昨日の記事で見たような技術の内在的規範性についてのシモンドンのテーゼに対して、次のような反論を試みてみたくなるとファゴ=ラルジョは言う。
治療技術の規範性は、技術それ自体の規範性に拠るのではなく、医者は患者を治療することをその義務とするという医学に内在的な規範性に依存しているのではないか。
内在的に完璧な技術であっても、したがって、シモンドンによればそれ自体で己に必然的に課される規範性をもっている技術であってさえも、悪しき目的のために利用されることはありうるのではないか。
これら二つの反論は、いずれも技術の規範性は完全には自律的ではないのではないかという疑問を投げかけている。
これらの反論に対して、シモンドンは次のように応じるであろうとファゴ=ラルジョは言う。
ある技術の使用とその同じ技術の内在的な卓越性とを混同することは皮相な見解である。前者は、その人間的目的に奉仕するための適用であり、したがって、その適用は社会的規範の範疇に属する。後者は、その技術的存在が現実世界の中で実質的にその場所を得るという事実によってそれ自体において証明される。悪しき技術はそもそもそこで功を奏することがない。
このように予想されるシモンドンの再反論を支えるであろう具体的論拠として、ファゴ=ラルジョは、出産前検診におけるエコグラフィーの使用を例として挙げる。
エコグラフィーは、周知の通り、すでにいたるところで大きな成功を収めており、その使用はいわゆる先進国では一般化している。エコグラフィーによって、妊娠早期の段階で胎児のある種の異常や特異性を発見することができる。
ところが、エコグラフィーによって出産前に胎児の性別を知り、その性が望まれない方の性であれば中絶を図るという親が出てくることもありうる。そのような意図的な中絶は、国によって、場合によって、法的に禁じられているということはありうる。このような事実は、しかし、エコグラフィーとして実現されている技術そのものを有罪として告発するものではない。
技術の質は、その技術そのものによって決定されるのであり、そのことは、ある国ではエコグラフィーの使用が出生前性差別をさせないために禁止されうるということとはまったく独立である。
このような議論には次のような主張が含意されている。
技術の客観的卓越性は、文化的規範に対してある一定の免責特権を有しているのに対して、その逆は言えない。つまり、文化的規範は、技術の客観的卓越性を前にしてそのまま保持されうる保証はない。
技術的規範と文化的規範との間に見られるこの非対称性を私なりに説明すれば以下のようになる。
ある新技術が現実世界の中でその実質的有効性を証明し、それ自身に内在的な規範にしたがって実際に適用されれば、それは現実世界に直接的に変化をもたらし、場合によっては、既存の文化的規範に対して変更を迫り、さらには、特定の文化圏の規範を超えたより普遍的な規範の確立へと人類を促す。それに対して、文化的規範は、その適用範囲が常にある一定の文化圏内に限定されており、しかも、技術革新によって変化を被った社会内においても、その改定を迫られることがありうる。
真正な技術的行為、つまり「創発的技術操作」(« opération technique inventive », ILFI, p. 513)は、同時に自由な行為(創造的)であり且つ規範を確立する行為(つまり、そうでなければならぬものとして己を確立する行為)である。
Le technicien ne peut agir que librement, car la normativité technique est intrinsèque par rapport au geste qui la constitue ; elle n’est pas extérieure à l’action ou antérieure à elle ; mais l’action n’est pas non plus anomique, car elle n’est féconde que si elle est cohérente, et cette cohérence est sa normativité. Elle est valide en tant qu’elle existe véritablement en elle-même et non dans la communauté (ibid.).
技術者は自由に行動することしかできない。なぜなら、技術的規範はそれを構成する行為に内在的だからである。技術的規範は行為に対して外的に或いはそれに先立って存在しない。他方、行為もまた規範を欠いたものではない。なぜなら、その行為が生産的であるのはその行為が整合的であるときだけだからである。この整合性がその行為の規範性なのである。その行為が妥当であるのは、それが真にそれ自身において存在するかぎりにおいてであり、共同体においてではない。
この引用の後に、ファゴ=ラルジョは、例として癌の遺伝子治療を挙げる。
人間への最初の試行は、少なくとも実行可能性、最善の場合、有効性と無害性とを実証しなければならない。この試行は、「およそ」(« l’à peu-près »)を一切許容しない(さもなければ、それは無意味か、さらには有罪でさえある)。その試行は、一つの行為の中に、それまで蓄積された治療的・臨床的知識の集成を凝縮させる。それは来るべき時に来るのであり、その時はそれら知識の獲得によって内側から条件づけられているのであって、時の趨勢によって外側から条件づけられているのではない。
その試行が癌治療を前進させるときは、その試行は今後進むべき道としてその試行自体から己に課される。その試行以前には、遺伝子療法による癌治療の道徳的義務づけはありえない。その治療技術の妥当性は、それが同時に客観的現実に即しており且つその技術そのものの質の基準を確立することに存している。
昨日の記事の最後に引用したシモンドンの ILFI からの引用で締め括られた段落の直後の段落で、ファゴ=ラルジョは、その引用の中に提示されたシモンドンの考察は生体医学的技術に直接適用可能だとして、一つの具体例を挙げている。
その例とは心臓移植である。1967年に南アフリカで世界最初の心臓移植が行われた。その後、急速な勢いでアメリカ、ヨーロッパ諸国で次々と行われるようになった。その結果、人種的偏見が覆されるようにもなった。いわゆる人種間の移植が可能であることが実証されたからである(私注:もちろんそれで偏見が一掃されたわけではないのは周知のことだが)。他方では、それまでの死の定義の変更が迫られた。脳死をヒトの死とすることで、「生きている」心臓を合法的に摘出し、移植するためである。
ここでファゴ=ラルジョは、当時、急速な心臓移植に対して抵抗を示した国として日本に言及し、日本では、文化的抵抗が新技術が内包する魅力に勝っていたとしている(しかし、これは妥当な見解とは言い難い。なぜなら、1968年の札幌医科大学で和田心臓移植事件が日本社会にもたらした「後遺症」のことが考慮されていないからである。その後、日本で心臓移植が法的に可能になったのが1997年の臓器移植法制定後、その法に基づいた最初の心臓移植手術は1999年。日本心臓移植研究会のサイトより)。
それに続けて、ファゴ=ラルジョは、しかし、そのような抵抗は、心臓移植技術そのものが技術として疑われたということを意味しないと言う。そして、シモンドン ILFI から次の一節を引用する(下の引用では、ファゴ=ラルジョが引いていない一文も加えてある)。
L’adoption ou le refus d’un objet technique par une société ne signifie rien pour ou contre la validité de cet objet ; la normativité technique est intrinsèque et absolue ; on peut même remarquer que c’est par la technique que la pénétration d’une normativité nouvelle dans une communauté fermée est rendue possible (p. 513).
一つの社会がある技術的対象を受け入れるか拒否するかは、その対象の妥当性に対する賛成あるいは反対を意味しない。技術的規範性は内在的かつ絶対的である。技術によって、新しい規範性が閉じた共同体の中に浸透することが可能になるとさえ指摘することができる。
引用に続けて、ファゴ=ラルジョは、シモンドンの主張をこう言い換える。
ある技術に内在的な規範性は、ある伝統から受け継がれてきた道徳的規範に対立しつつ、ある社会の価値体系の再編成をより大きな普遍性へと向かわせうる。
しかし、それが可能なのは、価値の諸体系は準安定的なもので、それゆえ見たところ互いに相矛盾する規範をそれらが互いに共可能になるように統合化することをそれら諸体系ができるかぎりにおいてである。
それにしても、ある技術が、たとえ多くの人たちにとって非道徳的であり、さらには危険でさえあると見なされているときでも、その技術の私たちの道徳的世界にまで及ぼしうる影響についてかくも肯定的な主張を繰り返すシモンドンの技術に対する信頼というかオプティミズムはどこから来るのだろうか。
それを理解するためには、シモンドンが言うところの「技術的規範性」(« normativité technique »)が意味するところを捉えなくてはならない。
技術的発明は、人を解放し、主体を成り立たせる。「技術的努力は、人間を共同体から解放し、人間を真の個体とする」(« l’invention technique libère l’homme de la communauté et fait de lui un véritable individu », ILFI, p. 512)。技術的発明は、人々の間に、互いを分け隔てている文化的帰属とは独立に、主体同士としてのコミュニケーションを成立させ、端的に独立な個体としての人間同士の関係へと人々を導く。この関係が「通・超個体性」(« la transindividualité »)のモデルになる(MEOT, p. 336)。
技術的発明が文化的に閉じた人間の共同体の中に普遍的な価値を入り込ませる。
La normativité technique modifie le code des valeurs d’une société fermée, parce qu’il existe une systématique des valeurs, et toute société fermée qui, admettant une technique nouvelle, introduit les valeurs inhérentes à cette technique, opère par là même une nouvelle structuration de son code des valeurs (ILFI, p. 513).
技術的規範が閉じた社会の価値体系に変更をもたらす。なぜなら、価値の分類化・系統化の基準がそこにはあり、あらゆる閉じた社会は、新しい技術を承認・受容することでその技術に内在する諸価値を導入し、その導入そのものによって己の価値の体系の新しい構造化を実行することになるからである。
ILFI の補遺ノートでは、技術的努力によって共同体の拘束から解放された技術者は「純粋な個体」(« individu pur »)と呼ばれていたが、MEOT の結論部では、それが「主体」(« sujet »)と呼ばれている。
Ce n’est pas l’individu qui invente, c’est le sujet, plus vaste que l’individu, plus riche que lui, et comportant, outre l’individualité de l’être individué, une certaine charge de nature, d’être non individué (Du mode d’existence des objets techniques, nouvelle édition revue et corrigée, Aubier, 2012, p. 336).
発明するのは個体ではなく、主体である。主体は、個体よりも広大で、豊かである。個体化された存在の個体性ばかりでなく、あるところまで自然を、つまり個体化されていない存在をその身に包含している。
発明を実行する者は、己が属する共同体の規則による拘束を超えて、対象的事物に直接的に働きかけることができる者であるから、単に共同体の中で個体化された存在として行動できるだけではなく、その共同体には組み込まれていない自然、つまり個体化されてはいない存在に技術を介して繋がっている。
このような発明を実行する者が「主体」あるいは「純粋な個体」であるが、いずれにせよ、シモンドンにおいて、それは「労働者」(« travailleur »)に対立する概念である。「労働」は、実利を目指すもので、人間の諸々の実際的な必要に向けて規定され秩序づけられている。それに対して、技術は、実利追求ではなく、対象に対して客観的である(この論点において、ベルクソンと離れることをシモンドンは自覚している)。
労働者は機械あるいは技術的装置を使うが、その作業が発明活動を延長することはない。その作業は社会文化的装置の枠組みの中にとどまり、その装置のおかげで労働者はもはや「対象の発生的図式」(« le schème générateur de l’objet », A. Fagot-Largeault, « L’individuation en biologie », art. cit., p. 45)を操る必要がない。しかし、それゆえにこそ、労働は対象からの疎外の源になるのである。
ファゴ=ラルジョによれば、シモンドンが MEOT の結論で言おうとしていたことは以下のように要約される。
技術的発明行為は集団的レベルでの個体化である。技術者は優れた意味での転導者であり、この転導者が人間の文化を宇宙的な次元へと開く。
この要約に補足的説明を加えよう。
集団的レベルでの個体化とはどういうことか。技術的発明が実現されると、発明者は技術的対象との直接的関係に入ることで「純粋な個体」になる。しかし、その発明によって、単に発明者個人のレベルで技術的対象への直接的な働きかけとその対象とのコミュニケーションとが成立するだけではない。その発明が発明として社会的に受容されるとき、その発明がもたらした技術的対象を用いる人間の集団もまた、共同体の拘束から解放された技術的対象との直接的関係に入ることで「純粋な個体」に近づく。これが集団的レベルでの個体化である。
技術者が転導者であるとはどういうことか。技術者は、ある技術的対象の開発に適用された原理を、その開発を通じて獲得されたノウハウを基に他の対象へと応用する。かくして、ある原理は徐々にその適用領域を拡張していく。これが転導であり、それを実行する技術者はまさに転導者である。
なぜ転導者としての技術者は人間の文化を宇宙的次元へと開くことができるのか。諸原理を転導的に拡張・展開しようとする技術者は、そのときの人間社会の技術的限界をつねに乗り越えていこうとするからである。この方向での無限の志向性が人間的世界の枠組みを超えて宇宙的な次元の探究へと人間文化を導く。
この一週間、ファゴ=ラルジョの論文 « L’individuation en biologie » (in Gilbert Simondon. Une philosophie de l’individuation et de la technique, Albin Michel, 1994) の中のシモンドンの引用をよりよく理解するという目的のために、シモンドンの主著 ILFI の補遺ノートを読んできたが、明日からまたファゴ=ラルジョ論文に戻る。
と同時に、シモンドンの博士論文副論文であり第二の主著である Du mode d’existence des objets techniques(以下、慣例にしたがって、MEOT と略記する)もファゴ=ラルジョ論文に引用されている箇所を中心に並行して読んでいく。
今、第二の主著と言ったが、こちらのほうが論文提出の年1958年に早くも単独で出版され、シモンドンの名が学界で知られ評価されるのは、むしろ同書によってであった。それがまたある意味でシモンドンにとってばかりでなく、フランス哲学界にとっても、さらにはフランス人文科学全体にとって、不幸なことであった。なぜなら、ILFI と MEOT とは、一般総合理論とその具体的適用例との関係にあるが、後者のみが先に広く知られてしまったので、シモンドンは生前は技術の哲学のスペシャリストとして紹介されることが多く、その個体化理論の方はよく理解もされず、陰に隠れたままになってしまったからである。その独創的で難解な個体化理論が評価されるようになるのは、ごく一部の例外を除いて、シモンドン死後のことであり、今もなお再評価・再検討は続行中であり、応用的研究も国際的に拡がりつつある。
今日は、シモンドン研究書について、今月に入ってから手元に集めた文献を中心に、書誌的な記録を残しておく。
Jean-Hugues Barthélémy は、現在のシモンドン・ルネッサンスの立役者であり、シモンドン研究書の数も多い。Penser l’individuation, Simondon et la philosophie de la nature, Paris, L’Harmattan, 2005 と Penser la connaissance et la technique après Simondon, Paris, L’Harmattan, 2005 とは、2003年に提出された博士論文を二巻に分けて出版したものである。2008年には、Simondon ou l’encyclopédisme génétique, Paris, PUF を出版。
Jean-Hugues Barthélémy は、2009年から2015年にかけて、Cahiers Simondon(L’Harmattan)をほぼ毎年一冊のペースで計六冊、編集・出版しており、毎回自身の論文も掲載している。一人の哲学者に特化された密度の高い研究誌がこれだけ集中的に出版されたのは異例のことだが、昨年出た第六号が印刷媒体としての出版としては最後になり、今後は電子版のみとなり、これまでのような規則的な出版も困難になってきているようである。
因みに、今年の2月16日に拙ブログでシモンドン研究の長期連載を始めるにあたって参照したのが Jean-Hugues Barthélémy による概説書 Simondon(Les Belles Lettres, coll. « Figures du savoir », 2014)であった。その際、シモンドン自身の著作以外で手元にあったもう一冊は、Le vocabulaire de Simondon(Jean-Yves Château, Ellipse, 2008)であった。
シモンドンの哲学を現代哲学と人文科学との文脈の中に位置づけつつ、文化・技術・社会というテーマを軸に未来志向的かつ鳥瞰的に論じた一書として、Xavier Guchet, Un humanisme technologique. Culture, technologie et société dans la philosophie de Gilbert Simondon, Paris PUF, 2010 がある。
コンパクトな概説書という体裁だがシモンドンの個体化理論の宗教的次元にも言及している点で注目されるのが、Pascal Chabot, La philosophie de Simondon, Paris, Vrin, 2013 である。
気鋭のシモンドン研究者である Baptiste Morizot 今年出版した Pour une théorie de la rencontre. Hasard et individuation chez Gilbert Simondon, Paris, Vrin は、シモンドン研究に新境地を開くものとして重要な貢献である。
夏休み中にすでに入手していたものだが、今年出版されたシモンドン論文集に Gilbert Simondon ou l’invention du futur, Colloque de Cerisy, sous la direction de Vincent Bontems, Paris, Klincksieck がある。2013年8月5日から15日にかけて Cerisy-la-Salle で開催されたシンポジウムでの発表が基になっている論文集。29人の研究者が論文を寄せているが、分野も国籍も多様、シモンドン研究の現在の国際的広がりを見ることができるが、論文そのものは玉石混交である。
共著としては、2002年に二冊、Simondon, coordination scientifique Pascal Chabot, Paris, Vrin と Gilbert Simondon. Une pensée opérative, coordiné par Jacques Roux, Saint-Étienne, Publication de l’Université de Saint-Étienne とが出版されている。前者の執筆者は十人、後者は十三人、そのうち七人が両方に執筆している。この時期からシモンドン研究は急速に発展する。
学術雑誌では、Reveu philosophique de la France et de l’étranger が2006年に、Critique が昨年、それぞれシモンドン特集を組んでいる。
Muriel Combes のシモンドン研究二冊 La vie inséparée : vie et sujet au temps de la biopolitique(Dittmar eds, 2011) と Simondon, une philosophie du transindividuel(Dittmar eds, 2013) は、今月2日に FNAC に注文したのだが、未だに入荷しない。同女史の Simondon. Individu et collectivité, Paris, PUF, 1999 は出版されてすぐに購入したのだが、今は日本の実家にある。 « Philosophies » という新書版シリーズの一冊で、もともとは安価な書籍だったが、現在は版元絶版で、古本市場で法外な値が付けられていて、とても買い直す気になれない。いずれ実家から郵送してもらうつもり(後日、こちらのサイト(PDF)やこちらのサイト(WORD)からテキストが無料でダウンロードできることを知った)。
ついでだが、今月に入って、シモンドンの論文集がPUFから Sur la philosophie というタイトルで出版された。これで PUF のシモンドン著作集(講義と講演が主だが)が完結したことになるようである。シモンドン研究に必要な第一次文献はこれでほぼ出揃ったことになる。
昨日の記事では、引用したシモンドンの原文について、その最初の一文に使われている « participable » という形容詞の語義を明確化するだけにとどまったので、今日の記事ではその原文を一通り読んでしまおう。
まず、同じ原文を再掲する。
L’être technique est participable ; comme sa nature ne réside pas seulement dans son actualité, mais aussi dans l’information qu’il fixe et qui le constitue, il peut être reproduit sans perdre cette information [;] il est donc d’une fécondité inépuisable en tant qu’être d’information ; il est ouvert à tout geste humain pour l’utiliser ou le recréer, et s’insère dans un élan de communication universelle (p. 512).
技術的存在は、それに人が参加・参与できるものである。その本性は、単に現在のその働きにあるのではなく、その存在が固定化し且つその存在を構成している形成情報にもあるので、技術的存在は、その情報を失うことなしに、再生産されうる。それゆえ、技術的存在は、情報存在として汲み尽くしがたい生産性を有している。技術的存在は、その存在を使い再生産するあらゆる人間的所作に対して開かれており、普遍的なコミュニケーションの躍動のうちに内挿されている。
以上が原文のおよその内容である。
技術的存在は、それが現に機能している共同体の自己保存を目的とした規則群によって完全に制約されることはけっしてなく、己自身の内に自己形成情報を包含しているがゆえに、それら共同体からの外的拘束からは自由に、それとは独立に、自己形成を繰り返し実行することができる。この内在的自己形成力としての形成情報が技術的存在をして歴史的に制約された共同体の枠組みを突破して己を普遍的な関係性の一項になることを可能にしている。
このような技術的存在を形成する作業を実行することで「技術的動物」(« ζῷον τεχνιχόν »)になることによって、人間は、共同体から解放され、「真の個体」(« un véritable individu »)になる。
技術の本性に基礎づけられたこのような一般個体化理論は、シモンドンによれば、一つの倫理に基礎づけを与えるものである(ILFI, p. 330)。
L’être technique est participable ; comme sa nature ne réside pas seulement dans son actualité, mais aussi dans l’information qu’il fixe et qui le constitue, il peut être reproduit sans perdre cette information [;] il est donc d’une fécondité inépuisable en tant qu’être d’information ; il est ouvert à tout geste humain pour l’utiliser ou le recréer, et s’insère dans un élan de communication universelle (p. 512).
最初の一文の文末の形容詞 « participable » は Le Grand Robert にも載っていない語だが、Littré にはちゃんと載っていて « à quoi on peut participer » と説明されており、用例として Malebranche の De la recherche de la vérité の次の一節が挙げられている。
Dieu, comme parle saint Thomas, connaît parfaitement sa substance ou son essence, et il y découvre par conséquent toutes les manières dont elle est participable par les créatures (Livre IV, chapitre XI, Œuvres, vol. I, Gallimard, coll. « La Pléiade », 1979, p. 461).
Littré に拠れば、« participable » は、十七世紀から少なくとも十九世紀までは神学用語として通用していた語であり、「(被造物がそれに)参加しうるもの・与りうるもの」を指すときに用いられていた語であったことがわかる。
ネット上の Wikitionnaire にも、Littré の項目からの再録として上掲の語義がそのまま掲載されている。ところが、興味深いことに、そこには別の用例が挙げてある。
C’est ce que les théologiens appellent communément les participabilités de l’Être divin, qui ne sont autre chose que la substance même de Dieu, en tant que participable ou imitable par les créatures. Il y a des philosophes qui les nomment peut-être plus clairement, les modèles ou les prototypes éternels des êtres créés (Yves-Marie André, Victor Cousin, Œuvres philosophiques du Père André, p. 328, 1843, Adolphe Delahays)
この用例からわかることは、実体としての神は被造物にとって(己の分限と置かれた状況下という条件下で)模倣可能なものであるということが participable だということである。
なぜ、シモンドンは、中世ラテン語 participabilis に由来するこの十九世紀の神学用語を現代の技術的存在の特徴を示すのに用いたのだろうか。シモンドン一流の転用で、この語の神学的起源とは関係がない使い方なのであろうか。私はそうではないだろうと考える。
博士論文の主論文として ILFI がソルボンヌに提出された1958年から二年後の1960/1961年度に、シモンドンは Ecole pratique de psychologie et pédagogie de Lyon で Psychosociologie de la technicité というタイトルの講義を行っている(現在は、Sur la technique, PUF, 2014 に収録されている)。この講義は三部からなり、第三部はまさに « Technicité et sacralité » と題されており、その中で、シモンドンは、ミルチア・エリアーデを頻繁に引用しながら、技術と〈聖なるもの〉との関係を論じている(この第三部は、1961年にボルドーで独立の講演としてまず発表されたことが Sur la technique の編者注からわかる)。
シモンドンにとって、技術とは、個体化の一過程としての動態的・可変的個体である人間が己自身と己が帰属する共同体とを超越した存在との分有関係に直接入ることを可能にする媒介的存在をもたらす活動なのである。だから、神学用語 « participable » の使用は決して偶発的なことではない。それどころか、 « participabilité » は、シモンドンの技術の哲学を理解する上での一つの鍵概念でさえあるだろうと私は考える。
今日から « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » 第二章 « Individuation et invention » 第二節 « L’opération technique comme condition d’individuation. Invention et autonomie ; communauté et relation transindividuelle technique » の読解に入る。
その前に、私の読解方法について一言しておきたい。
シモンドンの文体の特徴は、文法的にはそれだけで完全な単文・重文・複文がポアン・ヴィルギュル(セミコロン)またはドゥ・ポワン(コロン)を介して延々と連接され、その連接された全体が一つのアーギュメントを構成していることである。議論の密度と整合性という観点からの比較を脇に除けて、単に文章構成上の特徴という点に限って比較するならば、西田幾多郎が各文の終わりに句点の代わりに読点を打つことで、複数の文を繋いで一纏まりの思考を提示しようとするのと似ているところがある。
このような文体の哲学者たちの思考のリズムを把握するには、その一連の文によって構成されている全体を一掴みにして読む必要がある。裏返して言えば、その全体を細切れにして構成要素である各文に分解して分析してみても、それで内容がよりよく理解できるようにはならない。このような文章を前にして取るべき読解方法は、その書き手によって直観的に一気に把握されている事柄の時間的展開としてその文章を読むことである。そして、その読解作業を通じて彼らの直観的把握を共有できるところまで来れば、もはやいちいち細部にこだわらなくてもよくなる。細部に執着する細密主義的釈義は、このタイプの哲学者たちの文章の理解にはさして有効ではなく、多くの場合、労多くして得られるものは少ない。
さて、前置きはこれくらいにして、第二節の最初の「一文」(つまり冒頭から最初のピリオドまで)をそのまま転写してみよう。
Le rapport de l’Homme au monde peut en effet s’effectuer soit à travers la communauté, par le travail, soit de l’individu à l’objet, dans un dialogue direct qu’est l’effort technique : l’objet technique ainsi élaboré définit une certaine cristallisation du geste humain créateur, et le perpétue dans l’être ; l’effort technique n’est pas soumis au même régime temporel que le travail ; le travail s’épuise dans son propre accomplissement, et l’être qui travaille s’aliène dans son œuvre qui prend de plus en plus de distance par rapport à lui-même ; au contraire, l’être technique réalise la sommation d’une disponibilité qui reste toujours présente ; l’effort étalé dans le temps, au lieu de se dissiper, construit discursivement un être cohérent qui exprime l’action ou la suite d’actions qui l’ont constitué, et les conserve toujours présentes : l’être technique médiatise l’effort humain et lui confère une autonomie que la communauté ne confère pas au travail (G. Simondon, op. cit., p. 512).
第一節の第二段落後半で導入された技術と労働との区別と対比が上掲の「一文」のアーギュメントの前提になっている。
世界に対する〈人間〉の関係は、己が属する共同体(の組織・システム)を通じて労働によって実行されるか、あるいは、個体から対象への直接的対話において実現される。この直接的対話が技術的努力にほかならない。この技術的努力によってもたらされた技術的対象は、創造的な人間的行為のある一つの結晶化を定義しており、その行為を存在において永続化する。技術的努力は、労働と同じ時間体制に属してはいないのである。労働はそれ自身の実現とともに消尽され、労働者は己の生産物が次第次第に己に対して疎遠になることで自己疎外されるに至る。それに対して、技術的存在は、技術的対象に対して常に直接的に働きかけうる状態を維持する。時間の中に展開される技術的努力は、雲散霧消することなく、己を構成している一連の行動を表現する整合的な存在を一定の論理に従って形成し、それら一連の行動を常に現勢的に保持する。技術的存在は、人間的努力に(世界に対する)媒介を(共同体を介さずに)提供し、それによって自律性を人間的努力に授ける。この自律性を共同体が労働に与えることはない。