内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

隠された内なる彫像の輝きを取り戻すための離脱 ― 説教「高貴なる人について」(三)

2016-08-31 11:40:59 | 読游摘録

 説教「高貴なる人について」の中で、離脱の実践がどのようなことからなるのかを説明するために提示される第三の暗喩は、彫刻家の制作と修復されるべき隠された彫像である。エックハルトは両者を混合させているのだが、そのことを後注の中で明確かつ詳細に指摘している Alain de Libera の仏訳をここでは引く。

Quand un maître fait une statue en bois ou en pierre il n’introduit pas l’image dans le bois ; il enlève, au contraire, les éclats qui cachaient et couvraient la statue. Il n’ajoute pas au bois, il lui enlève quelque chose, il fait tomber sous son ciseau tout l’extérieur et fait disparaître la rouille, et alors peut resplendir ce qui se trouvait caché au-dedans (Eckhart, Traités et sermons, traduction et présentation par Alain de Libera, 3e édition, corrigée et mise à jour, GF Flammarion, 1995, p. 177).

 彫刻家は、木や石から一つの彫像を作るとき、そこに像を入れ込むのではない。それとは真逆に、像を覆っている余計なものを取り除く。木に何かを加えるのではなく、何ものかをそこから取り除く。鑿を使って外的なものを削り、くすみを落とす。そうすることで内に隠されていたものが再び輝きを取り戻す。
 離脱、つまり魂の内的解放は、「取り除く」「削る」「削ぎ落とす」などの作業からなる。何かを加えるのではなく、何かを取り除く。魂の内奥に現前する神の像が再び輝きを取り戻すのはそのような作業を通じてである。
 エックハルトが「高貴なる人について」の中で神の像について三つの暗喩を語るとき、プロティノス、オリゲネス、偽ディオニュシウス・アレオパギタらの系譜に連なっていることは明らかである。


















































ストラスブール大学神学部での博士論文審査を終えて

2016-08-30 11:18:09 | 雑感

 昨日の午前中は、ストラスブール大学神学部に提出されたマイスター・エックハルトと西谷啓治・上田閑照に関する博士論文の公開審査であった。
 審査委員は、リヨンでアンリ・マルディネに直接教えを受け、ストラスブール大学神学部哲学教授でこの博士論文の指導教授であり、今月末で定年退官する Yannick Courtel、Institut catholique de Lyon の准教授(博士論文指導資格 HDR所有者) Éric Mangin、ベルギーのルーヴァン・カトリック大学教授で私の博士論文の審査員の一人でもあった Bernard Stevens と私の四人。
 指導教授は規則上審査団の委員長になる資格はなく、二人の外部審査員は事前審査報告書を書いており、この二人も規則上委員長になることができない。したがって、私が審査委員長になるしかなかった。委員長といっても、いわば司会進行役であり、公開審査の席では大した仕事もない。ただ、審査後に最終報告書を書かなくてはならず、この最終報告書が審査された博士号取得者の今後の研究者人生にずっとついてまわる極めて重要な書類なのである。
 審査そのものは規則に則って滞りなく進行し、約三時間半で終了。審査結果は、ストラスブール大学独自の規定に従ってなされるので、いわゆる mention はなく、四つの基準に関して、四段階で評価する。秀・優・良・好とでも考えればいいだろう。四つの基準のうち、論文そのものについては、学問性と表現力において最高評価の秀、口頭発表と質疑応答に関しては優という高評価。この評価は、審査最後の博士号授与の宣言の際に本人に直接口頭で伝えられる。これも委員長の仕事である。
 審査を受けたのがドミニコ会修道士だったので、審査が行われた salle Fustel de Coulange には十数人の「兄弟」たちが傍聴に来ていた。審査後、審査が行われた大学宮殿のすぐ近くにあるドミニコ会修道院でお祝いの昼食会。同修道院専属の調理人が腕によりをかけて作ってくれた料理の数々を、審査には来られなかった修道会のメンバーも加わって総勢二十数人でワインと一緒に賞味しながらの楽しい一時であった。
 昼食会後、他の三人の審査員と別れ、自転車で帰宅。最終報告書はその三人の審査ノートを送ってもらってから私自身のノートと合わせて編集するので、それが届くまでは一休み。夏休みの終わりの一仕事を終えて少し安堵している。















 


常に輝く陽の光 ― 説教「高貴なる人について」(二)

2016-08-30 11:00:34 | 読游摘録

 「高貴なる人について」の中で離脱の経験と魂の解放作業とを説明するための神の像の第二の暗喩は、第一の暗喩での神の現前の恒常性を引き継ぐ形で導入される。それは恒常的に輝く太陽である。たとえ眼はいつもそれを知覚しないとしてもである。

Le soleil luit sans interruption, cependant, quand un nuage ou un brouillard s’interpose entre nous et le soleil, nous ne voyons pas sa lumière. De même quand l’œil est faible, malade ou voilé, il ne perçoit pas la lumière (Maître Eckhart, Traités, traduction et introduction de Jean Ancelet-Hustache, Éditions du Seuil, 1971, p. 147).

 つまり、人が必ずしも陽の光を見ないのは、眼と太陽との間に入り込んでくる外的障害のせいか、あるいは、眼それ自身の弱さか病による。いかなる場合でも、太陽そのものを非難してはならない。
 魂の解放のための離脱は、それゆえ、魂と神との間に入り込んでくるすべてのものを、外部世界においても内面世界においても、消滅させることである。























井戸の底で滾々と湧き出る泉 ― 説教「高貴なる人について」(一)

2016-08-29 00:00:01 | 読游摘録

 論述『神の慰めの書』の補遺として読まれてきた説教「高貴なる人について」の中で、エックハルトは、離脱の経験と人間の魂の解放作業とを説くために三つの暗喩を提示している。
 第一の暗喩において、人間の魂は井戸に比される。
 その井戸の底には神の像が生ける源泉のように秘められている。この源泉は、人がそこに投げ入れたありとあらゆる地上のものによって覆われてしまっている。この状態での離脱とは、それら源泉を塞いでしまっているものを取り除くことからなる。

神の像、神の子は魂の根底にある一つの生ける泉、滾々と水の湧き出る泉の如くである。然しもし誰かがそこに土を、というのは地上的なる欲望を投げ入れるならば、それは泉を妨げ覆い、泉は認識されず気が付かれなくなる。しかもなお、泉はそれ自身において生きつづけているのであり、外から投げ入れた土が取り除かれるならば、泉は再び顕現し認識されるようになるのである。(上田閑照『エックハルト 異端と正統の間で』講談社学術文庫、1998年、365頁)

 魂の解放作業は、主に人と神との関係を修復することからなるが、特には、魂の最内奥に現前する神の像を、すっかり覆われてしまうこともあるがそれでもそこにありつづける神の像を現れさせることからなる。























内奥は親密性あるいは内面性でもなく、自由の形である

2016-08-28 05:26:11 | 読游摘録

 内奥がそれと区別されなくてはならない第三の概念は、「親密性」(« l’intimité »)あるいは「内面性」(« l’intériorité »)である。ドイツ語では、それぞれ innerkeitinnicheit である。親密性が指し示しているのは、己の家に憩い、己自身の内部に閉ざされ、外部世界から遠くにあることである。それとは反対に、内奥においては、「誰も己の家には居ない」(ドイツ語説教四八)。内奥は、すべてのものの至近に寄り添う一つの在り方を私たちにもたらし、さらには私たちを外部世界へと開き、具体的な生活において働くことを可能にする。
 エックハルトにおいては、内奥と実存とには強固な結びつきがある。「神が汝を内的に魂の最内奥へと向かわせなければならない[…]というのも、汝の生はそこにあるからであり、そこにおいてのみ汝は生きるからである」(説教三九)。内奥は、人間に十全に生き、生をゆっくり味わうことを得させるものなのである。なぜなら、内奥は、おそらく、自由の一つの形であり、真正な実存の条件だからである。
 すべてのものを内奥から生きること、それは、実存の味覚を思い出し、自分のものではない異なる世界の味わいを取り戻すことである。



























内奥は私的なもの・個人的なものではない

2016-08-27 04:10:29 | 読游摘録

 内奥がそれと区別されなくてはならない第二の概念は、「私的なもの・個人的なもの」(« le privé »)である。この概念は、公的なもの・交際・関係性と対立するものとして定義できる。内奥は、反対に、繋がりの秩序に属する何ものかである。確かに、内奥は、隠されたもの、秘されたもの、眼差しを逃れるものを指す。それは、「魂の中の小さな城塞」(ドイツ語説教二)であり、そのうちでは誰も、神さえも、何も見ることができない。
 しかし、内奥の内的孤独は、孤立ではない。その孤独は、神と他者たちへの別種の関係を確立する。内奥は、同時に隔たりと近さなのである。内奥の窪みにおいて、万物は私たちの近くにあり、それゆえ、内奥において、私たちは、決して独りではない。



























内奥は人間の所有に帰されるものではない

2016-08-26 11:08:02 | 読游摘録

 エックハルトにおける内奥(l’intime)は誤解を招きやすい概念でもある。
そこでMangin 氏は、内奥と類似しており混同されがちな三つの概念を挙げ、それらそれぞれと内奥とがどこでどう違うのかについて私たちの注意を促す。
 まず、内奥はいわゆる内部(l’intérieur)ではない。より正確に言えば、「最も内なるもの」(« le plus intérieur »)は、内部とは質的に異なる。そこにあるのは、単なる量的な違い以上のものである。内部は、外部との対立において確かに限界づけられた空間を指し、内的空間としてものの限界の内にあり、魂の諸種の働きによって限定されている。
 ところが、人間の内にはより最終的な何ものかがあり、それが人間をして様々な外的顕現には還元不可能な存在にしており、それゆえ人間存在は感情的・理性的生活には還元されない。
 内奥は、人間の所有に帰すことのできない何ものかであり、「空間なき空間」(« un espace sans espace » )であり、底なき深淵であり、あたかも無限の大海の中へ身を投ずるようにそこに身を委ねなくてはならないものである。






































マイスター・エックハルトあるいは内奥の深み

2016-08-25 17:34:10 | 読游摘録

 マイスター・エックハルト独語全著述仏訳一巻本の編訳者である Éric Mangin 氏は、Maître Eckhart ou la profondeur de l’intime (Éditions du Seuil) という大変美しいエックハルト研究を2012年に出版されている。
 タイトルにある « l’intime » は、エックハルトの精神的人間学の中核をなす概念であり、著者はそれについて序論で丁寧に説明している。この概念を通じてエックハルトの全著作を読み直し、特にエックハルト思想の基軸である「離脱」経験について考察することができると著者は考える。
 フランス語の intime は、ラテン語の intimus の訳であり、このラテン語は interior の最上級である。それはまたドイツ語の innersteinnigeste との訳でもあり、それぞれ innerinnic という形容詞から派生した実詞である。したがって、 « l’intime » は、「最も内なるもの」(« ce qui est le plus intérieur »)と定義することができる。日本語に訳すとすれば、「内奥」となるであろうか。
 エックハルトはこの語を他の語と結びつけて用いることがしばしばあるので、それらの用法からさらにこの語についての理解を深めることができる。例えば、内奥とは、「最も純粋なもの」「最も高きもの」の同意語である。さらに、「第一のもの」「純一なるもの」「最も深きもの」「最も甘美なもの」「最も自然なもの」「最も豊穣なもの」とも言い換えられる。
 それゆえ、内奥は、一人の人にとって最も内密なものであると同時に最も普遍的なものとしてエックハルトのテキストに現れる。言い換えれば、内奥は、あるものの同一性を、それ固有の特異性によってではなく、そのものがそれを通じで他のすべてのものと繋がるものが顕にされる場所なのである。内奥は、したがって、あるものが永遠にそうであるところのもの、本質的にそうであるところのもの、そのもののうちの創造に因らない何ものかが明らかになる処なのである。































誕生日メッセージへの返礼

2016-08-24 16:59:13 | 雑感

 昨日は私の誕生日であった。Facebook には誕生日が表示されるからであろう、主に前任校の卒業生たちから多数のメッセージが届いた。もう何年も会っていないし、前任校を離れて二年になるのに、こうして一言でも送ってもらえるのは嬉しい。
 それらのメッセージの中に一つ長いメッセージと併せて私の過去の写真を加工して「プレゼント」として送ってくれた男子学生がいた。それを見て思わず笑ってしまった。その加工写真は他の学生たちにも受けたようで沢山の「いいね」が付いていた。
 メッセージを贈ってくれた一人一人にお礼の返事をするのはちょっと手間なので、全員に宛ててフランス語でお礼を書き、 Facebook にアップした。最初に少しふざけた調子で礼を述べた後、現在の危機的なフランス社会について触れ、他なるもの・他者たちへの憎悪が社会に蔓延しつつあることに懸念を示した。そして、こう結んだ。
 「まさにそんな状況だからこそ、私はあなたたちのことを誇りに思う。なぜなら、日本語を私と学ぶことを通じて、他なるもの・他者たちを愛することをあなたたちはしっかりと学んでくれたから。」































それ自体は言表不可能な主題による無限の変奏曲 ― エックハルトの読み方

2016-08-23 04:53:04 | 読游摘録

 Mangin 氏の序論の続きを読む。
 昨日の記事の末尾で、エックハルトの中高ドイツ語テキストの文学的美しさに言及したが、エックハルト自身に文学的企図があったわけではもちろんない。そもそも中世に書かれた述作類に対して「文学」という概念を適用すること自体、必ずしも自明なことではない。
 とはいえ、エックハルトの著述に見られる特異な表現の数々は、教化を目的とした単なる修辞として片付けることもできない。魂において感受された神の現前とその言語による掌握不可能性の自覚との緊張関係は、エックハルトのドイツ語著作の主たる特徴とさえ言うことができる。
 それらの著作は、それ自体は言表不可能な主題による無限の変奏曲として読むこともできる。そのように読むとき、言語の厚い壁の向こう側に、自らを言い表そうとする何ものかの壊れやすく儚い痕跡を感知するに至ることがある。
 「誰がその御言葉を言い表すことができるのか。誰もできない、その御言葉そのもの以外は。」(説教五三)

L’esprit doit continuellement dépasser et aller au-delà, cette aventure peut parfois même être douloureuse, et dans tous les cas il ne peut y avoir de repos pour celui qui cherche à dire ce qui est présent au plus profond de lui. Ne jamais se reposer, toujours dépasser, traverser les apparences et passer sur l’autre rive (Mt 14,22)... (op. cit., p. 32)