「日本思想史」の授業で「おのずから」と「みずから」というテーマを扱うにあたって、いろいろな現代文から両語の用例採集をしていてのさしあたりの感想に過ぎないのですが(言い換えれば、付け焼き刃の採集に過ぎず、多分に偏りがありそうなのですが)、「みずから」の用例はあまりおもしろくない、というか、「自分」「自分の」「自分から(進んで)」と置き換えられる例が圧倒的に多くて、「みずから」という言葉を使わなくては伝わらないニュアンスというものがあまり感じられませんでした。
それに対して、「おのずから」のほうは、自然とそうなるとか、事の成り行き上そうなるとか、当然そういうことになるとかの意味で使われるので、使っている本人の思考回路が、おそらく本人もあまり意識していないところで、端的に現れるところの指標のひとつになると思われました。もっとあけすけに言い換えると、「おのずから」が使われているところは、実は論理的な帰結ではないことがむしろ多いということです。
ご本人の論説全体を批判の俎上に乗せることがここでの目的ではないので、著者名も著作名も伏せて一例を以下に引きます。
こうした小国思想と社会的な均質性、それに教育の普及と、強力な英雄の不在という特質が加われば、そこからおのずから出て来る答えは「大衆社会」の形成ということになるほかはありません。
これはまったく論理的な帰結ではなく、歴史上の事実としてそうみなされているという前提が先にあって、そこから時間的に遡ってそのような帰結を導いてくれそうな歴史的条件を並べ立てているに過ぎません。この手の「おのずから」の用例を現代文のなかに見つけることは実に容易であるばかりでなく、それらを読んでいると腹が立ってくるので一例のみとします。
かなり乱暴な話であること(いつものことじゃんと小声で言っているのは誰ですか!)を承知で言うと、「おのずから」を使っている文章の大半の「論理」はこれに尽きます。つまり、実のところは少しも論理的ではなく、すでに得られている結果に対して、さもありそうな前提を鬼の首でもとったかのように並べ立てているに過ぎないのです。その前提がちょっと物珍しかったり、その並べ方に少し気が利いていたりすると、「おのずから」世間の喝采を浴びることができるようです。
ほんとうの「おのずから」は慎重に取り扱わないと、思わぬところで足払いを食らうことになりそうです。もって自戒(「自壊」、じゃあないですよ。最初の変換候補がこれなんだもん)といたしまする。