修士課程では、来年度前期、一・二年合同演習と修士二年の演習「日本思想史における世界観と自然観」を担当する。
合同演習は、毎年二月にストラスブール大学と CEEJA で行われる法政大学哲学科の学生たちとの共同ゼミの準備のための演習である。一昨年から、週一回二時間、十二回の演習が組めるようになり、準備時間がそれ以前の倍になって、それだけ入念な準備ができるようになった。
毎年、法政側とこちら側とで九月から翌年一月まで、共通のテキストをそれぞれに読み、二月の共同ゼミの際の発表を準備する。法政側は大体十数名の参加者。三つのグループに分かれ、一つのグループは、ストラスブールに来る直前のハイデルベルグ大学での共同ゼミで発表し、残り二つのグループがストラスブールで発表する。こちら側は、よほど学生数が多くないかぎり、原則個人発表。それは、日本語能力の個人差が大きく、グループ発表にしてしまうと、どうしても日本語能力にまさる学生が中心になってしまい、それ以外の学生が影に隠れてしまうからだ。一学期間、毎週全員個別に発表練習をさせて鍛える。発表原稿は何度も書き直させる。
来年度の共通テキストとして、レヴィ=ストロースの『月の裏側 日本文化への視角』(川田順造訳、中央公論社、2014年)を選び、昨日先方のA先生にお伝えした。レヴィ=ストロースの著作、しかも日本文化を直接の対象とした著作ならば、先方の哲学科の学生たちにとっても、こちらの学生たちにとっても、共同討議するのに相応しいテーマを見つけやすいだろうというのが主な選択理由である。
仏語原版 L’autre face de la lune は、2011年に Seuil 社から出版されている。この原版は、レヴィ=ストロースの親しい友人の一人でもあった川田先生ご自身が編集され、序文を書かれている。巻末には両者の対談も収録されている。日本語版は、川田先生ご自身がお訳しになられているだけでなく、原版本文に見られる記述の誤りや説明不足を補う貴重な注も付加されている。
そして、来年度は、初めての試みとして、二月の共同ゼミ以前に、何回かスカイプを使って日仏学生間の予備的ディスカッションを演習の中に組み込みたいと考えている。
修士二年の演習「日本思想史における世界観と自然観」では、読み応えのある日本語のテキストを読ませたい。しかし、その選択はなかなかに難しい。
最初の年は家永三郎『日本思想史における宗教的自然観』を選んだ。その年の四名の学生たちはとても優秀だったのだが、何しろ今ではめったに見かけないような漢字がよく出てくるし、古代中世の古典から縱橫に引用されているので、それをいちいち解説しているうちにどんどん時間がたってしまい、一回二時間六回の演習で十頁ほどしか読めなかった。翌年は、丸山真男「超国家主義の論理と心理」を選択。これも手強かったが、とにかく全文読み、三名の学生たちが分担して全文を訳してくれた。そして、去年が加藤周一『日本文化における時間と空間』であった。内容的には学生たちも関心を持ちやすいだろうと思って選んだのだが、加藤最晩年のこの著作は、議論が杜撰で、自分の主張に都合のいい例だけを挙げて牽強付会、論理的矛盾もあちこちに見られ、私自身読んでいて段々不満が高じてきてしまい、最後には本書を選んだことを後悔するに至ってしまった。学生たちにはちょっと高い本を買わせることになってしまって本当に申し訳ないことをしたと反省している。
さて、来年度は何を読ませるか。仏訳のあるものに限定する必要はない(というか、むしろ仏訳はないほうがいい)ので、あまりにも選択肢が多く、迷ってしまう。古典的名著のごく一部を一字一句ゆるがせにせずに読み込み、そこに籠められた思想をしっかりと読み解くのも一つのやり方だろう。他方、比較的文章が易しい新書一冊を、そこに提起されている問題そのものを自分の頭で考えながら批判的に読む訓練をするというやり方もある。ただ、どちらにしても、学生たちにはコピーではなく、原書を買わせたいので、あまり高価な本は選べない。しかし、仮に千円以下の文庫か新書に限ったとしても、なお膨大な候補の中から一冊選ぶのは容易でないことにかわりはない。
などと、あれこれの著作家や本のことを思い浮かべつつ、昨日から愚図々々と考えあぐねていたのだが、学部の講義内容との関連性も考慮して、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)か田尻祐一郎『江戸の思想史―人物・方法・連関』(中公新書、2011年)のいずれかにしようというところまでは一応絞れた。
と書いた途端に、二十世紀の名著の中から選ぶという選択肢をまだすっかり捨てきれていない自分に気づく始末で、最終決定はもう少し考えてからにする。
今日は、九月からの来年度前期に担当する学部講義の内容について書き留めておく。そうするのは、昨日の研究計画の場合と同様、自分の頭の中を整理しておくためというのが第一目的で、本来人様にお見せするような内容ではないのだが、ブログの記事として公にすることで、ちょっと大げさに言えば、当面の研究・教育に対する態度決定を自分に課すという意図もある。
ちなみに、弊学には日本の大学のようなシラバスがない。実施しているフランスの大学もなくはないが、まだ少ないし、日本のそれより簡略なものである。
学部の前期担当講義は、二年生対象の古代史(縄文・弥生から奈良時代まで)と上代文学史との二つ。両者は一つの教育ユニット unité d’enseignement を構成していて、教育内容の多様性という観点からは二人の教員がそれぞれに担当することが望ましいのだが、来年度に限っては、再来年度のカリキュラムの大幅な改変を視野に入れて、そのための移行措置をいくつか教員間で分担する必要があり、やむを得ず来年度は私一人でユニットを担当することにした。
もっとも三年前の赴任一年目も同様だったから、これが初めてのことではない。ただ、そのときは、こちらがまだ日本学科のシステムに慣れていなかったこともあり、二つの講義内容が互にかぶりがちになってしまったことがあり、学生たちにしてみれば、同じ一人の教員が同じようなことを週に二回も話すのを聞かされて、さぞうんざりしたことであろうと反省した。
来年度は状況がかなり異なる。まず、この三年間でかなり講義資料のストックができたので、古代史と上代文学史とをそれぞれ別内容の講義として行うのに、少なくとも資料の点ではもう困らない。それに、両方とも再来年度からはもうそのままの形では残らないということがある。現行カリキュラムは著しく歴史と文学に偏っているという弊があり、再来年度からは、学部三年間のそれらの講義の時間数を半分に減らすことになるからである。そこで、来年度は、いわば移行期間として、科目編成は現行のまま、内容については、再来年度からのカリキュラムの基本方針にそって、実験的な授業を一部の講義で実施する。一つのユニットを私一人で担当することにしたのには、そうすることでより自由に実験的授業を行うことができるだろうという理由もあった。
具体的にはどうするか。知識の吸収とテキストの読解を中心とした従来のやり方のかわりに、提起された問題に対して、与えられた資料の分析とその結果得られた情報の総合とを通じてその解答に至るまでのプロセスのモデルを提示し、学生たち自身にそのモデルを別の問題に適用する練習を課す。
内容的には、古代史は、日本人の起源の多様性に関する複数の仮説を提示し、いわゆる「日本的なもの」をその起源から再考することから始める。そして、日本古代王権の成立過程を東アジア世界という大きなコンテキストの中で捉え、特に対外的危機と国家意識の不可分性を考察し、さらには、神話の政治的機能にも注意する。学期の後半には、学生たちに応用問題を与えて発表させる。
上代文学史は、日本における文学の誕生という大きな問題設定の中で、呪術・神儀・神話・歌謡に対して詩歌が自立性(indépendance)と自律性(autonomie)を獲得していく過程をまず見る。そして、万葉集から実例を挙げながら、上代を通じて起こる詩歌の質的変容の諸段階を辿る。それと並行して、万葉仮名という異言語の文字体系を転用した表記体系がもたらしたであろう特異な文字意識・言語意識についても実例を挙げて考察する。さらには万葉集に見られる古代人の人間観・世界観・自然観・宗教観等を言語表現に即して浮かび上がらせていく。このようにして、学生たちには、詩歌を、作品鑑賞の対象としてではなく、上記のような諸問題を解くための資料として読み解く方法を身につけてもらいたいと思っている。
どちらの講義も、考察対象についての知識の習得や関連する日本語資料の読解・翻訳が目的ではなく、問題解決のための方法とその適用のために必要とされる一連の手続きをそれとして自覚的に習得・実践・応用することがその学習目標となる。
一年の前半が終わろうとしている今、今年後半から来年三月までの研究並びに原稿執筆計画と来年度前期の講義と演習の予定を整理しておこう。
九月からの学科長としての一切の職責は、そこにはもちろん含まれないし、そもそも考えたくもないのだが、とにかく準備は夏休み前に「粛々と」しておかなくてはならない。
今日は研究並びに原稿執筆計画についてのみ書き留めておく。
来月末から五日間の東京での集中講義の準備を兼ねて、シモンドンの Du mode d’existence des objets techniqeus を七月一ヶ月かけてノートを取りながら注意深く読み込むこと。特に技術・文化・自然間の相互作用についてのシモンドンの所説を現代の高度技術社会の現実の中で検証すること。
九月の学習院大学の学生研修のプログラムの一つとしての講演の準備。タイトルは、三年前に別の研修で話したときと同様、「自己認識の方法としての異文化理解 ― 自己変容としての理解」とした。内容は夏休み中に「最新版」にアップデートする。
十一月のパリでの ENOJP 第三回総会での大森荘蔵についてのパネルでの発表原稿を準備すること。このパネルは仏語圏で初の大森哲学についての研究発表の機会になる。私以外に四人このパネルで発表する。私は大森最後の文章「自分と出会う — 意識こそ人と世界を隔てる元凶」の注釈という形で現代哲学の問題の一つをそこから引き出し、展開することを試みる。
十二月末が原稿提出締切りの日本思想史事典の執筆担当項目「京都学派の人びと」の準備を他の仕事の合間に少しずつ少しずつ資料に当たりつつ進めること。
来年三月のストラスブール大学で開催される国際演劇、視覚芸術学会シンポジウム「身体とメッセージ/ 翻訳と翻案の構造」での仏語発表原稿の準備。演劇の哲学という私にとって未踏の分野に挑む。今月末がテーマ提案の締切りで、ここ数日ずっとそのことを考えていた。タイトルはまだ仮題だが「行為的身体の詩学 ― 舞台上の言語表現の顕現 ― Poétique du corps agissant — manifestation du verbe sur la scène —」とした。Henri Gouhier, L’essence du théâtre と Le théâtre et l’existence(Vrin, 2002 ; 2004)の二冊を土台として、Philosophie du théâtre (textes réunis par M. Hauesser et al., Vrin, 2008) を参照しつつ、舞台芸術表現固有の実在性を複数の相対立する声からなるポリフォニーの中に到来する「言葉の受肉 logophanie」として捉えることを試みる。
著者の小林敏明さんから岩波新書の今月の新刊『夏目漱石と西田幾多郎』を岩波書店を通じご恵送いただいた。
漱石と西田の比較は私自身かねてより興味を持っているテーマであり、実際、拙ブログの2014年1月14日の記事で、俳句と短歌の表現としての質的差異という観点から両者の言語表現者としての資質の比較考察を試みてもおり、多大の興味を持って本書を読み始めた。
しかし、本書の内容についての立ち入った紹介は別の機会に譲るとして、今日は読み始めてすぐに陥ってしまった私の精神状態をそれとして記録しておきたい。
第1章「没落する家から生まれる独立の精神」を読みながら、漱石と西田がともに模範としての父親像を持っていないことに言及している箇所を読んで、本書の内容とは関係なく、私自身におけるそのような父親像の欠落に改めて思いを致し、暗然としてしまったのである。
漱石と西田の場合は、模範としての父親像の欠損がかえって両者における独立不羈の精神の形成に積極的に作用したと言えるとすれば、両者に我が身を引き比べるなどという不遜な気持ちからではなく、単に自分自身を振り返ってのことに過ぎないが、私の場合、早くに父を亡くしたことが完全に人格形成に否定的に働いてしまっていることを認めざるをえない。
漱石や西田のような、模範としての父親像の欠損はどのような結果をもたらすのだろうか。理屈だけをいえば、取り込むべき父親がなくて超自我が成立しにくければ、その分自己制御が弱くなる。自分の行為を戒め、ときには罰を与えるような内面的規範が弱いからである。(29頁)
欠損している父親像には代替者が可能であるし、超自我の形成の弱さは必ずしも否定的に作用するとは限らない、と断った上で、小林さんはこう続ける。
弱い自己制御は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な「父親殺し」が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。(30頁)
この精神分析理論をそのまま我が身に適用するならば、超自我の形成の弱さが内面的規範意識を薄弱なものとし、しかも自立のために必要な心理的「父親殺し」が未遂に終わっているために、今だに精神的に自立できないでいるという、泣くに泣けない惨めな結果をもたらしていると自己診断を下さざるを得ない。
これからの残り少ない人生の中でできることといえば、そのような自分をまずはそれとしてよく再認識し、そのような自分が原因で公私の生活で発生すであろう否定的な事態に過度に反応することなく、周囲への迷惑を最小限度にとどめることくらいであろう。
今朝、ストラスブール大学区の事務局にバカロレアの日本語筆記試験の答案を取りに行き、帰宅してすぐに採点開始、昼過ぎには採点終了、点数をネット上で入力して作業完了。答案はたった五枚だから、ほとんど苦にならない作業だった。
答案の枚数が桁違いに多い科目を採点する先生たちは大変である。例えば、一昨日パリでの研究発表を終え、帰路東駅に向うメトロの中で途中まで一緒だった高校の哲学教師の知人は、数日間で八十五枚の答案を採点しなくてはならないと言っていた。ほんとうにご苦労なことである。哲学は、文系理系を問わずすべての受験者にとって必修科目だから、高校の哲学教師の方たちは毎年この時期総動員で採点に取り組んでいる(Bon courage !)。
さて、日本語の試験問題であるが、出題形式は毎年ほぼ一定していて、同じテーマについてA4一頁ほどの日本語のテキストが二つが与えられる。問題は大きく二部に分かれる。第一部では、それらのテキストの内容の理解度を試す日本語の設問九~十一題に対して簡潔に日本語で解答することが求められる。第二部は、テキストの内容を踏まえた設問に対して二百字から三百字で自分の考えをまとめるミニ小論文。配点はそれぞれの部に十点ずつの二十点満点。
日本語を第一外国語として或いは第二外国語として選択するかによって問題の内容もレベルも当然異なる。さらには高校での履修コースによって設問に若干の選択肢がある。
今年の第一外国語としての日本語筆記試験のテキストは、一昨年のミス・ユニバース世界大会の代表に選ばれた宮本エリアナさんについての新聞記事からアレンジされたテキストと、彼女に対する日本のメディア並びに日本人一般の当時の否定的な反応に対する批判的は文章からの抜粋。
これらのテキストを読ませ、いわゆる「日本人」たちがなぜハーフの彼女が代表になったことに対して否定的な態度を取ったのかを考えさせ、小論文では、「日本人はこれから考え方を変えていかなければならないのか」と問う。もう一つ設問があるのだが、これは実にありきたりでつまらない問題だった(受験者にしてみればとても解答しやすい設問だと言えるが)。
今や、日本でも、芸能界ばかりかスポーツの世界でもハーフたちの活躍は実に目覚ましいものがある。これからも国際結婚は増え続け、ハーフたちも増え続けるだろう。フランスに比べればその数ははるかに少ないとはいえ、この趨勢から「日本人」の再定義が求められることはほぼ必然的であり、今年のバカロレアの問題は、日本人こそがよく考え、議論すべき問題であると言うことができるだろう。
昨日は、パリのイナルコで、時枝誠記の言語過程説における主体概念と戦中の言語政策論文との関係についての研究発表を行った。内容は三月のストラスブール大学でのシンポジウムのときとほぼ同じだったが、今回はそれをフランス語で発表した。三月のシンポジウムときは、聴き手の大多数がフランス語を解さない日本から参加した研究者たちと日本語に通暁した日本学者たちだったので、発表当日その場で発表言語を日本語に切り替えた。だから、フランス語で用意した原稿は発表の機会を失ってしまっていた。昨日はその「敗者復活戦」だったというわけ。
オーギュスタン・ベルク先生や若き哲学研究者たちが聴きに来てくれて、発表後の質疑応答の中でこちらも多くのことに気付かされ、全体として実りある発表だったと思う。ただ、私の発表が一時間を超えても終わらず、時間の制約上、用意した原稿十枚のうち丸二枚はカットせざるを得なかったので、結論部を唐突に提示せざるを得なかったのは残念だった。最終的な完成原稿は来年出版される予定なので、それが出版されたら昨日の出席者たちはお送りするつもり。
イナルコ付近のカフェで出席者の何人かと小一時間歓談した後、帰りのTGVに乗るべくメトロ14番線からピラミッド駅で7番線に乗り換えた。あと二駅で東駅というところで、我が眼を疑う希少なつかのまの「邂逅」があった。
というのは、私がかねてよりその膨大かつ精細で圧倒的な中世哲学研究に讃仰の念を抱き、その著作群から多くのことを学んでいるコレージュ・ド・フランス教授のアラン・ド・リベラ大先生が同じ車両に、奥様と思しき女性と乗り込んで来れられたのである。何度もコレージュ・ド・フランスの講義のヴィデオをネットで「聴講」しているので、ご本人であることはすぐにわかったが、まさに我が眼を疑った。
車内は混雑しており、私は二駅先で降りなければならなかったので、お声を掛けることはできなかったが、折からの暑さと混雑で決して快適とは言えないメトロの車内で至近距離に稀代の碩学がごく普通の身なりでどこか所在なげに立ったままでいらっしゃる姿を内心興奮しつつ拝見していた。
もう少し時間があったら、もう少し車内がすいていたら、「先生、いつもご著作拝読させていただいています。実は、今日、研究発表をした帰りなのですが、その発表の中でも先生の『主体の考古学』に言及させていただきました。これからもたくさんのことを先生のご著作から学ばせていただきます」と声を掛けさせていただきたかった。
それは叶わなかったが、昨日の研究発表の「ご褒美」をまったく思いがけない仕方で受け取ったような気がした。浅学非才であれそれはそれなりに本分を尽くすべく学問に精進しようと気持ちを新たにした。
ストラスブール中央駅から自転車での宵闇迫る帰り道、週末の夜を仲間と楽しむ人たちがそぞろ歩きする街中を、ペダルを踏み込み、疾駆して駆け抜け、帰宅した。
La joie spacieuse の紹介の締め括りとして、序論の最後の段落全文を読んでいこう。
De même que les choses sont plus durables que ceux qui en usent, comme le méditait Hegel, de même les mots sont plus anciens et plus puissants que les hommes qui parlent (op. cit., p. 30).
ヘーゲルがそう省察したように、物事はそれを用いる人たちよりも長く存続する。それと同じように、言葉はそれを話す人間たちよりも古く、より強力である。
C’est parce que les mots sont plus puissants que nous, que nous parlons une langue, au lieu d’émettre un code, et que la poésie peut naître (ibid.).
言葉は私たちよりも力を持っているからこそ、私たちは一つの言語を話す。信号を発するのではない。そうであるからこそ、詩が生まれ得る。
C’est parce que les mots sont plus puissants que nous, que parler est une lutte pour nous hausser à leur puissance, et que notre étreinte pourra leur laisser cette luxation durable qui font qu’ils ne demeureront pas intacts, si notre parole a été haute (ibid., p. 30-31).
言葉らは私たちよりも力を持っているからこそ、話すことはそれら言葉の力の高みへと私たちを高めるための戦いである。私たちが言葉を強く抱きしめることは言葉を偏位(脱臼)したままにすることがある。そうすることで、私たちの語ることが高みへと達したとき、言葉らはもとのままではないだろう。
L’hisoire de ces luxations du mot « dilatation » par ceux qui se sont emparés de lui pour dire la joie en crue, parce qu’il s’était d’abord jeté lui-même, avec la joie à dire, dans leur vie, est l’objet de ce livre. Ces inflexions neuves — quelle que soit leur date — nous pouvons aussi les prendre en notre voix et en notre être, et poursuivre la lutte. Car il n’y a rien de plus grave que la joie, ni de plus violent que sa déchirure qui nous ouvre (ibid., p. 31).
溢れる歓喜を言葉にするために « dilatation » という言葉に飛びついた人たちがいる。なぜなら、この言葉がまずそれらの人たちの生活の中に、言表すべき歓喜とともに、飛び込んできていたからだ。これらの人たちによってこの言葉に引き起こされたこれら様々な偏位(脱臼)の歴史、それがこの本の目的である。かくして、これらの新たな様々な方向転換―それらがいつのことであれ―を私たちの声と私たちの存在において捉え、戦いを継続することができる。というのも、歓喜ほど重大なことはなく、歓喜によって私たちの心が引き裂かれることほど激しいことはないからである。
歓喜において、私たちは胸膨らみ、生きる世界がそれまでとはまるで違って見えるようになる。より広く深く、生き生きとした世界が私たちの前に開ける。私たちはその歓喜の世界の中でその歓喜を表現する喜ばしい身体となる。
哲学は、私たちを歓喜の世界へと導く航海にほかならない。その果てしない航路はつねに世界の新たな相貌を私たちの前に繰り広げ続ける。その永遠の航海は、私たちの誰よりも長く生きて来たたった一つの言葉の歴史を辿ることから始まる。
ベルクソンにおける哲学の方法そのものとしての dilatation について『創造的進化』に主に依拠しながら詳述した後、序論の締め括りとして、クレティアンは、読者へ一言、La joie spacieuse で自分が採った探究方法について一種の弁明を行う。そこが私にはとても興味深い。
同書のタイトルから予想されるような西洋精神史における喜びの空間についての博捜を期待していた読者は、実際は dilatation たった一語という「狭き門」を通じてしかその問題が探究されていないのを見て、失望を覚えるかもしれない、とクレティアンは読者に語りかける。
クレティアンは、2003年に L’intelligence du feu(Bayard, coll. « Bible et philosophie » )と題された本を上梓している。そこでは、新約聖書『ルカによる福音書』第十二章四十九節のたった一文「Πῦρ ἦλθον βαλεῖν ἐπὶ τὴν γῆν, καὶ τί θέλω εἰ ἤδη ἀνήφθη. 我は火を地に投ぜんとて来れり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん」の解釈をめぐって西洋キリスト教精神史が辿り直されていた。
ところが、La joie spacieuse では、一文どころか、dilatation というたったの一語の歴史を西洋精神史の中で辿ろうというのである。このような企ては問題を極小化してしまうことにはならないであろうか。
予想されるこのような疑義に対してクレティアンは次のように応える。
そのような疑義が生まれるのは、注意深い眼差しには、取るに足らないものに包蔵されている途方もないものが見えることを忘れているからである。そして、それは、バルザックの『ルイ・ランベール』のはじめの方に出てくる次のような大いなる教えを忘れることでもある。
こう畳み掛けておいて、クレティアンは『ルイ・ランベール』の当該箇所をかなり長く引用している。クレティアンが一部省略している部分も含めて、その箇所を引用してみよう。
Souvent, me dit-il, en parlant de ses lectures, j’ai accompli de délicieux voyages, embarqué sur un mot dans les abîmes du passé, comme l’insecte qui posé sur quelque brin d’herbe flotte au gré d’un fleuve. Parti de la Grèce, j’arrivais à Rome et traversais l’étendue des âges modernes. Quel beau livre ne composerait-on pas en racontant la vie et les aventures d’un mot ? Sans doute il a reçu diverses impressions des événements auxquels il a servi ; selon les lieux, il a réveillé des idées différentes ; mais n’est-il pas plus grand encore à considérer sous le triple aspect de l’âme, du corps et du mouvement ? À le regarder, abstraction faite de ses fonctions, de ses effets et de ses actes, n’y a-t-il pas de quoi tomber dans un océan de réflexions ? La plupart des mots ne sont-ils pas teints de l’idée qu’ils représentent extérieurement ? (Balzac, Louis Lambert, La Comédie humaine, vol. 22, Classique Garnier, 2008, p. 101).
語り手の回想の中で主人公ルイ・ランベールが語る若き日の読書経験の魅惑はとても印象的で示唆に富んでいる。
読書とは、あたかも一茎の草の上に乗って大河の流れのままに旅をする昆虫のように、過去の深淵の中に一つの言葉に乗って出で立つ甘美な旅のようなものだ。ギリシャから出発して、ローマに至り、近代の幾世代を横断する。一つの言葉の生涯とその度重なる冒険を語れば、それが素晴らしい本にならないことがあろうか。一つの言葉は、それが使われるその都度の出来事から様々な印象を受け取っただろう。場所に応じて、様々に異なった考えを目覚めさせてきもした。しかし、魂と体と動きの三重の相の下に言葉を見るとき、その言葉はなおのこと偉大ではないだろうか。その機能・効果・作用の一切を考慮せずにその言葉を見るとき、省察の大海に沈潜せずにいられるだろうか。大半の言葉はそれらが外示している観念の色合いを帯びてはいないだろうか。
そして、クレティアンはユーモアを込めて読者にこう誘いかける。
Veux-tu monter sur le brin d’herbe, ami lecteur, avec l’insecte bienveillant qui a déjà reconnu le trajet ? (Chrétien, op. cit., p. 30).
親愛なる読者よ、すでに航路を知っている気のいい昆虫と一緒に一茎の草に乗ってはくれまいか。
知性によって明確な形態として現れる諸事物の周りのぼんやりとした辺縁域に見られる不分明な諸要素の中にこそ、私たちの思考の知的形態を拡張するための指標を探しに行かなくてはならない。その中にこそ、私たちが私たち自身を超えていくために必要な飛躍の迸りが汲み取られるだろう。
C’est donc là que nous devrons aller chercher des indications pour dilater la forme intellectuelle de notre pensée ; c’est là que nous puiserons l’élan nécessaire pour nous hausser au-dessus de nous-mêmes (Bergson, L’évolution créatrice, op. cit., p. 49).
なぜなら、生命の現実は、創造的であり、自ら自己拡張し、自己超越する結果を産出するからである。生命あるものの自己経験は、一なる生命の経験と不可分である。
生命をその生成の現場で捉える直観的思考についてベルクソンは次のように述べている。
Par la communication sympathique qu’elle établira entre nous et le reste des vivants, par la dilatation qu’elle obtiendra de notre conscience, elle nous introduira dans le domaine propre de la vie, qui est compénétration réciproque, création indéfiniment continuée (op. cit., p. 179).
直観が私たちとその他の生物たちとの間に確立する共感的コミュニケーションによって、私たちの意識から直観が獲得する拡張によって、直観は私たちを生命固有の領域へと導き入れる。その生命固有の領域では、すべてが互に相互浸透し合い、無限に創造が続く。
クレティアンは、もちろん、ベルクソン哲学に見られるこのようないささか性急とも見える全一なるものへの合一に対する批判を十二分に承知している。
そのような批判的態度について私がすぐに思い出す例の一つは、ルイ・ラヴェルがベルクソン哲学の紹介に際して、『創造的進化』をほとんど無視して、『物質と記憶』と『道徳と宗教の二源泉』と深い連続性を強調していたことである。
それはともかく、クレティアンが La joie spacieuse の序論で強調していることは、ベルクソンが dilatation という言葉を、その語源を見失うことなく、しかし、自身の哲学にとって決定的に重要な用語にまで「拡張」して使っていることである。クレティアンによれば、これは哲学史において唯一の例であり、多くのことを私たちに語ってくれる。
クレティアンによれば、ベルクソンの著作中、〈拡張-回心 dilatation-conversion〉というテーマをもっとも発展させているのは『創造的進化』である(Chrétien, op. cit., p. 28)。
生命の大海原にあって、知性は「一種の局所的な凝固」(« une espèce de solidification locale »)によってのみ形成されたものである。それに対して、哲学は、全体へと新たに溶け込むための努力以外のものではありえない。知性は、その原理へと再吸収され、それ固有の生成過程を逆向きに生き直す。かくして、私たちは己のうちで人間性を拡張し、己自身を超えていくことができるようになる。
クレティアンは『創造的進化』の193頁からの引用を交えながらこうベルクソンの所説をまとめている。ところが、クレティアンが引用していない部分にも引用されている部分と同じくらい大切な論点が示されている。そこを引用しよう。
Mais l’entreprise ne pourra plus s’achever tout d’un coup ; elle sera nécessairement collective et progressive. Elle consistera dans un échange d’impressions qui, se corrigeant entre elles et se superposent aussi les uns aux autres, finiront par dilater en nous l’humanité et par obtenir qu’elle se transcende elle-même (L’évolution créatrice, op. cit., p. 193).
知性が再びその生成原理へと遡行するという企図は、もはや一挙にはなされえない。その企図は必ずや集団的であり漸進的である。それは、さまざまな印象の交換からなっており、それらの印象は互に修正し合い、互に重なり合い、ついには私たちにおいて人間性を拡張するに至る。かくして、知性は己の企図を自ら超えるに至る。
全一なるものへの知性の遡源は、直観によって一挙に実現されるものではありえない。たった独りで実現することもできない。複数の人間が協力し合って少しずつ事を進めていかなくてはならない。その作業過程では、多数の印象が比較されることで相互に修正され、次第に一点へと収斂していく。かくして、私たちに現に与えられていただけの知覚世界の中にそれを内側から突破する一点が定まり、そこを突破することで人間性は拡張されていく。
知性の自己超越についての所説はすでに『創造的進化』の序論に見られる。クレティアンはそこに立ち戻る。
私たちのうちには、悟性と相補的な関係にある諸能力がそれとしては不分明なままに隠されている。ところが、それらの能力は、自然の進化の中で働きつつあるまさにそのときにそれとして自覚されるとき、明瞭化され判明に区別されるようになる。かくして、それらの能力は、自己を強化するために必要な努力、生命の向うべき方位に自己拡張するために必要な努力がどのようなものかを学んでいく(L’évolution créatrice, op. cit., p. IX)。
このようにして私たちは、己の内に隠されていたものを己の外に再び見出す。しかし、それは内か外かどちらかいずれかのためということではない。どちらに優位を置くかということが問題なのではない。むしろ、ほんとうには己の「外」なるものはない、と言うべきなのだ。世界と自然とは、私自身の内に眠っていたものを明白にし、説明し、解明する。