上田閑照『マイスター・エックハルト』第十章「離脱について」から昨日引用した箇所の二行後では、神性の「無」が上田の解釈の前面にせり出してくる。
離脱において、無になって神を受容し(無になった魂に神が神の子を生みこむ)、そこに停まらずに離脱の徹底として、受容した神を捨てる(got lâzen)ことによって無に徹する(これは人間に向いた神を突破して神自身の内奥――神性の無――に徹すること)。神の子であるという在り方を捨てて、神でもない被造物でもない無において「我あり」の自由が開かれる。神の子(エックハルトの場合は、即ち子なる神)として神の生命によって生かされて生きるところから、神の生命にも大死し、神なくして生きる(âne got leben)ところへと徹する。その際「神なくして」に、人間が人間の方から「神」、「神」という神ではなく、神における神、即ち「無」なる神が現前する(『上田閑照集』第七巻、252-253頁)。
この引用の最後に見られる「「無」なる神が現前する」という表現は、きわめてミスリーディングな表現である。なぜなら、エックハルトにおいては、一切の現前以前の神が神性なのであり、したがって、「無」なる神が「現前する」ことはない。しかも、この「無」は神性の究極の審級ではない。神性を「無」とするのは、ある限定された文脈の中においてのみであり、「神性=無」という等式は、普遍妥当的な一般的等式としては、エックハルトにおいて成り立たない。
Marie-Anne Vannier によれば、「無」へと導く「離脱」は、エックハルトにとって、「魂の内における神の誕生」を準備するための予備的階梯に過ぎない。「無」は、それゆえ、エックハルト神秘主義にとって、最終的に到達すべき目的ではなく、その目的へと至る手段に過ぎない(voir Marie-Anne Vannier, De la Résurrection à la naissance de Dieu dans l’âme, Cerf, 2008, p. 15 ; Benoît Beyer de Ryke, Maître Eckhart, Entrelacs, 2004, p. 202, n. 111)。
その最終目的である「魂の内における神の誕生」を、Vannier は、「連続的受肉」(Incarnation continuée)と呼ぶ。なぜなら、エックハルトによれば、〈受肉〉は、単に一つの歴史的出来事ではなく、今日の私たちにも第一義的に関わる現実だからである。今日のキリスト教徒の魂の内での御言の誕生は、〈受肉〉という歴史的出来事に、今、現に、呼応している。
このような主張の根拠になっているのが、 Georg Steer による数十年の緻密を極めた校訂作業の結果、エックハルト自身の手になると認定され、二〇〇二年から二〇〇三年にかけてドイツで出版されたドイツ語説教一〇一番から一〇四番である(その仏訳は、Sur la naissance de Dieu dans l’âme, Sermons 101-104, traduit du moyen haut allemand par G. Pfister en collaboration avec M.-A. Vannier, Préface de M.-A. Vannier, Arfuyen, 2004)。ノエルの一週間に行われたこの一連の説教の主題がまさに「魂の内における神の誕生」なのである。これらの説教の中でエックハルトは何よりも「永遠の誕生」に関心を注ぐ。説教一〇一の冒頭を引く。
この時、私たちは永遠の誕生の時の内に入ります。この永遠の誕生によって父なる神は生んだのであり、絶えず生み続けるのです。それは、この同じ誕生が、今日、時の内において、人間の本性の内に生まれるためにです。聖アウグスティヌスはこう言われています、「この誕生がいつも生まれますように」、「それが私の内で生まれないとしたら、いったいそれが何になるでしょうか」「それが私の内で生まれること、それこそが大切なことなのです」と。
Vannier は、エックハルトをキリスト教の正統的思想家の一人として復権させようとしているかに見える。厳密なテキスト読解とライン河流域神秘主義全体への行き届いた目配りに裏付けられたその議論には説得力がある。
しかし、今日の世界の思想状況の中で、エックハルトをキリスト教の「正統的」伝統の中に回収することが最終的な思想的課題ではありえないことは言うまでもない。「非キリスト教的」上田解釈か「キリスト教正統派的」Vannier 解釈かという「解釈の葛藤」をめぐる議論については、専門家にそれを委ねよう。それぞれ互いの既得権を脅かさないという暗黙の了解を前提とした「宗教間の平和的対話」などが現実世界の紛争に解決の緒をもたらすことももちろんありえない。
現実の歴史的文脈の中で、縁あって置かれた場所に立ち、そこで自らを歴史の中にその一つの小さな環として「書き込み」つつ、それぞれの〈信〉を内側から根本的に問い直すこと、これのみが各個人にとって真剣な思想的課題であり得ると私は考える。