万葉集第二期になると、「花」という語の使用例五例は、すべて人麻呂歌あるいは人麻呂歌集所出歌という特異な現象を呈する。
これら五例のうち、巻第一・三八「花かざし持ち」、巻第ニ・一六七「春花の 貴からむと」、同巻・一九六「春へには 花折りかざし」の三例では、「花」はすべて対句中に用いられており、具体的にある特定の花を指すのではなく、明らかに「観念的使用例」である(川口書16頁)。
持統女帝が吉野離宮へ行幸した際に人麻呂によって詠まれた巻第一・三六の「花」については、実景か観念かで注釈者によって意見が分かれている。まずは歌そのものを読んでみよう。
やすみしし 我が大君 きこしめす天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも
ここでの「花」が、実景の桜のことを指すのか、あるいは枕詞化して具象性を失っているのか、両者の立場をそれぞれ取り上げて比較考量する煩瑣はここでは避けて、人麻呂に諸物の観念的使用が多数見られることから後者を妥当とする川口論文の所説にそのまま従う。
もう少し詳密にいうならば、実景が具象を失って観念(抽象)へと昇華する寸前の地点に、この「花」は存在しているのである。(16頁)
川口論文は、「具象より抽象へ、その切点を切りひらいたところに人麿文学の大きな意味がある」とし、そこに大陸からの「感性の輸入」によって観念の世界を獲得した額田王との違いを見ている。
人麻呂の歌人としてのこの独自性は、しかし、独創的かつ卓越した資質と才能とだけでは十分に説得的に説明することができない。下級官僚であった人麻呂の土着的感性と大陸文芸との混淆に人麻呂の歌人としての特質を見たとしても、まだこの吉野讃歌の観念性の説明としては不十分である。人麻呂歌におけるこの「観念性」は、人麻呂が仕えた持統女帝の王権の特異性と結びつけて考える必要がある。
持統女帝は、在位十一年の間に三十一回吉野離宮に行幸している。この度外れとも言える頻度は何を意味しているのだろうか。伊藤博『釋注』の所説を引く。
この行幸の目的は、単に遊覧を楽しむ点にあったのではなく、聖地の霊力を付着させて王権の充実を期するところにあったと思われる。夫天武や子の草壁とともにこもり、そして旗上げして政権を勝ちとった吉野、六皇子の厳粛な盟約を受けた吉野、この吉野は、大和朝廷代々の聖地である前に、持統にとって夫天武に始まる新明日香王朝の峻厳な原点なのであった。女帝がいくたびも吉野に赴いたことには、回帰の意味がこもっていた。回帰することで新たな権威を培い、宮廷人の心服と結束をはかろうとしたのであろう。それだけ、持統は過去の力にすがったということであり、過去の力にすがらねばならぬだけ、女帝の心中には表情に出しがたい不安が去来していたということであろう。不安を払うために回数はしきり、行幸は神がかりを深めるという循環があったと考えられる。
そして、人麻呂の吉野讃歌は、こういう事情に対応して生まれたと『釋注』は考える。