ギリシア神話に興味を持つようになったのはいつのころからだったろうか。小中学生時代はろくに本を読まなかったから、高校生になってからのことであるのは間違いない。ギリシア神話と総称される物語のうちのいくつかについて抱いた漠然とした関心というだけのことなら高二のころからだと思う。
ギリシア神話の主要な源泉としてのホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に強く惹きつけられるようになったのは大学で西洋古典文学史の講義を聴いてからだった。『イーリアス』の中の戦闘場面の細部の描写に強く印象づけられたり、『オデュッセイア』の中の、オデュッセウスが乳母に足を洗わすとき古傷を見られて素姓を悟られる場面(第19巻)、かたくなに認知を拒むペネロペイアがついにオデュッセウスを夫と認めるくだり(第23巻)などの名場面の解説に聴き入ったりしたことを懐かしく思い出す。
その後、古代ギリシア文明の偉大な遺産であるこの二つの英雄叙事詩には、岩波文庫版の松平千秋訳を通じて、ギリシア語を齧っていた院生時代に時折触れていたが、どちらも全編を読み通したことはついぞなかった。渡仏後はもっぱら仏訳で読むようになった。いったいいくつ仏訳があるのか知らないが、手元にはいつも複数の仏訳があった。現在は『イーリアス』が五つ、『オデュッセイア』が四つある。しかし、やはりこれまで通読したことはない。
昨年末、フランス語では初の、いわばホメロス大全とも形容すべき途方もない企画を見事に実現させた一書が Albin Michel 社とLes Belles Lettres 社との共同出版という形で刊行された。その名も TOUT HOMÈRE(こちらがAlbin Michel 社の紹介頁でこちらが Les Belles Lettres 社の紹介頁)。
本書は、本企画の総帥 Hélène Monsacré による序説が巻頭に置かれ、以下、三部に分かれている。第一部 Les Œuvres は、『イーリアス』の新訳(訳者 Pierre Judet de La Combe は2017年に出版された Homère, Gallimard, « folio biographies » とこの翻訳によって2020年の Prix Bordin を受賞)、『オデュッセイア』の Victor Bérard による古典的名訳(1924年)、次いで、ホメロス風讃歌(古代ギリシアに作られた作者不詳の讃歌で、そのほとんどが神々への頌歌)、両叙事詩の古代書写本の本文の行間・余白に学者たちによって記された古注、本文の解釈を示す古注釈、古代ギリシア人たちに称賛され、ホメロスに帰された滑稽詩と続く。第二部 Fragments et légendes du Cycle troyen は、トロイア戦争の叙事詩環、第三部は、Gérard Lambin によるホメロス伝、後書きは Heinz Wismann の手になる。そして、両叙事詩の語彙解説、両叙事詩とホメロス風讃歌それぞれの神名・人物名索引が本書を締め括っている。まさにホメロス全集成である。
この総頁数ほぼ千三百頁の大冊をこの七・八月に読破するというのがこの夏の無謀な読書計画である。
光溢れる夏空の流れる雲をときどき眺めながら、風に揺れるヘラクレスの木の緑陰で、紀元前八世紀の古代ギリシアにまで魂を遊行させるこの読書、豈愉しからずや。