内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「見ゆ」の世界の衰亡 ― 呪術性の衰退と修辞性の台頭

2014-09-30 19:49:06 | 講義の余白から

 今日の修士の演習のテーマは、先週まで見てきた古代文学における「見ゆ」の世界がなぜ『古今集』以後急速に衰退し、以後の日本文学史に二度と再び現れることがないのかという問題であった。この問題は、佐竹昭広の『萬葉集抜書』には提起されているだけで、それに対する十分に説得的な解答は示されていない。「存在を視覚によって把握する古代的思考の後退」というだけでは答えになっていないであろう。家永三郎の『日本思想史における宗教的自然観の展開』では、そもそもこのような問題が立てられていない。万葉集に多数見られる「見れど飽かぬかも」という表現を「平凡ではあるが率直な言葉」(『家永三郎集』第一巻八三頁)としか見ないかぎり、それは当然の結果であると言えるだろう。
 上記の問いに答えるためには、九月七日の記事でも引用した、白川静の『初期万葉論』の次の一節がやはり手がかりになると思われる。

古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、ただ「見る」「見ゆ」というのみで、その呪的な意味を示すことができた。『万葉』には末句を「見ゆ」と詠みきった歌が多いが、それらはおおむね魂振りの意味をもつ呪歌とみてよい(一五四頁)。

 もしこのように見てよいのなら、「見ゆ」の衰退は、自然との呪術的交感の衰退ということに他ならず、そのことが『古今集』以降の和歌に、単に表現としての「見ゆ」の不在というだけではなくて、別の形でも現れているはずである。
 その例示として、家永三郎の当該の本に挙げられている次の三つの歌を見てみよう。

このさとにたびねしすべし桜花ちりのまがひにいへぢ忘れて(古今集・春下)
いつまでか野べに心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし(同)
深く思ふ事しかなはばこむ世にも花見る身とやならむとすらむ(千載集・雑中)

 これらの歌に見られるのは、修辞性への傾斜である。花への愛着を詠むのに、執着度を誇張する表現を意図的に用いており、そこに歌としての工夫が見られるとも言えるが、もはや「見ゆ」あるいは「見れど飽かぬ」という定型表現とともに生きられていた自然との呪的交感は失われていると言ってよいだろう。
 しかし、このような修辞性・技巧性を伴いはじめた自然への愛の表現を、その徹底性によって純化していく歌人が現れる。それが西行である。
 西行については、また機会を改めてゆっくり鑑賞したいと思う。今日はこれから明日の中世文学史の準備にとりかかる。先週説明し残した部分をまず終えてから、『百人一首』と『金槐和歌集』について主に話す。














歩行する思考から湯船の思考へ、そして「寝かせる」

2014-09-29 19:10:33 | 雑感

 昨日の記事の末尾に記したように、昨日の午後はプルタレス城まで散策に出かけた。よく晴れた初夏のような一日で、少し早足で歩くと汗ばむほどであった。日曜日ということで、城の周りの庭はかなりの人出だったが、少し城の付近から離れれば、時々散策している人に森の中で会う程度で、周りに誰もいない緑地の真ん中のベンチに一人寝そべって本を読んでいる人もいた。
 泳いでいるときは、ほとんど何も考えられないし、それがまた気分転換になっていいわけだが、歩いていると思考にリズムが生まれて、歩くにしたがって考えがうまく展開していくことがある。昨日がそうだった。三つの準備中の原稿について、それらのそれぞれに異なった主題的問題の間を行きつ戻りつしながら考えが展開していくにまかせていると、それぞれのテーマを巡る思考がより明確に分節化されてゆくのがわかる。一方では、扱っている問題は違っているにしても、私自身の基本的アプローチあるいはスタンスがどこにあるのかが明確になっていき、他方では、それぞれの問題の焦点がより明瞭に結ばれるようになる。
 一時間四十分の散歩から帰ってきて、それらの思考の断片をすぐにパソコンに入力してから、汗を流すために一風呂浴びる。
 今度は湯船に寝そべりながら、歩きながら考えたことを反芻する。まだ、いわば「仕込み」の第一段階だから、あまり細かい点にはこだわらずに、一つのテーゼを変奏させたり、発展させたりする。その過程で文と文がうまく繋がり始めると、実際の発表のときようにそれらを声に出してみて、文章がどこまで自然に繋がっているか確かめる。これは主にフランス語の場合だが、日本語でもときどきそうする。そうして一応の纏まりができたところで満足する。その日はそこで止めて、しばらく考えを「寝かせる」。その考えがそのまま熟成していくか、腐敗あるいは干からびてしまうかは何日か経ったあとに確かめる。











今後の研究発表・講演・論文・翻訳 …… 焦り始める

2014-09-28 12:50:58 | 雑感

 新年度開始から四週間経ち、授業の方は前期第三週目が終わったところである。後九週間残っているが、これから年末までのペース配分の見通しもおおよそ立った。
 今日日曜日の朝、さて今後の研究計画の方はどうなるかなと、研究発表・講演・論文・翻訳等を締め切りの近いほうから順に数え上げていって、少し青ざめた。いつのまにか(って、その都度ちゃんと自分から引き受けたわけだから、誰のせいでもないし、自然現象でもないのですが)、相当厳しいスケジュールになっている。今日の記事では、無益に気ばかり焦らせないためにも、それを冷静に整理しておきたい。
 まず、十月末にCEEJAでの国際学会「〈日本意識〉の未来-グローバリゼーションと〈日本意識〉」に発表者として参加する。タイトルは「新しい可塑的社会構築の基礎理論としての種の論理」。これについてはこのブログの九月二十日の記事で話題にした。発表言語は日本語。発表時間は四十五分。原稿締め切りについては何もまだ聞いていない(というか、聞くのを避けている)が、他の参加者は随分前から参加が決まっていたのだろうから、もう原稿ができている人もいるだろうけれど、私は先々週の火曜日に受けたばかりの話であるから、シンポジウム直前まで時間をもらえるだろう。もう草稿は書き始めたし、大体のプランは頭に描けているから、書き始めたら早いだろう(と自分に言い聞かせる)。
 同じ十月末までに、大森荘蔵の論文集仏訳出版のための翻訳担当予定論文三つの仏語による要旨の作製。出版予定の叢書の責任者が最終決定権を持っているからまだ確定ではないが、担当予定は『物と心』に収められた「ことだま論」「科学の罠」「虚想の公認を求めて」の三論文。このうち一番目と三番目は、イナルコの講義で昨年一昨年と二年連続で取り上げた際に、すでに部分訳は作成してあるから、要旨の作製にもさほど手間取らないであろう(という楽観的観測)。二番目は比較的短く論旨も明快であるから、要旨も簡単である(はずである)。
 年末までに、九鬼周造の音韻論について論文を書かなくてはならない。これは仏語。構想そのものは二年前から温めており、それはすでに仏語にまとめてある。しかし、論文にするには具体例を適宜挙げて、議論を展開していかなくてはならない。そこがまだまったくの手付かず。これは本当に間に合うかどうか心配だ。しかし、いずれにせよ、本格的に集中して取り組むのは十一月に入ってからだから、今は引き出しの奥の見えない所に書きかけの草稿をしまっておこう(という気持ちです)。
 同じく年末までに、来年二月の法政大学とのストラスブール大とCEEJAとでの合同ゼミ合宿の基調講演の要旨作製。これはこの合宿に参加する学生たちがあらかじめ私の講演内容を把握した上で私と質疑応答するため。テーマはすでに一応決めてあり、アウトラインも大体できているし、学生向けの比較的易しい内容であるから、九鬼の音韻論についての論文と並行して進めるのも容易であろう(楽観的であることが道を開くのだ、と心の中で叫ぶ)。それに締め切りもそう厳しくないだろう、年明けでも許してもらえるだろう(根拠薄弱な希望的観測)。
 そして、昨日参加を表明した来年三月の京都大学・ストラスブール大学・CEEJA共催の国際学会『「間(ま)と間(あいだ)」日本の文化・思想の可能性』のための発表原稿作製。この学会の発表原稿は学会後論文集として出版される予定で、日仏両語での原稿作成が義務づけられている。発表時間は三十分。しかし、まだ原稿締め切り日については知らされていない。十月末まで発表希望者を募ることになっているから、その後にならないと、締め切り等原稿作成の条件もわからないだろう。つまり、今の時点では原稿作成に取り組みようがないわけである(何か言い訳がましい)。とはいえ、三日間に渡るかなり大規模な学会であるから、締め切りは早めに設定される恐れがある。しかも、ただ発表するだけでなく、会場となる大学の教員として準備作業は当然引き受けねばならなず、一セクションの司会進行担当を避けることも難しいであろう(憂鬱になってきた)。しかし、恐れ慄いていても心が千々に乱れるばかりであるから(何を大袈裟な)、今日からさっそくメモを取り始めた(気休めである)。
 まあ、こうやって数え上げてみれば、そう大したこともないかと、安堵に胸をなでおろしている(そんなことでいいのかなあ)。それに今日は朝からいい天気で、気温も午後には二十四度まで上昇するという予報。こんな日に家に籠っているのは健康に良くない(これはほんとうだ)。引っ越してきてからまだ一度も行っていない、かつてのお気に入りの場所、家から徒歩で四十分ほどのところにあるプルタレス城の庭を散策しに行こう。












『集と断片 類聚と編纂の日本文化』

2014-09-27 18:26:55 | 読游摘録

 今日、国文学研究資料館・コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所編『集と断片 類聚と編纂の日本文化』(勉誠出版、二〇一四年)が同研究所から届いた。これは二〇一〇年年から二〇一二年までに、それぞれ早稲田大学、コレージュ・ド・フランス、慶応大学で開催された三回のシンポジウムの際の発表原稿をまとめた論文集である。数日前に、同研究所から、二〇一一年のコレージュ・ド・フランスでのシンポジウムにディスカッサントとして参加してくれたお礼として一本献上したいから住所を教えてくれと連絡があった。
 随分立派な装丁の本で、頁数は四百頁あまり。値段も八千円とお高い。一般の読者が購入するとはあまり思えないが、中身はなかなか多様かつ興味深い。計二十一の論文が収録されており、古代から近代まで、さまざまな時代の作品が〈集〉と〈断片〉という一貫したテーマの下に取り上げられている。帯のコピーは「連環する日本文化のかたち」、紹介文は以下の通り。

『萬葉集』をはじめ、日本の古典籍には「――集」という標題をもつ書物が大量にある。短い作品や断片(Fragment)を集成し、一つの著作や集(Collection)にまとめる手法は、日本文化の特筆すべき編成原理であるといえる。この類聚・編纂という行為は、一方では知を切り出し断片化していくことと表裏を為す。すなわち「断片」と「集」の相互連関が新たな知の体系を不断に創り出していくのである。古代から近代にわたる知の再生産の営みに着目し、日本文化の特質を炙り出す。

 私は木戸雄一氏の「百科思想の翻訳と転換 ― 西周『百学連環』における専門化と体系化 ―」というご発表のディスカッサントを務めさせていただいた。西周の言葉によれば「普通学」という、いわばすべての学問にかかわる基礎的方法の学として、「歴史」「地理学」「文学(文章学)」「数学」が挙げられており、その語の使用法が今日の一般的な用法とは大きく異なっているのが特に印象に残った。当日は時間の制約もあり、三つ質問してそれについて簡単なやりとりをしただけだったが、発表者とは事前に送っていただいた原稿についてメールでのやりとりである程度意見交換はしてあったので、それなりに発表者の意図をさらに明確にするような役割は果たせたのではないかと思う。
 シンポジウム初日の発表後の立食パーティーがコレージュ・ド・フランスの最上階ホールで開かれたのであるが、そこからのパリの眺めは絶景であった。












長い紆余曲折を経て、この地に「所を得て」働ける喜び

2014-09-26 20:30:15 | 雑感

 今日の日本古代史は、大化改新がテーマ。一九六〇年代に入り、『日本書紀』の本文研究の進展にともなって、「大化改新の詔」の細則を規定している副文ばかりなく、主文についてもその歴史的信憑性を疑う学説が提出され、それを受けて、大化改新そのものについての再検討が進められ、実際の改革内容は『日本書紀』の記述に比べれば、相当に貧弱なものだったという「大化改新否定説」が影響力をもった時期があった。それによって引き起こされた学界での論争は、七世紀における中央集権国家形成過程を再検討する上で有益であったようだ。現在の教科書では、それでも主要な改革項目については数ページを割いて説明してある。しかし、ここらあたりは淡々と説明しても、面白い話にはならない。
 そこで、今日の授業では、「国家意識の目覚め」という観点から、当時の日本を取り巻く国際的緊張を地政学的に捉えた上で、その緊張によって自覚された統一国家形成の緊急性、それを朝廷に自覚させるために重要な役割を果たしたかつての留学生・学問僧たち(その多くは渡来人だった)に焦点を合わせて話した。その意図は、日本古代史を単に遠い過去の出来事、しかもフランス人にとってみれば遠い異国の出来事としてだけ学ぶのではなく、〈国家〉という統一体の自覚が何をきっかけとしてどこからどのようにして生まれてくるのかという一般的な問いに対する一つのケーススタディとして捉えさせるというところにあった。そこに外的脅威に対する対処という問題が当然出てくるわけである。そうなると、学生たちも、問題は決して単なる過去の問題ではないのだなあということに気づくわけである。
 昼は、かねてからの約束のためにコルマールまで電車で移動。すでに何度かこのブログでも話題にしているアルザス・欧州日本学研究所(CEEJA)の所長と企画部長と会食。私のストラスブール大への赴任を祝っての所長からの招待だった。
 所長自身は地元コルマールのご出身だが日本学者ではなく、もともとは高級官僚としてフランスの原子力事業のヨーロッパでの展開を行政面からサポートするために長いことジュネーブの国際機関で要職につかれていた方である。地元アルザスの経済界との繋がりも深く、まさに彼のお陰でCEEJAは誕生したようなものである。その彼もすでにかなり高齢であり、自分が退任した後の研究所と経済界との繋がりの維持が今の一番の懸案であることは、コルマール駅からレストランまでの車の中での企画部長との話でよくわかった。ご本人とお話するのはこれが三度目だが、毎回不思議と思わぬところで話の焦点がピタリと合い、お互い会話の種が尽きることがない。今日の会食も、企画部長と三人で、本当に楽しく、実りある話ができた。
 序だが、このレストラン、所長の行きつけのお店で、CEEJAのプログラムでもよく会食に使われる。私はこれが二度目。現在日本学科修士一年の学生の父親が経営している店で、魚料理が絶品。今日メイン・ディッシュで食べたイワシ、その肉厚のふっくらとした味わいといい、焼き加減といい、こんな美味しいイワシ料理、フランスで初めてだった。アドレスはこちら
 その会食の中で、地方経済の活性化のためには、国際的相互的地方間直接的関係の強化・発展がこれからの地方の生き残りのために鍵になるだろうという私の持論を展開したところ、所長もまさに同意見であり、しかもそれは、これまで学術研究・文化交流がその主たる活動であったCEEJAの将来にとっても同様なのである。ところが、このような観点からCEEJAの活動に経済界との関係強化という新しい活動軸を構築することには内部からも反対があり、容易なことではなく、そのために所長もご苦労が多いことを会話の中で少しこぼされていた。
 しかし、CEEJAの活動はほぼ全面的にアルザスの経済界の財政支援によって支えらているのであるから、今ような厳しい経済状況の中で継続的な財政支援を受け続けるためには、地元経済界の声も聞かなくてはならないのは、私には自明なことであった。のんきにメセナなどというもの上に胡座をかいていたのでは、早晩足元から組織が崩壊していくであろうことは目に見えている。
 ストラスブールに来る前に八年間いた大学では、不本意ながらも日本経済についての授業も担当していたが、もしかしたらそのとき自分が教えながら学んできたことも、ここアルザスで生かすことができるのかもしれない。
 奇しくも同じ今日の朝、かねてから知り合いであった日本人の研究者の一人からメールが届き、その内容は、彼の新しい勤務先である東京のK大学で、新たに学生たちのためのフランスでの研修の企画を立てるようにと命を受けたから、何らかの形で協力してほしいということだった。彼自身ストラスブール大学との提携を望んでおり、それに先立ってCEEJAにコンタクトをとったところ、時期的に難しいとの返事だったらしい。
 ところが、その話を昼食の際に企画部長にすると、彼女もその件については担当者から報告は受けていたが、まだ自分から返事をしていないという段階だった。そこで私が詳しくその研修内容について説明すると、それはこれからのCEEJAの新しい方向性に合致するし、所長もかねてから同大学との提携を強く望んでいたから、時期の都合さえつけば喜んでその企画を受け入れるとの即答だった。私からも大学関連の企画は引き受けると約束して、それらすべてをその知り合いの研究者に先ほどメールで知らせた。というわけで、思いもよらない「仕合わせ」で、早速一つの新しい関係構築に一役買ったことになる。
 今日一日のこのような嬉しい出来事の連鎖を今こうして記事にしながら思い返しつつ、心の深いところでの静かな感動とともに、改めて思う。私の人生のこれまでの紆余曲折のすべては、この地で「所を得て」働くための準備期間だったのだ、と。













またパソコンが故障した

2014-09-25 19:44:16 | 雑感

 今朝、講義の最終的な準備を終え、ゆっくり朝風呂に浸かってから、いつも大学に持って行っているノート型パソコンとともに家を出て大学に着くまでは、気分も上々、天気もいいし、順調そのものであった。
 ところがである。いつもの階段教室に入って、そのパソコンを立ち上げたら、プロジェクターに接続する以前に問題が発生した。キーボードがまともに機能しないのである。パスワードさえちゃんと入力できない。愕然とするが、講義については、先週のことがあるので、USBキーにすべて資料をコピーして持って来ていたから、それを教室備え付けのパソコンにに差し込んで、事なきを得た。古い機械で使いやすいとはお世辞にも言えないのだが、なんとか無事に講義は終えることができた。しかし、自分のパソコンはもう自分ではどうしようもない状態なので、次の修士の合同ゼミもUSBキーのデータから立ち上げて、やはりその場を凌いだ。
 修士論文の指導担当分担を決めるための学科会議の後、一旦自宅に戻ってあれこれ試してみたが、どうにも埒があかない。仕方がないので、会議の席で同僚に聞いたパソコンショップに先ほど修理を依頼して帰ってきたところである。思えば、昨年のちょうど今頃にもう一台のパソコンがいかれてしまって、慌てて購入した一台が今回ちょうど保証期間が切れるのを待っていたかのように故障したことになる。まったく、やれやれである。仕事のために、いつも二台のパソコンを同時に稼働させているので、やはり一台だけだと何かと仕事の処理が遅れてしまい、不便である。明日には連絡すると店の主人は言っていたが、問題によっては修理に時間がかかるだろう。とても感じがよくて頼りになりそうな主人ではあった。
 何か一つうまく行き始めると、外の何かがおかしくなる。何かずっとそんなことの繰り返しのような人生であるから、その意味では、こういうことがあっても、「またかよ」ともうすっかり慣れっこになってしまっているのだが、そういう姿勢のどこかに改善すべき点があるのかも知れない。それはともかく、今は考えてもどうにもならない問題なので、夕食をゆっくり食べて、明日の講義の準備に集中することにする。












たまゆらの露も涙もとどまらず

2014-09-24 18:40:07 | 講義の余白から

 昨晩は一旦十一時過ぎに床につき、午前二時前に起床し、それから午前九時まで、ほぼ休憩なしで今日の授業のパワーポイント作りに取り組んだ。途中で一度睡魔に襲われかけたが、それを振り払った後は集中力を保ったまま作業を続けることができた。二時間の授業に対してちょっと準備しすぎの感はあったが、もう終わりの方は自分の楽しみでやっているようなものであった。
 作成作業を終えてホッとしているところに、かねてから注文してあった敷布団の配達の連絡が入り、三十分後には届いた。そう、フランスにも布団はあるのである。というか、それなりに普及していて、専門店も各地にある。ストラスブールにもある。日本からの輸入ではない。だから、日本人が馴染んでいる布団とはちょっと違う(サイズもさまざまでなんとダブルベッド相当サイズのもある。私が購入したのはセミダブル)。最初にストラスブールに住んだときも、フランス人の友人が布団を貸してくれて、それが意外なほど快適だったことも、今回の購入の一つの理由になっている。
 ただ、今日届いた布団を注文したのは、八月二十二日のことであり、つまり、発注から一月以上かかったわけである(時間がかかるのはガスの開栓だけではないのである)。ただ、これは購入時に店主から知らされていたことで、それでもいいかと念を押された上での注文であった。その同じ日に畳も(そう、い草製のちゃんとした畳も売っている。こちらもサイズはいろいろ)二枚注文したのであるが、これは翌週半ばには届いた。その日から今日まで、実は、敷布団無しで寝ていた。最初は畳の上にエアマット(畳が来る前は敷物としてはそれしか寝具がなかった)を敷いていたのだが、これがとにかく寝にくい。軽すぎるし、狭ますぎる。それで数日後にはそのエアマットをどけて、畳の上に薄いコム製のマットと毛布を二つ折りにした上に約一月間寝ていたわけである。負け惜しみではないが、こんなキャンプ生活みたいな寝方がそれほど苦痛ではなかった。けっこうよく寝られたからである。しかし、こんな「仮寝」生活も昨日まででおしまい、今日から畳の上に敷かれたふかふかの布団の上で寝られる。それだけでも嬉しくなるが(根が単純な作りなのである)、明日の授業のためのパワーポイントも作らなくてはならないから、今晩もわずかしか睡眠時間は取れないであろう。
 ところで、肝心の今日の授業はどうだったか。パワーポイントの出来そのものは悪くなかったとは思うのだが、やはり難しい内容を詰め込み過ぎた。いよいよ授業の最後のほうで「妖艶」「有心」「幽玄」を説明するところで、時間が足りなくなった。駆け足で話を済ませられるような事柄ではないので(というか、そんなことしたくないので)、具体例を挙げての説明は一部来週に持ち越した。ただ、藤原定家自身が「幽玄様」の例歌とする次の歌だけは紹介した。定家絶唱の一首である。

たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風 (新古今・哀傷)

 この歌の塚本邦雄の鑑賞文を引いて今日の記事を締め括る。詩魂同士の共振だけが可能にするとでも言いたくなるような、見事なまでに簡潔かつ味わい深い鑑賞であると思う。

「母身まかりける秋に、野分しける日、もと住み侍りける所に罷りて」の詞書あり、白銀の直線を斜に、一息に描いたような、悲痛な調べは心を刺す。テンポの早さまた無類。定家の母は建久四年二月十三日の沒、作者は三十一歳であった。「玉響」(たまゆら)は暫くの間の意ながら、原義は玉の觸れあふ響、すなわち涙の珠散る悲しみの音をも傳えてゐる。

(塚本邦雄撰『清唱千首』冨山房百科文庫)









古代的「見ゆ」の世界から新古今の夢幻的世界への一夜の旅

2014-09-23 20:09:33 | 講義の余白から

 今日の午前中は、午後の修士二年の演習と明日の学部三年の中世文学史の準備に費やす。修士の方は、前二回の授業でテキスト読解が遅々として進まなかったので、すでに下調べしてある事項だけでも今回一回分には十分な材料があるから、ほんの一時間ほどテキストを再読して説明事項についてメモを取っただけ。学部の方は、宿題として提出を求めてあったテキストの仏訳は大方の学生が昨日までに送ってくれたし、構文的には比較的簡単な文章だったこともあり訳のできもよく、訳の講評については明日の授業でもそれほど時間を取る必要がない。若干の注意事項をメモするに留める。
 午後の修士の演習では、ようやく、古代語「見ゆ」の用法について、佐竹昭広『萬葉集抜書』と白川静『初期万葉論』とから関連箇所を紹介しながら、具体例に基づいてゆっくりと詳しく説明することができた。この「見ゆ」が古今集ではすでに姿を消し、その後の擬古的な用法も、見かけの類似とは裏腹に、万葉の用法とは決定的な点で違ってきてしまっている。言い換えれば、「見ゆ」の上代文学固有の用法をよく掴むことが古代的世界観へ近づく一つの途を開いてくれる。
 続いて「見れど飽かぬ」の用法についても立ち入って説明する。柿本人麻呂の国見の歌においては生き生きと使われている「見れど飽かぬ」が、後代の歌人たちにおいては次第に形式化し、その本来の呪術性・神話性を失っていく。しかし、この呪術性・神話性の衰退過程が山部赤人に代表される叙景歌の成立過程でもある。
 明日の中世文学史の授業は、『新古今和歌集』の歌風と手法がテーマであるから、ちょっと準備が大変である。「妖艶」や「有心」、そして「幽玄」、これらをどう説明するか。抽象的な通り一遍の定義と説明をしてもほどんど意味はない。やはり和歌の実例を多数挙げ、注釈を加えながら説明していかなくてはならない。今晩はそのためのパワーポイント作りでおそらく徹夜しなくてはならないだろう。でも、何んだかそれが楽しみでもある。今夜一晩、新古今の世界に浸りきることにする。











坦々たる一日

2014-09-22 19:56:01 | 雑感

 今日は、いつものように朝の「読書運動」をした後、木曜日の修士合同ゼミの準備として高橋哲哉『靖国問題』第一章読解のためのパワーポイント作りに日中の大半を使った。学生たちには彼ら全員の同意を得た上で同書を購入させることにしたのだが、私の名前で日本のアマゾンに発注した二週間前の時点では在庫切れで、先日ようやく発送準備が出来たとの連絡が入ったところなので、今週の木曜日には当然間に合わない。だから原文からの引用をパワーポイントで見せながら説明することにしたのである。
 このパワーポイント作製には、同書には様々な文献からの引用があり、そのそれぞれの文体の違いを具体例に即して説明するためという意図もある。こればかりはいかに仏訳が優れていたとしても、仏訳を読んだだけではよくわからないところだからである。
 それにこのように注意深く原文を読み直し、仏訳と一文一文比較すると、意図的か単なる不注意かどうかわからないが、訳し落としている文があるし、かなり原文とずれているところもある。高橋哲哉自身仏語は堪能だから、訳文は全部自分でチェックしたのだとは思うし、仏語版のために高橋自身が書いた序文で、自分の同意の上で元の原稿に改変が加えられたところもあると断っているから、原文と仏訳に見られるこれらのずれについても、それが何故なのかという問いを立てることができるだろう。
 パワーポイント作製が一応終わったところで、プールに行く準備。昨日の記事でも書いたことだが、いつも通っている近所のプールは今日から半月閉鎖なので、その閉鎖期間中は別のプールに行かなくてはならない。今日から通うつもりのプールも今住んでいる地区にあるにはあるのだが、歩いて行くにはちょっと遠い。しかし、時間はあるので、行きは歩いて行くことにした。
 いつものプールとは真反対の方向に五分ほど住宅街を歩くと、数ヘクタールはある墓地の角に出る。そこからその墓地を囲んでいる蔦が密生した壁とリル川の支流とに挟まれた樹々に覆われた細長い緑地の中の遊歩道を北上する。ここまでは散歩道としても悪くない景観である。県道を行き交う車の音は遠くから微かに聞こえるだけ。ジョギングしている中年紳士二人組、それぞれバギーを押し、ゆっくりと歩きながらおしゃべりしている婦人たち、学校からの帰り道を急いでいるのか、うつむき加減に小走りしている少年などとすれ違った。墓地を過ぎると、そこからは殺風景で絶えず車が行き交う県道沿いを歩いて行かなくてはならない。しかし、その道のりもそれほどではなく、徒歩二十五分でプールに着いた。
 四コースしかない小さなプールだが、まあまあ清潔。コースロープが張られた二コースは遊泳者用。常時四、五人一つのコースにいた。でも皆おとなしく泳ぐ人たちばかりで、それぞれ自分のペースで泳ぐことができる。残り半分は、泳ぐというよりは漂うか浸かりに来た老人たちでかなり混雑していた。特に、歩行にも支障をきたすほどに肥満した老人が目立った。インストラクターの指導を受けながら水に浮く練習をしているお年寄りも何人かいた。
 帰りはバスを利用。ちょうどいつも買い物をするスーパーの近くを通るバスなので、そのスーパーで買い物を済ませて、さあ帰ろうとしたら夕立。しばらくスーパーの軒先で雨宿りして、雨が上がってから帰路につく。












新たな愛蔵書 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(アンドレ・シャステル訳)

2014-09-21 17:49:59 | 読游摘録

 今日日曜日、天気予報では、朝から曇りがち所により雨となっていったが、朝八時の開門と同時にプールに入場したときには、鱗雲が棚引いてはいたものの青空も広がり、その一際高く見える空の下、一時間ほど泳ぎ、その後水泳専用のプール脇のジャクジー付きプールで体をマッサージしてから上がる。明日から半月間、点検整備のために、このプールは閉鎖になる。その間は、ちょっと遠くなるがバスに乗れば十分足らずのところにある市営プールに通おうかと思っている。そのプールはまだ行ったことがないので、明日早速下見を兼ねて行ってみるつもり。
 プールから帰ってきてからは、昼前から降りだした細雨が窓外の樹々の葉を濡らすのを時々眺めながら、ぽつりぽつりと学生たちから送られてくる古代文学史のテキストの仏訳を即座に添削してはすぐに送り返すという作業を繰り返す。
 その作業の手が空くと、一昨日届いたレオナルド・ダ・ヴィンチの『絵画論』を拾い読みする。ダ・ヴィンチの絵画論にはいろいろな版が各国で出版されているが、私が購入したのは、アンドレ・シャステル(1912-1999)というフランスを代表する大美術史家が、ダ・ヴィンチが残した膨大な草稿からテーマごとにまとめて編纂・仏訳したもので、初版は一九六〇年。今回購入したのは、Calmann-Lévy 社から二〇〇三年に刊行された改定増補版で、縦三十二センチ横二十五センチの大型本(総ページ数は二二四頁だが、上質紙を使用しているので本の厚さも二センチほどあり、手に持って頁をめくるには重すぎる)。ダ・ヴィンチの作品、デッサン、ノート等が精度の高いカラー印刷で多数収録されており、それを眺めているだけでも、神秘的な影を湛えた絵画作品、ついに完成されることのなかった作品のための多数の人物デッサン、途方もなく広大な関心領域と深い洞察力を示すノート・スケッチ・観察記録など、豊穣深遠なダ・ヴィンチの世界を逍遥することができる。
 それに、何と言っても、ダ・ヴィンチ研究をはじめイタリア・ルネッサンス期美術についての専門家であり、犀利な知的分析能力と繊細な美的鑑識眼と有機的に連関した膨大な博識を兼ね備えた稀有の美術史家であるアンドレ・シャステルの洗練されたフランス語訳でダ・ヴィンチの絵画論が読め、しかも多数の脚注が本文のより深い理解とさらなる探究へのよき導きとなっているのであるから、これはその意味でとても贅沢な作りの本であり、48€70というのはむしろお買い得とさえ言えるかもしれない。
 これからの生涯の愛蔵書の一冊となることであろう。