昨年、エックハルトのドイツ語全説教集の新仏訳 Intégrale des 180 sermons が Almora 社から出版された。
この版には、そのタイトルが示す通り、一八〇の説教が収められている。Quint-Steer 中高ドイツ語校訂版には一一七しか収録されていない。その中にさえ、真正性には疑問符が打たれているものもある。ところが、この新訳は、一八五七年のプファイファー版以後のすべてのドイツ語版から他の版と重複しない説教をすべて収録しているためにこれだけの数になっている。
このような過去に例のない集成を試みた訳者 Laurent Jouvet の意図の一つは、テキストの学問的な真正性とは別に、エックハルトに帰された説教群すべてを集成することで、一九世紀半以降にエックハルトがヨーロッパでどのように受容されてきたかを示すことにある。
そして、もう一つのより重要な意図は、エックハルトの思想はキリスト教という枠組みを超えて人間存在の根本にかかわっているから、信仰の有無に関わらず誰にとっても共有可能だということを説教そのものによって示すことである。
この意図に基づいて各説教には訳者による要約と注解が付されている。神学用語に通じていなくても、キリスト教信者でなくても、本書の翻訳と各説教の前に置かれた要約と後に置かれた注解とを読むことによってエックハルトの精神的気圏へのイニシエーションが可能なように配慮されている。
訳者について本書の裏表紙の紹介以上のことを私は何も知らない。解説文と翻訳の一部を読んだ限りでは、訳者の真率さを疑う理由はないし、いわゆるトンデモ本ではないことは確かだ。それにしても、エックハルトの研究者たちからは歓迎されないだろうこのような集成本がなぜ出版されたのだろうかと自問してしまう。
今のところ、「なんとなく」というレベルに過ぎないし、かなり捻くれた態度かなと自分でも思うけれども、こういうスピリチュアル系ってアブナイかもなぁって思ってしまう。下手をすると「エックハルト教」信者のバイブルみたいなことにならないだろうかと余計な心配をしてしまう。
誰にとってもわかりやすい翻訳などない、と私は思う。自分にとってわかりやすい翻訳が「いい」翻訳とは限らない。自分にはさっぱりわからない翻訳が「わるい」翻訳だともかぎらない。
誰にも予備知識なしに近づけそうだなと思えるとき、まさにそのことこそそのような相貌を見せるものを疑うべき理由なのではないかと私はどうしても思ってしまうのです。