内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ホメロスの夏 ― ヘラクレスの木の緑陰で紀元前八世紀まで魂を遊行させる愉楽

2020-05-31 14:41:30 | 読游摘録

 ギリシア神話に興味を持つようになったのはいつのころからだったろうか。小中学生時代はろくに本を読まなかったから、高校生になってからのことであるのは間違いない。ギリシア神話と総称される物語のうちのいくつかについて抱いた漠然とした関心というだけのことなら高二のころからだと思う。
 ギリシア神話の主要な源泉としてのホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に強く惹きつけられるようになったのは大学で西洋古典文学史の講義を聴いてからだった。『イーリアス』の中の戦闘場面の細部の描写に強く印象づけられたり、『オデュッセイア』の中の、オデュッセウスが乳母に足を洗わすとき古傷を見られて素姓を悟られる場面(第19巻)、かたくなに認知を拒むペネロペイアがついにオデュッセウスを夫と認めるくだり(第23巻)などの名場面の解説に聴き入ったりしたことを懐かしく思い出す。
 その後、古代ギリシア文明の偉大な遺産であるこの二つの英雄叙事詩には、岩波文庫版の松平千秋訳を通じて、ギリシア語を齧っていた院生時代に時折触れていたが、どちらも全編を読み通したことはついぞなかった。渡仏後はもっぱら仏訳で読むようになった。いったいいくつ仏訳があるのか知らないが、手元にはいつも複数の仏訳があった。現在は『イーリアス』が五つ、『オデュッセイア』が四つある。しかし、やはりこれまで通読したことはない。
 昨年末、フランス語では初の、いわばホメロス大全とも形容すべき途方もない企画を見事に実現させた一書が Albin Michel 社とLes Belles Lettres 社との共同出版という形で刊行された。その名も TOUT HOMÈREこちらがAlbin Michel 社の紹介頁でこちらが Les Belles Lettres 社の紹介頁)。
 本書は、本企画の総帥 Hélène Monsacré による序説が巻頭に置かれ、以下、三部に分かれている。第一部 Les Œuvres は、『イーリアス』の新訳(訳者 Pierre Judet de La Combe は2017年に出版された Homère, Gallimard, « folio biographies » とこの翻訳によって2020年の Prix Bordin を受賞)、『オデュッセイア』の Victor Bérard による古典的名訳(1924年)、次いで、ホメロス風讃歌(古代ギリシアに作られた作者不詳の讃歌で、そのほとんどが神々への頌歌)、両叙事詩の古代書写本の本文の行間・余白に学者たちによって記された古注、本文の解釈を示す古注釈、古代ギリシア人たちに称賛され、ホメロスに帰された滑稽詩と続く。第二部 Fragments et légendes du Cycle troyen は、トロイア戦争の叙事詩環、第三部は、Gérard Lambin によるホメロス伝、後書きは Heinz Wismann の手になる。そして、両叙事詩の語彙解説、両叙事詩とホメロス風讃歌それぞれの神名・人物名索引が本書を締め括っている。まさにホメロス全集成である。
 この総頁数ほぼ千三百頁の大冊をこの七・八月に読破するというのがこの夏の無謀な読書計画である。
 光溢れる夏空の流れる雲をときどき眺めながら、風に揺れるヘラクレスの木の緑陰で、紀元前八世紀の古代ギリシアにまで魂を遊行させるこの読書、豈愉しからずや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この夏の「単純な」過ごし方

2020-05-30 23:59:59 | 雑感

 コロナ禍関連の様々な規制が徐々に緩和されつつあるとはいえ、この夏休みはどうも日本に帰れそうにない。仮に予約してあるチケット通りに7月25日にこちらを発つことができても入国時の検査や隔離がまだ要求されるかも知れないし、もっと問題なのはこちらに戻ってくるときで、予定の8月24日の時点でまだ二週間の隔離期間が強制されるとすると、新学期開始に間に合わない。それを前提として帰仏日を早めると三週間ほどしか日本に滞在できなくなってしまう。行き帰りにこれだけの不都合があるのに、どうしても帰国しなければならないほどの職業的理由も家庭の事情もない。
 2009年から毎夏一月ほど帰国しており、2013年からは年末年始も帰国するようになったが、なんといっても夏休みが一番長く滞在できるから、それを諦めるのはとても残念ではある。一年というサイクルの中で、夏と冬の一時帰国は、私にとっては大切な「年中行事」で、一年を大過なく乗り切るのに必要な気分転換であるとさえ言える。
 2011年から9年間続けていた夏の集中講義を3月末に今年度は休講することにしたのも、やはりとても残念だ。大学院の専攻長からは「来年度にまたよろしく」とのご返事はいただいたが、来年の夏がどうなるのか、今はまだ想像しにくい。
 この夏休みはずっとストラスブールで過ごすことになるとすれば、それは初めてのことだ。多くのフランス人たちは是が非でもヴァカンスに出かけるであろうから、とても静かな夏休みをひっそりと過ごすことになるだろう。今、その前提で、夏休み中の「壮大な」読書計画を練っているところである。
 6月15日までは閉鎖されたままの市営プールも段階的に再開される方向で今準備が進められているから、7月の後半からはまた水泳を再開できるのではないかと期待している。
 先日、スマートフォンで写真を撮るだけですぐに草花の名前を特定してくれるアプリを購入して散歩の折に使っている。これがなかなかのすぐれもので、ほぼ百発百中である。そのさらに二週間ほど前、スマートウォッチを購入した。これは万歩計としても使えるだけでなく、心拍数、SpO2(酸素飽和度)なども計測できる。データは Bluetooth で同期したスマートフォンに自動的に保存される。このアプリとスマートウォッチが日課の散歩へのモチベーションを高めてくれている。
 読書と水泳と散歩を日課として繰り返すだけの単純極まりない夏休み、それも悪くはないか、と思い始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


魔女と箒と中世伝説 ― エニシダのヨーロッパ文化史散策

2020-05-29 13:46:15 | 読游摘録

金雀枝や基督に抱かると思へ

 塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』(講談社文芸文庫 2008年 初版 1974年)の劈頭を飾るのは石田波郷のこの一句である。
 塚本邦雄のこの句の鑑賞は、「深讀みの要はない」と言っておきながら、凡夫には思いも及ばぬ驚嘆すべき深読みを披瀝している。その深読みの次の一節が目に止まった。

「えにしだ」は西班牙語「hiniesta イニエスタ」の轉訛、ゆゑにイエスとの匿れた音韻の重複を避け、あへて基督と、それも漢字表記にしたのだとも考へられる。

 深読みに感嘆したわけではない。金雀枝(エニシダ)がスペイン語に由来すると知って、「えっ」と驚いたのである。ただ私が無知なだけの話であるが、ちょっと調べてみると、そのヨーロッパ文化史が面白い。
 まず『日本大百科全書(ニッポニカ)』で調べてみた。

伊藤伊兵衛の『地錦抄附録(ちきんしょうふろく)』(1733)によると、日本には延宝年間(1673~1681)に渡来したとある。書物に出るのは『増補地錦抄』(1710)が最初で、エニスタの名があがる。『地錦抄附録』にはエニスダと書かれ、のちにエニシダとなったが、その語源はラテン語のゲニスタ genista で、オランダ読みのヘニスタから由来した。イギリスのプランタジネット plantagenets 朝(1154~1399)は、エニシダを意味するラテン語のプランタ・ゲニスタ plan ta genista にちなむ。また、花や茎には興奮性のアルカロイド・スパルチンが含まれているが、イギリスではかつてつぼみや鞘を塩漬けにして食べたり、若芽をホップの代用にした。中世ヨーロッパの伝説では、魔女はエニシダでつくった箒にまたがって空中を飛ぶが、エニシダはヨーロッパでは、実用的な枝箒として使われていた。

 塚本の言とは異なり、エニシダという名はオランダ語のヘニスタに由来するとある。渡来の時期からすると、こっちに分がありそうである。
 ところが、『世界大百科事典』のエニシダの項の「伝説」(執筆者は荒俣宏)は次の通り。

エニシダはラテン語でゲニスタ genista と呼ばれる。アンジュー公国のジョフロア伯がこれを兜に挿して戦った故事から,プランタジネット朝(Plantagenets,〈エニシダの木〉の意)の名が生まれたといわれる。同公国に関係した伝説では,ほかにフルク王子の物語があるが,これは,兄を殺して王位に就いた王子が良心の呵責に耐えかねエルサレムへ巡礼し,毎晩エニシダでみずからをむち打ったという話である。イギリスではリチャード1世がエニシダの紋章を玉璽に彫り込んで以来,公式の国章とみなされている。英語の broom がエニシダとともに〈ほうき(箒)〉の意味をもつのは,この枝を束ねてほうきにしていたためで,魔女はこれにまたがり飛行すると信じられていた。ヨークシャーでは結婚前の娘がエニシダのほうきの柄をうっかりまたぐと,私生児を産み落とすといわれる。なお日本語名エニシダは,genista のオランダ語読みヘニスタから転じたもの,あるいは genista から派生したスペイン語イニエスタ hiniesta がなまったものなどの説がある。花言葉は〈清楚〉〈熱情〉。

 スペイン語轉訛説も排除されてはいない。ちなみに、フランス語では、genêt が通用名だが、プロヴァンス地方では古フランス語の gineste が現在も通用している。
 箒として使われていたから、花言葉が「清潔」「きれい好き」なのは納得できるし、「清楚」というのもわからなくはない。フルク王子の物語に由来する花言葉として、「卑下」「謙遜」というのもある。では、どうして「熱情」なのだろう。エルサレムまで巡礼したから? それとも、熱情は魔女の仕業だから? 『魔女の宅急便』のキキが使っていた箒もエニシダ製。魔女の棲むところにはエニシダが茂っていると中世では信じられていたらしい。でも、魔女はなぜ箒にまたがって空を飛ぶのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


散読中言葉拾い

2020-05-28 23:59:59 | 読游摘録

 今日の記事は、散読中、心にとまり、拾った言葉や句の羅列に過ぎません。季節外れもあります。

「酔眠」 酒に酔って寝ること。酔臥(すいが)。

「命なりわづかの笠の下涼み」 芭蕉。延宝四年(一六八〇)。三十三歳。

「雁やのこるものみな美しき」 石田波郷(一九一三-一九六九)。

「秋深し 柿も熟した おじいちゃん 死ぬな」 (上田閑照『哲学コレクションI 宗教』岩波現代文庫 二〇〇七年)。 「たまたま目に触れた子供の句」(三頁)だそうです。

「どの子にも涼しく風の吹く日かな」 飯田龍太(一九二〇-二〇〇七)。

「梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくやうだつた。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めてゐた。吉祥寺の下宿へ移つてからは、人は稀れにしか訪ねて来なかつた。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかつた。外に出て、煙草を買ふとき、「タバコを下さい」といふ。喫茶店に入つて、「コーヒー」と註文する。日に言葉を発するのは、二ことか三ことであつた。だが、そのかはり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまはりを渦巻いてゐた。」 原民喜「永遠のみどり」(一九五一年)

「父のごとき夏雲立てり津山なり」 西東三鬼(一九〇〇-一九六二)。

「万緑やわが額にある鉄格子

 昭和二十九年作筑紫保養院の作。
 杉田久女の終焉の地を弔うことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかかっておりました。偶々「自鳴鐘」の好意によって、それを実現することが出来ました。医学博士である横山白虹氏が同行されましたので、つぶさにその当時の模様を院長から伺えました。
 久女終焉の部屋は、櫨の青葉が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格子は、私の額に影を刻みつけました。」『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア文庫 二〇一八年 「自句自解」より)。橋本多佳子(一八九九-一九六三)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一日物云はず」― 詩人の境涯について(下)

2020-05-27 11:52:08 | 詩歌逍遥


いちにち物いはず波音

 この山頭火の句は、『草木塔』以後の生涯最後の一年間に作られ、未定稿のまま残された句中の一つ。その句作は昭和十四年十月六日から十一月にかけての四国遍路の旅の途上でのことである。
 山頭火は大正五年に『層雲』の俳句選者の一人にもなっていたから、同誌の大正十三年八月号に掲載された放哉の句「一日物云はず蝶の影さす」を知っていたかもしれない。しかし、昨日の記事で見たように、「いちにち物いはず」という表現を最初に用いたのは山頭火の方がずっと早かったから、両者の間に「本句取り」の関係はなく、「いちにちものいはず」という表現の期せずしての一致は、両者の詩人としての境涯の共通性を示している。もっと踏み込んで言えば、「いちにちものいはず」は詩の生まれ出て来る沈黙の生ける姿を表している。
 昭和十四年十二月三日、山頭火は五十七歳の誕生日を迎え、翌年、十月十一日、一草庵で死去する。ちくま文庫版『山頭火句集』(1996年)巻末の村上護編の年譜には、「一〇月一〇日夜、一草庵にて句会、庵主は参加せず隣室で休息。酩酊はいつものことと庵主に挨拶もせずに散会したが、一〇月一一日午前四時(推定)死亡、心臓麻痺と診断」とある。
 死の前年の四国遍路の旅中、香川、徳島、高知の霊場を巡拝している。いずれの地でこの句が詠まれたか。この遍路日記によると、十一月六日に室戸岬を訪ねている。

室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果てしなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる[…]。

 室戸岬の先端近くの山の上に第二十四番目の札所東寺(ひがしでら)がある。そこで詠まれた句が日記に記されている。

うちぬけて秋ふかい山の波音

 『山頭火俳句集』(夏石番矢編 岩波文庫)では、この句の前に「野宿いろいろ」という小見出しの下にまとめられた五句があり、その中の一句が冒頭に掲げた「いちにち物いはず波音」である。

波音おだやか夢のふるさと

 これはその五句のうちの最初の句である。もっともこの配列は編者によるものであり、実際の句作の順序通りかどうかは推測の域を出ない。それはともかく、その他の句を脇にのけて、いずれも「波音」という一語を含んだ三句を並べて読み直してみよう。

波音おだやか夢のふるさと

いちにち物いはず波音

うちぬけて秋ふかい山の波音

 この三句を遍路の道行としてこの順番通り読むとどんな風光が見えてくるか。
 第一句は、おだやかな波音を聞きながら、もはやそこに帰ることはない瀬戸内海に面した故郷山口県防府市の海を夢想している。第二句は、遍路を一日黙々と歩く間、聴覚が波音に満たされ、歩行のリズムと海の階調とが同期し、詩人の身体は波音に融け入っている。第三句は、海辺から山頂への道を登りきったところに広がる晩秋の景色の中に波音だけが下から響いてくる。人声無き心身景一如の一句。
 波音がここではない懐かしい過去の場所を想起させる。黙する自己身体が波音と協和する。そして、波音をもそこに包み込む無限の風光の中に詩人の心身は透入する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一日物云はず」― 詩人の境涯について(上)

2020-05-26 11:43:39 | 詩歌逍遥

 

一日物云はず蝶の影さす

 尾崎放哉の代表句としてよく引かれる句の一つである。この句については、拙ブログでもすでに二回、2013年8月10日2015年2月9日に取り上げている。この句の私の鑑賞についてはそれらを参照していただければ幸いである。
 放哉は、大正十三年六月、神戸の須磨寺大師堂の堂守となる。上掲句は俳誌『層雲』同年八月号に発表されているから、この句が作られたのは六月か七月である。
 興味深いことに、この句の前半「一日物云はず」とまったく同じ表現が種田山頭火の句にも使われている。一つは、大正四年作の句である。

一日物いはず海にむかへば潮満ちて来ぬ

 この時期、山頭火は、防府俳壇の中心的存在として活躍する一方、脚気に苦しみながらも、酒造場経営にも努力している。同年十月に酒倉の酒が腐敗し経営危機に陥るまで、山頭火の生涯の中では、比較的精神的に安定した生活を送っていた時期に相当する。
 夏石番矢編『山頭火俳句集』(岩波文庫 2018年)に収録された一〇〇〇句の大半は、「句集や雑誌に発表されたものではなく、日記に眠っていた作品」である(同文庫解説485頁)。この句もそのような句の一つである。つまり、放哉がこの句を目にした可能性はない。
 さらに興味深いのは、岩波文庫版でこの句の前後に再録されている句に蝶々が出てくることである。これはおそらく編者が意図してのことであろうとは思う。

蝶々もつれつゝ青葉の奥へしづめり

酒倉屋根に陽は渦巻きて蝶々交われり

 この二句の間に上掲句を置いてみると、詠まれた季節は放哉の句とほぼ同じはずだが、放哉の句に表現された「恬淡無為」(荻原井泉水評)の境地とはまったく別の風光が立ち現れて来る。
 そこに感じられるのは、複数の生命体の交歓と生命の充溢である。山頭火の眼は、もつれ合うように飛翔する番の蝶々を追い、それらが生い茂る夏の青葉の奥に入っていくまで見届けている。終日海辺に立ち、潮が満ちてくるのを待っている。それは生命の充溢が己のうちに流れ込んでくるのを受容する姿勢である。自らが経営する酒造場の酒倉の屋根に夏の陽光が渦巻く。その光の中で蝶々が交合する。
 山頭火は、死の前年、昭和十四年に、もう一度、「いちにち物いはず」という表現を使っている。その句が表す風光は上掲句とはまた別の句境である。それについては明日の記事で書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「石は生きて居る」― 尾崎放哉「入庵雑記」より

2020-05-25 23:59:59 | 読游摘録

 尾崎放哉が大正十五年四月七日に亡くなるまでの最後の八ヶ月ほどを過ごした小豆島の南郷庵に入庵したのは大正十四年八月二十日のことである。翌年に俳誌『層雲』の一月号から五月号にかけて五回連載される「入庵雑記」が起稿されたのは九月に入ってからのことと推測される。擱筆は十一月五日。ちくま文庫版『尾崎放哉全句集』(二〇〇八年)に全文収録されている。四十頁足らずの随筆だが、「放哉の真骨頂を示す名文としてよく知られている」(同文庫版の村上護による解説「放哉の境涯と俳句」より。『青空文庫』で全文が読める。リンクはこちら)。
 この随筆の中に「石」と題された一篇がある。そこに放哉は「石は生きて居る」と記している。その一節に示された放哉の石に対する鋭敏な感応力は、世界の見方を学び直すことへと私を促す。少し長いがその一節を引用しておきたい。

私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ、なんて可愛いゝ者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至つてはどうでせう。雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「現象学的」な現在の状況を記述することそのことの中に活路は見いだされる ― 四連休四日目の日記

2020-05-24 20:59:34 | 雑感

 悲しいことだが、休みには必ず終わりがある。今回の四連休の間、明日から七月末までの二ヶ月間に大学の職務としてしなければならないことについて考えるのを休止した。何をすべきかすでにはっきりしていることについては、明日からこれまでように粛々と業務をこなせばいいだけであるから予め考える必要がないし、条件がはっきりしなければ具体的にその準備を始めようがない九月からの新学年のことについては一人で考えてもしょうがない。というわけで、若干の避けがたい仕事は別として、この四日間、久しぶりにわりとのんびりとした気分で過ごせた。といっても、外面的には、ほとんど家の中で過ごしていることに連休以前と連休中とで違いはなかったから、これはもっぱら気分の問題である。
 今置かれている状況はもちろん誰にとっても未曾有のことであり、かつこれからの状況の変化をある程度の確実性をもって予想するにはいまだに不確定要素があまりにも多く、九月からのことについていくらかでも具体的に計画しようとしても、それは今後の状況の推移に左右され、それに対して政府がどういう決定を下すかにかかっており、そしてそれに応じて大学当局が明確な方針を示さなければ、何も決められない。というところで今はすべて思考を中断しなければならない。あたかも中空に吊るされて身動きが取れないようなこのような状態は心身に相当の悪影響を及ぼしかねない。
 しかし、このように多くの事柄に関して判断中止を余儀なくされ、これまでの生活の条件の多くに関してそれらをもはや自明とは見なせなくなり、その結果として今まさに顕現しつつある新しい現実に直面させられ、その中でこれからどう生きるかを考えることを要請されている今の状況は、きわめて「現象学的」だとも言える。
 この未だ嘗て誰も経験したことのない状況を、私は、「当事者」の一人として、注意深く、できるだけ精確に、そのときどきの精神の揺らぎもそのままに、記述していきたい。そのことの中に活路は自ずと見いだされるはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雨の中、街の中心部を歩いてみた ― 四連休三日目の日記

2020-05-23 22:07:10 | 雑感

 今日は朝から雨だった。さほど強い降りではなかったが、気温は昨日と比べて十度以上下がって、最高気温が十五度前後だった。こんな日は平時でも用がなければ外出しない。雨の日に傘を差して出かけるのは普段から気が進まない。
 ところが、昨日ネットで注文した本が街の中心部にあるFNACに届いているとのメールが届いたので、街中まで歩いて取りに行ってみようかという気になった。そんな気になった理由の一つは、ウォーキングがすっかり毎日の習慣になり、多少の雨で歩くのをやめるのは不本意に感じたからである。
 もう一つの理由は好奇心である。ストラスブールの街の中心部は川に囲まれている。二十一日木曜日からその中心部でのマスク着用が義務化された。公共交通機関での着用は十一日からすでに義務化されていたが、バスや電車の中、店内だけでなく、街中を歩くときもマスク着用が義務化された。それで、本当にみんなマスクをして歩いているのかどうか、この眼で確かめてみたくなったのである。
 行きは「ずる」をした。欧州議会と中央駅を結ぶシャトルバスが二月二十四日から運行を開始したのだが、このバス、いつもがらがらなのである。始発駅である欧州議会前でちょうど発車時間待ちをしていたので、行きはそのバスで街の中心部まで行くことにした。始発駅から乗ったのは私一人。途中から乗ってきた乗客も合わせて四、五人だった。さすがに皆マスクをしていた。私ももちろんしていた。
 さて、街中を歩いている人はマスクをしているだろうか。何人と数えたわけではないが、マスクをせずに歩いている人もちらほら見かけた。マスク着用義務化を知らないだけなのか、「確信犯」なのかはわからない。警戒にあたっている警官の姿は見かけなかった。
 帰りは歩いた。カテドラルの前を通ってみた。午前十一時過ぎのことである。平時、つねに大勢の観光客を見かけないことはない場所だ。ところが、誰もいない。カテドラルは固く扉が閉ざされたままだし、レストランもホテルもまだすべて閉まっているから、観光客も来ないのは当然だが、やはりこの人気のなさ、静けさは異様だ。
 カフェ、レストラン、ホテル以外の店はたいてい営業していたが、ウインドウ越しに店内を覗いてみても、どこも閑散としていた。
 街が生気と活気を取り戻すのはいったいいつのことになるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ガラス戸を磨き上げ、ベランダを洗い清める ― 四連休二日目の日記

2020-05-22 23:59:59 | 雑感

 今朝は六時から二時間ほどかけて、すべての部屋のガラス戸を磨き上げ、タイル張りのベランダを洗い清めた。
 仕事机の正面のガラス戸は高さ二メートル幅九〇センチの全面ガラスが二枚入っていて、いつもそのガラス戸越しに隣家との境の垣根とその向こう側の樹々を眺めながら仕事をしている。だから、ガラス戸が汚れてくると、その汚れがいやでもいつも視界に入ってくる。普段からきれいにはしているのだが、ここのところ、時間はあったのに少しサボっていて、汚れが目立ってきていた。
 春先から窓に向かって飛んでくる虫が増える。虫は特に嫌いではないが、好きでもない。戸を開けていると無断で入ってくる蜂たちには閉口しているが、彼らには事を荒立てずにお引取り願っている。それよりもけしからんのは、蜂だけではないのだが、ガラス戸の外側に張りついて小用を済ませる連中が後をたたないことである。その跡がガラス戸にタラリと残る。それを今朝すべてキレイに拭き取り、磨き上げた。ガラス戸越しの緑がいっそう輝いて見えるようになった。
 風に吹き寄せられた土埃で少し薄汚れているのが気になっていたベランダの床は、まず箒でざっと掃除してから、掃除機をかけ、洗剤入りの水を流し、デッキブラシで隅々まで洗い清めた。秋は、枯れ葉が落ち尽くし、落ち葉が舞い込まなくなってから、一度掃除する。その後、冬の間にベランダを洗うことはまずない。それほど汚れないし。この四月には風雨が強かった日が一度あって、それで例年以上にベランダが汚れてしまった。その汚れもガラス戸越しにいつも視界に入っていたので気になっていた。
 ガラス戸もベランダもすっかりきれいになって、気持ちよく一日を始めることができた。