内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語で哲学する(二)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-02-28 05:45:21 | 哲学

 『万葉集』巻五・八九四の山上憶良の長歌にあるごとく、「大和の国」は、古来、「言霊の幸はふ国」ということになっている。ところで、現代日本は、どうであろうか。哲学の分野に話を限ると、かの「ことだま論」の大森荘蔵が孤軍奮闘の感があり、大森亡き後、大多数の現役哲学者および哲学研究者たちは、「コトダマ? ふん、なに寝ぼけたこと言ってんの」と一笑に付すことであろう(因みに、この大森の「ことだま論」についてだが、現在仏訳が進行中で、他の大森の論文と併せて、近い将来にフランスで出版される予定であり、その訳者は、このブログの管理人だということである)。
 ここで横道に逸れる(これ、「自分のことを棚に上げる」に次ぐ、私の第二の得意技。履歴書に書いてもいいくらい。― 旦那ぁ、こういっちゃぁなんでござんすが、まだ短い一段落書いただけでござんすよ。いっそのこと、「ソレル・ヨコミチ」ってな、国籍不明なペンネームでもお使いになったら、いかがでござんすか。― うむ、悪くないのぅ、考えておこう)。
 さて、その横道である。今さっき、「哲学者および哲学研究者」と併記したが、両者は、同義語ではないのはもちろんのこと、類義語でさえない。同種でもないし、「哲学」という同じ河の流れの中で、今西錦司が提唱したような平和的な「棲み分け」をしている、判明に区別されうる二つの種社会でもない。それどころか、天敵のごとく互いに反目しあうか、仲間たちだけで群れて(注:これは研究者たちのみに観察される現象である。注の注:日本の研究者の中には、世界中どこに出しても恥ずかしくない、まさに真摯できわめて優秀な方々も少なからずいらっしゃいます。その方たちを敵に回すつもりは、ゴザイマセン)、群れに加わらない個体(注:哲学者は、その定義上、あるいはその生態学的特性からして、群を構成しない)の無視を決め込むか、あるいは上から目線で互いに軽蔑し合うという、現代日本にとって大変不幸で、きわめて非生産的な関係にあることがほとんどである。これは日本に限ったことではないが、日本において特に著しい現象であるように私には思われる。
 そして、両者の社会的地位ということになると、それはもう月とスッポンほども違う。哲学研究者のほとんどは大学教師であり、つまり職業的研究者であり、一流有名(一流無名などそもそもあるか?三流有名というのはありか?)大学の哲学教授ともなれば、社会的信用度も高く(つまり、都市銀行の住宅ローンなどで優遇されやすい)、実際それなりにお金も持っているらしいが、哲学者となると、職業も定かではない。自分の名刺に、「経営コンサルタント」と肩書を打つ人や、「公認会計士」と国家資格所有者であることを堂々と示す人はいても、職業として「哲学者」と、名前の脇に、たとえ電子顕微鏡で見なければ見えないほど小さな活字でさえ、印刷させている人は、冗談でないかぎり、極少数に限られるであろう。しかも、どこでどのように暮らしているのかさえ世間ではあまりよく知られておらず、一般に金回りは芳しくないようである(セレブな哲学者なんて、想像できます?)。
 さらに一言付け加えると、自称他称を問わず、「セイヨウテツガク」研究者は、日本全国の大学に多数棲息していることが確認されているが、「セイヨウ」哲学者なる種に属する個体が日本の領土内で確認されたという学術的な調査報告は聞いたことがない。それでは、「ニホン」哲学者という種は、日本国内に存在し、学界(って、どの?)においてもそれとして認知されているのだろうか。「ニホンザル」が存在するという事実から類推して、その存在を仮説的に想定することは人類学的観点からは学術的にも許されるかもしれないが、この点、京都大学霊長類研究所に問い合わせてみる必要があるだろう。しかし、もっと深刻な問題は、そもそも「テツガクシャ」という生物種が日本に棲息しているかどうかにさえ懐疑的な生物人類学者も少なくないことである。
以上の哲学社会学(って、そんなん、あった?)的考察から、以下のような、暫定的ではあるが、日本の将来にとってきわめて悲観的な結論を引き出さざるを得ないことを遺憾に思う。
 一般に、論理的には、哲学者でありかつ哲学研究者であることは不可能ではないが、日本の現実社会においては、その社会構造からして、それは、ほぼ不可能である。しかも、前者にとって、日本の風土はきわめて厳しい生態環境であり、それにもかかわらず、そこで「テツガクシャ」として逞しく生き抜くためには、ゴキブリに匹敵する生命力を必要とするであろう。
 さて、本題に戻ろう(って、何が本題でしたっけ?)。私の見るところ、我が祖国「美しい日本」は、世界でも有数の、「現象学の幸はふ国」である。この極めて興味深い「社会現象」(と思っているのは私だけかもしれないし、日本における現象学の社会的影響力のナノテクノロジー的微小さからして、「不適切な表現」との誹りを免れ難いと予想されるが、それはともかく)と、山上憶良の歌に見られるような古代日本人の「言霊の幸はふ国」という自国認識との間には、いったいどんな関係があるのであろうか。一見なんの関係もなさそうである。実際、まったくないであろう(なんだよぉ、さんざん気を持たせやがって、木戸銭返せ!― お客様、お言葉ですが、拙ブログは入場無料でして、いかなる営利団体とも関係ゴザイマセン)。
 おお、何が本題か、思い出したぞよ(お願いしますよぅ、殿ぉ)。それは、昨日の冠詞問題とも密接に関係している問題なのだが、「単数・複数意識」(この表現は、井筒俊彦のある短いエッセイのタイトルから拝借した。明後日の記事でこの大変示唆的なエッセイの中身を紹介する)のことであった(「御意!」)。
 だが、今日はもう疲れているし(えっ!)、そろそろ来週の講義の準備も始めないといけないし(聞いてないし)、おお、それに思い出したくないことを思い出してしまった(何?)。「中古文学史」の試験答案の採点もしないといけないのだ(そんなこと)。いつまでも目を背けていたい恐ろしい現実であるが、そういう現実ほど、「前よりしも来らず。かねて後に迫れり」なんだよなぁ(知るか!)。だから、この続きは、明日にしよう(あのぅ、大殿ぉ、今日の記事って、いったい何だったんでしょうか?)。












日本語で哲学する(一)― 日本語で生きられている現象学的態度

2015-02-27 09:59:59 | 哲学

 フランス語には限らないが、欧米の言語で書くときに日本人を悩ます問題の一つに、冠詞の問題がある。相当の上級者でも冠詞の付け方には迷うことしばしばであり、逆にこの「関門」を透過できている人は、なかなかの使い手であるとみなして差し支えない。だから人の書いた仏文をチェックする時はまずそこを見る。それだけでその書き手の実力についておよその見当をつけることができるからだ。
 一般的に、日本人は定冠詞を使い過ぎる、というか、不定冠詞でなければならないところに定冠詞を置いてしまいがちである。この傾向は、文法的知識が十分ではないという単に語学的な問題に還元することはできない。ちょっと大袈裟に言えば、これは、定冠詞の有っている強い対象限定力を、仮に文法的知識としては持っていても、直観的現実認識の態度としては体得できていないということを意味しているからである。
 例解として、一つのエピソードをお話ししよう。
 もう十数年前のことだが、ともに博士論文を準備していた日本人の友人から後日談として聞いた話である。友人のその論文の中には、自分の指導教授の説に批判的に言及している箇所があった。そこで、その友人は、「◯◯教授は、Xの哲学を誤解している」と言いたかった。もちろん、教授の説を全面的に否定したかったのではなく、ある点において十分には理解していないところがあるという限定的な異議申立てがしたかっただけなのである。ところが、そこで、迂闊にも、その友人は、定冠詞を使ってしまい、 « la philosophie de X » としてしまったのだ。それを草稿段階で見た指導教授は、その定冠詞を指さしながら、ゆっくりと、穏やかな声で、「まさか君はここで私が「Xの哲学をすっかり誤解している」と言いたいのではないですよね」と友人に問いかけ、定冠詞の使い方に十分注意するようにと助言してくれたそうである。つまり、そこでの定冠詞は、Xの哲学全体を一つの特定可能な対象として限定してしまっていたのである(「やっちまいましたね、姐さん(べつに兄貴でもよい)」、というところである)。
 これは、定冠詞の使用例としてはごく易しい方で、ちょっと注意すれば、回避できるミスなのだが、それだけに、うっかりすると、大変失礼な物言いになってしまう、あるいは、それこそ大変な誤解の種になってしまいかねないから、やはり蔑ろにはできない問題なのだ。
 定冠詞と不定冠詞の間の選択という問題は、それでも、限定か非限定かという一点に絞って理詰めに攻めていくだけでもかなり問題を克服できる。それに対して、不定冠詞と無冠詞と間の選択という問題には、もっと微妙なケースが多々あり、私もよく迷う。しかも、迷った挙句にフランス人に聞いても、意見が分かれたりするから(はっきりせんかい!)、これはまあ、フランス語学研究者でもなければ、そう深刻に悩まなくてもいいのかもしれない(それに、いちいち悩んでいたら、論文が書けなくなるし)。
 私がこんな語学四方山話をくだくだしながら、実は提起したい(だったら、はよせんかい!)より重要な問題は、冠詞に表現されている世界了解の態度である(またまた大きく出ましたねぇ)。
 これは、冠詞を不可欠とする言語の方が思考においてより厳密であるなどというアホな話をするためではなく、冠詞認識(こんな術語はないが、仮にそう名づけておく)がある言語による世界了解の仕方と冠詞のない日本語による世界了解の仕方とは、おのずと異なっているということを、哲学の問題として考えるための問題提起である。
 「なーんだ、そんなことか。だいたい英語を習い始めればすぐに出くわす問題じゃないか。学校文法でも嫌というほどやらされたよ。それに、言語学的にも、すでに散々論じられてきたことだよ。今さら哲学が何さ」と、すっかり白けてしまった御仁もいらっしゃるかと推察するが、まあ、それはそれで仕方ござらん。どうもここまでお読み下さり、貴重なお時間を無駄にさせて、誠に申し訳ございませんでした。
 「っていうか、あのさぁ」と、別のもう少し辛抱強い御仁は発言を求めるであろう、「ぜんぜん今日の記事のタイトルの話になってないじゃん。せっかくタイトル見て、少し期待していたのになぁ」― ああ、それはもうその通りでございます。お詫びの言葉もございません。今日の記事を書き始めた時は、もっと真剣(ってことは、今は真剣じゃあないわけ?)だったのですが、だんだん話が横道に逸れて、お恥ずかしい話ですが、とうとう帰り途がわからなくなってしまったというわけでして。
 ただ一言、負け惜しみを言っておく。この冠詞の問題を、単に語学的なレベルでしか考えられない人は、哲学には向いていません(なんだよぉ、いきなりぃ)。もうちょっとキツい言い方をすると(やめといたほうがいいと思うけど)、冠詞が不可欠な言語で哲学の論文(に本当は限らないけど)を書いていて、冠詞の問題に悩むセンス(っていうのがあるんですよ、ホントウに。悩まない人って、幸せだけど、やっぱり不幸なんですよ、だから。って、また負け惜しみか!)のない人は、哲学の勉強を即刻お止めになったほうがいいと思います(あーあ、言っちゃったぁ)。
 というわけ(どんなわけ?)で、明日からは、少し真面目に、今日の記事のタイトルに少しでも相応しい記事を書いていきたいと愚考つかまつっております。
 これから、いつものプールに寒中雨中水泳に行ってまいりまするぅ。













言葉の森の中の日仏往還思考 ―「心身景一如」論文の余白から

2015-02-26 17:24:44 | 哲学

 先週土曜日から始まった一週間余りの冬期休暇中、心身景一如論文の日本語版作成に最初の四日、その仏訳にこの二日、朝から夜までただ只管に机に向かった。三月二日の締切りを目前に控えつつ、ちょっと大袈裟に言えば、背水の陣で臨んだが、覚悟していたよりは難住せずにどちらも終えることができて、今は少しホッとしている。
 日本語版の方が、八八〇〇字(四百字詰め原稿用紙で二十二枚。もう何十年とパソコンで原稿を執筆しているにもかかわらず、今でもこっちの数え方が長さの目安としてはピンとくる)。発表時間三十分に対しては長すぎるが、参加者たちには当日原稿が配布されるので、その場で適宜省略しながら発表すれば問題はない。
 仏訳は、五千二百語余り、A4に10.5ポイントで四十行とかなり詰め込んで九枚ちょっとに収めた。先ほど、信頼できる若きフランス人の友人(現在京大で九鬼周造についての博士論文を執筆中で、四月にはフランスに戻ってくる)に今回も添削を頼んだ(もちろん事前に都合を聞いておいた上で)。今回の論文は、文学作品を対象としているとはいえ、アプローチは哲学的なので、やはりまず彼に頼んだ(同僚たちには、彼らの忙しさをこっちもよく知っているから、なかなか頼みにくいという事情もあるが)。
 今回のシンポジウムは参加者に仏語を解さない人が多いので、発表言語は日本語にしたが、シンポジウムの論文集は両言語で出版されるので、仏語版の方も最初から全力で取り組んだ。いつもと逆でまず日本語で書いたが、そのことによる効果があった。それはフランス語に訳しながら、日本語版の方の表現の改善もできたことである。
 私は、一文が長くなるという良くない傾向が日本語でもフランス語でもあることを自覚しているが、特に日本語でその傾向が著しい。今回も、構文が複雑すぎてそのままではフランス語にしにくい文がいくつかあり、そこは日本語版の方を仏訳に合せて、いくつかに切り分けた。これが他人の文章だったら、そうはいかないわけで、人から仏訳を頼まれたときは、元の日本語の複雑な構文を、それが必ずしも望ましいものでなく、自分のことは棚に上げて(これ、私の得意技)、悪文だなあなどと愚痴をこぼしながらも、それがその人のスタイルだからという理由で、できるだけ尊重する。そうしてできた「苦心」の仏訳をフランス人の友人たちに見せると、「一文が長すぎる。もっと切れ」と結局は注意されるのだが。
 二つの言語で論文を書いていると、両言語の間を思考の中で絶えず往還することになる。今回は、日本語そのものを考察対象としたこともその大きな理由の一つだと思うが、日本語での思考をフランス語のそれに変換する過程を通じて、前者の固有性が後者の枠組みの中で浮かび上がってきた。さらに言えば、日本語での思考においてつねに働いている基本的機能要素の特異性が、そららの要素が仏語の枠組にうまく嵌らない、あるいははみ出してしまうことそのことによって、より明瞭に析出されてきたのである。
 ここから、日本語で哲学することの特異性について一視角を開くこともできるだろう。












根源的受容可能性から世界の見方を学び直す ―「心身景一如」論のための覚書(五)

2015-02-25 01:04:11 | 哲学

 今回の論考の結論を述べる。
 本論考で、私たちは、日本語の形容詞の客体的属性と主体的情意性という二重性を手がかりとして、心身景一如の表現例を日本語の古典詩文の中から取り上げ、それらを存在了解・世界受容・空間分節という三重の問題場面において分析した。
 西行歌と万葉歌において、個々の和歌が表現している景のレベルを、『蜻蛉日記』において、情景描写を含んだ作品全体の色調を決める基層レベルを考察対象とした。それらの考察の結果として、私たちは、心身二元論的構図とはまったく異なった「間」を、〈心〉と〈身〉と〈景〉との「間」に見出すことができた。
 今後、この心身景一如論を、「根源的受容(可能)性 Passibilité fondamentale et originaire」というより根本的な観点からもう一度考え直してみたいと私は考えている。主体的情意性か客体的属性かというすでに二元論的な二者択一的発想から出発するのではなく、すべての言語的分節化は「根源的受容(可能)性」から始まると考えるからである。その原初的次元においてこそ、すべての〈形〉と〈心〉とがそれぞれそれとしてそれ自身に最初に与えられるのであるとすれば、まるで情意のない〈形〉も、まるで姿形もない〈心〉というものも、そもそもそこでは在り得ない。客観的な対象と主観的な感情の分裂と乖離という構図は、この原初的次元における分節化後、その起源を忘却したがゆえに固定化された認識の枠組みに拠った、いわば二次的な思考の結果に過ぎないということになる。
 そのような「哲学的」観点から日本の古典文学を読み直すとき、日本語の言葉の「間」の振る舞い方の中に、主客二元論的枠組みから解放された、初元の「こと(異・言・事)なり」の「間」を、私たちは再び見出すことができるだろう。












「ものはかなき」世界の自覚 ―「心身景一如」論のための覚書(四)

2015-02-24 06:12:33 | 哲学

 唐木順三の名著『無常』については、昨年11月25日の記事ですでに一度取り上げているが、それを今一度、今回の論考のために参照する。ただ昨年の記事の時もそうだったが、『無常』の全体を対象とはしない。本論考の問題領域に直接関係する同書第一部「はかなし」のみに、その中でも特に「「はかなし」という言葉」「かげろふ日記」の二つの節にここでは関心を集中させる。
 「はかなし」についての思考の端緒を唐木に与えたのは、岩波の日本古典文学大系第二十巻所収の『和泉式部日記』の冒頭、「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに」についての遠藤嘉基による補注であった。その初めの七行を読んで、唐木は「あっと息をのむ思いがした」という。この補注は、本論考の主題にとってもきわめて重要な論点を含んでいるので、まずその全文を引こう。

「夢」を「はかない」と言った例は、古今集を始め多い。この日記にも「はかもなき夢をだに見で明かしては」とある。その「夢」よりも「はかなき世のなか」である。ここで、「はかなき」が「世のなか」の客観的な属性を示すと共に、「世のなか」への、言語主体の情意をも示していることに注意したい。国語の形容詞とは、そういうものである。(時枝誠記『国語学原論』)語源は「はかどる」「はかがいく」などの「はか」と同じか。「ちょっとした」「とりとめもない」と「たのみにならぬ」「かりそめ」との、二つの口語訳が考えられるが、これは、属性情意のいずれを、その場面で重く見るかの相違に基づくものであって、もともと、この二つの間にはっきりと線が引けるものではない。したがって、理解への手がかりとして、右のいずれかを訳として取るにしても、適確な口語訳を与えることは難しい。「夢よりも」の「も」に、詠嘆のひびきを汲みたい(447頁)。

 日本語の形容詞の二重の性格としての属性・情意性についてのこの補注での言及が、私たちが一昨日の記事で取り上げた時枝誠記『国語学原論』の当該箇所を念頭に置いてのことであることがここからわかる(この点は、『無常』にも正確に指摘してある)。
 「はか」について、「はかどる」「はかがいく」などの「はか」と同じかと、「多少の疑義を残しながらの暗示」と唐木は書いているが、これは今日の学界の趨勢からしてもうはっきりと同じだと断定していいようである。つまり、「はか」とは、「目安として見込んだ仕事の量」(大野晋編著『古典基礎語の世界 源氏物語のもののあはれ』角川ソフィア文庫、285頁)のことであり、目方を「量る」の「はか」も、「これくらいかなと見当をつけた量、重み」で、それを実際に試してみるのが「図る」である(同書同頁)。
 「はかなし」とは、したがって、その「はか」がないさまである。つまり、生活世界にあって行動の目安となる確かな分節が見出し難い状態を指している。言い換えれば、間が間として明確な区切りをもっておらず、行動に際して頼りない思いをするような状態である。
 『蜻蛉日記』上巻の序と結びには、「ものはかなし」という形容詞がそれぞれ一回ずつ使われている。

かくありし時すぎて、世中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世にふる人ありけり。

かく年月は積もれど、思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるも喜ばしからず、なほものはかなきを思へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし。

 参照したいくつかの注釈書には、この「ものはかなし」と「はかなし」との差異について特に言及しているものはない。ただ訳として、序の「ものはなかく」に「まことに頼りなく」、結びの「ものはかなき」に「心細い明け暮れ」と付けるか(新潮古典集成)、前者に「よりどころなく、不安定なさま」と注するのみである(岩波新日本古典文学大系)。しかし、これだけでは、なぜ、「はかなし」ではなく、「ものはかなし」なのか、よくわからない。
 実際、唐木も『蜻蛉日記』を扱っている節で、この「もの」とは何かと問い、それに自ら答えるべく二頁余りを割いて論じている。そこで次のような私たちにとってまさに傾聴に値する見解が示されている。

「もの」は名辞としては漠然とした無限定であるが、心理的にははっきりと限定されていて、それが限定された「もの」であることが説明ぬきで相互一般に理解される。そういう理解を予想しうるのは、共同心理を前提としているからである。狭い、伝承的地域社会、閉鎖された社会だからこそ、その共同心理が可能であり、それが透けて見えるということにもなるのである(中公選書版『中世の文学・無常』275頁)。

 つまり、「もの」とは、作者と読者とに共有されている、あるいは共有することが期待されている何かをその都度指しているということである。しかし、この唐木の説明をもってしても、まだ十分に接頭語「もの」の弁別的価値をよく規定しきれているとは言えない。
 大野晋の前掲書によれば、「もの」は、単なる接頭語として軽々しく扱える語ではなく、「こと」と並んで日本語の中心的な役割を果たしている(10頁)。彼自身が編者の一人でもある『岩波古語辞典』には、「もの」について次のような説明がある。

モノは推移の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則を表わす。

 言い換えれば、モノとは、「個人の力では変えることのできない「不可変性」」を核とする。「具体的には社会の規制・規定のこともあり、儀式・行事の運用でもあり、人生の成り行き、あるいは運命、あるいは道理などでもある」(大野上掲書12頁)。
 この大野説に従うならば、「ものはかなし」とは、そのような本来個人の力では変えられないはずの、人生の成り行きや運命、あるいはものの道理について、はっきりとした目安が持てなくなっている状態、さらには、それまで「不可変的」と考えられてきたものが揺るがされている状態のことだということになる(形容詞「ものはかなし」は、『蜻蛉日記』では、その上巻のみにあと三例見えるが、いずれも今述べたような語義と解することができる)。
 『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母にとって、世の中に「ものはかなく」生きるということは、たとえその世の中が主に男女の仲(あるいは間)のこと、特に夫兼家との夫婦生活のことに限られていたとしても、それが彼女の世の中(生活世界)のすべてであったとすれば、彼女の生きる世界全体が頼りないものとして揺るがされているということを意味しているのである。
 この「ものはかなき」世の中を生きる身の苦しさが、描き出される情景の展開の通奏低音になっているのもそれゆえのことである。『蜻蛉日記』は、「ものはかなき」世の中に心身を震わせつつ生きる作者による心身景一如の見事な言語表現の達成であると言うことができるだろう。作者の生活世界が作者によって対象的に「ものはかなし」と客観的に認識されているのではなく、世界自体が、作者において、その「ものはかなさ」として己自身に立ち現れているのである。そのような人間存在にとって根本的な実存的な「ものはかなさ」の自覚からこそ、危うき自己の存在の意味への内省も生まれてくる。
 私たちは、『蜻蛉日記』の中にも、世の中の、そしてその世の中に在ることの「ものはかなさ」の自覚(存在了解)、その自覚の上にこの世を生き続ける受苦(世界受容)、世の中の安定性の目安からの懸隔(空間分節)という三重の問題場面を見いだすことができるのである。












天地有情の一元論 ―「心身景一如」論のための覚書(三)

2015-02-23 06:06:12 | 哲学

 形容詞「さびし」は、「荒れる、荒涼たるさまになる」という意味の動詞「さぶ」から派生したという語史的事実からも、この形容詞が属性と情意とを同時に表現するのに適した語であることがわかる。
 序だが、この「さぶ」が中古末期から中世初期にかけて、俊成によって、「外見は殺風景なようで、内に孤独な静かさの趣がある」の意とともに、美のひとつと認められ、「室町時代までは「さびたる姿」「姿さびて」など、動詞の形で現れるが、蕉風の俳論に至り「さび」という名詞の形が用いられ、表現理念として確立した。蕉風俳諧では、素材の閑寂さよりも句ぜんたいから感じられる、しみじみとした清澄さをさしていた」(小西甚一『基本古語辞典』大修館書店、新装版、二〇一一年、「さび」の項より)。

花も散り人も都へ帰りなば山さびしくやならんとすらん 
                                                       (『山家集』上・春)

桜の花が散ってしまい、その花を愛でに来た人たちも都に帰ったならば、山は再び寂しくなることであろうというこの西行の歌に詠まれているのは、人たちの去った後の荒涼とした山の風景であり、その風景は、その中に佇んでいる身の心の反映というよりも、その心そのものなのであり、その中に我が身も佇んでいる。

うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば
                                                       (『万葉集』巻一・八二)

この歌の中の「うらさぶ」という動詞も「さぶ」から来ており、荒れてゆく様を言う。「うら」については、小西甚一『基本古語辞典』の接頭語「うら-」の項に、私たちにとってきわめて示唆的な注記がある。「本来は「心」の意の名詞だったと考えられるが、用例としては単独の場合がなく、いつも他の語に伴われているので、接頭語にあつかう。「心のなかで」という意味を示すが、これを除いても単語としての意味は変わらないことが多い」というのである。このことは、「うら」を接頭語とした形容詞や動詞が属性と情意との綜合的表現であることの一つの証左になっている。
例えば、大伴家持の春愁絶唱三首のうちの最初の一首を見てみよう。

春の野にかすみたなびきうらがなしこの夕かげにうぐいす鳴くも
                                                       (巻十九・四二九〇)

 この名歌中の名歌の中の形容詞「うらがなし」も、春愁の風景における心身景一如の要となる表現でなくてなんであろうか。うらがなしさそのものである風景の中に、霞がたなびき、うぐいすが鳴き、それを見、聞く我が身が立っている。外なる春の野の風景に触発された孤独な心の内に悲しさがあるのではない。
 先に掲げた万葉歌に戻ろう。この歌については2014年1月21日の記事で一度拙釈を試みている。その時参照した二つの注釈が掲げていた現代語訳の一つは、「心寂しい想いで胸があふれるほどだ、(ひさかたの)遠い空から、しぐれの雨が交差しながら流れるように降って来るのを見ると」(新版「万葉集(一)」岩波文庫)となっている。訳の前半で、「心寂しい思い」が、「さまねし」という形容詞(より正確には、「数多い」「度重なる」等の意の形容詞「まねし」に語調を調える接頭語「さ」が付いたもの)によって、胸にあふれるほどの身体感覚として捉えられていることには、拙釈でも賛意を表した。しかし、心の想いを普通は胸のうちにとどまるものと考えているからこそ、このような解釈も出て来るのだとすれば、「外なる」風景とそれを眺める「内なる」心とは基本的に二元的に区別されるという暗黙の了解がこの評釈にもやはり前提されているのではないかと疑われる。
 すでに拙釈でも、大森荘蔵を援用しながら、上のような緩やかな「二元論的」解釈とは異なった、いわば天地有情の「一元論的」解釈を一筆で素描してあるのだが、その解釈をここでもう少し発展させてみよう。
 時雨れる外なる風景を見ている私の身の内に外的刺激によって引き起こされた生理的あるいは心理的状態が「寂しさ」ではないのは言うまでもなく、身体のどこか一部に、あるいは身体とは独立のどこにあるとも知れぬ「心の内」に寂しさが宿るのでもない。あたかも永遠の彼方からやってくるかのように、遠い空からしぐれが降ってくるのを見ていると、その風景全体に広がるように寂しさがどこからともなくいやましに湧出してきて、その寂しさがこの身にも浸潤してくる。そのようにどこまでも染み込んでいこうとする寂しさが心なのであって、そのように寂しい風景として無限に広がっていこうとする心のうちにこの身が「束の間」置かれているがゆえに、その寂しさが我が身のこととして感受されるのである。
 以上見てきた三つの和歌は、在るものの在ることそのこととその在り方とをそれとして認め(存在了解)、ままならぬ有情の世の中に有情なるものとして棲まい(世界受容)、物事の「こと(=言・事・異)なり」の過程の内に己もまたそこで「ことなり」ゆくものとして身を置く(空間分節)、様々な仕方をそれぞれに表現している。












淋雨攷 ―「心身景一如」論のための覚書(二)

2015-02-22 12:34:01 | 哲学

 〈心〉〈身〉〈景〉の三つの構造契機からなる生きられた文学的空間を分析するにあたって、私たちは、日本の古典文学作品の中のいくつかの形容詞の使用例に注目する。
 そのための予備的考察として、時枝誠記の『国語学原論』第二篇各論第三章文法論において「詞の綜合的表現性」に言及されている箇所を簡単に検討しておくことにする(引用は、岩波文庫版『国語学原論』上・下巻に拠る)。
 時枝は、主に鈴木朖に依拠しながら、「詞と辞とは語の性質上本質的に相違するもの」(上巻320頁)という、時枝文法にとって根本的な区別を立て、前者が客体的事実或いは客体化された事実を表現し、後者が主体的事実の直接的表現であるとした上で、現実の言語表現の中には、両方の表現価値を有った語、あるいは両価値の転換が見られる使用例の存在を認める。
 その具体例の一つが、形容詞「淋しい」である。「雨は淋しい」という一文は、一方で「主観的感情の概念的表現として(必ずしも言語の主体的感情に限らない)」、他方で「雨の属性の概念的表現として」機能する(同巻322頁)。「雨を機縁とする処の主観的な「淋しい」という感情は、同時に雨の属性がこれに対応しているのであって、一般には「淋しい」という語は、同時に主観的感情とこれに対応する客観的属性とを綜合的に表現している」(同巻322-323頁)。
 時枝は、一旦は主客二元論の観点に立って日本語を分析してみせるが、それは、主客が本来的には対立する相容れない二項ではなく、互いに他方を内包しうる相互内属性を有っていることを明らかにするためであり、さらには、主・客の相互差異化がそこでこそ可能になる「いわば主客の融合した世界」(同巻61頁)であるところの「場面」を言語の存在条件の一つとして析出するためである。
 しかし、ここで一言だけ、時枝理論に対して批判的言辞を弄するとすれば、言語過程説では、もう一つの言語の存在条件としての主体に過剰な価値と機能性が与えられていると私は考える。特に総論においてそれが著しい。
 私は、時枝が「場面」として提示しようとするものを、私自身にとって根本的な哲学的概念である「根源的受容可能性」(passibilité fondamentale et originaire)として捉え、そこでの分節化・差異化機能の一つの現実態として主体を捉えることで、主体への過剰な価値付与を批判的に克服できると考えているが、このきわめて重要な問題は、本論考の枠組みを大きく超え出てしまう問題なので、一言それに言及するに留める。
 例文「雨は淋しい」に戻ろう。時枝は、同じく第二篇第三章文法論第四節の「文の成立条件」の中でも、類似した例文「秋の雨は淋しい」を提示し、この例文の「淋しい」という語には、「秋の雨の蕭条たる客観的有様と同時に、この文の表現主体の主観的感情を含めている。従って、「秋の雨」は主語とも考えられるが、猶「私」或は「彼」を主語として、「秋の雨」を対象語とする方がこの文の理解に適切である」と言う(下巻81頁)。
 引用中の「主語」とか「対象語」という術語の使用の仕方に対して私は批判的なのであるが、この問題も本論考の主題から外れるので、脇に置こう。その上で、ここで言われていることを、時枝が引用の直前で使っている別の術語を使って言い換えれば、「秋の雨は淋しい」という文は、「属性と情意との綜合的な表現」なのである。つまり、雨の属性を表現することが、取りも直さず、情意の表現なのである。
 今私は、単に「情意の表現」と言い、「主体の」あるいは「主観の」という限定をその上に冠さなかったが、それは、それを指示する要素はこの文には含まれていないという端的な理由による。こう言えば、すぐに、この文の実際の発話者がこの文の主体ではないのかとの反論が返ってくるかもしれない。それに対して、私は次のように答えるだろう。
 この文を一つの判断として主張する場合には、それを主張する者をその判断の主体と認めることには反対しない。しかし、この文は、それとはまったく違った表現でありうる。それは、発話者もまた、属性と情意の綜合的な表現の一構成要素に過ぎず、判断の主体としてこの文を言明したのではない場合である。
 具体的に一つの場面を例として挙げてみよう。ある秋の夕暮れ、薄暗い空からいつまでもしとしとと降り続ける雨を、部屋で独り、あるいは、海辺に佇んで、眺めているとしよう。そこで、ほとんど溜息を漏らすかのように、「秋の雨は淋しい」と思わず一言呟く。その時、この文は何を表現しているのか。
それは、秋の雨という「景」の眺めとして広がる淋しさのうちに置かれた「身」の「心」の表現なのである。その景として広がった淋しさが心なのであり、景として広がった心のうちに身があるのであって、その逆ではない。その時この一文が表現しているのは、それゆえ、風景を眺めている知覚主体である自己身体の内部で感じられた目に見えない感情などではないのだ。このような心身景一如の経験が与えられる時間的に限定された場所を、「存在」でも「世界」でも「空間」でもなく、「間」(ま)と呼ぶことにしよう。
 このような心身景一如の経験の「間」を表現している例は、文学作品の中に無数に見いだすことができるだろう。本論考では、日本の古典文学作品のいくつかの中からそのような例を取り上げ、それらにおいて用いられている形容詞の様態を分析し、それらが表現している経験の相を、存在了解・世界受容・空間分節という三重の問題場面において考察する。














存在了解・世界受容・空間分節 ―「心身景一如」論のための覚書(一)

2015-02-21 19:37:18 | 哲学

 これは、日本の古典文学の言葉の中に一つの「哲学」を読み取る試みである。
 ここでの「哲学」とは、西洋哲学史で学ばれる諸々の哲学のいずれかに類似したものの見方、あるいは少なくともそれらの構成要素のうちのいずれかに比定しうるものを指しているのではない。例えば、空海の『声字実相義』の中から言語哲学を、道元の『正法眼蔵』の中から形而上学を、世阿弥の能楽論の中から身体の哲学を抽出しようというような、広義の日本文学に属する理論的な著作に対して西洋哲学の概念的枠組みを前提とした比較哲学的なアプローチを試みようということではない。それらの試みを否定するということではなく、ここではそれとは違ったアプローチを試みてみたいということである。
 ここで試みられることを、まず一言にして言えば、古典文学作品の中に広くかつ頻繁に使われる言葉の中のいくつかに、「すべてはそこからそこへ」と西田幾多郎が言うときの「そこ」へと私たちを導いてくれる途を見出すということである。
 とはいえ、いきなり文学作品そのものに向かったとしても、たとえ今日の最新の研究成果に基づいた注釈書類の助けを借りたとしても、そのような途は見えてこないであろう。それらはそもそもここでの問題意識とはまったく異なった学問的アプローチなのであるから、それは当然なことである(しかし、だからといって、それらの研究成果を貶めるつもりは一切ないどころか、参照することによって多くのことを学んだことを特に記しておきたい)。
 そこでまず、作業仮説として、次の三重の場面に問題を限定しよう。その問題場面とは、存在了解・世界受容・空間分節である。そこで私たちは、ある言葉のうちに、いかに存在が了解され、いかに世界が受容され(あるいは世界に受容され)、いかに生きられる空間が分節化されているかを見てみよう。そのような三重の意味は、しかし、その言葉を使用した者によって自覚的にそこに込められているのではない。むしろ、その言葉の使い方の中に、上記の三重の問いへの答えが自ずと示されていることを示すのがここでの目的である。
 つぎに、考察対象をさらに限定するために、〈心〉〈身〉〈景〉という三つの概念を導入しよう。そして、これら三つの概念によってそれぞれ指し示される現実の構成要素が、文学作品の中でどのような動的関係にあるかという点に限って、いくつかの言葉の使用例を検討していくことにする。
 このような日本文学への「哲学的」アプローチを試みるにあたって、直接的にあるいは間接的に参照されている三つの著作がある。時枝誠記『国語学原論』、唐木順三『無常』、大森荘蔵『物と心』である。これらの著作が与えてくれたインスピレーションがこのアプローチへと私を導いてくれた。
 しかし、その問題意識の起源へとさらに遡れば、井筒俊彦に言及しないわけにはいかない。井筒が逝去の前年一九九二年に司馬遼太郎とした『中央公論』での対談「二十世紀末の闇と光」の中で、「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえある」と発言しているのを読んだとき、私にとってまったく新しい研究の領野がそこに開かれているのに気づかされ、目が覚めるような思いがしたものである。
 私の哲学的思考を刺激してくれるフランス語の著作にも言及すべきだが、今日のところは、それらの著者の名前だけを挙げておくと、Gaston Bachelard, Lucien Tesnière, Georges Gusdorf, Paul Ricœur, Jean-Luc Nancy, Jean-François Marquet, Pierre Macherey, Jean-Louis Chrétien, Françoise Dastur などである。彼らの著作のあちこちを読んでは、考えるヒントをいただいている。












唐木順三『詩とデカダンス』を読む(五)― 遠ざかる造化への途

2015-02-20 18:22:30 | 読游摘録

 風狂は、それ自身の中に自らを裏切る危険を潜めていると唐木は言う。それは、風狂が自己目的化すれば、それはすでに人為であり、どこまでも〈いのち〉の風に吹かれて漂泊する生き方と矛盾してしまうからである。
 自然を離れた人間が再び自然に帰ってゆくのに、無技巧・無作為というわけにはいかない。風狂とは、自然へと立ち返る日々の工夫と、その工夫に執着しないという精神の修練との繰り返しからなる果てしない道程でなくてなんであろう。詩人の詩作とは、言語的創造を通じてその道程を歩み続けることにほかならない。〈いのち〉から切り離された死物に満たされた世界の只中で、「開け」は所与として最初から与えられることはない。詩人は、「開け」を作品として言葉のうちに到来させる。それが詩人の業である。
 その業の精髄をこの上なく見事に表現した文として、芭蕉の『笈の小文』の序を挙げることができる。唐木も全文引用している(折しも、今日の近世文学史の講義では、学生たちにその原文全文を仏訳と対照させながら読ませた。ネット上でも芭蕉の主要作品は容易に見つかるし、詳しい注釈や現代語訳まで掲載している親切なサイトもあるから、ここにその原文を掲げる必要はないであろう)。その序の最後は、「夷狄を出て、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれ」という、よく知られた一文で締め括られている。この一文の意味するところは、「夷狄」「鳥獣」という自然状態を脱して、創造原理としての自然である「造化」に従い、そこに帰れ、ということだと、一応は解釈できる。
 しかし、それは、野蛮人の未開性から、あるいは動物的直接性から、風雅に徹することで己を解放し、今そこに生まれつつある自然をそれとして見出し、その中で生きよ、ということなのだろうか。それはそうだとしても、この文の直前の文にあるように、風雅を忘れれば、たちどころに「夷狄」にひとしく、「鳥獣」に類するものに逆戻りするのだとすれば、私たちのうちにはつねに「夷狄」や「鳥獣」が潜伏しており、油断をすれば、たちまちそれらは表に態度として現れてくるであろう。
 しかし、そのような内なる危険は、造化への回帰を繰り返しやり直すことを妨げはしない。「夷狄」や「鳥獣」は、たとえ未開や野生であったとしても、決して自らを破壊しようとはしなかったし、ましてや自分たちを取り巻く環境を破壊しようとはしなかった「弱き」存在でしかなかった。
 ところが、芭蕉が知らない「近代人」は、「夷狄」や「鳥獣」にはありえない、己が属する種に対する大量虐殺と己の種もまたそこに属する類の存立を危うくする大量破壊を実行できる力を持った「強き」存在であり、その存在のうちには、近代以前の人たちが知らなかった、限度を知らない自己破壊的「暴力性」があたかも宿痾のように巣食ってしまっている。
 現代の私たちは、獣性を手なずけ、未開性を克服し、近代をも「超克」した、文明の最先端を走り続ける人類の成員なのだろうか。そうだとして、それは果たして誇るべきことなのだろうか。それに、誰に向かって誇るというのか。神に向かってか。
 無数の「夷狄」を飢えの苦しみと死と隣り合わせの恐怖の中に放置したままでいられる傲慢な無関心と、無数の「鳥獣」を無益に虐殺しつづけることに何の痛痒も感じない冷酷な残虐性とが、現代人の属性だとすれば、多くの日本人が今も最も愛する詩人だと海外でも紹介されることの多い芭蕉の声は、現代の暴風に吹き千切られ、自然を愛してやまない国民だとしばしば紹介される当の日本人の耳にさえ、もうほとんど聞き取れなくなってしまっているのだろう。













唐木順三『詩とデカダンス』を読む(四)― リルケの「開け」から芭蕉の「風狂」へ

2015-02-19 16:57:48 | 読游摘録

 『詩とデカダンス』における唐木のリルケ解釈が妥当かどうかはここでは問わない。それがつまらない問題だからではない。それは、別の問題であり、今の私にとっては主たる関心事ではないというに過ぎない。唐木の読み筋に導かれながら、リルケの「開け」から芭蕉に代表される「風狂」への途を私自身が辿ってみたいと思うのだ。だから、その行程で、唐木のテキストを杖としながらも、それに寄りかかるのではなく、そのテキストに触発された私自身の受け止め方を書き留めていく。唐木の言いたいことから逸脱してしまうこともあるかもしれない。しかし、私自身が自分の「脚」で歩くことが何よりも大切だろう。それが唐木のいう「思索する」ということだと思う。
 リルケが「もの」(Ding)というとき、そのものは、それぞれに「形」をもっている。しかし、その形とは、それ自体でいつも同じで、対象として同定可能な何かではなく、そのものの「いのち」のその時その場所での現れ方のことで、それは、日本語で「もののあはれ」というときに、それがものに触れて動かされる心のことばかりでなく、そのものの生ける姿そのものでもあるということと、事態としては近い。
 ものは、いのちをもつことで、〈いのち〉という共通の根を分かち合う。それら共通の根を分かち合うものらは、では、どこにあるのか。自然の中にしか、あるいは人間の手作り品のなかにしか、見出だせないのだろうか。しかし、そのような限定の仕方自体が近代主義的な見方に囚われている。むしろ、ものを使うものがそのものと〈いのち〉を分かち合う場所においてはどこでも、ものは生ける形をもつと考えるべきではないか。
 だから、私は、唐木が言うように、「近代資本主義の製品は、機械と技術との所産であり市場の商品であることによって、既に「ものらしさ」(das Dinghafte)を失っている」(90頁)とは、必ずしも思わない。たとえそのようにして大量生産されたものであれ、そのうちの一つのものとそれを使うものとの間にも、親しく掛け替えのない分かち合いはありえないことではないからだ。あるいは、このようなものの受け取り方こそ、よくもわるくも、まさに日本的なのだろうか。
 逆に、自然の中なら必ずものがいのちのかたちとして与えられることが保証されているわけでもないだろう。むしろ、そのような分かち合いが事実成り立つときに、「開け」の中に、ものとそれを「使う私」とが、いのちのことがらとして、分かちがたく結びつきつつ、それぞれに生きた形を与えられるのではないであろうか。
 今まで「いのち」という言葉を使ってきたが、それは、唐木がハイデガーに依拠している場面では、「在るもの」の根拠としての「存在」に相当する。そのような故郷としての「存在」を喪失したのが現代の特徴だというところまでは、唐木はハイデガーをそのまま踏襲している。そして、ハイデガーがリルケの「開け」に技術社会の根本的な超克の可能性を見出そうとするのはなぜかと問う。
 その答えとして、それは「詩人が「無防御」(Schutzlossein)であるということ」だと言う。それは、対象への「主体的な」関係性を放下することである。とはいえ、それは、何もせずになるがままに任せるということではもちろんない。詩人が言葉を紡ぐということは、ものを技術的な無機的連関における対象性から解放し、「開け」への中で他のものらとの生きた繋がりを回復させる試みなのだ。詩の言葉は、風の如く、ものの間を吹き抜け、ものに息吹を吹き込み、その言葉を聴くものの心を開き、ものらと分かち合うべき〈いのち〉に目覚めさせる。