内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人麻呂歌における「花」の観念性はどこから来るのか

2018-10-31 18:13:15 | 読游摘録

 万葉集第二期になると、「花」という語の使用例五例は、すべて人麻呂歌あるいは人麻呂歌集所出歌という特異な現象を呈する。
 これら五例のうち、巻第一・三八「花かざし持ち」、巻第ニ・一六七「春花の 貴からむと」、同巻・一九六「春へには 花折りかざし」の三例では、「花」はすべて対句中に用いられており、具体的にある特定の花を指すのではなく、明らかに「観念的使用例」である(川口書16頁)。
 持統女帝が吉野離宮へ行幸した際に人麻呂によって詠まれた巻第一・三六の「花」については、実景か観念かで注釈者によって意見が分かれている。まずは歌そのものを読んでみよう。

やすみしし 我が大君 きこしめす天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも

 ここでの「花」が、実景の桜のことを指すのか、あるいは枕詞化して具象性を失っているのか、両者の立場をそれぞれ取り上げて比較考量する煩瑣はここでは避けて、人麻呂に諸物の観念的使用が多数見られることから後者を妥当とする川口論文の所説にそのまま従う。

もう少し詳密にいうならば、実景が具象を失って観念(抽象)へと昇華する寸前の地点に、この「花」は存在しているのである。(16頁)

 川口論文は、「具象より抽象へ、その切点を切りひらいたところに人麿文学の大きな意味がある」とし、そこに大陸からの「感性の輸入」によって観念の世界を獲得した額田王との違いを見ている。
 人麻呂の歌人としてのこの独自性は、しかし、独創的かつ卓越した資質と才能とだけでは十分に説得的に説明することができない。下級官僚であった人麻呂の土着的感性と大陸文芸との混淆に人麻呂の歌人としての特質を見たとしても、まだこの吉野讃歌の観念性の説明としては不十分である。人麻呂歌におけるこの「観念性」は、人麻呂が仕えた持統女帝の王権の特異性と結びつけて考える必要がある。
 持統女帝は、在位十一年の間に三十一回吉野離宮に行幸している。この度外れとも言える頻度は何を意味しているのだろうか。伊藤博『釋注』の所説を引く。

この行幸の目的は、単に遊覧を楽しむ点にあったのではなく、聖地の霊力を付着させて王権の充実を期するところにあったと思われる。夫天武や子の草壁とともにこもり、そして旗上げして政権を勝ちとった吉野、六皇子の厳粛な盟約を受けた吉野、この吉野は、大和朝廷代々の聖地である前に、持統にとって夫天武に始まる新明日香王朝の峻厳な原点なのであった。女帝がいくたびも吉野に赴いたことには、回帰の意味がこもっていた。回帰することで新たな権威を培い、宮廷人の心服と結束をはかろうとしたのであろう。それだけ、持統は過去の力にすがったということであり、過去の力にすがらねばならぬだけ、女帝の心中には表情に出しがたい不安が去来していたということであろう。不安を払うために回数はしきり、行幸は神がかりを深めるという循環があったと考えられる。

 そして、人麻呂の吉野讃歌は、こういう事情に対応して生まれたと『釋注』は考える。













王権的立場を詠作する「御言持ち歌人」による大陸的詩的感性の導入

2018-10-30 15:14:25 | 読游摘録

 巻第一・一六の額田王歌をもう一度読んでみよう。

冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは

 この歌でまず注目されるのは、「冬」「春」「秋」「鳥」「花」「山」「草」「木の葉」、これらすべての語が、何かある特定の時間・場所や自然の具体的景物・色彩を指しているのではなく、一般的な対象を提示していることである。つまり、これらの要素は、具体的叙景の構成要素としてではなく、それら要素間の一般的・抽象的関係において相互に規定されている。
 この点に関しての川口常孝の所説に耳を傾けてみよう。

一首全体が、春花秋葉の争いの帰結という形で、ある思想の提示を行っているのである。このことは、事物の推移の一般的な観点からすれば、終末に来るべき到達点(抽象化=思想の成立)が当初に出現してしまったということである。[中略]この国を歩かずして到達された異国産のそれ、額田王の到達点は、まさにそのような到達点であったのである。春秋の争いを三韓、中国系統の説話とする見方は、早く先学によって示されており、大陸文化の移入政策をとった近江朝廷の文苑では、「春山の万花の艶と秋山の千葉の彩とを競憐」う底の行事や心事は、日常普通の出来事であったはずである。このように王作が大陸文化を継承しての詠作であってみれば、その「花」は、大陸思想の好尚に洗われた花であればよく、なんら具体的な花であることを要しない。感性もまた輸入されるものである。王作の基盤にあるものは、彼女自身の感性の論理である以上に大陸詩の感性の論理であったのである。(『万葉歌人の美学と構造』13頁)

 この川口説に全面的に与するかどうかは今しばらく措くとして、この説が注目すべき論点をいくつか含んでいることは確かだ。
 まず、記紀歌謡からは順接的に導出され難い、それらとは異質な詩的感性がこの歌によって表現されているのはなぜかという問いに対する一つの答えがここに示されていることである。それを額田王個人の詩的資質に帰すのではなく、額田王歌が当時の朝廷の大陸志向の文化的嗜好を反映しているという読み方は、額田王が天皇の意を体しその立場で歌を詠む人(伊藤博は、そのような役割を負う歌人を「御言持ち歌人」と称している)であることとも整合性がある。
 つぎに、万葉集の第一期・第二期では、宮廷歌人たちは、そのそれぞれの個人的感性の表出ではなく、天皇の王権的立場・価値意識を反映する詠作を宴席で求められたということである。春秋の優劣論に一方的に決着をつけることを巧みに避けながら、最後に、自分の好みであるかのようにして、しかしおそらくは天智天皇の好みを察して、それをさらっと示して、一座をあっと言わせて、「春側も秋側も恨みっこなしの和気と哄笑が座をおおったことであろう」(『釋注』)と想像させるような雰囲気を醸成したところでこの文藝サロン的遊宴がお開きになったとすれば、額田王はこの一首によって「御言持ち歌人」としての職責を見事に果たしていると言えるだろう。
 そして、もう一点は、額田王のこの歌から〈花〉についての日本文藝史に固有な規定を引き出すことには慎重でなければならないということである。なぜなら、額田王歌の「花」は、具体的な個々の花々に即した情感とそれに基づいた或いは呼応する作歌というプロセスを経て、そこからいわば徐々に蒸留されるような仕方で抽出された〈花〉ではないからである。
 以上の論点を押さえた上で、川口論文は、先の引用箇所の少し先で、「万葉集における“花の流れ”を考えるうえでは、額田王作を異質の移入として位置づけること」を主張している。













春山万花の艶と秋山黄葉の彩との美の競いに巧みな決着をつける額田王歌

2018-10-29 17:19:17 | 読游摘録

 『万葉歌人の美学と構造』の巻頭を飾る「“花”の流れ」という美しい題が付けられた川口常孝の論文は、「一 記紀歌謡から万葉へ」と「ニ 家持と世阿弥」の二章からなっている。前者は、昭和四十五(1970)年五月の古代文学会例会口頭発表がその基になっており、後者は、歌人でもあった川口が編集同人であった『まひる野』に同年九月に発表された原稿の再録である。後者には後日立ち戻るとして、今日から何回か、前者に即して、万葉集における〈花〉の意味論的推移を見ていこう。
 同論文で問題にされる「花」について、川口は同論文の冒頭で詳細に規定しているが、その細部を省いて一言で要点を言えば、個々の花でもなく、諸種の花でもなく、花の種々相でもなく、それらをその共通の本質において捉える一般概念としての〈花〉がここでの問題である。
 〈花〉の意味論的推移を万葉集の通常の四期分類にしたがって順に見ていくとき、第一期で特に注目される歌は、巻第一・一六の額田王の名歌である。まずその題詞を読んでみよう。

天皇、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)ひ憐(あは)れびしえたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌(読み下し文は、伊藤博『萬葉集釋注』のそれに従った)

 天智天皇が、春山の万花のあでやかさと秋山の千葉のいろどりと、どちらに深い趣があるかを、鎌足を通じて廷臣たちに問うた。廷臣たちは、漢詩をもって争った。しかし、なかなか決着を見ない。そこで、最後に、額田王が倭歌によって判定を下した。題詞は、そういう歌の場を想像させる。こう『釋注』は推定する。そして、「大陸的な文雅のにおいの充ちた、天智朝遊楽の一日であった」と、その日の雰囲気を想像する。小川晴彦も、「天皇は漢詩で優劣を競わせたようです。春と秋の優劣を争わせるという中国の文雅を天智天皇は廷臣たちと楽しんだのです」(『万葉集 隠された歴史のメッセージ』)と似たような推定をしている。川口論文も、大陸文化の移入政策をとった近江朝廷文苑では、この種の行事や心事は、「日常の出来事であったはずである」と、伊藤・小川のそれと近い立場を取っている(13頁)。
 ところが、岩波文庫の新版『万葉集(一)』の注釈では、春と秋とを比較して優劣を競うことは、後の和歌には見られるが、「中国の詩文には類例が見られない」と、まったく反対の断定を下している。さらに、「額田王の歌の前に男性官人の漢詩の応酬があったことを想像する説があるが、中国の詩文に例のないそのような趣向が、当時の日本人の詩に詠まれた可能性は小さい」と、上掲の伊藤・小川の推測に対して懐疑的である。
 しかし、ここでは、このような春秋優劣論の起源が中国にあるかどうかという問題は措く。ただ、題詞に関して一言だけ注しておけば、優劣が問われているのは、春山の万花の艶と秋山の黄葉の彩であって、〈春〉と〈秋〉そのものではない。両者の美の優劣が問われている。
 さて、歌そのものを読もう。

冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは

 額田王は、春秋の美しさの優劣を論断するのではなく、その美への接近可能性において、「秋山そ我は」と、秋山に軍配を上げている。論点を巧みにずらし、さらに秋山の難点も一言添えた上で(岩波文庫新版『万葉集』はこの解釈を取らないが)、そして突如、「でも、私は、秋山です」と判定を下している。『釋注』が想像するように、この歌は、この結句を聴いた「一座の喝采をあびたにちがいない」。
 額田王歌の詠まれた場面についての前置き的注解だけで、一日の記事としてはすでに長くなりすぎてしまったので、同歌に即して〈花〉について重要な論点を提示している川口説の紹介は、明日以降の記事に譲る。












生命の顕現の思想 ― 日本文芸史が描いた最初の花のイメージ

2018-10-28 19:44:33 | 読游摘録

 『日本書紀』大化五年三月の条によると、父蘇我倉山田石川麻呂が讒言によって山田寺で自害に追い込まれた後、その娘で中大兄皇子妃であった造媛は、傷心の果に亡くなった。その死を甚だしく嘆き悲しむ中大兄皇子の姿を見て、家臣の野中の川原の史滿が歌二首を献じた。その第二首目が次の一首である。

本毎に 花は咲けども 何とかも 愛し妹が また咲き出来ぬ(紀114)

 「株ごとに 花は咲いているのに どうして愛しい媛だけ 咲き出てこないのだろう」(遠山美都男『天智と持統』講談社新書の訳をお借りした)という意のこの一首は、記紀歌謡の中で「花」という言葉が用いられている歌七首のうちの一首である。この一首について、川口常孝は、『万葉歌人の美学と構造』(桜楓社、1973年)の中で、次のように注解している。

「花」は「愛し妹」の相対語として用いられている。そして、「花」は、「咲く」ものとして、また、再び「咲く」ことを期待されるものとして、一首のなかの位置づけを得ているのであって、散るものとしてこれをいとおしむ感情は、まだここには生まれていない。したがって、この歌は、部立としてば挽歌であるにかかわらず、「花」は「あはれ」だとか「無常」だとかいった思想の拘束からはいまだ自由である。(10頁)

 そして、その他の記紀歌謡の「花」の用例とも合わせて、「それぞれの歌は、花が馥郁として華麗であることによって、主題の構成要素となりえている」と指摘する(同頁)。

 このように「華麗」、またときには「淡白清浄」であることが花の本来なのであって、老い、また散るべき人間の運命に対して、散っても散っても咲き出るものという、いわば生命の顕現の思想こそ、日本文芸史が描いた最初の花のイメージであったのである。(11頁)

 ところが、この花の内容は、万葉集の時代になると少し趣が変わってくる。その変化を明日の記事から何回か、川口書に依拠しながら見ていこう。












万聖節休暇初日、日本学科長としてあるまじき老いの繰り言

2018-10-27 12:35:08 | 雑感

 仮にも日本学科の長たるものとしてあるまじき発言だというお叱りを受けるであろうことを承知の上で敢えて申し上げたいのですが、大学で日本語および日本文化についていくばくかの知識を身につけたところで、その後の学生たちの職業的人生にとって、それはほとんど何の役にも立ちません。
 そのような教養的知識は、信頼できる参考文献を読めば独学で得られることで、わざわざ大学で三年もかけて学ぶには及ばないことがほとんどです。今は、インターネットを上手に使えば、さほどお金をかけずに、かなりのレベルまで独学で到達できます。そこから導かれる当然の帰結の一つは、もっとその後の人生に「役立つ」実学を大学では学ぶべきであろう、ということです。
 幸いにも自分がそこで食い扶持を得ている職場について、そこでそれこそ献身的に日本語教育に携わってくださっている先生方が現にいらっしゃることを知りつつ、このような言辞を弄することは、自虐的であるだけでなく、偽善的・侮辱的・不誠実だとの誹りを免れがたいことは自覚した上でこう申し上げています。私なりに切実な気持ちがこう言わせているのです。
 プロとして仕事をする上で絶対に必要とされている最低限の知識が明確に規定されている分野に関しては、こういう問題は発生しません。まだ無知な学生たちがなんと言おうと、「つべこべ言わずに、これだけは絶対に身につけろ!」と、教える側も自信をもって強制できます。それはまさに学生たち自身の将来のためだと断言できます。
 ところが、日本学科は、その高い人気(ストラスブール大学で教えられている25の言語のうち、履修者数が英語に次いで第二位)にもかかわらず、「そんなところに行って、その後、おまえどうするつもりなんだ!」って、親たちから反対される学科の代表格なのです。
 確かに、親御さんたちのお考えは、将来の職業生活を第一に考えて進路を選択するという現実的な判断基準からすると、実にもっともなのです。準備時間が与えられれば少しまとまった話が日本語ででき、一般書レベルの日本語の文章数頁を辞書を片手にニ・三時間かければ理解・翻訳でき、千くらいの漢字が書け、一応理解可能だが変な日本語の文章を綴ることができ、平均的な日本人学生よりは日本文化について若干ましな知識を身につけたとして、それが就職に有利に働くことはまずありません。
 親の反対を押し切って、あるいはやっとのことで説き伏せて、日本学科に登録しましたって、目を輝かせて言いに来てくれる学生たちを前に、申し訳なさで俯いてしまったことが私には一再ならずあります。実際、かなり優秀な成績で卒業しても、学部卒だけで就職はまずありません。まあこれは、フランスの場合、日本学科に限った話ではないのですけれど。
 日本学科に来たいという志願者たちを前に私はいつも思うのです、「その気持はとてもありがたい。ほんとうにありがとう。でもね、君たちのこれからの長い人生を考えたら、多くの場合、日本学科には来るべきではないのだよ。日本のこと日本語のことが好きでいたいのなら、むしろ来ないほうがいいくらいなのだよ」と。でも、私の気持ちは伝わらず、彼らは来てしまいます。
 彼らの気持ちがわからないわけではありません。というのも、フランスでは、高校までに日本語を第二あるいは第三外国語として学ぶ機会が非常に限られているのです。日本学科に来る学生たちの多くは、子供の頃に読んだ漫画や観たアニメから日本語と日本文化に憧れるようになり、その「純粋な」気持ちが、高校修了時まで日本語学習の現実の厳しさに晒されることなく保存されるか、その間にさらに強まってしまい、そして、やっと大学で晴れて日本語が学べる! と、喜び勇んで日本学科にやって来るのです。
 そして、そのような学生たちの多くは、遅かれ早かれ、期待はずれと見込み違いで失望し、やる気を失ってしまいます。一年から二年に進級できるのは30%程度、二年から三年に進級できるのが六割程度、三年間で卒業できる学生は、一年時入学者全体の一割前後に過ぎません。それに、無事に卒業できても、就活でえらく苦労することになるのです(ちなみに、フランスの大学には、日本の大学のそれに比べられるような就活支援システムはありません。卒業時に就職が決まっている学生は、いわゆる文系に関するかぎり、ほぼ皆無です)。
 こちらが頭を下げて来てもらったわけでもないし、無理やり引きずり込んだわけでもないし、ましてや騙したりなどしていないのに、彼らは来てしまう。そして、彼らは失望するわけですから、少なくとも半分は来た君たち自身のいわゆる「自己責任」だろって開き直ることもできます。しかし、そんなことをしても、誰のためにもなりません(ちなみに、2000年代前半小泉政権下で急速に普及するようになったこの「自己責任」という言葉を私は蛇蝎のごとく嫌っています)。
 卒業後一・二年間就活に苦労したって、大学で学びたいことを学んだということがその後の長い人生の支えにならないともかぎりません。そのような苦労は承知の上で、それでも日本語・日本文化を自分は学びたいのだという真面目で熱心な学生たちには、もちろんできるだけのことはしてあげたいといつも思っています。
 ただ、卒業時の彼らの日本語の平均的なレベル、労働市場の現実の厳しさを思うと、日本学科の「人気」を素直に喜ぶ気にはどうしてもなれないのです。














結びつきそうにないもの同士を結びつける論理 ― 自己救済のテクニックとしての想像力の論理

2018-10-26 20:57:19 | 講義の余白から

 ちょっと唐突なのですが、私が学生たちに伝えたいと願っていることは、ただ一つです。それは、自己救済のテクニックとしての想像力の論理です。残念なことに、現実には、ひとえに私の無力ゆえに、ほとんどそれは伝わっていまんせんが。
 にっちもさっちも行かない状況に陥るということは誰にでもありえます。そんな状況に置かれたときに、ああ、これって少しは役に立つかもって、学生たちに思ってもらえるような方法を彼らに伝えることができたらなあって、いつも思っています。
 ここ数日の記事で話題にしてきた私の授業の「奇矯な」課題は、鬼面人を驚かすためでも、奇を衒うためでも、「受け」狙いでもありません。ちょっと大げさな言い方が許されるならば、困難な現実から自らを救済するための方法としての論理的思考の習得こそがそのほんとうの狙いです。
 私はそれが想像力の論理だと思っています。空想や夢想とは違って、現実の所与に足場を置き、現実にはばらばらに与えられている諸要素を結びつけ、そこから状況に対して垂直上方へと飛躍する想像力の論理を、日本の歴史と文学の中の具体的な事例を通じて、なんとか彼らに伝えることができればなあと思っています。将来、どんな職業につこうが、どんな立場に立とうが、必ず役に立つであろう思考方法を、日本の文学と歴史を通じて、彼らに伝えたい、そう願っています。












課題「『平家物語』を生きよ」

2018-10-25 19:09:02 | 講義の余白から

 今日の午前中、古典文学の筆記試験を行いました。ただ、筆記試験といっても、その設問はかなり特殊だったので、三週間前に授業でどんなことを行い、二週間前に学生たちにどんな課題を与えたのかをまず説明する必要があります。
 三週間前の授業で、『平家物語』の「敦盛最期」を取り上げました。まず、およそのストーリーを説明した後、原文を一切省略なしに「音吐朗々と」と私が読み上げ、学生たちにはスクリーン上の原文・仏訳対訳を目で追わせました。教室内の雰囲気で、皆相当にグッと来ているのがわかりました。まあ、この箇所を読んで何も感じないほうが難しいでしょうけれど。
 そして、二週間前に学生たちに与えた課題は、およそ次のようなものでした。

 今回の課題は『平家物語』をその対象とする。
 次の二つのタイプの課題から自分の判断でいずれか一つを選びなさい。
第一タイプは、「アカデミック」あるいは「クラッシク」なアプローチ。第二タイプは、文藝的あるいはアーティスティックなアプローチ。
 第一タイプは、『平家物語』における無常観について、同作品からある章節を一つ選び、そこでの登場人物の行動と心性の分析を通じて、仏教的な要素とそうではない要素とを選り分け、『平家物語』固有の無常観について論じなさい、という課題。
 第二タイプは、『平家物語』からある一章節を自分で選び、それにインスパイアされた舞台演劇あるいは映画のシナリオ、あるいは歴史小説の一節、或いは青少年向けの漫画を創作しなさい、という課題。

 これらの課題を教室で発表したとき、教室内はかなりざわつきました。オーソドックスな第一タイプは、そのアカデミックな課題としての難しさはともかく、まあその手の課題として「型通り」ですから、その意味では驚くにあたらないわけですが、第二タイプは、一見「ありえない」課題ですから、当然、学生たちは「うそでしょ」と顔を見合わせておりました。
 しかし、提出まで二週間というのは、どちらのタイプを選択するにしても、期限としては試験期間中の彼らには厳しい。それは私もわかっていたので、今日、小論文あるいは作品を提出できなければ、万聖節の休暇後の最初の授業11月8日まで待ってもいい、と譲歩しました。そのかわり、今日の試験では、自分がどちらのタイプを選び、どの章節を選んだか、その理由を説明しなさい、という課題を出したのです。
 今、答案を一通り読み終えたところなのですが、ちょっと感心してしまっています。みんなどちらのタイプにするか真剣に考えてくれたんですね。その上で、結果としては、26名の受験者中、16名が第一タイプを選択、残り10名のうち8名が第二タイプを選択、2名が未だに決めかねていて、それはそれでその理由を詳しく書いてくれました。
 つまり、課題の選択を前にして、自分はどちらを選ぶべきなのか、そしてその選択の理由は何なのか、みなそれぞれに自分が考えたことを書いてくれているのです。正直に言うと、そんなに期待していなかったのです。大方、テキトーに楽な方を選んでおいて、後づけでもっともらしい理由をつけてくるんだろうなと予想していたのです。でも、そのネガティヴな予想は、嬉しいことに、見事に裏切られました。
 特に印象に残った答案は、選択授業で「仏教史」を取っていて、そこで学んだこととリンクさせて、日本固有の無常観を考えたいから第一タイプを選んだという答案、日本学科に来る前に芸術系の学部にいてグラフィックをやっていたから最初は漫画の選択に傾いたけれど、やる以上は自分に恥ずかしくない作品にしたいがそれができるかどうか自信がもてないからまだ迷っていると正直に綴っている答案、第二タイプのほうが「楽しい」に決まっているけれど、大学で何を学ぶべきかを考えれば第一タイプ以外ありえないでしょ、と、ちょっととんがった調子の答案(先日、「結びとベルクソン」というテーマでクリーンヒットをはなった学生です)、無常観は日本の歴史の中の過去の問題ではなく、現在の私たちの問題でもある、だからこそ第一タイプを選んだという答案、普段から創作の真似事はしているし、登場人物の身になって考えてみるには第二タイプの方が適していると思うから、試みてみたのだが、どうにもその人物に入りきれない、だからまだ決めきれていないと申し訳ながっている(そんな必要ないよ)答案などなど。
 今日、答案と同時に課題を提出してくれたのは5名。4名が第一タイプ。1名が第ニタイプ(絵の具で彩色した漫画に表紙も付けた和綴本、タイトルは『秋の皇帝』)。全部一通り読みましたが、いずれも二週間でよくここまでやってくれたと喝采を送りたいほどの出来です。
 二週間後、他の学生たちがどんな「作品」を提出してくれるか、今から楽しみです。













無名の民衆によって生きられた歴史をいかに「一人称」で語るか

2018-10-24 00:00:00 | 講義の余白から

 今回の中間試験問題は、要約すると以下のような問題である。
 鎌倉あるいは室町のいずれかの時代を選び、非農業民の中から一つ特定の職業あるいは社会的身分を選択し、その視点に立って、当時の社会の変化を如実に示すある一つの歴史的出来事に即して、特に東国と西国との違いについて、一人称の〈語り〉として叙述せよ。
 実際の課題には、もっと詳細な条件設定がA4一枚いっぱいに与えられている。職業・身分だけでも、例として、職人(このカテゴリーからさらに一つの職種を選べ)・商人(左に同じ)・芸能者(左に同じ)・陰陽師・仏師・絵師・能書・山伏・比丘尼・遊女・白拍子・傀儡子などを挙げ、それら以外でも構わないとしてある。他方、与えられた諸条件が遵守されていなければ、その数に応じて当然減点の対象になる。課題についての事前の質問はもちろん受け付ける。
 先日、こうした試験形式を最も得意とする二人の女子学生からメールで質問が来た。
 一つは、「婆娑羅大名の佐々木道誉について書きたいが、課題条件から逸脱することになるか」という質問。私の回答は、「視点を佐々木道誉自身にしてはもちろん条件違反である。しかし、道誉をめぐる歴史的事実を民衆の視点から描くことは条件違反にはならない」。もう一つは、「課題条件の一つに、『語り手は京・鎌倉間の徒歩旅行の途上』とあるが、行商人ならば、商品を運搬するための荷車を使っていたこともあるだろう。当時の京・鎌倉間の東海道はそれが可能なほど整備されていたはずだから、それを加えてもよいか」という質問。私の回答は、「いい質問だ。もちろんそれを加えることは構わない」。
 この二つ目の質問をしてきた学生は、与えられた条件から当時の様子をより具体的に想像しようとしていることがわかる。その具体的な記述のためには当時の道路事情について調べる必要がある。そして、そこから東国と西国とのインフラ整備の差異についても言及可能になる。だから、これはいい質問なのだ。
 ただ、日本語でならば、授業中にも紹介した武部健一『道路の日本史』(中公新書、2015年)など、この分野に関して手軽に参照できる文献が何冊もあるが、仏語文献では私の知るかぎり皆無だ。あったとしても、それは高度な専門書だろう。だから、日本語文献を参照するしかないわけであるが、これは修士レベルの要求であり、学部生にそれを求めるのはさすがに行き過ぎであろう。












歴史を「主体的に」学ぶには

2018-10-23 11:13:44 | 講義の余白から

 日本語学習はそれを主目的とした他の授業に任せるとして、私の授業では、歴史をできるだけ「主体的に」学ぶことをその目的(というか願い)としている。そのために、単なる暗記作業は一切要求しない。そのかわり、歴史の中に自ら身を置いて、感じ、想像し、考えることを要求する。課題を早めに与えて、それについて自分たち自身で授業外で調べるように促してもいる。
 もちろん、すべての学生がこの要求に応えてくれるわけではない。中には、単純な暗記作業を課してくれた方がどれだけ試験準備がやりやすいかと嘆いている学生もいるに違いない。しかし、そうは問屋が卸さないのである。
 試験問題も、覚えてきたことを試験当日に答案用紙上に吐き出せばいいような問題はけっして出さない。この原則は私の授業では前任校から一貫している。早いときには一月前に試験問題を公開し、学生たちに試験日までに十分に時間をかけて調べてくるように求める。参考文献に書いてあることを丸写しすれば答えになるような問題は当然のことながらありえない。その結果には、ちゃんと主体的に学習した学生とそうでない学生との間で歴然とした差が出る。
 評価項目はざっと以下のような諸点に関わる。
 同じ時代を対象としながら、政治史・経済史・文化史・社会史・民衆史・宗教史・美術史・文藝史などの分野でどれほど違った時代像が描かれているかを認識しているか、信頼できる複数の文献に当たり、それらを比較考量するという基礎作業に時間をかけたか、その上で自分はどの立場を取るか、そしてはそれはどうしてなのか考えたか、歴史書の記述から、そこには書かれていない当時の様々な階層の人々の物の見方・感じ方を想像してみたか、社会的階層と置かれた立場の違いによってどれほど同じ出来事が異なった仕方で経験されていたかという問題を自覚しているか、等々。
 これらの諸点について、自分で丹念に調べ、よく考えた上でなければ、まともな答案はまず書けない。よく調べてあるけれど、その成果を一つの筋の通った話としてまとめきれていない答案、筋は通っているが歴史的叙述が粗雑な答案、話は面白いのだが想像に頼りすぎていて「歴史離れ」してしまっている答案、誰の視点からかわからないような「教科書的」あるいは「客観的」な記述に終始している答案など、それぞれそれなりの努力は一定の評価に値するが、こちらの要求にすべて応えられている答案はやはり稀である。
 学部生に対して、いくら最終学年とはいえ、これは要求過大ではないかと思われるかも知れない。ところが、大半の学生は、このような課題をけっして嫌がってはいない。中には、課題を「楽しんでいる」学生さえいるくらいなのである。












新カリキュラム導入にともなう移行措置とそれに伴う問題

2018-10-22 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度前期、学部最終学年である三年生の授業を三コマ担当している。「古典文学」「近代日本の歴史と社会」「日本文明文化講座」の三コマである。今週は、他の多くの科目と同様、それらの科目の中間試験を行う。古典文学の課題については、今週木曜日の試験以降に話題にする。先日の記事で言及したように、この科目の今回の課題は私にとって初めての試みなので、結果を見てから考察したいからである。文明講座の試験問題については、一昨日の記事で話題にした。
 「近代日本の歴史と社会」では、今年度に限ってのことだが、旧カリキュラムから新カリキュラムへの移行措置として、授業のタイトルに反して、中世から話し始めた。そうしないと、中世と近世について学生たちは何も学ばずに学部を修了してしまうことになるからだ。
 日本の大学であれば、入学時のカリキュラムがそのまま最終学年まで維持され、新カリキュラム導入の際は、一年次から順次導入していくのが一般的であろう。それは、移行によって学生たちに不利益・混乱が生じないようにするためには当然の措置である。ところが、フランスの大学は、懐事情もあり、いきなり全学年のカリキュラムを変更してしまう。だから、現在の二年生と三年生は、新旧二つのカリキュラムの違いによって様々な不都合を強いられることになる。それは教員にとっても同じである。
 昨年までのカリキュラムでは、中世・近世・近代前期(明治)・近代後期(大正・昭和)について、それぞれ一セメスターの授業が三年次にあり、学生たちは、二年時の古代史(縄文・弥生から平安末期まで)とあわせて、二年掛けて日本史を古代から近代まで学んでいた。それはそれで大切なことだったのだが、それらの授業であまりにも日本語のテキスト読解の負担が大きいこと、三年次の授業内容に多様性が欠けていること、実践的な日本語教育の時間が不足していることなどの理由から、歴史の授業時間数を新カリキュラムでは一挙に半分に減らしたために、このような措置が必要になった。
 授業数が半分になってしまったのだから、それぞれの時代に割ける時間数も当然半分になってしまう。そこで、この前期は、中間試験までの六週間で中世を、期末試験までの六週間で近世を一通り終えなくてはならない。昨年までのように日本語の歴史教科書を基礎テキストとしていてはとても間に合わないので、フランス語のテキストを基礎として、それに関連して、主にここ十年間に日本で出版された歴史書を随時紹介するというスタイルを取ることにした。それにしても駆け足であることにはかわりない。
 学生たちにとっては、歴史の教科書でありながらその日本語の読解に四苦八苦していた昨年までに比べれば、日本語学習の負担は大幅に軽減されたことになる。それには確かにマイナス面もあるが、現状では全体の授業時間数そのものを増やすことは極めて困難なので、致し方ないところである。