紫式部が自ら物語を書き始めたのは、夫宣孝を失い、一年の喪に服した後のことだが、いつからかは正確にはわからない。ただ中宮彰子づきの女房として出仕する前にすでにその物語が宮中でも評判になっており、その評判は道長の耳にも達していた。当時は紙も墨も高価なものであり、物語執筆のためにそれを大量に使用するためには援助者が必要であったはずだが、それが誰でいつからどのようなきっかけで始まったのかは推測の域を出ないようである。出仕後は道長が大パトロンであったことは日記の記述からも明らかである。
以下は、新日本古典文学大系解説からの摘録である。
式部が中宮彰子づきの女房としての出仕を要請されたのは、折から政界の第一人者となった道長が娘彰子のまわりに才女たちを集め、かつて皇后定子のまわり花開いていた後宮文化に匹敵するような文化サロンを形成することを願ったからである。
寛弘二年(一〇〇五)もおしつまったころ、式部は出仕することになった。古風で地味な家庭に育ち、すでにさだ過ぎた子持ちの寡婦として、花やかな宮廷世界に立ちまじり、男たちと顔をさらすことも避けられぬ日々は、身の憂さの意識に閉ざされていたかの女にとって苦痛であったらしいが、自分が紡ぎ出しつつある物語の主舞台である宮廷社会をわが目で確かめ得るのも魅力で、主家から信頼される女房となってゆく。公的地位の如何はともかく、日記をみると中宮に楽府を進講したり、物語の浄書作業を指示するなど、中宮の家庭教師ないし中宮方の文化の陰の指導者といった役まわりであったらしい。
源氏物語の作者として男性貴人からも一目置かれ、上臈に準ずる待遇を得る式部に対し、同僚女房の嫉視反目も激しかったようだが、かの女は凡庸穏雅な仮面で身をよろうことで女房仲間に伍してゆく。当然その本性・才知・情動は抑圧を余儀なくされるわけで、本来の自分を見失わぬためにも、女房としての日常と別次元に己が思念をひそめること=物語創作のいとなみは不可欠であったろう。
紫式部が日記を書き上げた翌年、寛弘八年六月、一条天皇が崩御し、式部も彰子に従い内裏を後にする。すでに中宮所生の敦成親王が立坊し、主家の栄花は不動だが、夫を失い寂寥をかかえる中宮の姿に、式部はみずからにかよう親しさをおぼえて親身に仕えたものと思われる。
没年はよくわからないが、少なくとも寛仁三年(一〇一九)あたりまでは健在でひきつづき彰子に仕えていたようである。