」という響きと「五月雨」という字面とからは、今降っている雨に私が感じている冷暗さは伝わらないだろう。
 「氷雨(ひさめ)」は、「冬の、凍るように冷たい雨」あるいは「晩秋の冷たい雨」というのが現代語としての意味だが、本来は夏の季語で、雹や霰を指す言葉だった。さらに語史を遡れば、霙・霰・雹・大雨の意で、『雨のことば辞典』は『日本書紀』「神武天皇紀」戊午年十二月の記事中の「時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷(ひさめ)ふる」という一文を用例として挙げている。角川書店『合本俳句歳時記』第五版(2019年)は、立項された「雹」の下に「氷雨」を置き、「冬ではなく夏の季語」と念を押している。『雨のことば辞典』は、冬の季語としても認められていると記しているが、典拠・用例は示していない。上掲のいずれの意に取るにせよ、今日の雨を「氷雨」と呼ぶのはいささか適切さに欠けるうらみがある。
 答えを見いだせないままのこんな他愛もない言葉探しにうつつを抜かしているうちに、あわれ時は静かに寂しく過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


汝はいずれのことばのなかで死にたきや

2024-05-30 22:59:30 | 雑感

 自分がどんな死に方をするのか、もちろん皆目わからない。あなたはどんな死に方をしたいですか。そう街頭で突然聞かれたとする。どう答えるか。この質問を予期してあらかじめ用意しておいた答えではなく、いきない短刀を突きつけられるようにその場でそう聞かれたらどう答えるか。
 多分、しどろもどろになりながら、あんまり苦しまずに死にたいですねとか、あたりさわりなく答えるだろうと想像する。
 他方、こうも思う。今際のきわ、フランス語での応答は勘弁願いたい。もうすぐ死ぬのだとわかっているときにまで、母語ではない言語でなにか言わなければならないのははなはだしい苦痛だろうと想像する。もちろんこれは人によるだろう。
 こうも自問する。母語である日本語の湯浴みのなかでならば穏やかに死ねるのか、と。わからない。孤独、無視、差別、排除、慚愧、悔恨など、ずっと苦しまされ苦しんできたことがかえってより深く身を苛み、間違った生き方をしたことに対する苦しみが増すだけなのかもしれない。
 まあ、結局、自死を選択しないかぎり、死に場所も死ぬ時も死に方もわからないし、最後の言語を云々する暇もないだろうが。ただ、exil あるいは exilé という言葉がこのごろひしひしと身に沁みる。
 こんなせんなき愚痴を綴ったのは、もっぱら私の心の弱さのなせるわざで、誰のせいでもない。だからたまたま私においてそのきっかけとなった、それ自体は名著である本の次の一文を著者名も著作名も伏せて引用する。なぜなら、それらを明示することは、その著者に対して失礼であるし、その著者がその一節で言及している作家に対しても不穏当なことにしかならないから。

ことばで生きるものにとって、それによって生かされていることばが、身のまわりに聞こえないところで死ぬのが、なによりも淋しいのではないかと、考えたことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


花散里、「源氏が忘れていた唯一の名」― ユルスナール「源氏の君の最後の恋」の残酷な結末

2024-05-29 15:33:38 | 読游摘録

 源氏が愛した女性たちのなかで、花散里ほど印象が希薄な女性はいない。『源氏物語』には彼女の容姿についての記述がほとんどない。「初音」の巻に、花散里が歳をとって薄くなってきた髪を見て、鬘をつけて飾ったらいいのにと源氏が批判的な眼差しを向けている(「御髪などもいたく盛り過ぎにけり。やさしき方にあらぬと、葡萄鬘してぞつくろい給ふべき」)のが目につくくらいである。
 ところが源氏は彼女を終生大切にした。豪壮な六条院に迎え、紫上と同じように邸内の一角を与えて面倒を見ている。須磨へ流謫している間も花散里の生活を支えている。帰京してからは、自邸の二条院の東の院を与え、夫人の一人として遇している。息子の夕霧の教育を母親代わりになってしてくれるように頼み、夕顔の忘れ形見の玉鬘をやはり親代わりになってほしいと託してもいる。二人は性愛を超えた穏やかな睦まじさを最後まで保っていたと想像される。
 このように地味な仕方ではあるが終生源氏に愛された控えめな花散里をマルグリット・ユルスナールは源氏の「最後の女」として「源氏の君の最後の恋」に登場させる。しかも、一度は村娘に変装して、そして今一度は大和の国の国司の妻と素性を偽って、源氏との思いを遂げる情人としてである。
 その花散里が源氏の最期を看取ることになる。今際の際に源氏は愛した女たちの名前を次々に挙げ、その最後に、数ヶ月前に訪れた村娘と、今こうして自分の脚をやさしくさすりながら最後を看取ろうとしている大和の女の想い出を口にする。
 その直後、源氏はがっくりと頭を固い枕の上におろす。それを見てぶるぶると体を震わせながら花散里は源氏に向かって、あなたのお邸にはもうひとり女がいなかったか、その名は花散里ではなかったかと問いかける。しかし、源氏はすでにこときれていた。

花散里はあらゆる慎みをかなぐりすてて、泣き叫びながら地にひれ伏した。しおからい涙が雷雨のようにはげしく頬を流れ、両手でかきむしった髪はひきちぎった絹綿のように逆だった。源氏が忘れていた唯一の名はまさしく彼女の名であった。

La Dame-du-village-des-fleurs-qui-tombent se jeta sur le sol en hurlant au mépris de toute retenue ; ses larmes salées dévastaient ses joues comme une pluie d'orage, et ses cheveux arrachés par poignées s'envolaient comme de la bourre de soie. Le seul nom que Genghi avait oublié, c'était précisément le sien.

 ユルスナールはなぜかくも狂おしく残酷な運命で花散里を絶望に追いやる結末にしたのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「何もなしですませる、という至上の贅沢」― ユルスナール『東方綺譚』所収「源氏の君の最後の恋」より

2024-05-28 19:20:59 | 読游摘録

 今月このブログで何度か話題にした帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』には、「シェイクスピアと紫式部」と題された一章がある。Negative Capability という概念を創造したジョン・キーツが、それをもっとも豊かに持っていたのがシェイクスピアだと弟たちに宛てた手紙に書いていたのだから、シェイクスピアについて割かれた章があっても驚くにはあたらないが、紫式部と組み合わされているのにはいささか驚かされた。紫式部にネガティブ・ケイパビリティを見出すことには満腔の賛意を表する。
 ただ、同章で『源氏物語』に魅了された外国作家としてフランスの大作家マルグリット・ユルスナールを挙げて、ユルスナールの『東方綺譚』に収められた短編「源氏の君の最後の恋」をかなり詳しく紹介しているのは、帚木のユルスナールに対する特別な思い入れから出たことのようで、この紹介の部分がネガティブ・ケイパビリティの例証になっているかどうかは疑問である。
 それはともかく、Gallimard 社の L’imaginaire 叢書版 Nouvelles orientales でわずか十四頁の「源氏の君の最後の恋」がユルスナールならではの洗練された表現に満ちた佳品であることは確かであろう。幸いなことに、日本語でも多田智満子の名訳(『東方綺譚』白水社、白水Uブックス、1984年)で読むことができる。原書と多田訳とが現在の枕頭の書である。両者を交互に読んでいる。
 この短編のはじめのほうで目に止まった一節を書き留めておく。自らの死の遠からぬことをさとった源氏の君は、最期を迎える場所として鄙の山里にある庵を選んだ。

侘住居は楓の老木のかげにあった。折しも秋の候、この美しい樹は庵の屋根を金色の落葉で覆っていた。この地での孤独な生活は、波瀾に富んだ青年時代、異郷で過ごした長い流謫の日々よりもさらに簡素でさらにきびしいものであって、この洗煉されきった貴人は、何もなしですませる、という至上の贅沢を遂に心ゆくまで味わうことができたのである。

La maisonnette s’élevait au pied d’un érable centenaire ; comme c’était l’automne, les feuilles de ce bel arbre recouvraient son toit de chaume d’une toiture d’or. La vie dans cette solitude s’avéra plus simple et plus rude encore qu’elle ne l’avait été au cours du long exil à l’étranger subi par Genghi durant sa jeunesse orageuse, et cet homme raffiné put enfin goûter tout son saoul au luxe suprême qui consiste à se passer de tout.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北墓地 ― 死者たちは争わず、そこにいつまでも眠っているだけだ

2024-05-27 16:21:55 | 雑感

 自宅から北に直線距離にして三百メートル足らずのところに Cimetière Nord という南北に縦長の18ヘクタールほどの墓地がある。日中は一般に開放されており、その中心部のフランス式庭園を自由に散策することができる。自転車での乗り入れもペットの持ち込みも禁止されている。職員たちによってよく手入れされている園内は穏やかな静けさがいつも領している。
 ストラスブール市最大の墓地だが、万聖節などの特別な日以外には、墓参で訪れる人をまばらに見かける程度である。園内のチャペルで葬儀が行われる日には多数の参会者を見かけることもある。墓参目的ではなく園内を散策している人やベンチに座って瞑想しているかのような人も時々見かける。
 ほぼ毎日、ジョギングの行きか帰りに、あるいは行き帰りともに、園内を通過する。ときには庭園を周回することもあるが、庭園周囲の歩道は舗装されていない部分が多くて走るのに快適とは言えない。園内でジョギングしている人に出会ったことがないから、もしかすると私だけかもしれない。でも、ジョギング禁止とはどこにも書いてない。個々の墓の敷地内に入り込むわけではないから不謹慎ではないと思う。
 縁故者や友人や知人がこの霊園内に眠っているわけではない。私はまったくの余所者だ。だから何も感じないというのではない。むしろ不思議な安心感をおぼえる。死者たちは争わず、そこにいつまでも眠っているだけだからだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


満々と水を湛え悠然と流れてゆく大河のほとりを歩けば、大抵のことはどうでもよいと思える、かな?

2024-05-26 05:00:51 | 雑感

 昨日土曜日の午前中、私としてはかなり(つまり、人によっては、それがなにか?という程度の些細なことなのですが)不愉快なことがあって、ああ、そういうことなの、だったら、私、もう降りますわ、って、まあ、例によって、諸方にご迷惑がかからないぼやけた仕方でしか言えないのですが、結局、あんたたちって、どうしようもなくつまらない人たちだねぇ、って、ほんとうは言いたい気分なのです。
 でも、人が聞いてうんざりするだけの話を愚痴るのは趣味じゃないので、そんなことがあった後どうしたかという、これもまた、どうでもよくて、誰も聞きたいとは思わない話であるとわかってはいるのですが、それくらいしか今日は書けない気分です。
 で、どうしたか。おもしろくねぇ、じゃ、走って気分変えるかって、走ろうとしたのです。でも、今日は呼吸器系の調子が悪くて、一キロも走ると、喉が締め付けられるように苦しくなり、走れない。しかたないね。苦しいのに無理して走る理由もない。歩くことにしました。ああ、こんなときにかぎって、うらめしくなるほどいい天気なのです。
 で、歩いた。自分的にはかなり速歩で。ときどき走りもした。だが、すぐに苦しくなって続かない。去年までみたいに走りたいだけ走り続けることはもう二度とできないのかもしれない。でも、悪いことばかりじゃなくて、歩いているときのほうが、いろいろ考えられます。それはそれで楽しい。
 ウォーキング&ジョギング、二時間あまり、計十五キロ。結果、午前中の不愉快は一掃され、ちょうど今日の記事に添付した写真のような気分になりました。この写真は昨日ウォーキング中に撮影したライン河です。満々と水を湛え悠然と流れてゆく大河のほとりを歩けば、大抵のことはそう気にすることもないのかなって思えるようになります。
 まあ、それも幻想でしょうけれど、さしあたり、それでいいじゃないですかってことで、今日は失礼させていただきます。
 皆様よき日曜日を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


米津玄師とモーツアルト ― 喜びも悲しみもそこから

2024-05-25 19:36:43 | 私の好きな曲

 記事のタイトルからありえそうな誤解をあらかじめ避けるために申し上げておきますが、米津玄師がモーツアルトに匹敵する作曲家であるという趣旨ではありません。
 現在放映中の朝ドラ『虎に翼』をNHKオンデマンドで毎日拝見しています。先日もちょっと触れましたが、主題歌「さよーならまたいつか!」、ほんとうにいい曲だなって思うのです。で、どうしてそう思うのか、ちょっと考えてみました。
 直前の朝ドラ『ブギウギ』の主題歌「ハッピー☆ブギ」と比べると、私個人にとってはその差は歴然としています。『ブギウギ』も全回視聴、回によって数回見直すほど楽しんでいました。いい作品でした。特にステージでの趣里さんの歌唱はどれも素晴らしく、とりわけ「娘とラッパ」を初めて福来スズ子が歌うシーンは何度見ても感動してしまいます。でも、主題歌は好きになれなかった。その日のエビソードに合っているときもあったけれど、まったくぶち壊しにしか思えない回も多々あって、主題歌はほぼ全回スキップしていました(これができるのがオンデマンドのよいところです)。
 ところが、「さよーならまたいつか!」は毎回必ず聴いています。というか、自ずと聴きたくなるのです。完全にドラマと一体化していると言ってもいいです。その日のエピソードがどんな内容でもこの主題歌は違和感がないのです。それには水彩画タッチのイラストレーションも貢献していることは間違いありません。それも含めて、この朝ドラのオープニングは稀な傑作だと思っています。
 と、ここまで考えて、ゆくりなくも(出ました! 昨日の記事で話題にした言葉です)、モーツアルトのクラリネット五重奏曲イ長調K.581の第二楽章のことを思い出したのです。
 より正確に言うと、チェリストのヨーヨー・マがこの楽章について言っていたことを思い出したのです。もう三十年以上昔のことで、記憶には多分にあやふやなところもあるのですが、あるドキュメンタリー番組でヨーヨー・マがこの楽章について、結婚式にもお葬式にも使える「普遍的な」名曲だという趣旨の発言をしていたのです。それがとても印象に残ったのです。
 喜びのときにも悲しみのときにもふさわしい曲というのはそうめったにあるものではないと思うのです。そのような曲のみが、喜びも悲しみもそこから湧き出して来る感情の源泉と言えるような深みから聴く者の心を動かすのではないでしょうか。
 モーツアルトには、クラリネット五重奏曲だけでなく、ピアノソナタにも、弦楽四重奏曲にも、交響曲にも、協奏曲にも、喜びも悲しみもそこからという感情の深みと共鳴する作品があると私は感じます。
 米津玄師の「さよーならまたいつか!」も、そういう心の深いところに触れてくる名曲なのではないかと私は思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ゆくりなく」はなぜ「思いがけないことに」という意味になるのか調べたら

2024-05-24 23:59:59 | 詩歌逍遥

 その日どんな話題を記事にしようかあらかじめ決めてなく、ただ書き出しの言葉だけが念頭にあるときがある。今日の記事では、「思いがけないことに」と言うかわりに「ゆくりなく」というちょっと古風な言葉を使おうと思っていた。この言葉、なぜだか自分でもよくわからないのだが、多分響きのせいだろうか、お気に入りの言葉の一つだ。ただ、どうして「ゆくりなく」が「思いがけないことに」という意味になるのか気になり、調べだしたら、そっちのほうが面白くなってしまったので、それを今日の話題にする。
 この語は、このブログでもたびたび参照している私の大のお気に入りの辞典『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、二〇一一年)に立項してある。その解説によると「副詞ユクユク(他人の気持ちなど構わないでものをするさま)やナリ活用の形容動詞ユクリカ(突然だの意)と同根。ユクは相手の事情や心情を考えずにする意で、リは状態を示し、ナシは程度のはなはだしいさまを表す接尾語。思いがけないことが突然起こるさまの意。」なるほどと得心がいく。
 『古典基礎語辞典』や『全訳読解古語辞典』(三省堂、二〇一七年)が用例として挙げている万葉歌が佳作だ。ただ、この歌、第一句の訓みや歌の解釈がいくつかあって、それがまた面白い。まず岩波文庫版の漢字仮名交じり表記で引用しよう。

ゆくりなく今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を(巻第十・二二八四)

 現代語訳は「偶然にでも今すぐ見たいものだ。秋萩のようにしなやかなだろうあなたの姿を」となっていて、注釈には「初句は、ふとした拍子にの意。原文は「率尓」。[…]約束して逢うのではなく、今すぐ偶然にでも見かけたいという気持ちか。いつも絶えず見ていたいと詠うのが恋歌の常だろうが、ここは、今の今どうあっても見たいという差し迫った心を詠う。」とある。
 ところが、伊藤博の『萬葉集釋注』は岩波文庫版とは違った訓みと解釈を示している。

いささめに 今も見が欲し 秋萩の しなひにあるらむ 妹が姿を

 伊藤はこの歌の意をこうとっている。「ふっと、今すぐにでも見たい気持ちがこみ上げてくる。今頃も秋萩のようにしなやかに振る舞っているあの子の姿は、ああ。」つまり、「今すぐにでも会いたい!」という気持ちが、思いがけず突然にこみ上げてくるという意に取っている。ところが、初句の訓みは「いささめに」としている。この訓みを採用した理由が『釋注』には示されていない。しかし、「いささめに」は万葉の時代から「かりそめに」「いい加減に」の意であり、訳との整合性にやや欠ける。
 私としては、初句の訓みは岩波文庫版の「ゆくりなく」を採り、歌の解釈は伊藤訳に賛意を表したい。素人にはこんな詩歌逍遥のしかたもあってよかろうと、専門家諸氏のご海容を乞う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雨中雑感

2024-05-23 15:24:22 | 雑感

 五月に入っても雨の日が多くて、一日晴れた日は数えるほどしかない。先週金曜日は文字通り一日中雨で、アルザス地方でも各地で洪水や住宅への浸水の被害があった。私が住んでいる地区を取り囲んでいる川も水嵩が増し、いつもは緑色の穏やかな川面が泥色の濁流に変貌してしまっている。幸い、自宅付近の土手が決壊する心配はなく、浸水の恐れもない。書斎の二重窓越しに隣家の鬱蒼たる樹々が強雨に打たれて葉を震わせているのを無声映画のように眺めているだけならば、しみじみとした情感に包まれた読書に耽ることもできる。
 ただ、こんな天気では日課のジョギングが思うようにできない。一日強雨が続いた先週金曜日はさすがにジョギングは諦め、学生との面談のために出向いた大学までの行き返りと近所のスーパーへの買い物がてらの都合六キロほどのウォーキングで我慢した。その他の日は日中ずっと強雨ということはなく、小雨になるか一時的には雨が上がり、ときには晴れ間が見えるときもあった。その間を狙って「今だ」とばかりにジョギングに出かける。途中で多少降られるのは覚悟の上。
 今、午後三時過ぎ、かなり強い降りだ。あてにならない天気予報をいくつか検索してみたが、夕方小降りになるか一時的に上がるかもしれない。その時はすぐにジョギングに出られるようにと今から着替え、ジョギング・シューズも履いて机に向かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「これは、おそらく、天国への階段ではなく、地獄への落とし穴なのだろう」― 誰にも話を聞いてもらえない、動脈硬化に苦しむ独居老人のつぶやき

2024-05-22 05:12:01 | ブログ

 出し抜けなのですが、敢えて大嫌いな言葉を連続して使います。この二日間、ほんとうにたくさんの「学び」と「気づき」をいただいて、マジ感謝です!(うわっ、こう言った瞬間にその言葉を唾奇のように吐き出したくなる!)
 今言ったこととぜんぜん関係ないのですが、朝ドラ『虎に翼』、フランスにいながらオンデマンドで毎日一話ずつワクワクしながら観ています。ドラマの内容自体ももちろん素晴らしいのだけれど、それとともに、米津玄師の主題歌「さよーならまたいつか!」、いいなぁ。毎日聴いているのに、その日のストーリーの内容とは関係なしに、聴くたびにちょっとウルウルしてしまうのです(― 爺ちゃん、言いにくいんだけどぉー、病院行ったほうがいいかもよ)。
 さて、それはともかく、規模としてはミニチュア・レベルなのですが、ネット上でどのようにして「バズる」ということが発生するのか、そのメカニズムの一端を今自分のブログに生じていることを通じて垣間見ているところです。
 昨日の記事で告白しましたとおり、全体で300万件以上ある登録ブログのなかで拙ブログが9位になったことだけですでに開いた口が塞がらないほどに驚嘆していたのですが、その翌日である今日、天国から地獄に転落することを覚悟していたのにもかかわらず、なんと3位にまで上昇したのです。
 これって、私的には、テニスのグランドスラム大会の一つで、例えば来週始まる全仏オープンで、それまでまったく無名でやっとのことで予選一回戦に参加できたランキング100位以下のプレーヤーが準決勝まであれよあれよと勝ち残ってしまったくらいの衝撃なんですよね。
 と言った瞬間、でも、それとはまったく違うじゃん、とすぐに気づきます。だって、テニスだったら、それはなんだかんだ言って、本人にそれだけの力があるっていうことじゃないですかぁー(私、この言い方、実はすごく嫌いで。いつからなのでしょうか、特に女性たちがこの言い方を使うようになったの。マジ、虫酸が走る!― 爺ちゃん、そんな態度じゃ、女性に嫌われるだけでなく、はっきり言って、これからの世の中、生きていけないと思うよ)。
 ネットで「バズる」っていうのは、本人の実力とはほぼまったく関係ありません。少なくとも今回の私のケースはまったく関係ありません。拙ブログのある記事にブログを運営するスタッフの方がありがたくも「いいね」をしてくださいました。ただそれだけです。そのことに私は感謝しかありませんが、それがこのような数値をもたらすことに私は驚く、いや、恐怖さえ覚えるのです。
 何十万人、いや何百万人というフォロワーをもつ、世に言うところのインフルエンサーが、ちょこっと「いいね」をしたら、ほとんど直感的に、言い換えれば無思考的に、それに「賛同」あるいは「同調」して、膨大な「群衆」が群がる(って書いて、気づきました。これって冗語ですね。群衆は群がるから群衆なのですから)。
 それがいい意味で社会を動かすきっかけになりうることがあることは私も否定しません。でも、それは民主的ではない、と言いたい。なぜなら、民主的ということは、一人ひとりの意見を尊重するということだからです。それに耳を傾けるためには、どうしても、時間も手間もかかるのです。ただ、あらゆる場合に民主的であることが最良だ、とは言いませんが。
 でも、手間暇を全部すっとばして、たった数秒間で「いいね」数万件って、マジ怖い。おそらく、それは天国への階段ではなく、地獄への落とし穴なのではないかと、あらゆることに乗り遅れ、身よりもなく、老後に大きな不安を抱えている年寄りは、愚痴る相手もない孤独な陋屋で虚空に向かってつぶやくしかないのでありました。