内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三日目のワークショップを終えての身勝手な感想

2021-10-31 17:09:46 | 雑感

 自分自身はオーガナイザーではないし、オーガナイザーたちの労苦がどれだけ大きいか知っているだけに、今回のワークショップにケチをつけるようなことは言いたくない。三つのキー・ノートはとても充実したものだったし、九つの若手研究者の発表もそれぞれの分野での有意義な研究なのだと思う。
 だから、以下に書くことは、それらに対する批判ではなく、もっと一般的な問いとして、ワークショップをより実りあるものにするにはどうしたらいいのかという問いについての私的な覚書である。
 まず、これは過去三回のワークショップでも意見として述べてきたことだが、テーマを問題形式にして、その問題に何らかの仕方で答えを提案するような発表を募るようにすること。それと連動するが、問題の要になるキーコンセプトをあまりにも広義に解釈するのではなく、むしろいくつかの明確な「縛り」をかけて、それらから外れるものは、たとえテーマとしては興味深くても排除すること。個々の発表時間は短めにし(そのために発表原稿事前提出を必須とする)、それに対する質疑応答の時間の方をむしろ長めに取ること(例えば、今回のように各発表に45分与えるのであれば、発表20分、質疑応答25分とする)。そして、これが最も肝要なことだが、最終的な総合ディスカッションに、もう参加者みんなが喋り疲れるほどの充分な時間を取ること(例えば、三日間のプログラムであれば、三日目は丸一日総合ディスカッションに充てる)。
 残念ながら、これらの条件をすべて満たしたワークショップに参加したことはない。今回も、最後の総合ディスカッションの時間が一時間半と、あまりにも短かった。これは、ヨーロッパ・アメリカ・日本を繋いで行ったハイブリッド方式ゆえの時差による制約が大きかったから、オーガナイザーの責任ではない。
 来年もこのワークショップは行われる予定である。そのときは参加者全員が一堂に会することを願いつつ、今日は散会となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アリバイとしての形式的遠隔参加、あるいは不誠実な私の隠蔽工作

2021-10-30 17:14:52 | 雑感

 今日はワークショップ第二日目。今日明日はZOOMで自宅から参加。といっても、今日明日と万聖節の休み中に仕上げておかなくてはならない仕事がいくつかあり、正直に言えば、ZOOMのマイクとカメラは切ったまま、発表を聞き流しながら、自分の仕事をしていた。ZOOMがオンになっていることをいわば「アリバイ」として使ったわけである。こういうまことに不誠実な「悪習」は昨年来のコロナ禍によって身についてしまった。
 他方、現地参加が無理だと断っても、ではZOOM等を使って遠隔でスポット参加してくれてもいいという懇請もされるようになった。これはなかなか断れない。身内に不幸があったとか、その時間帯飛行機の中だとか、重病あるいは重傷だとか、とにかく一定の時間PCの画面に向かって話すことができないことを納得してもらうだけの理由が必要だ。もちろん、そもそも参加したくないような集まりは適当な理由をつけて断ればいいわけだが、世の中には「義理」という名の外的強制や「誠意」という名の自己拘束などがあって、ままならぬものである。
 明日も発表中は「形式参加」である。最後の総括ディスカッションだけ遠隔参加する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ワークショップ「日本研究とトランスナショナリズム」第一日目

2021-10-29 23:59:59 | 雑感

 午前6時から7時までジョギング。9,7キロ走る。9時過ぎ、自宅を出る。9時50分発のTERでコルマールに向かう。10時25分コルマール駅着。CEEJAの新拠点は市内にあり、駅から徒歩で数分である。コルマールから車で20分近くかかり、他に交通手段もなかったキンツハイムに比べれば格段に便利になった。規模はもちろん比較にならないほど小さくなったが、十人程度の会議を開くには十分なスペースが敷地内にある。
 ワークショップは、フランスと日本とアメリカとをZOOMで繋いで、ヨーロッパ中央時間で11時から17時まで、途中三度の休憩を挟んで行われた(三日間のプログラムはこちらをご覧になられたし)。
 CEEJAの学術担当副所長パウエル教授の開会の辞と初日のチェアマン、日文研の坪井秀人教授のイントロダクションの後、最初のキーノートは、我が日本学科の同僚サンドラ・シャール教授による女工哀史についての講演。トランスナショナルとは直接関係のないテーマだったが、若き外国人研究者としての彼女がインタビュー当時すでに高齢の元女工たちにアプローチすること自体がトランスナショナルなあり方であると言えると思った。それに続いて、大学院研究生による二つの発表。前者は日本から、後者はパリからの遠隔発表。前者の発表が私にはことのほか面白かった。初日の締めは、二つの目のキーノート。アメリカからコーネル大学の酒井直樹教授の講演。一時間半を超える超重量級のご講演。
 ワークショップ終了後、日本とアメリカからの参加者はそこでお開きとなったが、現地参加で最後までの残った7人でコルマール駅前のレストランで会食。コルマールに滞在中のホテルか自宅がある他の参加者たちにレストランで別れを告げ、私ひとり、デザートを食べ終えたところでストラスブールに帰る電車に飛び乗る。
 自宅に帰り着いたのは午後11時過ぎだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代の高度情報化社会に疲れて、プルタルコスの『対比列伝』を読む

2021-10-28 19:47:45 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた西垣通氏の一連の著作を読んでいると、現代の高度情報化社会が抱えている諸問題と様々な可能性について学ぶところが実に多い。立て続けに読んでいると、どんどん引き込まれ、知的興奮を覚える。
 が、だんだん息切れがしてくる。時代から取り残されないためには、この調子でずっと走り続けなくてはならないのか。しかし、自分のような老いぼれにはもうそんな体力はないし、無理をしてまで時代について行きたいとも思わない。そう開き直りたくもなる。
 それでもこれらの本を読むのは、担当する授業の中で現代社会の問題を取り上げざるを得ないかぎり、特にメディア・リテラシーという現代社会を生きるために必須の能力を身につけることを目的とした授業を担当する以上は、読まないわけにはいかないという義務感を覚えるからである。
 ただ、必ずと言ってよいほど、その反動が来る。無性に古典が読みたくなる。洋の東西は問わない。昨日は、自分としては例外的に午前零時近くまで二時間ほど、プルタークの英雄伝『対比列伝』の仏訳 Vies parallèles(Gallimard, « Quarto », 2001)を読んでいた。古代ギリシア・ローマの人間たちの躍動に出逢える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


理系の知と文系の知を架橋する情報学

2021-10-27 21:34:37 | 読游摘録

 昨日話題にした森正人氏の『戦争と広告』の後にメディア・リテラシーの授業の前期後半で取り上げるのは西垣通氏のいくつかの著作である。いずれも電子書籍版である。紙版の初版の刊行年順に列記すると、『こころの情報学』(ちくま新書 1999年)、『ネットとリアルのあいだ ―生きるための情報学―』(ちくまプリマー新書 2009年)、『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』(中公新書 2013年)、『ネット社会の「正義」とは何か 集合知と新しい民主主義』(角川選書 2014年)、『AI原論 神の支配と人間の自由』(講談社選書メチエ 2018年)。
 西垣氏の一般向けの著作は、情報学、ネット社会、人工知能、集合知、AIなどに関わる大きく難しい問題を取り上げながら、論点が明確に示され、議論の展開が明快で、文章も構文的にとてもわかりやすい。メディア・リテラシーの授業で学部学生に読ませる日本語としては、構文や語彙にあまり悩まされずに内容の理解に集中できる文章として、これ以上の文章はなかなか得難い。内容的には面白くても、構文的にいたずらに難しく(書いた本人はそれで格好いいと思い込んでいるのかも知れないが……)、授業で取り上げることを諦めた本のなんと多いことか。
 しかも、理系の知と文系の知とが見事にブレンドされていて、とかく一方に偏りがちなものの見方の盲点が的確に示され、上掲の諸分野についての私たちの蒙を啓いてくれる。授業では上掲のそれぞれの本のごく一部しか取り上げることができないが、それをきっかけにそこに示された諸問題に学生たちが興味・関心をもってくれることを切に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦争についてのイメージとメッセージの考察を通じてなされたメディア論 ― 森正人『戦争と広告』

2021-10-26 12:56:36 | 読游摘録

 今年度のメディア・リテラシーの授業では、現在メディアを通じて実際に流通している情報を直に取り上げるのではなく、そもそもメディアとは何なのか、それは私たちの社会生活の中でどのように機能しているのか、前世紀のメディア革命と二十一世紀のICT技術の進歩とは現代世界をどう変えつつあるのか等の根本的な問題を前期前半6回の授業で取り上げてきた。前期後半では、これらの根本的な問題をより具体的な事例に即して考え続ける。
 そのためにまず取り上げる予定なのが森正人の『戦争と広告 第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く』(角川選書 2016年)である。書名からわかるように、本書の直接的な考察対象は第二次大戦期の広告と当時の「聖戦」の現代的イメージだが、本書を貫いている問題意識はより広く深い。
 本書は、戦時中と現代日本における「聖戦」(日中戦争と太平洋戦争)の多様な広告を吟味しながら、その視覚性と物質性を明らかにすることをその目的としている。本書の考察の基軸をなす「視覚性」と「物質性」という二つの概念は、それぞれ以下のように本書の冒頭で定義されている。「視覚性」とは、「私たちが見ているものは自明のものではなく、特定の目的に応じて見せられているもの」であるという「操作された視覚」のことである。「物質性」とは、ナショナリズムの醸成過程において「存在している物もまた自明ではなく、選別され、配置されており」、「物はそこに存在することによって、特定のメッセージを伝える」という特性のことである。
 本書は、戦争についてのイメージとメッセージの考察を通じてなされたメディア論である。実際、本書の序章は、マクルーハンの『メディア論』を引きながら、メディアとは何かという根本問題と向き合い、そこからメディアが戦争に関する特定の物語をどのように作り上げていくかを考察している。そこで、メディアとは、マスメディアだけではなく、ある意味やメッセージを帯びたものすべてを指す。
 第一章は、日中戦争以降、形づくられてきた「聖戦」という概念が、どのように博覧会を通じて物質化され、雑誌を通じて視覚化されていったのかを考察している。
 第二章と第三章では、『写真週報』と『アサヒグラフ』の記事と写真の検討を通じて、前者では、戦争の状況や戦う兵士の身体などがどのように視覚化されたのか、後者では、銃後の道徳性がどのように視覚化されたのかが考察されている。
 第四章は、「聖戦」が現在の日本でどのように視覚化され、想像されているのかが問われる。「過去は特定の回路で再現される物語であり、決して「事実」ではない。しかし特定の物語は賞賛のレトリックと特定の事物や視覚イメージでもってスポットライトが当てられ、別の物語は巧妙に排除されていく。」
 戦中と現在とでは、メディアはたしかに質的に変化している。しかし、それにもかかわらず、「視覚イメージの意味生産のプロセスは驚くほど類似している。したがって、現代における戦争の意味生産のプロセスを考えることは、この日本がどのように戦後を過ごしてきたのか、あるいは私たちは何を反省し、畏れてきたのか沈思することに繋がる。」

それによって、私たちがどこから歴史を、戦争を見ているのか、考えているのか、を問い続けることの重要性を考えていきたい。私たちが「社会」の「多数」に呑み込まれたり取り込まれたりすることから逃れるには、その都度、振り返り続けること、そして同時に行方を定め直し続けることしかない。ただし、支配され管理されることから毅然と逃れることは不可能である。であるなら、半分だけでも目覚め続ける。そういう反省の仕方を身につけるために、見ているもの、触れているものの背後を捉える方法を知ることは重要である。

 メディアは、私たちに現場からの情報を伝達し、現実についての私たちの意識を覚醒させることもできるはずである。ところが、現実のメディアは、何らかの仕方で偏向している情報を大量に報道・拡散し続けることで、私たちの眼を現実から背けさせ、私たちの思考を知らぬ間に偏向させ、ついにはそれ以外の仕方では考えられなくするという洗脳効果さえ持ちうる。
 メディア・リテラシーとは、単にメディアから正しく情報を読み取る能力でもなく、膨大なデータの中から自分にとって有利な情報を引き出す能力に尽きるものでもなく、視覚性と物質性に対して常に注意深く、せめて「半分だけでも目覚め続け」、情報の洪水に呑み込まれずに生き残るために身につけなくてはならない、現代社会に生きる者にとって必須の能力なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代世界のトランスナショナリズムを古代日本の交易史から見直す

2021-10-25 04:11:41 | 読游摘録

 「トランスナショナリズム」という言葉をジャパンナレッジで調べてみたら、ちょっと驚いたのだが、見出しとしてヒットしたのは『世界大百科事典』のたった一件だけだった。幸い、その説明はかなり詳しく、それを読めば、およそどのような概念なのか解る。その最初の段落を引用する。

1960年代末ごろからJ.S.ナイやE.L.モースらによって提唱された概念で,国際社会を考えるに当たって従来の国家単位ではとらえきれなくなったために,トランスナショナルな関係 transnational relations(〈脱国家関係〉,〈民際的関係〉と訳されることもある)やトランスナショナルな組織 transnational organization の重要性の増大が指摘された。トランスナショナルな関係とは,ある国の民間の個人・団体と他国の民間の個人・団体あるいは政府との間で形成される関係のことで,その典型は,私企業間で行われる貿易や私人間の国境を越えた通信などに求めることができる。また,ある国の民間の個人・団体が他国の個人・団体とともにつくった組織をトランスナショナルな組織と呼ぶ。これらは,いずれも一国の枠をこえた関係・組織であるが,ある国の政府と他国の政府との間で形成される政府間関係 intergovernmental relations(外交関係はその典型)や複数国の政府によって構成される政府間組織 intergovernmental organization(国連をはじめとするいわゆる〈国際機関〉はこれに当たる)とは区別されている。また,一国の枠をこえた組織であるが,トランスナショナルな組織とも政府間組織とも異なる組織として,超国家組織 supranational organization という概念がある。これは,個々の国家よりも上位の権威をもつ組織のことである。現存する組織の中でこれに最も近いものとしてはEC(ヨーロッパ共同体)などの国際統合組織を挙げることができるが,もし将来世界連邦が建設されたとしたら,これは,典型的な超国家組織となる。

 この説明の中に出てくる英単語の中に三つの異なった接頭辞 trans-, inter-, supra- が使われている。この三者の意味の差異が transnationalisme という概念の特徴をよく理解させてくれる。「~を通じて」「~を越えて」が trans- という接頭辞が意味するところであるのに対して、inter- は「~の間」、supra- は「~を超えた」ということを意味する。つまり、国境を越えた当事者間の横断的・越境的・相互的流動性という性格がこの概念を inter- や supra- を接頭辞とする諸概念から区別している。
 トランスナショナル化あるいはトランスナショナル現象が現代世界を特徴づけていることは確かであり、国家と国境とを前提とした近代的世界像の枠組みの中にとどまるかぎり、現代世界の諸問題を捉えきれず、したがって、それらの問題への有効な解決策を見出すことができないことは、昨年来のコロナ禍によってだけでも誰の眼にも明らかとなった。
 そのような状況の中にあって、国家成立以前の古代史へと立ち返り、そこから歴史を見直すことが、より柔軟で懐の深い視角の中で問題を見直すためのヒントを与えてくれるように思う。そんなことを田中史生の『国際交易の古代列島』(角川選書 2016年)を読みながら考えた。同書のプロローグから引用する。

 現代は、人も財も国や地域の枠組みを超え、地球規模で行き来する時代。いわゆるグローバル化の時代である。情報技術の革新が、この流れを加速度的に進行させている。
 しかし、市場経済とITが牽引する今のこの大きなうねりには、戸惑いを覚える人も少なくないだろう。グローバル化の進展は、法やシステム、考え方や文化までも地球規模で流通させ、国境を超えた社会の「均質化」をすすめながら、その一方で、新たな支配秩序や中心―周縁関係をつくり出し、「格差社会」という一面も押し広げている。グローバル化に続けという威勢のよい掛け声とは裏腹に、反グローバリズムの動きが広がり、東アジアではナショナリズムが不気味に共鳴しあう。そんなに明確なイズムを掲げなくとも、昔のように国家の壁を高くして、壁の内側で一息つきたいと思う人はおそらく増えている。
 けれども歴史的にみるならば、財の交換を目的に結ばれた越境的な社会関係が、それまでの社会の枠組みや政治体制を大きく揺るがすといったようなことは、古代からはじまっていた。私たちが「現代社会の課題」と悩むグローバル化やボーダレス化には、古代にまでさかのぼる人間社会共通の問題が含まれているのである。
 本書は、日本列島に国家が誕生する古代において、財を獲得するための交易関係がどのように列島を越えて結ばれ、それが引き起こす社会不安や課題に古代人がどう向き合い、乗り越えていったのかを、通史的にみてみようという試みである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


金曜日から始まるワークショップの会場の知らせがまだ来ない

2021-10-24 17:53:01 | 雑感

 今週の金土日の三日間にわたって、法政大学国際日本学研究センター、日文研国際日本研究コンソーシアム、アルザス欧州日本研究センターの三者の共催で開催される若手日本研究者のワークショップは、今回が四年連続四回目で、私は毎回オブザーバーとして参加している。
 今年のテーマ「日本研究とトランスナショナリズム」である。いろいろな分野・時代について様々なアプローチが可能であり、その核になる概念がはっきりしていて、いいテーマだと思う。実際、九つの発表はそれぞれ異なった分野と時代を対象としていて、そのタイトルを見るかぎりそれぞれになかなかに興味深そうである。ただ、今のところ私のところに送られてきているのは、発表のタイトルとポスターとタイムスケジュールだけで、要旨が送られてきていないので発表の中身はわからない。
 それに、今週の金曜日から始まるというのに、いまだにコルマールのどこが会場なのか連絡がない。ストラスブールとコルマールは電車で三〇分、駅から徒歩で行ける範囲に会場はあると聞いているし、私は単なるオブザーバーで、ワークショップの運営には関わっていないから気楽なものだが、準備がちゃんとできているのか、ちょっと心配である。
 日本からもアメリカからも遠隔参加なのだから、ヨーロッパ在住の発表者とオブザーバーだけ現地参加という中途半端なことはやめて、昨年同様、全部遠隔にすればよかったのにと私は思っている。そうすれば、会場確保やロジスティクスの負担も減って、裏方の苦労もそれだけ軽減できたのにと、その大変さを仄聞しているだけに同情を禁じ得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小さな痛みが教えてくれること

2021-10-23 23:59:59 | 雑感

 大病はできればしたくないし、いつも痛みに苦しめられるのも御免被りたいが、今回の右足裏の鶏眼のように小さな痛みは、それ自体はやはり歓迎しかねるが、あまり深刻にならずに、なぜそうなったのか振り返って考える機会を与えてくれ、体の調子により敏感になり、注意深くしてくれる。
 素足で板の間を歩くだけで痛みが走った水曜日は、これじゃとても走れたものではないと、日課のジョギングは諦めたが、森の中を歩きながら、足裏の重心移動に注意を集中し、歩き方によって痛みがどう変化するか観察した。その結果、つま先に力が入っていると足首が固くなり、痛みが強く、逆に踵からしっかり着地し、足首を柔らかく保ち、滑らに重心をつま先に移動させると最も痛みが小さくなることがわかった。
 翌日木曜日もやはり走らず、大学の行き帰りの往復九キロを歩きながら、歩き方による痛みの増減を確認した。それに、その日の記事に書いたように、絆創膏で鶏眼の芯の周りに「土手」を作って、芯が靴のインソールに触れないようにもしたことで、ほぼ痛みなしで速歩できることがわかった。
 昨日金曜日は、絆創膏の代わりに、急遽購入したスポーツ用のテーピングでやはり鶏眼の芯のすぐ上、つまり趾よりに三重にテーピングして「土手」を作り、早朝に走った。歩くときよりも足への負荷は当然大きくなるので、まったく芯がインソールに触れないようにすることはできず、痛みとまではいかないが、芯とインソールが触れるのがわかり、その感触はけっして気持ちのよいものではなかった。
 違和感の増減に注意しながら走り方を微妙に変えてみると、歩くとき以上に足裏の重心移動の仕方が大事なことがわかった。ランニングシューズの踵の反発力を最大限に使い、足首をできるだけ柔軟に保ち、膝から下を振り子のように前方に振り出すと、ほぼ違和感なく走れた。
 以上から導き出せる結論は、走っているときに踵からつま先への体重移動が充分に滑らかではなく、つま先側の足裏の中央部に過度の負荷がかかっていたためにそこに鶏眼ができてしまったのだろうということである。鶏眼はその過度の負荷のいわば注意信号だったわけである。
 正しい走り方を最初から身につけていれば避けられたことではある。痛みそれ自体は喜ばしいことだとはやはり思えない。しかし、痛みの「声」に耳を傾けることで、自分の体の機能と状態をよりよく知ることができ、それに応じて体の使い方をコントロールできるように体ができていることに、今回の痛みを通じて改めて気づかされ、その精妙さに驚くとともに、それを恵まれていることに自ずと感謝の念が湧いてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夜明け前、月の光に照らされながら走る。明日から万聖節の休暇、嬉しい。

2021-10-22 23:59:59 | 雑感

 一昨日の記事で書いたことに反して、今日、ジョギングした。五時三十九分から六時四十九分までの一時間十分で11,3キロ走った。昨日の鶏眼対処法が有効であることがわかったので、昨日以上にテーピングを厚くして、鶏眼の芯をその中に埋没させるようにしたら、ほぼ問題なく走れた。日の出は八時なので夜明け前のジョギングであった。ただ、よく晴れており、街灯がない通りも、満月に近い月の光に照らされて、難なく走れた。
 今日の授業はすべて中間試験だったから、試験監督するだけ。十四時半から一時間、来年度日本への留学を希望する学部生たちへのガイダンス。これで前期前半の仕事はすべて終了。
 明日から一週間の万聖節(La Toussaint)の休暇に入る。より正確には、十一月一日が「万聖節の月曜日」で国民の祝日だから、明日土曜日二十三日から実質九日間の休みだ。毎年、新学年開始からこの休みまでの前期前半の二ヶ月間が最も忙しい。この休みでやっと一息つける。それがとても嬉しい。
 もっとも、来週の金土日と若手日本研究者たちのワークショップにオブザーバーとして参加しなくてはならないから、完全に休みというわけではない。ただ、初日のみコルマールの会場に現地参加するが、残り二日は自宅からのZOOM参加なので、さほどの負担ではない。それに、ヨーロッパ・アメリカ・日本を結んで行われるので、時差の問題もあり、十一時から十七時までと拘束時間も比較的短い。
 中間試験答案計約百枚の採点も休暇中の仕事ではあるが、それ以外の時間は、十一月二十五・二十六日のパリ・ナンテール大学での日本哲学についてのシンポジウムの発表原稿の準備に充てる。