内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

紫式部の生涯(六)

2024-01-31 07:07:57 | 読游摘録

 紫式部が自ら物語を書き始めたのは、夫宣孝を失い、一年の喪に服した後のことだが、いつからかは正確にはわからない。ただ中宮彰子づきの女房として出仕する前にすでにその物語が宮中でも評判になっており、その評判は道長の耳にも達していた。当時は紙も墨も高価なものであり、物語執筆のためにそれを大量に使用するためには援助者が必要であったはずだが、それが誰でいつからどのようなきっかけで始まったのかは推測の域を出ないようである。出仕後は道長が大パトロンであったことは日記の記述からも明らかである。
 以下は、新日本古典文学大系解説からの摘録である。

 式部が中宮彰子づきの女房としての出仕を要請されたのは、折から政界の第一人者となった道長が娘彰子のまわりに才女たちを集め、かつて皇后定子のまわり花開いていた後宮文化に匹敵するような文化サロンを形成することを願ったからである。
 寛弘二年(一〇〇五)もおしつまったころ、式部は出仕することになった。古風で地味な家庭に育ち、すでにさだ過ぎた子持ちの寡婦として、花やかな宮廷世界に立ちまじり、男たちと顔をさらすことも避けられぬ日々は、身の憂さの意識に閉ざされていたかの女にとって苦痛であったらしいが、自分が紡ぎ出しつつある物語の主舞台である宮廷社会をわが目で確かめ得るのも魅力で、主家から信頼される女房となってゆく。公的地位の如何はともかく、日記をみると中宮に楽府を進講したり、物語の浄書作業を指示するなど、中宮の家庭教師ないし中宮方の文化の陰の指導者といった役まわりであったらしい。
 源氏物語の作者として男性貴人からも一目置かれ、上臈に準ずる待遇を得る式部に対し、同僚女房の嫉視反目も激しかったようだが、かの女は凡庸穏雅な仮面で身をよろうことで女房仲間に伍してゆく。当然その本性・才知・情動は抑圧を余儀なくされるわけで、本来の自分を見失わぬためにも、女房としての日常と別次元に己が思念をひそめること=物語創作のいとなみは不可欠であったろう。
 紫式部が日記を書き上げた翌年、寛弘八年六月、一条天皇が崩御し、式部も彰子に従い内裏を後にする。すでに中宮所生の敦成親王が立坊し、主家の栄花は不動だが、夫を失い寂寥をかかえる中宮の姿に、式部はみずからにかよう親しさをおぼえて親身に仕えたものと思われる。
 没年はよくわからないが、少なくとも寛仁三年(一〇一九)あたりまでは健在でひきつづき彰子に仕えていたようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(五)

2024-01-30 11:21:56 | 読游摘録

 二日間で摘録を終えるはずだった新日本古典文学大系版の解説にはまだ書き留めておきたい事柄がいくつかあるので、今日と明日も同解説からの摘録を続ける。
 長徳ニ年(九九六)、父為時が越前の国守に任じられ、紫式部は父とともに任地に下向する。式部にとってこれは生まれてはじめての長旅であり、京以外に住まうのもはじめてのことであった。この一年余りの越前国府(現、福井県武生市)での生活を式部がどう受け止めたかについては研究者の間でも意見が分かれている。
 伊藤博氏は、「未知の風土に接した式部も、雪に閉ざされた国府の生活の侘しさには辟易したらしい」と推測しているが、未知の土地の発見とそこでの生活習慣の観察は、式部の人間観察力をより豊かなものにした貴重な経験だったと想像する研究者もいる。
 式部が宣孝と結婚したのは、式部二十七歳、宣孝四十七、八歳位と推定されている。十代で結婚する例も多いこの当時、遅すぎる結婚というべきで、しかもこれが初婚であれば、その相手が親子ほども年のはなれているのも何故だか気になるところである。
 伊藤博氏は、この点について、「源氏物語に光源氏対紫上、対秋好中宮、対玉鬘とくり返される養父娘=恋人関係の基本構図や、母亡き式部が父為時の膝下でその鍾愛を受けて生育した事情などを勘案して、式部の情念に根づよい父親恋着的心性(ファーザー・コンプレックス)」を想定している。
 それはともかく、遅く訪れた女としての幸せの日々は、夫宣孝のあっけない病死によって、二年余りで終わりを告げる。「少女時代「男子」でないことで父を嘆かせた己が身は、いま「女」として「妻」として生きる方途からもはじき出された。みずからの宿世をみつめ、身の憂さを嘆く歌文がこのあたりから際立ってくる。」
 「傷心と無為の日々を支えたものは「はかなき物語などにつけて」同好の士と音信を交わすことであったらしい。やがてみずから物語を書きつむぎ、仮構の世界に生きることに代えがたい喜びを見いだしてゆく。ここではみずから「男子」に変じ、王統の貴公子となって宮廷政治社会で活躍することも、さまざまな女人に託してその生の可能性をたしかめることも可能なのだ。少女時代から親炙した漢籍・物語・和歌等々が創作のゆたかな源泉となって、かの女を取り巻く閉塞的な現実から別次元のことばの宇宙へ、主体的な作り手として転生させてくれる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(四)

2024-01-29 13:55:05 | 読游摘録

 新日本古典文学大系版の解説からの摘録を続ける。若干表現を補ったり、簡略化あるいは省略したりしたところがあるが、細部に関わることなのでいちいち断らない。新潮日本古典集成版の解説の記述と重なる点ももちろんあるが、それぞれに専門研究者としてご自身の解釈を交えて解説されているので、話題としての繰り返しを避けずに引用する。

紫式部の父為時は花山天皇の東宮時代、貞元二年(九七七)の読書始に副侍読をつとめ、儒学を以て天子に仕える方途に活路を求めようとした。

そのころの為時は長男惟規に「書」(漢籍)を伝授していたが、傍で聞いていた式部の方が「あやしきまで聡」き理解力を示したので、式部に向かって「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸なかりけれ」と、為時はつねに嘆いたという。紫式部日記にただ一か所書きとめられたこの少女期の出来事は、式部の精神の原核を窺わせるものとして注視される。男顔負けの卓抜した素質を一流の文人たる父に認められたことは、みずからの才識への不抜の自身を培ったであろうが、「女」として生まれついたがゆえにその素質を伸ばし実社会で発露する方途を奪われ、父をして嘆かせねばならぬ口惜しさ。父の口惜しさは長ずるに及んで式部自身の口惜しさとして増幅していったに相違ない。それは一方で女の宿世の凝視を促し、他方実社会での効用を保証されぬままに自己目的的に才識を錬成せしめ、窓の内にのみ跼蹐する当時の女性一般のありようをこえて、歴史や政治の動向への活眼を培う力源となったと思しい。やがてそれらはみずから構築した物語世界にうちこめられて、一条天皇をして「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と驚嘆せしめるに至る。また源氏物語がさまざまな個性・境遇の女性たちを登場させて、女の生の可能性をあくことなく問い続けていることも想起されよう。

花山天皇の即位とともに、いっとき家運再興を願った為時だが、わずか二年たらずで崩壊した花山朝と運命を共にし、その後散位として「家旧く門閑かにして謁客无」き荒れ屋敷に逼塞を余儀なくされる。この家は延喜の御代文雅の拠点として時めいた中納言兼輔の堤第であったとおぼしく、ここに雅正・その妻の定方娘・為時と住み続け、式部もまた京極大路の東、染殿の真向かいに位置する鴨川べりのこの旧邸に住んでいた公算が大きい。

父の逼塞時代は式部の娘ざかりの頃に重なる。時代の流れから半ば取り残された如き家の「あやしう黒みすすけたる曹司」で、積み上げられた漢籍・物語・古歌集などに心をひそめ、箏の琴や琵琶に鬱を散じ、少数の心の通う友との交流や時々の寺社詣でなどを心やりとしていたようだが、やがてたった一人の姉を失い、妹を亡くした友と「姉妹」の約束をして慰め合ったりしていた様子が家集から浮かび上がる。

その家集をひもといて目につくのは、異性との恋の贈答歌が意外に少ないことである。ここから秘められた失恋体験を想定する論者もあるが、後に夫となった宣孝らしき男に朝顔の花につけて挑みかけるように歌を贈る大胆さは、恋に傷ついた女のそれとは思えない。男まさりの才識をそなえた聡明な娘に、同年配の男などは近寄りがたいものを感じたろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(三)

2024-01-28 23:59:59 | 読游摘録

 今日と明日は新日本古典文学大系版(一九八九年)の伊藤博氏による解説から摘録する。確実とされる史実についてはどの解説も同様なので、それらは省く。逆に、『紫式部日記』の同じ箇所に依拠している箇所でも解説者の解釈が打ち出されているところは録した。

当時の貴族の子女は母方の一族のもとで育成され、人と成るのがふつうだが、式部の場合母やその一族との交流を示すものは伝わっておらず、おそらく物心つかぬころ母を失ったものと思われる。三歳で母を失った光源氏のように。そして光がそうであったように父のもとに引き取られ、父方の一族の薫陶のもとに成長していったらしい。

式部の父方の曽祖父たちは、延喜の御代醍醐天皇と身内関係で結ばれ、娘を女御として入内させ、古今集歌人のパトロン的存在として、またみずからも貴顕歌人として文化的にも大きな役割を果たした。しかし、醍醐天皇の崩御後、一家の没落が始まる。

式部の曽祖父中納言兼輔が入内した娘を案じた歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集・雑一・一一〇二番、大和物語四十五段)や式部の祖父雅正の歌「花鳥の色も音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり」(後撰集・夏・二一二番)が高い頻度で源氏物語の引き歌として用いられており、式部の胸につよい感銘をもって受けとめられていたものらしい。雅正の妻は後年式部が越前に下向するまで生存していたらしい。この老女は母のない式部らをはぐくみ、曽祖父たちが活躍した御代の話や勧修寺説話などを問わず語りに孫たちに聞かせたものと思われる。

源氏物語が延喜の御代にオーバーラップさせて宮廷物語を始発させ、地方に沈淪する一族が貴人の御子を得、これを后がねとすることで皇権の中枢にくいこんでゆく明石一族を主要な構想軸としてゆく、そのはるかな源泉は、この幼い日に祖母から聞いた昔語りであったかもしれぬ。

雅正はついに受領どまりで空しく果て、弟の清正、子の為頼・為時(式部の父)もまた同じであったが、その現実の鬱屈を振り切るように詩や和歌の世界にすぐれた詠作をのこし、勅撰集にその名をとどめている。紫式部の育った土壌はこうしたものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(二)

2024-01-27 19:32:25 | 読游摘録

 新潮日本古典集成版解説からの摘録を続ける。その叙述が最も信頼できるからでは必ずしもない。一九八〇年以降に専門研究者たちによって提示された紫式部の「生涯」の一つのヴァージョンという以上の意味はない。むしろそのことの意味を、昨日言及した五冊の校注本・訳注本の解説をすべて紹介した上で考えるための一材料と考えられたい。

寛弘二年(一〇〇五)または寛弘三年の十二月二十九日、紫式部は中宮彰子の所へ出仕することになった。『源氏物語』の作者として、その才能を認められてのことであったろう。

寛弘五年十一月一日、土御門殿で行われた敦成親王の五十日の祝の席で、当時歌人第一人者だった藤原公任が、「このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、「若紫」の巻に関係した発言をしている。これは、公任が、少なくとも「若紫」の巻を読んでいたことを示す。また、『源氏物語』を女房が読むのを聞いて、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ」と賞賛したともいう。本来、物語は女性の慰み物であったが、『源氏物語』は男性にも読者をもつほどに価値を認められていたのであった。

自分の仕事の価値を認められ、出仕することになっても、身の憂さは消えなかった。しかも、出仕前には経験しなかったつらさを味わわねばならなかった。紫式部は、人に顔を見られることがとても恥ずかしかったが、宮仕えにおいては、その恥ずかしさに始終堪えねばならなかった。また、宮仕えにおいては、女同士で、いやなことを言ったりしたりする者がいる。「うきこと」に堪えかねて里に籠ったこともある。しかし、小少将の君、宰相の君、大納言の君のような親しい同僚もでき、慰められもした。

中宮の立派さや道長一族の栄華に感心することもあったが、心底からは宮仕えになじむことはできなかった。それほど「身のうさ」は心にしみついていた。その心の救いを次第に誦経生活に求めようと思うようになった。しかし、出家をすることまでは考えられなかった。出家したなら、現世への未練や執着があってはならないと自己を律する潔癖さが、出家への志向をためらわせたのである。

紫式部は長和三年(一〇一四)に亡くなったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


紫式部の生涯(一)

2024-01-26 17:12:05 | 読游摘録

 手元には五冊の『紫式部日記』校注本・訳注本がある。出版年順に、新潮日本古典集成版(山本利達校注、1980年)、新日本古典文学大系版(伊藤博校注、1989年)、新編日本古典文学全集版(中野幸一校注、1994年)、講談社学術文庫版(宮崎莊平訳注、2002年(上下二巻)、合本新版、2023年)、角川ソフィア文庫版(山本淳子訳注、2010年)。最後の山本淳子版は解説が大変充実していて、中古文学史の授業で『紫式部日記』を取り上げていたときにはよく参照したし、今も五冊の中で一番よく手に取る。
 今回『紫式部日記』を読み直すにあたって、上掲五書の解説から紫式部の生い立ち・人となり・才能について言及している箇所を順次摘録しておきたい。それらの言及の間に見られる微妙な表現の違いから式部の複雑な性格が浮かび上がってくると思うからである。
 出版年順にしたがって新潮日本古典集成版から始めよう。

母は早く世を去ったらしく、日記にも歌集にも、母にふれた記事が全くない。

幼くして母を失った彼女は、姉と親しんだが、姉も若くして亡くなって後は、妹を失った親しい人と姉妹の約束をして慕いあう娘時代をもった。また、物語が好きで、物語について意見を同じくする友人を求めた。この物語への傾倒と意見の交換は、後に『源氏物語』を創作する心を豊かに養ったことであろう。

彼女はとても聡明で、漢学者の父が、弟惟規に漢籍を教えるのを傍で聞いて、惟規より先に覚え、父は、この子が男の子であったらと残念がるほどであった。そして、宮仕えに出た時、中宮に『白氏文集』の楽府を進講するほどに漢籍に対する素養は深かった。彼女は、漢籍によって得た人間のとらえ方や、文学的表現法を『源氏物語』に十分生かし、物語の文学性を高めた。

彼女は、文学ばかりでなく、音楽にも秀でていたようである。彼女に箏の琴を習いたいという人がいたし、『源氏物語』の中に、音楽に関するすぐれた描写が多いのも、音楽に対する才能の豊かさによるのであろう。

長徳二年(九九六)の夏、紫式部は、父と共に琵琶湖の西岸を辿りつつ越前に下った。姉妹の約束をした人は肥前へ下った。慕い合った者同士の遠い別れであった。

二十歳近く年上ですでに多くの妻子がある藤原宣孝からの度重なる求婚を受け、紫式部は結婚を考えるようになる。長徳三年の冬、父に別れ、琵琶湖の東岸を経て帰京した。一年余りの地方の生活と旅は、彼女にとっては地方の人と生活を知る貴重な体験となったろう。

長徳四年の冬、宣孝と結婚したと考えられる。二人の仲はむつまじい時をもった。そして一女賢子が生まれた。後に後冷泉天皇の乳母となった大貳三位である。他に何人も妻のあることとて、夫の夜離れの寂しさを味わう日もあった。それを伝える歌が『紫式部集』にいくつかある。

結婚してわずか三年足らずで、幼い子を形見として、夫宣孝を疫病で失う。聡明で、勝気な明るささえもっていた彼女の心にも大へんな打撃で、自分をこの上なく不運なものと思い、この世を住みづらい世―憂き世―と思うようになった。こんな救いがたい心に包まれながら、本来好きだった物語の創作に憂悶を晴らすようになったようである。『源氏物語』は、この寡居生活の中から生まれたと考えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『紫式部日記』再読 ― 四半世紀の時を超えて

2024-01-25 23:59:59 | 読游摘録

 『紫式部日記』は、私が日頃から愛読している日本古典のなかでもひときわ思い出深い作品である。1998年、ストラスブール大学の日本学科に語学講師として採用された年、最初に担当した四つの授業のうちの一つが、当時は学部しかなかった学科の最高学年である学部三年生の古典購読であった。登録学生は六名であった。実に隔世の感がある。
 教材として筑摩書房の『日本古典読本』(1988年)を選んだ。この読本は今見てもとてもバランスよく構成されている良書だと思う。今も手元にあり、仕事机に向かって座ったまま右手の書架からすぐ取れるところに並べてある。
 この読本のなかからいくつかの作品の抜粋を私の好みにしたがって選んで教室で読んだ。同時に古典文法の初歩を学びながらの購読であったから、一回二時間の授業で数行しか読めなかったが、それだけに一字一句ゆるがせにしない読みができたと思う。
 『紫式部日記』からは著名な冒頭箇所が選ばれている。

秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずゑども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空もえんなるに、もてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。御前にも、近うさぶらふ人々、はかなき物語するを聞こしめしつつ、なやましうおはしますべかめるを、さりげなくもてかくさせたまへる御ありさまなどの、いとさらなることなれど、うき世の慰めには、かかる御前をこそ、たづねまゐるべかりけれと、うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。

 何度読んでもその深沈たる美しさにため息が出る。感覚の協働の実に見事な叙述であるこの冒頭を、教室では声に出して何度も読んでテキストの音声としての美しさにも注意を促しながら、解説していった。この読解は学生たちにも深い印象を残したようで、出席していた学生(すでにジャーナリストとして働いていた女性だった)の一人と数年後に再会したとき、この授業のことを懐かしく語り合ったことは当時の良き思い出の一つとして忘れがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本学科修士一年の学生たちによって書かれた秀逸な哲学的レポート三本を讃えて

2024-01-24 23:59:59 | 哲学

 一昨年十一月に生成AIが市場に登場して以来、学生にレポートを書かせる意味が深刻に問われるようになったのはフランスも同じである。
 もうこれって完全に生成AI作だねっていう「現行犯逮捕」にも比せられるケースも学部レベルレでは頻発しているようである。そこまで露骨ではない場合でも、あきらかにAIに「アシスト」されている文章を見破るのはそれほど難しいことではない。
 それだけに、今回の修士一年の秀逸なレポートに対して私はほとんど鑽仰の念を抱いていると言っても過言ではない。現時点で提出されている十七本のレポートのうち、最優秀の三本はほんとうに「本気モード」で書かれている。つまり、自分で立てた問題について文献を渉猟した上で、当の問題を自らの頭で真剣に哲学的に考えているのである。他のレポートがいい加減だというわけではないのだが、多かれ少なかれ「他人の褌で相撲を取る」類であるか、表面的・一面的・一方的な「私の主張」の表明に終わっているのに対して、最優秀の三本は、問題に対して可能な異なった立場について吟味した上で、自分の考察を明確かつ論理的に提示することに成功している。筆者は三人とも女子学生。
 別に順位付けを目的としているわけではないのだが、採点の結果として、第三位は、反種差別主義の歴史的起源を第一次文献に基づいて正確に押さえた上で、〈種〉概念そのものの規定の曖昧さから反種差別主義がそもそも理論としては致命的な欠陥をもっていることを論証したレポート。
 第二位は、動物倫理における「許し pardon 」は誰が誰に対してするものなのかという問いを、スピノザ、ヘーゲル、カント、ジャンケレヴィッチ、デリダを参照しつつ、それが容易に解き得ぬ難問である所以を的確に指摘したレポート。
 そして、圧倒的第一位は、植物の個体性の概念規定が孕まざるを得ない曖昧さを手際鮮やかに際立たたせたレポート。一方で、西洋中世精神史における「同一の」植物の名称の多様性が植物の個体性問題にそれ固有の困難をもたらしていることを示し、他方で、日本人研究者たちによる最先端の分子生態学の知見から、群生する植物を個体として特定することは「実体的」「一義的」には困難で、「時間的」な経過のなかで暫定的にしか可能ではないことを指摘した上で、近世哲学史におけるライプニッツの植物の個体性論が両者の知見を総合しうる可能性をもった観点を提示していることを示している。
 二月六日・七日の日仏合同ゼミで三人に会うとき、本人たちに直接賛辞を捧げたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


また走れるようになった喜びを噛みしめながら走る

2024-01-23 19:08:42 | 雑感

 今日の午後、採点が一段落したあと、実に九日振りに走った。一四日に東京で走って以来である。こんなに長い期間まったく運動しなかったのはこの十五年間ではじめてである。最初は恐る恐る。もしふらついたり息切れがするようだったらすぐにやめるつもりで走り始めた。なにか足が地に着いていないようなたよりなさ。めまいも感じる。今日はまだだめなのかなと弱気になったが、息切れはしていないし、体はむしろ軽く感じられる。先週の四キロ体重減のおかげであろう。無理せずゆっくりと走れるところまで走ることにする。一キロくらい走ると、体も温まってきて、体のふらつきも収まってくる。本調子ではないが、走り続けられそう。自宅を中心としてそこからあまり離れないように徐々に同心円を拡大していくように走る。三キロくらい走ると、この九日間眠っていた体の細胞が徐々に再活性化されていくかのように体の動きが楽になり、またこうして走れるようになったことの喜びを噛みしめながら走る。結果、一時間二十分ほどで十二キロ走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ぼちぼち採点作業を始める

2024-01-22 23:59:59 | 雑感

 仕事ができそうなところまで体が回復してきたところで直ちに作業に取り掛からなくてはならないのは、先週の二つの期末試験の採点と15日が締め切りだった修士一年のレポートの評価である。その他年内にやり残してあった語彙テストの採点は今朝終えた。いつもなら一時間余りで終わる作業にニ時間以上かかった。まだ一気に片付けられるところまで体力が回復しておらず、何度か小休止を挟みながらの作業であった。
 読む量が多いのは修士のレポートだが、これらはWORDで作成させPDF版で送らせたので、手書きの答案よりはるかによみやすい。授業で扱った問題群のなかから一つテーマを選び、必ず日本と関連づけて論ずることという課題を課した。結果として学生たちが選んだテーマは以下の通り、動物倫理、肉食主義、森林の哲学、不死性、宗教と肉食、植物の個体性、狩猟とジビエ、動物実験、科学と生命倫理、肉食習慣比較、植物主義と代替肉、死生観、動物性食品の未来、カニバリズムの歴史とタブー、種差別主義の事例研究、エコフェミニズムと自然、動物倫理の法制化。A4で最低10枚(日本語にすればおよそ8000字)を条件としたが、15枚を超える力作もいくつかあり、読むのにはそれなりに時間がかかりそうだが、彼らがレポート作成を通じて何を考えたから知るのはとても楽しみでもある。