内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「無常というのは絶望ではなくて、強さなんです」― 高畑勲の「積極的」無常観

2019-02-28 19:58:26 | 読游摘録

 『かぐや姫の物語』が公開された2013年の『ユリイカ』12月号は、この映画についての特集号で、その中の高畑勲へのインタビューについては、拙ブログでも、2014年8月26日2018年10月20日の記事で取り上げた。

「草木国土悉皆成仏」という言葉がありますけど―別にみんなが仏にならなくてもいいだろうと思いますけど―、草や木や動物といったあらゆる生命はそれぞれの生をただ享楽すればいいと思うんですね。雨が降って楽しい、晴れて楽しい、花が咲いて楽しい…という享楽主義ですね。それは神様がいてその次に人間がいて…というキリスト教的なヒエラルキーのある世界観とは違うと思います。
 それと3・11の震災があったので、余計にその思いが強くなりましたけど、積極的な無常観というものですね。仏教でどうとか、そんな難しいことではなく、日本の庶民はみんな十分に無常観を持っているです。なぜかと言うと、日本は災害列島だから。先日も大島で台風被害があったように、大震災でなくても毎年必ず何かしらかなりの災害が起こる。そんな危険なところに住まなきゃいいのにと思うけど、住んでいられるのはある種の無常観があるからです。何が起こるかわからない、しかし、何があっても生きていきましょうという強さがある。無常というのは絶望ではなくて、強さなんです。

 ここで高畑勲が使っている「積極的な無常観」という言葉は、彼独自の生命観・自然観・世界観を集約した表現だが、その淵源を日本思想史上にあえて探すとすれば、それは仏教的無常観が浸透する前の生命観・自然観にまで遡るのではないかと思う。
 この点については、昨年10月28日の記事「生命の顕現の思想 ― 日本文芸史が描いた最初の花のイメージ」を参照されたし。










 


移ろいゆく儚い世界の私 ― 村上春樹の無常観

2019-02-27 23:59:59 | 読游摘録

 竹内整一の『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫、2015年)の「おわりに」、村上春樹が2011年6月に「カタルーニャ国際賞」を受賞した際に行ったスピーチ「非現実的な夢想家として」の一節が引用されている(このスピーチの全文はこちらのサイトで閲覧できる)。このスピーチのはじめの方でも、東日本大震災のことを述べた後に、「無常」という言葉について村上春樹はこう述べている。

 ⽇本語には「無常」という⾔葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に⽣まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え⽅は、宗教とは少し違った脈絡で、⽇本⼈の精神性に強く焼き付けられ、⺠族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 このような大雑把なまとめ方には私はもちろん同意できないが、今はそのような揚げ足取りをしたいのではない。このような仕方で「無常」を受け入れるという心性が古代から日本人に浸透しているという考えが今日もなお広く受け入れられている理由こそ気になるのだ。こんなふうにまとめられると多くの日本人が現代でも「そうだよなぁ」となんとなく納得してしまうのはなぜなのだろうか。この問題には日を改めて立ち戻ることにしよう。
 このスピーチで、村上春樹は、「美しい日本の私」的な日本文化賛美がしたかったのではないことは、「無常」という言葉をもう一度引くスピーチの終わりのほうを読むとわかる。竹内整一もそこを引用している。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に⽣きています。⽣まれた⽣命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。⼤きな⾃然の⼒の前では、⼈は無⼒です。そのような儚さの認識は、⽇本⽂化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお⽣き⽣きと⽣き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 これは、この世界の儚さの認識が現代世界を生きるものすべてによって共有されることへの期待と希求の表現であろう。唐木順三は、1964年に刊行された『無常』の序で、「「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容がある」と書いたが、その約半世紀後に発された村上春樹の言葉のうちに私たちはその反響の一つを聴き取ることができる。












空観とは異なる「無常」の思想的深化の過程を日本精神史の裡に辿る

2019-02-26 15:32:59 | 哲学

 大伴旅人の著名な歌、

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻第五・七九三)

については、二〇一四年一月十一日の記事で、一度取り上げている。その時の解釈を修正する必要は今特に感じないが、佐竹昭広の「「無常」について」(『萬葉集再読』所収)に関連して、「空」と「無常」との違いについて一言注記を加えておきたい。
 この旅人の歌について土屋文明が『萬葉集私注』で示した、「此の「空しきもの」を「常なきもの」と置きかへて受け入れたのでは作意に達することは出来ない」という理解を「鋭い」と佐竹は評価する(九〇頁)。土屋は「五蘊空とか色即是空とかいふときの「空」に近いもので、単に「無常」といふより広く、形而上の意味で用ゐたものと思はれる」と註してもいる。確かに、この歌の上二句が仏教でいうところの「世間空」の和語による翻案であると指摘する注釈は他にも多い。
 この「世間空」が「世の中の一切を空と観ずる」ことであるならば、それは移ろいやすい世の中を無常と嘆ずる「はかなし」に代表される感情とは異なる。観は、それ自体が移ろいゆくものである感情ではありえない。和語「むなし」は、大野晋編『古典基礎語辞典』によれば、「ミ(身)の古形ムとナシ(無し)の語根ナとの複合語に、情意を表すシク活用語尾のシを加えた語。実際にはク活用形容詞のように、状態を表すのに使うことが多い。そこにあるべきだと期待される中身、実体がない感じをいう。」「むなしさ」は、本来あるべきものの不在あるいは消滅が引き起こす感情であり、これもまた観としての「空」とは異なる。しかし、「無常」は「空」によって無限に超え包まれているとも簡単には言えない。
 仏教における無常観がそれとして無媒介に日本の思想風土にそのまま根づいたとは、万葉集を見るかぎり、考えにくい。平安期に主に男女の仲を意味した「世の中」の移ろいやすさ・頼りなさについて「はかなし」という語によって表現された感情が、中世において「無常感」としてより一般的・通底的な社会的感情として自覚され、それが歴史的現実を通じて「無常観」へと思想化され、そこから道元の無常の形而上学が精錬されてくるという、唐木順三が『無常』で示したような歴史を通じての「無常」の思想的深化の過程を見て取るべきではないかと思う。












揺れる表記の彼方に幻華のごとくに揺曳する到達不可能な原歌を透視する果てしなき試みを愉しむ

2019-02-25 02:22:47 | 詩歌逍遥

 万葉歌人たちが実際にはどのように自らの歌を表記したのか、そもそも作歌の際にどのような手順を踏んだのか、時代・場面・状況・身分その他の条件によって異なったであろうし、とても想像してみるのが難しい。
 声に出して詠めば自ずと言葉の響きは心身と共鳴するであろう。しかし、いわゆる万葉仮名で一字一音で表記する場合、漢字の意味に即してそれに和語としての訓みを与える場合、漢文訓読語の場合など、それぞれの場合に引き起こされる意味と記号との複雑な相互作用はいったいどのようなものであったのであろうか。漢字を用いて表記するかぎり、当時の官人・歌人として当然身につけていたであろう漢籍の知識を完全に括弧に入れて、漢字を純粋な表音記号として扱うことはまず不可能であったろうと想像される。
 昨日の記事で言及した家持の長歌(巻第十九・四一六〇)を岩波文庫版の原文表記で読んでみよう。

天地之 遠始欲 俗中波 常無毛能等 語続 奈我良倍伎多礼 天原 振左気見婆 照月毛 盈呉之家里 安之比奇乃 山之木末毛 春去婆 花開尓保比 秋都気婆 露霜負而 風交 毛美知落家利 宇都勢美母 如是能未奈良之 紅乃 伊呂母宇都呂比 奴婆多麻能 黒髪変 朝之咲 暮加波良比 吹風乃 見要奴我其登久 逝水乃 登麻良奴其等久 常毛奈久 宇都呂布見者 尓波多豆美 流渧 等騰米可祢都母

 家持がこの通り表記したわけではないにしても、例えば、「宇都勢美母 如是能未奈良之」と「うつせみも かくのみならし」、「伊呂母宇都呂比」と「色もうつろひ」、「奴婆多麻能」と「ぬばたまの」など、両表記間の視覚的印象の懸隔は無視しがたい。しかし、逆にまた、表記がその語の意味と何らの関係もない場合、表記文字の意味を介さずに、漢字が示す音からいきなり詩的時空へと創作過程の回路は繋がっていたのかも知れない。

天地の 遠き初めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎ 流らへきたれ 天の原 振り放け見みれば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交じり 黄葉散りけり うつせみも かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変はり 朝の笑み 夕変はらひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも

 現代の私たちが万葉集歌を読むときには、原文をこのように漢字かな交じり文に置き換えるわけだが、語句の訓みそのものの違いの問題は措くとして、同じ語であっても、諸家によって漢字の置き換え方、漢字か平仮名かの選択も一様ではなく、その違いによってこちらが受ける印象も変ってしまう。上掲の家持の歌に関しては、表記にそれほど大きな差はないが、例えば、「常無きもの」と「常なきもの」、「振り放け見れば」と「振りさけ見れば」、「黄葉散りけり」と「もみち散りけり」などでは、やはり両者の印象は微妙に違う。
 そのいずれが正しいか、あるいはそこまでは言わなくとも、より妥当か、というような議論はおそらく不毛であろう。むしろ、揺れる(あるいは「移ろう」)表記の彼方に、到達不可能な原歌がそれこそ「幻華」のごとくに揺曳するのを透視する試みを果てしなく繰り返すのが、万葉歌を今日読むときの愉しみの一つと言えるのではないかと私は思う。












根源的受容性の契機を孕んだ万葉の無常感

2019-02-24 06:12:40 | 講義の余白から

 佐竹昭広『萬葉集再読』所収の「自然観の祖型」の中に引用された大西克礼『萬葉集の自然感情』第四章「萬葉的自然感情の展開」の一節をそのまま摘録しておく。

或は春の花の散るを悲しみ、或は秋の紅葉のうつろふを嘆き、或は月の入るのを惜しみ、或は雪の消ゆるを飽かず思ふ心、若しくは又季節の変移につれて、その時々の花鳥を待ちわびる情などが、おのづから自然の美的體験と融合して、詩歌の中にも定型的に表現されるやうになる。のみならず、買ういふ自然體験の傾向が發展すると、更に光陰の迅速をなげき、人生の無常を感ずる心が、自然の風物に投入され、延ては一種の厭世的氣分が、自然感情にも浸潤するに至る。(中略)飛花落葉の自然現象に、深く心を沈潜させて、佛教的人生観に彩られた生活感情の根柢から、所謂「物のあはれ」を深く感ずることは、平安時代の特徴的な自然體験の仕方であるが、たとひそれほどハッキリした形をあらはさないまでも、さういふ方向に發展する素地は、萬葉時代の自然体験の中にも、既に窺ふことはできると思ふ。(中略)斯ういふ自然感情の調子が高まって行けば、前に言つたやうに、人生の無常感を自然現象に投入して體験する(勿論そこには佛教の影響もあるが)ことになるのは当然である。その例としては、次の如き長歌がある。(昭和十八年刊『萬葉集の自然感情』二五三-二五六頁)

 この引用の直後に大西が引いている家持の長歌「世間の無常を悲しぶる歌一首并せて短歌(巻第十九・四一六〇-四一六二)を佐竹もすべて引用している。それらの家持歌について述べるのは明日の記事に譲るとして、今日の記事では次の二点を指摘しておきたい。
 一点目は、上掲の大西の引用の直前で佐竹は「無常観」という言葉を使っているが、大西は「無常感」と言っていることである。佐竹書の当該箇所を読むかぎり、両者の区別はまったく問題にされていない。しかし、唐木が『無常』「はかなし (一)序」の中で「そこはかとなき無常感覚または無常美感から、徹底した無常観へ」と両者を区別しているように、「感」と「観」とは、無常を論ずる際には、少なくとも思想史的方法論の観点からは厳密に区別されるべきであると私は考える。
 この区別の哲学的背景には認識論的に大きな問題が横たわっているが、今ここではそれには立ち入らない。さしあたり一言で両者の区別を述べるとすれば、「感」は世界内属的感情に留まるのに対して、「観」は世界離脱的観想への志向を有している。
 もう一点は、大西が平安時代に特徴的な自然体験へと発展する素地を萬葉時代に見て取っている事に関する。大西が挙げている例が家持の歌であり、これは萬葉では最後期に属する。萬葉集中、歌の中に「無常」という漢字を用いている例は一首のみ、しかも訓みは「常無し」である。「常無」の順は数例あるがいずれも訓みは「常無し」あるいはそれに準ずる訓みである。題詞に無常(むじょう)の語が見られるのは、巻第十六の作者未詳歌「厭世間無常歌」(三八四九・三八五〇、左注に「右の歌二首は、河原寺の仏堂の裏の倭琴の面に在り」とある)と、上に言及した家持歌「悲世間無常歌」のみである。
 この点についてのさしあたりの私見は以下の通り。萬葉歌には無常観を自覚的に表現した歌はなく、「無常」を詠う歌は、うつろいやすい世の中を嘆ずる無常感の表現に留まる。しかし、それは思想的に見て深度に欠けるからではなく、万葉の無常感には、うつろう世界をそれとして受け入れる根源的受容性の契機が孕まれている。















太平洋戦争期の萬葉研究に秘められた学問的抵抗の姿勢 ― 大西克礼著『萬葉集の自然感情』(昭和十八年刊)について

2019-02-23 02:14:00 | 講義の余白から

 萬葉集の自然観に無常観への傾斜が認められることを指摘した先学として佐竹昭広が『萬葉集再読』所収の「自然観の祖型」の中で名前を挙げているのは大西克礼である。そして、白川静『初期万葉論』を取り上げた先日の記事にも引用した『萬葉集の自然感情』(昭和十八年刊)から、かなり長く引用している。
 その引用箇所を読む前に、今日の記事では、カントの『判断力批判』の精緻な読解から出発して、日本固有の美的意識をも視野に入れつつ独自の美学体系を構築するに至った大西克礼になぜ私が注目するのか、その理由について一言触れておきたい。
 その第一の理由は、日本古典文学に対するその美学的研究には今日もなお傾聴に値する優れた考察が展開されていることである。だが、それだけではない。西欧の近代美学の篤実な研究を通じて鍛え上げられた方法論を日本古典文学のテキストに適用する試みの一つである『萬葉集の自然感情』が、太平洋戦争期の真っ只中に刊行されたという事実に注目したいのである。万葉集が太平洋戦争期に戦意高揚の道具として悪用されていたことは周知の事実だが(近代国民国家における文化装置としての「万葉集」というより広範な問題については、品田悦一『万葉集の発明』新曜社二〇〇一年刊を参照されたし)、本書の序言には、そのような時代の風潮への、学問的矜持に支えられた静かな精神的抵抗の姿勢を読み取ることができるように私には思えるのだ。このような読み方は穿ち過ぎというものであろうか。
 序言の冒頭で、「自然感情」という一般には耳慣れない言葉について、「ドイツ語の “Naturgefühl” の訳語で、ただ自然に対する感情という程の意味に過ぎない。無論この場合の「感情」とは、極めて広い意味であって、自然に対する精神の直接的反応は、殆どすべてその中に包含されるのである」と緩やかに定義した上で、日本では、「この自然感情が特殊の発達を遂げ、わが民族の芸術精神の根柢としても、この独自の自然感情が、非常に重大なる意義を有することは、今更縷説を要しないところである」と日本の特殊性を認める。しかし、大西が認めるこの特殊性は、当時喧伝されていた「日本精神」などという虚構とは無縁である。それは、つぎのような比較美学の方法の導入の必要性を訴える箇所を読めばわかる。

 しかしながら、このような特殊の研究を効果的ならしめるためには、先ずこれに対する根本的観点を確立し、且つそれを広い視界(ホリツォント)に置くことが必要である。或る民族の自然感情の特性は、その精神の先天的傾向と、その風土の特殊の自然とに規定されるものであることは言を俟たない。従ってこれを充分に解明するためには、比較研究の方法が当然要求される。またこのような自然感情の本質の闡明は、単なる心理学的問題に終始するものではない。謂う所の自然感情を文化的に意義あらしめるものは、芸術の精神である。故にこれが研究はそこに根本的の観点を据えて、行われなければならない。

 前著『風雅論』(昭和十五年刊)の緒言はこう結ばれている。

 要するに本書には、幾多の缺陥があらうとは思ふけれども、此の方面の問題を、本書の如き立場や方法によつて研究したのは、從來かつてなかつたとは言ひ得るであらう。故に若し本書がその不備にも拘らず、将来此の種の研究を喚び起こす一つの刺激ともなるべきものであるならば、此の聖戦の非常時下に、斯くの如きものを世に公にすることも、また許されないことではなからうと思ふ。

 日本固有の美学的理念の個別研究としては、九鬼周造の『「いき」の構造』(昭和五年)があまりにも有名であるが、九鬼と同年(一八八八年)生れの大西克礼の、時流におもねることなく、あくまで美学の問題として日本文化固有の美学的理念を概念的に厳密に規定しようとするその比較美学的研究は、もっと高く評価されるべきであると私は思う。












万葉集における無常観と自然観との関係について

2019-02-22 14:08:41 | 講義の余白から

 実質的に来週の木曜日から始まる修士一年の演習「近現代思想」で唐木順三の『無常』を学生たちと「会読」することはすでに先週の記事で触れた。その準備の一環として、唐木の『無常』ではまったく触れられていない万葉歌における無常観について昨日から調べている。
 「はかなし」という一形容詞の犀利な分析から始まる唐木書が万葉集に言及しないことは、この形容詞の用例は万葉集には皆無で、平安時代に入って初めて登場するという語史的事実の当然の帰結ではあるが、日本人の無常観(あるいは無常感)を文学に現われた思想の問題として歴史的に考察しようとするとき、万葉集において表現されている無常観を無視することはできない。
 唐木は、『無常』の序において、「「あはれ」と違って、「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容があると、私は思う」と述べているが、そのような意味があるかどうか徹底的に検証するためには、日本思想史全体を視野に収めるアプローチが必要であろう。唐木の『無常』にその冒頭で言及している竹内整一の『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫二〇一五年刊、初版『「はかなさ」と日本人』平凡社二〇〇七年刊)には、「万葉人の人生観」と題された節があり、確かに興味深い考察が示されてはいるが、十分に掘り下げられているとは言い難い。
 万葉時代と一口に言っても、通常四期に分けて説明されているように、それぞれの期において歌の機能・内容・時代背景・思想的含意は異なる。それらをいっしょくたにして「万葉精神」などというものを抽出しようとすることは、そもそも学問的にはまったく通用しない暴挙である。
 そこで、手始めに、無常感あるいは無常観に関わりがあると思われる万葉歌を網羅的に考察した佐竹昭広の「「無常」について」(『萬葉集再読』平凡社二〇〇三年刊)を手がかりに、そこに挙げてある万葉歌を一首一首読み直し、鍵概念・原文・読み下し文などが瞬時に検索できるようにエクセルで一覧表を作成してみた。この作業を始めてすぐに、演習の準備などという枠には収まらない大変な問題に首を突っ込んでしまったことに気づいた。しかし、遅かりし、である。ここまでくれば、もう後戻りはできない。
 当然、とても一回の記事で収まりのつくような問題ではないわけだが、他の仕事もあり、特に計画を立てることはせずに、折りに触れ、時間の許すかぎり、この問題をじっくりと考えていきたい。そう思う理由の一つとして、ここ数週間考え続けている様々な問題を « communion » の問題という一点において交叉させることができることに気づいたということもある。リール大学の現象学研究集会での西田とアンリについての発表(あと三週間を切ったというのに、まだ一行も書けていない)も、この « communion » の問題に論点に集約させようと目論んでいる。












予祝・叙景・孤心 ― 万葉歌の変遷過程の一つの指標

2019-02-21 16:54:03 | 詩歌逍遥

 白川が『初期万葉論』で繰り返し述べているように、自然の生命力を己のうちに取り込む魂振り的機能をもった呪歌に詩の起源を探すべきであるとすれば、そのような呪歌に見られる叙景的要素は、本来叙景そのものを目的とはしてないということになる。
 例えば、巻一・一五の中大兄皇子の「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ」(訓みは岩波文庫新版に従った)は集中でも傑作中の傑作とされているが、その理由は、叙景歌としての類稀な雄大さにあるのではなく、これから戦いの旅へと出で立つ一行のための予祝歌として言霊の威力を遺憾なく発揮しているからである。伊藤博は『萬葉集釋注』の中で本歌について、作者を額田王とする中西進説(『万葉集の比較文学的研究』)に賛意を表しつつ、こう述べている。

新羅遠征の一行の中で、これだけの歌を作れる人は、額田王をおいて誰をも考えにくい。額田王だとすれば、その御言持ちという立場からして、一首は、総帥斉明女帝その人になりきって詠んだと見るべきであろう。皇太子中大兄の声に応じて天皇の声をもってより気高くより鮮明にうたい納めた、その一かたまりの荘重な予祝は、遠く旅行く軍団に厳粛な感動を誘ったことであろう。

 いわゆる叙景歌の成立は、このような言葉の呪性・予祝性の衰弱あるいはそれらへの信仰の喪失をその条件としている。古代の予祝歌が神と人との共生と共鳴の世界においてその機能を果たしていたとすれば、万葉第三期以降に登場する叙景歌は、自然の景色と人間の心情との協和と交響の世界において成立する詩的表現だと言うことができるだろう。しかし、その心情が集合的心性をまだ表現し得ているかぎりにおいて、山部赤人の叙景歌にはなお呪的性格が残っている。ところが、大伴家持の歌になると、もはやそのような意味での叙景歌はありえなくなっている。叙景は家持において孤心の表現に極まっていく。












「精神と自然との一種の根源的相即融合」― 叙景歌の起源への美学的・現象学的遡行の試み

2019-02-20 12:40:49 | 哲学

 昨日の記事で言及した白川静の『初期万葉論』第四章第五節「叙景歌の成立」には、大西克礼の『萬葉集の自然感情』(一九四三年)からの引用がある。この大西書の初版は、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており、無料で閲覧・ダウンロードできる(こちらがリンク。因みに、一九四〇年刊行の『風雅論:「さび」の研究』も同コレクションで公開されている。こちらがリンク)。
 「日本の古本屋」のサイトで検索してみると、『萬葉集の自然感情』の一九七〇年版は相当数市場に出回っている。その価格設定に古書店によって大幅な開きがあるのが興味深い。単に本の物理的な状態だけがその理由ではないように思える(『風雅論』の方は、旧版・新版とも一段と出回っている数が多い)。『萬葉集の自然感情』の最新版は、二〇一二年から二〇一三年にかけて書肆心水から刊行された『大西克礼美学コレクション』全三巻の第二巻『自然感情の美学』に収録されている(『風雅論』は第一巻『幽玄・あはれ・さび』収録)。
 国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードした初版の第二章「萬葉集に現れたる自然感情」から、白川が引用している箇所よりもう少し広範囲に引用しよう。

表面上には単純なる叙景的、客観的性質をしめしてゐるやうな歌に於いても、尚その根本的作因としての自然感情の性格を見ると、やはり精神と自然との一種の根源的相即融合の趣を看取することができると思ふ。この意味に於いて、日本の歌に於いては、本来叙景詩、抒情詩といふ如き、概念的分類をあてはめることは困難であると言はなければならぬ。(一五八頁)

 この後に万葉の代表的な叙景歌を六首引用している。そして、大西はこう述べる。

是等の歌は表面から見たところでは、単純なる叙景詩のやうであるが、しかしその真の内容からいへば、それらは決して自然をはなれ、自然と對立した精神が、客観的態度を以て観察したところを表現しただけのものではない。自然を斯く觀、自然の斯様なモメントを捉へ、又それを斯く表現することは――否もつと根本的にいへば、自然の斯様に単純な契機をとらへ、斯様な簡単な形に表現するだけで、それが直に立派な「詩」になるといふことは、その根柢に精神と自然との、深い根源的の契合があり、宇宙のリズムと人間精神のリズムとが、ピッタリ適合することによつて、初めて可能になるのではなからうかと思はれる。(一五九頁)

故にそれは人間の精神、人間の生命に對立する、自然の雄渾壮大な景色を、意識して表現する詩的技能のために、その壮美(エルハーベン)の効果が生じたと見るべきものではない[…]。むしろ「我」と「非我」とを一貫し、「精神」と「自然」とを流通する、殆ど無意識的な「宇宙的感情」(Kosmisches Gefühl)の端的の表現の故に、且つまたその素朴な直接性の故に、限りなく大きな感じがそこに出てゐるのだと思ふ。それだから、このやうな自然感情は、小鳥の囀りや、鶴の聲を通じて體験された場合でも、やはり同様な効果を伴ひ得るのである。(一六〇頁)

 「精神と自然との一種の根源的相即融合」を具体的表現において実現している個々の詩がそのようなものとして可能なのは、「精神と自然との深い根源的の契合」がその前提としてあるからだろうか。しかし、それだけでは、なぜ詩は生れなければならないのかという問いの答えにはなっていない。精神と自然との根源的契合が予め与えられているだけでは、それは詩の生誕の可能性の条件ではありえても、その十分条件ではありえないからである。
 叙景詩の範疇に属すとみなされる万葉の叙景歌は、ある階調において景色を言語化することで自然のリズムと人間精神のリズムとが互いに照応・共鳴するとき、初めて生まれる、と言うべきではないのだろうか。この照応・共鳴は、メルロー=ポンティが『知覚の現象学』において感覚や知覚について言う意味でのコミュニオン(communion)やコミュニカシオン(communication)に近く、シモンドンが言う意味でのコミュニカシオンはこの問題によりいっそうの照明を与えてくれると思われる。












「見ゆ」から「思ふ」へ、「眼」から「心」へ―万葉集から古今集への世界認識の転回点

2019-02-19 17:58:56 | 講義の余白から

 三月に入ると、研究集会等のためにストラスブールを離れる日も何日かあり、月末にはストラスブールでの講演会の準備もあるから、講義の準備の時間も十分に確保できないことが予想される。そこで、この一週間の冬休みの間に以後の講義の準備と研究集会での発表原稿を準備しておこうと思い決めた。昨日は丸一日、古典文学の授業の準備に没頭していた。
 次回のテーマは、「「見ゆ」から「思ふ」へ 万葉集から古今集への世界認識の転回点」とした。このテーマについては、ストラスブールに赴任してきた最初の年に修士二年の演習で触れる機会があったが、今回は一コマ全体をこのテーマに当てる。参照する文献は以下の通り。佐竹昭広『萬葉集抜書』(岩波現代文庫、二〇〇〇年、初版一九八〇年)、白川静『初期万葉論』(中公文庫、二〇〇二年、初版一九七九年)小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫、一九九三年、初版一九五三年)、唐木順三『日本人の心の歴史』(ちくま学芸文庫、一九九三年、初版一九七六年)。
 授業では、佐竹書の「「見ゆ」の世界」、白川書の第四章「叙景歌の成立」、小西書の第一章と第二章、唐木書の「二 古今集における「思ふ」について、及び王朝末、中世初期に現はれた「心」への懐疑と否定」からの抜粋を読ませつつ、なぜ「見ゆ」の詩的世界が古代において終焉し、それにとってかわるように「思ふ」が詩的言語として頻用されるようになったのか、より端的に言えば、詩的表現世界の要が「眼」から「心」と変ったその理由を考察する。