内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「日本の文明と文化」前期最終講義 ― 千年を越え、国を超えて、感動させるもの

2020-11-30 21:52:05 | 講義の余白から

 今日、「日本の文明と文化」の前期最後の授業でした。今学期全十二回の授業の内訳は、対面七回、遠隔五回。
 普段通り、まず日本語ワンポイント・レッスン。前回に引き続き、本多勝一の『日本語の作文技術』から一部抜粋して、文章の書き方を学ぶ。今日は第三章「修飾の順序」の要点を示した。文の構成要素はまったく同じなのに、わかりやすい語順とそうでない語順があるのはなぜかという問題がテーマだった。学生たちも興味を持ったみたいで、いつにもまして反応が良かった。問題点をアクティブにヴィジュアル化するためにパワーポイントには毎回かなり工夫を凝らす(この準備に結構時間がかかる)。このブログでお見せできないのが残念だ。
 通常の段取りでは、日本の文明・文化を理解するためのキーワードのコーナーが次に来るのだが、今日はカット。授業の最後に二週間後の試験について説明する時間を確保するためだ。本日のメイン・ディッシュのパワーポイントは、百人一首と競技かるたと『ちはやふる -結び-』についての説明。その後、この映画の後半を鑑賞させる。
 そして、またパワーポイントに戻り、今日の課題を提示。「千年以上も前に詠まれた和歌が、今も私たちを、しかも国を超えて、感動させるのは、なぜでしょうか。」八百字以上、上限なし。締め切りは十二月二十三日、クリスマスイブの前日までとした。年内の授業と試験が終わるのが十八日金曜日。その後、落ち着いて書いてね、という「親心」である。
 さて、「真打ち」の学期末試験である。あからさまにここには書けないが、超重量級の問題である。約十頁の日本語のテキストを予め読ませ、問題に答えさせる。テキストは今日与えた。問題とは、触覚と倫理との関係である。ここまで書けば、慧眼なる読者はどのテキストか、もうおわかりであろう(な~んか、上から目線で、感じ悪い言い方)。
 普段の小論文と違って、長さに厳しい縛りを掛けた。千字以上千二百字以内。それ以下でも以上でも減点の対象となる。ただ長々と書けばいいというものではないからだ。決められた字数内で、どこまでバランスよく議論を展開できるかが問われる。辞書その他すべて持ち込み可。インターネットで検索したっていい。そんなことをしても、二時間でまともな答案が書けるような甘っちょろい問題ではないのだ。今日から二週間、与えられたテキストをしっかり読み込み、自分の頭で考え抜き、自分の意見を論理的に展開できるようになっていなければ、合格点は到底望めない。
 学生諸君、この取り組みがい十二分の課題と試験問題が君たちへのちょっと早めのクリスマス・プレゼントです。どうか受け取って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


家事と哲学とのゼッタイムジュンテキジコドウイツ

2020-11-29 20:26:44 | 哲学

 先週末と同様、土曜日に翌週の授業の準備を済ませ、今日日曜日は、十二月一日が締め切りの原稿執筆に集中しました。一歩も外出しませんでした。午後三時過ぎに原稿ほぼ完成。ホッとしました。明日一日もう一度推敲してから編集者の方に送信します。
 速筆、遅筆という言葉がございますね。私はどちらであろうかと自問しました。いつも締め切りぎりぎりならないと書き始められず、結果、やっとのことで締め切りに間に合わせるという点では、遅筆です。他方、実質的に執筆に充てている時間からいうと、速筆と言っていいかもしれません。例によって、四百字詰め原稿用紙を基礎単位とした計算になりますが、八時間で三十枚くらい書けます。もちろん内容にもよりますし、その時置かれている状況にもよりますが、いったん書き始めれば、速い方だと言ってもいいのかもしれません。
 ただし、一つの原稿を書くためにかけた総思考時間を考慮に入れると、遅筆どころか、「鈍筆」だと言わざるを得ません(こんな言葉はないのですが)。それも超がつくほどではないかと恐れます。例えば、健全なる良識と誰に恥じることもないだけの優れた知性をお持ちの方が一時間で解決できる問題に、私は丸一日、いや二三日かかることだってざらにあります。
 そんな時間がよくありますねぇ、なんだかんだ言って、やっぱり、大学の先生って、お暇なんですねぇ、と嫌味なことほざく御仁もいらっしゃるかもしれません(目の前にいたら、瞬殺していたでしょう)。言わせていただきますが、こんな私でもけっこう雑務があるのですよ。それでも考え続けるには、やはりそれなりの工夫というか、覚悟が必要です。どうするかというと、トイレでもお風呂でも、果ては寝ながらでも考えるのです。
 それだけではありません。いざ執筆を始めて、ちょっと筆が鈍る、考えが停滞する、ということは、やはりあります。そういうときはどうするかといいますと、やおら立ち上がり、机の前から離れ、掃除を始めるのです。
 今日の場合、数日前から気になっていた台所の換気扇の掃除を徹底的にいたしました(結果に満足)。しかし、それは掃除そのものが目的ではありませんでした。気分を切り替え、かつ思考に集中する時間を作り出すためなのです。一言にして言うならば、私にとってお掃除と哲学はゼッタイムジュンテキジコドウイツなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


やっと前期の終わりが見えてきた ― 他愛無記

2020-11-28 16:08:42 | 雑感

 今日から外出制限令が緩和された。運動のための外出も一時間から三時間に延長され、自宅から半径一キロ以内だった外出許可範囲も二十キロ以内と大幅に拡大された。
 今日はよく晴れた一日だった。気温は、朝零度、日中は三度まで上がった。午前中、雑務を片付けた後、片道徒歩三十分かかるスーパーまで買い物に出かけた。いつもは自転車で行くのだが、運動を兼ねて徒歩にした。ウォーキングは歩数で目標を決めてある。八千歩である。だいたい一時間ちょっとで到達できる。今日はスーパーまでの往復で目標達成。
 帰宅後は、作文採点、試験問題作成、原稿執筆など。年内の授業もあと三週間、十二月十四日からの最終週、私が担当している学部三年生の三コマはすべて試験だし、その前の週は試験準備期間として授業を入れていないから、修士の演習二コマと修士論文の口頭試問が一つ。やっと前期の終わりが見えてきた。
 年明け、四日からの週に大学の教室を使って試験を行う科目がいくつかある。厳重な感染予防対策を厳守しなければならないから、試験監督に通常より人手を必要とする。私も手伝うことになる。
 後期は一月十八日からだが、いまのところ、政府の方針では、一月中の二週間は遠隔授業が継続される。大学学長会議は大統領に後期最初からの対面授業開始を求める嘆願書を出したようだが、差し当たりは様子を見るしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


表層と深層の両方での遠隔相互作用性 ― I ♡ Japan から遠く離れて

2020-11-27 21:37:18 | 講義の余白から

 今日の記事のタイトルは、何やら小難しそうですが、実のところ、半分はただのこけおどしです。
 先日の記事で話題にしたように、今月初めの遠隔授業への移行以来、授業前に音楽を流しています。その音楽の選択はまったく私の趣味によります。今日の「近代日本の歴史と社会」では、ユーミンの『日本の恋とユーミンと。』をシャッフルで流していました。ユーミンの曲の中には宮崎駿の作品に使われているものも何曲かありますから、ユーミンのことは知らなくても、それらの曲は知っている学生も少なくないはずです。先週流した音楽とは、ですから、ジブリ繋がりだったわけです。
 授業はいつも定刻きっかりに始めます(まるでNHKみたいに)。今日も午前11時きっかりに授業を始めました。といっても、最初はチャットでの挨拶のやりとりなのですが、その中に、「先生、次回の音楽はバッハでお願いします」というのがありました。ちょっと意外だったのですが、「OK。じゃあ次回はバッハを流します。ほかにも流してほしい曲があったら、みなさん、リクエストしてくださいねー」ってマイクを使って応答しました。ちょっとラジオのDJみたいな感じになりました。
 思いつきでそう応えただけなのですが、これはこれでいいのかなって、授業の後、思いました。好きなときに好きな曲を聴きたいだけ聴くことが今ほど容易な時代もかつてなかったわけですが、それはそれ。「今日は、○○さんのリクエストに応えて、オープニングはこの曲です」といった乗りで、みんなそれぞれ別の場所に居ながら、同じ音楽をたとえ数分間でも一緒に聴く時間を持つというのは、また別の体験でしょう。こっちとしても曲選びは楽しいしね。
 今日の二コマ目「メディア・リテラシー」では、ジャーナリストの役割とは何だろうという問題を一つの具体的な例を通じて考えるために、堀川惠子さんの死刑に関する一連の著作を取り上げました。
 その日その日に浮かんでは消えてゆくような出来事を追いかけるのがジャーナリストの本来の仕事ではないはずです。権力に抗してでも、国民に真実を伝える使命感をもって徹底的に取材し、その成果を、一方ではテレビのドキュメンタリーとして広く視聴者に訴えかける仕方で伝え、他方では、ノンフィクション作品として長く残る形で細部まで丁寧に描き出す彼女の仕事は、ジャーナリズムのあるべき姿について私たちが具体的に考えるためのよき実践例の一つです。
 そのことを死刑という重いテーマを通じで学生たちと一緒に考えたいというのが選択の意図でした。そこには、いまだに死刑擁護派が圧倒的多数を占める日本は、死刑廃止が主流である先進国の中で際立った例外をなしており、その理由は何なのかということを問うことも含まれています。死刑制度を合法的なものとして保持したまま裁判員制度を採用した法治国家に生きる日本人自身が自分自身の問題として死刑の存廃を考えなければいけないのはもちろんですが、日本に関心を持つ学生たちにとっても、日本という国をよりよく理解するためには、これは避けて通れない問題だと私は考えています。
 日本が大好きな君たちよ、ほんとうに日本のことが好きなら、「I ♡ JAPAN」とか「COOL JAPAN」などという荒唐無稽なお祭り騒ぎの陰に隠れた現代日本社会の深刻な問題のことをちゃんと知ってください。そういう問題から目を背けずに日本の現実と向き合ってこそ、ほんとうの日本研究であり、日本愛なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「これから」を生きるために ― 桜井徳太郎『民間信仰』(ちくま学芸文庫)を読みながら

2020-11-26 23:59:59 | 読游摘録

 日本の民間信仰について学生たちに推薦できる基礎的な文献として紹介しようようと思って、桜井徳太郎の『民間信仰』(ちくま学芸文庫 2020年 初版1966年)を読んでいて、つい引き込まれてしまった。岩本通弥の解説にある通り、その論述は「明快で溌剌としており、リアリティをもって迫ってくるもの」がある。現地調査に基づいた諸種の民間信仰の具体的な記述がそれぞれに興味深いだけでなく、それらの信仰を通じて生きられている日本人の精神的伝統への洞察にもいろいろと教えられるところがある。
 日本人の民衆生活に沈殿していた数々の信仰が急速に失われていくのは1965年以降のことだと解説で述べられているが、高度成長期の只中で日本人の精神生活も大きな変化を強いられたということなのだろう。
 それから半世紀あまり過ぎて、今、私たちは、パンデミックによる世界規模での未曽有の社会構造の変化の中を生きつつある。世界の識者たちの未来への提言にはもちろん傾聴に値する意見も多々あるし、私自身、現在の状況の中でただ茫然と立ち尽くしてもいられず、手を拱いているだけでもいけないとも思う。
 それはそうなのだが、『民間信仰』を読んでいて思ったことは、むしろ今一度ここで立ち止まり、この半世紀の間にもはや取り返しのつかない仕方で私たちが失ってしまったものについて確認しておくことも、「私たちの現在」の立ち位置を見極め、「これから」を生きるための視野を開くために必要ではないのか、ということであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


風土と宗教 ― 反風土的なものとして普遍宗教と親風土的なものとしての民間信仰・異端信仰

2020-11-25 23:59:59 | 講義の余白から

 先週水曜日に修士一年生たちに次のような課題を出した。「フランスあるいはヨーロッパに古くからある民間信仰あるいは中世の異端信仰とキリスト教との関係について、具体的な例を挙げて説明してください。」
 一見すると、今学期の共通課題図書である和辻哲郎の『風土』とは直接の関係はなさそうな課題である。しかし、そこには次の二つの狙いがあった。一つは、学生たちがその読解に辟易していた『風土』から一旦離れて、彼らがもっと積極的な関心を示すような課題を与えることであり、一つは、『風土』を離れることで、風土性の問題に彼らが新しい視角から接近し直すことができるようにすることであった。この二重の狙いがずばり当たった。
 学生たちは私が期待していた以上に問題に関心を示した。発表原稿を事前に提出した十名は、特にこちらから個別に指示を与えたわけではないのに、それぞれに異なったテーマを取り上げ、わずか一週間足らずと準備期間が短かったのに、よく課題に取り組んでくれた。
 今日はその十名中八名が発表した。一応三分から五分にまとめるように言っておいたのだが、何人かは、その枠に収まりきらない内容豊かな発表をしてくれた。この他に、もっとも内容豊かな一番長い発表が予定されていたのだが、これはおそらく十分以上かかるので、今日は時間切れとなり、来週に回すことになったほどである。もう一名は、予め発表原稿とスライドを提出してくれていのたが、カメラとマイクの不調という技術的問題でやはり発表は来週となった。
 ヨーロッパにキリスト教が伝播する以前にその起源をもつ信仰あるいはそれを表現している神話について調べ、それらがキリスト教によってどう統合・吸収されたか、あるいは排除されたか、あるいは何らかの仕方で一定の地方には存続あるいは共存しているかを調べていけば、それらの信仰とそれが行われていた土地の自然環境や気候とに密接な関係にあり、これらが和辻の言うところの対象化された自然環境ではなく、むしろ風土に近いことがわかってくる。中世の異端信仰も、社会経済的な構造変化やその他様々な発生要因があるから単純化は許されないにしても、土着性もその一つの要因になっている場合がある。
 つまり、ヨーロッパ宗教史は、反風土的な普遍宗教を目指すキリスト教と親風土性をもった土着の信仰の抗争、前者の最終的な勝利、後者の前者への統合化、後者の排除、あるいは一定の条件下での共存、後者の保護・維持などの諸相をもった歴史的過程として見ることができる。このように捉えることができれば、風土性は、自分たちが今生きているヨーロッパ世界の古層に埋もれているか、今もなお何らかの仕方で息づいているものであることが見えてくる。
 予めそう示唆したのではない。自分で調べていく過程で彼らがそのことに自ずと気づくことが期待されていたのであった。それがうまくいったのである。今日の発表は、単に私にとって面白かっただけでなく、こんなことは遠隔になってから初めてのことだったのだが、学生同士の間でそれぞれの発表直後に「おもしろかった」とお互いにチャットで感想を述べ合っていた。
 発表言語が日本語であったことを除けば、日本とは直接関係のない演習内容であった。だが、自分たちにとって身近な世界、あるいはその背景をなす歴史的世界について日本語で発表するという迂回路を通じて、彼らはヨーロッパ世界の古層を再発見したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遠隔授業開始前のリラックス・タイム

2020-11-24 20:43:28 | 講義の余白から

 遠隔授業に全面的に移行してから、この月曜日で四週間目に入った。もうほぼ間違いなく、ノエルの休暇までこのままだ。年明け一月四日以降の二週間が前期末の試験週間になるが、その期間についても、教室での試験が可能なのかどうか、まったく予断を許さない(今年三月以降、それ以前には考えられない頻度でこの表現を使っている)。
 先のことはわからない。それはいつでもそうだ。でも、今回ばかりは、「そのうちなんとかなるだろう」とは誰も言えない。いや、必ず「どうにか」なるには違いない。どうにもならないということは論理的にあり得ない。ただ、その「どうにか」の中身について、まったく想像ができない。
 こんな話はつまらない。わかっている。独りぼそぼそ呟いても無意味だ。もうやめる。
 遠隔になってから、毎回授業開始時間前にZOOMの機能を一応チェックしている。複数のPCを同時に起動し、一台をホストにし、他をモニターにして画面共有(特に音声の共有)に問題がないが確認している。
 ある日、授業開始一時間前にその作業をしていたら、思いがけず、学生が一人、「教室」に入ってきた(原則、学生たちがいつ入ってきてもいいように「待合室」は設けていない)。「先生、おはようございます」とチャットで挨拶してくる。「おはよう。早いね。まだ授業開始まで一時間もあるよ」と返す。「接続のチェックのためにアクセスしたら、教室が開いていたので、入ってしまいました。」「かまわないよ。このままいてもいいし、授業開始時間にまた戻ってきてもいい。」
 その学生が接続したままなので、それではと、YouTube で見つけた日本の紅葉の4K動画などを流しっぱなしにしておいた。すると、その学生が同じクラスの他の学生たちに連絡したのであろう、何人か授業前に「教室」に入ってきた。
 そこで思いついた。いつもこうしておけば皆早めに「教室」に来るのではないかと。当たりであった。先週はジブリ・シリーズ。ある学生から「先生、授業前にジブリを流すのは反則です」とリアクション。「まあ、そう言わずに。授業前にリラックスして、授業開始と同時に集中してね。」
 昨日月曜日には、Perfume のThe Best “P Cubed” を流していたら、授業開始二十分くらいに入ってきた学生が「先生はほんとうに普段から Perfume を聴いたりするのですか」と聞いてくるから、「大ファンだよ」と返事したら、「そんなところで先生と共通点があるとは驚きです」と返してきた。
 かくして、授業はいつもちょっとほぐれた雰囲気で定刻きっかりに始まるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語学習者たちによって拡張されてゆく日本語

2020-11-23 23:59:59 | 講義の余白から

 学生の日本語の文章を添削していて、ときどき意想外の表現に出会ってハッとさせられることがある。それらの表現は、熟知した日本語を駆使して巧んだ結果として生まれた表現というよりも、日本語での通常の表現に縛られずに、というよりもそこまでの知識がないゆえに、現在自分が使える日本語の表現を組み合わせて自分の考えをできるだけ正確に言い表そうとした結果生まれた表現であることが多い。文脈の中で妥当な表現である場合もあれば、それからは逸脱しかけているが、一文として屹立しているとでも言いたい表現に出会うことがあり、ときに唸らされる。ちょっと大袈裟に言えば、日本語を母語としない日本語使用者によって日本語の表現の可能性が拡張されているのを目の当たりする驚きがそこにはある。
 今回の課題は、現代日本語の中でいささか死語化していると思われる天職についての自分の考えを述べることであった。参考資料として、以下のような辞書の項目を与えた。

VOCATION est un emprunt (v. 1190) au latin classique vocatio, -onis « action d’appeler », d’où « assignation (en justice) » et « invitation », spécialisé en latin ecclésiastique ; ce mot dérive de vocatum, supin de vocare « appeler » (→ avouer), dérivé de vox, vocis (→ voix).
❏ D’abord terme biblique, vocation désigne l’appel de Dieu touchant une personne, un peuple. Comme en latin, le mot s’est employé pour « appel en justice » (XIVe s.), encore chez d’Aubigné. ◆ Par extension de la valeur religieuse, le mot désigne la destination d’une personne (1465) et (1440-1475) l’inclination qu’éprouve qqn pour une profession, un état ; de là viennent les emplois, qui avaient disparu en français classique, pour « profession » (1467) et « condition sociale » (XVe s.). Par retour au latin, vocation s’est employé pour « action d’inviter qqn à faire qqch. » et « convocation (des États) » [attesté déb. XVIIe s., d’Aubigné]. ◆ En termes de religion, vocation désigne (av. 1662, Pascal) un mouvement intérieur par lequel une personne se sent appelée vers Dieu ; il est employé dans avoir la vocation de, pour (une fonction, une mission) et absolument (1824) pour « se sentir appelé à la prêtrise ». ◆ Le mot a pris le sens large de « rôle auquel une personne, puis un groupe, un pays, etc., paraît être appelé ». L’emploi de syntagmes comme la vocation religieuse, suggère que le mot peut avoir des valeurs plus générales : une vocation spéciale, publique sont attestés en 1637 mais dans le cadre de la religion chrétienne. Les premiers emplois dans un cadre laïque, au XVIIIe s., sont juridiques, par latinisme. La valeur moderne « disposition pour une activité, un rôle », se dégage au milieu du XVIIIe s. et s’emploie dans la locution avoir vocation à (pour) « être qualifié pour », surtout en parlant d’une entreprise, d’une administration.

© Dictionnaire historique de la langue française 2017.

Vocation
La « vocation » (sur le lat. vocare, « appeler ») n’est pas simplement une forme atténuée du destin, au sens où l’on aurait affaire à un destin décidé par la personne. Il s’agit, plus spécifiquement, de la notion luthérienne de Beruf, reprise et discutée par Max Weber, et dont la traduction en français par « vocation » ou « profession » n’est jamais satisfaisante.

Destin
Destin, sur le latin destinare (« fixer, assujettir »), est l’une des manières dont, dans les langues romaines, l’homme désigne ce qui lui échappe dans ce qui lui arrive.

Beruf
Beruf est un intraduisible récent : il est associé à Max Weber et à son étude de 1904-1905 sur L’Éthique protestante et l’esprit du capitalisme. Le problème tient d’abord au double sens du mot, qui oscille entre le séculier (métier, profession) et le religieux (vocation) : là où l’allemand hésite, le français est obligé de choisir. Mais Beruf présente une autre particularité remarquable : sa part d’intraduisible ne tient pas au génie particulier d’une langue, mais à la décision d’un traducteur, Luther, et à une évolution historique, celle du capitalisme moderne, dont il concentre, selon Weber, toute la nouveauté.

Vocabulaire européen des philosophies, Seuil, édition augmentée, 2019, 1re édition, 2004.

 締め切りは今週末で、まだ八つしか届いていないが、その中からいくつか目に留まった表現を摘録しておく。

人は進化し、情熱も進化します。

天職の概念は存在しない。自分の行動で職業を見つけなければならない。

自分の天職を見つけたくても、見つけたいという欲望があるからこそ、見つけられない。

人を笑わせるのが好きで、面白いと言われたら最高の褒め言葉です。

私は、人生を、自分に手段(規律、時間、努力)を与えることで、自分の望むものを構築できる巨大な砂場だと考えています。

 これらはそれぞれ異なった文章から取られた一文である。小論文全体の内容としては、二八〇〇字を超える大作が突出していた。ドイツ語の Beruf (とくにマックス・ウェーバーにおける)やフランス語の vocation の本来的意味を検討し、ブルデューによる現代フランス教育システム批判を参照しつつ、現代フランス社会においての天職概念の不可能性を論じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


佳き日曜日の記

2020-11-22 23:59:59 | 雑感

 今日日曜日、午前四時からから十一時過ぎまで、論文執筆に集中した。昨日までに明日の授業の準備その他月曜日までにやっておかなければならないことを済ませ、論文執筆のための時間を作った。四百字詰め原稿用紙にして三十五枚(いまだにこうして数えないとピンと来ない旧世代人です)、一気に書き上げた。というのは、実は言い過ぎで、この一ヶ月間書き溜めてきた断片的な草稿を一気に論文の体裁にまとめたというのがほんとうのところだ。まだ荒削りなので、これから一週間、原稿締め切り前日の月末まで、授業と雑務の合間を縫って推敲を重ねていく。
 午後は、まずウォーキング。実質一時間二十分歩いた。体を動かすためというのが第一の理由だが、歩きながら考えると、それはそれで思考を一点に集中しやすく、その過程でいいアイデアが生まれてきたりする。そんなときは一挙両得的な「お得感」があって嬉しくなる(ああ、単純なつくりの頭でよかったです)。帰宅するとすぐにそのアイデアをメモする。
 朝方、氷点下まで気温が下がったが、日中はよく晴れて、冷えた空気も心地よかった。まだ真冬の寒さには程遠いが、ウォーキングのときにはあえて真冬の重装備にし、たくさん汗をかくようにしている。帰宅後の一風呂が気持ち良い。この夏から、KindleリーダーやiPadを使って湯船に浸かりながら読書もしている。これも楽しい。
 傍から見れば何事もなかったような一日である。本人としてはまことに佳き日曜であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「木の葉なき空しき枝に年暮れて」― 京極為兼の光芒

2020-11-21 19:18:00 | 詩歌逍遥

 自分の心に向き合い続けるのは、ときにしんどい。そうすること自体が心を蝕んでしまう。扉も窓もない部屋のような心の中で人は生きることはできない。考えることは、それが心的閉鎖空間を突き破るかぎりにおいて意味がある。だが、それだけのエネルギーが身心に充填されていないときはどうすればいいだろう。
 そんなとき、私は詩歌に救いを求める。それは、和歌だったり、連歌だったり、俳諧だったり、近現代詩だったりする。救いを求める頻度からすると、万葉から新古今までの和歌が多い。数百年、いや千年を越えて心を遊行させたいのだ。
 先月末に刊行された渡部泰明の『和歌史 なぜ千年を越えて続いたのか』(角川選書)は、千二百年以上も続いている和歌の持続力の不思議さを正面から問うた一書である。本書で取り上げられている古代から近世までの十数人の歌人のうち、額田王から定家まではそれなりに親しんできたが、それ以降の京極為兼と京極派、頓阿、正徹、三条西実隆、細川幽斎、後水尾院、香川景樹については、これまであまり関心もなかった。それだからこそ、本書のその部分に特に惹きつけられた。
 十三世紀の終わり頃から十四世紀の半ばにかけて、一目でそれとわかる特異なスタイルの和歌を詠む一派が登場し、和歌史の上で燦然と輝く活躍を見せた。彼らは、この一派の指導者京極為兼の名を取って「京極派」と呼ばれた。この党派が主導して遺したのが『玉葉和歌集』『風雅和歌集』である。
 本書の著者渡部泰明氏によれば、「為兼は「詞」との関係では「心」の自由を求めたが、それ以上に、「心」と自然や景物との関係性を大事にしたのであり、それによって、人間とこの世界との合一という理想を体現しようとした」。

露おもる小萩が末はなびきふして吹きかえす風に花ぞ色そふ(玉葉・秋・五〇一)

 「露に靡いていた萩を、風が吹き返し、ぱあっと露が散ったその瞬間を捉える。宝石のような露のきらめきが、萩の花の美しい色合いを反射させる」(渡部泰明『和歌史』の注釈)。その瞬時の光景を今まさに目の当たりにするかのごとき清新さに心が震える。
 塚本邦雄の『清唱千首』(冨山房百科文庫 1983年)にも選ばれている待春歌に今の自分の心を重ねる。

木の葉なき空しき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく(玉葉・冬・一〇二二)

 「枝の空しさは、わが身の空しさ、初句はいかにも丁寧に過ぎるが、願ひをかけながら、近づく春も恃めぬような暗さを帯びるのも、上の句の強調によるのだ」(『清唱千首』二六六頁)。