内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

行間を書く ― 思考の生成する場所

2018-08-31 04:56:04 | 哲学

 今日の記事のタイトルをご覧になって奇妙に思われた方も少なくないであろう。「行間を読む」という言い方はあっても、「行間を書く」とは普通言わないからである。
 英語にもフランス語にもそれぞれ « read between the lines »、 « lire entre les lignes » という慣用表現があり、日本語の「行間を読む」と同様、書かれたことから書かれていないことを読み取るという意味で使われる。
 視覚的には、文字列からなる行しか書けない。行間そのものを書くことはもちろんできない。「行間を書く」というこの奇妙な表現によって、私はおよそ次のようなことを言おうとしている。
 行間は、文章を書くことによってはじめてそれとして生まれる。行間は、それだけで存在することも生成することもできない。しかし、それは文章も同じだ。行間のない文章というものは存在しえない。行間とは、文章において文字が書かれていない単なる空白部分のことではない。
 シモンドンの個体化の哲学のテーゼの一つを応用して言えば、存在の諸項とそれらの間の関係は同時生成的であり、関係にも存在身分を与えるべきであるように、文字列とそれらの間の空間は同時生成的であり、行間にも文字列と同等か或いはそれ以上の存在身分を与えるべきだ、ということになる。
 行間こそ、文章の生成の源は書かれた文章そのものにはないことを示している。すぐれた文章とは、その行間の見えない〈奥行〉と〈広がり〉とが豊かな文章のことだ。そのような文章は、顕在的な視覚的文面からその行間の見えない深層への探索へと私たちを誘わずにはおかない。
 「行間を書く」とは、文章を書くことによって思考空間の見えない〈奥行〉と〈広がり〉とを掘削・拡張し、その空間に可塑的な構造を与えることにほかならない。












全存在の肯定者としての道元 ― 寺田透『正法眼蔵を読む』

2018-08-30 15:24:30 | 読游摘録

 寺田透の道元の読み方は唐木順三のそれと截然と区別される。寺田の『正法眼蔵を読む』には無常に論及した箇所がほんのわずかしかない。
 では、寺田は本書で道元の全体像をどのように描いているのか。どんな態度で『正法眼蔵』を読んでいるのか。
 寺田書の全体を占めているのは、「繪を考察の對象にえらべば繪が、枯木をとり上げるなら枯木が、月を考えれば月が存在のすべてだといふ、全一なる存在の確認者としての道元」(三頁)である。
 寺田は、唐木の道元論をそれとして評価しつつも、道元といえば無常というようなステレオタイプに対する嫌悪を隠そうともしない。「道元をだしに無常を語らうという氣にはなれない」とまで言う(同頁)。
 寺田にとって、道元は、端的に、「全存在の肯定者」なのである。

 かれを存在論哲學者として位置づけることが可能だろう、但し信に支へられ、信を内包し、信をもつて全體をおほふ、影像によつて思惟するところの――。(同頁)

 道元観のさまざまな差異はどこからくるのか。それは、「眼蔵全體を一巻の書物として讀むか讀まないかに大きくかかつてゐる」(三-四頁)と寺田は言う。全体を一巻の書物として読もうとするとき、当然のこととして、次のような自省と配慮が要請される。

氣に入つた巻を取上げ、それを論ずることで道元像をゑがき出さうといふ試みは、嚴しい自省と、さらに廣く遠く眼のとどく配慮とともになされなければならないだろう。(四頁)

 これは道元を読むときにかぎった戒めではないだろう。一人の大思想家の思想をその全体として理解しようと試みるとき、このような自省と配慮ができているかどうか絶えず自己吟味することなしには、私たちはその思想をそもそも「読む」ことさえできない。
 生きた思想をこのような自省と配慮とをもって「読む」ためには、読み手もまた書くことによって対象の全体像を更新しつづけなくてはならない。読まずに書くことも、書かずに読むことも、ほんとうはできないのだ。












無常感・無常観から解き放たれた無常のリアリティ ― 唐木順三「無常の形而上学―道元―」

2018-08-29 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた寺田透『正法眼蔵を読む』の初版は法蔵選書の一冊として一九八一年に刊行された。そのとき、同じ選書の一冊として唐木順三『禪と自然』も一緒に刊行され、寺田はその「解説」を書いていることが寺田書の「はしがき」からわかる。
 この唐木の本は未見だが、寺田によれば、「道元を無常の形而上學者として把握した雄編」がその中に収められている。一九六四年に唐木の名著『無常』の初版が筑摩書房から刊行されているが、その最終章がまさに「無常の形而上学―道元―」と題されている。手元にある『唐木順三ライブラリーⅢ 中世の文学 無常』(中公選書、二〇一三年)で五十頁余りの論考である。『禪と自然』の中の道元論がそれと同一の論考であるかどうか今確かめようがないが、唐木の道元の把握の仕方は『無常』に収められた道元論によって代表されると見て大過ないだろう。
 『無常』の「あとがき」で、唐木は、その道元論について次のように感懐を述べている。

私がいちばん書きたいと思い、また力をいれ、苦労したのは、道元を扱った「無常の形而上学」である。無常を観じ思って、道心を発し菩提を求めるという、普通のところから出発した道元が、ついに無常そのものを究め尽し、「無常仏性」にまで至ったそのことを私は書き尽くしたかった。無常を、ありきたりの無常感や無常観から解き放して、即ち心理や情緒や詠嘆から解き放して、まさに無常そのもの、もののリアリティにいたりつくした「無常の形而上学」を書きたかった。(五三五頁)

 唐木にとって、道元の全体的思想は、「無常の形而上学」という一言に集約される。その全体像と『正法眼蔵』のテキスト群との間に自ら立ち入り、像とテキスト間での思考の往還運動を通じて道元の思想を生動させることが唐木にとって道元を読むということにほかならなかった。その読みの実践記録が「無常の形而上学」である。それは次のように結ばれている。

 身心脱落者の共同世界においては、無常ならぬ何物もない。一切は無常であるままに、それは法の起滅である。無常な時間が音もなく一切存在を透過している世界である。一切が無常であるというところでは、無常への詠嘆は意味をもちえない。無常ということすら意味をもたない。一切が白色である場合、白いということが意味をもちえないと同様である。無常がそういう場面でとらえられたとき、それを「仏道」という。少くとも道元の仏道とはそういうものであった。(五三三頁)












読むこと、それは、書かれたテキストと書かれえない全体像との間の無窮の往還運動

2018-08-28 23:59:59 | 読游摘録

 寺田透『正法眼蔵を読む』(法蔵館、新装版、一九九七年。初版、一九八一年)の「はしがき」にヴァレリーの『カイエ』哲学篇からの引用がある。寺田自身の訳である。

 ひとの書くものがそのひと自身といかなる點で異り、書かないことがどれ程重要かを知るには自分自身書いたことがあるだけで十分である。
 さうしてみると、書かれたものから全體的思想に向つて、一本のペンから出たものすべてを近寄せたり、嚴密に照し合せたり、これ以上は出来ないといふ位飛切り細心に解釋したりしつつ遡ること――それは、それが正確で完全無缺であればあるだけいつはりの(すなはち實在しなかつた)思想と架空存在を生み出す。

 達意の訳だが、原文も引いておこう。

 Il suffit d’avoir écrit soi-même pour savoir à quel point ce que l’on écrit diffère de soi-même et combien ce que l’on n’écrit pas est plus important.
 Il s’ensuit que remonter de l’écrit à la pensée totale, en rapprochant, collationnant rigoureusement tout ce qui est sorti d’une plume, l’interprétant le plus scrupuleusement du monde — produit une pensée et un être fantastique d’autant plus faux (c’est-à-dire qui n’a pas existé) que c’est plus exact et complet (Cahier I, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1973, p. 631).

 寺田はこのヴァレリーの託宣に抗して『正法眼蔵』を読もうとする。テキストの言葉だけから道元の思想の核心を摑もうとする。しかし、それは全体的思想を無視するということではない。

 このときとて、といふよりこのときはさらにひとは、既成の全體像に對する忠実と尊重とともに、それを破壊するやうにはたらく發見や確認に對しても誠實にふるまふ柔軟さを要求される。
 すなはち、通讀し解釋するに當つていよいよ「細心」、「嚴密」、敏感でなければならないのだ。(『正法眼蔵を読む』二頁)

 ただ書かれたテキストだけを読んでそれを理解するということは実際にはありえない。けっしてそれ自体は書かれることのない全体的思想と書かれたテキスト全体との間の相互参照を細心の注意をもって厳密な方法論に拠って行うことによって、書かれたテキストから書かれえない全体像へ、そしてその全体像からテキストへという思考の往還運動が生まれる。この運動は無窮である。その無窮の運動の中で一つの思想を生動させること、それが読むということなのだと思う。












『君の名は。』の瀧のセリフから日本語における人称代名詞の機能を考えてみよう

2018-08-27 23:59:59 | 日本語について

 『君の名は。』の中に、三葉と入れ替わってしまっている瀧が高校の屋上で友達二人と昼食時に会話するシーンがある。瀧が自分について話そうとして、「わたし」と言って二人に怪訝な顔をされ、慌てて「わたくし」と言ってさらに不審がられ、「ぼく」と言い直してもまだ二人は変だと思い、「おれ」と言い直してようやく二人は納得して頷く。瀧が普段友達同士で話すときに自分を指すのにどの一人称代名詞を使っているか、それと違った人称代名詞を使うと周りはどんな反応を起こすかということをユーモラスに描いているシーンだ。
 このシーン、フランス語には訳せない。もちろん英語その他の欧米言語にも。手元にある仏語版のブルーレイでは、字幕では、「heureuse, satisfaite, contente... content」となっており、吹き替えでは、「distraite, inattentive, rêveuse...et tombé」となっている。いずれの場合も、最初の三つの形容詞が女性形、最後の一語が字幕では男性形、吹き替えでは男性形・女性形で発音上の区別がない過去分詞を置いている。どちらも苦肉の策だが、日本語のオリジナルヴァージョンでの人称代名詞だけでの言葉遊びの面白さはまったく反映されていない。それはそもそも無理な相談である。この意味で、このシーンの瀧のセリフは欧米語には翻訳不可能である。
 日本語における一人称代名詞の機能について説明するときの話の枕として、この場面を昨年仏語版の発売直後に授業で使ったことがある。学生たちは日本語とフランス語との間のずれに思わず笑っていたが、こちらの狙いは、このずれが日本語の機能の理解のために大切なポイントの一つであることを学生たちに示すことにあった。
 日本語の人称代名詞は、待遇的な情報を多く担わされている。つまり、話し手や指示される人物の上下関係、社会階層、性別等によって、さまざまな語が使い分けられる。それゆえ、人称代名詞は、語彙数が多く、使用例の歴史的変化が大きい。
 一昨日の記事で取り上げた『現古辞典』は、日本語の歴史上に現われた一人称・二人称代名詞の語彙群に見られる特徴および歴史的変化の傾向として次の三点を挙げている。
 ①指示の曖昧化。特に場所を介する指示。「あなた」「お前」「そなた」「そのほう」などの二人称代名詞はいずれも相手の場所を指している。商取引などでは、自分たちのことを「手前ども」と言う。あるいは「こちらといたしましては」などもこの部類に入るだろう。
 ②地位・身分・年齢階梯語からの転用。これも一種の曖昧化であるが、地位・身分・年齢関係を表す語彙によって話し手自身や相手を指し示したものが固定化したものである。一人称では、「やつがれ」「わらは」、二人称では、「きみ」「わぎみ」「わぬし」など。
 ③敬意および品位の逓減。「君」「お前」「貴様」などはもともとは敬意をともなっていたが、今はその価値は失われている。
 三人称に関しては、「彼」「彼女」「彼ら」の使用は明治以降の翻訳の影響下に一般化したが、「英語の人称代名詞のような、指示詞の系列とは独立した三人称代名詞の体系は、厳密な意味では日本語に存在したことがない。」(『現古辞典』372頁)
 デカルトの『方法序説』と『哲学原理』の中に出てくる有名な言葉 « je pense, donc je suis » は、長いこと「我思う故に我あり」と訳すのが定番であったが、これを「私は思うゆえに私はあります」「僕は思うから僕はあるんだ」「俺は思うから俺はあるんだぜ」などと訳し変えることによって、それが誰に向けてどんな場面で言われ或いは書かれたかが違ってきてしまう。フランス語の一人称代名詞 je は、我でも、私でも、僕でも、俺でもない。












相対的動態関係表現詞としての人称代名詞 ― 藤井貞和『日本文法体系』(ちくま新書、二〇一六年)

2018-08-26 18:41:38 | 読游摘録

 藤井貞和『日本文法体系』は、『文法的詩学』(笠間書院、二〇一二年)、『文法的詩学その動態』(同、二〇一五年)で記述した内容を新たに考察し直して、コンパクトに纏めたものである。
 時枝文法の「詞」と「辞」との区別を大前提としつつ、非自立語である助動辞(藤井の用語に従う)「き」「り」「し」「む」の四項を頂点とする四辺形と四面体を基本構造とした、日本語文法の藤井独自の体系的記述の試みである。
 個々の助動辞(そして助辞もまた)をバラバラに規定するのではなく、相互限定的な関係構造の中で規定しようというその基本方針は、田辺の種の論理の用語を転用すれば、日本文法体系を絶対媒介の弁証法の動態構造として捉えようとする意図に基づいている。
 さらに縁遠いように見える遠方の観点からその試みを別様に特徴づけるならば、シモンドンの個体化の哲学の言語学的応用とも見なせる。つまり、一つの言語の生成史を大きさのオーダーを異にした複数の次元からなる個体化のプロセスとして捉える試みであるとも言うことができる。
 この基本方針は、非自立語である助動辞・助辞にだけ適用されるのではなく、自立語である名詞や動詞にも適用される。
 例えば、人称代名詞について、夙に時枝が『日本文法』(岩波書店、一九五〇年)で「常に言語主體卽ち話手と事物との關係を表現する場合にのみ用ゐる語である」と指摘している(六二頁)のを踏まえて、藤井は、源氏物語の冒頭の一節「はじめより、我はと思ひ上がりたまへる御方々」を引き、「私が一番だ」とプライドの高い妃たちが自身との関係から「我」と言うのだとする(二四五頁)
 つまり、「我」は、それ自体として存在する一個の実体を指すのではなく、他者(たち)から区別されるべき場面における自己の自己に対するその時の関係を表現している。その他の人称代名詞もすべて話し手にとっての相対的関係表現詞であって、文脈から独立して存在する実体の指示詞ではない。だからこそ、日本語には各人称について複数の代名詞があり、それらのうちの一つがその場での関係に応じて選択される。










日本語の地層学的探検のガイドブック ―『現古辞典 いまのことばから古語を知る』

2018-08-25 23:59:59 | 読游摘録

 一時帰国の度毎に日本語の本を買って帰る。しかし、本は束になるとどうしてこう重いのか。今回も、衣類その他の荷物は最小限にとどめ、二つのスーツケースそれぞれに上限ぎりぎりの二十三キロまで詰めたが、とても購入した本全部を持ち帰れない。仕方なく、高くつくが一部はEMSを使って郵送にした。それでも合わせて七十冊ほどである。重たい単行本が二十冊ほど、残りはほとんど文庫本、それに数冊の新書。
 その文庫本の中の一冊が、『現古辞典 いまのことばから古語を知る』(河出文庫、二〇一八年)。本書は、二〇一二年に河出書房新社から刊行された『現代語から古語を引く 現古辞典』を、加筆・修正のうえ文庫化したもの。本書の解説にあるように、類書は平成に入ってからまとまって世に現われているが、本書のようにどこにでも手軽に持ち運べる文庫版や電子書籍で手に入るものは他にはないようだ。
 各項目に挙げられた古語にはすべて用例が付されており、行き当たりばったりに項目から項目へと散策するようにそれらを読むだけでも、千数百年の日本語の歴史の中で幾重にも積み重なった言葉の地層を垣間見ることができて楽しく、いわば日本語の地層学的探検のためのハンディなガイドブックになっている。
 三人の編者、古橋信孝、鈴木泰、石井久雄がそれぞれ執筆した序、この本の使い方、解説は、単に現代語から古語への遡行へと読者を招くだけでなく、古文を書いてみてはと読者に誘いかけており、とても示唆的かつ刺激的だ。
 項目には、いわゆるオーソドックスな現代日本語の語彙からだけでなく、「アクセサリー」「アパート」「エンジニア」「カーテン」「ガールフレンド」(なぜか「ボーイフレンド」は項目にない)「テスト」「ニュース」などの外来語、「インテリ」のような外来語の略語、「イケメン」という現代の造語まで採用されている。
 巻末の補説は、指示詞・代名詞についてそれぞれ概説し、時間・空間・病気の和語・自然現象・家具調度など(性用語まである)についてそれぞれまとめて語彙を示してあって重宝だ。
 定価は一四〇〇円と文庫本としてはちょっとお高いが、中身はそれに十分に値する充実ぶりである。












万事うまくいくなんてありえない、ええ、でも、それにしても……

2018-08-24 23:59:59 | 雑感

 今朝、午前四時過ぎにシャルル・ド・ゴール空港着。定刻より三十分ほど早かった。機内ではいつになくよく眠れた。午前零時過ぎに出た一回目の機内食の後はすぐに照明が暗くされたので、映画を見る気にも読書する気にもならなかったから寝るしかないということもあったが。
 ストラスブール行きのTGVの出発時刻まで四時間以上待たなくてはならなかったが、メールの返事を書いたり読書したりしているうちに時間が経ち、時間を持て余すということはなかった。定刻に出発し、ストラスブールにもほぼ定刻に着いた。
 重量制限ぴったりに荷物を詰め込んだ大型のスーツケース二つを持って駅のホームからタクシー乗り場まで移動するのがちょっと大変そうだったので、あらかじめKさんに連絡してホームまで迎えに来てもらった。ホームから地上階に降りるエレベーターが故障していて使えず(こちらではよくあることです)、階段で降りるしかなかったので、来てもらってほんとうに助かった。
 タクシーで自宅に戻り、Kさんには日本で買ったお土産を渡した。着いたのが昼少し前だったので昼食を一緒に食べることにした。Kさんがあるものでさっと作ってくれた。食後、日本滞在中に撮った写真などを見せながら、しばらく雑談。午後三時過ぎにKさん帰る。
 ここまではすべて順調だったのだが、万事うまくいくなどということはけっしてないのがこの国である。たまに事があまりにもスイスイ運ぶと、かえって不安になるくらいである。案の定、今日も、そうは問屋はおろさなかった。
 今週火曜日に本を詰め込んだダンボール箱一箱をEMSで東京から発送した。十八キロとかなり重い。今日金曜日に着くだろうとの見込み通りになったのはよかったのだが、こちらが自宅に帰り着く前に配達に来てしまい、不在通知が郵便受けに入っていた。それを見ると、荷物は届け先住所から最も近い保管場所に移送されるから、クロノポスト(日本のEMSに対応する)のサイトでどこに荷物が預けられたか探せとある(日本なら当たり前の再配達はしてくれないということである)。
 探してみて、驚いた。自宅から約八キロもある集配所で預かっているというだ。私は車を持っていない。自転車で行くしかない。片道三十分はみなくてはならない。
 過去には、最寄りの郵便局に保管されていたり、同じ建物の住人が代わりに受け取ってくれていたこともあるのに、いったいどういうことなのか。長旅の疲れもあり、取りに行くのが億劫だったが、明日に延ばしても面倒なのは同じだと、意を決して自転車で取りに行った。
 集配所は郊外のわかりにくい場所にあり、何度か道を間違えて、やっとのことでたどり着いた。受け取りそのものは簡単だったが、帰り道は自転車の後ろのかごに重たいダンボールを乗せての走行だったので、ときどきよろよろしてしまい、来るとき以上に時間がかかった。
 金を払って送った本人がなんでこんなことしなければならないのかと恨みたいところである。こんなことで時間とエネルギーを浪費するのは馬鹿げている。しかし、それに対して腹を立てているうちに過ぎてしまう時間ももったいない。というわけで、自力でさっさと問題を解決するほうを選んだ。
 かくして、フランスにおける顧客サービスの向上という夢はまた一歩遠のいた。













六十回目の誕生日に帰仏の途につく ― 羽田国際線ターミナルで搭乗便を待ちながら

2018-08-23 21:06:28 | 雑感

 今日がこの炎暑の夏の約四週間の日本滞在の最終日です。今回、帰仏する日としてこの日を選んだのには理由があります。今日が六十回目の誕生日なのです。
 正直なところ、そんなに長く生きたという実感がありません。何も仕事らしい仕事もせずに徒に馬齢を重ね、人間としてなんら成熟することなく、右往左往しているうちに、気がついたらこんな年になってしまった、というのが、謙遜ではなく、偽らざる感懐です。そこには悔恨の苦い味が染み込んでいます。
 しかし、それはそれとして、還暦という人生の一つのサイクルを幸いにもこうして終えることができたのだから、今日という日を一つの大きな区切りとして、生まれ変わったような新たな気持ちで、定年までに残されている九年間を今の職場で時間を大切に健康に留意しつつ生きたいと思います。それは今日まで命を恵まれたことに対する感謝の徴でもあります。あと三年間は学科長を務めなければならないでしょうけれど、それ以降は、願わくは、研究を主としてフランスでの二十年余りの大学教員生活を締めくくりたい。その間、同僚たちの理解を得た上でのことですが、雑務からはできるだけ解放してもらえれば……、でも、無理かな、これは。
 何はともあれ、良くも悪くもこれが私の仕事だと人に胸を張って示せる著作を一つくらいは残してから定年を迎えたい、そう切に願っています。
 末筆ではありますが、今回の滞在中、いろいろとお世話になったお一人お一人にこの場を借りて心より感謝申し上げます。
 あと一時間ほどで搭乗開始です。明日の記事からまたフランスからの発信になります。











海に閉じこめられた孤島は、海によって世界とつながってもいた ― 大平文一郎について

2018-08-22 23:59:59 | 読游摘録

 『狂うひと』を読んでいると、主人公である島尾ミホや島尾敏雄彼ら自身についての新資料や新たに明らかにされた事実などによってたびたび驚かされる。だが、それだけでなく、著者によって初めて詳しく紹介されたミホの親族についての伝記的叙述もとても興味深い。
 第二章「二人の父」では、ミホの養父と実父について詳述されている。養父・大平文一郎という人物に私は特に惹きつけられた。著者がミホにした最初のインタビューのとき、「ミホさんが子供のころ、お父さまは何をなさっていましたか」という質問に対して、ミホは笑って、「なーんにもしておりませんでした」と答えたという。ミホが覚えているのは、書院の表座敷に座って書をしたためたり、漢籍を読んでいる養父で、いわゆる仕事をしているところを見たことはなかったという。しかし、若い頃は、いろいろな事業に手を染めて、ことごとく失敗したという。
 大平文一郎は、明治元年、奄美大島の加計呂麻島生まれ。大平家は琉球士族を祖先に持つユカリッチュの一族である。幼少期には、墨摺り係を連れ、六人の若者が漕ぐ板付け舟で大島海峡を渡って学校に通ったという。
 その後、鹿児島、熊本、長崎で学び、京都に出て同志社大学の全身である同志社英学校に進む。卒業後は奄美大島の名瀬にあった島庁に勤務したが、二十五歳のとき母に乞われて加計呂麻島に戻った。その後は戸長や村長をつとめながら、さまざまな事業を試みた。ノルウェー人の砲手を雇って捕鯨会社を作ったこともあれば、鰹の加工会社を起こしたこともあった。樟脳を作るために楠を植林し、また島の豊富な森林資源を生かしてシベリア鉄道の枕木を輸出する事業を計画してロシアに渡りもした。しかしいずれも利益を上げるところまではいかず、最後に手がけたのが真珠の養殖だった。しかし、これもうまくゆかず、文一郎は、五十代の後半になるまでにほとんどの事業で挫折していた。
 およそこのような紹介の後、養父にまつわるいくつかのエピソードが詳細かつ生き生きと叙述されている。島尾敏雄も文一郎の人柄に強く惹かれていたことは、「私の中の日本人―大平文一郎」というエッセイを読むとよくわかる。後には、父文一郎と娘ミホとの関係を小説化しようと試みているが、これは連載二回にして中断され、未完に終わる。
 梯久美子は、文一郎が失敗を繰り返しながらなぜ次々に新しい事業に乗り出したのかという問いに対して、次のような仮説を提示している。

どの事業も、南東ならではの資源を生かして利益を生み出す可能性があるものである。[…]シベリアやノルウェーといった外国と取引をしようとしたのは、奄美を収奪してきた薩摩―鹿児島を経由せず、直接海外とつながるべきだと考えた結果だったのではないだろうか。(128頁)

 南島では国境を越えて人や物が行き来した。文一郎の膨大な漢籍は、半分は京都、もう半分は中国から直接買ったものだったという。海に閉じこめられた孤島は、海によって世界とつながってもいたのである。そうした中で、本土の人々とはまた違った国際感覚を文一郎は身につけていた。青年時代の文一郎が抱いていたのは、薩摩―鹿児島に抑圧され続けてきた故郷を、近代という新しい時代に向けて解き放つという夢だったのではないだろうか。結局は挫折し、「何もしない」老後を送ることになったのだが。

 本土ではほとんど誰も知らないような南の果ての離れ島に生まれた人物が、端倪すべからざる教養人であり、また、次々に手がけた事業がすべて失敗し、他人に騙されるようなことがあっても「いつもにこにこ笑って」いることのできる人格者であったことに私はとても深く印象づけられた。