内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

道徳的行為とは自由な行為である ― ジルベール・シモンドンを読む(142)

2016-10-31 01:17:40 | 哲学

 個体化された存在としての主体の行為とはどのようものか。この問いに対するシモンドンの答えを見ていこう。

L’acte n’est ni matière ni forme, il est devenir en train de devenir, il est l’être dans la mesure où cet être est, en devenant. La relation entre les actes ne passe pas par le niveau abstrait des normes, mais elle va d’un acte aux autres comme on va du jeune-vert au vert et au jaune, par augmentation de la largeur de la bande de fréquence (p. 334).

行為は、質料でも形相でもなく、生成しつつある生成であり、それが存在であるのは、この存在が、生成しつつ、在るかぎりにおいて、である。諸行為間の関係は、規範の抽象的なレベルを通じてではなく、一つの行為から他の諸行為へと、ちょうど黄緑が緑と黄へと周波数帯の幅を増大させることによって広がっていくように、拡張されていく。

 一つの行為が行為として意味を有するのは、それが生成しつつある行為的連関の中で実行されるかぎりにおいてだというところまでは、それ自体は特異な考え方ではなく、むしろ私たちの常識にも一致している。

L’acte moral est celui qui peut s’étaler, se déphaser en actes latéraux, se raccorder à d’autres actes en s’étalant à partir de son centre actif unique (ibid.).

道徳的行為は、拡張されうる行為であり、側面的な複数の行為へと自己を多相化することができ、おのれの唯一の活動的中心から自己拡張することによって、他の複数の行為と接続されうる。

 唯一の活動的中心とは何なのであろうか。それは無数に存在する個体化された個体存在としての行為主体のことであろうか。そこから行為的連関が増幅されていくというのは、一つの中心から波紋が広がるようにしてなのか。しかし、そうであるとすれば、行為主体は必ず複数存在するのであるから、ある主体の行為の波紋と別の主体の行為の波紋とが、ちょうど波の干渉のように、重なり合って強め合ったり弱め合ったりするということも生じるだろう。行為的連関は、むしろ何重にも重なり合った多数の波が引き起こす複雑な干渉からなっていると見るべきではないだろうか。
 これらの疑問を抱えつつ、シモンドンがマルブランシュを援用しているところ読んでみよう。

Reprenant la formule de Malebranche relative à la liberté, et selon laquelle l’homme est dit avoir du mouvement pour aller toujours plus loin, on pourrait affirmer que l’acte libre, ou acte moral, est celui qui a assez de réalité pour aller au-delà de lui-même et rencontrer les autres actes (ibid.).

自由とは、つねにより遠くに行くことができることだ、という前提から、自由な行為 — シモンドンによれば、それが取りも直さず道徳的行為なのだが — とは、自分自身を超えて行き、他の諸行為に出会うのに十分な現実性を有している行為のことだと定義される。

Il n’y a qu’un centre de l’acte, il n’y a pas de limites de l’acte. Chaque acte est centré mais infini ; la valeur d’un acte est sa largeur, sa capacité d’étalement transductif (ibid.).

行為の中心は一つしかなく、行為には限界がない。各々の行為は、中心を持っているが、無限である。一つの行為の価値とは、その幅であり、転導的に拡張する能力である。

 ここを読むと、一個の個体化された主体としての個体が行為の中心なのではないことがわかる。行為の主体ではなく、行為そのものが一つの中心なのだ。というよりも、転導的拡張能力つまり一定の原理の適用範囲を自ら拡張する能力を有していてはじめて、行為は行為たりうるのであり、その拡張能力の程度がそのままその行為の価値に対応していると言うことができる。
 ここまで読んだところで、シモンドンの道徳的行為論について暫定的にまとめておこう。
 道徳的行為は、それが実行される集団・共同体・社会内に既存の規範に従うだけの自己限定的な行為のことではない。道徳的行為は、端的に自由な行為である。己自身を中心として、そこから転導的に自己拡張することによって、他の諸行為と連関を形成することができる行為である。かくして形成された行為的連関は、その中心が行為主体にではなく行為そのものにあり、その中心からの行為の自己形成・自己拡張として生まれて来る。行為的連関を現実に律している規範は、その連関の自己形成過程を通じて自ずと表現される。











個体化された一存在が道徳的主体になる契機 ― ジルベール・シモンドンを読む(141)

2016-10-30 05:51:30 | 哲学

 価値と規範との関係が規定された上で、個体化された一個の存在が道徳的主体になる契機へと考察は移る。

Considéré comme recélant en lui une réalité non individuée, l’être devient sujet moral en tant qu’il est réalité individuée et réalité non individuée associées (p. 333).

己の内に個体化されていない現実を含み持っているものとして考えられるとき、存在は、個体化された現実と個体化されていない現実との結びついたものとして、道徳的主体になる。

 道徳は、規範の中にも価値の中にもないのであって、両者のコミュケーションがその現実的な中心において把握されたところにしかない。規範と価値は、存在のダイナミズムの極限項なのであって、それだけで存在内に互いに独立に成り立っているものではない。両者ともに存在の個体化過程を通じてシステムの中で生成の相関的な二相として分化して現れてくる。
 シモンドンは、ここで、ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』の中で提示した閉じた道徳と開かれた道徳という対立図式を、ベルクソンの名前を出さずに、批判する。その対立図式は、歴史の中に見られた進歩を前提として、事後的に構成されたものに過ぎず、閉じた道徳が開かれた道徳に取って代わられるというは幻想に過ぎない、というのがその批判の主旨である。
 シモンドンによれば、倫理が成立するのは、価値と規範という二つの相関する相が分化するところにおいてであり、規範が価値に取って代わられることによってではない。そして、倫理が価値と規範の二相に分化するところには、必然的に何らかの倫理的な問題が胚胎する。

Normes et valeurs n’existent pas antérieurement au système d’être dans lequel elles apparaissent ; elles sont le devenir, au lieu d’apparaître dans le devenir sans faire partie du devenir ; il y a une historicité de l’émergence des valeurs comme il y a une historicité de la constitution des normes (ibid.).

規範と価値は、存在のシステムに先立って存在するものではなく、そのシステムの中に現れる。規範と価値は、生成するものであり、生成の一部をなすことなしに生成の中に現れることはない。規範の構成に歴史性があるように、価値の出現にも歴史性がある。

 倫理をその全体において把握するためには、規範と価値との分化が発生する存在の生成過程に付き添っていかなくてはならない。
こう述べられた直後の一節は、すでに10月2日の記事で引用し、それについて意訳とコメントを付してあるので、そちらを参照していただくことにして、ここでは繰り返さず、その直後の一節に移ろう。

Il y a éthique dans la mesure où il y a information, c’est-à-dire signification surmontant une disparation d’éléments d’êtres, et faisant ainsi que ce qui est intérieur soit aussi extérieur. La valeur d’un acte n’est pas son caractère universalisable selon la norme qu’il implique, mais l’effective réalité de son intégration dans un réseau d’actes qui est le devenir (ibid.).

倫理があるのは information があるかぎりにおいてである。つまり、複数の存在の諸要素間の乖離を乗り越え、かくして内的なものが外的なものでもあるようにする意味作用があるかぎりにおいてである。ある行為の価値は、その行為が内含している規範にしたがって普遍化可能なその性格ではなく、その行為が諸行為連関つまり生成の中へ統合されているという実効的現実である。

 ここで言われている諸行為の連関とは、ネットワークであって、諸行為の連鎖ではない。諸行為の連鎖は、ネットワークが抽象的に単純化されたものである。ところが、倫理的現実は、まさにネットワークとして構造化されている。つまり、諸行為間に相互的な共鳴があるということであり、しかも、その共鳴は、それら行為にとっての明示的あるいは内含的な規範を通じてではなく、それらの行為が形成するシステムつまり存在の生成であるシステムの中で直接的に成り立つ。















価値は、個体化を通じて、個体を超えたものを再び見出そうとする ― ジルベール・シモンドンを読む(140)

2016-10-29 06:25:00 | 哲学

 昨日の記事で試みたテキスト読解の結果を前提とすれば、シモンドンが次のように倫理を定義するのは当然の帰結だと理解できる。

Une véritable éthique serait celle qui tiendrait compte de la vie courante sans s’assoupir dans le courant de cette vie, qui saurait définir à travers les normes un sens qui les dépasse (p. 332).

真正な倫理とは、日常生活の流れの中に微睡むことなくその生活を考慮に入れ、(その日常生活を規定している)諸規範を通じて、それらを超える意味(方向)を定義することができる倫理であろう。

 このように規定された倫理においては、諸々の価値は、諸規範と無関係に超脱したものではありえず、それら諸規範を通じて実現されていくものでなければならない。規範と価値との関係は、諸規範が形成しているネットワークの内的共鳴とそれら諸規範が有している超越的増幅力との関係として表現される。
 規範は、ある一定の個体化を表現し、その結果、個体的諸存在のレベルで構造的・機能的意味(方向)を有しているものとして考えることができる。ところが、それとは反対に、諸価値は、諸規範の誕生に結びついているものとして考えることができる。諸価値が表現しているのは、次の事実である。諸規範は、個体化とともに発生し、その個体化が現在の状態として実在する間しか持続しない。
 このように考えるとき、規範のシステムが複数存在するということは、矛盾ではなくなる。多数の規範システムが存在するゆえにそこに矛盾があると考えられるのは、個体が絶対的なものと見なされているときに限られる。ところが、現実に多数のシステムが存在するのは、個体化が準安定的・暫定的な状態を移行過程における非連続面として作り出すからである。
 価値がそれ自体で絶対的な仕方で表現されることはありえない。それは前個体化状態がそれ自体としては把握され得ないのと類比的である。価値は、規範が包蔵している前個体化的なものにほかならない。価値が表現しているのは、互いに異なった大きさの複数の秩序への結びつきである。諸価値は、存在の生成過程を、前個体化状態から発出して個体化の後に到来するものへと向かわせる。一方では、複数の個体がそこで群生するコロニー相の形成へ向かわせ、一方では、高等な種において、通・超個体的なもの(le transindividuel)の形成へと向かわせる。諸価値は、個体化以前に与えられていた連続性から発出して、個体という非連続的な移行過程を通じて、再び連続性を見出そうとする志向を表現している。












価値と規範との存在論的差異 ― ジルベール・シモンドンを読む(139)

2016-10-28 08:42:50 | 哲学

 価値と規範との区別と両者の関係について、今日もテキストを読んでいく。まず、原文を数行引用する。

C’est la normativité elle-même qui, dépassant le système sous sa forme donnée, peut être considérée comme valeur, c’est-à-dire comme ce qui passe d’un état à un autre. Les normes d’un système, prises une par une, sont fonctionnelles, et paraissent épuiser leur sens dans cette fonctionnalité ; mais leur système est plus que fonctionnel, et c’est en cela qu’il est valeur. On pourrait dire que la valeur est la relativité du système des normes, connue et définie dans le système même des normes (p. 331).

規範性そのものが、その中で機能していた所与の形の下のシステムを超えることで、価値として、つまり、ある状態から別のある状態へと移行するものとして考えられうるようになる。ある一つのシステムの諸規範は、そのそれぞれを一つ一つ取り上げれば、機能的なものであり、それらの意味はその機能性に尽きるように見える。しかし、それらの規範のシステムは、機能的なもの以上のものであり、それゆえにこそ価値がある。価値とは、諸規範のシステムの相対性であり、その相対性は、その諸規範のシステムそのものの中で知られ、そして定義される、と言うことができるであろう。

 あるシステム内で守られている或いは守られるべき諸規範は、そのシステム内で機能するための特異性・相対的制約を有している。そのかぎりでは、それらの規範がそのままでは他のシステムに適用できない場合も当然ある。それに、そもそも完全無欠で最初から普遍的に適用可能であるような規範は定義上ありえないのだから、それらの規範のいずれかに、あるいはそれらの規範の間に未解決の問題あるいは葛藤が必ず内包されている。しかし、まさにそれゆえにこそ、或る規範のシステムは、ちょうど二つの網膜上の視像差が一つの奥行ある視像を与えるときのように、より高次な次元での問題の解決を図ろうとする。
 それらの相対的規範が、その最初に与えられたシステム内での機能を超えて、必要な変更・修正・拡張・増幅等が加えられることで、他のシステムにも適用され機能するようになり、その結果として、最初のシステムがその後に生まれた別の新しいシステムに取って代わられるとき、それらの規範は、すでに特定の領域に限定されてその範囲を超え出ることのできない特異性をもった限定的規範として機能の超えて、普遍性を志向する。
 この普遍性志向は、しかし、最初から個々のシステムの中に可能性として孕まれており、そのシステムの相対性とともにシステム自体によって自覚されるとき、価値になる。ある特定の規範群が機能しているシステムを通じて(à travers)、そしてそのシステムを超えて(au-delà de)行こうとする、この意味で接頭辞 « trans- » の二重の意味を具えた普遍性志向が自覚されるとき、それが価値にほかならない。したがって、価値は、もはや言うまでもないが、歴史を超えた永遠不変の実体ではないし、ある特定のシステム内の相対的な規約に還元されるものでもない。
 ある規範のシステムの規範性は、それがまさに特定のシステムの規範性であるからこそ、そのシステムを超え出て行こうとする。規範性がこの超越的な方向に向かってより完全なものであるためには、その特定のシステム内部そのものにおいてすでにシステムとしての自己解体が余描されていなくてはならない。しかし、この自己解体は、自己を抹消する破壊ではなく、別のあるシステムへと自己が翻訳されることである。この自己解体的翻訳は、転導的秩序にしたがって、つまり、ある原理を当初の適用範囲を超えて段階的に拡張的に適用するという仕方で実行される。
 以上に見てきた価値と規範とのいわば存在論的差異がシモンドンの倫理学説の基底であると思われる。












価値と規範の区別と関係 ― ジルベール・シモンドンを読む(138)

2016-10-27 12:43:28 | 哲学

 前段落では、純粋倫理(éthique pure)と応用倫理(éthique appliquée)とが相容れぬものとして対比され且つどちらも批判の対象になっていた。前者は、実体化の倫理(éthique substantialisante)、賢者(智者)の倫理(éthique du sage)、観想の倫理(éthique contemplative)などと同段落で言い換えられているが、いずれにせよ特定の倫理学説には対応しておらず、いわば仮想敵に対するヴァーチャルな攻撃で、批判として実質的に見るべきものはない。応用倫理に対する非難の方も、何ら具体的・個別的な指摘を伴っておらず、やはり批判になっていない。それどころか、シモンドンの言う意味での応用倫理など、そもそも倫理でさえないと言わなくてはならない。
 少し過激な言い方を許していただけるならば、この段落でシモンドンがやっていることは、個体化理論に基づいた自らの倫理学説を引き立たせるために、勝てるに決まっている弱い相手二人をリングに上がらせ、しかも自ら戦わずして両者にまず対戦させ、相討ちにさせて悦に入っているに過ぎない、と言いたい。読んでいて、鼻白ろむばかりか、不愉快でさえある(ちょっと言い過ぎかなぁ)。
 今日読む段落では、純粋倫理と実践倫理とが対比され、両者ともに批判されているが、そのやり口は前段落と同工異曲である。まるで芸がない(まだ、腹の虫がすっかり収まっていないんです)。
 さて、偉大なる先哲に行儀悪く悪態をつくのはこれくらいにして、以下では、態度を改めて、フランスの先哲の所説にしおらしく付き従いながら愚考していく。
 要するに、シモンドンにとって、存在とは個体化過程であるから、倫理は、その過程に実際に寄り添うことができ、その過程を通じて価値を伝達可能な仕方で表現することができるものでなければならない。純粋倫理が憧憬する絶対的な永遠の価値(という現実世界には実現不可能な理想)と状況の絶えざる変化の中で応用倫理が四苦八苦して案出しながらも頻繁に変更を迫られる時限付き相対的規範(という混迷する現実)との両極間に、いかに準安定的に均衡を保った規範に基づいたシステムを形成し機能させるかが本当の倫理的課題だということである。しかも、その課題を引き受けるという重責を担う主体の生成過程そのものが存在の生成過程、つまりその個体化過程の一部をなしている。

À cette stabilité de l’absolu inconditionnel et à cette perpétuelle évolution d’un relatif fluent il faut substituer la notion d’une série successive d’équilibres métastables. Les normes sont les lignes de cohérence interne de chacun de ces équilibres, et les valeurs, les lignes selon lesquelles les structures d’un système se traduisent en structures du système qui le remplace ; les valeurs sont ce par quoi les normes d’un système peuvent devenir normes d’un autre système, à travers un changement de structures ; les valeurs établissent et permettent la transductivité des normes, non sous forme d’une norme permanente plus noble que les autres, car il serait bien difficile de découvrir une telle norme donnée de manière réelle, mais comme un sens de l’axiomatique du devenir qui se conserve d’un état métastable à l’autre (p. 331).

 この一節で注目すべきだと思われるのは、価値(valeurs)と規範(normes)との区別である。後者は、準安定性を保持している各システムの構造の内的整合性を示しているガイドラインであるのに対して、前者は、或るシステムの構造がそのシステムに取って代わる別のシステムの構造として翻訳されるためのガイドラインである。価値は、或るシステム内で機能していた規範がそのシステムとは別の構造をもったシステム内でも規範として機能することを可能にする、つまり規範の転導を可能にするものである。しかしながら、価値は、最終決定的な規範を現実世界内に確立するわけではない。価値が示すのは、或る準安定性から別の或る準安定性への移行過程を通じて保持される生成の公理系の向かうべき方向である。

Les valeurs sont la capacité de transfert amplificateur contenue dans le système des normes, ce sont les normes amenées à l’état d’information : elles sont ce qui se conserve d’un état à un autre ; tout est relatif, sauf la formule même de cette relativité, formule selon laquelle un système de normes peut être converti en un autre système de normes (ibid.).

 価値と規範との関係は、原理と応用との関係ではない。価値は、規範とは独立な理念的存在ではない。価値は、規範のシステム内に含まれた増幅転移能力であり、Information の状態に到達した規範である。価値は、或る状態から別の或る状態への移り行きの中で保持される。すべては相対的である、この相対性の定式だけは除いて。この定式にしたがって、或る規範のシステムは別の規範のシステムへと変換可能となる。
 この一節を読むことで、information が或るシステムから別の或るシステムへと移行しても、その新しいシステムの中で機能しうるもののことだということがわかる。裏返して言えば、ある一つの特定のシステム内でしか機能しないものは information ではない。
 少し先取りして言えば、ある一つの特定のシステム内でしか機能しない要素だけからなっているような完全に閉鎖した非コミュケーション・システム、つまり、まったく information を内包していないシステムは定義上ありえない。言い換えれば、まったく増幅転移能力あるいは転導性を内包していないシステムはシステムではない。このように完全にシステム性を欠いた個体並びに個体の集合は、存在生成過程には実在しない。
 この実存的自覚がシモンドンの哲学的オプティミズムを支えていると私には思われる。












純粋倫理か応用倫理かの不毛な二者択一から「一なる完全な倫理」へ ― ジルベール・シモンドンを読む(137)

2016-10-26 17:13:01 | 哲学

 昨日読み終えた段落の次の段落の冒頭に、以下のような問いが立てられている。

Une théorie de l’individuation peut-elle, par l’intermédiaire de la notion d'information, fournir une ethnique ? (p. 330)

一つの個体化理論が、information 概念を媒介として、一つの倫理を提供することができるだろうか。

 この問いに対するシモンドンの答えは以下の通り。

Elle peut au moins servir à jeter les bases d’une éthique, même si elle ne peut l’achever parce qu’elle ne peut la circonstancier (ibid.).

一つの個体化理論は、少なくとも一つの倫理の基礎を与えることには役立ちうる、たとえ、倫理を具体的に状況づけることはできないゆえに、それを完成させることはできないとしても。

 この答えの後で、シモンドンは倫理に関する二元論的思考を批判する。この点については、10月1日の記事で、アンヌ・ファゴ=ラルジョ論文内に言及されたシモンドンのテキストの同箇所に言及したときにすでに若干触れている。
 その二元論的思考によれば、倫理は、純粋倫理と応用倫理に二分され、両者は互いに乖離し、相容れない。この倫理の二分化は、実体と生成とが分離されていることに起因するとシモンドンは考える。前者が純粋倫理に、後者が応用倫理に対応する。前者が対象とするのは、完全に個体化された存在、つまり、もはやそれ以外ではありえない実体化された不変の存在である。後者が対象とするのは、つねに揺れ動く感情や外から来る誘惑に左右される可変的現実存在である。しかし、どちらの倫理も他方を完全否定することによって成り立っており、その意味では相互依存的である。
 しかし、倫理をこのように純粋倫理と応用倫理とに完全に分断した上で両者を批判するのは、まったく形式的であるばかりでなく、それ自体が論理的に破綻していると私には思われる。なぜなら、純粋倫理が対象とするはずの完成された不変の実体的存在には、倫理的問題など一切ありえないからである。いかなる現実存在にも適用不可能な純粋倫理など、そもそも倫理ではない。
 実際、次の段落を読めばわかるように、シモンドンが目指しているのは、存在か生成かの二者択一的思考を脱して、「存在を生成において捉える」(« saisir l’être dans son devenir »)個体化理論に基礎づけられた「一なる完全な倫理」(« éthique une et complète »)なのである。

La notion de communication comme identique à la résonance interne d’un système en voie d’individuation peut, au contraire, s’efforce de saisir l’être dans son devenir sans accorder un privilège à l’essence immobile de l’être ou au devenir en tant que devenir ; il ne peut y avoir d’éthique une et complète que dans la mesure où le devenir de l’être est saisi comme de l’être même, c’est-à-dire dans la mesure où le devenir est connu comme devenir de l’être (p. 330-331).

 ここから結論の最後までの約四頁がシモンドンの個体化理論に基づいた倫理学基礎論になっており、私自身の現在の関心もそこに集中しているので、明日の記事からは、その論述を原文に即しつつ丁寧に追っていきたい。












難路を一歩前進 ― ジルベール・シモンドンを読む(136)

2016-10-25 13:10:57 | 哲学

 今日の読解作業も難路が予想されるが、まずはILFI の330頁の第一行目から段落の終わりの第八行目までを引用し、その後に私訳を付す。

L’information exprime l’immanence de l’ensemble en chacun des sous-ensembles et l’existence de l’ensemble comme groupe de sous-ensembles, incorporant réellement la quiddité de chacun, ce qui est la réciproque de l’immanence de l’ensemble à chacun des sous-ensembles. S’il y a en effet une dépendance de chaque sous-ensemble par rapport à l’ensemble, il y a aussi une dépendance de l’ensemble par rapport aux sous-ensembles. Cette réciprocité entre deux niveaux désigne ce que l’on peut nommer résonance interne de l’ensemble, et définit l’ensemble comme réalité en cours d’individuation.

Information は、全体集合が下位集合の各々に内在していること、全体集合が複数の下位集合のグループとして実在し、それぞれの下位集合のそれとしての本質を現実的にその内に組み込んでいることを表現しているが、このような全体集合による下位集合の内包は、全体集合が各々の下位集合に内在していることの逆命題をなしている。確かに各下位集合は全体集合に依存しているが、他方、全体集合もまた下位集合に依存している。この異なった二つのレベルの間の相互性は、全体集合の内的共鳴と名づけられるものを指示しており、全体集合を個体化過程にある現実として定義している。

 ここで言われている下位集合として何を想定すればよいのだろうか。生物の一つの種を考えてみてはどうだろう。
 或る種に属する一個体の発生がその種の系統発生を表現しているように、或る種の系統発生は類としての個体化過程全体を表現しており、類としての個体化過程全体は現実的に種の系統発生を内包している。類としての全体集合が全体集合たりえるのは、それに属する種としての下位集合において個体化が実行されるかぎりにおいてであり、種レベルでの個体化が可能なのは類としての全体集合内においてのみである。
 この類と種という二つの異なったレベルの間のこのような相互依存的・相互表現的関係が内的共鳴と呼ばれる。しかし、内的と言われるのは、全体集合にとって内的という意味であり、ある一つの下位集合から見れば、その同じ共鳴はおのれのレベルを超える超越的なものであり、複数の下位集合間では、互いにとって外的なものである。それゆえ、「Informationは同時に内的かつ外的である」(« l’information est à la fois intérieure et extérieure » (p. 329) )。
 今、私たちは、類と種との関係を導入することで information の意味するところを捉えようとしているわけであるが、シモンドンの哲学的立場に立つかぎり、類・種・個という範疇を固定的な実体と考えてはならないことは言うまでもない。これら三項の関係は、田辺元の種の論理を援用して規定するならば、絶対媒介の弁証法によって司られていると言うことができる。
 ここで、私たちは、シモンドンにおける information 概念を理解するのに田辺元の種の論理が一つの手掛かりを与えてくれることに気づくわけであるが、この問題は12月のブリュッセルでの講演内容の一部をなしているので、本連載ではこれ以上それに立ち入らずに、明日以降もシモンドンのテキストの読解を続行する。












五里霧中を彷徨っているかのような心細さ ― ジルベール・シモンドンを読む(135)

2016-10-24 15:05:06 | 哲学

 Information 概念について論じているシモンドンのテキストを目の前にしながら、五里霧中を彷徨っているかのような心細さを感じている。いったいどこに向かおうとしているのかよくわからない。
 Information は、一つの個体化を実現させながら、他の個体化の起点にもなりうる。個体化以前の前個体化的なものを個体化されたものに伝えるものでもある。ある問題から他の問題へと移り、個体化のある分野から他の個体化の分野へと広がっていくものでもある。
 このような拡散の仕方だけを見れば、シモンドンが知る由もなかったコンピューター・ウイルスがそれに感染したコンピューターを次々と機能不全に陥らせる仕方とそっくりではないか。言うまでもなく、ウイルスは、個体あるいはそれが属する組織を破壊するのであるから、シモンドンの言う information とはまったく逆の否定的な働き方をする。それに対して、information は、どこまでも個体形成に積極的に転導的に働く。
 Information は類比的にどこまでも拡張されていくもののようである。では、その無限拡張の可能性の条件はどのようものか。それは、information がその中で機能する個体化の下位集合を包摂する全体集合の存在である。この全体集合が一つの下位集合から他の下位集合へと information が転導的に拡張されていくことを可能にしているというわけである。
 このシモンドンの答えは、にわかには私を納得させない。そもそもいったいいつどこでその全体集合は形成されたのか。これまでの議論からすれば、むしろ information がある分野での個体化を実現するレベルから飛躍して複数の分野を包摂するより高次のレベルの個体化を実現することによって全体集合が形成されると考えるべきであって、逆ではないはずである。しかも、この全体集合は、生成過程としてしかありえず、それだけで存在するような実体性を有たないはずである。
 確かに、シモンドンは、全体集合が information に対して先在するとは言っていない。むしろ、後者によって前者の個体化が実現されると明言している。

Elle [=l’information] est résonance interne de l’ensemble en tant qu’il comporte des sous-ensembles : elle réalise l’individuation de l’ensemble comme cheminement de solutions entre les sous-ensembles qui le constituent : elle est résonance interne des structures des sous-ensembles à l’intérieur de l’ensemble : cet échange est intérieur par rapport à l’ensemble et extérieur par rapport à chacun des sous-ensembles (p. 329-330).

それ [=l’information] は、全体集合がその内に複数の下位集合を包摂するかぎりにおいて、その全体集合の内的共鳴である。それは、全体集合の個体化をその集合を構成する全下位集合間の問題解決過程として実現する。つまり、それは、全体集合の内部での全下位集合の構造間の内的共鳴である。この(下位集合間の構造間の共鳴という)交換は、全体集合に対しては内的であり、それぞれの下位集合に対しては外的である。

 Information がある下位集合から別のある下位集合へと個体形成因子として或いは個体間の問題解決因子として互いに転送されることによって、複数の下位集合間にネットワークが形成され、そのネットワークがその内にそれら複数の下位集合を包摂した全体集合として個体化される。これらすべての過程を information は表現している。
 今日のところは、ここまで理解できたことにして、筆を置く。
 明日の記事では、当該段落の最後の数行を読みながら、もう一回 information について考えてみよう。












形即information ― ジルベール・シモンドンを読む(134)

2016-10-23 16:54:24 | 哲学

 個体化とは、一般に、存在が或る形を取ることであるから、個体化そのものが「形を与えること」という意味での information である。形あるところ、必ず information あり、というわけである。あるいは、かつての京都学派風に衒った表現を使えば、「形即 information」とでもなろうか。
 この意味でだけ information という言葉が使われているのならば、今日一般に流通している意味とは違っているとしても、語源的にはむしろ正統的な用法だとも言え、それはそれでそんなにわかりにくい話ではないし、西田の言う形成作用との接点も出て来て、そこから存在論的な問題を展開することもできる。
 ところが、シモンドンは、すでに個体化された存在同士の間にしか information のやり取りはないとも言うのである。しかも、そのようなやり取りが可能になる存在のシステム(その中には当然複数の個体化された存在が統合されている)がまた一つの新しい個体化であるというのであるから、話がややこしくなる。個体化に複数の異なった次元があるとすれば、当然 information にもそれがあることになるからである。
 いずれにせよ、information と信号や信号の媒体とを混同してはならない。後者は前者がそれとして或る一定の次元で機能するための媒介に過ぎないからである。Information は、それがその中で役割を果たす個体化の諸条件の中でこそ理解されなくてはならない。
 しかし、その役割とは、正確なところ、何なのであろうか。例えば、« l’information est un certain aspect de l’individuation »(p. 329)とか言っただけでは、それこそ何の説明にもなっていない。その直後の数行も、それまでにすでに言われていたことの言い換えに過ぎず、読んでいて、正直、うんざりする。くどくどと似たり寄ったりの御託を延々と並べていないで、ちゃんとわかるようにすっきり説明しろ、と文句の一つも言いたくなる(論文の中では禁じられているこういう児戯に類する悪態をつくことが気軽にできるのが個人の資格で書いている私的ブログの効用の一つかも知れませんね。ただ、それを乱用すると、良識ある方々からお叱りを受けたり、有らぬ方から要らぬ攻撃を受けたり、果ては敢えなく炎上などという結末にもなってしまうのでしょうけれど)。
 それはさておき、このようにうんざりしかかっているところに、突然新しい展開が現れるから油断がならない。

Toute information est à la fois informante et informée ; elle doit être saisie dans cette transition active de l’être qui s'individue. Elle est ce par quoi l’être se déphase et devient (ibid.).

あらゆる information は、同時に形成するものであり且つ形成されるものである。あらゆる information は、自己個体化する存在の積極的な移行の中で捉えられなくてはならない。それは、それによって存在が自己多相化し、生成するものである。

 Information は、存在の自己生成を可能にしているプログラムのようなものと考えればいいのかも知れない。しかし、それは、予めそれ自体として実体として存在するわけではなく、唯名論的な記号の集合なのでもなく、存在の生成過程で実行されるかぎりにおいて動態的に存在する。しかも、存在の或る生成過程として実行された個体化のプログラムは、その完了した個体化のためだけに特化されたプログラムではなく、その他の個体化のプログラムの起点にもなりうる拡張可能性を有している。このような information の拡張可能性によって個体化形成の原理が存在のシステムの中で「転導」されていく。












Information とは個体化の自己条件づけである ― ジルベール・シモンドンを読む(133)

2016-10-22 19:53:39 | 哲学

 ILFI の328頁から330頁にかけての段落の冒頭で、個体化研究が一つの存在理論になりうること、個体化は存在との関係で位置づけられることがまず確認された後、個体化は存在に変化をもたらすものとして現れ、その変化から存在が抱える問題性が豊かにされるというテーゼが提示される。このような個体化とは、存在のシステム内に information が現れることだとシモンドンは言う。

Au lieu de traiter l’information comme une grandeur absolue, estimable et quantifiable dans un nombre limité de circonstances techniques, il faut la rattacher à l’individuation : il n’y a d’information que comme échange entre les parties d’un système qui comporte individuation, car pour que l’information existe il faut qu’elle ait un sens, qu’elle soit reçue, c’est-à-dire qu’elle puisse servir à effectuer une certaine opération ; l’information se définit par la manière dont un système individué s’affecte lui-même en se conditionnant : elle est ce par quoi existe un certain mode de conditionnement de l’être par lui-même, mode que l’on peut nommer résonance interne : l’information est individuante et exige un certain degré d’individuation pour pouvoir être reçue ; elle est ce par quoi chemine l’opération d’individuation, ce par quoi cette opération se conditionne elle-même (p. 328).

 Information は、それ自体で計測・計量可能な独立の単位からなっているのではなく、個体化と相関的に成り立っている。Information は、個体化を含んでいるシステムの諸部分の間の交換としてしかありえない。なぜなら、information が存在するためには、それが意味・方向をもっていなくてはならず、それとして受容されなくてはならず、つまり、ある一定の作用を実行するのに役立たなくてはならないからである。Information は、ある個体化されたシステムが己自身を条件づけることで自己作用を実行する仕方として定義される。Information によって、存在の己自身による条件づけのある一定の様態が存在する。その様態を「内的共鳴」と名づけることができる。Information は、個体化をもたらすものであり、己が受容されうるためにある程度の個体化を要求する。Information によって、個体化作用は進展し、自己自身を条件づける。
 個体化のあるところにしか information はないし、information のあるところにしか個体化はない。個体化がある一定の仕方で実行され、その一定の仕方で個体化される個体間に information は成立するが、しかし、それは、個体化が information を産出するからではなく、個体化そのものが己の過程に一定の条件づけを与えることそのことが information を形成していることにほかならない。